関西学院大学 現代民俗学 島村恭則研究室

関西学院大学大学院 現代民俗学 島村恭則研究室

ミンゾク(民俗)とは

2021年度共通テスト国語で出題された「ミンゾク」とは?

人びと(民)の「俗なるもの」のことです。

<俗>とは、①支配的権力になじまないもの、②近代的な合理性では必ずしも割り切れないもの、③公式的な制度からは距離があるもの、などをさしています。

詳しくは、島村恭則『みんなの民俗学:ヴァナキュラーってなんだ?』平凡社新書、に書いてあります。

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クスノキと名づけ―藤白神社・王子神社・楠御前八柱神社の事例― 

岩渕香奈

【要旨】

本研究は、「楠」を用いた名づけの風習について、藤白神社(和歌山県海南市)、王子神社(和歌山県紀の川市)、楠御前八柱神社(三重県志摩市)をフィールドに実地調査等を行うことで、「楠」を用いた名づけの風習のはじまりや現状を明らかにしたものである。本研究で明らかになった点は、つぎのとおりである。

 

1.「楠」を用いた名づけという特殊な事例が和歌山県、三重県、高知県でみられる。和歌山県海南市の藤白神社、和歌山県紀の川市の王子神社、三重県志摩市の楠御前八柱神社を調査した。

 

2.「特定の樹木を神聖視して崇拝する樹木信仰が古来より存在しており、その一種としてクスノキも信仰の対象とされる事例が多い。

 

3.熊野信仰において重要な場所であった藤白神社には、クスノキがご神木とされている。

境内にある子守楠神社ではクスノキが祀られており、そこには熊野櫲樟日命という熊野の神様が籠るとされている。藤白神社から「楠」「熊」「藤」からいくつか文字を頂き、名づけることで子供は長命し、出世するといわれていた。現在、名づけは行われていない。

 

4.王子神社を中心とした宮講では、宮座の構成員の家に前年生まれた男の子の名前を室町時代から現在まで書き綴った名つけ帳が保管されている。瀬田勝哉氏が行った名づけ帳の研究により、中世の宮講において「楠」と「松」、そして「長寿・延命・永続的」を意味する「千」を主に用いて名づけが行われており、そうした名前をつけることで村や宮講の不変、永続、繁栄に繋がると考えられていたという。

 

5.楠御前八柱神社は楠の宮で親しまれており、久須姫命のためにクスノキが植えられ、楠大明神として祀られていたという伝説が残る。先代の神職である大西文松氏が楠の宮の信仰を志摩地方に広めると共に、「楠」を用いた名づけを始めた。現在は神社に祈願して生まれた子供に「楠」の一字をつけることで、楠の宮の加護をうけ、延命長寿・無病息災を祈る風習が志摩地方を中心に広く残っている。現在、「楠」を用いた名づけは公然と行われていないが、形を変えて引き継がれている。

 

6.「楠」の漢字を用いた名づけの風習は、名前に「楠」を用いることでクスノキに宿る神様から、主に子供の丈夫な成長や無病息災、延命長寿に関するご加護を授かることができるという信仰に基づいたものであった。「子供の丈夫な成長」「無病息災」「延命長寿」が願われるのは、樹齢が長く大きく育っていくというクスノキの特徴から発生したと考える。

 

7.人の名前には「どのように育ってほしい」という親やその人物に関わる人たちの願いが込められており、「名前」というものがその人物の性格や健康、またはその人物が所属する組織に影響を与えると考えられていたことが分かった。

 

【目次】

第1章 クスノキ信仰

 第1節 樹木信仰

 第2節 クスノキ信仰

 

第2章 藤白神社(海南市)の事例

 第1節 藤白神社

 第2節 名づけ

 

第3章 王子神社(紀の川市)の事例

 第1節 王子神社

 第2節 名づけ帳

 

第4章 楠御前八柱神社(志摩市)の事例

第1節 楠御前八柱神社

第2節 大西文松氏と名づけ

 

