関西学院大学 現代民俗学 島村恭則研究室

関西学院大学大学院 現代民俗学 島村恭則研究室

ゴムと小樽

吉村 歩


第1章 小樽とゴム工業

(1) 繊維問屋からゴム工業へ

 小樽のゴム工業の起こりは、富山の繊維問屋である戸井物産の小樽支店長だった中村利三郎が当時の日本ではまだ珍しく、高価だったゴムに目を付けたところから始まるとされている。現在の小樽市役所通りで、手回しロールを使って練ったゴムでゴム靴の修繕をしている人がいることを中村が聞きつけ、興味を持ったことをきっかけに、当時はまだ高価な輸入品だったゴムを安価に修繕、販売することを思いついたのだった。
 こうして中村は、当時は上流階級のみが履いていた舶来のゴム靴を自国で生産するため、大正6年6月に竹村清右衛門、菱藤吉等9名で、現在の株式会社ミツウマの前身である「北海道護謨工業合資会社」を設立した。大正8年には、入舟町に工場を設立、翌9年にはゴム靴の生産、修繕を開始した。
ところで、繊維とゴムとの関係は、1つには繊維問屋の扱っていた地下足袋の底にゴムの滑り止めを付けるという発想にある。中村利三郎等の北海道護謨工業合資会社が設立されたのと同じころ、伊藤弥一郎のいとや商事がゴム工場を建て、ゴムを縫い付けた地下足袋を生産していた。いとや商事は既製作業服の製造販売が本業の繊維問屋だったが、後の第一ゴム株式会社の社長大塚信之の父を専務格、東京からの技術者で「東京屋」と呼ばれていた人物を常務格にゴムの製造を行っていた。ただし、このゴム工場は技術者不足や製造過程での失敗が相次ぎ、2年程で閉鎖されている。

(2)小樽という立地

 では、なぜ北海道のゴム工業の発展が小樽でおこったのだろうか。
 第一の要因として、ゴムの原材料である生ゴムは外国からの輸入に頼っているため、港のある小樽がその入手に適していたのである。
第二の要因は、冬の厳しい寒さの北海道の中にあって安定した需要が確保できることに加え、聞き取り調査からは、四季の変化が非常に美しいことも多くの工場が進出しやすかった理由の一つではないかという意見も得られた。
第三の要因として、昔から盛んだったニシン漁の漁師や関係者からの安定した需要があったことが挙げられる。現在でも、地元の漁師の人々の、ミツウマや第一ゴムなど地元ブランドのゴム靴を使用しているそうである。
以上の点から、中村利三郎が目を付けたゴム靴は小樽の地で飛躍的に発展していくこととなるのである。とうぜん、ゴム会社を設立するにあたっては、中村は以上のような要因を公算に入れていたと考えられる。

 (3)奥沢に集まっていたゴム工場
 
現在小樽にあるゴム会社のうち、株式会社ミツウマと第一ゴム株式会社がある奥沢町には、昔は数多くのゴム工場が建っていた。昭和29年の記録によると、三興ゴム、北辰ゴム、日成ゴム、北海ゴムなど、小樽にあるゴム会社の多くが奥沢町に集まり、3000人近い従業員が働いていた。もともと、入船町に工場を持っていたミツウマも、第一産業ゴムとの合併などを経て、奥沢町に移転している。
では、多くのゴム工場が奥沢に集まっていたことにはどのような理由があるのだろうか。
小樽の中心を流れる勝納川の上流
にあたる奥沢は、大正時代に水源地
が整備され、現在でも上質の水を供給しとして酒や菓子造りに利用さている、水の豊富な土地である。聞き取り調査では、当時のこの川の水とゴム工業との直接の繋がりをはっきりと探ることは出来なかったが、現在でも工場の機械の冷却には井戸水が使用されており、多くの水が必要な点でこの奥沢が適した場所だったのではないだろうか。また、電気を使った機械が普及する前は、水車を使って大型のローラーをまわしていたらしく、この水にも奥沢水源地から流れる勝納川の水が利用されていたのだろう。
さらに、もうひとつの奥沢の地理的な特徴は、坂の多い小樽の中心では珍しく平らな土地が広がっており
、工場の大型化に伴う敷地の確保がしやすかったという点が挙げられる。こうして、ゴムだけでなく、いろいろな産業の工場が立ち並ぶ奥沢には、かつては工場で働く多くの労働者のための飲み屋が数多く存在していたそうだ。しかし現在では、ゴム工場は2つのみとなってしまい、かつてのような賑やかな様子を伺うことはできない。

