関西学院大学 現代民俗学 島村恭則研究室

関西学院大学大学院 現代民俗学 島村恭則研究室

小樽に広がる銭湯文化

小樽に広がる銭湯文化

井谷 亜沙美

第1章 銭湯とは何か

 銭湯—その歴史は古く、約900年前の平安時代から存在し、現在のように街中に銭湯が出現したのは江戸時代のことであった。当時は蒸風呂式の“風呂屋”と、湯船に浸かる方式の“湯屋”の二種類の銭湯が存在していたが、後に主流となったのが“湯屋”で、現在はこちらが一般的に銭湯(一般公衆浴場)として認識されている。現在の銭湯とほとんど変わらない形式が整えられたのは、カラン(蛇口)が導入された昭和時代であり、銭湯文化の最盛期であった。
 しかしその後、戦後に入り内風呂が普及していったことで、徐々にその数を減らし続けた。現在の一般公衆浴場の数は2008年の時点で全国6,009施設であり、昭和55年の15,695施設と比べると半数以下に減少している1)。全国の公衆浴場数ランキングを見てみると、1位が青森県、2位に鹿児島県、3位に大分県、以下富山県大阪府、石川県、京都府、北海道、東京都、和歌山県と続く。
厚生労働省がまとめた資料に、『関東圏や近畿圏、北海道などでの「銭湯」創業者は、北陸4県(新潟、富山、石川、福井)出身者が多いという。特別な調査が行われた訳ではないが、関東・近畿等の公衆浴場業生活衛生同業組合役員には「北陸をルーツ」とする方が多い。北陸は、米作りを一毛作してきた経緯があり、水田は生活基盤を支える財産である。藩政時代に新田開発が終わり、田畑を長男一人に相続することで分散を防ぎ、次男以下は土地を離れることが必要となり、勤務先を求めて都市圏などに移住することになる。都市圏では既に人が溢れ、「公衆浴場業」や「豆腐製造業」など、長時間労働で営業時間の変則的な職種に就労して生計維持することが多かったという。勤勉で粘り強かったことから、徐々に経営者として独立していったものであり、更に血縁を頼って後継者が育成されていくことになる。』と記載されている。
 また、人々の『入浴』への意識もそれぞれの時代によって異なり、風呂に入るという習慣は元来“身を清める”という仏教に基づく宗教的行為であった。そこから江戸時代にかけて人々の“娯楽”へ、また昭和に入り娯楽と共に“衛生への配慮”へと変わっていった。
 以上を踏まえ、本研究では現地聞取り調査によって、上記の事実確認と共に、人々の銭湯への意識変遷について実証的研究を行う。研究対象とするフィールドは北海道小樽市、また大阪府大阪市中央区・東成区にそれぞれ存在する銭湯とする。

第2章 北陸から小樽へ

 北陸出身者が北海道へ移住した理由としては、第1章で記したように『北陸は、米作りを一毛作してきた経緯があり、水田は生活基盤を支える財産である。藩政時代に新田開発が終わり、田畑を長男一人に相続することで分散を防ぎ、次男以下は土地を離れることが必要となり、勤務先を求めて都市圏などに移住することになる』ということ、北海道開拓のために屯田兵として移住したこと、新たな漁場や農地を求めて移住したこと、などが挙げられる。
同様に、大阪府や東京都へも、農家の次男や三男が職を求め多くの人々が出稼ぎに出た。
 ではなぜこのような北陸出身者に銭湯の経営者が多いのだろうか。
銭湯を経営するのはとても大変な仕事で、経営者は比較的、忍耐強い北陸出身者が多い傾向にあった(小樽市博物館、2004)とされており、水害や豪雪により十分に作物が収穫出来ない年や、厳しい寒さに耐え乗り越えるという環境の中で、そのような気質を持つようになったのではないだろうか。
 今回研究対象とする小樽市は全国でも銭湯の数が多いと言われているが、開拓による労働者による需要が大きかったこと以外に、江戸時代から大正時代にかけて、小樽が日本随一の鰊漁獲量を誇っていたこととも深く関連している。港で働く漁業労働者似よる需要もまた、銭湯が繁栄した理由の一つとなった。

第3章 小樽に広がる銭湯の世界

(1)小樽における銭湯分布図
 小樽市内には、昭和時代には約70件もの銭湯が存在していたという。今回手に入れた資料によると、昭和42年の時点では58件であった(保健所年報/昭和42年/小樽市保健所)。
また現地調査によると、その数は21件に減少していた(2008年9月)。
ここでは、昭和42年に存在していた銭湯の分布図(図1)と、2008年9月に現存する銭湯の分布図(図2)を紹介する。

(2)小樽の銭湯
 小樽には古くからの銭湯が多くみられ、今回は調査に行くことができなかったが、その中でも信香町の小町湯は道内でも屈指の歴史を誇っている。
ここでは現地調査で話を聞くことが出来た5件の銭湯を紹介する。

