保 智也
はじめに
小樽市は歴史的観点から見ても大きな商業都市であった。江戸時代は鰊漁で栄えたため港が作られ、明治に入り炭鉱の採掘と同時にその運搬のために鉄道が敷かれるといったように早い頃から交通機関が充実していた。昭和33年(1958)には人口は最盛期となり、20万人近くまで達したが、それをピークに人口は減少し続け、現在(2009)では14万人を切ってしまった。そのような状況下で小樽市は人口比率から見ても“市場”が非常に多く、その土地の利用は時代背景の影響を強く受け、変化してきた。市場は庶民の台所であり、個人の集合体である。その特殊なコミュ二ティが形成される過去を遡り、現在に残る痕跡、いわば「市場の記憶」を見つけ、歴史的価値を見出すことが本研究の目的である。
第1章 小樽の市場
小樽の市場は、満州や樺太からの引揚者がはじめた露店商が起源となっていることが多い。当時、日本自体も戦争終了後で、経済状態が悪かった。そのため、引揚者が日本に帰国しても仕事がなく、生活するために露店を道端に開いた。
現在では、中央市場、中央卸売市場、三角市場、妙見市場、入船市場、南樽市場が主要な市場として営業を続けている。しかし1970年代からスーパーやコンビニエンスストアといった販売量販店が現れたことと、小樽市内の人口減少、経営者の高齢化といった多くの問題を抱えていることが小樽市場の現状である。錦町にある妙見市場を例に挙げると最盛期の約100店舗から19店舗まで減少してしまった。写真はその空き店舗の状態である。
そのように停滞気味にある市場の現状であるが、観光産業の視点から集客を狙う方向へと市場自体の形態が移行してきている。1993年3月に大規模な商業施設である「マイカル小樽」がオープンした。その年には、観光の集客人数としてはピークの900万人に達し、小樽市の観光産業が就業人数の4分の3を占めるほどとなった。それに伴なって駅、主要道路などの交通機関網は整備されたのだが、この交通機関の変容が市場の形態の変化と関わっている。特に1999年にオープンした小樽で最も新しい市場である、新南樽市場はその象徴と言えるだろう。
新南樽は築港に位置しており、駅からはかなりの距離がある。一見した限りでは、観光客が集まりにくい場所に立地しているように思われるのだが、この店の横には主要道路である国道5号線が走っており、またその先には札幌自動車道がある。(どちらの道路も札幌市に繋がっている)
つまりこの南樽市場はバスの観光客をターゲットに当て、観光客がお土産を購入する市場としては非常に寄りやすい場所に位置しているのである。 またこの新南樽市場は販売量販店と市場が複合した形態をとっており、写真をみても分かるように、販売量販店と市場の境目がはっきりしている。
このような立地で形態をとる新南樽は現在の市場情勢を表していると捉えることができる。
では新南樽市場のような観光客向けようの新しい市場に地元の小樽市民は訪れるのだろうか。答えはノーである。これは筆者と小樽駅のタクシードライバーとの会話を抜粋したものである。
「最近の小樽市内の市場は観光者向けの商品を置くことが多くなってしまったね。とくに新南樽市場や三角市場のような大きいとこは商品の鮮度があまりよくないし値段が高い。メディアに取り上げられて観光客は来ているようだけど地元民が買いに行く機会は依然と比べても少なくなっていると思うよ。」
このことは地元の漁師や10年以上小樽で商いをしている方にインタビューしたのだが同じような回答であった。
しかしこのような観光用に転身する市場が現れることは人口が減少している小樽では、生き残るための策であり、今後もこのような体制を取る市場が増加していくのではないかと思われる。
最近の大手スーパーでは、漁師と直接契約を交わすことで中間業者のマージンをなくすことで低価格で鮮度の良い商品を提供する試みがなされている。そのような手法を用いてくる販売量販店に対して市場側が集客を狙う政策として新南樽市場ではあえて消費者に対して呼び込みを禁止するなど、買い物客が寄りやすい環境を作り出すことをしている。
対面商売から販売量販店のような商売方法をとる市場が現れることは市場経済の状況のためであると思われるが、これから消費者は市場の価値に対する見方を変えていく必要があるのではないだろうか。今後の市場の動向を見守っていきたい。
