関西学院大学 現代民俗学 島村恭則研究室

関西学院大学大学院 現代民俗学 島村恭則研究室

ムラサキの運行を支えた鉄道員−小樽、国鉄貨物輸送の歴史−

郄山斉明

はじめに

北海道初の鉄路として1880年11月に、手宮−札幌間が開業。これが小樽における鉄道の歴史、手宮線の始まりである。開通当初、鉄道輸送の主な目的は道央で産出される石炭の輸送であった。そして、のちに道内有数の炭鉱幌内まで延伸されたことによって石炭輸送は本格化した。産炭地の幌内と石炭積み出し港の小樽の間を結ぶ鉄道の輸送力は強化されたが、それに伴い、小樽港では貨車に積み込んだ石炭を効率的に船舶に積載する必要性が出てきた。そこで1911年に建設されたのが、手宮高架桟橋である。
かつての小樽の繁栄の象徴であった手宮高架桟橋。これは石炭を一度に石炭を大量に輸送船へと積みこむための設備であり、1911年から44年まで使用されていた。そして高架桟橋に横付けした船へ、石炭車が石炭を積み込んだ。たが、この施設だけでは捌ききれない石炭もあったため、人の手もかりて船への積み込みを行ったようだ。これらの仕事に携わった人々は「パイスケ」と言われており、一回船へと運ぶごとに木の札「マンボー」が一枚もらえ、仕事の最後に何枚の「マンボー」をもらったかで賃金がいくらもらえるかが決まったようだ1)。ただ、現在は桟橋で残っている部分はない。
このように小樽港や鉄道施設の機能は強化が重ねられ、鉄道のまちとも言われるほど発展した。
だが、戦後の石炭から石油へのエネルギー需要の変化に加えて、石炭の積み出しも最新の設備を備えた苫小牧港にシフトしたことで、手宮線の石炭の取扱量は激減。また、終戦とともに大陸や樺太などの対岸の主な貿易相手を失い、札幌に商業機能を吸収されるなどした小樽は戦後一貫して斜陽化の道をたどっていた。これにより小樽港の貨物取扱量も減少する。さらにモータリゼーションが追い打ちをかけて、手宮線の貨物列車はさらに減便を重ねた。そして、函館本線から分岐する本線のメインルートから外れた盲腸線でもあったため、1985年に廃止。現在、手宮駅跡地は小樽市総合博物館となっており、道内で使われた鉄道車両や鉄道関連資料をはじめ様々な展示がなされている。また、小樽築港駅のヤード跡や使われなくなった港湾設備は1990年代初頭にすすめられた再開発で撤去され、当時の面影は全くない。

第1章 貨車の入れ換え

国鉄時代の貨物輸送は、現在、JR貨物が行っている貨物輸送の形態と多くの点で異なっている。
JR貨物の貨物列車では、その列車の編成ごとに行き先が決められている。しかし、かつて国鉄により貨物列車が運行されていた時代は、一つの編成の中に様々な行き先の貨車が連結されていた。というのも、当時は車による戸口輸送の形態が未発達なうえ貧弱な道路事情もあり、全国津々浦々に設けられた貨物の取扱駅が輸送の主力を担っていた。そのため、貨物の取扱を行っている駅ならば、たとえ貨車1両や2両といった小規模な単位でも輸送業務が行われていた。
列車の出発駅では、各方面の貨車をまとめて編成にし、目的地へ分岐する駅で切り離しを行うという輸送の仕方をとっていた。このことから、分岐点となる操車場や駅構内では、貨物列車の荷降ろしだけではなく、到着した編成をそこから先の目的地別に組み直す、切り離し・連結などの入れ換え作業に職員は従事した。小樽では小樽築港駅などでこのような作業が行われており、手宮へ向かう列車などが函館本線から分岐した。
駅構内で行われる作業の中でも、現在はほとんど行われていない作業に突放というものがある。かつてこの突放は、貨物列車の入れ換え業務の中で、効率的な入れ換え手段として用いられることが多かった。突放の方法は次のように行われる。
<図1>
突放方法
1.機関車で突放する貨車を押す。
2.機関車から切り離す。
3.貨車単体で動く。それに乗った連結手がブレーキを調整。
4. 連結完了。

1.→→[機関車][貨車]_______[連結先の貨車]:(押す)
2.→[機関車]→[貨車] _______[連結先の貨車]:(切り離し)
3.[機関車]__→[貨車]→_____[連結先の貨車]:(ブレーキ)
4.[機関車]________→[貨車][連結先の貨車]:(連結)
他の編成に連結する場合のほか、所定の位置に止める時も突放をするときがある。突放中の速度は10㎞/時以下。
ただ、国鉄からJRに転換する際、貨物列車の輸送形態も大幅な見直しがなされる。見直しには貨物輸送に使われる貨車の再編が含まれており、荷物の積み下ろしの省力化のため、コンテナ専用車が主流になる。これは突放禁止であるため、突放は次第に行われなくなった。
また、国鉄時代の貨物輸送で使われていた主な貨車は石炭車、有蓋車、無蓋車、ホッパー車、タンク車、などがある。

写真1 形式:セキ6000形貨車
道内の石炭輸送に広く使われた。

写真2 形式:ワム80000形貨車
国鉄の一般的な有蓋車。
石炭車は道内で産出される石炭の輸送に使用。有蓋車は屋根が付いており、雨に濡れてはいけないものを積んだ。逆に無蓋車は雨に濡れても良いもの(たとえば木材)の積載に使われた。ホッパー車は道内で収穫される穀物の輸送に用いられた。そして、タンク車は燃料などの液体を運ぶために使用された。道内を走るタンク車は自衛隊向けのものが多かったようだ。これらの貨車の識別表記は次のようになっている。
<表1>
車種を表す記号
有蓋車 ワ
無蓋車 ト
石炭車 セ
ホッパー車 ホ
タンク車 タ

積載重量記号−ムラサキ
なし 13t以下
ム 14−16t
ラ 17−19t
サ 20−24t
キ 25t以上

頭文字は貨車の種別を表し、その次の文字は積載重量記号の「ムラサキ」の中の各文字が与えられた。その後ろには形式を示す番号が振りあてられる。ちなみに、略称として(表1)の貨車の表記の部分をとって、石炭車は「セキ」、ホッパー車は「ホキ」、有蓋車は「ワム」、無蓋車は「トラ」、タンク車は「タキ」と略して呼ばれていた。また、石炭を満載した「セキ」は「オテセ」とも呼ばれていたそうだ。

第2章 突放、転轍、配車

国鉄時代、貨物列車を運行するため、駅構内では今以上に人手をかけて様々な業務がなされていた。貨物列車の運行する際、まず列車をどのような編成にするかを決める。その最も根本的な部分が入れ換え業務であり、これは突放や転轍、配車などから成り立っている。

(1)突放
突放作業では、(図1)のように動く貨車に人が乗ってブレーキをかけながら所定の位置に止めるわけだが、この作業はブレーキの微妙な調整を必要とした。まず、飛び乗るには、貨車がどのような動きをするか把握しなければならない。さらに飛び乗ってブレーキをかける段階では、車両の種類によりブレーキの加減が全く異なった。そのうえ、ブレーキのタイプもそれぞれの貨車で違いがみられる。石炭車やホッパー車はハンドルを回すタイプ(写真3)のもので、有蓋車や無蓋車は片足でペダルを踏むタイプ(写真4)のもとなっている。

写真3 ハンドルタイプのブレーキ
写真は穀物を積むホッパー車のもの。

写真4 ペダルを踏むタイプのブレーキ
一定の範囲で上下に動くことで、ブレーキがかかる。
加えて、これらの貨車は積荷の内容や天候によってもブレーキの締まり方は異なってくる。雨や雪の日はブレーキがかかりにくいだけでなく、貨車に飛び乗る際も滑りやすいので十分な注意が必要となった。それらを踏まえて、ブレーキの掛かり方の癖を把握しておく必要があった。
これらのことから分かるように、突放は危険と隣り合わせの命がけの作業でもあったという。突放の作業中に怪我をすることが多く、最悪の場合は命を落とすことも。そのため、国鉄職員であった山崎さんや安田さんのお話では、小樽築港駅の構内は「屠殺場」とも言われたほどだという。そして、中でも足を怪我する職員が多かったそうだ。これは突放の際は動いている貨車の小さなステップの部分に飛び乗るため、タイミングを間違えると車輪の部分に巻き込まれるなどの危険性が出てくるのである。足を切断してしまう事故から、巻き込まれて命に関わることもあったようだ。このような大事故につながる可能性のある職場であったことから、職員の多くは突放の業務がない仕事につくために、資格試験を必死で受けて、昇進を目指したらしい。ただこれほど怪我の多い職場でありながら、小樽築港駅や手宮駅の構内に国鉄職員専用の病院などの設備はなく、もし怪我人が出た場合は最寄りの病院へ救急車で搬送されたようである。
その他の事故の例としてはブレーキの加減を誤ったために起きたものも多かったようだ。貨車にかけるブレーキが緩すぎた場合、連結先の貨車に突っ込んでしまうことも。また、突放を行う貨車の積載物が丸太の時(丸太が積まれるのは無蓋車、ロープで固定)は、勢いがありすぎると、その勢いで木材が突き出してしまうこともあったらしい。そのため、神経を使わなければならず、特に怖かったという。さらに、突放して所定の位置に止めようとしたものが、止まり切れずに海に落ちてしまったこともあったようだ。空車で浮いてきたものは、クレーン船が出動して吊り上げを行い復旧するなどの策が講じられた。ただ、石炭車などで積荷があった場合、重さのためにそのまま沈んでしまったものもあるそうだ。これらの沈んだ貨車は引き上げられていない。そのため、今でも沈んだ貨車に積まれていた石炭が海岸に流れ着くことがあるそうだ。これらからブレーキのかけるタイミングと加減がいかに重要だったかが推測される。
突放で使われるブレーキのかけ方は、手宮に1944年まで稼働していた手宮高架桟橋でも使われていた。高架から石炭車をおろす時に傾斜を利用して、自動で下までおろしていた。そのため、編成に機関車がつかないことから、貨車にのった連結手が手動でブレーキをかける。この高架をおりる貨車にブレーキをかけるためには、平坦な場所のそれとは異なり、かなりの技量を必要としたようだ。というのも、石炭車は桟橋で石炭をおろした空車なため、高架の傾斜で勢いがつきやすく車輪が滑走するからである。この状態ではブレーキがかかりにくいため、「制輪子と車輪の間に木(サバ)をはさんでブレーキの効きを強く(『100年のあゆみ 駅史 手宮駅』:59)」するなどの工夫がなされていた。このサバとよばれた木を、石炭車をおろすまえにあらかじめ挟んでおき、少しだけブレーキを締めるなどの工夫も同時になされたという。そのようなことがなされても、やはりブレーキを効かせるために相当な力が必要となったため、鉄の棒などブレーキハンドルに挟み、「てこ」のように利用してハンドル回した。

(2)転轍
転轍は線路の分岐点で、列車の進行方向を変えることである。線路が二手またはそれ以上に分かれている場合、列車が決められた方向へ行くように線路の向きを切り替える機械(分岐器)を操作するのが転轍機だ。

写真5 手宮線における転轍機の残骸 
奥にあるてこを動かすと、手前の青と黄色羽(運転士に対する信号)の部分と分岐器が連動して動く。
この転轍機は、現在、使われているものはほとんど自動化されている。だが、国鉄合理化前は、転轍機を動かす転轍手が手動で動かしていた。一人が受け持つ転轍機の数はだいたい3〜5個、つまり3〜5個の分岐点を担当していたようだ。駅構内の各線路は番号が振ってあるのだが、やってきた列車がどの番号の線路に入りたいか指令がくると、その番号の線路へ向かえるように転轍機の切り替えを行う。この仕事には、前述の突放ができなくなった高齢者などが従事した場合もあったようだ。

(3)配車
貨物列車の編成を組む際に、どのような貨車をその編成に含めるかを決めることが、配車である。まず、ここでは貨車の手配がなされる。配車係は、輸送を頼まれた業者の積荷の内容から、どの種類の貨車を手配したらよいかを把握し、貨車を確保する。国鉄で配車係もしておられた上口さんのエピソードでは、道内の農作物の値段が高騰した時は、出荷のため輸送量も増大し、農作物の輸送に適した貨車が引っ張りだことなるそうだ。そこで、国鉄本社に行くときに貨車をさらに確保するため管理局に寄るのだが、そこでも他の方面からの配車係と、貨車の取り合いになる。そして、そのような状況で貨車を一両でも多く確保できた配車係が、腕の良い配車係とみなされたようだ。
また効率的な輸送を行うために貨物列車の編成をどのように行うかが大切となってくる。配車係が行う仕事としては、貨物列車の運ぶ荷物の内容や行き先、目的地の鉄道設備に合わせた編成の組成に関する決定と命令出すことなどもある。目的地の駅の設備が小規模のものである場合などは、その設備でさばくことができる編成に仕立てなければならない。さらに目的地までの地形(勾配、線路状況、線形など)により編成の内容を調整する必要がある。その他にも、貨車の連結順序も、燃料を積んだ車両と危険物を積んだ車両を隣同士にしないなどの考慮がされる。なので、これらの要素をすべて考えたうえで、編成の長さを計算し、貨物列車を組成する。

(4)救援
駅構内の作業では事故の起きる危険性と常に隣り合わせの環境であったため、当時は事故に対処する専用車が用意されていた。これらは救援車と呼ばれ、専門の職員が乗車した。救援車には、予備レールや枕木、特殊工具(カッターや「なまこ」という脱線復旧用の器材など)を積んだ。ただ、この救援車は各駅に常駐しているわけではない。万が一、小樽で脱線などの大規模な事故が起きた場合は、国鉄時代の一大機関区であった岩見沢から出動があったようだ。国鉄時代に起きた手宮駅の機関車の脱線事故などをはじめ、救援車は小樽に幾度か駆け付けた。そのような縁があるため、現在も小樽市総合博物館に、救援車とそれに付随する操重車(クレーン車)が保存されている。

写真6 救援車 車内
復旧用工具が壁に掛けられている。また簡易的な宿泊機能もあった。

第3章 知られざる貨物輸送の舞台裏

(1) もう1つのガンガン部隊
小樽築港駅の構内では、かつてガンガン部隊と呼ばれた人々が活躍していた。この人々は行商として活躍したガンガン部隊ではない。冬季だけ小樽築港にやってくるこのガンガン部隊は、ハンマーを振るい、貨車の底で凍っている石炭を叩き落とした人々だ。その時に出るガンガンという音からこのように名付けられた。
まず産出された石炭は、貨物列車に積みこまれる前に洗炭と呼ばれる作業が行われる。この作業は、石炭を水洗いすることによって土などの不純物を取り除くものである。幌内で産出された石炭も、この洗炭作業を経て貨物列車に積みこまれ、小樽へと輸送された。この作業は冬場に思わぬ事態をもたらす。というのも、水洗いされた石炭は乾燥させた上で貨車に積み込むわけではないので、濡れた石炭の水分から貨車の底には水がたまることがあるのだ。たまった水により、小樽までの輸送中、冬の北海道の寒さで凍る。そのため、底の石炭の一部も一緒に凍ってしまい貨車にくっ付いてしまうのである。貨車から船へ積み込む時に、凍っている石炭は貨車の底にへばりついてしまっていて落ちない。そこで、底に凍りついた石炭を落とすために、ハンマーで叩き落とす作業が必要となってくるのである。この作業を行ったのは国鉄職員ではなく、農家の人々だ。冬の農閑期に、時間のある農家の人々がアルバイトとして駆り出されたのである。冬の夜、小樽築港駅の構内には、静寂を裂いてガンガンとハンマーの音が響いていたようだ。

(2)厩専用線
かつて、手宮駅周辺には船への積み込み前や、降ろしてから、一時的に荷物を保管するための倉庫が多数存在しており、これらへ荷物を輸送するための専用の線路が網の目のように張り巡らされていた。そのような貨物専用線の中の一つに厩専用線というものが存在した。

写真7−1 貨物線跡
倉庫横の空き地はかつて貨物線があった。右端の柵はその線路を再利用したもの。

写真7−2 広海線跡
専用線へと続いていた専用線跡。線路はなくなっており、現在は工場の資材置き場になっている。
この専用線手宮駅の北側、高島方面および東の海側に延びており、日通や日粉などの倉庫へ貨物を輸送する役割を担っていた。この厩専用線には一風変わった特徴がある。それは路線の名前にもなっているように、ここでは貨車を機関車ではなく馬が引くことだ。
ここで、馬が貨車を曳くようになった経緯としては、まず倉庫などが密集する地区に敷かれた線路の建築限界があげられる。線路のすぐそばに倉庫や建物が立ち並んでいるため、機関車を通すことができるだけの空間を確保できない。そして次に、人が曳くには貨車は重すぎるということである。空積みの貨車ならば数人で押すこともできたようだが、荷物を積んだ貨車を動かすには相当な人手がいる。そこで、牽引力があり小回りのきく馬が使われるようになったようだ。
馬による貨車の入れ換えは昭和48年まで行われていたようである2)。そして、厩専用線では馬を使った貨車の牽引が円滑に進められるように様々な工夫がなされていた。その一つに転車台の存在がある。これはターンテーブルとも呼ばれ、台座が回ることでその場で車両の進行方向が変えられるものである。ここではスペースが限られていたため、転車台に載せることができる貨車は1台である。転車台の設備は専用線に3台存在した。このような独特の設備を活用して馬による貨車の牽引が行われていた。
ただ、この馬によるユニークな貨物輸送もモータリゼーションの波にのまれることとなり、姿を消した。馬を使わなくなった当初は、線路が敷かれていた場所を道にしたうえで、オート三輪による輸送に振り替えられた。その時に転車台などの設備もすべて撤去されてしまったようである。そして、今では馬が貨車を牽引していた頃の面影は全く残っていない。

まとめ

かつて鉄道のまちとして栄えた小樽。鉄道による貨物輸送が小樽にもたらしたものは計り知れないだろう。そして、現在、小樽が観光地化されるとともに、イベント用の蒸気機関車など過去のイメージとして掴みやすいものが、鉄道のまちの記憶として前面に出されている。しかし、今回の調査で貨物輸送の舞台裏には、独特の興味深い世界が形成されており、それが輸送のシステムを支えていたということに気づかされた。このような陰の功労者はなかなか日の目をみることができない。また当時の様子をそのままに再現するのは困難だろうが、忘れ去られる前にスポットライトをあてることが必要だろう。調べてみると、国鉄民営化の中で過去のものとなってしまった風景が、地方の私鉄では昔と変わらないシステムで行われているところもわずかながら存在するようだ。上述の突放といった作業も静岡県の私鉄・岳南鉄道では現在もなされていることがわかった。今後はそのような場所の調査にも取り組んでいきたいと思う。

謝辞
今回の調査を行うに当たって様々な方々に、聞き取り調査の協力などをしていただきました。小樽市総合博物館の石川直章先生、佐々木美香先生、国鉄OBの上口衛さん、北海道鉄道OB会小樽支部の安田守さん、山崎敏隆さん、お忙しい中にも関わらず貴重なお時間を割いて調査に協力していただきありがとうございました。その他、調査に協力してくださった小樽市の方々や島村先生、TAで来てくださった佐野さんに心から感謝の気持ち申し上げます。


1)パイスケと呼ばれた人々は「マンボーと呼ばれた竹の札と賃金を交換」(『100年のあゆみ 駅史 手宮駅』:28−29)
2)「昭和48年まで使っていた馬の名前は昭和29年から一貫して春風号と呼んでいた。」(『100年のあゆみ 駅史 手宮駅』:41)

参考文献
・荒巻孚(1984)『北の港町 小樽』古今書院
・田中和夫(2001)『北海道の鉄道』北海道新聞
小樽市総合博物館(2010)『小樽市総合博物館公式ガイドブック 鉄道と歩んだ街 小樽』小樽市総合博物館 
日本貨物鉄道株式会社(2007)『貨物鉄道百三十年史』日本貨物鉄道株式会社
手宮駅(1979)『100年のあゆみ 駅史 手宮駅』(国鉄OBの上口衛さんから貸して頂いた資料)    
・『小樽築港駅貨物掛 山田四郎記』(北海道鉄道OB会小樽支部の方から頂いた資料)

会費で成り立つ結婚式

冨田歩


序章 北海道と冠婚葬祭 

「会費制結婚式」の存在を知っているだろうか。北海道ではごく当たり前に行われている結婚式である。北海道は明治時代になって屯田兵により開拓された地域で、北海道民の祖先の多くは、明治時代から大正時代にかけて日本全国の都府県から道内各町村に入植して生活を始めた。
道南地方には明治以前から、隣接する東北や北陸地方から漁を求めて多くの漁民が移住した。明治時代に北海道への移住が促進されたが、特に藩政期に北前船が往来した日本海側の地方や、四国地方からの移住者が多い。このことから、北海道の社会や文化形成のベースは多くの移住者を送り出したこの地方にあるのではないかと推測できる。
本州方面の伝統的習慣とは無縁と見られがちな北海道でも、道外からの集団移民がそれぞれ地域社会を形成していた明治以降しばらくは、慶事にしろ、弔事にしろ出身区域のしきたりがかなりの重みをもって行われていた。結婚式に関して、いまも熊本県の郡部に見られるような、「仲人は新郎側・新婦側と二組あるべきだ」としていた人たち。宮城県のように新婦の里帰りは婚礼の四日目だけを外せば翌日だろうと三日目だろうとよいとする一方、静岡県人のように「必ず三日目に」と決めていた人たちなど、あちこちに本州各地の慣習が持ち込まれていた。道南地域では道南独特の葬儀がある。最初に火葬、続いて通夜、告別式の順で執り行う。出身地域のさまざまな慣行が、簡略化されたり混ざり合ったりした過程を経て、北海道に広く定着したのが会費制の結婚披露宴や金銭の香典返しをしない葬儀であったといえるだろう。

実際に会費制結婚式は北海道の人々にとってどういったものなのか、本研究では結婚式に焦点をあてた。小樽でのフィールドワークをふまえ、本レポートにおいて調査結果を報告する。

第1章 会費制結婚式とは 

道内の結婚式は会費制が主流である。会費制とはその名の通り、出席者全員が一律の会費を払い披露宴に出席し、新郎新婦を祝う。
入植者の多くの人達は本州より移住してきた人たちなので、当然結婚式は招待制の習慣だったが、結婚式をするにも生活が貧しく、十分に予算のない人がほとんどであった。そこで考えられたのが、出席者一人ひとりがお金(会費)を持ち寄り、結婚する人の負担を軽くする会費制だった。会費は生活改善運動(=新生活運動:第2章で説明)などの影響もあり、極めて低額に抑えていた時代もあったという。当時はその町や村の若人が組織する青年団が中心となっていたが、近年は、主に新郎新婦の友人や職場の人達が中心になって結婚式の案内や準備、当日の進行や運営、会費の徴収などを行う。これを「発起人」という。発起人は事前に発起人会を数回開催し、結婚する二人や両家の意向を確認し尊重する。この「発起人」といわれる人たちの存在も、会費制結婚式の大きな特徴の一つといえる。披露宴に必要な準備のほとんどを行う。

ここで招待制と会費制をいくつかポイントで比較してみる。
□ 主催者
招待制の場合は両家だが、会費制の場合は発起人が主催者となる。 また、発起人の中から代表者を選出し、これを発起人代表と呼び、祝賀会での挨拶をはじめ中心的な役割を果たす。

□ 招待状・案内状
案内状の差出人および出欠の返信先は招待制では両家だが、会費制では発起人になる。

□ 席次
招待制と会費制とでは主催者が異なることにより席次の考え方も当然、違ってくる。招待制では両家が末席になるが、会費制では発起人が末席となる。招待制の場合、双方の両親は、お客を招待するという立場(主催者)にあるため一番下座の席に座るが、会費制の場合は発起人たちが主催者で、新郎新婦やその家族は周りからお祝いされる立場にあるため、招待制とは席の配置が全く逆になり、新郎新婦の家族が上座に座り、発起人たちが最も下座に座ることになる。しかし、最近では会費制といっても親がゲストより上席になることは失礼にあたるとの考えから、末席のケースも多くなりつつあるという。

□ 披露宴と祝賀会
招待制では、新しく夫婦になった二人をお披露目するために両家がお客様を招き、飲食等でもてなすため「披露宴」と呼んでいる。一方、会費制では発起人がお客様から会費をいただき、二人の結婚を祝う会を行うので「祝賀会」と呼んでいる。

□ お祝いと会費
招待制の場合、招待された側はお祝いを事前に渡すか当日に持参するが、会費制では案内状に書かれている会費を当日受付で発起人に支払う(のし袋には入れず、現金を発起人に渡す)。親しい親族等は会費の他にお祝いも用意するが、一般客は会費だけのケースがほとんどだ。ご祝儀は基本的にはない。会費の相場は分からないが、最近では1万〜1万5千円程度。

他にも、出席者の格好にも違いがある。招待制の結婚式に出席するとなると礼服が基本だが北海道では礼服を着るのは親族くらいで、ほとんどはスーツで出席する。また、道外の人が北海道の会費制結婚式に出席した場合、御祝儀と考えていた金額に領収書が出されることにも驚くのだという。
また、会費制は出席者の金銭的な負担が少ないため、招待制の場合よりも出席者の人数が多くなるのも特徴で、200名を超える出席者が集まるということも珍しくはないという。しかし、さすがにそれだけ多くの人たちが集まると、その全員が新郎新婦と顔見知りとは限らず、両親の職場関係の人や地域の人たちなど、大抵、当人たちとは直接的には繋がりのない人たちも多く出席することになるのだ。
現在ではホテルや式場を利用する人がほとんどだが、地方では町や村の会館・公民館など公共の施設を使い、結婚式を行うケースもある。その場合、多くの事を発起人が行うので、ホテルや式場で行う場合よりも発起人の人数は多くなる。

小樽出身で小樽在住の石村洋子さんは、小樽市民会館で会費制結婚式を挙げた1人である。昭和42年(1967年)、約150人が集まり、会費1000円程度で会費制結婚式を行った。引き出物ではなく記念品としてささやかな食器やお菓子を贈ったはずだという。その結婚式の様子が下の写真だ。


写真1 神前結婚式


写真2 結婚祝賀会

神前結婚式(写真1)を行ったあと、祝賀会(写真2)が開かれた。写真から見て分かるように、祝賀会の部屋は新郎新婦の後ろにブラインドカーテンがあり、その前に金の屏風を立て、お客はパイプ椅子に座るという簡素な様子である。
発起人による出し物などで、結婚式を盛り上げたのだという。(写真3)


写真3 発起人による出し物


写真4 新婚旅行出発前

石村さんの周りにいる男性が発起人の人たちだ。(写真4)


写真5 駅のホームにて

これは結婚式が終わった後、新婚旅行に出かける新郎新婦を、発起人を含む数名で送り出すところだ。(写真5)
当時、発起人は結婚式の案内・準備から、新婚旅行の手配までが全ての仕事だった。新婚旅行の費用までもお客の会費で工面できるかどうかが、発起人の腕の見せ所だったらしい。
石村さんによると、昭和30年代(1960年代)が本来の本質を伴っていた会費制結婚式が行われていた時期ではないかという。というのは、発起人が二人のために全てを取り仕切る結婚式ということだ。1980年代からはホテル事業が参入し、商売としてホテルが結婚式の運営を行うようになってきた。また最近では、北海道だからといって会費制にこだわることもない。例えば、石村さんの娘は1990年代のちょうどバブルの時期に300人規模の結婚式を会費約1万円で行ったのに対し、息子は2000年代に身内だけでリゾートウェディングを行い、それとは別に友人とのパーティを開いたという。石村さんは、道内の会費制に多数参加された経験があり、やはり祝儀に気を使わなくていいし、服も特別に迷うこともなく、気楽でいいと感じている。

聞き取りの中で、昭和30年以降に小樽市民会館で結婚式を挙げた人が多いことが分かり、花園町にある小樽市民会館へも足を運んでみた。


写真6 小樽市民会館

話を聞くと、今は市が民間に委託して市民会館を運営していて、残念ながら当時の様子が分かる人はいなかった。だが、当時のパンフレットに結婚式場の案内が残っていた。(写真7)


写真7 事務所に残っていた市民会館のパンフレット

当時使われていた部屋は現在は物置部屋になっていたのだが、そこも見せて頂いた。(写真8)


写真8 結婚式場の見取り図

赤絨毯や祭壇などから、神前結婚式を行っていたことがわかる。(写真9)


写真9 現在は物置と化している結婚式場

この市民会館が昭和38年(1963年)に出来てから、昭和40年代までは結婚式を行っていたはずだと分かったのだが、いつ頃から衰退していったのかは不明であった。

小樽市内で小学校に勤められていた水口忠先生も、会費制結婚式を挙げられ、数多くの会費制に参加してこられた。ご自身は昭和35年(1960年)に当時人気だった北海ホテルで100人ぐらいを集めて結婚式を行った。会費は約500円ほどだったはずだという。昭和32年〜38年頃には、毎年1〜2人の結婚式に参加していた。同僚が結婚式を挙げるとなると、教務主任など学校で3番目くらいの地位の人が発起人代表となり結婚式を準備する。そして媒酌人を校長が務めるのだという。会費制結婚式に階層の違いはなく、社長も会長も平社員も皆平等なところがいいのだ、と水口先生はおっしゃっていた。招待制結婚式にも参加したことはあるが、少し抵抗があるという。

