関西学院大学 現代民俗学 島村恭則研究室

関西学院大学大学院 現代民俗学 島村恭則研究室

【新連載】迷宮都市・那覇を歩く

平凡社のウェブ雑誌 WEB太陽 で新しい連載が始まりました。

島村恭則「迷宮都市・那覇をあるく」

都市民俗学から見た沖縄・那覇ガイドです。

連載終了後に、単行本として刊行が予定されています。

第1回「迷宮都市への招待」は、こちからご覧いただけます。

webtaiyo.com

 

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大学院進学案内(島村研究室)の動画を公開しました。

関学大学院の島村研究室について紹介している動画(社会学研究科(大学院)進学説明会用)を公開しました。

ここで見ることができます。

www.youtube.com

島村研究室への進学希望者は、

tshimamura[アットマーク]kwansei.ac.jp

へ直接メールで連絡してください。si

 

 

 

ミンゾク(民俗)とは

2021年度共通テスト国語で出題された「ミンゾク」とは?

人びと(民)の「俗なるもの」のことです。

<俗>とは、①支配的権力になじまないもの、②近代的な合理性では必ずしも割り切れないもの、③公式的な制度からは距離があるもの、などをさしています。

詳しくは、島村恭則『みんなの民俗学:ヴァナキュラーってなんだ?』平凡社新書、に書いてあります。

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クスノキと名づけ―藤白神社・王子神社・楠御前八柱神社の事例― 

岩渕香奈

【要旨】

本研究は、「楠」を用いた名づけの風習について、藤白神社(和歌山県海南市)、王子神社(和歌山県紀の川市)、楠御前八柱神社(三重県志摩市)をフィールドに実地調査等を行うことで、「楠」を用いた名づけの風習のはじまりや現状を明らかにしたものである。本研究で明らかになった点は、つぎのとおりである。

 

1.「楠」を用いた名づけという特殊な事例が和歌山県、三重県、高知県でみられる。和歌山県海南市の藤白神社、和歌山県紀の川市の王子神社、三重県志摩市の楠御前八柱神社を調査した。

 

2.「特定の樹木を神聖視して崇拝する樹木信仰が古来より存在しており、その一種としてクスノキも信仰の対象とされる事例が多い。

 

3.熊野信仰において重要な場所であった藤白神社には、クスノキがご神木とされている。

境内にある子守楠神社ではクスノキが祀られており、そこには熊野櫲樟日命という熊野の神様が籠るとされている。藤白神社から「楠」「熊」「藤」からいくつか文字を頂き、名づけることで子供は長命し、出世するといわれていた。現在、名づけは行われていない。

 

4.王子神社を中心とした宮講では、宮座の構成員の家に前年生まれた男の子の名前を室町時代から現在まで書き綴った名つけ帳が保管されている。瀬田勝哉氏が行った名づけ帳の研究により、中世の宮講において「楠」と「松」、そして「長寿・延命・永続的」を意味する「千」を主に用いて名づけが行われており、そうした名前をつけることで村や宮講の不変、永続、繁栄に繋がると考えられていたという。

 

5.楠御前八柱神社は楠の宮で親しまれており、久須姫命のためにクスノキが植えられ、楠大明神として祀られていたという伝説が残る。先代の神職である大西文松氏が楠の宮の信仰を志摩地方に広めると共に、「楠」を用いた名づけを始めた。現在は神社に祈願して生まれた子供に「楠」の一字をつけることで、楠の宮の加護をうけ、延命長寿・無病息災を祈る風習が志摩地方を中心に広く残っている。現在、「楠」を用いた名づけは公然と行われていないが、形を変えて引き継がれている。

 

6.「楠」の漢字を用いた名づけの風習は、名前に「楠」を用いることでクスノキに宿る神様から、主に子供の丈夫な成長や無病息災、延命長寿に関するご加護を授かることができるという信仰に基づいたものであった。「子供の丈夫な成長」「無病息災」「延命長寿」が願われるのは、樹齢が長く大きく育っていくというクスノキの特徴から発生したと考える。

 

7.人の名前には「どのように育ってほしい」という親やその人物に関わる人たちの願いが込められており、「名前」というものがその人物の性格や健康、またはその人物が所属する組織に影響を与えると考えられていたことが分かった。

 

【目次】

第1章 クスノキ信仰

 第1節 樹木信仰

 第2節 クスノキ信仰

 

第2章 藤白神社(海南市)の事例

 第1節 藤白神社

 第2節 名づけ

 