(4)ゴム工業の発展
 
  中村利三郎によって、本格的にゴム長靴の製造がはじめられて以来、小樽を中心に、北海道各地に少しずつゴム会社が設立されはじめ、大正末から昭和にかけては多くその動きが特に活発であった。ところが、一方でゴム工場の建設には多額の資本金が必要となる上に、多くの会社との競争もあり、経営に失敗する会社も多く存在した。そこで、当時のゴム会社は資本家が何人かで資金を出し合って設立する合資会社である場合が多かった。
  昭和初期は北海道のゴム工業が波に乗り始めた時期で、販売網も道内だけにとどまらず、本州にまで広がっている。昭和6年の満州事変に伴う戦争ムードの高まりが、ゴム工業の好況を後押した。 
しかし、徐々に強まる戦争色の強まりと共に、昭和13年、ゴム工業は全面的に配給統制化に置かれることとなる。これに伴って、ゴム会社の統合も行われる事になり、北海道に29あった工場は、統制後、8工場にまで減らされることとなった。小樽では、14の工場が統制によって、4工場(三馬ゴム、日東ゴム、三和ゴム、日成ゴム)に減っている。原料であるの生ゴムも配給によって制限されていたため、この頃の主な生産品は、軍用靴や合羽など戦争関連のものが多かった。戦後になって、統制の元で物資がヤミで取引される、いわゆる「ヤミ時代」が来ると、本州に比べ戦争による被害が少なかった北海道では、統制によって温存していた工場を稼動させ、ヤミルートで手に入れた原料を元に生産を開始した。昭和25年に、ゴムの統制が解除され、自由経済の時代がやってくると、北海道のゴムは好況に乗り、生産数をますます上昇させていった。
  この後、昭和26年には朝鮮戦争の影響によって、生ゴムの大暴落が起こり、一時は苦境に立たされるが、同28年には本州各地の水害被災地の復旧工事の需要が伸び、生ゴムも価格安もあったため、統制撤廃後、生ゴム消費量、ゴム製品生産高は最高を記録する。こうして、小樽と北海道のゴム工業は黄金期をむかえるのである。尚、同30年の北海道の総ゴム靴生産高は、約643万足で、この半数の320万足が小樽で生産されていた。この生産高は、全国でも兵庫県に次ぐものだった。

第2章 小樽のゴム三会社

(1)ミツウマ
 
 現株式会社ミツウマ
の創業は、第一章でも述べたとおり、元々富山県の繊維問屋の社員だった中村利三郎が小樽でゴム靴の修繕、製造に目をつけ、同志を募って大正八年、入舟町に「北海護謨合資会社」を設立したことに始まる。同時にこれは、北海道のゴム工業が始まりを迎えた瞬間であった。
 昭和5年に社名を「三馬護謨工業合資会社」に改めたミツウマだったが、その名前とマークの由来は中国の古事にならった「龍馬」、「神馬」、「駿馬」の三つを並べたものだった
。なお、このデザインは大正10年に生まれている。昭和39年に、「三馬ゴム株式会社」となり、年間売り上げ31億円の小樽を代表する大企業へと成長。全国ゴム工業の3位にランクインされるに至った。
 ゴム工業が飛躍を始めた、大正末期から、昭和初期にかけて、北海道のゴム工業の技術を支えたのはこのミツウマであったといえる。というのは、新工場が続々と誕生していたこの時期、多くの創業者や、新興企業への技術提供者はミツウマで技術を磨いていたからである。しかし、そのことに加えて、他社からのミツウマの熟練工の引き抜き策もあり、ミツウマは技術者不足に悩まされることとなる。そこで、当時の中村社長は、従兄弟にあたる、西井康裕に神戸で技術を習得させたうえで、技術者、経営者として工場の生産、資材、設備などを担当させた。やがて、この西井の貢献もあって業績を伸ばしたミツウマは、西井氏を責任者とし、本州への進出を目指し、東北に新工場を設立する。こうして、内地への進出を果たしたわけであったが、西井は中村社長との衝突によってミツウマを退社し、独自で新たに工場を新設、これが後の弘進ゴムとなった。結果的に、ミツウマはライバル会社を増やしてしまったのだ。ライバルといえば、後に白熊ゴムや「三つ虎」がシンボルの会社も登場し、動物を冠した名前でミツウマに対抗する企業もあった。
 この、ミツウマの仙台工場には、吉村伝次郎が入社している。彼は、その後小樽に帰って第一産業専務となり、ミツウマと三和ゴム(第一産業と他5社の企業統合によって昭和13年に誕生)の合併、さらに北斗ゴム(軍需省の要請により、ミツウマと横浜護謨との共同出資で昭和19年に誕生)との合併を経て、昭和24年吉村がミツウマの社長となる。この吉村のもと、ミツウマの生産は黄金期を向かえるのである。一方、吉村は企業スポーツを奨励し、特にスキーでは多くの選手を輩出し、小樽や北海道だけでなく全国の注目を集め、ミツウマは実業スポーツ界の名門と言われた。
 その後、昭和の様々な局面を経て、ミツウマは昭和57年に事実上倒産、昭和60年に会社更生案が認可され再建へと進み、現在に至る。
 