結語

 

文献一覧

 

【本文写真から】

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写真1 子守楠神社

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写真2 熊野櫲樟日命が籠もるクスノキ

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写真3 王子神社

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写真4 名づけ帳

(『粉河町史』第2巻、粉河町史専門委員会、1996年発行、巻頭9頁より)

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写真5 楠御前八柱神社

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写真6 左から大西文松氏、大西文長氏、大西永晃氏の写真

 

【謝辞】

藤白神社 権禰宜の中井万里子様、楠御前八柱神社 祢宜の大西史晃様をはじめとする多くの方々に調査へご協力いただき、本論文を書き終えることができました。心より感謝申し上げます。これからの皆様のご繁栄を心から祈っております。

 

 

 

 

 

天照教の形成と展開ー北海道で生まれた新宗教ー

光田凌樹

 

【要旨】

本研究は、北海道室蘭市の天照教について、室蘭市をフィールドに実地調査を行うことで、天照教が宗教としてどのように形成され、展開してきたかを明らかにしたものである。本研究で明らかになったのは次のとおりである。

  • 助産婦であった泉波希三子、小学校教員であった泉波秀雄によって立教された。
  • 初代管長泉波秀雄の病気の療養中、宗教に救いを求めた泉波希三子が御嶽教照浜教会の浜口テリ先生と出会い、弟子入りしたことが、天照教の発端である。
  • 御嶽教照浜教会での修行中、天照大御神、大国大神、恵美須大神から「ご神言」があり、この3神を信仰対象とした。
  • 立教当初の布教手段は、「神様からのおたより」が中心であり、それが現在も天照教の「おみくじ」として継承されている。
  • 信仰の拠点は、神様からの厳命によって、室蘭市になった。
  • 立教から柏木町の神殿建立を経て現在に至るまで、多くの困難と熱心な信徒の方々の協力があった。
  • 海外布教に関しては、ブラジルとハワイで広く展開されてきた。
  • 信徒の方々の体験談にあるように、天照教が発展し続けた理由として、教祖・初代管長の人柄、霊的な力が大きく関係しているといえる。
  • 現在も泉波希久子教主のもと、天照教は発展し続けている。

 

 

【目次】

序章 

 

第1章  立教以前 

  第1節  泉波秀雄と泉波希三子 

  第2節  管長の療養・浜口テリとの出会い 

  第3節  御嶽教照浜教会での修行 

 

第2章  立教後の歩み 

  第1節  6畳の神殿  

  第2節  本輪西の神殿  

  第3節  布教と分教会 

  第4節  柏木町で現在の神殿建立 

  第5節  海外布教と代替わり  

 

第3章  信徒と体験談

  第1節 信徒 今村清子さんの語り

  第2節 信徒 寺下悦子さんの語り 

  第3節 「天照教五十年史」より信徒の語り   

  第4節「人生を好転させる「因縁」をつかめ」より信徒の語り  

 第5節「ノストラダムス 神界からの大警告」より信徒の語り    

 

第4章  京都での展開 

 

結語 

 

 謝辞   

参考文献   

 

【本文写真から】

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写真1 教祖と初代管長(天照教本部提供)

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写真2 立教当時の仮神殿 泉沢勝男氏宅

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写真3 現在の柏木町の本部神殿

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写真4 神殿境内の福神像

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写真5 二代目夫妻(天照教本部提供)

 

【謝辞】

本論文は、天照教本部、南京都支部の皆様のご協力があってはじめて完成させることができました。泉波希久子教主、室蘭本部神官の塚越正敏氏、同じく成田和弘氏、多くの信徒のみなさまに深くお礼申し上げます。

