関西学院大学 現代民俗学 島村恭則研究室

関西学院大学大学院 現代民俗学 島村恭則研究室

ムラサキの運行を支えた鉄道員−小樽、国鉄貨物輸送の歴史−

郄山斉明

はじめに

北海道初の鉄路として1880年11月に、手宮−札幌間が開業。これが小樽における鉄道の歴史、手宮線の始まりである。開通当初、鉄道輸送の主な目的は道央で産出される石炭の輸送であった。そして、のちに道内有数の炭鉱幌内まで延伸されたことによって石炭輸送は本格化した。産炭地の幌内と石炭積み出し港の小樽の間を結ぶ鉄道の輸送力は強化されたが、それに伴い、小樽港では貨車に積み込んだ石炭を効率的に船舶に積載する必要性が出てきた。そこで1911年に建設されたのが、手宮高架桟橋である。
かつての小樽の繁栄の象徴であった手宮高架桟橋。これは石炭を一度に石炭を大量に輸送船へと積みこむための設備であり、1911年から44年まで使用されていた。そして高架桟橋に横付けした船へ、石炭車が石炭を積み込んだ。たが、この施設だけでは捌ききれない石炭もあったため、人の手もかりて船への積み込みを行ったようだ。これらの仕事に携わった人々は「パイスケ」と言われており、一回船へと運ぶごとに木の札「マンボー」が一枚もらえ、仕事の最後に何枚の「マンボー」をもらったかで賃金がいくらもらえるかが決まったようだ1)。ただ、現在は桟橋で残っている部分はない。
このように小樽港や鉄道施設の機能は強化が重ねられ、鉄道のまちとも言われるほど発展した。
だが、戦後の石炭から石油へのエネルギー需要の変化に加えて、石炭の積み出しも最新の設備を備えた苫小牧港にシフトしたことで、手宮線の石炭の取扱量は激減。また、終戦とともに大陸や樺太などの対岸の主な貿易相手を失い、札幌に商業機能を吸収されるなどした小樽は戦後一貫して斜陽化の道をたどっていた。これにより小樽港の貨物取扱量も減少する。さらにモータリゼーションが追い打ちをかけて、手宮線の貨物列車はさらに減便を重ねた。そして、函館本線から分岐する本線のメインルートから外れた盲腸線でもあったため、1985年に廃止。現在、手宮駅跡地は小樽市総合博物館となっており、道内で使われた鉄道車両や鉄道関連資料をはじめ様々な展示がなされている。また、小樽築港駅のヤード跡や使われなくなった港湾設備は1990年代初頭にすすめられた再開発で撤去され、当時の面影は全くない。

第1章 貨車の入れ換え

国鉄時代の貨物輸送は、現在、JR貨物が行っている貨物輸送の形態と多くの点で異なっている。
JR貨物の貨物列車では、その列車の編成ごとに行き先が決められている。しかし、かつて国鉄により貨物列車が運行されていた時代は、一つの編成の中に様々な行き先の貨車が連結されていた。というのも、当時は車による戸口輸送の形態が未発達なうえ貧弱な道路事情もあり、全国津々浦々に設けられた貨物の取扱駅が輸送の主力を担っていた。そのため、貨物の取扱を行っている駅ならば、たとえ貨車1両や2両といった小規模な単位でも輸送業務が行われていた。
列車の出発駅では、各方面の貨車をまとめて編成にし、目的地へ分岐する駅で切り離しを行うという輸送の仕方をとっていた。このことから、分岐点となる操車場や駅構内では、貨物列車の荷降ろしだけではなく、到着した編成をそこから先の目的地別に組み直す、切り離し・連結などの入れ換え作業に職員は従事した。小樽では小樽築港駅などでこのような作業が行われており、手宮へ向かう列車などが函館本線から分岐した。
駅構内で行われる作業の中でも、現在はほとんど行われていない作業に突放というものがある。かつてこの突放は、貨物列車の入れ換え業務の中で、効率的な入れ換え手段として用いられることが多かった。突放の方法は次のように行われる。
<図1>
突放方法
1.機関車で突放する貨車を押す。
2.機関車から切り離す。
3.貨車単体で動く。それに乗った連結手がブレーキを調整。
4. 連結完了。

