関西学院大学 現代民俗学 島村恭則研究室

関西学院大学大学院 現代民俗学 島村恭則研究室

ガンガン部隊〜流通の先駆者の繁栄から衰退まで〜

ガンガン部隊〜流通の先駆者の繁栄から衰退まで〜

土井麻奈未

はじめに

 終戦後、一億総買い出しの時代に、小樽では大きなブリキ缶に食糧を詰め込み、それらを背負って行商を行う人々の姿が多くみられるようになった。(写真1)食糧不足のこの時代は、小樽だけでなく日本各地でも列車に乗って食糧を売り歩く行商人の姿は見られたようだ。しかし、小樽に限っては、その行商人たちに呼び名がつくようになった。その名も「ガンガン部隊」。地域の人々からは“流通の先駆者”とも呼ばれ、当時の人々の生活を支える大切な存在であった。交通の発達に伴って彼らの姿は次第に消え、今や幻になったといわれている。彼らの繁栄から衰退をたどった、小樽でのフィールドワークをふまえ、本研究の調査結果を報告する。

第1章 缶を背負った行商人

(1)ガンガン部隊とは

 まず、「ガンガン部隊」という名前の由来について述べたい。行商人の総称にしては変わっているこの呼び名。私は初めてこの名前を聞いたとき、軍隊のような、反抗団体のようなイメージを抱いた。知らない人は、名前だけ聞くと、少なからず私と同じような想像をするのではないだろうか。ではどんな由来があるのだろうか。
 この“ガンガン”というのは、北海道の方言で“缶”のことを指す(カンカンがなまったもの、もしくは、叩くとガンガンと音がするからだという二説が有力)。そのガンガンと呼ばれる重いブリキ缶(写真2)を背負って、雨の日も雪の日も毎日毎日たくましく行商に赴く人々のことを、地域の人は敬意もこめて“部隊”と呼んだのであろう。それが根付き、「ガンガン部隊」という呼び名が広がっていったと推測される。
 次に、そのガンガン部隊とは、どういった人々のことを指していたのかを明らかにしたい。資料や聞き取りをまとめると、主に「市場で仕入れた鮮魚や乾物をブリキ缶に入れ、早朝から列車でなどで炭鉱や地方の家々を回る行商人の総称」であることがわかった。当時は訪問販売も広く受け入れられており、今のように冷たい目で見られるようなことはなかったという。
 では、ガンガン部隊が発足し、繁栄した時代とは、いったいどのような時代であったのだろうか。彼らの姿を明らかにしていく上で、その背景も詳しく知る必要がある。

(2)当時の時代背景

 上記でも述べたが、ガンガン部隊が登場し始めたのは終戦後である。この頃は外地からの引揚者や、復員者などの帰国で人口が急増した。そのうえ、戦火による国土の焦土化や、国民の生産意欲の減退で最悪の状態に陥り、生産は著しく落ち込んだ。配給が順調に行われてさえ、量が足りず遅配と欠配が続き、人々が次々と栄養失調になる、という食糧難時代であった。現代は、食べ物であふれ、不自由なく暮らせる。そんな幸せな時代に生まれた私たちには、この時代のことは恥ずかしながらピンとこない。しかし、「ばれいしょやかぼちゃなどは食糧としては上等の部類で、穀物や木の実、山菜などをむさぼり食い、ときにはみみずの入ったでんぷんかすまで食べて、人びとは飢えをしのいだ。(デジタル八雲町史抜粋)」という一文を見たとき、胸がつかえた。私たちの想像を絶するほど辛い時代であったのだ、と嫌でも察しがついた。
 そのような食糧難に加えて、交通も空前の混乱と危機に陥った。復員者や引揚者の輸送、占領軍の優先利用の影響を受け、一般の貨物輸送がまひ状態になったため、農漁村が消費地に食品を送り込む手段までも途絶えてしまった。そんな中でも、生き延びるためには、やはり食べ物を確保せねばならない。この結果、“一億総買い出し”という時代が出現し、行商人が急速に発展した。この頃の行商人は“やみ商人”とも言われていたが、需要と供給を結ぶ隠れた流通機構の担い役でもあり、人々の生活は彼らによって支えられていた。
 このように、日本は当時、全国的にも全土的にも困窮していた状況にあったが、幸い小樽は漁業資源に恵まれていたため、内陸地で売りさばいたり農村に運んだりと、海産物と米などの交換の商いが行われるようになった。この商いの形態から、行商人たちは「かつぎ屋」や「ガンガン部隊」といわれるようになる。