家の歴史が忘れられるとき ー今井酒造を事例としてー

今井美希 

【要旨】

本研究は、今井酒造を中心に見た今井家の歴史に対する観点から、今井家の歴史の忘却の背景について明らかにしたものである。今井酒造とは、所在地を兵庫県姫路市とし、私の叔父邦雅が社長を務める会社で、約140年の歴史がある。父達也、父の従兄弟史郎、社長の嫡男で私の従兄にあたる亮介が働いている。現在、姫路市内の6つの蔵元が合併し、名城株式会社となっている。本研究で明らかになった点は、次のとおりである。

  1. 一番に挙げられる表面的な理由は、史料の焼失である。太平洋戦争の被災地となってしまった今井家は、太平洋戦争以前の史料は全て焼失してしまった。そのため歴史を知ろうにも本当に正確な歴史を知ることは不可能となってしまった。しかしこれは表面的な理由である。もし本当に歴史に興味があるのであれば、口伝いでも歴史は語り継がれているはずである。この原因の根底にある意識は他に存在する。
  2. 歴史の忘却には家庭環境が大きく影響していた。達也はお手伝いのあきさんに育てられ、父の淳二と母の恵子と共に過ごした時間があまり多くはなかった。父淳二は仕事以外の休みの日には釣りに行ってしまうので、家におらず話す機会も少なかったという。その環境が影響し、家のことつまり名城やその歴史について関心を持たなかったといえる。さらに母恵子の家柄の影響もあった。恵子は第24代続く歴史ある病院を営む家の長女で、当時第6代続いていた名城も24代に比べると歴史が浅く、恵子にとって今井家は関心を持てるような対象でなかった。達也は次男ということもあり、なおさら関係がかった。この両親のもとで生活してきた環境は、歴史に対する興味・関心を薄れさせた原因と考えてよい。
  3. どこから忘却の連鎖が始まったのか。現時点で分かっていることは、私の曽祖父にあたる第5代重太郎のときからということである。重太郎は戦国時代の武将で、織田信長に謀反したとされる荒木村重の末裔である。荒木村重の末裔、重太郎は今井家と養子になった。様々なよくない噂が存在するが、有名な武将ということもあり、荒木家には家柄があったことは明らかである。ここでも自身の家柄の大きさ故、今井家について関心がなかったといえる。達也と重太郎はともに過ごす時間は多かったようだが、過ごしてきた時間に関係なく根本的に歴史に対する興味・関心の薄さが伝染していることが、3代を通して明確となった。そう考えれば、重太郎から始まり、息子の淳二に、さらにその息子の邦雅と達也も関心がなかったのは納得のいく流れである。
  4. そしてその流れは私にも影響していた。達也は今井家の中でも歴史を知っているほうであった。しかし、その歴史は曖昧で信憑性に欠ける部分が多く、歴史的な流れというよりは過去の栄光の話などの内容であったため今井家の客観的事実のほんの一部の知識となってしまった。情報源自体があまり多くないことや会社の歴史の話題が出てこなかったことにより、深い内容にならず私自身自分の家の歴史をもっと知りたいという興味・関心が生まれなかった。ここでもやはり、自分の置かれている環境が影響していることがわかる。両親が歴史に関心がなければ、その子供も興味がない。その結果今井家の歴史が忘却されていった。
  5. 今回私が今井家の歴史について詳細に調査したことにより、今井家の歴史に対する無関心の流れを脱却することができたのではないだろうか。始まりはほんの些細なことであったが、自身の家の歴史を知るということは、自身の存在意識を明確なものにすると感じた。今井家には上記のような時代背景があったため、今の今井家があり、私がある。私たちを形づくっている歴史は、これからも残していきたい。今回私が調査したことがきっかけとなり、後世に繋がっていってほしいと思う。

     

     

【目次】

序章

1章 今井家と今井酒造

 第1節 今井酒造の歴史

 (1)今井酒造とは

 (2)住屋茂兵衛と今井吉三郎

 第2節 今井直次郎

 第3節 戦後の今井酒造

2章 今井達也と「家の歴史」

 (1)伝承されていない歴史

 (2)曖昧な歴史

 (3)伝承されている歴史

 (4)考察

3章 今井邦雅と「家の歴史」

 (1)伝承されていない歴史

 (2)曖昧な歴史

 (3)伝承されている歴史

 (4)考察

 4章 今井美希と「家の歴史」

 (1)伝承されていない歴史

 (2)曖昧な歴史

 (3)伝承されている歴史

 (4)考察

結び

参考文献

 