第2章 防火用地から市場へ
小樽駅から徒歩10分ほどの比較的近いが、主要道路からはずれ、入り組んだ場所に中央市場がある。中央市場は1946年、木造バラックの2棟からスタートした市場であった。この市場の構造は写真のように縦長になっているのだがその理由は、“防火用地”として空けられていた土地のスペースを利用して引揚者たちが露天商を始めたためである。
もともと明治時代までは木造建築が主流だったので火事が多発していたのだが、特に小樽市は海が近い町であるため、風が強く大都市の中でも火事の起こりやすい町として有名であった。そのため、このスペースを作ることにより特定の場所で火事が発生したとしても全体に燃え広がることを防ぐことができるのだった。戦後になり、建築物が鉄鋼に変わっていくとその空き地は意味のないものとなってしまい、引揚者たちが利用したという訳である。
この写真は、中央市場が建築される以前の防火用地としてのスペースと現在の姿である。写真を見て分かるように左側が木造建築の民家であり、道路を挟んで右側にあるスペースが防火用地だ。この用地が中央市場の建設用地となった。
当初、木造建築だった中央市場は建物自体の耐久性に問題があり、1953年に建て直された。1階は市場、2階は分譲住宅という珍しい建造物であることから“下駄履き市場”と呼ばれることとなった。
この下駄履きというのは1階が通路で2、3階が住宅である形が下駄履きのようだったからである。またこの市場は(写真5)船見坂に沿って3棟からなっており、1954年に2棟、1956年に3棟と建造され完成に至った。
当時としては水道管を通すなど、水回りの設備が整っており、最新設備と住宅を兼ね備えた市場として非常に活気のある状態であった。しかし現在ではこの中央市場も他の市場と同様に活気を失い、経営的にも冷え込んでしまっている。
建築当初は70世帯以上、入居していたが、現在では1ケタ台になってしまい買い物客が離れてしまったことは市場が衰退してしまったことと比例しているようであった。
市場の周辺でハンコ屋を経営している方にお話を伺ったのだが、
「周辺の商業施設も同様に廃れてしまった。駅前周辺から離れている立地での集客は非常に難しい。」と厳しい状況に悲観的な意見を述べていた。
防火用地のスペースに引揚者が露店を開き、下駄履き市場のような構造をした建造物の歴史がある中央市場はそれ自体に価値がある存在であると見ることができる。そのような存在価値を持つ市場をこれからどう保存していくかが、これからの課題である。
3章 川と市場
小樽駅から北側のほど近い場所に妙見市場がある。
妙見市場は三棟からなりその特徴として市場が“川の上”にある。こちらの妙見市場の起源も先ほど2章で登場した中央市場同様、引揚者が川沿いに露店を開き、雨をしのぐために屋根を取り付けたことが始まりとなっている。
写真の下に流れている川は於古発川(おこばちがわ)であり、1962年に洪水が発生し市場全体が流されてしまったという経歴もある。以前はこの市場の建造物も住宅の機能を果たしていたのだが、新しく建て直された現在の妙見市場は商店のみが入っている状態で、地元民を対象とした経営を行っている。この於古発川の下流は妙見川といい、現在では“暗きょ”(覆いをしたり地下に設けたりして、外から見えないようになっている水路)となり、寿司屋通りとなっている。
妙見市場は地元民を対象としているので、総菜屋から、ベーカリー店、理髪店など生活に関わる店舗が入っている。そのような形態をとっているが、最盛期では100店舗あった妙見市場も今現在では19店舗まで減少してしまった。
これは内部の状態だが、多くのスペースが空き店舗になってしまい、人通りもまばらだった。
妙見市場の事務職員の方にこのような市場離れの対策として何をしているのかという質問に
「今は特売や曜日限定で割引セールを行うことで集客を狙っています。確かに以前に比べて人は減ってしまいましたが、このようなイベントを行うとお客さんは集まってくるので今後も様々なセールスを考えていきます。」
という回答が返ってきた。実際、妙見市場は他の市場と比べて、チラシの作成をしたり、特売セールスを行うなど活発に活動しているように見られた。また住宅地に挟まれて営業しているので、立地条件としては好条件であることから、市場としてのにぎわいを取り戻せる可能性は高いと思われる。