第2章 ガンガン部隊の実像

 前節では、いわゆるガンガン部隊の定義や、彼らが登場に至った時代背景を述べた。以下本節では、もう少し掘り下げて、フィールドワークで得た情報をもとに彼らの実際の姿に迫りたいと思う。

(1)人物像、装いとは

 小樽の三角市場(写真3)中央市場(写真4)の方に、ガンガン部隊に対する聞き取り調査を行ったところ、彼らの人物像が浮かび上がってきた。中でも多かった意見をまとめると、

・70%の方が50〜60歳の女性
・静かそうな人が多かった(だが、なりふり構わぬバイタリティにも満ちていたらしい)
・ガンガンやかごのほかに、軍手、頭巾、長靴、エプロンも欠かせないトレードマーク

といった“女性像”(写真5左下女性。また写真2も参照とする)
が明らかになった。(もちろん男性のガンガン部隊も存在している。)三角市場の鮮魚店の方によれば、ガンガン部隊は、もしガンガン(ブリキ缶)ではなく、かごを背負っていたとしても「ガンガン部隊」であって、行商人の総称をそう呼び、ガンガンを持っている人だけが「ガンガン部隊」なのではないらしい。これは、どこの資料にも載っていなかった事実であるため、新発見であった。
 そして彼らが使用している皆共通のガンガンはどこから仕入れているのか、という疑問も明らかとなった。中央市場の渡部氏(次章で紹介)は、実は、ガンガンは一つ一つ職人が大きさなどを計算して作ったものであり、皆それを使用していた、という。御用かごのように、使用後は一つのガンガンにほかのガンガンも収容でき、荷がコンパクトになる、という作りである。これも新発見である。現代では、食べ終えた後に一段にできる、二段の弁当箱をイメージしていただければわかりやすいであろう。(写真2参照)ただ、空のガンガン1つだけで20kgはあったようなので、中に荷が入れば相当な重さであったことは容易に想像がつく。どおりで、写真に収められているガンガン部隊の方々は大きく前かがみで、腰が曲がっている方が多いわけである。
 ちなみに長靴もみな共通で、小樽で創業以来、ゴム長靴製造の先駆者として発展している「ミツウマ」のゴム長靴をはいていた。現在もなお、「長靴と言ったらミツウマでしょう。」というほど地域の人々から愛されている。
 また、聞き取りの際に「ガンガン部隊には休みなどない」という話を伺った。大雨であっても、吹雪いていても、「待っているお客さんがいるから」と毎日行商を行っていたらしい。当時は傘などもまだ普及していなかったため、カッパのみで大荒れの天気の中、重い荷物を背負って働いていた。しかもその7割が女性。そこまでしなければ生計を立てられなかった、という時代背景もあるが、子どものために、と働く“母のたくましさ”というものを垣間見た気がした。


(2)ガンガンのなか

 上記から、ひとことに「ガンガン、ガンガン」と述べてきたが、その中身は一体どのようなものが入っていたのであろうか。このガンガンの中身についての詳しい資料はほとんどなく、あいまいにされている。ほぼ聞き取りのみの調査結果ではあるが、運んでいたものは、主に“鮮魚、乾物、かまぼこ”などで、“あげ、豆腐、あめ、菓子、日用品”も多かった。その他にも、ラーメンや野菜もあった、という声も聞いた。三角市場の駄菓子店の方によると、あめは缶単位で注文を受け、時には食パン10斤(こちらの駄菓子店は、当時パン屋さんとも提携していたらしい)という注文もあったそうだ。日用品では、顧客から、調味料や衣服まで頼まれることもあったようで、ガンガン部隊は便利屋さんのような一面も持ち合わせていたようだ。
 そして、商品を入れたガンガンの中だが、これは本人たちが商売しやすいように入れられていたため、聞いた話もバラバラであった。当時はまだポリ袋などはない時代だったため、袋は新聞紙で手作りだったようだ。一つ一つ丁寧に包んでいる人もいれば、魚と氷が満々に入れる人がいたり、物によって区切って入れ常に整理している人もいたらしい。
彼らはこのようなガンガンを2つも3つも背負い、両手にはかごや風呂敷を持てるだけ持って食糧を運んだのであった。