また、招待制で結婚式を挙げた方にもお話しが聞けた。昭和5年生まれの足立さんは、昭和30年(1955年)に小樽市内にある住吉神社で行った。足立さんの妹が昭和43年に市民会館で会費制結婚式を挙げたことも分かり、時代による流れの変化が感じられた。

会費制結婚式とは、主催者も出席者も共に負担が少なく、全体的に招待制よりも簡素になるというのが最大の特徴だと分かったのだが、これが北海道に定着したのは何故だったのか。そのきっかけの1つではないかと考えられる生活改善運動について、次の章で取り上げる。

第2章 きっかけとなった「生活改善運動」 

生活改善運動(新生活運動)とは日本が高度経済成長期を迎える以前、戦後1940年代後半から1950年代の窮乏期を中心に、生活の合理化を目指して広まった。この運動は北海道のみに限らず、全国的に展開されたのだが北海道にとりわけ深く根付いたのには訳があった。
当時の記録によると、道庁内に、知事を会長とし、副知事を副会長とする「新生活建設協議会」が設置されたのは、昭和27年(1952年)8月4日だが、それから8日後の8月12日に民間団体の「北海道新生活建設運動委員会」が発足し、全道的な運動を強力に展開していたという(北海道の冠婚葬祭/北海道新聞社生活部編 より引用)。そして、この目標の一つに冠婚葬祭の簡素化があったのだ。
 日本民族学会会員で、北海道における婚姻儀礼について研究していらっしゃる石澤祐子さんにお会いすることが出来た。石沢さんによると、昭和30年代に始まった生活改善運動は身分関係なく広まり、それまで家で行われていた招待制の結婚式ではなく、会館や公民館を使用するように国からの指令があったという。それくらいの時期に会館やホテルなどが出来始め、広めていく手段として適切だったと考えられる。また、各地域に広がる雑多な文化を統一しようという風潮もあったとされる。冠婚葬祭は一般化されるのが早く、浸透しやすかったのだという。この運動により、各地域に色濃く残っていた母村形態による結婚式は影を薄めていくようになる。そして、石沢さんによると、婚姻儀礼(結婚)の場所や儀礼内容が大きく変わった要因として

① 婚姻儀礼の場所の変遷……自宅→会館→旅館や公民館→ホテルや結婚式場→色々なパターン
② 招待客の変化……家族・親族・地域の名士→家族・親族・地域の名士・友人・知人→家族・親族のみ、家族のみ、家族・友人のみなど
③ 家といえの関係性を重視……結婚する二人の意思を尊重
④ 時代背景……協会での結婚式、海外での結婚式、地味婚、派手婚、パーティ婚、入籍のみ
といった点が挙げられるという。

さらに調査していくうちに分かったのは、運動の流れを受けて営利目的として現れたのではないかという企業があったことだ。例として、㈱小樽新生活互助会(現在の㈱ベルコ)という会社を見つけた。

写真10 ㈱ベルコ小樽支社のビルの1階にあった看板

㈱ベルコの方に㈱小樽新生活互助会について尋ねたところ、平成13年にベルコに変わったのでなにも分からないと言われた。ただ、10年前まで小樽新生活互助会であったことが分かり、もし本当に昭和30年代の生活改善運動を受けてできたのだとすればとても長い間存在していたことになる。
当時のことを記憶していた、潮見ヶ岡神社の本間宮司にお話を伺った。㈱小樽新生活互助会は会員(家族単位)から会費を集め、その積立金から結婚式の際の服の貸し出しや、美容室の斡旋などを行っていたという。特に葬式などの急な入用には会員としてはとても都合が良かったらしい。小樽市内に会員は多く、広く浸透していて、基盤ができあがっていたことから、ベルコに変わってもうまくいったのではないかという。小樽市内の花園町の支社を始め、若竹町にはベルコの営業部があり、勝納町には大きな斎場もある。同種産業はとても参入できないだろうとおっしゃっていた。また、会費制結婚式が本来のものとは変化してきていることについて、元の本質を伴った会費制結婚式に戻ってほしいと感じていた。

つまり、新風土の北海道という寄り合い社会の柔軟さ、官製運動を受け入れやすい道民気質、合理化を目指す風潮、経済的な必要性が相まったことにより、生活改善運動(新生活運動)による会費制結婚式が定着したのだと考えられる。

第3章 昭和30年代から現在への変遷 

会費制結婚式を通して、時代と共に移り変わる結婚式を辿ってきた。
そして、花園町に大正時代から店を構える美容室「ヴイナス」で、3代目の方にもお話を伺うことが出来た。2代目にあたる美容師が小樽に初めて洋髪を取り入れたとされている方で、婚礼も多く携わっていたという。新婦の家で仕度をし、そのまま会館やホテルへ同行してお色直しすることもあったという。多いときには1日に4〜5組の依頼が入り、美容室総出で対応していたらしい。そして、面白いなと感じたのは、会費制結婚式では貸衣装が多かったのに対し招待制では反物から仕立てて作っていた。その仕立てを美容院側が請負、貸衣装として会費制の依頼のときにも利用し、その後、貸し衣装屋へ卸したりしていたということだ。

他にも、相生町にある㈱石井印刷の社長さんによると、生活改善運動だけがきっかけではなく、ホテル事業の参入が大きなきっかけだとおっしゃっていた。ホテルの企画推進や、営業目的の為に「結婚式」がビジネスモデルの強化に繋がると考えられたからだという。印刷会社としても、当時は案内状やパンフレットの印刷を全て請負多いときには結婚式関連で月に100万の収入があったというが、今はほぼ皆無に等しいという。今は印刷機器も充実し、自分たち自身で作ることが増えているからだろうとおっしゃっていた。
また、会費制結婚式の定着は昭和30年代頃に流行りだした「学生結婚」がきっかけだという住職もいた。学生同士だとお金もないので、周りが会費を持ち寄り祝ってあげようという習慣があったとおっしゃっていた。
近年は「新郎新婦の恩師や勤務先の上司は招待制にする」とか「お祝いを頂いた親族の会費は新郎新婦の親が負担する」など様々な形式が見られるようになっているという。会費制結婚式が始まった当初に比べれば、暮らしに余裕ができただろうし、さらに会費制の結婚祝賀会といっても、引き出物などが年々豪華になって招待制の場合との出費の差がそれほどなくなってきていることなどが背景にあるのだろう。
もともと、暮らしの中のしきたりというものは、人間関係を円滑に保つための取り決めの一つに過ぎないわけなのだから、人々の生活条件や意識の変化によっていろいろと変わってくるのは当然のことかもしれない。

まとめ 

今回の調査により、北海道の結婚式は考え方が違うため、日本の中でも随分稀だと思った。しかしこれは、生活苦に喘ぎながらも考え出した素晴らしい方法であり、北海道が誇るべき文化なのではないだろうか。 会費制結婚式といっても名ばかりになってきている「発起人」の存在や、招待制との差異がなくなってきている現在、北海道に限らず、多種多様に変化していく結婚式が今後どうなっていくのか。時代の影響を強く受け、ますますオリジナル化が進んでいくのだろう。だが、周囲の「二人を祝ってあげたい」という気持ちは昔から今もずっと変わらないでほしい。

謝辞
この調査をするにあたり、調査方針のアドバイスを下さった小樽市総合博物館の石川直章先生、聞き取り調査にご協力頂きました石村洋子さん、水口忠先生、石澤祐子さん、本間清治さん、小樽市総合博物館の加藤さん、小樽の街の方、ならびに調査レポートをご指導いただいた島村先生にこの場を借りて心よりお礼を申し上げます。ありがとうございました。

参考文献
北の生活文庫企画編集会議編 (1998)『北の生活文庫4 北海道の家族と人の一生』北海道新聞社。
宮良高弘編(1993)『北の民俗学雄山閣出版
関口祐子(1998)『家族と結婚の歴史』森話社
サークル問題研究会編(1974)『会費制結婚式』あゆみ出版。
佐藤朝子(1999)『北海道の冠婚葬祭と暮らしのおつきあい』北海道新聞社。
北海道新聞社生活部編(1988)『北海道の冠婚葬祭』北海道新聞社。

小樽と仏壇

比良真実子

はじめに
 私たちの生活の中に何気なくある仏壇。日本全国では各地に仏壇の生産地があるが、北海道内で仏壇の生産地といえば小樽市である。その小樽仏壇についての調査をまとめる。

第一章 仏壇とは
(1) 仏壇とは
 仏壇には、漆塗りに金箔が装飾された金仏壇と、木目調の唐木(木地)仏壇がある。浄土真宗の盛んな北陸や近畿では豪華な金仏壇が多く、関東では唐木仏壇が収集とされている。また最近では家具調仏壇といって、一見家具のように見える仏壇も売られ人気となっている。
 仏壇の製作には、木地師塗師・彫刻師・蒔絵師・金具師という職人が関わっていて、作業が細分化されている。

(2) 小樽と仏壇
小樽仏壇の発祥は明治20年代に新潟県出身の塗師が小樽に移住し、次第に木地師などの職人が定住するようになったこととされている。それゆえ小樽仏壇は新潟系の金仏壇である。道内の仏壇生産の90パーセント以上を小樽市が占めていたこともあるほど、圧倒的なシェアを誇っていた。

第二章 寺山神佛具店
 はじめに、道内で最も古い寺山神佛具店でお話をうかがった。もともと新潟県で「大黒」というお店をやっていた初代が、明治22年に小樽へやってきて堺町で漆器の取りあつかいを始めた。それからしばらくして仏壇の専門店になった。昭和2年に堺町から現在の稲穂へと店を移した。新潟仏壇を簡素化させた小樽仏壇を作り、人気が出た。

写真1 寺山神佛具店

 小樽仏壇の特徴を詳しく聞いてみると、他の仏壇に比べサイズも小さく質素な点にあるという。北海道ではあまり高価な仏壇が売れないため、小樽仏壇の需要が高くなったそうだ。

写真2 小樽仏壇

写真3 金沢仏壇

 衝撃を受けたのは、「うちではもう仏壇を作っていない」という一言であった。秋田・新潟・金沢・京都といった優れた技術を持った産地がほかにもあること、安価な中国やインドネシアなどの外国製が売られるようになったこと、そもそも仏壇を祀る家庭が少なくなったことなどの理由から、昭和50年代ごろより小樽仏壇は売れなくなってしまった。そうして小樽仏壇を製作する職人さんの数が減り、現在は市内にある一店でだけ作製されているそうだ。実際今では寺山神仏具店での売り上げの7割が、唐木仏壇だという。

第三章 小樽仏壇の現在
 前章で述べたとおり、今では小樽仏壇の制作はほとんどされておらず、職人の方の数も減少してきている。職人の方々は現在小売のほかにどのようなお仕事をされているのか。市内の他の仏壇店でお話をうかがった。

(1) 修理―岡部仏壇店―
 ひとつめの仕事は、仏壇の修理である。職人坂にある岡部仏壇店で実際の作業の一部を見せていただいた。ちなみに職人坂というのは山田町にある坂の名称で、仏壇店や家具屋・建具屋が点在している。しかしなぜそこに密集しているのかは明らかではないそうだ。

写真4 岡部仏壇店

 まず①注文を受けた仏壇をばらばらに解体して、苛性ソーダを使ってロウを落とし、十分乾かした後、パテという塗料で傷を埋めていく。

写真5 ばらばらに解体された仏壇の一部

次に②一週間ほどかけて下地を塗って、ガソリンでとかした「カシュー」という塗料(漆の代用品として使われる)を塗り、乾かしていく。現在ではこの作業を手塗りで行える職人さんは少なく、吹き付けでの塗りが一般的だという。お話を伺った岡部さんはそんな数少ない職人さんの一人で、今でも手塗りの作業を続けているそうだ。

写真6 乾かす工程

写真7 塗りの作業に必要な道具の一部

写真8 塗料
 
そして③金箔・金具・蒔絵のそれぞれを修復する。現在では蒔絵はシール状になっているものが多いという。ちなみに岡部仏壇店では、金具の作業は新潟に持っていくそうだ。

写真9 箔押しの作業

写真10 箔押しの作業

最後に④仏壇を元通り組み立てをして完成である。

写真11 修理が完了した仏壇
 
作業の中で一番苦労するところを聞くと、塗りと箔だという。というのもほこりが入ってしまったり、金箔が飛び散ってしまったりするのを防ぐために、どちらも窓を閉め切って作業するため夏になると本当につらいそうだ。

(2) 体験学習―藤本仏壇製作所―
 稲穂にある藤本仏壇製作所の2代目店主・藤本𥶡さんは現在修理の他に体験学習の講師として、修学旅行の子どもたちなどにお箸の金箔貼りを教えている。

写真12 藤本仏壇製作所

 この体験学習は「北海道職人義塾大學校」というNPO法人が主催している。これは小樽の職人業を周知し、伝統的な業の継承を目的として平成13年に設立された。またこれは平成4年に小樽市内の職人が設立した「小樽職人の会」が母体となっている。
普段は築港にある、小樽港マリーナにて体験学習が行われているそうだ。私が調査に行った際も、5人ほどの他業種の職人さんが大勢の修学旅行生相手に教えていた。

写真13 完成したお箸

写真14 小樽港マリーナ

(3) 仏壇供養―小樽仏壇商工組合―
 もうひとつの例として、仏壇供養があげられる。
 仏壇がごみとしてぞんざいに扱われ捨てられていたことや、「仏壇を処分してくれ」という問い合わせが年々ふえてきたことなどをきっかけとして、平成に入ってから小樽の仏壇職人の組合である小樽仏壇商工組合が毎年8月末に仏壇供養祭をするようになった。
小樽仏壇商工組合の組合員は多い時で約40人加盟していたが年々減少し、昭和50年代で18人になり、現在では8人にまで数が減ったそうだ。また、この調査でお話を伺った職人さんのほとんどが、跡継ぎがいないとおっしゃっていた。

まとめ
 小樽仏壇は、明治20年代に新潟県から移住してきた職人によって作られた。その特徴は新潟系の仏壇を小さく質素にした点にある。最盛期は北海道内の仏壇生産の90パーセント以上を小樽市が占めていたが、安価な外国産仏壇の台頭、他の生産地との競争、仏壇を祀る家庭の減少などさまざまな理由から、昭和50年代ごろから需要が減り、現在では小樽仏壇はほとんど製作されていない。現在仏壇職人の方々の仕事は小売りの他、主に仏壇の修理・洗濯である。また近年増えた仏壇の処分の問い合わせに答えるべく、小樽仏壇商工組合では仏壇供養を始めた。仏壇職人の方の中には、修学旅行の子どもたちに仏壇職人の技術を、体験学習を通して教えている人もいる。お話を伺った職人さんのほとんどに跡継ぎがおらず、小樽仏壇は衰退の一途をたどっている状況といえる。

謝辞
 本調査にあたって、寺山神佛具店の寺山善明様、寺山徹様、岡部仏壇店の岡部信之様、藤本仏壇製作所の藤本𥶡様、小樽市総合博物館の石川直章先生、佐々木美香先生、その他市内の仏壇店の皆様にお話をうかがいました。お忙しいなかご協力いただき、心から感謝申し上げます。

参考
谷口幸璽 2002 『仏壇の話』法臧館。
小樽観光大学校 2006 『おたる案内人』

北海道職人義塾大學校 http://www.hk-crf.jp/index.html

水道局の記憶−小樽の「水道数え唄」から

高佑太

はじめに:小樽の街と水
 古くから小樽の水はうまいと定評がある。その理由は3つあるとされている。①豊かな自然と水源環境に恵まれ、水源地の上流には水質を汚染する雑排水もなく、原水の水質が良好であること。②ミネラル分を適度にバランスよく含んであり、口当たりの良いこと。③山坂が多く東西に長い地形から、人口の割に水道施設が多く、また水自体が施設内に止まっている時間が短いことから、浄水場で作りたての水道水を供給することができるということ。よって、その恵まれた自然環境と水質、さらに小樽独特の地形により小樽の水のおいしさは構成されている。
 そのため鰊漁など、港の活発な都市である小樽は、古くから給水地としても利用されるようになり、近代に入ると水道も早くから整備されることとなる。
 そんな水道文化の変遷について、現地で聞き取り調査を元に研究を行う。

第一章:小樽の水
(1)共用栓
 共用栓とは各家庭への水道(専用栓)が普及される以前に、住民に飲料水を供給するために路傍に設置され、何軒の家庭で利用していた、共用の上水道である。形は数種類あるが、最も一般的なものは写真のような、ライオンの形で、レバーを引くと口の部分から水が出る仕組みとなっている。

写真1 小樽市総合博物館運河館に保存してある共用栓

 小樽市は古くから水道整備が発達しており、それまで使用されていた井戸から、1911年(明治44年)の給水開始時に公設で100栓の共用栓が設置されたとされる。設置場所の基準は定かではないが、1928年当時までに6,700栓余りが設置され、一部の裕福層を除き、大抵の庶民は共用栓を使用していた。
 市が設置する公設の共用栓と、一部の裕福層や、公設の共用栓から遠く、利便の悪い家庭が何件か集まり出資して設置する私設のものもあったそうで、届け出さえ出せば設置することが可能だった。私設のものは水道管自体も竹や木を繰り抜いた管が使われていたものもあり、現在でも工事の際に地面を掘り下げると、地中からその残骸も出てくることがあるらしい。

写真2 出土した竹でできた水道管

 共用栓の使い方は、共用栓1栓に付き1本のハンドル(鍵)があり、それを各家庭で当番で管理していた。使用量は月々基本料金を使用家庭で分担して払うのみの放任制で使い放題であったため、鍵があるとはいえ外部の人も容易に使用することができたという問題から、1931年から1932年にかけて、使った分相応の料金を払う計量制へと変わる。これを期に共用栓は減少していくことになる。
 共用栓は各メーカーごとに数種類の形があり、それぞれ一番主流で数の多かった大和田式、中和田式、小和田式、荻野式、佐野式、光式などがあった。メインの大和田式は、使用していない時も水道管内に水が溜まった状態になるため、冬季は水道管の凍結を防止するために水を出しっぱなしにしなければならなかったそうだ。万が一凍結してしまうと漏水など被害が大きくなってしまうため、当時の水道局員は毎晩一本ずつ歩いてチェックして回っていたそうで、大変苦労したそうだ。

(2)専用栓の普及と共用栓の撤去
 1932年頃からの計量制への料金制度の移行を期に、共用栓は小樽市内から減少していく。
 共用栓廃止の目的は以下の通り。
①故障した共用栓の放置、冬期間の水の出しっ放しの防止(年間推定40,000トン)
②修理費の削減(年間支出360,000円)
③盗水、無届け使用の防止(97戸摘発)
④水道料金の増収
 小樽市は前出のように人口に対して給水施設が充実していたため、市としても各家庭への専用栓の設置を奨励するようになる。1935年頃には共用栓は850栓まで減少したとされる。
 1960年を最後に、共用栓の設置を禁止、そして1967年には共用栓の使用者に対する専用栓化奨励を計り、五年計画で共用栓の全廃方針を打ち出す。職員は勤務時間外に実際に各家庭に足を運び、直接的な勧誘による積極的な奨励を行うようになる。というのも、当時の方針として、共用栓1栓の使用家庭全ての専用栓へ移行した場合、1戸につき200円の特勤手当が支給されたのである。また、各世帯に対しては専用栓への移行工事に対して1戸当たり3,000円の工事費の補助を行い、更に分割での支払いを可能にするなど、職員、各家庭の双方への援助を行うなど、とても積極的な奨励を行うようになる。
 そしてとうとう1975年までには共用栓の数は12栓となり、同年に使用者は皆無となった。
 撤去された共用栓は特に使用の用途がなく、埋立地に投げ込まれたそうだ。その他、記録には残っていないが、大通りに面した場所などにあった共用栓は、後に消火栓としてそのまま利用されたものもあるそうだ。

(3)現在も見られる共用栓
 現在、小樽市内には3つの現存する共用栓を見ることができる。小樽運河浅草橋横、和菓子屋「新倉屋 本店」横、そして小樽市水道局前である。また、小樽市博物館運河館内にも展示してある。これらは現在でも使用可能となっているが、もともとこれらの場所にあったものではない。

写真3 小樽運河浅草橋の共用栓

写真4 小樽市水道局前の共用栓

 1975年を期に、統計上皆無となった共用栓だが、本当にごくまれに残っている場合があった。水道局前の共用栓は、厩町という地域の、ある家庭の物置の中に残っていたものを、お願いして寄贈していただいたそうだ。そしてそれを、かつての文化の紹介の一環として開放している。
 しかし、小樽市はこういった貴重な文化に対しても保存体制がまだまだきちんと整っていないところがもったいないと、水道局の職員の方が話して下さった。

第二章:水道屋という職人集団
(1)北海道小樽市という立地の問題点
 海と山に挟まれた形で位置している小樽市。自然環境も豊かで、豊富な緑に囲まれているため保水力に富み、また一面の山の斜面より海へ向かって水も流れるため、給水という面でも良い立地にあると言える。前出の通り、水道施設も豊富である。
 しかし、北海道という立地にあるため、やはり冬は厳しい。水道は水そのものを取り扱うため、どうしても凍結の問題が深刻であった。

(2) かつての水道管修理体制−直営修理
 厳しい冬を迎えると、各地で頻繁に水道管の凍結、漏水が発生した。これらの修理を担当していたのが、通称“直営”と呼ばれた水道局に勤めていた専属の職人達である。
 彼らはまず音を探す。夜、人々が寝静まってから、彼らの仕事は始まる。彼らは、「キーン」といった音や、「スー」といった、独特の金属音に敏感に反応し、漏水している水道管を探すのだという。
 まず、期間と修理エリアを決め、空き地を借りてそこにプレハブを設置する。その期間内はそこを活動拠点としてそこに泊まり込むそうだ。夜になると活動を開始し、「音」を探す。そして漏水箇所を特定し、ブレイカーなどの機械がない時代は、つるとスコップを使って水道管まで掘り進めて行っていたそうだ。特に冬の間は本当に大変で、凍結した地面はコンクリートよりも硬く、お湯を沸かして掛けていたりもしたそうだ。
 彼らを中心として、小樽市水道部は24時間体制で水道管修理を行い、通報が入れば現地へと職員が出て行っていたそうだ。
 数々の困難にも立ち向かってきた小樽の職人たちの腕は他地方にも有名で、よく「水道のことで何かあったら小樽さんに聞け」と言われていたそうだ。彼らもまた、自分たちの仕事に対して誇りを持っていた。
 1965年ごろを境に、業者を育てるために、業者委託へと方針を転換する。1973年には32人、そして1979年には完全に廃止、これによって水道部内から職人集団は消えることとなる。それを機会に業者へ再就職した人もいたが、保障や給与面で公務員とはかけ離れていたため、ごくわずかだった。

第三章:発見!小樽市水道数え唄
(1)小樽市水道数え唄
 今回、小樽での調査を行うにあたって、現地で手に入れた資料「おたる水道のあゆみ」の中に、「小樽市水道数え唄」なる項目を発見した。昭和38年に作られたというこの唄の歌詞を見ると、「漏水防止の水道屋」、「鉄管破裂で大慌て」などと言った、水道局員の大変な仕事についてを中心とした構成となっている。この唄の正体を解明すべく、小樽市水道局を訪ね、聞き取り調査を行った。
 作者となっていた斎藤忍さんという方は、元小樽市水道局の局長で、この唄はなんともともと同水道局に勤めていた方の結婚式の余興のために作られたいわゆる「替え歌」であることが判明した。原曲となったのは植木の数え唄(無責任数え唄?音源が入手できなかったため、確認できず)だそうだ。
 しかし、この唄には隠れた真相があったのだ。お話を聞かせて頂いた水道局員の高橋さんの紹介で、同氏の元上司であり、当時の宴会部長的役割を担っていた中村常男さんによると、実はこの水道数え唄はもともと中村さんが斎藤さんと共同で考案したものだったそうだ。そのため、実際に「おたる水道のあゆみ」にも掲載されている、全部で11節ある歌詞の内の7節目は中村さんが考えた歌詞が残っているということも話して下さった。
 中村さんが水道局に在籍していた頃は、お酒の入る宴会ごとなどがあればみんなでよく大合唱していたそうだ。「現在ではこの唄を知っている職員の方も少なくなってきている。」と少し寂しげだった。

 以下が「おたる水道のあゆみ」にも掲載されている、小樽市水道数え唄の歌詞である。

===========================◆小樽市水道数え歌 ===========================

一つとせ 人の寝ている真夜中に、漏水防止の水道屋 そいつは、ご苦労さん ご苦
労さん
二つとせ 吹雪、雨の日、風の日も、仕事に励むは水道屋 そいつは、ご苦労さん
ご苦労さん
三つとせ 見れば見るほどいい男 お嫁にゆくなら水道屋 そいつは、本当だね 本
当だね
四つとせ 夜の夜中にとび起きて、鉄管破裂で大あわて そいつは、ご苦労さん
ご苦労さん
五つとせ いつもにこにこ笑顔して、市民に接する水道屋 そいつは、本当だね 本
当だね
六つとせ 難しい仕事を引き受けて、笑顔で仕上げる水道屋 そいつは、本当だね
本当だね
☆七つとせ 何年もかかって舗装した 道路を壊すは水道屋 そいつは、本当だね
本当だね
八つとせ やせても枯れても俺たちは、市民を守る水道屋 そいつは、本当だね 本
当だね
九つとせ 故障、故障と電話鳴る、テンテコ舞いする水道屋 そいつは、ご苦労さ
ん ご苦労さん
十とせ 尊いお命守るのは、我等が水道の務めです そいつは、本当だね 本当だね
終りとせ 尾張名古屋は城で待つ、小樽の水道はオレで待つ そいつは、本当だね
本当だね

================================================================================

※主に水道局で働く苦労がそのまま歌われている。
 ことわざなども上手く取り入れられている。

(2)水道五万節
 中村さんは「水道数え唄」の他にも自作した唄をもっていた。現在どこの資料にも載っていないという「水道五万節」と名付けられたこの唄もやはり、植木等の五万節を元にした替え歌で、同じく余興の為に作ったものである。もともとこのような替え歌を考えるということが好きだったそうだが、当時、昭和30年代後半頃というのは、今でいうカラオケのどはほとんど普及していなかった。ましてやみんなが知っている歌謡曲を歌うだけなら他の人と出し物が被ってしまう。それならいっそのこと自分で作ってしまえ、ということで始めたこの替え歌の余興が、水道数え唄をはじめとする、これらの唄の正体だった。
 
===============================◆水道五万節================================

1 学校出てから充余年 今じゃ水道のエンジニア 右や左に管を入れ 付けた水道が
五万件
2 学校出てから充余年 今じゃ水道の美青年 あの娘この娘に惚れられて 断った話
が五万人
3 学校出てから充余年 今日は楽しい水神祭 めでたい話に花が咲き 飲んだビール
が五万本

================================================================================

(3)余興名人中村さん
 1940年、7人兄弟の末として旭川に生まれる。1958年まで3年間道立旭川工業高校土木科で学び、卒業後に小樽市水道部へと就職。当時は水道部側から高校へ就職希望者を募るよう依頼があり、志願して1959年に就職する。はじめは水道部の寮に暮らし、そこには他にも函館や室蘭など、小樽以外の地方出身者ばかりだった。というのも当時、小樽工業高校には土木科がなかったため、必然的に他地方で土木科を学んだ地方出身者が集まることとなった。

写真5 当時住んでいた寮の間取り。中村さん筆。大浴場や食堂などもあり、みんなで月に1回飲み会をするなど、楽しく暮らしていたそうだ。

 働き始めて一番最初の仕事は、小樽市内の地図を覚えることだった。旭川出身のため、地理状況が全くつかめず、事故現場などに行くだけでも相当な苦労をした。例えば、火事の現場に行く場合は、出火元の火や煙といったものが目印となるが、いざ水道部まで帰るとなると帰り道がわからなくなり、迷ったあげく近くにあったお店で電話を借り、自転車で迎えに来てもらったりもした。漏水の調査なども基本的に夜に行うため、ただえさえ分からない道が、真っ暗で何の目印もなくなり、本当に苦労した。そのため一番最初に行ったのは、地図を買ってきて、毎日机に向かってそれをひたすら覚えることだった。
 1962年、小樽を台風が襲った。このときばかりは、3日3晩一睡もせずに街を駆け回って生活用水を配ったり、修理用の資材を運んだりした。当時は給水車もなく、消防車に水を入れて運んだ。3日目の夜、みんなで酒を飲み、疲れきって寝た。
 この頃の水道管というのは、戦後の鉄不足により、鉛が使われておらず、強度不足と小樽の地形上高い水圧と、そして冬期の寒さなどによりあちこちで破裂していた。その度にクボタイトというイオウを溶かして止水するが、水圧の高い水を止めるのはとても苦労した。一ヶ所修理し終えると他が破裂する、なんてことも多々あった。そのため、子供の運動会にも出れず、元旦休みもほとんどなく、そのときに局内に残っているのも課長くらいで、それ以外はみんな現場へ行っていた程であった。それでもこの頃はみんなで一日中仕事に駆け回り、終わればみんなで飲みに行く。お酒が入れば気分も良くなり歌いだす。それが後、1963年には「小樽市水道数え唄」や「水道五万節」を考案するなど、宴会部長に。
 1965年、それまでお世話になっていた寮を出ることに。駆け出しの頃から共に歩んできたこの寮も2006年頃には無くなってしまった。
 1974年には消防署の方たちと一緒に、消火栓の色分けに携わる。小樽市には現在も赤・青・黄色などカラフルな消火栓が存在する。色分けによって消火栓の水圧が違うため、消防署のは現在もこの色分けによって実際に現場で消火にあたっている。当時は色分けがされていなかったが、中村さんは全部で88ヶ所ある非常バルブを把握していたため、そのバルブを開けてもらうために消防署は火事になるとまず水道局に連絡を入れ、中村さん達はバルブを開閉していたそうです。
 このカラフルな消火栓は全国でも珍しく、1979年には全日空の機内誌にも掲載され、一躍有名となる。


