関西学院大学 現代民俗学 島村恭則研究室

関西学院大学大学院 現代民俗学 島村恭則研究室

会費で成り立つ結婚式

冨田歩


序章 北海道と冠婚葬祭 

「会費制結婚式」の存在を知っているだろうか。北海道ではごく当たり前に行われている結婚式である。北海道は明治時代になって屯田兵により開拓された地域で、北海道民の祖先の多くは、明治時代から大正時代にかけて日本全国の都府県から道内各町村に入植して生活を始めた。
道南地方には明治以前から、隣接する東北や北陸地方から漁を求めて多くの漁民が移住した。明治時代に北海道への移住が促進されたが、特に藩政期に北前船が往来した日本海側の地方や、四国地方からの移住者が多い。このことから、北海道の社会や文化形成のベースは多くの移住者を送り出したこの地方にあるのではないかと推測できる。
本州方面の伝統的習慣とは無縁と見られがちな北海道でも、道外からの集団移民がそれぞれ地域社会を形成していた明治以降しばらくは、慶事にしろ、弔事にしろ出身区域のしきたりがかなりの重みをもって行われていた。結婚式に関して、いまも熊本県の郡部に見られるような、「仲人は新郎側・新婦側と二組あるべきだ」としていた人たち。宮城県のように新婦の里帰りは婚礼の四日目だけを外せば翌日だろうと三日目だろうとよいとする一方、静岡県人のように「必ず三日目に」と決めていた人たちなど、あちこちに本州各地の慣習が持ち込まれていた。道南地域では道南独特の葬儀がある。最初に火葬、続いて通夜、告別式の順で執り行う。出身地域のさまざまな慣行が、簡略化されたり混ざり合ったりした過程を経て、北海道に広く定着したのが会費制の結婚披露宴や金銭の香典返しをしない葬儀であったといえるだろう。

実際に会費制結婚式は北海道の人々にとってどういったものなのか、本研究では結婚式に焦点をあてた。小樽でのフィールドワークをふまえ、本レポートにおいて調査結果を報告する。

第1章 会費制結婚式とは 

道内の結婚式は会費制が主流である。会費制とはその名の通り、出席者全員が一律の会費を払い披露宴に出席し、新郎新婦を祝う。
入植者の多くの人達は本州より移住してきた人たちなので、当然結婚式は招待制の習慣だったが、結婚式をするにも生活が貧しく、十分に予算のない人がほとんどであった。そこで考えられたのが、出席者一人ひとりがお金(会費)を持ち寄り、結婚する人の負担を軽くする会費制だった。会費は生活改善運動(=新生活運動:第2章で説明)などの影響もあり、極めて低額に抑えていた時代もあったという。当時はその町や村の若人が組織する青年団が中心となっていたが、近年は、主に新郎新婦の友人や職場の人達が中心になって結婚式の案内や準備、当日の進行や運営、会費の徴収などを行う。これを「発起人」という。発起人は事前に発起人会を数回開催し、結婚する二人や両家の意向を確認し尊重する。この「発起人」といわれる人たちの存在も、会費制結婚式の大きな特徴の一つといえる。披露宴に必要な準備のほとんどを行う。

ここで招待制と会費制をいくつかポイントで比較してみる。
□ 主催者
招待制の場合は両家だが、会費制の場合は発起人が主催者となる。 また、発起人の中から代表者を選出し、これを発起人代表と呼び、祝賀会での挨拶をはじめ中心的な役割を果たす。

□ 招待状・案内状
案内状の差出人および出欠の返信先は招待制では両家だが、会費制では発起人になる。

□ 席次
招待制と会費制とでは主催者が異なることにより席次の考え方も当然、違ってくる。招待制では両家が末席になるが、会費制では発起人が末席となる。招待制の場合、双方の両親は、お客を招待するという立場(主催者)にあるため一番下座の席に座るが、会費制の場合は発起人たちが主催者で、新郎新婦やその家族は周りからお祝いされる立場にあるため、招待制とは席の配置が全く逆になり、新郎新婦の家族が上座に座り、発起人たちが最も下座に座ることになる。しかし、最近では会費制といっても親がゲストより上席になることは失礼にあたるとの考えから、末席のケースも多くなりつつあるという。

□ 披露宴と祝賀会
招待制では、新しく夫婦になった二人をお披露目するために両家がお客様を招き、飲食等でもてなすため「披露宴」と呼んでいる。一方、会費制では発起人がお客様から会費をいただき、二人の結婚を祝う会を行うので「祝賀会」と呼んでいる。