第3章 部隊の足跡

 さて、前章までで、ガンガン部隊の「像」について主に述べてきたが、本章では彼らの繁栄につながった足跡や販売の様子などを明らかにしたいと思う。
 ガンガン部隊の最盛期は昭和20年末から、昭和30年にかけてである。当時の様子を伺うと、「朝5時のピーク時間は、市場の中の道は歩けないほど、ガンガン部隊の人でいっぱいだった。店の人たちはトイレに行くのも、わざわざ外に回らないと行けないほどだったよ。」と、中央市場「渡部鮮魚店」店主の渡部哲衛氏が懐かしそうに答えてくれた。

(1)手宮線の存在

 ガンガン部隊と、この手宮線は切っても切れないほどのつながり。
手宮線とは、北海道最古の線路で、日本でも3番目に古い線路である。北海道小樽市南小樽駅〜手宮駅>を結ぶ、日本国有鉄道が運営する鉄道路線のことで、旅客輸送の廃止後も、石炭や海産物の貨物輸送で賑わいを見せたが、エネルギー産業の転換や輸送手段の変化により完全に廃線になる。今でも線路跡は残っており、一部は散策路として整備され、ファンが訪れたりしている。(写真6)
 
 ガンガン部隊は当時この手宮線を特に利用していた。この線の存在が、彼らの販路をさらに拡大させたため、当時の車両内は毎日行商人でごった返していた。しかし、旅客輸送を行っていた頃は、彼らの荷物の大きさや悪臭、汚れなどで、一般客との摩擦も絶えなかったようだ。この背景から、国鉄は「行商客指定車」という部隊専用の車両を設置し、事態の収拾を図った。国の経済情勢も安定に向かい、行商人と地方小売業者との結びつきは根強いものとなったのである。その結果、顧客先も固定化し、部隊の繁栄はピークになった。

(2)行動範囲

 ガンガン部隊における聞き取り調査でよく耳にしたのは、小樽はもちろん、札幌、余市、岩内、倶知安といった地名であった。しかし調査を進めていくと、夕張や富良野といった遠方にまで足を運んでいた人もいたことが判明。資料や聞き取りで分かった地名をチェックし、実際に地図に落とし込んでみると、行動範囲がほぼ一定の区間内であったことが明らかとなった。(写真7)
 地図を見て納得したことが、だいたいどこへ行っても、その日のうちに必ず帰ってこれる距離であることだ。毎日行商に出かけるのだから、当たり前のことだが、実際に目で見てみると実にわかりやすい。行動範囲が載っている資料等は見つけられなかったため、より興味深い調査となった。まだ掘り下げてみると新たにおもしろいことが発見できそうなため、機会があれば取り組みたい。

(3)販売の様子

 では、行商先の彼らの販売の様子は、どういったものであったのだろうか。調査によれば、主に訪問販売で、一軒一軒顧客である家を回っては、「今日は○○はどうだい。脂っこいから湯煮がいいよ。」などと、その日のお勧めの魚や、調理法を教えたりしていたようだ。顧客先は重ならなかったのか、と聞き回ったところ、どうやら彼らはしっかり情報共有をしていたらしく、重なることはなかったらしい。携帯やパソコンも何もない時代に、そこまでしっかりと情報を共有できていたことに彼らのコミュニティの強さを感じた。上記にも触れたが、彼らは販売する際に、各家庭の要望に応え、その都度魚をさばいたり、レシピを教えていたらしい。魚のおいしい食べ方や漬物のコツまでも教えるなど、地域に密着して食文化の継承も担っていたようだ。対面販売などほとんど見られない現在、そんな伝統的な食文化の継承は今も行われているのだろうか、と少し心配になった。

(4)地元民の回想の声
 
 こちらから話を一方的に聞く調査だけでなく、地元の方から見たガンガン部隊への意見も伺った。彼らの存在を回想していただき、お話していただいた。

「ガンガン部隊がいた頃は、市場の商店はすごく繁盛していたから、小売をしなくてもやりくりできたんだよ。今の小樽の商店に、少し小売が苦手な気質が見受けられるのは、その影響があるかもしれないね。」中央市場(男性)

「あの時代はいいことばっかりでもなかったんだよ。商売していたら、毎日来る行商の人と顔なじみになる。そうすると、よしみで『つけといて〜』なんか、日常茶飯事だったね。もちろん払ってくれる人もいたけど、踏み倒す人や、請求した次の日から来なくなった人もたくさんいたよ。正直こっちもたまったもんじゃなかったよ。」三角市場(女性)