1.→→[機関車][貨車]_______[連結先の貨車]:(押す)
2.→[機関車]→[貨車] _______[連結先の貨車]:(切り離し)
3.[機関車]__→[貨車]→_____[連結先の貨車]:(ブレーキ)
4.[機関車]________→[貨車][連結先の貨車]:(連結)
他の編成に連結する場合のほか、所定の位置に止める時も突放をするときがある。突放中の速度は10㎞/時以下。
ただ、国鉄からJRに転換する際、貨物列車の輸送形態も大幅な見直しがなされる。見直しには貨物輸送に使われる貨車の再編が含まれており、荷物の積み下ろしの省力化のため、コンテナ専用車が主流になる。これは突放禁止であるため、突放は次第に行われなくなった。
また、国鉄時代の貨物輸送で使われていた主な貨車は石炭車、有蓋車、無蓋車、ホッパー車、タンク車、などがある。

写真1 形式:セキ6000形貨車
道内の石炭輸送に広く使われた。

写真2 形式:ワム80000形貨車
国鉄の一般的な有蓋車。
石炭車は道内で産出される石炭の輸送に使用。有蓋車は屋根が付いており、雨に濡れてはいけないものを積んだ。逆に無蓋車は雨に濡れても良いもの(たとえば木材)の積載に使われた。ホッパー車は道内で収穫される穀物の輸送に用いられた。そして、タンク車は燃料などの液体を運ぶために使用された。道内を走るタンク車は自衛隊向けのものが多かったようだ。これらの貨車の識別表記は次のようになっている。
<表1>
車種を表す記号
有蓋車 ワ
無蓋車 ト
石炭車 セ
ホッパー車 ホ
タンク車 タ

積載重量記号−ムラサキ
なし 13t以下
ム 14−16t
ラ 17−19t
サ 20−24t
キ 25t以上

頭文字は貨車の種別を表し、その次の文字は積載重量記号の「ムラサキ」の中の各文字が与えられた。その後ろには形式を示す番号が振りあてられる。ちなみに、略称として(表1)の貨車の表記の部分をとって、石炭車は「セキ」、ホッパー車は「ホキ」、有蓋車は「ワム」、無蓋車は「トラ」、タンク車は「タキ」と略して呼ばれていた。また、石炭を満載した「セキ」は「オテセ」とも呼ばれていたそうだ。

第2章 突放、転轍、配車

国鉄時代、貨物列車を運行するため、駅構内では今以上に人手をかけて様々な業務がなされていた。貨物列車の運行する際、まず列車をどのような編成にするかを決める。その最も根本的な部分が入れ換え業務であり、これは突放や転轍、配車などから成り立っている。

(1)突放
突放作業では、(図1)のように動く貨車に人が乗ってブレーキをかけながら所定の位置に止めるわけだが、この作業はブレーキの微妙な調整を必要とした。まず、飛び乗るには、貨車がどのような動きをするか把握しなければならない。さらに飛び乗ってブレーキをかける段階では、車両の種類によりブレーキの加減が全く異なった。そのうえ、ブレーキのタイプもそれぞれの貨車で違いがみられる。石炭車やホッパー車はハンドルを回すタイプ(写真3)のもので、有蓋車や無蓋車は片足でペダルを踏むタイプ(写真4)のもとなっている。