□ お祝いと会費
招待制の場合、招待された側はお祝いを事前に渡すか当日に持参するが、会費制では案内状に書かれている会費を当日受付で発起人に支払う(のし袋には入れず、現金を発起人に渡す)。親しい親族等は会費の他にお祝いも用意するが、一般客は会費だけのケースがほとんどだ。ご祝儀は基本的にはない。会費の相場は分からないが、最近では1万〜1万5千円程度。

他にも、出席者の格好にも違いがある。招待制の結婚式に出席するとなると礼服が基本だが北海道では礼服を着るのは親族くらいで、ほとんどはスーツで出席する。また、道外の人が北海道の会費制結婚式に出席した場合、御祝儀と考えていた金額に領収書が出されることにも驚くのだという。
また、会費制は出席者の金銭的な負担が少ないため、招待制の場合よりも出席者の人数が多くなるのも特徴で、200名を超える出席者が集まるということも珍しくはないという。しかし、さすがにそれだけ多くの人たちが集まると、その全員が新郎新婦と顔見知りとは限らず、両親の職場関係の人や地域の人たちなど、大抵、当人たちとは直接的には繋がりのない人たちも多く出席することになるのだ。
現在ではホテルや式場を利用する人がほとんどだが、地方では町や村の会館・公民館など公共の施設を使い、結婚式を行うケースもある。その場合、多くの事を発起人が行うので、ホテルや式場で行う場合よりも発起人の人数は多くなる。

小樽出身で小樽在住の石村洋子さんは、小樽市民会館で会費制結婚式を挙げた1人である。昭和42年(1967年)、約150人が集まり、会費1000円程度で会費制結婚式を行った。引き出物ではなく記念品としてささやかな食器やお菓子を贈ったはずだという。その結婚式の様子が下の写真だ。


写真1 神前結婚式


写真2 結婚祝賀会

神前結婚式(写真1)を行ったあと、祝賀会(写真2)が開かれた。写真から見て分かるように、祝賀会の部屋は新郎新婦の後ろにブラインドカーテンがあり、その前に金の屏風を立て、お客はパイプ椅子に座るという簡素な様子である。
発起人による出し物などで、結婚式を盛り上げたのだという。(写真3)


写真3 発起人による出し物


写真4 新婚旅行出発前

石村さんの周りにいる男性が発起人の人たちだ。(写真4)


写真5 駅のホームにて

これは結婚式が終わった後、新婚旅行に出かける新郎新婦を、発起人を含む数名で送り出すところだ。(写真5)
当時、発起人は結婚式の案内・準備から、新婚旅行の手配までが全ての仕事だった。新婚旅行の費用までもお客の会費で工面できるかどうかが、発起人の腕の見せ所だったらしい。
石村さんによると、昭和30年代(1960年代)が本来の本質を伴っていた会費制結婚式が行われていた時期ではないかという。というのは、発起人が二人のために全てを取り仕切る結婚式ということだ。1980年代からはホテル事業が参入し、商売としてホテルが結婚式の運営を行うようになってきた。また最近では、北海道だからといって会費制にこだわることもない。例えば、石村さんの娘は1990年代のちょうどバブルの時期に300人規模の結婚式を会費約1万円で行ったのに対し、息子は2000年代に身内だけでリゾートウェディングを行い、それとは別に友人とのパーティを開いたという。石村さんは、道内の会費制に多数参加された経験があり、やはり祝儀に気を使わなくていいし、服も特別に迷うこともなく、気楽でいいと感じている。

聞き取りの中で、昭和30年以降に小樽市民会館で結婚式を挙げた人が多いことが分かり、花園町にある小樽市民会館へも足を運んでみた。


写真6 小樽市民会館

話を聞くと、今は市が民間に委託して市民会館を運営していて、残念ながら当時の様子が分かる人はいなかった。だが、当時のパンフレットに結婚式場の案内が残っていた。(写真7)


写真7 事務所に残っていた市民会館のパンフレット

当時使われていた部屋は現在は物置部屋になっていたのだが、そこも見せて頂いた。(写真8)


写真8 結婚式場の見取り図

赤絨毯や祭壇などから、神前結婚式を行っていたことがわかる。(写真9)