写真6、7 町のあちこちで見られるカラフルな消火栓

 1974年、34歳を迎える頃、係長へと就任、以来あまり現場へは行かなくなる。
 1975年頃から、水道管工事のための道具の考案を行いだす。鉄工所と相談しながら、実際に作ったものもある。

写真8 中村さんが考案した、バルブ筺を上下調節するための道具

 1993年から1996年までの3年間は浄水場へ移動となり、管理業務にも携わる。
 2001年度をもって定年退職。しかしそのまま2003年まで水道局に残り、2004年からは5年間、小樽市管工事業所の事務局長を務め、退職。現在では自宅で数種類の野菜などを作りながら、生活をしているとのこと。

結びにかえて
 古くから発達していた小樽の水道は、それを支えていた水道局の方々の存在が欠かせないものであり、かつて水道一家とも呼ばれた小樽市水道局員たちは、自分たちの仕事に対する誇りや楽しみを共有しつつ、彼ら独自の文化を持った、職人集団だった。
 また、現在も残る水道にまつわる唄、「小樽市水道数え唄」の正体は、カラオケなどの普及する以前に、余興の一環として生まれたものであり、そしてそれは家族とも例えられる程結びつきの強い彼ら独特の文化が生み出した産物であった。
 そして今回の調査では、記録には残っていない、もはや記憶の中だけに留まっていたもうひとつの唄、「水道五万節」の存在が今回の調査によって明らかとなった。

【謝辞】
今回調査を行うにあたって、小樽市総合博物館石川直章先生、小樽市水道局管路維持課管路維持担当主査高橋聡氏、官公需適格組合小樽市管工事業協同組合事務局長工藤利典氏、小樽市水道局浄水センター天神浄水係係長中村繁美氏、元小樽市水道局主幹中村常男氏、関西学院大学島村恭則教授、TAとして同行して下さった関西学院大学・大学院佐野市佳さんをはじめ、本当にたくさんの方々にご協力を頂きました。ありがとうございました。

【参考】
小樽市水道局 (1996) 『おたる水道のあゆみ』
小樽市水道部 (1965) 『小樽市水道五十年誌』

(他 小樽市水道局で頂いた資料より)

http://www.public-otaru.info/good-life/2006-10/20061011kyouyousen.htm
http://www.ogb.otaru.hokkaido.jp/hikari/water4.html

「型」でつながる寺社と和菓子屋

森澤 仁美

はじめに

 昨年度の小樽社会調査で先輩が行った和菓子屋調査のテーマは、何故小樽には和菓子屋・餅屋が多いのかについてであった。今回、そこからもう一歩踏み込んだ発見をするため、まずは和菓子屋の現在と過去についての聞き取り調査を行うことにした。すると、景星餅菓商という餅屋で、南小樽駅近辺の国道5号線沿いには餅屋が集まっており、それは周辺に寺が多いからだ、という話を伺った。参拝客がお土産として買っていくのはもちろん、寺社からも直接注文がくるという。現に、この餅屋も妙國寺の向かいに位置しており、寺から餅の注文を受けているそうだ。そこから、寺社と和菓子屋の間にはどういうつながりがあるのかに焦点を絞り、調査を進めていった。

1章 小樽と和菓子

 まず初めに、何故小樽には和菓子屋が多いのかについて述べることにする。その理由は二つある。一つは、かつて小樽が積荷の集積地であったから。もう一つは、和菓子を用いる習慣が根付いているからである。
 小樽は、本州から北海道へ船で運ばれる積荷の集積地であった。そのため、和菓子に必要な材料が手に入りやすかったのである。米や砂糖は本州から、また小豆は主に十勝・帯広から容易に調達できたそうだ。つまり、和菓子作りに不自由のない環境であったことが、和菓子屋発展の大きな要因となった。
 それとともに、住民の間に和菓子を用いる習慣が根付いていったことも、現在まで多くの和菓子屋が続いている理由と言える。和菓子屋つくし牧田の店員の方によると、小樽の町では寺の誕生祭に和菓子が使われるという。寺の住職が町内を練り歩き、町の人たちは家の前で待ち構えてお布施を渡す。そのお返しとして、落雁という和菓子が配られるそうだ。また、町の人の話では、農家や漁師の家で長男が生まれると、親戚やご近所に餅やまんじゅうを配る習慣が今なお残っているという。さらに、小樽市総合博物館の学芸員の方からは、北海道特有の和菓子についての話を伺った。北海道には、中花まんじゅうという、皮に餡を挟んだ半月の形をした和菓子がある。これは、葬式や法事の際に出されるそうだ。北海道は香典が安いので人がたくさん参列する。そのうえ、葬式や法事は急に予定が入るため、早く大量に作る必要があった。中花まんじゅうは、皮に餡を挟むだけで他の和菓子のように蒸す手間がいらない。つまり、北海道の文化に合わせて手早く作るために生み出されたものなのだ。
 このように、小樽は和菓子作りに適した環境にあり、生活にも深く浸透していったため、今日でも多くの和菓子屋が軒を連ねているのである。


















写真1 中花まんじゅう
店頭で販売されていた。値段は650円。


2章 寺社と和菓子屋

(1) 注文先の固定化
 
今回の調査テーマは、寺社と和菓子屋の関係である。先ほど述べたように、景星餅菓商では妙國寺から餅の注文を受けているという。そこで、他の和菓子屋でもそういった関係は存在しているのか調べてみた。すると、どの和菓子屋においても寺社から注文を受けており、その受注先の寺社は決まっているという話を聞くことができた。
 いくつか例を紹介する。錦町の開福屋という餅屋では、小樽稲荷神社を始め、正光寺、稲荷神社など近辺にあるいくつかの寺社から餅やまんじゅうの注文を受けている。また、稲穂にある高山菓子店は隣町の石山町にある薬師神社から、節分や七五三などの行事の際に薬師神社と名前の入った落雁を、天神にある天満宮からはともえの模様が入った落雁の注文を受けているそうだ。
 寺社からの注文には、餅、まんじゅう、落雁といったいくつかの種類があることが分かったが、ここではその中の落雁に注目して話を進めていく。

(2)「型」

 まずは、落雁という和菓子について説明しておきたい。落雁とは、米粉と砂糖を混ぜ合わせ、型に入れて抜き固めた水分の少ない乾燥した干菓子である。仏事などの供え物として用いられることが多い。スーパーで売られていたり、仏前に供えられている菊の形をした落雁を見たことがある人もいるはずだ。



























写真2 水天宮で御供物として配られていた落雁
吉乃屋という和菓子屋が作ったもの。


 この落雁を作る際に必要不可欠なもの、それが「型」である。寺社の紋やともえ、ふじの花など様々な模様が彫られており、これに米粉と砂糖を合わせたものを詰め込んで固めると落雁ができる。和菓子屋が所有している「型」を使う場合もあるが、それぞれの寺社でも代々受け継がれている「型」を持っており、それを使う場合の方が多いという。寺社は「型」が必要になると、どんな形や模様がいいかを決めて和菓子屋に伝える。そして、和菓子屋が木型職人に製作をお願いするそうだ。職人が一つ一つ手作業で彫るため、「型」の値段は高い。高価なものだと、一つで数十万円するものもあるらしい。昔は小樽にも木型職人がいたが、今はいなくなってしまったので東京の職人に作ってもらっているという話も伺った。



























写真3 くまうす神社のともえ模様の「型」。

(3)「型」の預託

 寺社に代々受け継がれているというこれらの「型」は、訪問した和菓子屋で見せて頂くことができた。小樽の和菓子屋では、寺社から最初に注文を受けた際に「型」を預かるのである。それは、落雁が葬式でも用いられるから、というのが理由に挙げられるそうだ。つまり、「型」を預かっておくことで、祭り、節分、七五三といった定期的な注文だけでなく、葬式のように急に入る注文にも迅速に対応できるのである。
 前に述べた高山菓子店では、やはり薬師神社の名前が彫られた「型」と、天満宮のともえの模様が入った「型」を預かっていた。



























写真4 高山菓子店が預かっている薬師神社の「型」。



























写真5 天満宮のともえ模様の「型」。

 また、つくし牧田も妙國寺ざくろ模様の「型」、潜龍寺のふじの花の模様をした「型」、本願寺別院の四角形の「型」を預かっていた。



























写真6 妙國寺ざくろ模様の「型」。



























写真7 潜龍寺のふじの花模様の「型」。



























写真8 本願寺別院の四角形の「型」。



























写真9 「型」の全体像。一つの「型」で4〜5個の落雁を作ることができる。

 このように、訪問したほとんどの和菓子屋で注文を受けている寺社の「型」を預かっているという話を伺うことができたのである。

3章 関係の持続

(1) 寺社、和菓子屋の移転

 明治末から昭和の初め、にしん漁で栄えた小樽の町は発展し、拡大していくことになる。すると、それに合わせて郊外へと移動する寺社が出てきた。その中の一つに、天上寺がある。もともとは、入船町の今ある場所よりも南小樽駅に近い、入船十字街という交差点の角に位置していた。移動したのは大正3年。これから寺を発展させていくには敷地が手狭だったため、5倍の土地を確保できる今の場所に移すことになったそうだ。
 また、和菓子屋でも商業上の理由から移転する場合があった。例えば、つくし牧田はもともと入船町で商売をしていたが、店舗を拡大するために、昭和56年現在の花園町へと移転した。
 
(2) 注文の持続

 このように、小樽では寺社や和菓子屋が場所を変えることがあった。しかし、今まで述べてきた受注の関係が途切れることはなかったのである。どちらかが移動しても注文は継続されてきた。その理由は、「型」が高価なものだから。一度「型」を作るとそれを使い続けたいという気持ちがあるそうだ。そして、「型」は最初に注文する和菓子屋に預けられるため、場所が変わったからといって注文先を変えることはないのである。
 先ほど例に挙げたつくし牧田では、花園町へと移転した後も、妙國寺、潜龍寺、本願寺別院の注文を継続して受けているそうだ。そして、天上寺でも移動後、吉乃屋への注文を変えることはなかった。
 まさに、寺社と和菓子屋は「型」でつながっているのである。それを象徴するような話を耳にした。宝泉寺では、ある餅屋に「型」を預けて落雁を作ってもらっていた。しかし、その「型」が使えない状態になってしまったため、別の店に頼んで新しく「型」を作ってもらい、そこに注文をお願いするようになったという。

まとめ
 
今回の調査で分かったことは、寺社が行事などの際に用いる和菓子の注文先はそれぞれの寺社で決まっていること。和菓子の落雁を作るのに必要な「型」を寺社は代々受け継いで持っており、それを注文先の和菓子屋に預けていること。小樽では、寺社あるいは和菓子屋が場所を変えることもあったが、注文の相手は変わらなかった。それは、「型」が高価なもので、一度作ったらそれを使い続けたい気持ちが大きく、最初にお願いする和菓子屋に「型」を預けてしまうため、注文先を変えることはないということだった。
 しかし、中にはその関係が途切れてしまったケースもある。これまで何回か名前を挙げている天上寺だが、10年ほど前からお布施のお返しに落雁ではなく、ペットボトルのお茶を配るようになったそうだ。寺側は、それまでずっと作ってもらっていた吉乃屋の落雁に思い入れがあったのだが、檀家はそれほど落雁に執着心は持っていなかった。そのため、やむを得ずペットボトル飲料に切り替えたそうだ。
 また、天上寺もかつて注文していたという吉乃屋は、その落雁作りの技術の高さから、数多くの寺社から注文を受けていた。しかし、店主が病気で亡くなり、7年ほど前に廃業することとなった。その影響は大きく、別の和菓子屋に注文を移したり、それをきっかけに落雁を用いるのを止めてしまった寺社もあるという。
 今回の調査では、小樽における寺社と和菓子の関係を発見することができた。この結果を次は全国に広げて考え、小樽以外の地域でも同じような関係は存在しているのか、さらに調査を進めていこうと思う。

謝辞
 
本調査は、小樽市総合博物館の石川直章先生、佐々木美香先生を始め、テーマ発見のきっかけを与えて下さった景星餅菓商さん、「型」を見せていただいたり話をして下さったつくし牧田さん、高山菓子店さん、花月堂さん、開福屋さん、わざわざ出向いて話をして下さった吉乃屋の刀祢紀子さん、平山裕人さん、電話にも関わらずお話をして下さった天上寺さん、宝泉寺さん、他にも数多くの和菓子屋・餅屋さんのご協力の下、成し遂げることが出来ました。この調査のためにお時間を割いて頂き、ご親切に対応して下さって本当にありがとうございました。

参考文献

石川寛子・芳賀登(1996)『全集日本の食文化』6、雄山閣出版
中山圭子(2006)『事典和菓子の世界』岩波書店
青木直己(2000)『図説和菓子の今昔』淡交社

参考資料

嶺野侑編集(1967)『小樽と菓子』北海タイムス小樽支社。

参考URL

菓子工業組合(各県組合だより)
http://www.zenkaren.net/gyokai/kumiai/kakuken-4.html

市場の立地〜どんなところに市が立つのか〜

保 智也


はじめに

 小樽市は歴史的観点から見ても大きな商業都市であった。江戸時代は鰊漁で栄えたため港が作られ、明治に入り炭鉱の採掘と同時にその運搬のために鉄道が敷かれるといったように早い頃から交通機関が充実していた。昭和33年(1958)には人口は最盛期となり、20万人近くまで達したが、それをピークに人口は減少し続け、現在(2009)では14万人を切ってしまった。そのような状況下で小樽市は人口比率から見ても“市場”が非常に多く、その土地の利用は時代背景の影響を強く受け、変化してきた。市場は庶民の台所であり、個人の集合体である。その特殊なコミュ二ティが形成される過去を遡り、現在に残る痕跡、いわば「市場の記憶」を見つけ、歴史的価値を見出すことが本研究の目的である。

第1章  小樽の市場
 
 小樽の市場は、満州樺太からの引揚者がはじめた露店商が起源となっていることが多い。当時、日本自体も戦争終了後で、経済状態が悪かった。そのため、引揚者が日本に帰国しても仕事がなく、生活するために露店を道端に開いた。
 現在では、中央市場、中央卸売市場、三角市場、妙見市場、入船市場、南樽市場が主要な市場として営業を続けている。しかし1970年代からスーパーやコンビニエンスストアといった販売量販店が現れたことと、小樽市内の人口減少、経営者の高齢化といった多くの問題を抱えていることが小樽市場の現状である。錦町にある妙見市場を例に挙げると最盛期の約100店舗から19店舗まで減少してしまった。写真はその空き店舗の状態である。

 そのように停滞気味にある市場の現状であるが、観光産業の視点から集客を狙う方向へと市場自体の形態が移行してきている。1993年3月に大規模な商業施設である「マイカル小樽」がオープンした。その年には、観光の集客人数としてはピークの900万人に達し、小樽市の観光産業が就業人数の4分の3を占めるほどとなった。それに伴なって駅、主要道路などの交通機関網は整備されたのだが、この交通機関の変容が市場の形態の変化と関わっている。特に1999年にオープンした小樽で最も新しい市場である、新南樽市場はその象徴と言えるだろう。
新南樽は築港に位置しており、駅からはかなりの距離がある。一見した限りでは、観光客が集まりにくい場所に立地しているように思われるのだが、この店の横には主要道路である国道5号線が走っており、またその先には札幌自動車道がある。(どちらの道路も札幌市に繋がっている)
つまりこの南樽市場はバスの観光客をターゲットに当て、観光客がお土産を購入する市場としては非常に寄りやすい場所に位置しているのである。 またこの新南樽市場は販売量販店と市場が複合した形態をとっており、写真をみても分かるように、販売量販店と市場の境目がはっきりしている。
このような立地で形態をとる新南樽は現在の市場情勢を表していると捉えることができる。
 では新南樽市場のような観光客向けようの新しい市場に地元の小樽市民は訪れるのだろうか。答えはノーである。これは筆者と小樽駅タクシードライバーとの会話を抜粋したものである。
「最近の小樽市内の市場は観光者向けの商品を置くことが多くなってしまったね。とくに新南樽市場や三角市場のような大きいとこは商品の鮮度があまりよくないし値段が高い。メディアに取り上げられて観光客は来ているようだけど地元民が買いに行く機会は依然と比べても少なくなっていると思うよ。」
このことは地元の漁師や10年以上小樽で商いをしている方にインタビューしたのだが同じような回答であった。
 しかしこのような観光用に転身する市場が現れることは人口が減少している小樽では、生き残るための策であり、今後もこのような体制を取る市場が増加していくのではないかと思われる。
 最近の大手スーパーでは、漁師と直接契約を交わすことで中間業者のマージンをなくすことで低価格で鮮度の良い商品を提供する試みがなされている。そのような手法を用いてくる販売量販店に対して市場側が集客を狙う政策として新南樽市場ではあえて消費者に対して呼び込みを禁止するなど、買い物客が寄りやすい環境を作り出すことをしている。
 対面商売から販売量販店のような商売方法をとる市場が現れることは市場経済の状況のためであると思われるが、これから消費者は市場の価値に対する見方を変えていく必要があるのではないだろうか。今後の市場の動向を見守っていきたい。

第2章  防火用地から市場へ
 
 小樽駅から徒歩10分ほどの比較的近いが、主要道路からはずれ、入り組んだ場所に中央市場がある。中央市場は1946年、木造バラックの2棟からスタートした市場であった。この市場の構造は写真のように縦長になっているのだがその理由は、“防火用地”として空けられていた土地のスペースを利用して引揚者たちが露天商を始めたためである。
 もともと明治時代までは木造建築が主流だったので火事が多発していたのだが、特に小樽市は海が近い町であるため、風が強く大都市の中でも火事の起こりやすい町として有名であった。そのため、このスペースを作ることにより特定の場所で火事が発生したとしても全体に燃え広がることを防ぐことができるのだった。戦後になり、建築物が鉄鋼に変わっていくとその空き地は意味のないものとなってしまい、引揚者たちが利用したという訳である。


この写真は、中央市場が建築される以前の防火用地としてのスペースと現在の姿である。写真を見て分かるように左側が木造建築の民家であり、道路を挟んで右側にあるスペースが防火用地だ。この用地が中央市場の建設用地となった。
 当初、木造建築だった中央市場は建物自体の耐久性に問題があり、1953年に建て直された。1階は市場、2階は分譲住宅という珍しい建造物であることから“下駄履き市場”と呼ばれることとなった。
 この下駄履きというのは1階が通路で2、3階が住宅である形が下駄履きのようだったからである。またこの市場は(写真5)船見坂に沿って3棟からなっており、1954年に2棟、1956年に3棟と建造され完成に至った。
 当時としては水道管を通すなど、水回りの設備が整っており、最新設備と住宅を兼ね備えた市場として非常に活気のある状態であった。しかし現在ではこの中央市場も他の市場と同様に活気を失い、経営的にも冷え込んでしまっている。
 建築当初は70世帯以上、入居していたが、現在では1ケタ台になってしまい買い物客が離れてしまったことは市場が衰退してしまったことと比例しているようであった。
市場の周辺でハンコ屋を経営している方にお話を伺ったのだが、
「周辺の商業施設も同様に廃れてしまった。駅前周辺から離れている立地での集客は非常に難しい。」と厳しい状況に悲観的な意見を述べていた。
 防火用地のスペースに引揚者が露店を開き、下駄履き市場のような構造をした建造物の歴史がある中央市場はそれ自体に価値がある存在であると見ることができる。そのような存在価値を持つ市場をこれからどう保存していくかが、これからの課題である。


3章 川と市場
 
 小樽駅から北側のほど近い場所に妙見市場がある。

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妙見市場は三棟からなりその特徴として市場が“川の上”にある。こちらの妙見市場の起源も先ほど2章で登場した中央市場同様、引揚者が川沿いに露店を開き、雨をしのぐために屋根を取り付けたことが始まりとなっている。
写真の下に流れている川は於古発川(おこばちがわ)であり、1962年に洪水が発生し市場全体が流されてしまったという経歴もある。以前はこの市場の建造物も住宅の機能を果たしていたのだが、新しく建て直された現在の妙見市場は商店のみが入っている状態で、地元民を対象とした経営を行っている。この於古発川の下流は妙見川といい、現在では“暗きょ”(覆いをしたり地下に設けたりして、外から見えないようになっている水路)となり、寿司屋通りとなっている。
 妙見市場は地元民を対象としているので、総菜屋から、ベーカリー店、理髪店など生活に関わる店舗が入っている。そのような形態をとっているが、最盛期では100店舗あった妙見市場も今現在では19店舗まで減少してしまった。

これは内部の状態だが、多くのスペースが空き店舗になってしまい、人通りもまばらだった。
 妙見市場の事務職員の方にこのような市場離れの対策として何をしているのかという質問に
「今は特売や曜日限定で割引セールを行うことで集客を狙っています。確かに以前に比べて人は減ってしまいましたが、このようなイベントを行うとお客さんは集まってくるので今後も様々なセールスを考えていきます。」
という回答が返ってきた。実際、妙見市場は他の市場と比べて、チラシの作成をしたり、特売セールスを行うなど活発に活動しているように見られた。また住宅地に挟まれて営業しているので、立地条件としては好条件であることから、市場としてのにぎわいを取り戻せる可能性は高いと思われる。
 市場の形として通常は、図1(ブログでは省略。以下、同じ)のような正方形や長方形の構造を考えてしまうが、小樽の市場の多くは、図2(ブログでは省略。以下、同じ)のような細い長方形の構造をしている。新南樽などの比較的新しい市場は、通常の図1であるが、妙見市場や中央市場、三角市場は内部に細い道が通っており、その両側に店舗を構える構造になっている。この図2のような構造をしている市場は引揚者が使用していない公共のスペースに露店を構えているのが起点であるという共通点があり、店舗の流れがそのまま市場の形になっているというのが図2のような特殊な形をしている市場の理由である。今回の研究では小樽の市場に焦点を当てているが、全国にある市場で図2のような構造をしているものは引揚者、またはそれと同じような存在(仕事がなく、生活のために露店を開く人)なのかもしれない。

4章 道路と市場

 三角市場は、小樽駅の横にあり、メディアにもしばしば取り上げられるので観光客の多くが立ち寄る。三角市場は正式名称ではなく、正式名称は「小樽駅前市場」であるであり、三角の由来は市場全体の形が三角形を成しているからである。この市場も引揚者の露店が起源であり、その引揚者の子孫が現在でも商店の営業している。
この市場の特徴として市場の中央に道が存在するのだが、その道は道路、つまり公道であり、現在は商店が並んでいる通りにも以前はトラックや荷車が通行していた。この道路に引揚者が露天を広げ、中央市場、妙見市場同様、屋根を作り、図2のような構造の市場が形成されていった。
 この市場は駅前にあるという立地もあり、多くの観光客が訪れるが、そのため地元向きの商店はほとんど建ち並んでいない。地元志向は強いのであるが、ニーズが変化してしまうと商品も変えざるをえないことが現状のようだ。
海産物を取り扱う商店の方に現状のお話しを聞いたのだが、「この店は初代が引揚者で、この小樽で商売を始めたことがきっかけだった。当時は冷凍技術などあるわけもなくて干物や鮭を取り扱っていた。今でこそ生きている蟹など観光客に受ける商品を置くことができるが、それまでは大変だった。」
 保存技術が低い当時は生きた蟹など生簀(いけす)を必要とする、観光客が購入する魅力的な商品が置けなかったのだ。観光客向けにシフトした三角市場も技術変化に伴ってその形態を変えていったという歴史があった。

5章 まとめ

以下にこの研究でわかったことをまとめる。

・小樽の市場は引揚者が露店を開き、その露店が現在の市場の起源となっていることが多い。比較的新しく建設された市場の形は図1のような市場全体が均衡をとれている形がほとんどであるが、露店が起源となっている市場は図2のような長い通りを挟んで商店が並ぶ形になっている。

・市場という市民の台所は歴史的に商業形態を変えつつある。それは技術の向上から、ニーズによって商品をかえることができたということや、消費者に対する呼び込みの禁止といった対面販売を嫌う現代の風潮のためである。

・歴史的な意義のある市場が多い。特に中央市場の下駄履き市場や妙見市場の暗きょは引揚者の歴史が目に見て分かる建造物だった。このような価値あるものを後世に残していく必要性は感じることができた。

 以上がまとめとなる。今回の研究は小樽に絞ったが、全国の市場の例を見てみると、例えば東京の築地市場は球場へ変更される案があったり、秋葉原の駅前広場もかつては市場であったなど、市場の立地は地域によって形態が変化するようである。今後は地域別に研究を展開していこうと思う。

謝辞

調査するに辺り、有限会社奥村商店様、小樽市漁業協同組合手島・高島地区区長の成田正夫氏、小樽中央市場協同組合総務の佃多哉志氏、小樽中央市鮮魚店店主の渡部哲衛氏、小樽妙見市場商業協同組合事務長の保坂道彦氏、小樽市総合博物館の石川直章先生、島村恭則教授など多くの方々にご協力いただきました。





文献一覧

北海道新聞小樽報道部
 2001 「小樽市場物語」 佐藤圭樹編 ウィルダネス

社会団体 日本建築学
 2007 「都市建築のかたち」 日本建築学

岡本哲志
 2008 「港町の近代」 学芸出版社

小樽観光大学校
 2006 「おたる案内人」 小樽観光大学校運営委員会編 

小樽の市場景観

小樽の市場景観
木村 隆之

 はじめに

 今回の調査実習では小樽の市場について調査した。本論の第1章では、今回調査した市場について概況を紹介する。続いて第2章では、市場の道路について、三角市場の事例を用いて報告する。そして第3章では、下駄履き市場と呼ばれている建物についてまとめる。

第1章 小樽の市場

(1)三角市場

 最初に小樽駅と国道5号線との間に位置する三角市場を紹介する。三角市場は昭和23年頃、小樽駅に7〜8軒の露天商により店を出したのが始まりで、そこから出店者が相次ぎ、近隣にある石狩、後志だけでなく川上、日高方面などの遠方から買出しに来る人も相手に発展していった。当時は行商人たちの交換市として賑わっていた。そして、昭和32年に露天商約30軒で任意組合を設立し現市場ができた。ちなみに三角の名前の由来は、土地、屋根ともに三角の形をしているからである。
 三角市場では鮮魚や海産物を中心に塩干物や青果物、さらには衣料品等が売られている。鮮魚や海産物の品質の高さは全国的に有名である。また、後ほど詳しく紹介するが三角市場内の通路は公道であり敷地は別になっている。








(2)妙見市場

 次に紹介するのが妙見市場である。妙見市場は戦後、樺太満州からの引揚者が於古発川の川沿いに露天を開いたのが始まりである。この妙見市場の特徴は川の上に建物が建てられていることである昭和37年に洪水で流されてしまったが、小樽市営市場として再建され今に至っている。海産物だけでなくスポーツショップや床屋等の店も出店している。しかし、現在はスーパーマーケット等の影響で市場内の店数が年々減ってきている。












(3)鱗友市場

 鱗友市場は小樽で唯一の朝市で午前3時から営業を行っている。近くにある小樽市漁業協同組合地方卸売市場では競りが行われていて、そこで競り落とされてすぐの商品が鱗友市場に並べられている。鱗友市場が朝市を行なっているのは、この卸売市場と隣接しているからだと思われる。



(4)新南樽市場

 新南樽市場は平成11年9月にオープンした小樽では一番新しい市場になる。海産物などは他の市場と同様に売られているが、建物内には大手電気屋が入っていたり、広い駐車場が完備されていたりと、スーパーマーケットに近い要素を多く含んでいる。










(5)中央市

 最後に紹介するのが中央市場である。中央市場は昭和21年に外地からの引揚者がはじめたバラックの借り店舗がはじまりで、昭和31年に火災問題の関係でコンクリートの3階建てに変わり、現在は下駄履き市場として一部の若者からも注目を浴びている。