第3章 王子神社(紀の川市)の事例

 第1節 王子神社

 第2節 名づけ帳

 

第4章 楠御前八柱神社(志摩市)の事例

第1節 楠御前八柱神社

第2節 大西文松氏と名づけ

 

結語

 

文献一覧

 

【本文写真から】

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写真1 子守楠神社

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写真2 熊野櫲樟日命が籠もるクスノキ

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写真3 王子神社

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写真4 名づけ帳

(『粉河町史』第2巻、粉河町史専門委員会、1996年発行、巻頭9頁より)

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写真5 楠御前八柱神社

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写真6 左から大西文松氏、大西文長氏、大西永晃氏の写真

 

【謝辞】

藤白神社 権禰宜の中井万里子様、楠御前八柱神社 祢宜の大西史晃様をはじめとする多くの方々に調査へご協力いただき、本論文を書き終えることができました。心より感謝申し上げます。これからの皆様のご繁栄を心から祈っております。

 

 

 

 

 

天照教の形成と展開ー北海道で生まれた新宗教ー

光田凌樹

 

【要旨】

本研究は、北海道室蘭市の天照教について、室蘭市をフィールドに実地調査を行うことで、天照教が宗教としてどのように形成され、展開してきたかを明らかにしたものである。本研究で明らかになったのは次のとおりである。

  • 助産婦であった泉波希三子、小学校教員であった泉波秀雄によって立教された。
  • 初代管長泉波秀雄の病気の療養中、宗教に救いを求めた泉波希三子が御嶽教照浜教会の浜口テリ先生と出会い、弟子入りしたことが、天照教の発端である。
  • 御嶽教照浜教会での修行中、天照大御神、大国大神、恵美須大神から「ご神言」があり、この3神を信仰対象とした。
  • 立教当初の布教手段は、「神様からのおたより」が中心であり、それが現在も天照教の「おみくじ」として継承されている。
  • 信仰の拠点は、神様からの厳命によって、室蘭市になった。
  • 立教から柏木町の神殿建立を経て現在に至るまで、多くの困難と熱心な信徒の方々の協力があった。
  • 海外布教に関しては、ブラジルとハワイで広く展開されてきた。
  • 信徒の方々の体験談にあるように、天照教が発展し続けた理由として、教祖・初代管長の人柄、霊的な力が大きく関係しているといえる。
  • 現在も泉波希久子教主のもと、天照教は発展し続けている。

 

 

【目次】

序章 

 

第1章  立教以前 

  第1節  泉波秀雄と泉波希三子 

  第2節  管長の療養・浜口テリとの出会い 

  第3節  御嶽教照浜教会での修行 

 

第2章  立教後の歩み 

  第1節  6畳の神殿  

  第2節  本輪西の神殿  

  第3節  布教と分教会 

  第4節  柏木町で現在の神殿建立 

  第5節  海外布教と代替わり  

 

第3章  信徒と体験談

  第1節 信徒 今村清子さんの語り

  第2節 信徒 寺下悦子さんの語り 

  第3節 「天照教五十年史」より信徒の語り   

  第4節「人生を好転させる「因縁」をつかめ」より信徒の語り  

 第5節「ノストラダムス 神界からの大警告」より信徒の語り    

 

第4章  京都での展開 

 

結語 

 

 謝辞   

参考文献   

 

【本文写真から】

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写真1 教祖と初代管長(天照教本部提供)

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写真2 立教当時の仮神殿 泉沢勝男氏宅

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写真3 現在の柏木町の本部神殿

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写真4 神殿境内の福神像

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写真5 二代目夫妻(天照教本部提供)

 

【謝辞】

本論文は、天照教本部、南京都支部の皆様のご協力があってはじめて完成させることができました。泉波希久子教主、室蘭本部神官の塚越正敏氏、同じく成田和弘氏、多くの信徒のみなさまに深くお礼申し上げます。

家の歴史が忘れられるとき ー今井酒造を事例としてー

今井美希 

【要旨】

本研究は、今井酒造を中心に見た今井家の歴史に対する観点から、今井家の歴史の忘却の背景について明らかにしたものである。今井酒造とは、所在地を兵庫県姫路市とし、私の叔父邦雅が社長を務める会社で、約140年の歴史がある。父達也、父の従兄弟史郎、社長の嫡男で私の従兄にあたる亮介が働いている。現在、姫路市内の6つの蔵元が合併し、名城株式会社となっている。本研究で明らかになった点は、次のとおりである。