◎ 柳川湯(稲穂町) 田中 康弘さん
柳川湯という名前は、銭湯が面している“柳川通り”が由来となっている。現在はカウンター式となっているが、10年前までは番台があったそうだ。残念ながら鰊漁の繁栄との関わりや北陸出身者との関わりはわからなかったが、昼までも絶えず客の姿が見え、近くに住む住民に愛されている銭湯であった。

◎ だるま湯(花園町) 高村 悦子さん
名前の由来はダルマの如く、どっしりとかまえていたいという願望からなのでは(かたりつがれる町 小樽/小樽道新販売所会)と記事にあったように、水色ののれんがなびき、堂々とした建物であった(写真1)。昭和6年に開業したそうで、中に入ると立派な番台があり、また湯船は円形であった。
また花園銀座商店街に面し、飲食店やバーなどが多いため、かつてはそこで働く女性が多く利用していたそうだ。現在の客は地元の高齢者が多く、特に一人暮らしの高齢者にとっては、家のお風呂を沸かすよりも銭湯の方が便利なため、愛用されている。
しかし、近年の重油価格の高騰や設備の老朽化などの理由で、2008年10月に閉店となってしまった。80年近い歴史があるだけに、北海道新聞に取り上げられるなど、常連客に惜しまれた。

◎ 神仏湯温泉(住ノ江町) 大畑 満眞さん
オーナーの大畑満眞さんは小樽公衆浴場商業協同組合の理事長を務める。
明治の中頃よりあった“如神湯(じょしんゆ)”を昭和5年に先代が譲り受け“住ノ江湯”と改名し営業を始めた。その後昭和11年に木造3階建てになり、信仰心のあつさから“神佛湯”と命名された。昭和62年に1300mの堀削により温泉が湧き出た。平成元年に現在の鉄筋コンクリートの3階建て(写真2)になり“神仏湯温泉”となった。

また、先代が石川県の和島から移住してきたそうで、小樽に北陸出身者が多いのは開拓期が重なったからなのではないかということ、さらに大正時代、手宮鉄道が現役だった頃は鰊漁も盛んで、銭湯も栄えていた、という話を聞くことが出来た。

◎ 潮の湯(勝納町) 松原 ヒデ・良勝さん
昭和六年に佐藤さんという方が浴場経営を始め、10年から堀さん、そして16年から松原さんに引き継がれた。名前の由来は、昔この地帯は砂地で海が近かったため、最初に開業した人が潮の湯と命名したのだそうだ(かたりつがれる町 小樽/小樽道新販売所会)。
松原さんの先代もまた北陸の福井県から移住してきたらしい。昔はすぐ横に木工所があり(現在は家電量販店)、そこの労働者が月極で利用していたり、近くの高校の下宿生、また漁船で働く労働者や小樽進駐軍の軍人などの利用も多かったそうだ。
さらに小樽には新潟県佐渡からの移住者が多いようで、松原さんの記憶によると“佐渡県人会”という札を掲げている家が昔よく見られたそうだ。
潮の湯は100%井戸水を利用しているために塩分が多く含まれているそうで、実際に入らせてもらったところ、身体が芯から温まり、開放的な浴槽は身体も心も癒してくれた。
また番台も現役で、何十年も使い続けているマッサージチェア(写真3)なども味のある雰囲気を醸し出していた。

滝の湯温泉(色内町) 八田 航治さん
先代は福井県から移住してきたそうで、初めは道内で農業を、その後昭和25年に親が開業した。近くには商店街もあり、人通りが多く、商店街を抜けた川沿いに位置している(写真4)。

3・4年前までは地下に温泉があり大人気であったが、安全上の問題などから廃止され、それと同時に番台もなくなり、今はカウンターになっている。
八田さんもまた、「石川や福井の人は我慢強い」と話しており、「鰊漁で栄えた頃にやはり銭湯も繁栄していたが、戦後の内風呂の普及に伴いその需要が減ってしまった」と、銭湯の経営を続けていく厳しさを教えてくれた。
しかし、最盛期の頃は1日に1、000人もの人が訪れていたらしく、5・6年前までは、担任付き添いのもと小学校のクラス単位で銭湯に来ていたらしい。これは銭湯に入るマナーを覚えるためのものであった。八田さんは“コミュニティの場・教育の場”としての銭湯を大事にしており、その存在意義を語ってくれた。
さらに、八田さんの兄妹が大阪で銭湯を経営している、ということを教えてくれた。

以上が今回の調査で得た情報で、その結果、①鰊漁の繁栄と銭湯の繁栄は関連性があった、②北陸からの移住者による銭湯経営は確かであった、③また小樽から大阪への移住もあった、ということがわかった。
そこで、小樽での調査後、滝の湯の八田さんの兄妹が経営している、大阪府の銭湯を訪ねることにした。

