関西学院大学 現代民俗学 島村恭則研究室

関西学院大学大学院 現代民俗学 島村恭則研究室

水道局の記憶−小樽の「水道数え唄」から

高佑太

はじめに:小樽の街と水
 古くから小樽の水はうまいと定評がある。その理由は3つあるとされている。①豊かな自然と水源環境に恵まれ、水源地の上流には水質を汚染する雑排水もなく、原水の水質が良好であること。②ミネラル分を適度にバランスよく含んであり、口当たりの良いこと。③山坂が多く東西に長い地形から、人口の割に水道施設が多く、また水自体が施設内に止まっている時間が短いことから、浄水場で作りたての水道水を供給することができるということ。よって、その恵まれた自然環境と水質、さらに小樽独特の地形により小樽の水のおいしさは構成されている。
 そのため鰊漁など、港の活発な都市である小樽は、古くから給水地としても利用されるようになり、近代に入ると水道も早くから整備されることとなる。
 そんな水道文化の変遷について、現地で聞き取り調査を元に研究を行う。

第一章:小樽の水
(1)共用栓
 共用栓とは各家庭への水道(専用栓)が普及される以前に、住民に飲料水を供給するために路傍に設置され、何軒の家庭で利用していた、共用の上水道である。形は数種類あるが、最も一般的なものは写真のような、ライオンの形で、レバーを引くと口の部分から水が出る仕組みとなっている。

写真1 小樽市総合博物館運河館に保存してある共用栓

 小樽市は古くから水道整備が発達しており、それまで使用されていた井戸から、1911年(明治44年)の給水開始時に公設で100栓の共用栓が設置されたとされる。設置場所の基準は定かではないが、1928年当時までに6,700栓余りが設置され、一部の裕福層を除き、大抵の庶民は共用栓を使用していた。
 市が設置する公設の共用栓と、一部の裕福層や、公設の共用栓から遠く、利便の悪い家庭が何件か集まり出資して設置する私設のものもあったそうで、届け出さえ出せば設置することが可能だった。私設のものは水道管自体も竹や木を繰り抜いた管が使われていたものもあり、現在でも工事の際に地面を掘り下げると、地中からその残骸も出てくることがあるらしい。

写真2 出土した竹でできた水道管

 共用栓の使い方は、共用栓1栓に付き1本のハンドル(鍵)があり、それを各家庭で当番で管理していた。使用量は月々基本料金を使用家庭で分担して払うのみの放任制で使い放題であったため、鍵があるとはいえ外部の人も容易に使用することができたという問題から、1931年から1932年にかけて、使った分相応の料金を払う計量制へと変わる。これを期に共用栓は減少していくことになる。
 共用栓は各メーカーごとに数種類の形があり、それぞれ一番主流で数の多かった大和田式、中和田式、小和田式、荻野式、佐野式、光式などがあった。メインの大和田式は、使用していない時も水道管内に水が溜まった状態になるため、冬季は水道管の凍結を防止するために水を出しっぱなしにしなければならなかったそうだ。万が一凍結してしまうと漏水など被害が大きくなってしまうため、当時の水道局員は毎晩一本ずつ歩いてチェックして回っていたそうで、大変苦労したそうだ。

(2)専用栓の普及と共用栓の撤去
 1932年頃からの計量制への料金制度の移行を期に、共用栓は小樽市内から減少していく。
 共用栓廃止の目的は以下の通り。
①故障した共用栓の放置、冬期間の水の出しっ放しの防止(年間推定40,000トン)
②修理費の削減(年間支出360,000円)
③盗水、無届け使用の防止(97戸摘発)
④水道料金の増収
 小樽市は前出のように人口に対して給水施設が充実していたため、市としても各家庭への専用栓の設置を奨励するようになる。1935年頃には共用栓は850栓まで減少したとされる。
 1960年を最後に、共用栓の設置を禁止、そして1967年には共用栓の使用者に対する専用栓化奨励を計り、五年計画で共用栓の全廃方針を打ち出す。職員は勤務時間外に実際に各家庭に足を運び、直接的な勧誘による積極的な奨励を行うようになる。というのも、当時の方針として、共用栓1栓の使用家庭全ての専用栓へ移行した場合、1戸につき200円の特勤手当が支給されたのである。また、各世帯に対しては専用栓への移行工事に対して1戸当たり3,000円の工事費の補助を行い、更に分割での支払いを可能にするなど、職員、各家庭の双方への援助を行うなど、とても積極的な奨励を行うようになる。
 そしてとうとう1975年までには共用栓の数は12栓となり、同年に使用者は皆無となった。
 撤去された共用栓は特に使用の用途がなく、埋立地に投げ込まれたそうだ。その他、記録には残っていないが、大通りに面した場所などにあった共用栓は、後に消火栓としてそのまま利用されたものもあるそうだ。