  1. 一番に挙げられる表面的な理由は、史料の焼失である。太平洋戦争の被災地となってしまった今井家は、太平洋戦争以前の史料は全て焼失してしまった。そのため歴史を知ろうにも本当に正確な歴史を知ることは不可能となってしまった。しかしこれは表面的な理由である。もし本当に歴史に興味があるのであれば、口伝いでも歴史は語り継がれているはずである。この原因の根底にある意識は他に存在する。
  2. 歴史の忘却には家庭環境が大きく影響していた。達也はお手伝いのあきさんに育てられ、父の淳二と母の恵子と共に過ごした時間があまり多くはなかった。父淳二は仕事以外の休みの日には釣りに行ってしまうので、家におらず話す機会も少なかったという。その環境が影響し、家のことつまり名城やその歴史について関心を持たなかったといえる。さらに母恵子の家柄の影響もあった。恵子は第24代続く歴史ある病院を営む家の長女で、当時第6代続いていた名城も24代に比べると歴史が浅く、恵子にとって今井家は関心を持てるような対象でなかった。達也は次男ということもあり、なおさら関係がかった。この両親のもとで生活してきた環境は、歴史に対する興味・関心を薄れさせた原因と考えてよい。
  3. どこから忘却の連鎖が始まったのか。現時点で分かっていることは、私の曽祖父にあたる第5代重太郎のときからということである。重太郎は戦国時代の武将で、織田信長に謀反したとされる荒木村重の末裔である。荒木村重の末裔、重太郎は今井家と養子になった。様々なよくない噂が存在するが、有名な武将ということもあり、荒木家には家柄があったことは明らかである。ここでも自身の家柄の大きさ故、今井家について関心がなかったといえる。達也と重太郎はともに過ごす時間は多かったようだが、過ごしてきた時間に関係なく根本的に歴史に対する興味・関心の薄さが伝染していることが、3代を通して明確となった。そう考えれば、重太郎から始まり、息子の淳二に、さらにその息子の邦雅と達也も関心がなかったのは納得のいく流れである。
  4. そしてその流れは私にも影響していた。達也は今井家の中でも歴史を知っているほうであった。しかし、その歴史は曖昧で信憑性に欠ける部分が多く、歴史的な流れというよりは過去の栄光の話などの内容であったため今井家の客観的事実のほんの一部の知識となってしまった。情報源自体があまり多くないことや会社の歴史の話題が出てこなかったことにより、深い内容にならず私自身自分の家の歴史をもっと知りたいという興味・関心が生まれなかった。ここでもやはり、自分の置かれている環境が影響していることがわかる。両親が歴史に関心がなければ、その子供も興味がない。その結果今井家の歴史が忘却されていった。
  5. 今回私が今井家の歴史について詳細に調査したことにより、今井家の歴史に対する無関心の流れを脱却することができたのではないだろうか。始まりはほんの些細なことであったが、自身の家の歴史を知るということは、自身の存在意識を明確なものにすると感じた。今井家には上記のような時代背景があったため、今の今井家があり、私がある。私たちを形づくっている歴史は、これからも残していきたい。今回私が調査したことがきっかけとなり、後世に繋がっていってほしいと思う。

     

     

【目次】

序章

1章 今井家と今井酒造

 第1節 今井酒造の歴史

 (1)今井酒造とは

 (2)住屋茂兵衛と今井吉三郎

 第2節 今井直次郎

 第3節 戦後の今井酒造

2章 今井達也と「家の歴史」

 (1)伝承されていない歴史

 (2)曖昧な歴史

 (3)伝承されている歴史

 (4)考察

3章 今井邦雅と「家の歴史」

 (1)伝承されていない歴史

 (2)曖昧な歴史

 (3)伝承されている歴史

 (4)考察

 4章 今井美希と「家の歴史」

 (1)伝承されていない歴史

 (2)曖昧な歴史

 (3)伝承されている歴史

 (4)考察

結び

参考文献

 

【本文写真から】

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写真1 名城株式会社社

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写真2 今井酒造が誕生した土地であり、今井家が代々住んでいる材木町の所在地

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写真3 太平洋戦争の被災地に含まれる材木町の今井家

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写真4 今井家系図

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写真5 今井酒造の原型である今井酒造場

 

【謝辞】

本研究の執筆にあたり、ご協力いただいた今井家の皆様に心より感謝致します。また、お忙しい中調査にご協力いただいた出口隆一氏に厚く御礼申し上げます。

 

 

 

 

 

 

 

離島のくらしと郵便局 -長崎県対馬市曽郵便局の事例―

平江 真紀

 