写真3 ハンドルタイプのブレーキ
写真は穀物を積むホッパー車のもの。

写真4 ペダルを踏むタイプのブレーキ
一定の範囲で上下に動くことで、ブレーキがかかる。
加えて、これらの貨車は積荷の内容や天候によってもブレーキの締まり方は異なってくる。雨や雪の日はブレーキがかかりにくいだけでなく、貨車に飛び乗る際も滑りやすいので十分な注意が必要となった。それらを踏まえて、ブレーキの掛かり方の癖を把握しておく必要があった。
これらのことから分かるように、突放は危険と隣り合わせの命がけの作業でもあったという。突放の作業中に怪我をすることが多く、最悪の場合は命を落とすことも。そのため、国鉄職員であった山崎さんや安田さんのお話では、小樽築港駅の構内は「屠殺場」とも言われたほどだという。そして、中でも足を怪我する職員が多かったそうだ。これは突放の際は動いている貨車の小さなステップの部分に飛び乗るため、タイミングを間違えると車輪の部分に巻き込まれるなどの危険性が出てくるのである。足を切断してしまう事故から、巻き込まれて命に関わることもあったようだ。このような大事故につながる可能性のある職場であったことから、職員の多くは突放の業務がない仕事につくために、資格試験を必死で受けて、昇進を目指したらしい。ただこれほど怪我の多い職場でありながら、小樽築港駅や手宮駅の構内に国鉄職員専用の病院などの設備はなく、もし怪我人が出た場合は最寄りの病院へ救急車で搬送されたようである。
その他の事故の例としてはブレーキの加減を誤ったために起きたものも多かったようだ。貨車にかけるブレーキが緩すぎた場合、連結先の貨車に突っ込んでしまうことも。また、突放を行う貨車の積載物が丸太の時(丸太が積まれるのは無蓋車、ロープで固定)は、勢いがありすぎると、その勢いで木材が突き出してしまうこともあったらしい。そのため、神経を使わなければならず、特に怖かったという。さらに、突放して所定の位置に止めようとしたものが、止まり切れずに海に落ちてしまったこともあったようだ。空車で浮いてきたものは、クレーン船が出動して吊り上げを行い復旧するなどの策が講じられた。ただ、石炭車などで積荷があった場合、重さのためにそのまま沈んでしまったものもあるそうだ。これらの沈んだ貨車は引き上げられていない。そのため、今でも沈んだ貨車に積まれていた石炭が海岸に流れ着くことがあるそうだ。これらからブレーキのかけるタイミングと加減がいかに重要だったかが推測される。
突放で使われるブレーキのかけ方は、手宮に1944年まで稼働していた手宮高架桟橋でも使われていた。高架から石炭車をおろす時に傾斜を利用して、自動で下までおろしていた。そのため、編成に機関車がつかないことから、貨車にのった連結手が手動でブレーキをかける。この高架をおりる貨車にブレーキをかけるためには、平坦な場所のそれとは異なり、かなりの技量を必要としたようだ。というのも、石炭車は桟橋で石炭をおろした空車なため、高架の傾斜で勢いがつきやすく車輪が滑走するからである。この状態ではブレーキがかかりにくいため、「制輪子と車輪の間に木(サバ)をはさんでブレーキの効きを強く(『100年のあゆみ 駅史 手宮駅』:59)」するなどの工夫がなされていた。このサバとよばれた木を、石炭車をおろすまえにあらかじめ挟んでおき、少しだけブレーキを締めるなどの工夫も同時になされたという。そのようなことがなされても、やはりブレーキを効かせるために相当な力が必要となったため、鉄の棒などブレーキハンドルに挟み、「てこ」のように利用してハンドル回した。

(2)転轍
転轍は線路の分岐点で、列車の進行方向を変えることである。線路が二手またはそれ以上に分かれている場合、列車が決められた方向へ行くように線路の向きを切り替える機械(分岐器)を操作するのが転轍機だ。

写真5 手宮線における転轍機の残骸 
奥にあるてこを動かすと、手前の青と黄色羽(運転士に対する信号)の部分と分岐器が連動して動く。
この転轍機は、現在、使われているものはほとんど自動化されている。だが、国鉄合理化前は、転轍機を動かす転轍手が手動で動かしていた。一人が受け持つ転轍機の数はだいたい3〜5個、つまり3〜5個の分岐点を担当していたようだ。駅構内の各線路は番号が振ってあるのだが、やってきた列車がどの番号の線路に入りたいか指令がくると、その番号の線路へ向かえるように転轍機の切り替えを行う。この仕事には、前述の突放ができなくなった高齢者などが従事した場合もあったようだ。