第2章 市場と道路 −三角市場の事例からー

(1)三角市場の通路

 第1章でも取り上げたように、三角市場の通路は市場の敷地ではなく一般の道路、つまり、すぐ横にある国道5号線と同じ公道なのである。 一見他の市場の通路と大きな違いは見当たらない。しかし、市場の人に聞く話によると、通路は公道であるがために入り口の扉は常に開けっ放しで、自由に開け閉めできないそうだ。「通行の妨げにならない」が理由である。また、狭い道に不自然に自動販売機が置いてあるのも、市場と通路が別の敷地であることを物語っているように感じられる。
 現在、三角市場で一番昔から店を営んでいる駄菓子屋のおばあちゃんに話を聞いた結果、どのようにして現在の三角市場の通路が成り立ったのかが分かった。三角市場は手宮の朝市や直接漁場から仕入れてきた行商の人達が小樽駅の三角市場地点に集まったのが始まりだそうだ。元々何も無い場所に行商の人達が勝手に店を出し始め、露店が集まり自然と賑わったということになる。そして、その結果、店と店の間は市場とは関係のない一般の敷地になってしまったのだ。
 三角市場とその他の市場の外観はほとんど変わらないのは、少しずつ三角市場が変化してきたからだそうである。現在は普通に大きな屋根があるが、その屋根がつくまでは各々の店にしか屋根が無く、店と店の間は屋外となっていた。そのため、天候に大きく影響され、台風などで並べてある商品が被害にあうことも多々あったそうだ。屋根がはじめから無かったのには、昔は店と店の間隔が現在と違い広かったことが背景にある。しかし、それぞれの店が徐々に店を大きくしていったため、現在の店と店の間隔になってしまったそうだ。なお、三角市場は各々の店の敷地の大家も別だそうだ。

(2)三角市場以外の市場の通路

 中央市場や妙見市場、鱗友市場など、スーパーマーケットに近い新南樽市場を除けば、三角市場の通路と特に違いはない。しかし、市場内の通路が公道なのは小樽の中では三角市場だけである。これは自然と露店が集まり賑わった三角市場に対し、他の市場は元から「市場」として建設されているためである。他の市場の人の話を聞いても、三角市場が特別らしい。

第3章 下駄履き市場

(1)中央市

 ここでは中央市場を例にあげ、下駄履き市場
(一階が市場で、その上はアパート)についてまとめていきたい。中央市場は小樽を代表する下駄履き市場のひとつである。下駄履き市場というのは、中央市場の様にアパート等の一階部分がお店になっている建物のことである。中央市場では一階部分が市場になっていて、上の階では人が暮らしている。ちなみに中央市場の場合は一階と二階の間に中二階があり、市場の人はそこを物置として利用しているそうだ。
 なぜ中央市場がこのような下駄履き住宅のつくりをしているのかというと、法律の関係上、防火のためにコンクリートで三階建ての建物にする必要があったからである。つまり、仕方なくこの形になってしまったのである。
 ちなみに、中央市場の場合は市場自体が組合の所有物であるため、家賃は組合費に利用されている。間取りは一般のアパートと特に変わりはなく、トイレも水洗である。ただ中央市場が建てられた当時は、銭湯が栄えていて銭湯に行くことが普通だったため、お風呂はついていない。
 また、建てられた当時は一階部分で市場を営むひとのみが入居できたが、現在は借り手が減り、一般の人でも契約して入居することができる。
 

結びにかえて
 
 前章で、下駄履き市場について触れたが、中央市場で聞いたところでは、「元々、下駄履き市場は関西が発祥の地であり、小樽の下駄履き市場は関西から伝わった」とのことである。
 現在、関西では下駄履き住宅をあまり目にすることができないが、たしかに関西にもかつては多くの下駄履き市場が見られたようである。現在見られないのは、建て替えが進んでしまったからだが、その中には、阪神淡路大震災によって当時存在していた下駄履き市場が壊滅してしまったというものもあるだろう。
 ただし、調査を進めれば現在でも、下駄履き市場の残存は関西でもいくらかは認められると思う。今後、調査を進めていきたい。
 最後に、今回、小樽の市場を調査してみて、あらためて市場の世界の持つ深さについて考えさせられた。市場自体が川の上に建てられていたり、あるいは市場内の通路が公道だったりと、驚きの連続であった。

 謝辞
 調査にあたり、小樽市漁業協同組合手島・高島地区区長の成田正夫氏、小樽中央市場協同組合総務の佃多哉志氏、小樽中央市鮮魚店店主の渡部哲衛氏、小樽妙見市場商業協同組合事務長の保坂道彦氏、小樽市総合博物館の石川直章先生、その他、市場で働く多くの方々ご協力いただきました。深くお礼申し上げます。

小樽と蒲鉾

中野美菜

はじめに

小樽は地理的な好条件などから、蒲鉾産業が発展してきた。昭和30年代後半には、技術革新などに伴い、蒲鉾店は小樽全体で約70店にのぼった。しかし、その後200海里問題、食品添加物問題をはじめとした問題や、日本人の食文化の変化によって蒲鉾店は衰退の道をたどってきた。現在、小樽市には13社の蒲鉾店があるが、今回このうち2軒から聞き取り調査を行った。本研究は、その情報や文献を元に調査を進めた。

第1章 蒲鉾店の成り立ち
(1)かま栄
 かま栄は、明治41年に創業を開始した小樽でも老舗の蒲鉾店である。現社長の父、佐藤仁一さんは明治31年新潟県西蒲原郡巻町にて佐藤興兵衛・マスの次男として生まれ、明治45年新潟から小樽へ移住し、今井呉服店の小樽店に入社している。昭和2年には中村千恵さんと結婚の後、四男一女をもうけた。この佐藤仁一さんが合資会社かま栄商店の経営に参画したのは昭和8年のことだった。当時丸井函館店の副支配人をまかされていたが、かま栄の宮崎代表社員から誘いを受け、丸井を退社してのま栄の経営に参画することになった。同年代取締役社長に就任した。このように、北海道(小樽)には新潟から丁稚奉公で渡ってきた人も多い。実際に、小樽の蒲鉾店社長で新潟から丁稚奉公で小樽へ移住した人も存在している。それぞれ、創業のきっかけは違うにせよ、新潟出身という共通項がある場合も少なくない。

(写真1 かま栄工場直売店)

 次に、かま栄での蒲鉾製造の過程について触れておく。まず原材料はワラズカと、米国産のスケトウダラを使用している。主原料の魚には、とことんこだわりがあり、北米産スケトウダラ以外にも、季節や天気などさまざまな状況に対応して、ミナミダラやイトヨリをブレンドして使用している。この原材料である魚肉(具材である野菜なども)を、機械ですり潰し、丹念に練り上げる作業のことを①擂潰(らいかい)という。この段階で製品ごとの味付けも行う。まず大まかに練った後、1時間ほど石うすですっていくのだが、この工程がとても重要となるため、長年この作業を行っている人が担当している。

(写真2 擂潰の作業の様子)

次に、②成型を行う。かま栄では、この工程も全て人の手で行っており、グラム合わせや形を均一にそろえる技は、長年の修行が必要となってくる。この工程で一人前になるには、最低5年はかかると言われていて、できなかった場合はまた違うところでの修行が待っている。熟練の方となると、何十年もこの成型を行っているという。この作業にも、かま栄のこだわりがあり、機械で型にはめると、おしこむ感じ(触感、舌触り)などが違ってくるのだという。時間や人件費もかかるが、手作業にこだわり続けている。
(写真3 成型の作業の様子)

第3の工程が、③加熱( 蒸す・焼く・揚げる)である。かま栄本社工場では、蒸した後冷やす工程まで行い、その後各店舗へ出荷される。その後、各店舗ごとに揚げるなどの作業を行っている。加熱はそれぞれの製品・素材に最適な方法で、かまぼこ独特の触感やうまみが引き出されるようになっている。このような方法で、かま栄の蒲鉾製造は行われている。この蒲鉾の特徴としては、添加物は使用しておらず、良質な白身魚を使用し、余分な血や脂肪をきれいに取り除くことで、透き通るような白い蒲鉾ができる。また、独特の歯ごたえや弾力もある。魚肉を食塩と一緒にすりつぶすと、たんぱく質が溶け出して網目状み絡み合ったペーストができる。これを加熱することで網目構造がさらに強くなり、独特の弾力が生まれる。

(写真4 蒸しあがった蒲鉾)

 創業当時(昭和初期)の小樽はまさに黄金時代であった。花園大通りをはじめ、商店街はさまざまな店が軒を連ね、蒲鉾店も鰻上りで増えていった。30年代後半から40年代にかけて、冷凍すり身技術の革新等により蒲鉾店はピークに達した。冷凍すり身技術は、それまで食用向け利用度の低かったスケトウダラの活用分野を大幅に拡大、北洋漁業の勃興をもたらしただけでなく、その後の技術革新と品質の向上によって、蒲鉾製品のあらゆる等級に使い分けされ、その利用範囲を急速に広げた。とくにその安定して品質と供給は、産地の原料転換を推進し、地元の労働力不足、廃棄物処理問題を解消した。
 この時代は、すり身を切る工程から自社の工場で行っていた。原料は、カレイ、ヒラメなどの白身を使用していたが昭和50年代、200海里問題(排他的経済水域)でスケトウダラが全くとれなくなってしまったのだ。かま栄でも、スケトウダラを使用していたので、安定供給が難しくなり大打撃を受けた。そこで、北米(アラスカ産)のスケトウダラを使用することを思いついたのだという。スケトウダラの特徴は、アミノ酸が強く、日が経つと適さない。また、消費者のイメージ的には「日本産」を使用した方がいいのだが、実質的には質の高いものを使おうと、今でも北米産をあえて使用している。
最後にかま栄の特徴を挙げる。かま栄は小樽で最も古い蒲鉾店で、本社を含め9店舗と、店舗数的にも1番多い。また、高級生産でブランドイメージも強いため、観光客のニーズも高いといえる。


(2)大八栗原蒲鉾店
 大八栗原蒲鉾店は、明治39年に創業を開始し現在は3代目である。創業者の栗原八郎は、かま栄の一番職人として働いていた。その後、本州での展開を考え当時小樽で誕生した「角焼き」を長野へ地方発送を行った。これが、現在の大八栗原蒲鉾店の礎となっている。
 現在のご主人(栗原康さん)が中学生だった頃、限界を感じたため、合同で経営していた大八栗原蒲鉾店を解散した。金銭的での遣り繰りが難しくなり、破産に近い状態まで追い詰められたからだった。しかし、その後、栗原康さんの祖父の援助もあり3〜4年で営業再開を果たした。栗原康さんは、幼い頃から店で働く両親を見て育ったため、自然と自分も後を継ぐものだと思っていたのだという。高校生の頃から、包装やだて巻きを焼いたり、揚げる手伝いをしていた。しかし、実際に店を継ぐという頃、店の帳簿を見て経営状態等に大変驚いたと話を伺った。また、函館にも蒲鉾店が多数あるのだが、蒲鉾店のレベルの違い(取り組み方、真摯な姿勢)を見て、追いつけないと悲嘆した時代もあったという。それに触発されつつ、追いつき発展していかなければならないと思い、この20年間、懸命に努力を重ねてきた。20年の間に問題を解決しながら、いかに良いものを作っていくか試行錯誤してきた。
 先代の時代には、原料はかつて安かったカレイやヒラメを使用していた。現在は、スケトウダラを主に使用している。また、栗原蒲鉾店では国内産の生すり身を使用し、ソフト感を出している。最大のこだわり(特徴)としては、無でんぷんの蒲鉾であることだ。北海道では栗原蒲鉾店だけだ。でんぷんを使用しないと、水が外へ出てしまうので、実験を繰り返し、無でんぷんに成功した。それだけではなく、無リンの冷凍すり身の入荷を行っている。普通はリンを入れて、ゼリー強度を高めるのだが、ストレスに対してとても弱いものになってしまう。その為、栗原蒲鉾店では無リンのすり身をオーダー生産している。
 栗原蒲鉾店の客層は、地元・小樽の人が50%、北海道の他市の人が50%である。リピーターが多く、味が美味しいと口コミで広がりを見せている。小樽市で3店舗を展開しており、市場にあることからも分かるように、地元型の蒲鉾店だといえるだろう。

(写真5 南樽市場内の大八栗原蒲鉾店)

(写真6 店頭に並べられている蒲鉾。夕方になると売り切れの物も多い)


第2章 水と蒲鉾
(1) 水
 蒲鉾産業が発展する条件として、海が近いなどの地理的条件が挙げられることが多いが、水も重要な役割を果たしている。実は、水がきれいで美味しいところで蒲鉾は製造されることが多いのだ。なぜなら、蒲鉾を製造する工程で「加水」と呼ばれる作業(すり身を足す)がある。また、魚の内臓を洗うなどさまざまな作業の中で水を使用する。そのため、水の重要性は高く重要なのである。小樽では、勝納川から奥沢水源の水が家庭に流れている。一般的に、とても水がきれいで美味しいといわれているのだ。水には、硬水・軟水、pHなどの要素がある。それぞれの蒲鉾店にこだわりがあるが、水に関しても独自の工夫がなされていることも多い。普通の水道水でも、勝納川から奥沢水源の水なので、他の地域よりも水がきれいで美味しいのではないだろうか。また、小樽以外では小田原の蒲鉾製造は富士山の水が使われている等の実例もある。


(2)大八栗原蒲鉾店と井戸
  大八栗原蒲鉾店では、水のこだわりが高じて井戸を掘ったことがあった。水道水は、塩素等で殺菌されているため、どうしても僅かながら苦味が出てしまうのだという。また、水道水は軟水だが蒲鉾製造には硬水(井戸水)の方が適していると考えていた。硬水にはカルシウムが含まれる等の適性が見られるのだ。
 現在のご主人の、祖父・父の代まで井戸水を使って蒲鉾製造を行っていた。井戸が3本もあって、そこから水を汲み蒲鉾を作っていたという。蒲鉾製造に対して、相当なこだわりがあったことがうかがえる。そして、現在のご主人はその時代に食べていた蒲鉾の味(触感・風味等)が忘れることができず、今から3〜5年前に深井戸を掘ることを決意した。井戸を掘るには相当な費用がかかったが、やはり井戸水は甘味があり、蒲鉾製造には最適だとご主人は完成を喜んだ。しかし、完成から1年余りで井戸は使用できなくなってしまった。定期的に行われる、井戸水の水質調査で、不純物が混ざっているのが判明したからだ。やはり、水道水に比べると井戸水は、地下から汲み上げることもあって不純物などが混ざってしまうことがあるのだ。また、現在は昔(先代の時代)に比べて、かなり調査基準等が高くなったこともあり、井戸水を使用することは不可能になってしまった。このような問題から、井戸水を使用した蒲鉾製造は今では幻となってしまったが、水が蒲鉾製造の過程で重要だということが改めて証明された。 


第3章 鰊場労働と蒲鉾
 小樽といえば、鰊漁がかつて栄えたことで有名である。一般的には、鰊と蒲鉾には直接的な関係がないといわれているが、以外な繋がりに着目した。ここでの繋がりとは、原料等ではなく労働市場での関係のことである。
鰊漁は明治から大正にかけて、北海道の日本海沿岸各地で最も盛んに行われていた。漁期は3〜5月で、雇いの漁夫や手伝いの人々で集落は一挙に人が増えていた。浜も鰊の運搬や加工を担った出面の人たちや物売りで大変な賑わいを見せていた。この鰊漁の発展は、小樽経済を活発化させ、鰊産品を扱う海産物商が多かったことは蒲鉾の販路拡大にも影響があったようだ。
 また、最大の着目点は加工場で働くおばさん達が、鰊漁と蒲鉾製造で同じだったという説だ。鰊漁の最漁期は、春先の3〜5月である。かつて、漁獲高の最高を記録した大正14年は、約7万5000石というとてつもない数の漁獲量である。その鰊を、さばくという作業は並大抵のものではなかったという。それに比例して、加工場で働くおばさん達の数も増えていった。その鰊をさばくという作業は、蒲鉾(スケトウダラ)をさばくことにも応用できる共通の技術もあったのだろう。蒲鉾の原料であるスケトウダラは、冬に最漁期を迎える。冬になると、春先に鰊をさばいていた加工場のおばさん達が、今度は一斉にスケトウダラをさばいていたということが考えられる。とてつもない量の鰊をさばいていたおばさん達にとって、スケトウダラをさばくのは容易なことだったのかもしれない。しかし、上記で述べたようなことが必ずしも全て起こっていたとは限らない。鰊と蒲鉾では加工屋が基本的に違うといったような話も聞かれえる。
 最後に、労働市場以外での鰊と蒲鉾の関係について触れておく。小樽の名産といえば、やはり鰊を想像する人が多いということもあってか、かつて鰊を用いた蒲鉾を作ることができないかと考えた人もいたという。実際に、すり身にして実験を行ったが、油が多く蒲鉾には適さなかったため断念した。現在では、今まですり身にしてこなかったものを、蒲鉾に使用してみようという動きも多数見られている。


第4章 「小樽の蒲鉾」の現在
 冒頭でも触れたように、現在小樽には13社の蒲鉾店しか残っていない。最盛期には70社近くあった蒲鉾店は、さまざまな問題や日本人の食文化のシフトにより減少したと述べたが、自然と淘汰されていったという背景もある。
 13社の蒲鉾店は、自然とバランスができている。例えば、ニーズもそれぞれの蒲鉾店によって違う。今回取り上げた2店は、かま栄は観光客向け、大八栗原蒲鉾店は地元向けの商品を取り扱っている。また、同じデパートには1つの蒲鉾店しか入っていないのだ。他の地域を見てみると、小田原では同じような商品を競合しているのだという。しかし小樽では、13社が助け合える存在で、互いが共存しあって良い関係を築こうとする取り組みが見られた。逆に、そのような取り組みや精神がなかった蒲鉾店は自然と淘汰されてきたのではないか、と栗原蒲鉾店のご主人は話していた。
 近年では、日本人の食文化が欧米化してきたこともあって急速に蒲鉾離れも進んでいる。実際に、生産量・消費量ともに減少を続けている。しかし、今回小樽の蒲鉾店を取材して、13社が互いに協力し合い蒲鉾の発展に力を注いでいるという現状が見えた。

 最後に、本研究に際して様々な方にインタビュー等の協力をしていただきました。かま栄の佐藤元彦さん、大八栗原蒲鉾店の栗原康さん、小樽市総合博物館の石川直章先生、貴重な時間を割いて調査に協力していただきありがとうございました。その他、調査に協力してくださった全ての方々に心から感謝の気持ちと御礼を申し上げたく、謝辞にかえさせていただきます。

文献一覧

岡部一利
1984年 『森市一代記』、菱重印刷株式会社

特定非営利活動法人 歴史文化研究所
2008年 『おたる旅案内 小樽観光大学校 検定試験公式テキストブック』

株式会社かま栄
2005年 『株式会社 かま栄 創業百周年沿革誌 百年物語「粋」』
      工場見学パンフレット 
      『樽蒲の歩み』、小樽蒲鉾工業共同組合 

大八栗原蒲鉾店HP
http://www.dai8kurihara.net/

小樽の繊維問屋史  ―問屋商人たちの足跡をたどる―

中前 亜侑子


はじめに

 北海道の数ある都市のなかでも、特に観光地としてその名を知られる小樽。景観豊かな港町、あるいは運河の残るレトロなまちといったイメージの強い小樽だが、ここがかつて札幌を凌ぐ商業の中心地であったということを知る人は少ない。
そんな小さなまち小樽の商都としての発展を支えた礎の一つ、繊維問屋。今でこそ息を潜めてしまっているが、当時は小樽のみならず北海道全体の重要な経済資源であった。近年下降気味の繊維業界の歴史を掘り起こし、繊維問屋の発展と衰退、現在に至るまでの足跡をたどった。


第1章 繊維問屋のまち 小樽

(1)商都 小樽の発展

北海道唯一の移入港 小樽

 江戸中期から漁業が盛んであったオタルナイ場所が、元治2年に村並となり「小樽」と呼ばれるようになる。北海道開拓の国家政策により、小樽市銭函に仮役所が置かれ、札幌本府建設が始められた。続いて海官所も設置され、福島、江差の問屋が小樽で問屋株を許可され、続々と進出し、やがて、本州からの物資が小樽に大量に移入されるようになり、小樽が北海道の卸売りの中心となってきた。商都小樽の歴史は、ここから始まる。

内地の最先端を手に入れられるまち

 以上に述べたように、小樽は北海道内への物流の唯一の入口であり、内地(つまり本州)の最先端の物資を手に入れられるまちであった。モノや人が一気に集まる場所であるとともにまた、さまざまな文化が行き交う場所であり、問屋をつくるには最適のまちであったと言えるだろう。

小樽の経済最盛期 ―手宮線と小樽商大―

 移入港として栄えた頃、小樽は商都としての最盛期を迎えた。
明治13年には、開拓史顧問であるアメリカ人クロフォードらの手により、機関車、客車、貨車、レール等の機材を輸入し、手宮〜札幌間に鉄道が開通した。これが、現在も線路跡の残る手宮線であり、当時、東京〜横浜、大阪〜神戸に次ぐ、日本で3番目の鉄道であった。

(写真1)旧手宮線跡地
 さらに明治15年には、近代産業のエネルギー源としての石炭輸送のため幌内まで延長され、かくして小樽は北海道への移住者の受け入れや物資の輸送基地となる。
また、明治43年には現在の小樽商科大学の前身である小樽高等商業学校を設置。小樽商科大学は後に、神戸商業大学1)、東京商科大学2)と並ぶ三大商大の一つとも言われるようになったという。
 このような事実を見るだけでも、小樽というまちが日本においていかに重要な位置を占めていたかがよくわかる。東京、大阪に次ぐ商業の中心地として、小さなまち小樽は発展していった。

(2)小樽と繊維

小樽繊維業のはじまり

 小樽における繊維業のはじまりは、明治時代にまでさかのぼる。元々から、生産業として始まったわけではない。繊維産業の風土に恵まれない小樽では、移入港としての特長を生かし、もっぱら小売店や卸問屋が発達していった。あらゆる問屋業の中でも、繊維は最も大きな勢力であった。

行商から身を起こした梅屋商店

 その先駆者とも言える人物が、村住三右衛門3)である。弘化4年3月11日石川県能美郡御幸村生まれの彼は、二十歳のとき父を捜して来樽、明治4年高島郡手宮村に居を構えた。鰊で賑わう漁村で行商(ミソ、醤油、わらじ等)をした後、明治6年手宮村に「梅屋」という雑貨店を開業。ここでは小間物からシャツ、足袋、股引、帽子、さらに食料品や日用雑貨に至るまで、ありとあらゆる品物を揃えていたという。明治12年当時の記録によると、梅屋商店の他に、堺町に岡田呉服店、入船町に山三ツ星呉服店、榎呉服店、高頭小間物店等があった。
 梅屋商店はその後明治39年に色内に移転、その名を「アリババコレクション」に変え、現在もその木骨石造り3階建ての店舗建築を残している。

(写真2)現在も残る木骨石造り3階建ての店舗建築
まるで倉庫のような石造りの店舗は、当時の大火に備えられたもの。梅屋商店のある色内大通りには他にもいくつかの店舗建築が残っており、観光地としても賑わいを見せている場所である。

和裁を必修科目とした量徳小学校

 先程、小樽は繊維産業の風土に恵まれなかったと述べたが、だからと言って生産の技術がなかったわけではない。漁師である夫の防寒着や魚網を繕う鰊場の女たちの縫製技術、開拓移民団の鵙目塾4)などをルーツとして、南小樽駅前にある小樽市立量徳小学校においては、女子必修科目に和裁を採用。今でこそ衰退してしまったものの、小樽における縫製・染色技術は永くその栄誉を伝統とし、繊維問屋の発展にも貢献した。

(写真3)小樽市立量徳小学校

(写真4)量徳小学校の外観

(3)南樽繊維問屋街

入船町と住吉町にまたがる大問屋街

 小樽における繊維問屋業の盛栄を最もよく表しているのが、南樽繊維問屋街である。入船町と住吉町にまたがる大きな繊維問屋街で、南小樽駅の北西区域一体を占め道内一の規模を誇った。かつてそこには50以上の繊維問屋があり、小樽が商業の中心地であることを存分に示す場所であった。

(図1)JR南小樽駅周辺の地図

(図2)南樽繊維問屋街のあった範囲を示す地図
(北海道繊維小売新聞より)

(写真5)現在のJR南小樽

商品の仕入先はさまざま

 繊維問屋の商品の仕入先は、東京、岐阜、岡山、京都、博多、米沢、十日町、丹後など実にさまざま。呉服店ならば京都、洋物店ならば岐阜の問屋からさらに買い付けるなど、扱う商品によっても仕入先はそれぞれに異なった。

売店の買い付け客で賑わう南小樽

 南樽繊維問屋街のお客は、もっぱら小売店として買い付けにくる人々である。また、かつては南小樽駅が現在よりも少し北方にあり、問屋街により近い場所にあった。このこともあり、仕入れに非常に便利な立地の問屋街は連日満員、通りは小売店の買い付け客で賑わった。そのため、問屋街の周りには、問屋が得意先を接待するための料亭やキャバレーも数多く存在し、繁華街も栄えていたのだという。

(写真6)かつて南小樽駅があったとされる場所

(写真7)線路が通っていた所は広い道となっている

戦前戦後 道内のシェア90%に

 南樽繊維問屋街が最も大きな勢力として存在したのは、大正〜昭和戦後あたり。第一次世界大戦の頃は、日本全体が未曾有の好景気に包まれた。ヨーロッパの穀倉地帯が戦場となったことから、繊維のみならず雑穀、澱粉などの輸出が急増し、価格も暴騰。特に北海道は、過去に例を見ないほどの景気の上昇があり、この時期小樽は世界への貿易港として君臨した。
 また、第二次世界大戦の頃になると、シンガー5)やミシンなどが輸入され、軍服の染織・縫製をも担い、南方をはじめ戦地に供給するようになる。こういった、生産を伴う問屋事業の積み重ねを経て、南樽繊維問屋街は、朝鮮戦争特需以後全道シェア90%へと成長し、全盛を極めた。

繊維製品卸商同業会

 戦後、一般庶民の衣料生活は戦時中以上に窮乏を極める。敗戦のどん底から抜け出そうと、小樽の繊維業界は手を取り合って立ち上がった。43社が協力し合い特売会を実施、庶民の衣料生活を活気づけようとしたのである。また、ちょうどこの頃から繊維製品の統制が解除され、「今後は横の連絡がますます重要であり、また本道は繊維製品の大需要地であるに拘わらず、生産地から遠く離れているので、常に中央の情報をキャッチする必要がある6)」として、繊維製品卸商同業会を結成、団結を強めていった。


第2章 南樽の転落と苦難

(1)南樽繊維問屋街の衰退

スーパーや百貨店の進出

 しかし、そんな南樽繊維問屋街の盛栄も永くは続かない。戦後の復興とともに急速な近代化が進む中、道内にもスーパーや百貨店などが続々と進出、問屋の需要はどんどん低下していってしまう。小売店の時代が始まりつつあった。

新しい経済都市札幌へ 問屋の大量移転

 南樽繊維問屋街の衰退が進む裏で力をあげてきたのが、札幌市である。近隣町村との度重なる合併・編入によって、着実に市域と人口を拡大してきた札幌市は、落ち目にあった小樽に取って代わり、やがて新たな経済の中心地として発展していくこととなった。
 それに伴い、南樽に居を据えていた繊維問屋たちはこぞって札幌へ移転。新たな需要を求めて、大量の繊維問屋たちが小樽を離れていってしまった。そのうちの一つ、呉服を扱う株式会社和光の田中傳右衛門氏も「人材も情報も集めやすく、経営資源が充実。何よりも、お客様の集まりがとてもよくなった。」と話している。

大手に飲み込まれる中小問屋

 札幌への移転に伴い、多くの繊維問屋が大手のスーパーや百貨店に飲み込まれていった。小樽の繊維問屋はもともと小さい規模のものばかり。それゆえ景気に左右されやすく、安定した経営基盤を持っている所は少ない。時代について行くため、生き残っていくためには、より大きな勢力に身を委ねるしか方法がなかったのかもしれない。

(2)抜け殻と化した南樽

小樽の人口激減 衰退へ

 札幌に大量の人やモノが流れていった結果、小樽の人口は20万人から13万人にまで減少した。かつての活気はなくなり、商業の中心地として栄えた頃の面影はずいぶんと薄れてしまっているようだ。現在は観光地として賑わいを見せる小樽のまちも、中心部を少し離れると、そんな哀愁漂う風景に出逢える。

現在の問屋街

 かつて経済的象徴であった南樽繊維問屋街もまた、当時の建物は残したまま、ずいぶんと廃れてしまった。人通りもほとんどなく、当時の名残であろう貸衣装屋や呉服屋の看板がちらほら点在するばかり。しかもそのほとんどが、どうやら現在は使われていない様子。やはり、文字通り抜け殻と化してしまったようだ。いつかの賑わいが嘘のようである。

(写真8)かつて南樽繊維問屋街のあった通り 縫製工場が今も残る

(写真9)空き家と見られる建物が続く

(写真10)貸衣装や呉服卸の看板

(写真11)ずいぶん年季の入った建物

(写真12)事務所や車がぽつぽつとあるばかりで、人通りはほとんどない

(写真13) 坂を上ると南小樽駅がある

(写真14)坂の上から見下ろした風景

(写真15)少し路地に入れば、より閑散とした通りに

繊維問屋街の生き残り ―丸龍・丸久星・ハイダ―

 そんな閑散とした通りで、今も営業を続ける繊維問屋があった。それが、株式会社丸龍・丸久星商事株式会社・ハイダ商事株式会社。南樽繊維問屋街の生き残りとも言える3社である。

(写真16)株式会社丸龍

(写真17)丸久星商事株式会社

(写真18)ハイダ商事株式会社
 「現状は非常に厳しい」。繊維問屋の継承者たちは口を揃えて言う。繊維業界自体が傾きつつある今、札幌に後れを取る小樽の問屋への風当たりは特に強いようだ。それでも何故小樽に残るのか、私の問いに対する答えは、「小樽が好きだから」という至ってシンプルなものだった。彼らは、小樽という土地を心から愛し、代々継承してきた繊維問屋という商いの伝統を静かに守り続けている…問屋商人たちの素顔に出逢い、そんな強い意志を感じることができた。かつての人だかりはなくなってしまったが、南樽繊維問屋街の遺志は確かに受け継がれていた。
 では、札幌に移転した繊維問屋たちは、現在どうなっているのだろうか。第3章では、問屋商人たちの足跡と、札幌での現状について述べたい。


第3章 札幌と小樽

(1)小さな小樽 札幌

桑園というまち 小樽出身繊維問屋の密集地域

 JR札幌駅の一つ西隣、桑園という駅がある。札幌市のほぼ中心部に位置しており、北部に札幌競馬場、南部には知事公館や道立近代美術館などがある。近隣には北海道大学もあり、現在も発展が続いている。

(図3)JR桑園駅周辺の地図

(写真19)JR桑園駅

 40〜50年前、そんな桑園地区に小樽の繊維問屋たちは大移動してきたのである。もともと、繊維商社などの企業が密集していた地域。その上に小樽出身の繊維問屋たちが集団移住したことによって、桑園地区はさらに繊維の色濃いまちとなった。

(写真20)桑園地区の繊維企業

(写真21)スーツやネクタイなどの店も多い

桑園から札幌繊維卸しセンターへ

 桑園にあった繊維問屋たちがやがて20〜30社集まり、団結のためにまた新たな商業団地をつくる。それが札幌繊維卸しセンターである桑園から今度は札幌駅前へ、またもや繊維問屋の大移動は起こるのである。

(写真22)繊維以外の卸もある区画

(写真23)大手企業の看板も並ぶ

(写真24)札幌繊維卸センター

(写真25)札幌繊維卸センター案内図

(写真26)ユニフォームの卸し店

(写真27)こちらにも大手の看板がちらほら

(写真28)あらゆる方向に看板が

(写真29)外から見た札幌繊維卸センター

札幌繊維卸しセンター

 昭和40年、25社の繊維問屋でもって札幌駅東に札幌繊維卸しセンターが完成。全国でも初めての店舗集団化事業であったという。「ガイドブック 楽しい職場 札幌繊維卸しセンター」によると、「たまたま札幌市内の繊維卸業の有志が集い交通量の増大に伴う駐車難、それにもまして流通経済の激動は、中小企業個々の力では到底防ぎ切れるものではなく、企業の協同化によって合理化を図るべく、国・北海道、札幌市の強力なバックアップにより全国で初めての商業団地が昭和40年8月完成25社が入店しました」とある。

(図4)札幌繊維卸センター周辺の地図

札幌は小さな小樽である?!