(3)現在も見られる共用栓
 現在、小樽市内には3つの現存する共用栓を見ることができる。小樽運河浅草橋横、和菓子屋「新倉屋 本店」横、そして小樽市水道局前である。また、小樽市博物館運河館内にも展示してある。これらは現在でも使用可能となっているが、もともとこれらの場所にあったものではない。

写真3 小樽運河浅草橋の共用栓

写真4 小樽市水道局前の共用栓

 1975年を期に、統計上皆無となった共用栓だが、本当にごくまれに残っている場合があった。水道局前の共用栓は、厩町という地域の、ある家庭の物置の中に残っていたものを、お願いして寄贈していただいたそうだ。そしてそれを、かつての文化の紹介の一環として開放している。
 しかし、小樽市はこういった貴重な文化に対しても保存体制がまだまだきちんと整っていないところがもったいないと、水道局の職員の方が話して下さった。

第二章:水道屋という職人集団
(1)北海道小樽市という立地の問題点
 海と山に挟まれた形で位置している小樽市。自然環境も豊かで、豊富な緑に囲まれているため保水力に富み、また一面の山の斜面より海へ向かって水も流れるため、給水という面でも良い立地にあると言える。前出の通り、水道施設も豊富である。
 しかし、北海道という立地にあるため、やはり冬は厳しい。水道は水そのものを取り扱うため、どうしても凍結の問題が深刻であった。

(2) かつての水道管修理体制−直営修理
 厳しい冬を迎えると、各地で頻繁に水道管の凍結、漏水が発生した。これらの修理を担当していたのが、通称“直営”と呼ばれた水道局に勤めていた専属の職人達である。
 彼らはまず音を探す。夜、人々が寝静まってから、彼らの仕事は始まる。彼らは、「キーン」といった音や、「スー」といった、独特の金属音に敏感に反応し、漏水している水道管を探すのだという。
 まず、期間と修理エリアを決め、空き地を借りてそこにプレハブを設置する。その期間内はそこを活動拠点としてそこに泊まり込むそうだ。夜になると活動を開始し、「音」を探す。そして漏水箇所を特定し、ブレイカーなどの機械がない時代は、つるとスコップを使って水道管まで掘り進めて行っていたそうだ。特に冬の間は本当に大変で、凍結した地面はコンクリートよりも硬く、お湯を沸かして掛けていたりもしたそうだ。
 彼らを中心として、小樽市水道部は24時間体制で水道管修理を行い、通報が入れば現地へと職員が出て行っていたそうだ。
 数々の困難にも立ち向かってきた小樽の職人たちの腕は他地方にも有名で、よく「水道のことで何かあったら小樽さんに聞け」と言われていたそうだ。彼らもまた、自分たちの仕事に対して誇りを持っていた。
 1965年ごろを境に、業者を育てるために、業者委託へと方針を転換する。1973年には32人、そして1979年には完全に廃止、これによって水道部内から職人集団は消えることとなる。それを機会に業者へ再就職した人もいたが、保障や給与面で公務員とはかけ離れていたため、ごくわずかだった。

第三章:発見!小樽市水道数え唄
(1)小樽市水道数え唄
 今回、小樽での調査を行うにあたって、現地で手に入れた資料「おたる水道のあゆみ」の中に、「小樽市水道数え唄」なる項目を発見した。昭和38年に作られたというこの唄の歌詞を見ると、「漏水防止の水道屋」、「鉄管破裂で大慌て」などと言った、水道局員の大変な仕事についてを中心とした構成となっている。この唄の正体を解明すべく、小樽市水道局を訪ね、聞き取り調査を行った。
 作者となっていた斎藤忍さんという方は、元小樽市水道局の局長で、この唄はなんともともと同水道局に勤めていた方の結婚式の余興のために作られたいわゆる「替え歌」であることが判明した。原曲となったのは植木の数え唄(無責任数え唄?音源が入手できなかったため、確認できず)だそうだ。
 しかし、この唄には隠れた真相があったのだ。お話を聞かせて頂いた水道局員の高橋さんの紹介で、同氏の元上司であり、当時の宴会部長的役割を担っていた中村常男さんによると、実はこの水道数え唄はもともと中村さんが斎藤さんと共同で考案したものだったそうだ。そのため、実際に「おたる水道のあゆみ」にも掲載されている、全部で11節ある歌詞の内の7節目は中村さんが考えた歌詞が残っているということも話して下さった。
 中村さんが水道局に在籍していた頃は、お酒の入る宴会ごとなどがあればみんなでよく大合唱していたそうだ。「現在ではこの唄を知っている職員の方も少なくなってきている。」と少し寂しげだった。