【要旨】

 本研究は、長崎県対馬市の曽郵便局をフィールドに実地調査を行い、郵便行政の末端であり、かつ地域における一つの自律した世界を構築している「特定郵便局」の実態を記述したものである。本研究で明らかになった点は、以下の通りである。

 

1. 創業以来、特定郵便局長は“地域のために”奉仕する志の高い職業であり、初代局長の梅野素直は、地域の利便性向上を願い、曽郵便局の開局に貢献した。そして、「地域に奉仕する」という強い覚悟とその精神は、その後も代々梅野家に引き継がれていくこととなった。

 

2. 2代局長梅野幾磨の時代には、電報配達・電話業務があり、大変な労力を要していた。お客様の電話の内容も、電報で送られてくる情報も郵便局員は「国家公務員の守秘義務」として外部に漏らすことはなく、田舎だからこそできた地域との密接な繋がりにより、大きな信用を得ていた。

 

3. 曽郵便局の担当地域は、漁師の集落が多く、当時はイカ産業がかなり盛んであった。そのため、曽郵便局にはイカの相場の情報が電報で入ったり、その年の漁獲量によって郵便局の目標額が変わったりと、曽郵便局は漁業(特にイカ産業)との関わりが深かった。

 

4.3代局長梅野國志が就任した頃には、郵便局でも機械化が進み、新局舎の建設が必要となった。また、地域住民の利便性の向上のために、梅野國志は県道沿いへの移設に伴う個人での建て替えを行い、現在も使用されている曽郵便局の局舎が完成した。

 

5.曽郵便局で現在の局長を務めている梅野洋平は、最大の親孝行として郵便局長になることを決意し、梅野家が代々地域のために奉仕してきた志を今も引き継いでいる。地域のために行っている仕事は多種多様で、休日にもその活動に励んでおり、「どこからどこまでが仕事なのか」という線引きは大変難しい。梅野洋平の場合は、すべてが曽郵便局長としての活動であり、「地域のために自分が何をできるか」ということを常日頃考えている。

 

6.「地域のために奉仕する」それが、梅野家がこの地域に住み続ける理由であり、“世襲”だからこそ受け継がれてきた歴史と伝統がその精神を示している。そして、これらを謙虚に受け止め、強い決意と覚悟を持つことが、地域の郵便局長としてあるべき姿である。

 

7.地域の中で、郵便局そして郵便局長は “地域に必要とされている” “代わりの利かない”特別な存在である。「誇りのある志の高い人たち」が築いてきたこの仕事は、その強い精神とともに代々と引き継がれ、曽郵便局は今日も「地域のために」あり続けている。

 

【目次】

序章 

 第1節 郵便制度の普及と特定郵便局

 第2節 特定郵便局の特徴

 第3節 曽郵便局の概要

第1章 曽郵便局の誕生

 第1節 曽郵便局のはじまり

 第2節 初代局長および一族の志

第2章 戦中・戦後の曽郵便局

 第1節 当時の業務

  (1)電報・電話業務

  (2)配達業務

 第2節 採用について

 第3節 イカ産業と郵便局

 第4節 集落ごとの特性

第3章 民営化直前の曽郵便局

 第1節  大学郵政コースで学ぶ

第2節  局長になるまで

 第3節 当時の様子

  (1)郵便局と世帯数の推移

  (2)局舎建て替え

  (3)生き残り戦術

  (4)山口修教授との縁

第4章 曽郵便局の現在

 第1節 局長を継いだ経緯

 第2節  田舎の郵便局長とは

  (1)郵便局長としての地域との関わり

  (2)郵便局長としてのやりがい

 第3節  世襲で受け継がれる決意と覚悟

 第4節  田舎の郵便局長としてのこれから

結語

文献一覧

 

【本文写真から】

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写真1 曽郵便局 初代局舎

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写真2 初代局長 梅野素直

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写真3 2代局長 梅野幾磨

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写真4 曽郵便局 現局舎 

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写真5 曽郵便局 現局舎内の様子①

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 写真6 曽郵便局 現局舎内の様子②



【謝辞】

 本論文の執筆にあたり、調査にご協力頂いたすべての方々に心より御礼申し上げます。お忙しい中、曽郵便局について詳しくお話してくださった梅野國志氏、梅野洋平氏、横瀬篤壽氏のご協力なしには、本論文の完成には至りませんでした。

 この度ご協力頂いた皆様、そして曽郵便局の、今後益々のご発展とご活躍をお祈り申し上げます。本当にありがとうございました。