写真9 現在は物置と化している結婚式場

この市民会館が昭和38年(1963年)に出来てから、昭和40年代までは結婚式を行っていたはずだと分かったのだが、いつ頃から衰退していったのかは不明であった。

小樽市内で小学校に勤められていた水口忠先生も、会費制結婚式を挙げられ、数多くの会費制に参加してこられた。ご自身は昭和35年(1960年)に当時人気だった北海ホテルで100人ぐらいを集めて結婚式を行った。会費は約500円ほどだったはずだという。昭和32年〜38年頃には、毎年1〜2人の結婚式に参加していた。同僚が結婚式を挙げるとなると、教務主任など学校で3番目くらいの地位の人が発起人代表となり結婚式を準備する。そして媒酌人を校長が務めるのだという。会費制結婚式に階層の違いはなく、社長も会長も平社員も皆平等なところがいいのだ、と水口先生はおっしゃっていた。招待制結婚式にも参加したことはあるが、少し抵抗があるという。

また、招待制で結婚式を挙げた方にもお話しが聞けた。昭和5年生まれの足立さんは、昭和30年(1955年)に小樽市内にある住吉神社で行った。足立さんの妹が昭和43年に市民会館で会費制結婚式を挙げたことも分かり、時代による流れの変化が感じられた。

会費制結婚式とは、主催者も出席者も共に負担が少なく、全体的に招待制よりも簡素になるというのが最大の特徴だと分かったのだが、これが北海道に定着したのは何故だったのか。そのきっかけの1つではないかと考えられる生活改善運動について、次の章で取り上げる。

第2章 きっかけとなった「生活改善運動」 

生活改善運動(新生活運動)とは日本が高度経済成長期を迎える以前、戦後1940年代後半から1950年代の窮乏期を中心に、生活の合理化を目指して広まった。この運動は北海道のみに限らず、全国的に展開されたのだが北海道にとりわけ深く根付いたのには訳があった。
当時の記録によると、道庁内に、知事を会長とし、副知事を副会長とする「新生活建設協議会」が設置されたのは、昭和27年(1952年)8月4日だが、それから8日後の8月12日に民間団体の「北海道新生活建設運動委員会」が発足し、全道的な運動を強力に展開していたという(北海道の冠婚葬祭/北海道新聞社生活部編 より引用)。そして、この目標の一つに冠婚葬祭の簡素化があったのだ。
 日本民族学会会員で、北海道における婚姻儀礼について研究していらっしゃる石澤祐子さんにお会いすることが出来た。石沢さんによると、昭和30年代に始まった生活改善運動は身分関係なく広まり、それまで家で行われていた招待制の結婚式ではなく、会館や公民館を使用するように国からの指令があったという。それくらいの時期に会館やホテルなどが出来始め、広めていく手段として適切だったと考えられる。また、各地域に広がる雑多な文化を統一しようという風潮もあったとされる。冠婚葬祭は一般化されるのが早く、浸透しやすかったのだという。この運動により、各地域に色濃く残っていた母村形態による結婚式は影を薄めていくようになる。そして、石沢さんによると、婚姻儀礼(結婚)の場所や儀礼内容が大きく変わった要因として

① 婚姻儀礼の場所の変遷……自宅→会館→旅館や公民館→ホテルや結婚式場→色々なパターン
② 招待客の変化……家族・親族・地域の名士→家族・親族・地域の名士・友人・知人→家族・親族のみ、家族のみ、家族・友人のみなど
③ 家といえの関係性を重視……結婚する二人の意思を尊重
④ 時代背景……協会での結婚式、海外での結婚式、地味婚、派手婚、パーティ婚、入籍のみ
といった点が挙げられるという。

さらに調査していくうちに分かったのは、運動の流れを受けて営利目的として現れたのではないかという企業があったことだ。例として、㈱小樽新生活互助会(現在の㈱ベルコ)という会社を見つけた。

写真10 ㈱ベルコ小樽支社のビルの1階にあった看板

㈱ベルコの方に㈱小樽新生活互助会について尋ねたところ、平成13年にベルコに変わったのでなにも分からないと言われた。ただ、10年前まで小樽新生活互助会であったことが分かり、もし本当に昭和30年代の生活改善運動を受けてできたのだとすればとても長い間存在していたことになる。
当時のことを記憶していた、潮見ヶ岡神社の本間宮司にお話を伺った。㈱小樽新生活互助会は会員(家族単位)から会費を集め、その積立金から結婚式の際の服の貸し出しや、美容室の斡旋などを行っていたという。特に葬式などの急な入用には会員としてはとても都合が良かったらしい。小樽市内に会員は多く、広く浸透していて、基盤ができあがっていたことから、ベルコに変わってもうまくいったのではないかという。小樽市内の花園町の支社を始め、若竹町にはベルコの営業部があり、勝納町には大きな斎場もある。同種産業はとても参入できないだろうとおっしゃっていた。また、会費制結婚式が本来のものとは変化してきていることについて、元の本質を伴った会費制結婚式に戻ってほしいと感じていた。