 以上をまとめると、自ずと繊維問屋たちの大きな動きが見えてくる。小樽から桑園へ、桑園から札幌繊維卸しセンターへという流れで、まるで民族大移動のように、彼らは各地を転々としていったのだ。そう考えると、札幌というまちは、小さな小樽、つまり小樽の問屋商人たちのコロニーであると言えるのかもしれない。

札幌繊維製品卸同業会

 札幌繊維卸しセンターと肩を並べて、札幌繊維製品卸同業会という団体も存在する。これは、主に桑園地区の繊維卸商社などを束ねたもので、同じく桑園地区にある丸金浅野商事株式会社の代表取締役、浅野正俊氏が同業会会長を務める。

(写真30)丸金浅野商事株式会社

(写真31)丸金浅野商事株式会社の中

(写真32)所狭しと並ぶ洋服の数々

 札幌繊維製品卸同業会の事務所の程近くには、株式会社北海道繊維小売新聞社もある。北海道の繊維業界の話題やコラム、イベント情報などを綴った北海道繊維小売新聞を発行している新聞社だ。北海道繊維小売新聞は毎月5・15・25日に発行され、小売業に止まらず卸業のことも多く取り上げられている。

(写真33)北海道繊維小売新聞社

(写真34)北海道繊維小売新聞社の外観
 同業会本部もあれば、新聞社もあり…。桑園地区は、いわば札幌の繊維担当部署のような地域なのである。

(2)札幌における繊維問屋の現状

数少なくなった地元企業

 札幌に大量移転し、一時の盛栄を取り戻したにも拘わらず、またしても繊維業界は暗礁に乗り上げてしまう。札幌繊維卸しセンター内に移転してきた中小繊維問屋たちもほとんど全て潰れてしまい、大半がトンボ学生服やアカチャンホンポなど全国的大手企業の支部ばかりで埋め尽くされてしまった。在庫を各自で持つ地元の企業は、現在はたったの3社しかない。営業開始以来卸しセンター内に増えつつあった小売店舗も全て、百貨店にのまれていってしまった。

消えつつある小樽の面影

この流れに巻き込まれた小樽出身の企業はとうとう卸しセンターから姿を消し、札幌から小樽の面影は少しずつ消えていく。同業会においても、かつては小樽出身の繊維問屋も多く参画していたが、呉服を扱う株式会社和光を始めとして、今では3社ほどになってしまった。小樽コロニー崩壊の日も遠くはないのかもしれない。

問屋文化の衰退

 繊維業界に大きなダメージを与えた大きな要因の一つは、やはり大手小売店の急成長である。より利益を上げるため、手間とコストを削減するために、まず排除されたのが卸しという工程である。その結果、問屋を経由することなく製造から直接小売店へとモノが流れていく仕組みが出来上がってしまった。効率よくかつ安く製品を提供することができるため、小売店にとっても消費者にとっても好都合だった。
 こうした問屋文化の衰退によって、問屋商人たちはまたしても窮地に立たされてしまう。

繊維業界の苦難と奮闘

 繊維業界は、最も景気に左右されやすく、浮き沈みの激しいもの。中でも中小問屋たちは、何度も時代の荒波にのまれてきた。しかしその度に立ち上がってきたのも事実。数度目の挫折を乗り越えようと、今また奮闘している。


まとめ ―小樽繊維問屋のこれから―

小樽繊維製品卸商同業会 解散へ

 平成21年3月、小樽繊維製品卸商同業会は解散し、60年の歴史に幕を下ろす。かつては商都小樽を象徴する団体であったが、規模も縮小し活動拠点も解体。同業会そのものも姿を消してしまった。最終的には加盟7社にまで縮小していたようで、これ以上の事業継続は困難と判断され、同年1月の総会で解散が決定された。

大手には任せきれない産業

 小樽の繊維問屋たちは、これから一体どこへ向かうのか。そんな問いを田中傳右衛門氏に投げかけると、「繊維は、大手には任せきれない産業だ」という力強い答えが返ってきた。確かに、札幌や小樽における卸し業界の中で繊維は最も大きな勢力であり、中小問屋の支えがなければ崩れてしまう。量販店には成せない業を、彼らが担っているのだ。繊維問屋はまだやれる、そう思えた。

“地域問屋”としての再起図る

 問屋商人たちも、新しい試みをしている。方向性としては、「小樽問屋は地域問屋に徹すること、札幌との補完関係強化を図ること、創業精神に立ち返り、変化にはバイタリティで挑戦する7)」などを掲げ、具体化してきた。パッチワークや刺し子、ゆかたなどの展示及び販売を行う「なんたるこっちゃ市8)」がその一例で、単なるお祭りとしてではなく、地域の伝統文化の紹介をするイベントとしての位置づけを目指した結果、来場者も1万5000人を数えるほどになった。こういった地域密着型の繊維問屋として盛んにイベントなどを行っていけば、南樽の振興は十分に期待できるだろう。

(写真35)「なんたるこっちゃ市」の開かれた小樽商工会館の跡地

(写真36)同じく商工会館跡地を反対側から

小樽繊維問屋の野望

「小樽なしで繊維業界は語れない」。株式会社タナカの田中敏治氏は言う。“問屋無用論”や大手量販店の台頭、インドや中国の介入など、繊維業界を取り巻く環境は日々移り変わり、より厳しくなっているが、だからこそ繊維問屋にしか担うことのできない役割があるはず。伝統にあぐらをかくことなく常に時代の流れを見極めていけば、必ず生き残る道はある。歴史の記憶となりつつある繊維問屋街を復活させ、是非とも小樽のまちを活気づけていってほしいものである。


1)現在の、神戸大学
2)現在の、一橋大学
3)その後、大正3年稲穂に運動具店を開業し、販路を北海道一円や樺太にも伸ばす。手宮郵便局長、小樽小間物商組合長を勤める。
4)当時の和裁学校のこと。
5)足踏みミシンのこと。
6)小樽繊維製品卸商同業会創立50周年記念誌
「小樽繊維業界 100年のあゆみ」より
7)北海道繊維小売新聞 第2025号 記事より
8)当時は南樽にあった商工会館で行われていたが、商工会館がなくなってしまったため、現在は行われていない。


なお、本稿を書くに当たっては、小樽市及び札幌市の皆様から多くの示唆を得た。感謝の意を表する。

文献一覧

小樽繊維製品卸商同業会
1965 「『小樽の繊維』 小樽繊維製品卸商同業会結成満15周年記念誌」
2000 「『小樽繊維業界 100年のあゆみ』
小樽繊維製品卸商同業会創立50周年記念誌」

株式会社 和光繊維
1980 「三十年のあゆみ」

協同組合札 幌繊維卸センター
     「1965/8 SENI CENTER GUIDE」
「ガイドブック 楽しい職場 札幌繊維卸センター
1968 「第2次竣工記念」
1980 「十五年史 回顧と展望」

北海道繊維小売新聞社
     北海道繊維小売新聞

参考URL

http://www.city.otaru.hokkaido.jp/
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E6%A8%BD%E5%B8%82
http://www.otarucci.jp/kiseki/kiseki-11a.html
http://www.otaru-kyouikuryokou.com/gakusyu-plan4.htm
http://otaru-journal.com/prologue/tatemono/page04.htm
http://www.mics.co.jp/grp/shokunin/otaru/03alacal.html
http://www.city.sapporo.jp/city/
http://otaru-journal.com/
http://www.sooen.com/
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A1%91%E5%9C%92%E9%A7%85
http://www.hana-wakou.co.jp/index.asp

ゴムと小樽

吉村 歩


第1章 小樽とゴム工業

(1) 繊維問屋からゴム工業へ

 小樽のゴム工業の起こりは、富山の繊維問屋である戸井物産の小樽支店長だった中村利三郎が当時の日本ではまだ珍しく、高価だったゴムに目を付けたところから始まるとされている。現在の小樽市役所通りで、手回しロールを使って練ったゴムでゴム靴の修繕をしている人がいることを中村が聞きつけ、興味を持ったことをきっかけに、当時はまだ高価な輸入品だったゴムを安価に修繕、販売することを思いついたのだった。
 こうして中村は、当時は上流階級のみが履いていた舶来のゴム靴を自国で生産するため、大正6年6月に竹村清右衛門、菱藤吉等9名で、現在の株式会社ミツウマの前身である「北海道護謨工業合資会社」を設立した。大正8年には、入舟町に工場を設立、翌9年にはゴム靴の生産、修繕を開始した。
ところで、繊維とゴムとの関係は、1つには繊維問屋の扱っていた地下足袋の底にゴムの滑り止めを付けるという発想にある。中村利三郎等の北海道護謨工業合資会社が設立されたのと同じころ、伊藤弥一郎のいとや商事がゴム工場を建て、ゴムを縫い付けた地下足袋を生産していた。いとや商事は既製作業服の製造販売が本業の繊維問屋だったが、後の第一ゴム株式会社の社長大塚信之の父を専務格、東京からの技術者で「東京屋」と呼ばれていた人物を常務格にゴムの製造を行っていた。ただし、このゴム工場は技術者不足や製造過程での失敗が相次ぎ、2年程で閉鎖されている。

(2)小樽という立地

 では、なぜ北海道のゴム工業の発展が小樽でおこったのだろうか。
 第一の要因として、ゴムの原材料である生ゴムは外国からの輸入に頼っているため、港のある小樽がその入手に適していたのである。
第二の要因は、冬の厳しい寒さの北海道の中にあって安定した需要が確保できることに加え、聞き取り調査からは、四季の変化が非常に美しいことも多くの工場が進出しやすかった理由の一つではないかという意見も得られた。
第三の要因として、昔から盛んだったニシン漁の漁師や関係者からの安定した需要があったことが挙げられる。現在でも、地元の漁師の人々の、ミツウマや第一ゴムなど地元ブランドのゴム靴を使用しているそうである。
以上の点から、中村利三郎が目を付けたゴム靴は小樽の地で飛躍的に発展していくこととなるのである。とうぜん、ゴム会社を設立するにあたっては、中村は以上のような要因を公算に入れていたと考えられる。

 (3)奥沢に集まっていたゴム工場
 
現在小樽にあるゴム会社のうち、株式会社ミツウマと第一ゴム株式会社がある奥沢町には、昔は数多くのゴム工場が建っていた。昭和29年の記録によると、三興ゴム、北辰ゴム、日成ゴム、北海ゴムなど、小樽にあるゴム会社の多くが奥沢町に集まり、3000人近い従業員が働いていた。もともと、入船町に工場を持っていたミツウマも、第一産業ゴムとの合併などを経て、奥沢町に移転している。
では、多くのゴム工場が奥沢に集まっていたことにはどのような理由があるのだろうか。
小樽の中心を流れる勝納川の上流
にあたる奥沢は、大正時代に水源地
が整備され、現在でも上質の水を供給しとして酒や菓子造りに利用さている、水の豊富な土地である。聞き取り調査では、当時のこの川の水とゴム工業との直接の繋がりをはっきりと探ることは出来なかったが、現在でも工場の機械の冷却には井戸水が使用されており、多くの水が必要な点でこの奥沢が適した場所だったのではないだろうか。また、電気を使った機械が普及する前は、水車を使って大型のローラーをまわしていたらしく、この水にも奥沢水源地から流れる勝納川の水が利用されていたのだろう。
さらに、もうひとつの奥沢の地理的な特徴は、坂の多い小樽の中心では珍しく平らな土地が広がっており
、工場の大型化に伴う敷地の確保がしやすかったという点が挙げられる。こうして、ゴムだけでなく、いろいろな産業の工場が立ち並ぶ奥沢には、かつては工場で働く多くの労働者のための飲み屋が数多く存在していたそうだ。しかし現在では、ゴム工場は2つのみとなってしまい、かつてのような賑やかな様子を伺うことはできない。

(4)ゴム工業の発展
 
  中村利三郎によって、本格的にゴム長靴の製造がはじめられて以来、小樽を中心に、北海道各地に少しずつゴム会社が設立されはじめ、大正末から昭和にかけては多くその動きが特に活発であった。ところが、一方でゴム工場の建設には多額の資本金が必要となる上に、多くの会社との競争もあり、経営に失敗する会社も多く存在した。そこで、当時のゴム会社は資本家が何人かで資金を出し合って設立する合資会社である場合が多かった。
  昭和初期は北海道のゴム工業が波に乗り始めた時期で、販売網も道内だけにとどまらず、本州にまで広がっている。昭和6年の満州事変に伴う戦争ムードの高まりが、ゴム工業の好況を後押した。 
しかし、徐々に強まる戦争色の強まりと共に、昭和13年、ゴム工業は全面的に配給統制化に置かれることとなる。これに伴って、ゴム会社の統合も行われる事になり、北海道に29あった工場は、統制後、8工場にまで減らされることとなった。小樽では、14の工場が統制によって、4工場(三馬ゴム、日東ゴム、三和ゴム、日成ゴム)に減っている。原料であるの生ゴムも配給によって制限されていたため、この頃の主な生産品は、軍用靴や合羽など戦争関連のものが多かった。戦後になって、統制の元で物資がヤミで取引される、いわゆる「ヤミ時代」が来ると、本州に比べ戦争による被害が少なかった北海道では、統制によって温存していた工場を稼動させ、ヤミルートで手に入れた原料を元に生産を開始した。昭和25年に、ゴムの統制が解除され、自由経済の時代がやってくると、北海道のゴムは好況に乗り、生産数をますます上昇させていった。
  この後、昭和26年には朝鮮戦争の影響によって、生ゴムの大暴落が起こり、一時は苦境に立たされるが、同28年には本州各地の水害被災地の復旧工事の需要が伸び、生ゴムも価格安もあったため、統制撤廃後、生ゴム消費量、ゴム製品生産高は最高を記録する。こうして、小樽と北海道のゴム工業は黄金期をむかえるのである。尚、同30年の北海道の総ゴム靴生産高は、約643万足で、この半数の320万足が小樽で生産されていた。この生産高は、全国でも兵庫県に次ぐものだった。

第2章 小樽のゴム三会社

(1)ミツウマ
 
 現株式会社ミツウマ
の創業は、第一章でも述べたとおり、元々富山県の繊維問屋の社員だった中村利三郎が小樽でゴム靴の修繕、製造に目をつけ、同志を募って大正八年、入舟町に「北海護謨合資会社」を設立したことに始まる。同時にこれは、北海道のゴム工業が始まりを迎えた瞬間であった。
 昭和5年に社名を「三馬護謨工業合資会社」に改めたミツウマだったが、その名前とマークの由来は中国の古事にならった「龍馬」、「神馬」、「駿馬」の三つを並べたものだった
。なお、このデザインは大正10年に生まれている。昭和39年に、「三馬ゴム株式会社」となり、年間売り上げ31億円の小樽を代表する大企業へと成長。全国ゴム工業の3位にランクインされるに至った。
 ゴム工業が飛躍を始めた、大正末期から、昭和初期にかけて、北海道のゴム工業の技術を支えたのはこのミツウマであったといえる。というのは、新工場が続々と誕生していたこの時期、多くの創業者や、新興企業への技術提供者はミツウマで技術を磨いていたからである。しかし、そのことに加えて、他社からのミツウマの熟練工の引き抜き策もあり、ミツウマは技術者不足に悩まされることとなる。そこで、当時の中村社長は、従兄弟にあたる、西井康裕に神戸で技術を習得させたうえで、技術者、経営者として工場の生産、資材、設備などを担当させた。やがて、この西井の貢献もあって業績を伸ばしたミツウマは、西井氏を責任者とし、本州への進出を目指し、東北に新工場を設立する。こうして、内地への進出を果たしたわけであったが、西井は中村社長との衝突によってミツウマを退社し、独自で新たに工場を新設、これが後の弘進ゴムとなった。結果的に、ミツウマはライバル会社を増やしてしまったのだ。ライバルといえば、後に白熊ゴムや「三つ虎」がシンボルの会社も登場し、動物を冠した名前でミツウマに対抗する企業もあった。
 この、ミツウマの仙台工場には、吉村伝次郎が入社している。彼は、その後小樽に帰って第一産業専務となり、ミツウマと三和ゴム(第一産業と他5社の企業統合によって昭和13年に誕生)の合併、さらに北斗ゴム(軍需省の要請により、ミツウマと横浜護謨との共同出資で昭和19年に誕生)との合併を経て、昭和24年吉村がミツウマの社長となる。この吉村のもと、ミツウマの生産は黄金期を向かえるのである。一方、吉村は企業スポーツを奨励し、特にスキーでは多くの選手を輩出し、小樽や北海道だけでなく全国の注目を集め、ミツウマは実業スポーツ界の名門と言われた。
 その後、昭和の様々な局面を経て、ミツウマは昭和57年に事実上倒産、昭和60年に会社更生案が認可され再建へと進み、現在に至る。
 
 現在のミツウマでは、ゴム靴の生産に加え、港湾や踏み切り、道路など工業用ゴム製品の生産も多くおこなっている。港の縁にカバーとして用いられるゴムや、梯子に加工されたゴムなどミツウマの工場ではゴムの幅広い用途がその場で感じることが出来た

。また、ゴム靴では一般的なゴム長靴に加え、特殊作業専用のクリーンブーツなどの製造も行っている。
 従業員の様子を見てみると、かつては、何列にも並んで作業をしていたという女性の従業員も、現在は少なくなっていた。しかし、長靴の製造工程では、繊細な作業だけでなく力と技術がいる作業をこなし、男性従業員と共に力強い姿が印象的だった

 ミツウマでは、一部のゴム靴の靴底生産を神戸の業者に頼んでおり、日本の2つのゴムのメッカの繋がりも感じられた。
 今後は、エコ商品の販売に加え、LEDや消毒液など新しい分野への進出を目指し、更なる発展に向けて進み続けているようだ。

(2)第一ゴム
 
 現第一ゴム株式会社
は、昭和10年にミツウマと合併した国産ゴムの工場を初代社長の浜村由太郎が買い受け、新興工業合資会社を設立したことがその創業である。浜村は、石川県の出身で神戸の三角ゴムで配合の助手としてキャリアをスタートさせた。北海道との繋がりは、大正10年に長靴を売りに来たことが始まりで、昭和5年に東京ゴムに入社したことをきっかけに、本格的に北海道進出を果たした。
 戦後のヤミ時代、浜村はクズゴム利用組合を結成、物資の限られている状況を、クズゴムや再生ゴムを最大限に利用し切り抜けた。また、右足用の靴を左足用に直す技術を活かし、多くの長靴を売ることに成功した。
 浜村の経営理念から、第一ゴムでは開放的な家族主義と言われる経営を続けてきた。従業員のアイディアを積極的に商品開発に活かすことで、独創的な商品作りを成功させ、多くのヒット商品を生んできた。技術面でも、昭和36年に内閣総理大臣賞の受賞したことに加え、日本履物コンクールや、日本ゴム工業展など数多くのコンクールで毎年のように賞を受賞してきた。これは、全国のゴムメーカーの中でも随一の成績である。また、日本のゴムメーカーでは数社しか認定を受けていない日本工業規格「JISマーク」も取得している。
 「ミツウマを横綱に例えるなら、第一ゴムは前頭といったところだった」と聞き取り調査で伺ったように、元々は数ある小樽のゴム会社の中で比較的小さかったこの第一ゴムであるが、このような徹底した品質管理のもと確実な経営を重ね現在の地位を築いてきた。
 第一ゴムの代表的な製品として欠かすことが出来ないのが、「シェブリー」である。もともと、バックスキンを使った製品の開発過程での失敗から誕生したシェブリーは、これまでに無かった質感やデザイン性と、ゴム靴の安全性を併せ持っている。発売以来25年たった今でも、冬の定番として雪国で愛されてきた。
 ミツウマと同じく奥沢にある工場を伺ったところ、ミツウマとは違いゴム靴をほぼ専門に生産している

ことから、その内装も少し異なっていた。また、女性の従業員の人数もミツウマよりも若干多かった。生産品の中には、ゴム靴に加えて、消防や自衛隊用の特殊な長靴の製造過程もあった。こちらでは、ゴム工場とは切り離せない関係の火災の対策として、防火設備もみることが出来た。ホースや、防火水槽など消防所から、定期的なチェックがあるそうだ。
 第一ゴムは、今後とも品質管理に徹底した製品作り、開発に取り組んでいくとともに、一つのものを守り続けていくといった方針を貫くそうだ。それは、主な製品のすべてを小樽の本社工場での製造にこだわり、「地元に根ざした靴作りをしている」という言葉からも伝わってきた。

(3)北斗ゴム製作所
  
 現株式会社北斗ゴム製作所
は、ミツウマや第一ゴムのある小樽中心部の奥沢ではなく、札幌寄りの銭函の工業地帯に位置している。創業は昭和30年で、もともと小樽のゴム工場の工員だった玉置史郎が独立し、桑園に工場を開いたことによる。その後、手稲、稲穂と移転を重ね現在の銭函に移ってきた。この移転は、工場周辺の住宅化など、環境の面で問題が発生したことが原因となった。
 製造品目は、工業用が専門でもともと水道のパッキンを中心としていたが、現在はベルトや橋梁関連製品がメインなっている。第一ゴムとは、カレンダーの工程を依頼しているという繋がりがある。
 工場は、ゴム靴の生産を行っていないこともあり、流れ作業はなく、内装や工程もミツウマや第一ゴムとは大きく違っている印象だった
。従業員は、事務以外では男性がほとんどで、こうした点もゴム靴を生産している工場との違いである。製品は道内を中心に供給しているそうだ。場所は離れていても、ミツウマ、第一ゴム同様に小樽と北海道のゴム工業を支えているのである。
 今後は、オリジナリティのある製品作りを目指していきたいとのことであった。こちらでも、エコ商品に対する関心が伺えた。

第3章 神戸と小樽のゴム工業

 ここからは、神戸と小樽のゴム工業の比較をしていく。
 小樽のゴム工業はすでに述べたとおり、繊維産業からの発展という経緯が見られた。一方、神戸の場合はもともと外国との貿易が盛んな港があったことから、イギリスの企業であるダンロップが1909年に神戸に工場を開くなど、欧米企業の進出により直接ゴム製造の技術がもたらされた。
 さらに、小樽のゴム工業の起源が繊維であるのに対し、神戸の場合はその起源はマッチ工業である。神戸ではもともと盛んだったマッチ工業が、後に斜陽をむかえ、その工場を今度は新たに注目され始めたゴム工業へと転用したのだった。こうした点では、小樽の積極的なゴム工業への進出と神戸のゴム工業の開拓は、少々性格が異なるようだ。
 また、両地域ともゴム工業が徐々に衰退していくわけであるが、神戸はさらにこのゴム製造の技術をケミカルシューズという化学製品へと発展させる。神戸のケミカルシューズは、ゴム工業の衰退に加え、阪神大震災という災害を乗り越えて注目を集め、日本一の生産地となっている。対して小樽は、倒産したゴム会社やその工員のその後が特別な形で表れることはなく、工場が何かに転用されることも少なかったようだ。
 工場の規模で見ると、小樽ではミツウマを始め大規模な工場が多かったのに対し、神戸ではもともとあったマッチ工場の一部を使ってゴムの製造を始めた業者も多く、零細企業が密集している。この影響で、神戸のゴム工場地帯だった場所には、多くの小さな会社が応接室の代わりとして使っていた喫茶店がたくさん存在し、今でも数多く残っている。また、小樽同様、ゴム靴の製造過程の繊細な作業では多くの女性従業員が活躍したため、昼食を外食するが多く、外食産業が栄え、比較的簡単に営業を開始することが出来た「お好み焼き屋」も喫茶店と同じく、非常に栄えていた。小樽では、現在の姿を見る限り、ゴム工業と町づくりとの深い関係性をみることが出来ないが、工場内の特徴をみると、かつては、各ゴム工場内に風呂場があることが多く、これはゴム工場特有のにおいや、粉まみれになって作業をする従業員のための設備で、大規模な工場面積を確保できた小樽のならではといえる。

まとめ
 
 ゴム工業は、小樽の産業界の重要な存在であるとともに、ニシン漁や、スポーツなど幅広い活躍の場があった。しかし、その歴史には、原料を輸入に頼らざるを得ないことから、戦争などの社会情勢に左右され繁栄と同時に合併や倒産を繰り返すという不安定な側面もあった。
そんな時代を切り抜け、現在も残る小樽のゴム会社はまさに小樽のシンボルといえるだろう。確かに、現在のゴム工業にかつてのような繁栄を見ることはできず、工場の従業員もその数が減ってしまったが、在樽ゴム企業で働く人々の姿を実際に見て感じたことは、力強さと輝きだった。三社の聞き取り、工場見学を経て、小樽のゴム工業はまだまだ斜陽というには早いという印象を持ったのも事実である。今後も新たなアイディアと、技術でゴム工業の更なる発展を目指してほしい。

謝辞
この調査をするにあたり、調査方針のアドバイスを下さった小樽市総合博物館の石川先生、聞き取りや工場見学にご協力いただいた、株式会社ミツウマの綱渕さん、第一ゴム株式会社の須藤さん、森さん、株式会社北斗ゴム製作所の宮谷社長、ならびに各工場の従業員の皆様にこの場を借りて心よりお礼を申し上げます。お忙しい時間を縫って、長い時間わたり誠実に対応して頂き、誠にありがとうございました。

文献一覧

日本ゴム工業会編
 1996 『日本ゴム工業史 一巻』 東洋経済新報社
小出武城著
 1955 『ゴム工業』 共立全書。
小樽市立図書館作成
 2009 『北海道のゴム工業 歴史と沿革』 小樽市立図書館。
小樽市水道部編
 1965 『小樽市水道五十年誌』 小樽水道部
小樽市作成
 1994 『小樽市史 第八巻』 小樽市

ガンガン部隊〜流通の先駆者の繁栄から衰退まで〜

ガンガン部隊〜流通の先駆者の繁栄から衰退まで〜

土井麻奈未

はじめに

 終戦後、一億総買い出しの時代に、小樽では大きなブリキ缶に食糧を詰め込み、それらを背負って行商を行う人々の姿が多くみられるようになった。(写真1)食糧不足のこの時代は、小樽だけでなく日本各地でも列車に乗って食糧を売り歩く行商人の姿は見られたようだ。しかし、小樽に限っては、その行商人たちに呼び名がつくようになった。その名も「ガンガン部隊」。地域の人々からは“流通の先駆者”とも呼ばれ、当時の人々の生活を支える大切な存在であった。交通の発達に伴って彼らの姿は次第に消え、今や幻になったといわれている。彼らの繁栄から衰退をたどった、小樽でのフィールドワークをふまえ、本研究の調査結果を報告する。