【本文写真から】

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写真1 名城株式会社社

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写真2 今井酒造が誕生した土地であり、今井家が代々住んでいる材木町の所在地

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写真3 太平洋戦争の被災地に含まれる材木町の今井家

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写真4 今井家系図

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写真5 今井酒造の原型である今井酒造場

 

【謝辞】

本研究の執筆にあたり、ご協力いただいた今井家の皆様に心より感謝致します。また、お忙しい中調査にご協力いただいた出口隆一氏に厚く御礼申し上げます。

 

 

 

 

 

 

 

離島のくらしと郵便局 -長崎県対馬市曽郵便局の事例―

平江 真紀

 

【要旨】

 本研究は、長崎県対馬市の曽郵便局をフィールドに実地調査を行い、郵便行政の末端であり、かつ地域における一つの自律した世界を構築している「特定郵便局」の実態を記述したものである。本研究で明らかになった点は、以下の通りである。

 

1. 創業以来、特定郵便局長は“地域のために”奉仕する志の高い職業であり、初代局長の梅野素直は、地域の利便性向上を願い、曽郵便局の開局に貢献した。そして、「地域に奉仕する」という強い覚悟とその精神は、その後も代々梅野家に引き継がれていくこととなった。

 

2. 2代局長梅野幾磨の時代には、電報配達・電話業務があり、大変な労力を要していた。お客様の電話の内容も、電報で送られてくる情報も郵便局員は「国家公務員の守秘義務」として外部に漏らすことはなく、田舎だからこそできた地域との密接な繋がりにより、大きな信用を得ていた。

 

3. 曽郵便局の担当地域は、漁師の集落が多く、当時はイカ産業がかなり盛んであった。そのため、曽郵便局にはイカの相場の情報が電報で入ったり、その年の漁獲量によって郵便局の目標額が変わったりと、曽郵便局は漁業(特にイカ産業)との関わりが深かった。

 

4.3代局長梅野國志が就任した頃には、郵便局でも機械化が進み、新局舎の建設が必要となった。また、地域住民の利便性の向上のために、梅野國志は県道沿いへの移設に伴う個人での建て替えを行い、現在も使用されている曽郵便局の局舎が完成した。

 

5.曽郵便局で現在の局長を務めている梅野洋平は、最大の親孝行として郵便局長になることを決意し、梅野家が代々地域のために奉仕してきた志を今も引き継いでいる。地域のために行っている仕事は多種多様で、休日にもその活動に励んでおり、「どこからどこまでが仕事なのか」という線引きは大変難しい。梅野洋平の場合は、すべてが曽郵便局長としての活動であり、「地域のために自分が何をできるか」ということを常日頃考えている。

 

6.「地域のために奉仕する」それが、梅野家がこの地域に住み続ける理由であり、“世襲”だからこそ受け継がれてきた歴史と伝統がその精神を示している。そして、これらを謙虚に受け止め、強い決意と覚悟を持つことが、地域の郵便局長としてあるべき姿である。

 

7.地域の中で、郵便局そして郵便局長は “地域に必要とされている” “代わりの利かない”特別な存在である。「誇りのある志の高い人たち」が築いてきたこの仕事は、その強い精神とともに代々と引き継がれ、曽郵便局は今日も「地域のために」あり続けている。

 