 以下が「おたる水道のあゆみ」にも掲載されている、小樽市水道数え唄の歌詞である。

===========================◆小樽市水道数え歌 ===========================

一つとせ 人の寝ている真夜中に、漏水防止の水道屋 そいつは、ご苦労さん ご苦
労さん
二つとせ 吹雪、雨の日、風の日も、仕事に励むは水道屋 そいつは、ご苦労さん
ご苦労さん
三つとせ 見れば見るほどいい男 お嫁にゆくなら水道屋 そいつは、本当だね 本
当だね
四つとせ 夜の夜中にとび起きて、鉄管破裂で大あわて そいつは、ご苦労さん
ご苦労さん
五つとせ いつもにこにこ笑顔して、市民に接する水道屋 そいつは、本当だね 本
当だね
六つとせ 難しい仕事を引き受けて、笑顔で仕上げる水道屋 そいつは、本当だね
本当だね
☆七つとせ 何年もかかって舗装した 道路を壊すは水道屋 そいつは、本当だね
本当だね
八つとせ やせても枯れても俺たちは、市民を守る水道屋 そいつは、本当だね 本
当だね
九つとせ 故障、故障と電話鳴る、テンテコ舞いする水道屋 そいつは、ご苦労さ
ん ご苦労さん
十とせ 尊いお命守るのは、我等が水道の務めです そいつは、本当だね 本当だね
終りとせ 尾張名古屋は城で待つ、小樽の水道はオレで待つ そいつは、本当だね
本当だね

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※主に水道局で働く苦労がそのまま歌われている。
 ことわざなども上手く取り入れられている。

(2)水道五万節
 中村さんは「水道数え唄」の他にも自作した唄をもっていた。現在どこの資料にも載っていないという「水道五万節」と名付けられたこの唄もやはり、植木等の五万節を元にした替え歌で、同じく余興の為に作ったものである。もともとこのような替え歌を考えるということが好きだったそうだが、当時、昭和30年代後半頃というのは、今でいうカラオケのどはほとんど普及していなかった。ましてやみんなが知っている歌謡曲を歌うだけなら他の人と出し物が被ってしまう。それならいっそのこと自分で作ってしまえ、ということで始めたこの替え歌の余興が、水道数え唄をはじめとする、これらの唄の正体だった。
 
===============================◆水道五万節================================

1 学校出てから充余年 今じゃ水道のエンジニア 右や左に管を入れ 付けた水道が
五万件
2 学校出てから充余年 今じゃ水道の美青年 あの娘この娘に惚れられて 断った話
が五万人
3 学校出てから充余年 今日は楽しい水神祭 めでたい話に花が咲き 飲んだビール
が五万本

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(3)余興名人中村さん
 1940年、7人兄弟の末として旭川に生まれる。1958年まで3年間道立旭川工業高校土木科で学び、卒業後に小樽市水道部へと就職。当時は水道部側から高校へ就職希望者を募るよう依頼があり、志願して1959年に就職する。はじめは水道部の寮に暮らし、そこには他にも函館や室蘭など、小樽以外の地方出身者ばかりだった。というのも当時、小樽工業高校には土木科がなかったため、必然的に他地方で土木科を学んだ地方出身者が集まることとなった。