第1章 缶を背負った行商人

(1)ガンガン部隊とは

 まず、「ガンガン部隊」という名前の由来について述べたい。行商人の総称にしては変わっているこの呼び名。私は初めてこの名前を聞いたとき、軍隊のような、反抗団体のようなイメージを抱いた。知らない人は、名前だけ聞くと、少なからず私と同じような想像をするのではないだろうか。ではどんな由来があるのだろうか。
 この“ガンガン”というのは、北海道の方言で“缶”のことを指す(カンカンがなまったもの、もしくは、叩くとガンガンと音がするからだという二説が有力)。そのガンガンと呼ばれる重いブリキ缶(写真2)を背負って、雨の日も雪の日も毎日毎日たくましく行商に赴く人々のことを、地域の人は敬意もこめて“部隊”と呼んだのであろう。それが根付き、「ガンガン部隊」という呼び名が広がっていったと推測される。
 次に、そのガンガン部隊とは、どういった人々のことを指していたのかを明らかにしたい。資料や聞き取りをまとめると、主に「市場で仕入れた鮮魚や乾物をブリキ缶に入れ、早朝から列車でなどで炭鉱や地方の家々を回る行商人の総称」であることがわかった。当時は訪問販売も広く受け入れられており、今のように冷たい目で見られるようなことはなかったという。
 では、ガンガン部隊が発足し、繁栄した時代とは、いったいどのような時代であったのだろうか。彼らの姿を明らかにしていく上で、その背景も詳しく知る必要がある。

(2)当時の時代背景

 上記でも述べたが、ガンガン部隊が登場し始めたのは終戦後である。この頃は外地からの引揚者や、復員者などの帰国で人口が急増した。そのうえ、戦火による国土の焦土化や、国民の生産意欲の減退で最悪の状態に陥り、生産は著しく落ち込んだ。配給が順調に行われてさえ、量が足りず遅配と欠配が続き、人々が次々と栄養失調になる、という食糧難時代であった。現代は、食べ物であふれ、不自由なく暮らせる。そんな幸せな時代に生まれた私たちには、この時代のことは恥ずかしながらピンとこない。しかし、「ばれいしょやかぼちゃなどは食糧としては上等の部類で、穀物や木の実、山菜などをむさぼり食い、ときにはみみずの入ったでんぷんかすまで食べて、人びとは飢えをしのいだ。(デジタル八雲町史抜粋)」という一文を見たとき、胸がつかえた。私たちの想像を絶するほど辛い時代であったのだ、と嫌でも察しがついた。
 そのような食糧難に加えて、交通も空前の混乱と危機に陥った。復員者や引揚者の輸送、占領軍の優先利用の影響を受け、一般の貨物輸送がまひ状態になったため、農漁村が消費地に食品を送り込む手段までも途絶えてしまった。そんな中でも、生き延びるためには、やはり食べ物を確保せねばならない。この結果、“一億総買い出し”という時代が出現し、行商人が急速に発展した。この頃の行商人は“やみ商人”とも言われていたが、需要と供給を結ぶ隠れた流通機構の担い役でもあり、人々の生活は彼らによって支えられていた。
 このように、日本は当時、全国的にも全土的にも困窮していた状況にあったが、幸い小樽は漁業資源に恵まれていたため、内陸地で売りさばいたり農村に運んだりと、海産物と米などの交換の商いが行われるようになった。この商いの形態から、行商人たちは「かつぎ屋」や「ガンガン部隊」といわれるようになる。

第2章 ガンガン部隊の実像

 前節では、いわゆるガンガン部隊の定義や、彼らが登場に至った時代背景を述べた。以下本節では、もう少し掘り下げて、フィールドワークで得た情報をもとに彼らの実際の姿に迫りたいと思う。

(1)人物像、装いとは

 小樽の三角市場(写真3)中央市場(写真4)の方に、ガンガン部隊に対する聞き取り調査を行ったところ、彼らの人物像が浮かび上がってきた。中でも多かった意見をまとめると、

・70%の方が50〜60歳の女性
・静かそうな人が多かった(だが、なりふり構わぬバイタリティにも満ちていたらしい)
・ガンガンやかごのほかに、軍手、頭巾、長靴、エプロンも欠かせないトレードマーク

といった“女性像”(写真5左下女性。また写真2も参照とする)
が明らかになった。(もちろん男性のガンガン部隊も存在している。)三角市場の鮮魚店の方によれば、ガンガン部隊は、もしガンガン(ブリキ缶)ではなく、かごを背負っていたとしても「ガンガン部隊」であって、行商人の総称をそう呼び、ガンガンを持っている人だけが「ガンガン部隊」なのではないらしい。これは、どこの資料にも載っていなかった事実であるため、新発見であった。
 そして彼らが使用している皆共通のガンガンはどこから仕入れているのか、という疑問も明らかとなった。中央市場の渡部氏(次章で紹介)は、実は、ガンガンは一つ一つ職人が大きさなどを計算して作ったものであり、皆それを使用していた、という。御用かごのように、使用後は一つのガンガンにほかのガンガンも収容でき、荷がコンパクトになる、という作りである。これも新発見である。現代では、食べ終えた後に一段にできる、二段の弁当箱をイメージしていただければわかりやすいであろう。(写真2参照)ただ、空のガンガン1つだけで20kgはあったようなので、中に荷が入れば相当な重さであったことは容易に想像がつく。どおりで、写真に収められているガンガン部隊の方々は大きく前かがみで、腰が曲がっている方が多いわけである。
 ちなみに長靴もみな共通で、小樽で創業以来、ゴム長靴製造の先駆者として発展している「ミツウマ」のゴム長靴をはいていた。現在もなお、「長靴と言ったらミツウマでしょう。」というほど地域の人々から愛されている。
 また、聞き取りの際に「ガンガン部隊には休みなどない」という話を伺った。大雨であっても、吹雪いていても、「待っているお客さんがいるから」と毎日行商を行っていたらしい。当時は傘などもまだ普及していなかったため、カッパのみで大荒れの天気の中、重い荷物を背負って働いていた。しかもその7割が女性。そこまでしなければ生計を立てられなかった、という時代背景もあるが、子どものために、と働く“母のたくましさ”というものを垣間見た気がした。


(2)ガンガンのなか

 上記から、ひとことに「ガンガン、ガンガン」と述べてきたが、その中身は一体どのようなものが入っていたのであろうか。このガンガンの中身についての詳しい資料はほとんどなく、あいまいにされている。ほぼ聞き取りのみの調査結果ではあるが、運んでいたものは、主に“鮮魚、乾物、かまぼこ”などで、“あげ、豆腐、あめ、菓子、日用品”も多かった。その他にも、ラーメンや野菜もあった、という声も聞いた。三角市場の駄菓子店の方によると、あめは缶単位で注文を受け、時には食パン10斤(こちらの駄菓子店は、当時パン屋さんとも提携していたらしい)という注文もあったそうだ。日用品では、顧客から、調味料や衣服まで頼まれることもあったようで、ガンガン部隊は便利屋さんのような一面も持ち合わせていたようだ。
 そして、商品を入れたガンガンの中だが、これは本人たちが商売しやすいように入れられていたため、聞いた話もバラバラであった。当時はまだポリ袋などはない時代だったため、袋は新聞紙で手作りだったようだ。一つ一つ丁寧に包んでいる人もいれば、魚と氷が満々に入れる人がいたり、物によって区切って入れ常に整理している人もいたらしい。
彼らはこのようなガンガンを2つも3つも背負い、両手にはかごや風呂敷を持てるだけ持って食糧を運んだのであった。

第3章 部隊の足跡

 さて、前章までで、ガンガン部隊の「像」について主に述べてきたが、本章では彼らの繁栄につながった足跡や販売の様子などを明らかにしたいと思う。
 ガンガン部隊の最盛期は昭和20年末から、昭和30年にかけてである。当時の様子を伺うと、「朝5時のピーク時間は、市場の中の道は歩けないほど、ガンガン部隊の人でいっぱいだった。店の人たちはトイレに行くのも、わざわざ外に回らないと行けないほどだったよ。」と、中央市場「渡部鮮魚店」店主の渡部哲衛氏が懐かしそうに答えてくれた。

(1)手宮線の存在

 ガンガン部隊と、この手宮線は切っても切れないほどのつながり。
手宮線とは、北海道最古の線路で、日本でも3番目に古い線路である。北海道小樽市南小樽駅〜手宮駅>を結ぶ、日本国有鉄道が運営する鉄道路線のことで、旅客輸送の廃止後も、石炭や海産物の貨物輸送で賑わいを見せたが、エネルギー産業の転換や輸送手段の変化により完全に廃線になる。今でも線路跡は残っており、一部は散策路として整備され、ファンが訪れたりしている。(写真6)
 
 ガンガン部隊は当時この手宮線を特に利用していた。この線の存在が、彼らの販路をさらに拡大させたため、当時の車両内は毎日行商人でごった返していた。しかし、旅客輸送を行っていた頃は、彼らの荷物の大きさや悪臭、汚れなどで、一般客との摩擦も絶えなかったようだ。この背景から、国鉄は「行商客指定車」という部隊専用の車両を設置し、事態の収拾を図った。国の経済情勢も安定に向かい、行商人と地方小売業者との結びつきは根強いものとなったのである。その結果、顧客先も固定化し、部隊の繁栄はピークになった。

(2)行動範囲

 ガンガン部隊における聞き取り調査でよく耳にしたのは、小樽はもちろん、札幌、余市、岩内、倶知安といった地名であった。しかし調査を進めていくと、夕張や富良野といった遠方にまで足を運んでいた人もいたことが判明。資料や聞き取りで分かった地名をチェックし、実際に地図に落とし込んでみると、行動範囲がほぼ一定の区間内であったことが明らかとなった。(写真7)
 地図を見て納得したことが、だいたいどこへ行っても、その日のうちに必ず帰ってこれる距離であることだ。毎日行商に出かけるのだから、当たり前のことだが、実際に目で見てみると実にわかりやすい。行動範囲が載っている資料等は見つけられなかったため、より興味深い調査となった。まだ掘り下げてみると新たにおもしろいことが発見できそうなため、機会があれば取り組みたい。

(3)販売の様子

 では、行商先の彼らの販売の様子は、どういったものであったのだろうか。調査によれば、主に訪問販売で、一軒一軒顧客である家を回っては、「今日は○○はどうだい。脂っこいから湯煮がいいよ。」などと、その日のお勧めの魚や、調理法を教えたりしていたようだ。顧客先は重ならなかったのか、と聞き回ったところ、どうやら彼らはしっかり情報共有をしていたらしく、重なることはなかったらしい。携帯やパソコンも何もない時代に、そこまでしっかりと情報を共有できていたことに彼らのコミュニティの強さを感じた。上記にも触れたが、彼らは販売する際に、各家庭の要望に応え、その都度魚をさばいたり、レシピを教えていたらしい。魚のおいしい食べ方や漬物のコツまでも教えるなど、地域に密着して食文化の継承も担っていたようだ。対面販売などほとんど見られない現在、そんな伝統的な食文化の継承は今も行われているのだろうか、と少し心配になった。

(4)地元民の回想の声
 
 こちらから話を一方的に聞く調査だけでなく、地元の方から見たガンガン部隊への意見も伺った。彼らの存在を回想していただき、お話していただいた。

「ガンガン部隊がいた頃は、市場の商店はすごく繁盛していたから、小売をしなくてもやりくりできたんだよ。今の小樽の商店に、少し小売が苦手な気質が見受けられるのは、その影響があるかもしれないね。」中央市場(男性)

「あの時代はいいことばっかりでもなかったんだよ。商売していたら、毎日来る行商の人と顔なじみになる。そうすると、よしみで『つけといて〜』なんか、日常茶飯事だったね。もちろん払ってくれる人もいたけど、踏み倒す人や、請求した次の日から来なくなった人もたくさんいたよ。正直こっちもたまったもんじゃなかったよ。」三角市場(女性)

このような話は、本当に地元の方でしかわからない話であるため、本当に興味深い。貴重な声を聞けたことに感謝したい。

第4章 衰退から今日へ

 勢力をつけてどんどんと拡大していったガンガン部隊も、時代の流れとともに、次第に衰退していく。昭和40年代に入るとスーパーマーケットができ始め、行商人たちの販路は狭まり、部隊の姿も少しずつ減り始める。この頃から交通の便は整い出したが、まだ部隊の需要はあった。昭和50年頃まではガンガンを背負う人は希少ながらも見られたが、交通の発達や整備に伴って、昭和55年には、その姿は全く見られなくなった。その結果、ガンガン部隊は完全に幻になったのである。
 しかし、現地での調査中にまたもや新事実が明らかとなったのである。これは、小樽市漁業協同組合、手宮・高島地区区長、指導漁業士の成田正夫さんから伺った話である。その新事実というのも、誰もが「現存するガンガン部隊はいない」と話していたが、なんと高島地区にたった一人生き残りがいた(吉田月江さん)、ということである。しかも、彼女は今も“かごを背負って訪問販売を行う”という従来の形のまま行商をしているという。ちょうど成田さんからこのお話を伺った日も、吉田さんは働いていたそうで、「あのばぁさんなら、今日も元気に朝市で魚仕入れて行商に行ったわ。」と笑いながら話してくれた。
 そして、成田さんに連れて行っていただいた鱗友市場の朝市にて、さらに興味深い事実が発覚した。なんと、「各地方には足を延ばさないものの、小樽〜札幌間では、かつてから続いていた行商のルートで、鮮魚や日用品の販売を行う人“現代版ガンガン部隊”がいる」らしいのである。しかし、食の安全が問われる今、保健所などのチェックがとても厳しい。したがって、彼らの大半は“潜り”で商売を行っている、というのが、実態であった。(鱗友市場の朝市でお会いした板前さんより)この事実には驚きを隠せなかった。幻になったといわれていたガンガン部隊は、形を変えながらも実在していたのである。

最後に

 流通の先駆者として終戦後から人々の生活を支え続けたガンガン部隊。エネルギー産業の転換や、交通の発達、スーパーの登場によって、たちまち時の人となり姿を消した彼らだが、現地調査の結果、部隊の生き残りは1名存在し、まだ都心では形を変えてこっそりと行商を行っていることが判明した。
このように、時代に合わせて形を変えながら「現代版ガンガン部隊」として今日も誰かの生活を支えながらひそかに」活躍している、という事実が、本調査にて明らかになった次第である。

 なお、本研究において実施したフィールドワークについて概要を説明しておく。本研究における現地調査は、2009年09月14日から18日に実施した。調査は、主として聞き取り調査であり、市場関係者を中心に話を伺った。

謝辞
本稿の調査にあたっては、小樽市漁業協同組合手島・高島地区区長の成田正夫氏、小樽中央市場協同組合総務の佃多哉志氏、小樽中央市鮮魚店店主の渡部哲衛氏、小樽妙見市場商業協同組合事務長の保坂道彦氏、小樽市総合博物館の石川直章先生、その他、市場で働く方々や市民の方々にご協力いただきました。初対面にもかかわらず温かく迎えていただき、たくさんのご意見をいただいたこと、心から感謝申し上げます。ありがとうございました。


参考文献
・「おたる案内人」小樽観光大学校 小樽観光大学校運営委員会編(2006)
・「わが市場の道のりと将来」小樽中央市場共同組合(いただいた資料)
・「三角市場」小樽駅前市場共同組合(いただいた資料)
・「小樽―まちなみの記憶―」北海道映像記憶制作DVD(非売品)
http://secondlife.yahoo.co.jp/supporter/article/DmnN0YaML1BEWyj0vGCwOL1tAPg-/3779/
http://www.city.hakodate.hokkaido.jp/soumu/hensan/hakodateshishi/tsuusetsu_04/shishi_07-01/shishi_07-01-08.htm
http://www.city.hakodate.hokkaido.jp/soumu/hensan/hakodateshishi/tsuusetsu_04/shishi_07-01/shishi_07-01-07.htm
http://www8.ocn.ne.jp/~co-co/uoichiba.html
http://www.city.otaru.hokkaido.jp/simin/koho/sakamati/1406.html
http://www2.town.yakumo.hokkaido.jp/history/ep14.htm
http://www.hokkaido-365.com/news/2009/08/post-318.html
・「広報あっけし」 2005年12月号(No.702)
・「小樽市場物語」北海道新聞小樽報道部編 ウィルダネス

小樽とガラス

はじめに
 小樽ではガラス産業が盛んである。ガラスの浮玉・ガラス製のランプ・工芸品をはじめとして様々なものが特産として名を連ねている。その中でも、小樽のガラス産業の礎とされているガラスの浮玉がある。本調査では、ガラスの浮玉を通して発展した小樽のガラス産業と、衰退そしてその背景に迫り、現在また将来的な小樽でのガラスの位置づけに迫りたい。
 まず第一章にて、ガラスの浮玉の誕生から衰退に至るまでと、現在での浮玉の状況について小樽高島地区の漁師成田正夫氏への聞き取り調査を記述。続いて第二章、第三章では小樽のガラス産業を支えてきたとされる、浅原硝子製作所と北一硝子の二社に焦点をあて、浅原硝子製作所の浅原宰一郎氏、北一硝子花園店の松島睦氏に話をうかがった。ガラスの浮玉を開発したとされる浅原硝子。また、その浅原硝子を前身とし設立された北一硝子。浅原硝子と北一硝子の関係について、両社の視点にたちながら論じる。第四章ではとりあげきれなかったガラス産業についての記述を施すことで、筆者自らが本調査で感じた、ガラスの可能性について記述する。

第1章 ガラスの街小樽
(1)小樽のガラス工場と浮玉
 小樽にガラス工場ができたのは、明治24年(1891年)に井上寅蔵が山田町に開いたのが最初とされている。船燈、発火信号なども作ったといわれている。そうして、井上寅蔵に続いて同33年(1900年)に浅原久吉が富岡町に。同三五年に藤井丑吉が緑町に。同四五年若林という人が山の上町に。大正5年(1916年)に川口留吉が緑町に、それぞれガラス工場を開いたとされている。昔のガラス工場で今もまだ続けられているのが初代を浅原久吉とする、浅原硝子製造所である。
明治から大正期の小樽のガラス工場の製品は、ランプのホヤ、カサ、投薬ビン、菓子、砂糖の広口ビン、金魚鉢など家庭雑器が主であったとされる。そうして次第に北洋漁業がさかんになるにつれ、漁業用の浮玉の需要が高まってきたことから、ガラスの浮玉の生産が盛んになった。
浮玉の原料はカレット(ガラスくず)を主としている。普通ガラスの種はバッチ(原料=珪砂、カリなど)を溶解して作る。しかし浮玉は再生産である。ガラスの浮玉は、正式には漁業用浮標といわれていた。製品としては中が空洞になっているガラスの中空の球である。大きさは1尺5寸(49.5センチ)の大型のものから、1寸5分(4.9センチ)の小さなものまで各種ある。網、漁の種類で使いわけられていた。種類として代表的なものは、○1尺2寸玉:深海、浅海でイワシ、サケ、マスの定置網漁に使用 ○5寸玉:深海、浅海でヒラメ底引き網漁に使用 ○2寸5分:深海用でタラ、スケトウダラカニの刺し網漁に使用などである。

(2)浮玉の最盛期
 魚の習性を利用し、網を計画的に張り魚を捕らえる。この網で重要な役割であったのが浮きと重りであった。漁業では重りのことを“アシ”という。「沈子」という漢字を用いる。一方浮きは“アバ”といわれ、「浮子」の漢字を用いる。アシは主に鉛、錫、鉄、針金、ゴロタ石が使われていた。中でも主流であったのはゴロタ石であるといわれている。アバの方は、昔木材を使っていた。トドマツ、エゾマツを主に使っていたとみられる。しかし、北洋漁業の発展により大型の網が投入されるようになると、アバも大量に必要とされるようになった。そこで登場したのがガラスの浮玉とされる。浮玉は木材よりもめっぽう好都合であった。はるかな浮力・水圧に強い・加工しやすい・値段も安いという条件がそろっていたのだ。ただ一つ欠点としては、壊れやすいということだった。こうして、需要の高まりから各地に浮玉ガラス工場が軒を連ねるようになったのだった。
 北洋漁業は昭和年代になると本格化している。定置網漁から母船式の漁法が主流となっていた。サケ・マス母船は5000ら1万トン級の缶詰工場を中心に、30隻ほどの独航船が一船団となる。一隻の独航船には三百反もの刺し網が積んでいるのだ。網を全部繰り出すと、およそ15キロ近くにのぼりそれに全て浮玉がついている。戦前で十船団もの船が大海へと出航する。北洋漁業は世界の漁業へと発展したのだ。この北洋漁業の漁網で欠かせないアバ、浮玉を作って支えていたのが北海道の浮玉工場であったというのは言うまでもない。
戦前の浮玉の生産量は明らかにされていない。昭和22年には1056トン以上を生産していると小樽市史に記述がある。

(3)浮玉の衰退と背景
北洋漁業に多大なる影響を与えた浮玉産業が打撃をうける。浮玉産業の衰退には様々な要因が考えられうる。まずは北洋漁業である。北洋漁業の漁獲は太平洋戦争の末期にまで及んでいた。しかし労働者の不足により、業務を滞りなく遂行できず、仕事の能率は下がる一方であった。戦後に北洋漁業が復活したのは昭和27年からである。しかしながら、1956年の日ソ漁業協定が結ばれる。これにより、日本が今まで漁業領域としていた海域はあっけなくも失うことになる。北洋漁業の「斜陽」の時代の幕開けであった。そこへ拍車をかけたのが二百海里の規制条約の締約だ。ますます日本の漁場は狭まっていくばかりであった。北洋漁業だけではない。その他の漁までも規制した。さらに、北海道では沿岸のニシン漁までもが衰退の道をたどる。海岸が盛り上がるように押し寄せていたニシンの大群、群来(くき)が小樽の沿岸に戻ってくることはなかった。この北洋漁業とニシン漁の衰退により、ガラスの浮玉の生産は一気に落ちることになる。また追い打ちをかけるように、昭和49年のオイルショックが船の燃油を上げるとともに浮玉をも値上げをし、ますますガラスの浮玉離れが始まる。
様々な要因が重なり、漁具にも化学製品が使われるようになった。漁網は天然繊維からナイロンなどの化学繊維を使用し、アバの浮きにもプラスッチクを使用、楕円形や太鼓型などの様々な形のアバが登場する。このプラスチック製品がガラスの代わりをするようになった。なぜプラスチックが台頭するようになったのか。プラスチックの利点として考えられるのが、浮力の良さ・耐久性・安い というこの三点である。ガラスよりも軽く、また叩いても壊れないうえに捨てても腐敗しない。融通の利きやすさが、ガラスにプラスチックが勝利した要因である。こうして現在に至ると、ガラスの浮玉は姿を消したのではないか、という話を耳にするようになる。海に浮かぶオレンジ色の丸い球が等間隔で並んでいる。小樽の海も同じように、そのようなオレンジが海から顔を出していた。本当にガラスの浮玉は消えてしまったのだろうか。小樽で漁を営む成田正夫氏に伺ってみる。

(4)現在の浮玉 
「今ガラスの浮玉使っているところなどない」小樽に着くまでそのように聞いていた。小樽の高島地区にある漁師成田氏の仕事場を訪ねた。ガラスの浮玉は漁に使われているのか。もっとも聞きたいことであった。成田氏は漁に使う網の仕掛けのかごを見せてくれた
(写真1)これはしゃこを漁るときに使用するという。ガラスの浮玉の需要がなくなったというわけではない。実際にはガラスの浮玉は、まだ昔のものが残っているから使用するのだという。ガラスの浮玉はプラスチックとは違い、半透明であるから海の色に自然となじむ。
それではこのガラスの浮玉どのようにして使うのだろうか。しゃこ(ガサえび)漁を例に説明する。海に15メートルほどの網をたらし、網の下部に重りをつけ海底へたらす。その重りから海面へ約一メートルの網をあたり一帯に張り巡らす。網の上部分にガラスの浮玉が等間隔で並ぶ。この約一メートルの網一帯にしゃこが掛かるという仕組みである。このしゃこの漁に使われるガラスの浮玉の大きさは、15センチほどのもので比較的小さなサイズのものだ。実際大きいもので30センチほどあり、様々な漁で使う。このガラスの浮玉は、浮玉工場から直接購入しているのかと思っていたが、実は網屋から仕入れているという。10年から15年前からはプラスチックをもっぱら扱うようになり、今となってはガラスの浮玉は仕入れてはいない。このしゃこ漁などに使われているガラスの浮玉は、昔から使われている、いわば生き残りのガラスの浮玉なのだ。また、亡くなった漁師の漁師小屋などに残された網の仕掛けについたガラスの浮玉を取って再利用する事が多いなど、ガラスの浮玉は半永久的であるから需要がなくなったというより、必要とされてはいるが仕入れる必要性はないというほうが正しいのかもしれない。
また再利用は、漁師間だけではない。居酒屋がもらいにくることもあるらしく、無料で提供していたと成田氏は言う。ガラスの透明感と、ガラスの球を網で縛ってまるで海を凝縮したようなガラス玉の風貌は、居酒屋のビジュアルに最適なのかもしれない。


第2章 浅原硝子製作所
(1)浮玉産業の栄光と衰退
 現在では小樽の天神町にある浅原製造所は(写真2)
初代浅原久吉が明治に小樽に硝子製造工場を操業した。初代で扱われていたのは、相次いでできるガラス工場と同じように石油ランプや金魚鉢、投薬瓶などの生活雑器を主としていた。ガラスの浮玉を開発したのは、浅原久吉だといわれている。最盛期である昭和20年から昭和30年にかけては、会社数は小樽、室蘭、釧路、旭川樺太、と道内五社にのぼり各工場に職人が20人から25人働いていたという。同業者としては、道外で函館や青森にも工場があったとされる。ガラスの浮玉はあくまでもひとつひとつが手作りで、職人が丁寧に一つ一つふくらませるのだ。職人芸であるガラス玉には、生産の限界がある。中ぐらいのサイズで1日1500個、大きいサイズのものでは1日90個、朝から晩まで職人がガラスの球を吹き続けてできる限界の数である。一週間では、10000個もできないのが現実であった。また半永久的なガラスの浮玉は、一度供給されると二度三度、そしてそれ以上に使える利点がある。この最盛期を越して一気に衰退の岐路をたどるのである。

(2)ガラスと伝統
浅原硝子製造所は元々大きな工場であった。ガラスの浮玉だけではなく、業務用や卸として実用品を病院などの団体にむけ出荷しており、個人に小売をしてはいなかった。しかし今となってはガラスの浮玉の需要はないに等しい。最近では、大阪に出荷したという。そして浅原硝子製造所では今までのガラスの浮玉から新しいガラスの浮玉の導入も始めた。金のラメをガラスに配合し、特殊に加工。そうすることで海によりなじみ、海に入ったときにキラキラ輝くのである。
(写真3)このガラスの浮玉はタコのいさり漁で実際に使われている。このように浅原硝子のガラスの浮玉は多様化しつつあるといえる。と同時に、今までの漁具の一種としての機能から見て楽しむものに変容しつつあるのがわかる。かつて卸問屋のような大きな工場として機能していた浅原硝子は、職人として後世にガラスの浮玉を残していく役割の位置を築いた。だからこそ浅原硝子は売ることを専門としていない。あくまでも、作る人と売る人はイコール関係にはない。それは先代からでもうかがえることである。前述のように、元々卸業者として機能していたので、二代目の弟が小売部門を担当し北一硝子を創設した。現在ではその息子が社長となっている。
現在では人件費の安さから、自国ではなくベトナム・韓国をはじめとする海外で作られたものが多くなりつつある。しかし、それでは小樽特産が消されてしまうのではないか。そこで小樽でのイベント「雪あかりの路」(第八回まで浅原硝子がガラス担当、その後は耐熱硝子で他工場に)や展示会に参加することで、小樽でのガラスの伝統を守る。またそれを元に小樽の地域活性化のために供に盛り上げようと売る人。この両者があって初めて、次へつながる小樽のガラスがある。

第3章 北一硝子
 (1)北一硝子と浅原硝子
北一硝子の前衛は浅原硝子である。しかし同じ経営でも、同じ会社でもない。別会社であり、昔はグループ会社であったこともある。今でも親族が経営陣であるのが特徴的である。両社はライバル会社ではない。第二章での記述にもあるように、ともに歩みそれぞれの役割を明確にしている二社であるのだ。
 北一硝子は小売部門を昔から担当している。設立当時、板ガラス、石油ランプ、浮玉などを主に取り扱っていた。しかし、ガラスの半永久的な利点から売れなくなってきた。そうして発案されたのが、テーブルウェア商品であった。ガラスのコップ、皿、しょうゆさし、など生活雑器とされるものを一般の人々に売っていた。その着た北一硝子一号店とされるのが、花園店である。花園とは、現在観光客やお土産屋などで賑わう小樽運河よりも山側へ、国道線沿いに建てられている。少し落ち着いた、店内は決して広くないそんなお店である。なぜ、花園店が最初に建てられたのか。なぜなら、単純に昔は花園界隈のほうが栄えていたからだという。まだ小樽運河沿いの倉庫街は、今のように倉庫を活用したお店などなく、ただの倉庫街であった。水道も通っていない、倉庫の際までが海であった。それに比べると、花園周辺は国道が貫き、百貨店も近くにあったので車で小樽を訪れる人々で賑わっていたとのことだ。だから、北一硝子は花園を一号店の出店の場所に選んだのであった。先に記述した、小樽の倉庫街。今となっては観光名所としてたくさんのガイドブックなどで取り上げられているが、最初に倉庫を再利用したのが北一硝子三号館であった
(写真4)。百年以上もの歴史をもつ由緒ある建物である。昭和四十年の衰退しつつある頃、「斜陽の町」と呼ばれた小樽の街を物語っているのが倉庫そのものであった。先人の残した文化を斜陽という言葉一つで終わらせてはいけない。この北一硝子に隠された、小樽を支えるという理念につながる。