 現在のミツウマでは、ゴム靴の生産に加え、港湾や踏み切り、道路など工業用ゴム製品の生産も多くおこなっている。港の縁にカバーとして用いられるゴムや、梯子に加工されたゴムなどミツウマの工場ではゴムの幅広い用途がその場で感じることが出来た

。また、ゴム靴では一般的なゴム長靴に加え、特殊作業専用のクリーンブーツなどの製造も行っている。
 従業員の様子を見てみると、かつては、何列にも並んで作業をしていたという女性の従業員も、現在は少なくなっていた。しかし、長靴の製造工程では、繊細な作業だけでなく力と技術がいる作業をこなし、男性従業員と共に力強い姿が印象的だった

 ミツウマでは、一部のゴム靴の靴底生産を神戸の業者に頼んでおり、日本の2つのゴムのメッカの繋がりも感じられた。
 今後は、エコ商品の販売に加え、LEDや消毒液など新しい分野への進出を目指し、更なる発展に向けて進み続けているようだ。

(2)第一ゴム
 
 現第一ゴム株式会社
は、昭和10年にミツウマと合併した国産ゴムの工場を初代社長の浜村由太郎が買い受け、新興工業合資会社を設立したことがその創業である。浜村は、石川県の出身で神戸の三角ゴムで配合の助手としてキャリアをスタートさせた。北海道との繋がりは、大正10年に長靴を売りに来たことが始まりで、昭和5年に東京ゴムに入社したことをきっかけに、本格的に北海道進出を果たした。
 戦後のヤミ時代、浜村はクズゴム利用組合を結成、物資の限られている状況を、クズゴムや再生ゴムを最大限に利用し切り抜けた。また、右足用の靴を左足用に直す技術を活かし、多くの長靴を売ることに成功した。
 浜村の経営理念から、第一ゴムでは開放的な家族主義と言われる経営を続けてきた。従業員のアイディアを積極的に商品開発に活かすことで、独創的な商品作りを成功させ、多くのヒット商品を生んできた。技術面でも、昭和36年に内閣総理大臣賞の受賞したことに加え、日本履物コンクールや、日本ゴム工業展など数多くのコンクールで毎年のように賞を受賞してきた。これは、全国のゴムメーカーの中でも随一の成績である。また、日本のゴムメーカーでは数社しか認定を受けていない日本工業規格「JISマーク」も取得している。
 「ミツウマを横綱に例えるなら、第一ゴムは前頭といったところだった」と聞き取り調査で伺ったように、元々は数ある小樽のゴム会社の中で比較的小さかったこの第一ゴムであるが、このような徹底した品質管理のもと確実な経営を重ね現在の地位を築いてきた。
 第一ゴムの代表的な製品として欠かすことが出来ないのが、「シェブリー」である。もともと、バックスキンを使った製品の開発過程での失敗から誕生したシェブリーは、これまでに無かった質感やデザイン性と、ゴム靴の安全性を併せ持っている。発売以来25年たった今でも、冬の定番として雪国で愛されてきた。
 ミツウマと同じく奥沢にある工場を伺ったところ、ミツウマとは違いゴム靴をほぼ専門に生産している

ことから、その内装も少し異なっていた。また、女性の従業員の人数もミツウマよりも若干多かった。生産品の中には、ゴム靴に加えて、消防や自衛隊用の特殊な長靴の製造過程もあった。こちらでは、ゴム工場とは切り離せない関係の火災の対策として、防火設備もみることが出来た。ホースや、防火水槽など消防所から、定期的なチェックがあるそうだ。
 第一ゴムは、今後とも品質管理に徹底した製品作り、開発に取り組んでいくとともに、一つのものを守り続けていくといった方針を貫くそうだ。それは、主な製品のすべてを小樽の本社工場での製造にこだわり、「地元に根ざした靴作りをしている」という言葉からも伝わってきた。

(3)北斗ゴム製作所
  
 現株式会社北斗ゴム製作所
は、ミツウマや第一ゴムのある小樽中心部の奥沢ではなく、札幌寄りの銭函の工業地帯に位置している。創業は昭和30年で、もともと小樽のゴム工場の工員だった玉置史郎が独立し、桑園に工場を開いたことによる。その後、手稲、稲穂と移転を重ね現在の銭函に移ってきた。この移転は、工場周辺の住宅化など、環境の面で問題が発生したことが原因となった。
 製造品目は、工業用が専門でもともと水道のパッキンを中心としていたが、現在はベルトや橋梁関連製品がメインなっている。第一ゴムとは、カレンダーの工程を依頼しているという繋がりがある。
 工場は、ゴム靴の生産を行っていないこともあり、流れ作業はなく、内装や工程もミツウマや第一ゴムとは大きく違っている印象だった
。従業員は、事務以外では男性がほとんどで、こうした点もゴム靴を生産している工場との違いである。製品は道内を中心に供給しているそうだ。場所は離れていても、ミツウマ、第一ゴム同様に小樽と北海道のゴム工業を支えているのである。
 今後は、オリジナリティのある製品作りを目指していきたいとのことであった。こちらでも、エコ商品に対する関心が伺えた。