(3)配車
貨物列車の編成を組む際に、どのような貨車をその編成に含めるかを決めることが、配車である。まず、ここでは貨車の手配がなされる。配車係は、輸送を頼まれた業者の積荷の内容から、どの種類の貨車を手配したらよいかを把握し、貨車を確保する。国鉄で配車係もしておられた上口さんのエピソードでは、道内の農作物の値段が高騰した時は、出荷のため輸送量も増大し、農作物の輸送に適した貨車が引っ張りだことなるそうだ。そこで、国鉄本社に行くときに貨車をさらに確保するため管理局に寄るのだが、そこでも他の方面からの配車係と、貨車の取り合いになる。そして、そのような状況で貨車を一両でも多く確保できた配車係が、腕の良い配車係とみなされたようだ。
また効率的な輸送を行うために貨物列車の編成をどのように行うかが大切となってくる。配車係が行う仕事としては、貨物列車の運ぶ荷物の内容や行き先、目的地の鉄道設備に合わせた編成の組成に関する決定と命令出すことなどもある。目的地の駅の設備が小規模のものである場合などは、その設備でさばくことができる編成に仕立てなければならない。さらに目的地までの地形(勾配、線路状況、線形など)により編成の内容を調整する必要がある。その他にも、貨車の連結順序も、燃料を積んだ車両と危険物を積んだ車両を隣同士にしないなどの考慮がされる。なので、これらの要素をすべて考えたうえで、編成の長さを計算し、貨物列車を組成する。

(4)救援
駅構内の作業では事故の起きる危険性と常に隣り合わせの環境であったため、当時は事故に対処する専用車が用意されていた。これらは救援車と呼ばれ、専門の職員が乗車した。救援車には、予備レールや枕木、特殊工具(カッターや「なまこ」という脱線復旧用の器材など)を積んだ。ただ、この救援車は各駅に常駐しているわけではない。万が一、小樽で脱線などの大規模な事故が起きた場合は、国鉄時代の一大機関区であった岩見沢から出動があったようだ。国鉄時代に起きた手宮駅の機関車の脱線事故などをはじめ、救援車は小樽に幾度か駆け付けた。そのような縁があるため、現在も小樽市総合博物館に、救援車とそれに付随する操重車(クレーン車)が保存されている。

写真6 救援車 車内
復旧用工具が壁に掛けられている。また簡易的な宿泊機能もあった。

第3章 知られざる貨物輸送の舞台裏

(1) もう1つのガンガン部隊
小樽築港駅の構内では、かつてガンガン部隊と呼ばれた人々が活躍していた。この人々は行商として活躍したガンガン部隊ではない。冬季だけ小樽築港にやってくるこのガンガン部隊は、ハンマーを振るい、貨車の底で凍っている石炭を叩き落とした人々だ。その時に出るガンガンという音からこのように名付けられた。
まず産出された石炭は、貨物列車に積みこまれる前に洗炭と呼ばれる作業が行われる。この作業は、石炭を水洗いすることによって土などの不純物を取り除くものである。幌内で産出された石炭も、この洗炭作業を経て貨物列車に積みこまれ、小樽へと輸送された。この作業は冬場に思わぬ事態をもたらす。というのも、水洗いされた石炭は乾燥させた上で貨車に積み込むわけではないので、濡れた石炭の水分から貨車の底には水がたまることがあるのだ。たまった水により、小樽までの輸送中、冬の北海道の寒さで凍る。そのため、底の石炭の一部も一緒に凍ってしまい貨車にくっ付いてしまうのである。貨車から船へ積み込む時に、凍っている石炭は貨車の底にへばりついてしまっていて落ちない。そこで、底に凍りついた石炭を落とすために、ハンマーで叩き落とす作業が必要となってくるのである。この作業を行ったのは国鉄職員ではなく、農家の人々だ。冬の農閑期に、時間のある農家の人々がアルバイトとして駆り出されたのである。冬の夜、小樽築港駅の構内には、静寂を裂いてガンガンとハンマーの音が響いていたようだ。

(2)厩専用線
かつて、手宮駅周辺には船への積み込み前や、降ろしてから、一時的に荷物を保管するための倉庫が多数存在しており、これらへ荷物を輸送するための専用の線路が網の目のように張り巡らされていた。そのような貨物専用線の中の一つに厩専用線というものが存在した。