【目次】

序章 

 第1節 郵便制度の普及と特定郵便局

 第2節 特定郵便局の特徴

 第3節 曽郵便局の概要

第1章 曽郵便局の誕生

 第1節 曽郵便局のはじまり

 第2節 初代局長および一族の志

第2章 戦中・戦後の曽郵便局

 第1節 当時の業務

  (1)電報・電話業務

  (2)配達業務

 第2節 採用について

 第3節 イカ産業と郵便局

 第4節 集落ごとの特性

第3章 民営化直前の曽郵便局

 第1節  大学郵政コースで学ぶ

第2節  局長になるまで

 第3節 当時の様子

  (1)郵便局と世帯数の推移

  (2)局舎建て替え

  (3)生き残り戦術

  (4)山口修教授との縁

第4章 曽郵便局の現在

 第1節 局長を継いだ経緯

 第2節  田舎の郵便局長とは

  (1)郵便局長としての地域との関わり

  (2)郵便局長としてのやりがい

 第3節  世襲で受け継がれる決意と覚悟

 第4節  田舎の郵便局長としてのこれから

結語

文献一覧

 

【本文写真から】

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写真1 曽郵便局 初代局舎

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写真2 初代局長 梅野素直

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写真3 2代局長 梅野幾磨

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写真4 曽郵便局 現局舎 

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写真5 曽郵便局 現局舎内の様子①

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 写真6 曽郵便局 現局舎内の様子②



【謝辞】

 本論文の執筆にあたり、調査にご協力頂いたすべての方々に心より御礼申し上げます。お忙しい中、曽郵便局について詳しくお話してくださった梅野國志氏、梅野洋平氏、横瀬篤壽氏のご協力なしには、本論文の完成には至りませんでした。

 この度ご協力頂いた皆様、そして曽郵便局の、今後益々のご発展とご活躍をお祈り申し上げます。本当にありがとうございました。

 

 

焼物のまちと陶器市ー京都・五条坂と清水焼団地の事例ー

田中香帆

 

【要旨】

本研究は、京都の陶器市について、京都市東山区の五条坂と山科区の清水焼団地をフィールドに実地調査を行うことで、焼物の町における陶器市とはどのようなものであるのか、町の人々から陶器市はどう扱われてきたのかということを、都市民俗学の視点を踏まえて明らかにしたものである。本研究で明らかになった点は、次のとおりである。

 

1.五条坂の「陶器まつり」は大正時代の初め頃、六道まいりや大谷本廟へのお墓参りに来た人々を目当てに始まった「陶器市」がもととなっていた。第二次世界大戦後、強制疎開により五条通りの南側一帯の建物が失われ、「陶器市」も一時中断された。

 

2.昭和24(1949)年には、神様に見守っていてもらうことで精進していきたいという五条坂の陶器業界の人々による熱い思いから、五条通りにある若宮八幡宮の本殿に陶器の神様である椎根津彦命が合祀され、陶器神社が生まれた。

 

3.陶器神社ができたことをきっかけに、「陶器市」の名称は現在の「陶器まつり」へと変わった。町の人々は戦後の町を頑張って盛り上げようという思いのもと、神社と一体になって「陶器まつり」を行った。その後、他産地からの店や陶器以外の露店も増え、多くの人が訪れるようになった。

 

4.昭和30年代になると、飾るための陶器神輿と、顔以外の部分が陶器を組み合わせてできた陶器人形が制作され、「陶器まつり」の期間に若宮八幡宮の境内で展示されるようになった。その後ともに荒廃してしまうが、陶器業界の人々の思いから昭和62(1987)年に担ぐ陶器神輿が作られ、陶器人形も平成26(2014)年に大学の学生らと町の人々によって復活を遂げ、5 年間ほど制作と展示が行われていた。

 

5.「陶器まつり」が定着してからも、陶器業界の人々と神社が協力しながら、焼物の町の「陶器まつり」に来た人々が陶器を買って神社にお参りし、楽しい思い出が残るようにと時代に合わせて催しが行われてきた。現在も「陶器まつり」は多くの人を集める夏の風物詩となっている。

 