写真5 当時住んでいた寮の間取り。中村さん筆。大浴場や食堂などもあり、みんなで月に1回飲み会をするなど、楽しく暮らしていたそうだ。

 働き始めて一番最初の仕事は、小樽市内の地図を覚えることだった。旭川出身のため、地理状況が全くつかめず、事故現場などに行くだけでも相当な苦労をした。例えば、火事の現場に行く場合は、出火元の火や煙といったものが目印となるが、いざ水道部まで帰るとなると帰り道がわからなくなり、迷ったあげく近くにあったお店で電話を借り、自転車で迎えに来てもらったりもした。漏水の調査なども基本的に夜に行うため、ただえさえ分からない道が、真っ暗で何の目印もなくなり、本当に苦労した。そのため一番最初に行ったのは、地図を買ってきて、毎日机に向かってそれをひたすら覚えることだった。
 1962年、小樽を台風が襲った。このときばかりは、3日3晩一睡もせずに街を駆け回って生活用水を配ったり、修理用の資材を運んだりした。当時は給水車もなく、消防車に水を入れて運んだ。3日目の夜、みんなで酒を飲み、疲れきって寝た。
 この頃の水道管というのは、戦後の鉄不足により、鉛が使われておらず、強度不足と小樽の地形上高い水圧と、そして冬期の寒さなどによりあちこちで破裂していた。その度にクボタイトというイオウを溶かして止水するが、水圧の高い水を止めるのはとても苦労した。一ヶ所修理し終えると他が破裂する、なんてことも多々あった。そのため、子供の運動会にも出れず、元旦休みもほとんどなく、そのときに局内に残っているのも課長くらいで、それ以外はみんな現場へ行っていた程であった。それでもこの頃はみんなで一日中仕事に駆け回り、終わればみんなで飲みに行く。お酒が入れば気分も良くなり歌いだす。それが後、1963年には「小樽市水道数え唄」や「水道五万節」を考案するなど、宴会部長に。
 1965年、それまでお世話になっていた寮を出ることに。駆け出しの頃から共に歩んできたこの寮も2006年頃には無くなってしまった。
 1974年には消防署の方たちと一緒に、消火栓の色分けに携わる。小樽市には現在も赤・青・黄色などカラフルな消火栓が存在する。色分けによって消火栓の水圧が違うため、消防署のは現在もこの色分けによって実際に現場で消火にあたっている。当時は色分けがされていなかったが、中村さんは全部で88ヶ所ある非常バルブを把握していたため、そのバルブを開けてもらうために消防署は火事になるとまず水道局に連絡を入れ、中村さん達はバルブを開閉していたそうです。
 このカラフルな消火栓は全国でも珍しく、1979年には全日空の機内誌にも掲載され、一躍有名となる。


写真6、7 町のあちこちで見られるカラフルな消火栓

 1974年、34歳を迎える頃、係長へと就任、以来あまり現場へは行かなくなる。
 1975年頃から、水道管工事のための道具の考案を行いだす。鉄工所と相談しながら、実際に作ったものもある。

写真8 中村さんが考案した、バルブ筺を上下調節するための道具

 1993年から1996年までの3年間は浄水場へ移動となり、管理業務にも携わる。
 2001年度をもって定年退職。しかしそのまま2003年まで水道局に残り、2004年からは5年間、小樽市管工事業所の事務局長を務め、退職。現在では自宅で数種類の野菜などを作りながら、生活をしているとのこと。

結びにかえて
 古くから発達していた小樽の水道は、それを支えていた水道局の方々の存在が欠かせないものであり、かつて水道一家とも呼ばれた小樽市水道局員たちは、自分たちの仕事に対する誇りや楽しみを共有しつつ、彼ら独自の文化を持った、職人集団だった。
 また、現在も残る水道にまつわる唄、「小樽市水道数え唄」の正体は、カラオケなどの普及する以前に、余興の一環として生まれたものであり、そしてそれは家族とも例えられる程結びつきの強い彼ら独特の文化が生み出した産物であった。
 そして今回の調査では、記録には残っていない、もはや記憶の中だけに留まっていたもうひとつの唄、「水道五万節」の存在が今回の調査によって明らかとなった。

【謝辞】
今回調査を行うにあたって、小樽市総合博物館石川直章先生、小樽市水道局管路維持課管路維持担当主査高橋聡氏、官公需適格組合小樽市管工事業協同組合事務局長工藤利典氏、小樽市水道局浄水センター天神浄水係係長中村繁美氏、元小樽市水道局主幹中村常男氏、関西学院大学島村恭則教授、TAとして同行して下さった関西学院大学・大学院佐野市佳さんをはじめ、本当にたくさんの方々にご協力を頂きました。ありがとうございました。

【参考】
小樽市水道局 (1996) 『おたる水道のあゆみ』
小樽市水道部 (1965) 『小樽市水道五十年誌』

(他 小樽市水道局で頂いた資料より)

http://www.public-otaru.info/good-life/2006-10/20061011kyouyousen.htm
http://www.ogb.otaru.hokkaido.jp/hikari/water4.html