第4章 小樽から大阪へ

◎ 松の湯(東成区大今里) 松山利枝さん、山西順子さん
八田さんの姉(松山利枝さん)がもとよりあった銭湯を引き継ぎ、現在は妹夫婦(山西順子さん)が経営している(写真5)。

これより前は生野区で銭湯を経営していたらしく、昔の経営者は銭湯を転々としていたらしい。
十数年前までは近くに小樽出身者による銭湯がいくつかあったらしいが、今では皆辞めてしまったそうだ。小樽から移住した経緯については、身内や知人を頼ってきたのだろうとのことであった。
昔ながらの商店街を曲がった住宅街にあるため、客層は地元のお年寄りが多いという。午後3時からの営業だが、インタビュー中も客が絶えず、地元住民に愛されている様子がうかがえた。

◎ 清水湯(中央区西心斎橋) 八田 計三さん
17歳の時に小樽の滝の湯を改装し、その後大阪へ移り昭和38年にもとよりあった公衆浴場を買い取り清水湯を開業した。周囲には大手百貨店やアメリカ村などがあり、若者も多い。現在の建物は昭和61年にリニューアルオープンしたもので(写真6)、3階建ての造りになっており、1階はエントランス、エスカレーターを上がると番台と脱衣所、さらにエレベーターで3階へ上がると浴場に到着するといった、一般的な“銭湯”のイメージとは少し違った、斬新な造りになっている。この斬新な設計は全てオーナーの八田計三さんのアイデアによるもので、視覚的魅力よりも、より利便性を追求した機能制重視の設計となっている。

さらに八田オーナーは“今までの銭湯”より“これからの銭湯”を常に考えており、朝風呂・サウナの導入・ラドン風呂の導入・温度差のある湯・エレベーターの設置など、多くの独創的なアイデアを取り入れた。この経営努力に伴い、昭和43年には「清水湯愛好者の会」が発足した。また多くの銭湯経営者が清水湯へ見学に訪れ、そのアイデアを学んだという。その中の一人が後に、今や全国展開している“スーパー銭湯”を展開した。今のスーパー銭湯があるのはこの清水湯があってこそだと言っても過言ではない。
八田オーナーは銭湯の客離れは時代のせいだけではなく、経営者側の努力の問題でもあるとし、今後さらに新しい“何か”を提供していかなければ、と話してくれた。

第5章 まとめ

 今回の調査により、
①銭湯の経営者に北陸出身者が多いのは、その生活環境(雪国の厳しさ)により、忍耐強く我慢強い気質を持っているため、銭湯の経営に向いていたのではないか。
②小樽に銭湯が多い(多かった)のは、鰊漁の繁栄と関連があった。
③大阪への移住は、そこで成功した身内や知人を頼ってという場合が多いのではないか。
④銭湯は地域の人々とのコミュニティの場であると共に、子供達がマナーを身につける大切な教育の場である。
ということがわかった。
 各時代、各銭湯によりその歴史は様々であるが、港や漁船で働く労働者、スナックで働く女性、マナーを学ぶ子供達、そして一人暮らしの高齢者、習慣となった地元の人々、家族や仕事帰りのサラリーマンなど、それぞれの時代にそれぞれの需要があることは確かである。
今後、いち利用者として、銭湯がどのように変化していくのか、人々の意識がどのように変化していくのかを見守りたい。

謝辞

本研究を進めるにあたり、多くの方々にご協力いただきました。
小樽市立図書館の皆様、小樽市総合博物館の石井直章先生、聞取り調査に協力してくださった大畑満眞さん、田中康弘さん、高村悦子さん、松原ヒデさん、松原良勝さん、八田航治さん、八田計三さん、山西順子さん、松山利枝さん、そして論文構成などの指導
をしてくださった島村恭則教授、本当にありがとうございました。

文献一覧

小樽市博物館
 2004 「小樽の銭湯いまむかし 〜のれんのむこうはパラダイス〜」
小樽観光大学校
 2006 「おたる案内人 小樽観光大学校 検定試験公式テキストブック」
西村雄郎
 2008 「大阪都市圏の拡大・再編と地域社会の変容」ハーベスト社
総務省統計局
 2008 『社会・人口統計体系』
総務省   
「事業所・企業統計調査」
厚生労働省 
「衛生行政報告例」
 2009 「公衆浴場業の実態と経営改善の方策」
全国生活衛生営業指導センター
      「生活衛生関係営業ハンドブック2008」
小樽市
 1990 「小樽市史 10巻 社会経済編」
日本電信電話公社
 1972 「後志地方 職業別電話帳」
小樽市保健所
 1966 「保健所年報」
北海道新聞
 2009 「北海道新聞2009年9月13日」
小樽道新販売所会
      「語り継がれる町 小樽 第1号〜7号」
 
http://www.seiei.or.jp/advice/doukou/05.html

http://www.tonashiba.com/ranking/pref_livingspace/store_p/10020011