つまり、新風土の北海道という寄り合い社会の柔軟さ、官製運動を受け入れやすい道民気質、合理化を目指す風潮、経済的な必要性が相まったことにより、生活改善運動(新生活運動)による会費制結婚式が定着したのだと考えられる。

第3章 昭和30年代から現在への変遷 

会費制結婚式を通して、時代と共に移り変わる結婚式を辿ってきた。
そして、花園町に大正時代から店を構える美容室「ヴイナス」で、3代目の方にもお話を伺うことが出来た。2代目にあたる美容師が小樽に初めて洋髪を取り入れたとされている方で、婚礼も多く携わっていたという。新婦の家で仕度をし、そのまま会館やホテルへ同行してお色直しすることもあったという。多いときには1日に4〜5組の依頼が入り、美容室総出で対応していたらしい。そして、面白いなと感じたのは、会費制結婚式では貸衣装が多かったのに対し招待制では反物から仕立てて作っていた。その仕立てを美容院側が請負、貸衣装として会費制の依頼のときにも利用し、その後、貸し衣装屋へ卸したりしていたということだ。

他にも、相生町にある㈱石井印刷の社長さんによると、生活改善運動だけがきっかけではなく、ホテル事業の参入が大きなきっかけだとおっしゃっていた。ホテルの企画推進や、営業目的の為に「結婚式」がビジネスモデルの強化に繋がると考えられたからだという。印刷会社としても、当時は案内状やパンフレットの印刷を全て請負多いときには結婚式関連で月に100万の収入があったというが、今はほぼ皆無に等しいという。今は印刷機器も充実し、自分たち自身で作ることが増えているからだろうとおっしゃっていた。
また、会費制結婚式の定着は昭和30年代頃に流行りだした「学生結婚」がきっかけだという住職もいた。学生同士だとお金もないので、周りが会費を持ち寄り祝ってあげようという習慣があったとおっしゃっていた。
近年は「新郎新婦の恩師や勤務先の上司は招待制にする」とか「お祝いを頂いた親族の会費は新郎新婦の親が負担する」など様々な形式が見られるようになっているという。会費制結婚式が始まった当初に比べれば、暮らしに余裕ができただろうし、さらに会費制の結婚祝賀会といっても、引き出物などが年々豪華になって招待制の場合との出費の差がそれほどなくなってきていることなどが背景にあるのだろう。
もともと、暮らしの中のしきたりというものは、人間関係を円滑に保つための取り決めの一つに過ぎないわけなのだから、人々の生活条件や意識の変化によっていろいろと変わってくるのは当然のことかもしれない。

まとめ 

今回の調査により、北海道の結婚式は考え方が違うため、日本の中でも随分稀だと思った。しかしこれは、生活苦に喘ぎながらも考え出した素晴らしい方法であり、北海道が誇るべき文化なのではないだろうか。 会費制結婚式といっても名ばかりになってきている「発起人」の存在や、招待制との差異がなくなってきている現在、北海道に限らず、多種多様に変化していく結婚式が今後どうなっていくのか。時代の影響を強く受け、ますますオリジナル化が進んでいくのだろう。だが、周囲の「二人を祝ってあげたい」という気持ちは昔から今もずっと変わらないでほしい。

謝辞
この調査をするにあたり、調査方針のアドバイスを下さった小樽市総合博物館の石川直章先生、聞き取り調査にご協力頂きました石村洋子さん、水口忠先生、石澤祐子さん、本間清治さん、小樽市総合博物館の加藤さん、小樽の街の方、ならびに調査レポートをご指導いただいた島村先生にこの場を借りて心よりお礼を申し上げます。ありがとうございました。

参考文献
北の生活文庫企画編集会議編 (1998)『北の生活文庫4 北海道の家族と人の一生』北海道新聞社。
宮良高弘編(1993)『北の民俗学雄山閣出版
関口祐子(1998)『家族と結婚の歴史』森話社
サークル問題研究会編(1974)『会費制結婚式』あゆみ出版。
佐藤朝子(1999)『北海道の冠婚葬祭と暮らしのおつきあい』北海道新聞社。
北海道新聞社生活部編(1988)『北海道の冠婚葬祭』北海道新聞社。