このような話は、本当に地元の方でしかわからない話であるため、本当に興味深い。貴重な声を聞けたことに感謝したい。

第4章 衰退から今日へ

 勢力をつけてどんどんと拡大していったガンガン部隊も、時代の流れとともに、次第に衰退していく。昭和40年代に入るとスーパーマーケットができ始め、行商人たちの販路は狭まり、部隊の姿も少しずつ減り始める。この頃から交通の便は整い出したが、まだ部隊の需要はあった。昭和50年頃まではガンガンを背負う人は希少ながらも見られたが、交通の発達や整備に伴って、昭和55年には、その姿は全く見られなくなった。その結果、ガンガン部隊は完全に幻になったのである。
 しかし、現地での調査中にまたもや新事実が明らかとなったのである。これは、小樽市漁業協同組合、手宮・高島地区区長、指導漁業士の成田正夫さんから伺った話である。その新事実というのも、誰もが「現存するガンガン部隊はいない」と話していたが、なんと高島地区にたった一人生き残りがいた(吉田月江さん)、ということである。しかも、彼女は今も“かごを背負って訪問販売を行う”という従来の形のまま行商をしているという。ちょうど成田さんからこのお話を伺った日も、吉田さんは働いていたそうで、「あのばぁさんなら、今日も元気に朝市で魚仕入れて行商に行ったわ。」と笑いながら話してくれた。
 そして、成田さんに連れて行っていただいた鱗友市場の朝市にて、さらに興味深い事実が発覚した。なんと、「各地方には足を延ばさないものの、小樽〜札幌間では、かつてから続いていた行商のルートで、鮮魚や日用品の販売を行う人“現代版ガンガン部隊”がいる」らしいのである。しかし、食の安全が問われる今、保健所などのチェックがとても厳しい。したがって、彼らの大半は“潜り”で商売を行っている、というのが、実態であった。(鱗友市場の朝市でお会いした板前さんより)この事実には驚きを隠せなかった。幻になったといわれていたガンガン部隊は、形を変えながらも実在していたのである。

最後に

 流通の先駆者として終戦後から人々の生活を支え続けたガンガン部隊。エネルギー産業の転換や、交通の発達、スーパーの登場によって、たちまち時の人となり姿を消した彼らだが、現地調査の結果、部隊の生き残りは1名存在し、まだ都心では形を変えてこっそりと行商を行っていることが判明した。
このように、時代に合わせて形を変えながら「現代版ガンガン部隊」として今日も誰かの生活を支えながらひそかに」活躍している、という事実が、本調査にて明らかになった次第である。

 なお、本研究において実施したフィールドワークについて概要を説明しておく。本研究における現地調査は、2009年09月14日から18日に実施した。調査は、主として聞き取り調査であり、市場関係者を中心に話を伺った。

謝辞
本稿の調査にあたっては、小樽市漁業協同組合手島・高島地区区長の成田正夫氏、小樽中央市場協同組合総務の佃多哉志氏、小樽中央市鮮魚店店主の渡部哲衛氏、小樽妙見市場商業協同組合事務長の保坂道彦氏、小樽市総合博物館の石川直章先生、その他、市場で働く方々や市民の方々にご協力いただきました。初対面にもかかわらず温かく迎えていただき、たくさんのご意見をいただいたこと、心から感謝申し上げます。ありがとうございました。


参考文献
・「おたる案内人」小樽観光大学校 小樽観光大学校運営委員会編(2006)
・「わが市場の道のりと将来」小樽中央市場共同組合(いただいた資料)
・「三角市場」小樽駅前市場共同組合(いただいた資料)
・「小樽―まちなみの記憶―」北海道映像記憶制作DVD(非売品)
http://secondlife.yahoo.co.jp/supporter/article/DmnN0YaML1BEWyj0vGCwOL1tAPg-/3779/
http://www.city.hakodate.hokkaido.jp/soumu/hensan/hakodateshishi/tsuusetsu_04/shishi_07-01/shishi_07-01-08.htm
http://www.city.hakodate.hokkaido.jp/soumu/hensan/hakodateshishi/tsuusetsu_04/shishi_07-01/shishi_07-01-07.htm
http://www8.ocn.ne.jp/~co-co/uoichiba.html
http://www.city.otaru.hokkaido.jp/simin/koho/sakamati/1406.html
http://www2.town.yakumo.hokkaido.jp/history/ep14.htm
http://www.hokkaido-365.com/news/2009/08/post-318.html
・「広報あっけし」 2005年12月号(No.702)
・「小樽市場物語」北海道新聞小樽報道部編 ウィルダネス