(2)北一戦略
『感謝/奉仕』これが北一硝子における社是である。自分たちだけで生きてはならない。他の人があってこその自分。またそれが人としての生き方でもある。だからこそ他人へ感謝し、自分のできることを考えようではないか。この言葉を聞くと、北一硝子の存在意義そしてその意義が、浅原硝子への敬意を表しているかのように聞こえる。
 お客一人一人にガラスを小売りする北一硝子は、つぎつぎに店舗を増やしている。花園店、三号館、クリスタル館
(写真5)、さしすせそ、北一プラザ、VENINI、ミュージアムショップ、アウトレットと小樽で展開している。栄町を歩けば、そこは北一ワールドとでも言うように、北一硝子の店舗もしくは系列店がいたるところに目に入ってくる。集中しているのである。この一か所に集中させて展開すると、同じ北一硝子のお店が増えるだけではない。最近では、栄町周辺に類似の硝子細工屋や、土産屋が軒を連ねている。ガラスを扱うお店が増え続けているのだ
(写真6)。故に、売り上げが落ちるのではないかという事が懸念される。しかし、北一硝子側の答えとしてはNOであった。前述の社是にもあるように、自分の発展だけではいけない。なぜなら地域の発展なくして、自社の発展ではないのだから。地域の発展とは小樽の街の活性化である。かたくなに小樽のみの展開体制を崩さない、それは小樽にお客を呼ぶために、自らがその礎となり地域を盛り上げようとしているのだ。その戦略は自社の売り上げを重視するのではなく、増える同業者また他業者を含めて小樽という地域の価値をあげていく。だからこそ、増える競合の同業者は、「北海道にある小樽」に着てもらうために、また小樽での「ガラスの街」としての認識をより一層深めていくために大歓迎なのであった。さらに、北一硝子は小樽活性化のために、インフラ整備まで行っている。栄町近くにある駐車場を設置し、地域に貢献しているのだ。

第4章 ガラス工業の発展とこれから
 これまでガラス工業についてガラスの浮玉という漁具の栄光と衰退。そしてそこから発展した小樽のガラスについて、そのガラス業界を支えている浅原硝子製造所と北一硝子の二社を記述してきた。しかし、小樽の伝統を残す浅原硝子と小売りを中心に小樽の街の活性化に貢献する北一硝子だけではなく、現在小樽では様々な工芸ガラスの職人が芸術的な作品を残しているのだ。ザ・グラス・スタジオ・イン・オタルもそのひとつであり、またこここそが工芸ガラスを小樽に最初に持ち込んだとされている。このザ・グラス・スタジオ・イン・オタルが小樽で最初に拠点としたのが小樽市内の緑町二丁目のミナト産業跡であった。ミナト産業の前身は川口硝子製作所でガラスの浮玉を製造していたという。
ガラスの浮玉がプラスチックに変わると、人間の生活自体もプラスチックにまみれた生活になり、プラスチックの機能性を生かした、どこまでも利便性に富んでいるそんな贅沢を手に入れることができた。しかしプラスチックのような科学技術の賜物で手に入れたものは、どこか人造的で冷たいのである。人間は温かさを求めて、職人一人一人が丹精込めて作った工芸ガラスを求めたのかもしれない。この工芸ガラスの導入により、ますます「ガラスの街小樽」が浸透し、ガラス業界に勢いを与えたというのは言うまでもない。
 ガラスの浮玉は、本来の作用としては需要がなくなってしまった。しかし、「ガラスの街小樽」という世界に誇れる名前を残している。伝統として残す人がいて、それを売る人がいる。また、その伝統を生かして次の伝統につなげる人がいる。みなそれぞれの役割を担い、全ての人が小樽のために、ガラスと向き合っている。

謝辞
 本調査の取材に協力いただいた、小樽市漁業協同組合手島・高島地区区長 成田 正夫氏、浅原硝子製作所浮玉作り4代目 浅原 宰一郎氏、北一硝子花園店店長 松島 睦氏、他漁業協同組合の方々、小樽市総合博物館石川氏、小樽の街の方、ならびに調査レポートをご指導いただいた島村先生に感謝の意と代えさせていただきます。どうもありがとうございました。

参考文献
大石 章
 1998、「小樽ガラス物語」、大石章著、北海道テレビ放送
小樽市
浅原硝子製作所HP http://asaharaglass.com/
北一硝子HP http://www.kitaichiglass.co.jp/

1小樽と和菓子 2小樽と精米事業

1小樽と和菓子
外村 美里
第1章
(1) 研究動機
  事前調査の段階で小樽には和菓子屋・餅屋が多いということがわかり、これに疑問をもった。何故小樽という港町においてそのような店が現在多く存在するのか。現地でのフィールドワークはこれをテーマに調査を行った。 
また、和菓子に関連付けて米について調べていたが、これについて明らかになったことは続いてレポート2「小樽精米事業―共成株式会社の発展―」に分けてまとめた。
  

(2) 小樽地理―北限の栗林―

日本における北限の栗林について引用
手宮公園内の栗樹は自然林で天然記念物でもあります。樹齢100年から150〜200年以上の巨木、老樹です。この樹林地帯は積丹半島から余市高島と続いて密生した純然たる栗樹地帯でしたが、暴伐、山火事等の被害のため滅失し、手宮公園において一部被害はあったのですが免れた栗樹が残存しています。昭和17年5月、第二次世界大戦の際、小樽市防空のため、防備隊により高射砲の視界を遮蔽するという理由で大樹数十本伐木しました。(『小樽案内人』79 81 166 177)(資料 手宮公園史より)

 
この北限の栗話について小樽和菓子店新倉屋の方から伺ったお話を以下にまとめた。



まず、小樽においてはその開拓と、これら栗林が深く関わっている。積丹半島余市、小樽朝里地帯は開拓前、人が通ることのない原始林であり広範囲にわたって栗林地帯を形成していたといわれる。また北海道開拓が遅れた原因の一つに神威岬通過の禁制が考えられており、当時この岬から北への和人の永住、婦女子の通行は禁じられていた。
 昔、梨本弥五郎という者が妻を伴って北辺防備のためこの岬を通過。それ以降、妻子を伴って北海道各地に移住するものが増え、小樽方面の定住者の増加により鰊漁が飛躍的に発展したといわれている。また『小樽案内人』(小樽観光大学校運営委員会編 30)には安政2年1855年、それまで禁止されていた神威岬以北への通行が可能になったことも記されている。このことによって、中でも積丹半島周辺、小樽、余市、石狩の各地は急速に和人が増えた。また小樽を含むこの一帯は漁獲物を加工するのに必要な平坦地も適度にあり鰊漁は特に盛んであった。
大漁期が続き定住者が増え、家事や鰊粕製造用に木が次々切られほとんど禿山になり保安林の役割を果たせないほどになる。これを何とかしようと、森林に等級がつけられた。1,2等級のものは伐採が禁止されたが盗伐が相次ぎ徐々に森林は縮小されていった。小樽公園、奥沢、長橋、朝里、の森林は2等級に認定されていたためこれをのがれ、現在に残っているという。小樽公園の中には他の場所から移されて来た栗樹もあり、秋には実をつけ、市民はこれを楽しむそうである。

第2章
(1) 鰊漁と米

1章(2)において小樽で鰊漁が飛躍的に拡大した背景を述べた。1855年まで通行禁止とされていた神威岬以北を婦女子も通過可能となり、これによって家族同伴で移り住むものが増えた。それに伴いこれらの地域に定住する者も増加、鰊漁は飛躍的に発展することとなるのである。

また鰊漁に関して増毛、余市、仁木などにりんごの木が今数多く存在する理由について話を伺ったので記しておく。
当時これらの地域においても漁が非常に盛んで、大量の漁家が進出していった。それは小樽を含む後志地方が他地域と比べて長い間安定した漁穫保っており、その間は魚肥の需要が高かったことが理由としてある。地理的条件の良さと活発な漁によって資金、設備を蓄え成長し、漁場が北へと移動すると、漁をするだけでなく遠隔地の漁場も確保し、資金や道具を貸し出し、産物を集めるようになったという。この北へと移動する際、漁で上げた鰊は陸に揚げられる。その時の鰊かすの腐ったものが自然に蓄積したため土壌が肥沃になり、りんごやさくらんぼ、ぶどうといった果物を豊富に実につける一帯になったという。
確かに調べてみると、例えば仁木町は「果物とやすらぎの里」として町を大きく紹介しており、観光スポットとして巨大施設「フルーツパークにき」がある。その他、増毛、余市においても豊富に果物がとれるようである。

鰊漁では大勢の漁夫が漁家、親方によって雇われており、食事付き、白米をたらふく食べさせてもらうことが雇用の条件であった.親方は漁夫のために大量の米を内地から取り寄せていた。漁期の来る何ヶ月も前から米の手配をし、この準備ができるかどうかは親方の権威にも繋がるものであったという。内地から取り寄せられていた米は貴重なものであり、鰊漁においても米の需要は高かったのである。米の需要の高まりと稲作発展の背景の一つに参考にできる文章を次に引用した。
 
   
稲作のほとんど行われない北海道において米は貴重なものであった。米作りの発達とその理由については、移入してきた内地の者に稲作技術があったこと、米そのものの需要の高まりと、稲作による副産物の需要が高かったことが理由とされる。副産物とは主に稲作ででる藁を使った草鞋、蓑、畳、であり、また屋根の材料としても活用されていた。(矢島 叡1986 112)

つまり食用としてだけの稲作だけではなく、生活に欠かせないこれらの副産物も手に入れることができるものとして重要視され、移入者を中心に徐々に技術が広まり、定着していったと考えられる。小樽は鰊製品だけでなく、漁網や藁製品などの漁具を扱う商人も多くいた。藁工品ではむしろ、かます、縄、草鞋などが主力で、石川、福井、新潟などから移入してきた人が商品にしていたという.(『小樽観光案内人 38』)

(2港湾労働者と餅

漁夫の雇用条件は白米の食事を付けることであったと述べた。次に港湾労働者と餅との関係についてであるが、この時湾での荷下ろし作業をする荷役達に食べられていたのが餅である。餅は握り飯より日持ちするため重宝された。力仕事をするため糖分を必要とし、餅はこれを補うためのものでもあった。また漁期が来る頃には大漁を祈って祝いをし、この際も縁起物として餅を使ったという。米は港湾労働者に白米という形としてだけでなく、保存の利く餅にしても食されていた。小樽市総合博物館の学芸員の方にお話を伺ったところ、餅が広く食されていた理由に、小樽が各地の積荷が集積される場所であったことも理由のひとつに考えられている。内地から取り寄せられる大量の米、小豆はおもに十勝・帯広から入ってきていた。このように必要な材料は全て手に入ったということも、後に餅作りから餅屋和菓子屋等に変わっていった主な要因として考えらる。

また餅作りには大量の水が使われる。北海道で米が本格的に作られるようになったのは明治中期になってからとされるが、その以前から移入した米を精米するために水車を設置して水力を利用してきた経緯がある。この水を利用する技術と「小樽の水」は現在の餅屋の発展に大きく影響してきた。
さらに小樽の貿易に非常に重要な役割を果たしていた北前船。その経路は西回りで京阪・北陸・越中・越後 日本海側の分化が流入し、京阪地帯の菓子職人が移住してきたことも大きな要因であると考えられる。


(3)縁起物としての餅・和菓子
漁期前には大漁を祈って祝いをし、このときも縁起物として餅を使ったと記した。主に漁家と雇い夫などが餅をつき大漁を祈ったとされる。『日本の食生活全集①北海道編』(矢島 叡1986)にはこの時に作る餅を「大漁もち」と呼んだとある。また他にも漁夫達が沖へ持っていく弁当に餅を添える際は「凶」の意味を持つ「黒」色に見えるあんこははみ出さないよう丁寧に「大漁」表すとされる縁起の良い「白」餅にくるんだとある。漁家の中には縁起物として菓子屋に魚の形をした「らくがん」を作らせ、ひびなどが入っていると親方に怒られたという。(矢島 叡1986)

第3章
(1)和菓子屋への発展
 港で重宝された餅は、多くはそれぞれの漁家で作っていた。ではどのようにして餅屋・和菓子屋となっていったのか。それは餅作りの機械を揃えるだけの資金があったかどうかだという。お話を伺った小樽花園にある「新倉屋」は食品雑貨商として味噌や醤油を扱ったのが始まりで、昭和20年頃には餅菓子を扱い、今の新倉屋となっている。すでに100年を超える老舗である。
 明治5,6年ごろから菓子の開業者が現われたのは小樽の発達がそのころを急激に上昇し、漁業だけでなく各種の商業が発展したことによるものである。このように菓子業者の続出によって製菓にも工夫が凝らされ、これが小樽の菓子をさらに質の良いものにしていったとされる。

(2)小樽の餅 べこもち
べこもちとは北海道だけの節句菓子である。調査中見て回ったどの店でも必ず売られていた。黒(茶)と白の2色が交ざった模様をしており、これは黒砂糖と白砂糖で作られているためである。このことから「べっこう」のような色をしたもち、あるいはべこ(牛)が蹲って寝ている様子に似ているため、白黒模様の乳牛、ホルスタインに似ているからこう名づけられた、という説もある。(牛のことを、東北から北海道の方言で「べこ」という)しかし正確に由来を知る人はいないようだった。




(3)引き出物としての和菓子
また伺ったお話では、昔小樽の葬儀の通夜には夜食として簡単な食事を出す習慣があったそうだが、これは食事を用意する者にとって大変な作業だった。この習慣を変えたのが夜食のかわりに菓子折を用いたことであった。この方法が客から広まり一般にも広まったのだという。


第4章
まとめ
小樽において餅が発達した理由をまとめると、まず小樽が、各地から来る物資の集積地であったこと。米だけでなく、小豆、砂糖など餅には欠かせない材料が十分に手に入る環境にあったのである。そうして作られた餅は湾での荷下ろし作業をする荷役たちに食べられていた。握り飯より日持ちし、手軽に食べられ腹もちする餅は忙しく働く者にとっては便利だった。
餅作りには大量の水を必要とする。小樽の水はこれに欠かせないものであった。餅作りだけでなく小樽の水を使用する産業は多い。今回の調査で歩いた勝内川流域にも精米・ゴム・かまぼこ・酒造会社などがより集まっていた。小樽の港に集まるのは物資だけではない。各地域から職人が集まり様々に活躍していった。菓子や餅においても京阪神からの職人の移住によって刺激を受けた結果洗練された技術と美味しさを生みだし、今日の菓子作りに生かされているのである。

参考文献
 

『日本の食生活全集49 日本の食事辞典Ⅰ素材編』
 農産漁村文化協会編・発行 1993

『日本の食生活全集49 日本の食事辞典Ⅱ作り方・食べ方編』
 農産漁村文化協会編・発行 1992

『日本の食生活全集①北海道編』
 矢島 叡著  農文協会発行 1986

『全集日本の食文化』
 石川 寛子監修  小山閣出版 1996

『和菓子の系譜』
中村 孝也著   淡交新社 1967
 
北前船・寄港地と交易の物語』
加藤 貞二著 無明舎出版  2002

『事典・和菓子の世界』
中山 圭子著 岩波出版 2006

『小樽案内人』
小樽観光大学校  2007  

参考URL
仁木町役場HP
http://www.town.niki.hokkaido.jp/
増毛町役場HP
http://www.town.mashike.hokkaido.jp/
余市町役場HP
http://www.town.yoichi.hokkaido.jp/

2小樽と米
外村 美里 
第1章  
(1)研究動機
研究テーマ1「小樽と和菓子」に関連して、材料の米、小樽の穀物・精米事業について調べていたところ、小樽市奥沢に製薬会社の共成製薬株式会社が存在し、さらに同社が精米業社であった共成株式会社を前身とするものであることがわかった。当時の精米事業の様子と製薬会社に至るまでの経緯を知るため、共成製薬株式会社の方に伺った。
    
(2)米と鰊漁
小樽の地形は海岸線まで山地が迫り農地は狭く、主にその発展を支えたのは鰊業など漁労による。では鰊漁において、いかに米が重要な役割を果たしていたかを記す文章が『日本の食生活全集①北海道編』矢島 叡著 1986)にある。  

鰊漁においても米は非常に重要なものであり、漁期に雇う漁夫のために大量の米を内地から取り寄せていた。というのも彼らの雇用条件が、白米をたらふく食べさせてやることだった。親方は漁夫のために漁期の来る何ヶ月も前から米の手配をし、この準備ができるかどうかは親方の権威にも繋がるものであった。
(矢島 叡1986 109)

稲作のほとんど行われない北海道において米は貴重なものであった。米作りの発達とその理由については、移入してきた内地の者に稲作技術があったこと、米そのものの需要の高まりと、稲作による副産物の需要が高かったことが理由とされる。副産物とは主に稲作ででる藁を使った草鞋、蓑、畳、であり、また屋根の材料としても活用されていた。(矢島 叡1986 112)
  
つまり食用としてだけの稲作だけではなく、生活に欠かせないこれらの副産物も得られるものとして重要視され、移入者を中心に徐々に技術が広まり定着していったと考えられる。またレポート1「小樽と和菓子」にも述べたが、鰊漁期には大量の米が使われ、同時湾での荷下ろし作業をする荷役達に食べられていたのが餅である。餅は握り飯より日持ちするため重宝された。力仕事をするため糖分を必要とし、餅はこれを簡単に補うためのものでもあった。また漁期が来る頃には大漁を祈って祝いをし、このときにも縁起物として餅を使ったという。米は湾口労働者に白米という形としてだけでなく、保存の利く餅にも使われた。


第2章
精米業社の登場

(1)沼田喜三郎と共成株式会社
明治24年当時、北海道ではほとんど稲作がおこなわれておらず、本州から玄米を運び、石臼でついて白米にしていた。ここに着目したのが富山県出身の沼田喜三郎であり、小樽市有幌町で精米精麦業の共成株式会社を設立、水車を用いた精米事業をスタートさせた。当時小樽と高島の群境だったオコバチ・妙見川畔にあった水車は、冬は凍って夏は水枯れと能率が悪かった。沼田喜三郎はこれを改良し、水に浮かべるだけの水車から、水を上からかけることで動力を十分に得る方法をあみだした。(資料1「共成物語」)    
同社の創業者であり、社長を含め22年間取締役に在任したが、一方で沼田町開拓者として名が残っている。また現在の沼田町に開墾委託会社を設立し、開拓事業にも力を注いだ人物でもあり、現在の雨竜郡沼田町は沼田喜三郎にちなんでつけられている。
(脇 哲 小樽豪商列伝 1992)(資料1「共成物語」)

(2)共成株式会社の発展
急激に人口が増す当時の北海道で、その中心として発展する小樽に合わせるようにして新会社は急速に拡大、創業10年後の明治34年には、道内各地に支店や精米場を持つ規模に拡大しており、その頃既に東京以北で最大の米穀会社となっていた。
この資料からも共成株式会社の当時の規模を窺うことができる。奥沢村、花園、朝里町にあった共成株式会社精米所工場が最も大規模であった。

また小樽における精米精麦事業が稲穂,奥沢,入船に集中していたことについて次のように記されている。

精米精麦工場は、水車を用い水力を動力として開始された関係上、自然落流のある河川の近くに立地している。奥沢村や稲穂町に精米精麦工場が多いのは水力を利用できる土地が選ばれたためである。
「小樽新聞」(「共成株式会社大株主」)に掲載されている株主名簿によると田口梅太郎、大河原勝太郎、沼田喜三郎、上野勘助、山口宗次郎、南嶋商行、井尻静蔵、京坂興三太郎、横山彦市、町野清太郎、遠藤又兵衛、佐々木静二、が有力株主として名を連ねている。(『近代都市の創出と再生産―小樽市における階層構造を中心に―』)引用

                   

また、その他に当時の共成株式会社繁栄の様子がうかがえるのが、明治45に建築された有幌町のレンガ造りの本社である。この建物は現在では小樽市の歴史的建造物として指定され、「小樽オルゴール堂」として多くの観光客で賑わっている。建物入り口横には同社についての説明が表示されている。メルヘン交差点に位置し、石造りの建物が多かった中では珍しいレンガ造りになっている。家具店などを経て現在のオルゴール専門店に再活用されている。

第3章
製薬会社への移行

(1)共成製薬株式会社
(聞き取り調査)
 
小樽の穀物・精米事業に関して調べていたところ、小樽市奥沢に製薬会社の共成製薬株式会社が存在し、さらに同社が精米業を営んでいた共成株式会社を前身とするものであることがわかった。当時の精米事業の様子と製薬会社に至るまでの経緯を知るため聞き取り調査をし、お話を伺った。

沼田喜三郎は、奥沢村の勝内川沿いに八基の臼を並べた水車小屋から精米事業を始めている。(『小樽商工名録』昭和25年版 1950)1891年明治24年に資本金6万円の合資会社・共成として設立されて以来、共成株式会社の精米精麦事業は発展、規模を拡大していったが、大正に入ってからは徐々に工場数が減り、昭和30年には全事業から撤退、解散している。(資料1「共成物語」)
共成製薬株式会社での聞き取り調査をまとめると、前身であった共成株式会社は昭和10年頃になると日本の戦時体制への取り組みが高まり、米統制がおこなわれるようになったことで米穀事業も圧迫されはじめた。事業の多角化が求められた会社が目を付けたのが北海道には豊富にあったが、それまで使われることのなかった海藻である。 
昭和12年頃から函館高等水産(北海道大学水産学部の前身)の教授の指導等を得て、函館の実験場で昆布などの海藻からアルギン酸・沃度などの抽出をはじめた。昭和16年には小樽奥沢にアルギン酸工場を建設。工業用、食品用に開発が進められ、製造されたアルギン酸ナトリウムは、主にアイスクリームやかまぼこ用の粘性安定剤として利用されたという。しかし戦争の本格化により原料の海藻を手に入れることが困難になり研究だけがおこなわれるという時期が続く。
戦後、昭和22年このアルギン酸の医薬への応用に当時の厚生省から医薬品製造の許可が下り初めて医薬品としての治療剤を開発する。これが共成株式会社の製薬部門の始まりとなり後の共成製薬株式会社につながっていくこととなるが、事業が圧迫された共成株式会社を支えるまでには至らなかった。共成株式会社は昭和30年に製薬部門を切り離し、全事業から撤退、昭和32年10月に解散した。この昭和30年に独立した製薬部門が発展したのが、現在の共成製薬株式会社である。

(2)共成製薬株式会社の発展
(聞き取り)
共成株式会社製薬部門の事業を受け継ぎ昭和30年独立した後、現在の小樽奥沢で本格的に医薬品開発を進めていく。なお奥沢に本社を構えたのはこの土地が共成株式会社所有のものであったためである。ここ奥沢には奥沢水源地から流れる勝内川が南北に走り、本社および工場はこの川のすぐ横に位置する。























以来北海道では数少ない製薬企業として各大学、研究機関、医療機関と共同研究に取り組み、X線バリウム造影剤、発泡剤、局所止血剤などを開発してきた。これらの医薬品は関係会社の株式会社カイゲン(本社大阪、1972年に提携している)を通じて、全国の病院、医療機関に販売されている。風邪薬で知られるカイゲンであるが、売り上げの90%は病院や医療機関向けの医薬品や医療機器によるものであり、特に消化管造影剤をはじめとする消化器系薬剤販売が専門分野となっている。
なお、共生製薬株式会社は他に、堺化学工業株式会社、堺商事株式会社提携している。日本で使用されるレントゲン用バリウムの半分を堺グループが生産しており、そのバリウム原石の産出国内最大なのが小樽松倉鉱山である。

第4章
まとめ

本州から玄米を運び石臼でつき白米にしていた点に着目し、水車を用いた精米事業を展開したことは当時、画期的なものであった。これは当時の北海道における精米を効率的にし、稲作業を活性化させることにも大きく貢献した。資本金6万円の共成株式会社であるが、伺った話によれば、6万円といえば現在にして約3億円であり、当時の同社の北海道精米精麦事業における規模がいかに大きなものであったかがわかる。事実、当時の北海道においてその規模は1,2位を争うものであったという。
米統制によって事業継続が厳しくなった際に、同社が着目したものが海藻、主に昆布であった。この昆布から抽出された成分が、アイスクリームやかまぼこ用の粘性安定剤として利用されていたという点に注目すべきである。氷菓、かまぼこはどちらも小樽における主要産業に含まれる。 
小樽は海運関係者と穀物業者が高納税者であったといわれる。今回の調査では、そのの中でも最も大規模であった共成株式会社の起こりと発展、さらにその後を継ぎ独自に発達してきた共成製薬株式会社について調べるに至った。

謝辞
本稿の調査にあたっては小樽市私立博物館の石川直章先生、佐々木美香先生の多大なご協力を賜りました。聞き取り調査にご協力頂きました新倉屋本店の稲船玲子様、共成製薬株式会社の佐藤伸也様、小樽市立図書館の皆様ありがとうございました。また訪問いたしましたたくさんの和菓子店の皆様ご協力ありがとうございました。


参考文献
『小樽豪商列伝』続  
  里舘 昇著 市立小樽図書館出版 1992
  市立小樽図書館所蔵

『小樽歴史年表』
  渡辺 真吾著
  土屋 周三編 特定非営利活動法人 歴史文化研究所 2006.4
  市立小樽図書館所蔵

『小樽商工名録』昭和25年版
  小樽商工会議所編纂 1950
  市立小樽図書館所蔵

『近代都市の創出と再生産―小樽市における階層構造を中心に―』
  日本女子大学・社会移動研究会 発行

資料1「共成物語」
  共成製薬株式会社保管資料

資料2『小樽小工業統計書』(第13回)の「区内工場調」一覧表
  
資料3「共成株式会社社屋写真」
  小樽市史編纂室 市立小樽図書館資料 刊行年不明
  市立小樽図書館所蔵

小樽に広がる銭湯文化

小樽に広がる銭湯文化

井谷 亜沙美

第1章 銭湯とは何か

 銭湯—その歴史は古く、約900年前の平安時代から存在し、現在のように街中に銭湯が出現したのは江戸時代のことであった。当時は蒸風呂式の“風呂屋”と、湯船に浸かる方式の“湯屋”の二種類の銭湯が存在していたが、後に主流となったのが“湯屋”で、現在はこちらが一般的に銭湯(一般公衆浴場)として認識されている。現在の銭湯とほとんど変わらない形式が整えられたのは、カラン(蛇口)が導入された昭和時代であり、銭湯文化の最盛期であった。
 しかしその後、戦後に入り内風呂が普及していったことで、徐々にその数を減らし続けた。現在の一般公衆浴場の数は2008年の時点で全国6,009施設であり、昭和55年の15,695施設と比べると半数以下に減少している1)。全国の公衆浴場数ランキングを見てみると、1位が青森県、2位に鹿児島県、3位に大分県、以下富山県大阪府、石川県、京都府、北海道、東京都、和歌山県と続く。
厚生労働省がまとめた資料に、『関東圏や近畿圏、北海道などでの「銭湯」創業者は、北陸4県(新潟、富山、石川、福井)出身者が多いという。特別な調査が行われた訳ではないが、関東・近畿等の公衆浴場業生活衛生同業組合役員には「北陸をルーツ」とする方が多い。北陸は、米作りを一毛作してきた経緯があり、水田は生活基盤を支える財産である。藩政時代に新田開発が終わり、田畑を長男一人に相続することで分散を防ぎ、次男以下は土地を離れることが必要となり、勤務先を求めて都市圏などに移住することになる。都市圏では既に人が溢れ、「公衆浴場業」や「豆腐製造業」など、長時間労働で営業時間の変則的な職種に就労して生計維持することが多かったという。勤勉で粘り強かったことから、徐々に経営者として独立していったものであり、更に血縁を頼って後継者が育成されていくことになる。』と記載されている。
 また、人々の『入浴』への意識もそれぞれの時代によって異なり、風呂に入るという習慣は元来“身を清める”という仏教に基づく宗教的行為であった。そこから江戸時代にかけて人々の“娯楽”へ、また昭和に入り娯楽と共に“衛生への配慮”へと変わっていった。
 以上を踏まえ、本研究では現地聞取り調査によって、上記の事実確認と共に、人々の銭湯への意識変遷について実証的研究を行う。研究対象とするフィールドは北海道小樽市、また大阪府大阪市中央区・東成区にそれぞれ存在する銭湯とする。

第2章 北陸から小樽へ

 北陸出身者が北海道へ移住した理由としては、第1章で記したように『北陸は、米作りを一毛作してきた経緯があり、水田は生活基盤を支える財産である。藩政時代に新田開発が終わり、田畑を長男一人に相続することで分散を防ぎ、次男以下は土地を離れることが必要となり、勤務先を求めて都市圏などに移住することになる』ということ、北海道開拓のために屯田兵として移住したこと、新たな漁場や農地を求めて移住したこと、などが挙げられる。
同様に、大阪府や東京都へも、農家の次男や三男が職を求め多くの人々が出稼ぎに出た。
 ではなぜこのような北陸出身者に銭湯の経営者が多いのだろうか。
銭湯を経営するのはとても大変な仕事で、経営者は比較的、忍耐強い北陸出身者が多い傾向にあった(小樽市博物館、2004)とされており、水害や豪雪により十分に作物が収穫出来ない年や、厳しい寒さに耐え乗り越えるという環境の中で、そのような気質を持つようになったのではないだろうか。
 今回研究対象とする小樽市は全国でも銭湯の数が多いと言われているが、開拓による労働者による需要が大きかったこと以外に、江戸時代から大正時代にかけて、小樽が日本随一の鰊漁獲量を誇っていたこととも深く関連している。港で働く漁業労働者似よる需要もまた、銭湯が繁栄した理由の一つとなった。