写真7−1 貨物線跡
倉庫横の空き地はかつて貨物線があった。右端の柵はその線路を再利用したもの。

写真7−2 広海線跡
専用線へと続いていた専用線跡。線路はなくなっており、現在は工場の資材置き場になっている。
この専用線手宮駅の北側、高島方面および東の海側に延びており、日通や日粉などの倉庫へ貨物を輸送する役割を担っていた。この厩専用線には一風変わった特徴がある。それは路線の名前にもなっているように、ここでは貨車を機関車ではなく馬が引くことだ。
ここで、馬が貨車を曳くようになった経緯としては、まず倉庫などが密集する地区に敷かれた線路の建築限界があげられる。線路のすぐそばに倉庫や建物が立ち並んでいるため、機関車を通すことができるだけの空間を確保できない。そして次に、人が曳くには貨車は重すぎるということである。空積みの貨車ならば数人で押すこともできたようだが、荷物を積んだ貨車を動かすには相当な人手がいる。そこで、牽引力があり小回りのきく馬が使われるようになったようだ。
馬による貨車の入れ換えは昭和48年まで行われていたようである2)。そして、厩専用線では馬を使った貨車の牽引が円滑に進められるように様々な工夫がなされていた。その一つに転車台の存在がある。これはターンテーブルとも呼ばれ、台座が回ることでその場で車両の進行方向が変えられるものである。ここではスペースが限られていたため、転車台に載せることができる貨車は1台である。転車台の設備は専用線に3台存在した。このような独特の設備を活用して馬による貨車の牽引が行われていた。
ただ、この馬によるユニークな貨物輸送もモータリゼーションの波にのまれることとなり、姿を消した。馬を使わなくなった当初は、線路が敷かれていた場所を道にしたうえで、オート三輪による輸送に振り替えられた。その時に転車台などの設備もすべて撤去されてしまったようである。そして、今では馬が貨車を牽引していた頃の面影は全く残っていない。

まとめ

かつて鉄道のまちとして栄えた小樽。鉄道による貨物輸送が小樽にもたらしたものは計り知れないだろう。そして、現在、小樽が観光地化されるとともに、イベント用の蒸気機関車など過去のイメージとして掴みやすいものが、鉄道のまちの記憶として前面に出されている。しかし、今回の調査で貨物輸送の舞台裏には、独特の興味深い世界が形成されており、それが輸送のシステムを支えていたということに気づかされた。このような陰の功労者はなかなか日の目をみることができない。また当時の様子をそのままに再現するのは困難だろうが、忘れ去られる前にスポットライトをあてることが必要だろう。調べてみると、国鉄民営化の中で過去のものとなってしまった風景が、地方の私鉄では昔と変わらないシステムで行われているところもわずかながら存在するようだ。上述の突放といった作業も静岡県の私鉄・岳南鉄道では現在もなされていることがわかった。今後はそのような場所の調査にも取り組んでいきたいと思う。

謝辞
今回の調査を行うに当たって様々な方々に、聞き取り調査の協力などをしていただきました。小樽市総合博物館の石川直章先生、佐々木美香先生、国鉄OBの上口衛さん、北海道鉄道OB会小樽支部の安田守さん、山崎敏隆さん、お忙しい中にも関わらず貴重なお時間を割いて調査に協力していただきありがとうございました。その他、調査に協力してくださった小樽市の方々や島村先生、TAで来てくださった佐野さんに心から感謝の気持ち申し上げます。


1)パイスケと呼ばれた人々は「マンボーと呼ばれた竹の札と賃金を交換」(『100年のあゆみ 駅史 手宮駅』:28−29)
2)「昭和48年まで使っていた馬の名前は昭和29年から一貫して春風号と呼んでいた。」(『100年のあゆみ 駅史 手宮駅』:41)

参考文献
・荒巻孚(1984)『北の港町 小樽』古今書院
・田中和夫(2001)『北海道の鉄道』北海道新聞
小樽市総合博物館(2010)『小樽市総合博物館公式ガイドブック 鉄道と歩んだ街 小樽』小樽市総合博物館 
日本貨物鉄道株式会社(2007)『貨物鉄道百三十年史』日本貨物鉄道株式会社
手宮駅(1979)『100年のあゆみ 駅史 手宮駅』(国鉄OBの上口衛さんから貸して頂いた資料)    
・『小樽築港駅貨物掛 山田四郎記』(北海道鉄道OB会小樽支部の方から頂いた資料)