市場の形として通常は、図1(ブログでは省略。以下、同じ)のような正方形や長方形の構造を考えてしまうが、小樽の市場の多くは、図2(ブログでは省略。以下、同じ)のような細い長方形の構造をしている。新南樽などの比較的新しい市場は、通常の図1であるが、妙見市場や中央市場、三角市場は内部に細い道が通っており、その両側に店舗を構える構造になっている。この図2のような構造をしている市場は引揚者が使用していない公共のスペースに露店を構えているのが起点であるという共通点があり、店舗の流れがそのまま市場の形になっているというのが図2のような特殊な形をしている市場の理由である。今回の研究では小樽の市場に焦点を当てているが、全国にある市場で図2のような構造をしているものは引揚者、またはそれと同じような存在(仕事がなく、生活のために露店を開く人)なのかもしれない。
4章 道路と市場
三角市場は、小樽駅の横にあり、メディアにもしばしば取り上げられるので観光客の多くが立ち寄る。三角市場は正式名称ではなく、正式名称は「小樽駅前市場」であるであり、三角の由来は市場全体の形が三角形を成しているからである。この市場も引揚者の露店が起源であり、その引揚者の子孫が現在でも商店の営業している。
この市場の特徴として市場の中央に道が存在するのだが、その道は道路、つまり公道であり、現在は商店が並んでいる通りにも以前はトラックや荷車が通行していた。この道路に引揚者が露天を広げ、中央市場、妙見市場同様、屋根を作り、図2のような構造の市場が形成されていった。
この市場は駅前にあるという立地もあり、多くの観光客が訪れるが、そのため地元向きの商店はほとんど建ち並んでいない。地元志向は強いのであるが、ニーズが変化してしまうと商品も変えざるをえないことが現状のようだ。
海産物を取り扱う商店の方に現状のお話しを聞いたのだが、「この店は初代が引揚者で、この小樽で商売を始めたことがきっかけだった。当時は冷凍技術などあるわけもなくて干物や鮭を取り扱っていた。今でこそ生きている蟹など観光客に受ける商品を置くことができるが、それまでは大変だった。」
保存技術が低い当時は生きた蟹など生簀(いけす)を必要とする、観光客が購入する魅力的な商品が置けなかったのだ。観光客向けにシフトした三角市場も技術変化に伴ってその形態を変えていったという歴史があった。
5章 まとめ
以下にこの研究でわかったことをまとめる。
・小樽の市場は引揚者が露店を開き、その露店が現在の市場の起源となっていることが多い。比較的新しく建設された市場の形は図1のような市場全体が均衡をとれている形がほとんどであるが、露店が起源となっている市場は図2のような長い通りを挟んで商店が並ぶ形になっている。
・市場という市民の台所は歴史的に商業形態を変えつつある。それは技術の向上から、ニーズによって商品をかえることができたということや、消費者に対する呼び込みの禁止といった対面販売を嫌う現代の風潮のためである。
・歴史的な意義のある市場が多い。特に中央市場の下駄履き市場や妙見市場の暗きょは引揚者の歴史が目に見て分かる建造物だった。このような価値あるものを後世に残していく必要性は感じることができた。
以上がまとめとなる。今回の研究は小樽に絞ったが、全国の市場の例を見てみると、例えば東京の築地市場は球場へ変更される案があったり、秋葉原の駅前広場もかつては市場であったなど、市場の立地は地域によって形態が変化するようである。今後は地域別に研究を展開していこうと思う。
謝辞
調査するに辺り、有限会社奥村商店様、小樽市漁業協同組合手島・高島地区区長の成田正夫氏、小樽中央市場協同組合総務の佃多哉志氏、小樽中央市場鮮魚店店主の渡部哲衛氏、小樽妙見市場商業協同組合事務長の保坂道彦氏、小樽市総合博物館の石川直章先生、島村恭則教授など多くの方々にご協力いただきました。
文献一覧
北海道新聞小樽報道部
2001 「小樽市場物語」 佐藤圭樹編 ウィルダネス
社会団体 日本建築学会
2007 「都市建築のかたち」 日本建築学会
小樽観光大学校
2006 「おたる案内人」 小樽観光大学校運営委員会編