第3章 小樽に広がる銭湯の世界

(1)小樽における銭湯分布図
 小樽市内には、昭和時代には約70件もの銭湯が存在していたという。今回手に入れた資料によると、昭和42年の時点では58件であった(保健所年報/昭和42年/小樽市保健所)。
また現地調査によると、その数は21件に減少していた(2008年9月)。
ここでは、昭和42年に存在していた銭湯の分布図(図1)と、2008年9月に現存する銭湯の分布図(図2)を紹介する。

(2)小樽の銭湯
 小樽には古くからの銭湯が多くみられ、今回は調査に行くことができなかったが、その中でも信香町の小町湯は道内でも屈指の歴史を誇っている。
ここでは現地調査で話を聞くことが出来た5件の銭湯を紹介する。

◎ 柳川湯(稲穂町) 田中 康弘さん
柳川湯という名前は、銭湯が面している“柳川通り”が由来となっている。現在はカウンター式となっているが、10年前までは番台があったそうだ。残念ながら鰊漁の繁栄との関わりや北陸出身者との関わりはわからなかったが、昼までも絶えず客の姿が見え、近くに住む住民に愛されている銭湯であった。

◎ だるま湯(花園町) 高村 悦子さん
名前の由来はダルマの如く、どっしりとかまえていたいという願望からなのでは(かたりつがれる町 小樽/小樽道新販売所会)と記事にあったように、水色ののれんがなびき、堂々とした建物であった(写真1)。昭和6年に開業したそうで、中に入ると立派な番台があり、また湯船は円形であった。
また花園銀座商店街に面し、飲食店やバーなどが多いため、かつてはそこで働く女性が多く利用していたそうだ。現在の客は地元の高齢者が多く、特に一人暮らしの高齢者にとっては、家のお風呂を沸かすよりも銭湯の方が便利なため、愛用されている。
しかし、近年の重油価格の高騰や設備の老朽化などの理由で、2008年10月に閉店となってしまった。80年近い歴史があるだけに、北海道新聞に取り上げられるなど、常連客に惜しまれた。

◎ 神仏湯温泉(住ノ江町) 大畑 満眞さん
オーナーの大畑満眞さんは小樽公衆浴場商業協同組合の理事長を務める。
明治の中頃よりあった“如神湯(じょしんゆ)”を昭和5年に先代が譲り受け“住ノ江湯”と改名し営業を始めた。その後昭和11年に木造3階建てになり、信仰心のあつさから“神佛湯”と命名された。昭和62年に1300mの堀削により温泉が湧き出た。平成元年に現在の鉄筋コンクリートの3階建て(写真2)になり“神仏湯温泉”となった。

また、先代が石川県の和島から移住してきたそうで、小樽に北陸出身者が多いのは開拓期が重なったからなのではないかということ、さらに大正時代、手宮鉄道が現役だった頃は鰊漁も盛んで、銭湯も栄えていた、という話を聞くことが出来た。

◎ 潮の湯(勝納町) 松原 ヒデ・良勝さん
昭和六年に佐藤さんという方が浴場経営を始め、10年から堀さん、そして16年から松原さんに引き継がれた。名前の由来は、昔この地帯は砂地で海が近かったため、最初に開業した人が潮の湯と命名したのだそうだ(かたりつがれる町 小樽/小樽道新販売所会)。
松原さんの先代もまた北陸の福井県から移住してきたらしい。昔はすぐ横に木工所があり(現在は家電量販店)、そこの労働者が月極で利用していたり、近くの高校の下宿生、また漁船で働く労働者や小樽進駐軍の軍人などの利用も多かったそうだ。
さらに小樽には新潟県佐渡からの移住者が多いようで、松原さんの記憶によると“佐渡県人会”という札を掲げている家が昔よく見られたそうだ。
潮の湯は100%井戸水を利用しているために塩分が多く含まれているそうで、実際に入らせてもらったところ、身体が芯から温まり、開放的な浴槽は身体も心も癒してくれた。
また番台も現役で、何十年も使い続けているマッサージチェア(写真3)なども味のある雰囲気を醸し出していた。

滝の湯温泉(色内町) 八田 航治さん
先代は福井県から移住してきたそうで、初めは道内で農業を、その後昭和25年に親が開業した。近くには商店街もあり、人通りが多く、商店街を抜けた川沿いに位置している(写真4)。

3・4年前までは地下に温泉があり大人気であったが、安全上の問題などから廃止され、それと同時に番台もなくなり、今はカウンターになっている。
八田さんもまた、「石川や福井の人は我慢強い」と話しており、「鰊漁で栄えた頃にやはり銭湯も繁栄していたが、戦後の内風呂の普及に伴いその需要が減ってしまった」と、銭湯の経営を続けていく厳しさを教えてくれた。
しかし、最盛期の頃は1日に1、000人もの人が訪れていたらしく、5・6年前までは、担任付き添いのもと小学校のクラス単位で銭湯に来ていたらしい。これは銭湯に入るマナーを覚えるためのものであった。八田さんは“コミュニティの場・教育の場”としての銭湯を大事にしており、その存在意義を語ってくれた。
さらに、八田さんの兄妹が大阪で銭湯を経営している、ということを教えてくれた。

以上が今回の調査で得た情報で、その結果、①鰊漁の繁栄と銭湯の繁栄は関連性があった、②北陸からの移住者による銭湯経営は確かであった、③また小樽から大阪への移住もあった、ということがわかった。
そこで、小樽での調査後、滝の湯の八田さんの兄妹が経営している、大阪府の銭湯を訪ねることにした。

第4章 小樽から大阪へ

◎ 松の湯(東成区大今里) 松山利枝さん、山西順子さん
八田さんの姉(松山利枝さん)がもとよりあった銭湯を引き継ぎ、現在は妹夫婦(山西順子さん)が経営している(写真5)。

これより前は生野区で銭湯を経営していたらしく、昔の経営者は銭湯を転々としていたらしい。
十数年前までは近くに小樽出身者による銭湯がいくつかあったらしいが、今では皆辞めてしまったそうだ。小樽から移住した経緯については、身内や知人を頼ってきたのだろうとのことであった。
昔ながらの商店街を曲がった住宅街にあるため、客層は地元のお年寄りが多いという。午後3時からの営業だが、インタビュー中も客が絶えず、地元住民に愛されている様子がうかがえた。

◎ 清水湯(中央区西心斎橋) 八田 計三さん
17歳の時に小樽の滝の湯を改装し、その後大阪へ移り昭和38年にもとよりあった公衆浴場を買い取り清水湯を開業した。周囲には大手百貨店やアメリカ村などがあり、若者も多い。現在の建物は昭和61年にリニューアルオープンしたもので(写真6)、3階建ての造りになっており、1階はエントランス、エスカレーターを上がると番台と脱衣所、さらにエレベーターで3階へ上がると浴場に到着するといった、一般的な“銭湯”のイメージとは少し違った、斬新な造りになっている。この斬新な設計は全てオーナーの八田計三さんのアイデアによるもので、視覚的魅力よりも、より利便性を追求した機能制重視の設計となっている。

さらに八田オーナーは“今までの銭湯”より“これからの銭湯”を常に考えており、朝風呂・サウナの導入・ラドン風呂の導入・温度差のある湯・エレベーターの設置など、多くの独創的なアイデアを取り入れた。この経営努力に伴い、昭和43年には「清水湯愛好者の会」が発足した。また多くの銭湯経営者が清水湯へ見学に訪れ、そのアイデアを学んだという。その中の一人が後に、今や全国展開している“スーパー銭湯”を展開した。今のスーパー銭湯があるのはこの清水湯があってこそだと言っても過言ではない。
八田オーナーは銭湯の客離れは時代のせいだけではなく、経営者側の努力の問題でもあるとし、今後さらに新しい“何か”を提供していかなければ、と話してくれた。

第5章 まとめ

 今回の調査により、
①銭湯の経営者に北陸出身者が多いのは、その生活環境(雪国の厳しさ)により、忍耐強く我慢強い気質を持っているため、銭湯の経営に向いていたのではないか。
②小樽に銭湯が多い(多かった)のは、鰊漁の繁栄と関連があった。
③大阪への移住は、そこで成功した身内や知人を頼ってという場合が多いのではないか。
④銭湯は地域の人々とのコミュニティの場であると共に、子供達がマナーを身につける大切な教育の場である。
ということがわかった。
 各時代、各銭湯によりその歴史は様々であるが、港や漁船で働く労働者、スナックで働く女性、マナーを学ぶ子供達、そして一人暮らしの高齢者、習慣となった地元の人々、家族や仕事帰りのサラリーマンなど、それぞれの時代にそれぞれの需要があることは確かである。
今後、いち利用者として、銭湯がどのように変化していくのか、人々の意識がどのように変化していくのかを見守りたい。

謝辞

本研究を進めるにあたり、多くの方々にご協力いただきました。
小樽市立図書館の皆様、小樽市総合博物館の石井直章先生、聞取り調査に協力してくださった大畑満眞さん、田中康弘さん、高村悦子さん、松原ヒデさん、松原良勝さん、八田航治さん、八田計三さん、山西順子さん、松山利枝さん、そして論文構成などの指導
をしてくださった島村恭則教授、本当にありがとうございました。

文献一覧

小樽市博物館
 2004 「小樽の銭湯いまむかし 〜のれんのむこうはパラダイス〜」
小樽観光大学校
 2006 「おたる案内人 小樽観光大学校 検定試験公式テキストブック」
西村雄郎
 2008 「大阪都市圏の拡大・再編と地域社会の変容」ハーベスト社
総務省統計局
 2008 『社会・人口統計体系』
総務省   
「事業所・企業統計調査」
厚生労働省 
「衛生行政報告例」
 2009 「公衆浴場業の実態と経営改善の方策」
全国生活衛生営業指導センター
      「生活衛生関係営業ハンドブック2008」
小樽市
 1990 「小樽市史 10巻 社会経済編」
日本電信電話公社
 1972 「後志地方 職業別電話帳」
小樽市保健所
 1966 「保健所年報」
北海道新聞
 2009 「北海道新聞2009年9月13日」
小樽道新販売所会
      「語り継がれる町 小樽 第1号〜7号」
 
http://www.seiei.or.jp/advice/doukou/05.html

http://www.tonashiba.com/ranking/pref_livingspace/store_p/10020011

樺太(海馬島)引揚げと小樽

樺太(海馬島)引揚げと小樽
大木 言葉

1.日本と樺太
1−1.樺太の歴史

 樺太は北海道のさらに北に位置する島で、面積は北海道よりも少し小さい。北緯50度を境界とし、南側を南樺太、北側を北樺太と呼ぶ。現在樺太にはロシア連邦サハリン州を置いている。北樺太は、国際法ロシア連邦の領地と認められているが、南樺太に関しては、いかなる国にも属していない。北海道とは兄弟のような関係であり、昔は樺太にも先住民の樺太アイヌが住んでおり、狩猟や漁労を中心とした生活を送っていた。また、大陸や中国とも関係を持っていた。日本と樺太の関係がはっきりと確認できるのは、江戸時代に作られた日本地図に樺太が含められていたという事である。
16世紀頃から、ロシア帝国は勢力を拡大し、19世紀までには北千島を勢力に収めた。樺太にも関心を持ち、ロシア領としたいと考えていた。樺太対岸地域の黒竜江左岸は中国の清王朝の領地であったが、のちにロシア帝国との共同管理地となり、黒竜江左岸のすぐ横に位置する樺太は、列強の脅威にさらされることとなる。日本にも、ロシア帝国が訪れ、通商を求めた。また、1855年には、日露和親条約が成立し、樺太の南部の日本人居住地は日本領であるということが成立した。しかし1866年には、武力を背景とした外交により日本の領地はロシアとの共同管理地となる。
1969年(明治2年)北海道と樺太の開拓促進のため、開拓使が設置された。だが、樺太は共同管理地であり、ロシア帝国に奪われかけの状態であり、明治政府は北海道の開拓を優先させている。その間にロシア帝国は、囚人や軍人小役人を樺太に送り込み、明治政府は樺太の管理は不可能と考える。1875年には、千島樺太交換条約により、北千島18島と引き換えに樺太はロシア領となった。だが、ロシア帝国にとって、樺太流刑地の役割しか果たしておらず、開拓や発展はしなかった。
1904年(明治37年)日露戦争により日本は樺太の奪還を進め、樺太全島を占領する。1905年(明治38年)に戦争終結のため日露講和会議が開かれ、日本は占領した樺太の北(北樺太)を露国へと譲渡し、正式には同年のポーツマス条約により、明確に北緯50度を境として日本領とロシア帝国の境界ができた。以後、シベリア出兵に伴い、一時期日本は北樺太をも占領するが、正当化できないなどの為、シベリア撤兵と同時に北樺太を放棄する。(大正14年)
こうして第二次世界大戦が終わるまでの約40年間までの樺太の姿が出来上がったのだ。




1−2.日本領として
  
1907年(明治40年)樺太庁が置かれ、樺太は日本の都道府県と同じ位置づけをされた。
樺太の地名も改称され南樺太の開拓は進んでいく。ポーツマス条約が結ばれた年(1905年)から、民間人は樺太へ渡るようになる。多くは北海道出身者、もしくは東北地方出身者と言われている。北海道の更に北に位置する樺太は、気候や風土も大変厳しく、遠隔の地として人口は簡単には増加しなかった。政府は樺太開拓を進めるため、樺太移住者への優遇政策を実施した。また、明治政府の調査から、森林資源と石炭資源が豊富であることが判明していた。森林資源はのちに、みだりに木を伐採したことにより衰退の予見がされていた。そこで次に炭鉱産業が目を付けられ、盛んになったとされる。森林資源に関しては、三井の傘下である王子製紙会社が、1910年頃に当時、東洋最大の能力があると言われた新聞紙用の工場を、北海道に建設した。それに続き、1914年樺太内、初めての製紙パルプ工場が大泊に建設される。この、パルプ工場と炭鉱により人口は大きく増加したとされる。 

1−3.戦前

戦前の樺太は、前にも書いた通り、炭鉱とパルプ、そして漁業を中心とした産業が発達した。鉄道も、樺太庁鉄道が走っており、豊原と真岡はもちろん、最も北は半田、南は大泊、内幌まで路線は伸びていた。また、鉄道と同様に移動手段として、稚内と大泊を結ぶ稚泊連絡船が、北海道と樺太を結ぶ重要な役割を果たしていた。片道は8時間で北海道の稚内へ移動可能であった。定期船は小樽や函館間も頻繁に利用されていた。豊原と真岡は中心都市として、多くの人々で賑わっていた。豊原は小札幌と言われ、町を作る際も、札幌に見合って碁盤の目状に作られ、南樺太全島民数はピークの際は約40万人いたそうだ。しかし当初、厳しい気候の樺太へは移住者がなかなか集まらず、樺太庁は手厚い優遇策をとり、炭鉱夫の給料は、他の土地の2倍はあったとされる。
 
1−4.戦後の樺太

1945年(昭和20年)2月に、ロシアと国境を隔てる樺太には防衛のために樺太師団が結成される。しかし同年の8月9日、ソ連は日ソ中立条約を無視し、樺太へと侵略を始める。この年の夏頃から南樺太の北にある恵須取付近では、ソ連軍による飛行機の往来が激しくなって、偵察されているようであったと言う。敗戦の色が濃くなってくると、北の南樺太の住民は危険を感じて、内地へ避難する人が現れ始める。本土と同様に防空壕が掘られ、人々は防空頭巾を被り、警戒体制が続いた。8月9日に侵略を開始したソ連は徐々に南下を進め、日本が無条件降伏をした15日までに北に位置する町は爆撃を受け、ソ連軍は進行していた。住民は南を目指して逃げまとった。15日の降伏により戦争は終わったとされるが、ソ連樺太の占領は絶対とし、日本が送った停戦の使者を殺してしまい、以降も戦争を続けた。日本で地上戦が唯一行われたのは沖縄だというのは間違いで、樺太も地上戦があったのだ。20日にはソ連軍は20日に真岡から上陸を開始する。上陸時、真岡郵便局の9人の女性たちは、少しでも長く緊急事態を伝えようと電話交換業務を続けていた。避難許可は出ていたものの彼女らは逃げずに通信を続け、「さようなら、さようなら」との通信を最後に、毒を飲んで集団自決を行い亡くなっていった。この話は真岡郵便局事件として世に知られ、若くして亡くなった9人の乙女達の慰霊碑は、稚内の公園に建てられている。このような、集団自決は、様々な場所でも行われていたようだ。看護婦であった女性もまた、逃げまとった末に最後に30人ほどで病院の薬を飲み、自決を図ったと『北の海を渡って−樺太引揚者の記録』(昭和51年 創価学会青年部反戦出版委員会)の記述が残っている。運良く、8月の避難時に樺太から宗谷海峡をわたって日本に帰れた人もいたが、多くは昭和22年に引揚げが再開されるまでの間、ソ連による統治下のもとに生活することを余儀なくされた。同年の8月23日ソ連軍の代表が、豊原市に到着し本格的な占領が始まったとされる。全てのソ連兵が、金品を奪ったり乱暴をしたりはなかっただろうが、そのように、手荒な扱いを受け、ソ連に対して反抗的な態度を取ると逮捕されたり、不当な理由により多くの犠牲者が出た。また、ソ連兵は日本人の家に住み、一番良い部屋に案内させて、家主ら家族は台所で寝ていたという証言もあり、やはり辛い生活に追いやられていたことは明らかだ。樺太の小学校も、ソ連の子供と日本の子供の教室に分けられ、大変仲が悪かったらしい。

1−5.引揚げ

ソ連軍の進行により樺太の住民は、引揚げ船をもとめて、大泊などの大きな港がある街を目指した。しかし、ソ連軍の進行は早く22日にスターリンが、停戦を命じるまでの間に、引揚げられた人は多くない。また、樺太に一番近い稚内には人が収容しきれなくなり、小樽や函館などにも多くの引揚げ船が向かった。だが引揚げ船にも悲劇は起きたのである。ソ連軍の潜水艦が引揚げ船を攻撃。小笠原丸、第二新興丸、秦東丸の3隻の内、第二新興丸以外の2隻は撃沈。第二新興丸も大破し多くの犠牲者が出た。その数は1700人以上とされる。引揚げ後の生活も、苦労を極めた。小樽市では、経済的に交流の深かったため、約1000人の親戚や身寄りのない人々を受け入れたとされる。しかし、引揚者収容施設として使われた建物は古く、生活環境は好ましくないものだったと北海道新聞は記事を掲載している。衛生状態が悪く、部屋は窮屈。周辺住民からは、建物は防火の面でも不十分であり、火災の危険性も高いことから、改善の声が上がっていた。昭和41年度引揚者収容施設廃止の5カ年計画により、入居者は徐々に、市の公営住宅などに移転していき、収容施設は姿を消していった。

2.海馬島
 2−1.海馬島とは

 正式名称を、樺太本斗海馬村と称する。地形は山岳地帯のようで、ほとんど平地は見られない。現在は無人島。
しかし、樺太と同様に終戦の秋頃まで人々が生活をしていた。海馬村を形成し、人口は約750人であったとされる。13の集落が点在し、中心は最大集落の北古丹であった。島民のほとんどが漁業関係者であり、海産物の本当に豊かな島であった。小学校も2つあり、郵便局や役場なども存在するが自然の豊かな村であった。戦後の引揚げ以後、現在に至るまで無人島となっている。手つかずの自然の宝庫として近年注目される。

 
 2−2.海馬島の始まり
 
 明治37年留萌の資産家、五十嵐億太郎が、仲間50人と共に無人島であった海馬島に上陸する。彼らの目的は鰊漁であった。莫大なお金を賭けて島を巡る道や、鰊漁の漁師が住む家などの建設を始める。人口も増え続け、のちに鰊により資本が出来ると、村役場や郵便局、寺院に小学校なども出来上がり、海馬島は発展していった。

 2−3.海産物の豊な島

 海馬島は海産物の宝庫であった。1923年(大正12年)の記録によると漁獲量は1万5000石とされており、大正末期まで豊漁が続いていた。鰊の大群が去って行った後でも、島は磯漁に転換しウニや昆布、鰊以外の魚などが豊かで、容易に生計は立てられたとされる。また、どれもこれも美味で立派なものだったと言う。オットセイの繁殖期になると、浜にはオットセイが大群で押し寄せ、その騒音は眠りを妨げる程であった。

 2−4.戦後

 終戦後も、しばらくはソ連軍の進行は無かったとされる。しかし、いずれやって来るだろう恐怖から、島民は脱出を早くから望んだ。各集落で船を手配したり、稚内の兄弟に船を要請したりのおかげで奇跡的にも、全島民の引揚げが成功したとされている。
南古丹では、ソ連兵と10日ほど一緒にいた方々もいるが、シベリアに送られる寸前に脱出を成功し、無事に逃げることができたようだ。

 2−5.引揚げ

 最も多くの人々が引揚げたのは、一番近くの利尻や稚内である。また、南樺太と同様に小樽、函館に移った方も多い。稚内は行き先のない人々が大勢詰めていた。海馬島も、着の身着のまま脱出した人々ばかりである。
島で得てきた財産は全て手元を離れてしまい、皆が無一文からのスタートを切る事となった。

3.海馬島引揚者 山崎商店のライフヒストリー
 3−1.山崎商店さんの歴史

 正式名称「株式会社 山崎商店」北海道小樽市色内2丁目18番13号に店を構える。創業1908年(明治41年)。今年で創業102年目となる(2010年現在)。海産問屋・珍味製造卸を手掛ける。現在の社長は山崎照弥さん。照弥さんの祖父、彌作さんが、海馬島にて山崎商店を創業。海馬島では漁業(特に鰊漁)を中心としていたが、様々な日用品も取り扱っていた。海馬島においては、船を2艘所有していた。終戦の引揚げ時に使用される重要な役割をはたす。戦後、山崎さん一家は海馬島から小樽へ引揚げ、場所を移し再スタートを切る。現在の場所よりも少し違った位置に店を構えており、土地の整備により現在の場所に至る。
当時は現在よりも広い土地に、海産物の倉庫として石蔵が建てられており、最も鰊が栄えていた時期には現在の3倍程度の広さであった。

 3−2.山崎彌作さん

1891年(明治24年)農家の次男として生まれる。福井県出身。当時、農家の次男や3男は、開拓に行く、もしくは丁稚奉公に行くことが普通であった。彌作さんも樺太開拓民として、樺太を目指すが、途中で船が難破。偶然にも海馬島にたどり着く。
当時の海馬島は、ほとんど無人島状態であり、彌作さん達一行は海馬島にて0からのスタートを始めた。
海馬島では、主に漁業を中心に生計を立てていた。海馬島は海産物が、大変豊かな島であり、現在日本の昆布ではラオスが日本1とされているが、海馬島の昆布は更に立派なものであったと言う。彌作さんは漁場を持ち、のちの山崎商店の基礎を作っていく。また、海馬島の村長を務め、山崎商店では海産物からタバコまで幅広い品物を置き、島の中心を支えていた。戦時下の食糧統制時代になると、山崎商店は、配給所としての役割も担った。そして、1945年(昭和20年)8月15日終戦を、海馬島にて迎える。
上記にも、記したように海馬島は全島民が避難をしたと言われている。確かな日にちは分かっていないが、同年の秋頃に彌作さん一家も、小樽へ引揚げたとされる。その際、彌作さんの所有する船が引き揚げ船として使用されたと言う。
小樽へ引揚げてからは、彌作さんにかわり、息子の利秀さん夫婦が闇市を始め、1955年(昭和30年)頃からは利秀さんに社長が譲られる。海馬島の会の会長を務め、1977年(昭和52年)に亡くなられる。


 












3−3.山崎利秀さん
  
 1921年(大正10年)海馬島に生まれる。海馬島にて、少年時代を過ごし徴兵で昭和17年島を離れたが終戦後、小樽へ引揚げる。引揚げの際、いくらか家の資産を持ってきたはずであったが、戦後のゴタゴタにより、資産となるものは一切なく小樽で0からのスタートを切る。闇市から商売を始め、のちに以前から、親密であった友人に土地を譲り受け、小樽にて山崎商店を始める。
利秀さんは、小樽博覧会のために、「海馬島慕情」という歌を作詞する。「海馬島慕情」は6番まであり、披露会で披露したところ好評となり、3番にまでまとめた「嗚呼海馬島」を発表したと言う。平成10年まで、海馬島の会の会長を務め、年に1.2回の会合を開いていた。会は海馬島への訪問も2度実現し、利秀さんは行かなかったものの、5つ下の弟さんは現サハリンを経由し、2度の訪問を実現した。

*「嗚呼海馬島」 歌詞全文*
 作詞 山崎利秀
 作曲 竜鉄也 「山の駅」のメロディー

 1番
 日本海は最果の 利尻の北の浪の上 青い島影故郷は 幼き思いの糸車
 ああいつの日に帰いる 母の島
 2番
 のぼる朝日の三島や いか釣る夜の灯台明り 鷗沢の村祭り 夏は「昆布」で光る浜 
 ああ涙にくもる 母の島
 3番
 山で魚取る大沢の 薫る「ハマナス」帆掛岩 「オロロン」群がる磯浦に しのぶ鰊場
 沖揚音頭 ああ見る夢も悲し 母の島
 4番
 君の便りは暁丸の 気笛なつかし中の島 出舟入舟「うす」の湾 
 ああ想出も悲し 母の島
 5番
 かもめ賑わう烏帽子岩 飲んでうれしい「あね子湾」 祈る夕日は釣鐘岩や 
 ああ瞼に浮かぶ 母の島
 6番
 吹雪の夜は「カルタ」とり 共に暮らした「ランプ」の明かり 戦のために征きし友
 英霊(みたま)の帰る里はなし ああ涙にうるむ 母の島
 
[遥かなる海馬島P9−10引用]

 3−4.山崎照弥さん
 
1955年(昭和30年)小樽市に生まれる。山崎商店3代目社長。生まれも育ちも小樽。
幼少期に祖父の彌作さんから、海馬島の話を聞いて育つ。山崎商店の創業年について昭和21年からとしていたが、海馬島の昔の写真を見ると、山崎商店と書かれたハッピを着た人が、写っていることに気付き、創業年を祖父の彌作さんが、海馬島に着いたとされる明治41年と変更する。海馬島に関する話を知ってらっしゃる数少ない方である。


 3−5.海馬島の会
 
 海馬島からの引揚者により結成。自然と人が集まり1974年(昭和49年)頃に結成されたという。会員は1989年当時約250人いた。
全国に会員はおり、特に利尻や礼文島に多くの引揚者の方々がおられた。年に1.2回の会合を開いては故郷の事を語り合った。本部として、山崎商店さんに海馬島の会、本部の看板が下げられていた。会は2004年、会員の高齢化の為に解散される。がしかし、その間に二度の訪問を実現し、記念誌として小林與一郎さんが『遥かなる海馬島』を制作した。

 3−6.小樽の街とのつながり
 
 小樽には、樺太から引揚者が大勢来た。小樽の人口がピークになった1964年(昭和34年)小樽全体の人口が20万7000人に対し、引揚者の人口は1万人いたとされる。山崎商店さんのように、以前から仕事で取引があった人もいたが多くは見知らぬ土地へ引揚げることなった人々である。現在も三角市場には、自身は樺太で生まれてすぐに引揚げてきた方や、祖父母の代は樺太にて商いをしていた方々など、実際に樺太に住んでいた記憶を持つ人を見つけることは困難であったが、子孫の方々から樺太に関しての貴重なお話を聞くことができた。また、戦前は小樽と樺太間には定期船があり、樺太の人々が買い物に来たという。

4.まとめ
 樺太は、日本とロシアの中間地点として、昔から領地が争われ続けていた。それは、近代になればなるほど激化し、樺太に住んでいた原住民はもちろんのこと、多くの被害者が出ているのは間違いない。今現在は、ロシアのサハリン州が置かれているが、戦前の建物がそのまま現存しており、歴史の跡がはっきりと残っている。帰りたいと思う人は沢山いるし、これからも樺太については、考えていかなければならない問題である。

*レポートの制作に関して、小樽市の皆さん、加藤薫さん、海馬島に関しては山崎照弥さんに多大なるご協力を頂いたことに深く感謝申し上げ、ここに謝辞とさせて頂きます。2010年1月12日 大木言葉

文献一覧
三木理史
 2006年 『国境の植民地・樺太塙書房
井澗裕
 2007年 『ユーラシア・ブックレートNo108 サハリンのなかの日本』東洋書房。
創価学会青年部反戦出版委員会
 1976年 『戦争を知らない世代へ⑱北海道編 北の海を渡って 樺太引揚者の記録』第三文明社
小林與一郎
 2004年 『遥かなる海馬島』。
高橋是清
 2008年 『絵で見る樺太史』太陽出版。