第3章 神戸と小樽のゴム工業

 ここからは、神戸と小樽のゴム工業の比較をしていく。
 小樽のゴム工業はすでに述べたとおり、繊維産業からの発展という経緯が見られた。一方、神戸の場合はもともと外国との貿易が盛んな港があったことから、イギリスの企業であるダンロップが1909年に神戸に工場を開くなど、欧米企業の進出により直接ゴム製造の技術がもたらされた。
 さらに、小樽のゴム工業の起源が繊維であるのに対し、神戸の場合はその起源はマッチ工業である。神戸ではもともと盛んだったマッチ工業が、後に斜陽をむかえ、その工場を今度は新たに注目され始めたゴム工業へと転用したのだった。こうした点では、小樽の積極的なゴム工業への進出と神戸のゴム工業の開拓は、少々性格が異なるようだ。
 また、両地域ともゴム工業が徐々に衰退していくわけであるが、神戸はさらにこのゴム製造の技術をケミカルシューズという化学製品へと発展させる。神戸のケミカルシューズは、ゴム工業の衰退に加え、阪神大震災という災害を乗り越えて注目を集め、日本一の生産地となっている。対して小樽は、倒産したゴム会社やその工員のその後が特別な形で表れることはなく、工場が何かに転用されることも少なかったようだ。
 工場の規模で見ると、小樽ではミツウマを始め大規模な工場が多かったのに対し、神戸ではもともとあったマッチ工場の一部を使ってゴムの製造を始めた業者も多く、零細企業が密集している。この影響で、神戸のゴム工場地帯だった場所には、多くの小さな会社が応接室の代わりとして使っていた喫茶店がたくさん存在し、今でも数多く残っている。また、小樽同様、ゴム靴の製造過程の繊細な作業では多くの女性従業員が活躍したため、昼食を外食するが多く、外食産業が栄え、比較的簡単に営業を開始することが出来た「お好み焼き屋」も喫茶店と同じく、非常に栄えていた。小樽では、現在の姿を見る限り、ゴム工業と町づくりとの深い関係性をみることが出来ないが、工場内の特徴をみると、かつては、各ゴム工場内に風呂場があることが多く、これはゴム工場特有のにおいや、粉まみれになって作業をする従業員のための設備で、大規模な工場面積を確保できた小樽のならではといえる。

まとめ
 
 ゴム工業は、小樽の産業界の重要な存在であるとともに、ニシン漁や、スポーツなど幅広い活躍の場があった。しかし、その歴史には、原料を輸入に頼らざるを得ないことから、戦争などの社会情勢に左右され繁栄と同時に合併や倒産を繰り返すという不安定な側面もあった。
そんな時代を切り抜け、現在も残る小樽のゴム会社はまさに小樽のシンボルといえるだろう。確かに、現在のゴム工業にかつてのような繁栄を見ることはできず、工場の従業員もその数が減ってしまったが、在樽ゴム企業で働く人々の姿を実際に見て感じたことは、力強さと輝きだった。三社の聞き取り、工場見学を経て、小樽のゴム工業はまだまだ斜陽というには早いという印象を持ったのも事実である。今後も新たなアイディアと、技術でゴム工業の更なる発展を目指してほしい。

謝辞
この調査をするにあたり、調査方針のアドバイスを下さった小樽市総合博物館の石川先生、聞き取りや工場見学にご協力いただいた、株式会社ミツウマの綱渕さん、第一ゴム株式会社の須藤さん、森さん、株式会社北斗ゴム製作所の宮谷社長、ならびに各工場の従業員の皆様にこの場を借りて心よりお礼を申し上げます。お忙しい時間を縫って、長い時間わたり誠実に対応して頂き、誠にありがとうございました。

文献一覧

日本ゴム工業会編
 1996 『日本ゴム工業史 一巻』 東洋経済新報社
小出武城著
 1955 『ゴム工業』 共立全書。
小樽市立図書館作成
 2009 『北海道のゴム工業 歴史と沿革』 小樽市立図書館。
小樽市水道部編
 1965 『小樽市水道五十年誌』 小樽水道部
小樽市作成
 1994 『小樽市史 第八巻』 小樽市