6.清水焼団地は、登り窯による公害や土地の問題、京都の陶磁器業が持つ問題がきっかけとなって作られた、陶磁器産業のための町であった。そしてこの産地の広がり方は、焼物に向いた土が取れない京都ならではのものでもあった。

 

7.昭和 50(1975)年からはこの地でも「陶器まつり」が行われるようになり、その後「清水焼の郷まつり」と名称が変更された。交通の面などの苦労もありながら、地域とのかかわりや客との繋がりが大切にされてきた。

 

8.以上のように、本研究で取り上げた2つの陶器市は、どちらも陶器業界や町の人々が自分たちの焼物の町を大切に守り、盛り上げようと努力を重ねた末に形づくられたものであることが分かった。

 

 

【目次】

序章

 第1節 問題の所在

 第2節 都市民俗学と市 

 第3節 京都の陶器市 

第1章 「陶器市」の発生と展開

 第1節 昭和初期までの「陶器市」 

 第2節 戦争による中断と再開

(1)「陶器市」の中断と再開

(2)陶器神社

第2章 「陶器市」から「陶器まつり」へ

 第1節 まつりの誕生

 第2節 陶器神輿と陶器人形

 第3節 「陶器まつり」の現在

第3章 清水焼団地

 第1節 清水焼団地の誕生

 第2節 「清水焼の郷まつり」

結び

文献一覧

 

 

【本文写真から】

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写真1 昭和14(1939)年頃の「陶器市」

*『思い出の五条坂』(五条坂陶栄会、1981年発行、2頁)より。

 

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写真2 若宮八幡宮の本殿(筆者撮影)

椎根津彦命が合祀されている。

 

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写真3 昔の陶器人形

*「五条坂陶器まつりの始まり」(https://kyotolove.kyoto/I0000107、2021年1月6日現在)より。

 

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写真4 現在の陶器神輿

*「若宮八幡宮社ホームページ」(https://wakamiya-hachimangu.jp/event/、2021年1月6日現在)より。

 

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写真5 昭和42(1967)年の清水焼団地

*『新天地を求めた京焼 清水焼団地五十年の歩み』(森野彰人編、2011年発行、28頁)より。

 

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写真6 昭和56(1981)年の第7回「陶器まつり」

*『清水焼団地協同組合創立50周年記念 清水焼団地五十年の歩み』(森野彰人編、2011年発行、35頁)より。

 

 

【謝辞】

本論文の執筆にあたり、多くの方々からのご協力をいただきました。お忙しいなかお時間をいただき、五条坂の陶器市についてお話を聞かせてくださった河崎尚志氏、松井曜子氏、清水焼団地の陶器市についてお話を聞かせてくださった熊谷隆慶氏のご協力なしには、本論文は完成にいたりませんでした。今回の調査にご協力いただいた全ての方々に、心よりお礼申し上げます。本当にありがとうございました。

 

大須と浅草 ー観音のまちの比較研究ー

宮本 悠花

 

【要旨】

 本研究は、愛知県名古屋市に位置する大須と東京都台東区に位置する浅草をフィールドに寺と神社、祭り、盛り場の3つの視点から調査を行い、門前町として栄えた2つの観音のまちを比較することで、今日に至るまでにどのように形成、発展したのかを明らかにしたものである。本研究で明らかになった点は、つぎのとおりである。

 

1.寺と神社に関して、大須は本来、清須越を経て岐阜県羽島市大須から現在の地に移った背景を持ち、大須観音を始めとした万松寺や七つ寺などの大須の寺院の多くが、清須越により名古屋に移されたものである。観音に注目すると、大須観音の聖観音は大阪の摂津四天王寺の観世音菩薩が移されたものである。

 2.浅草は浅草寺を中心に浅草寺の末寺や支院が多く、またそうでない寺院も始めから浅草の地に建立されたものが多い。観音に注目すると、浅草寺の聖観音は漁労中に宮戸川で発見されたと言われるものである。

 3.祭りに関して、浅草寺には三社祭という規模の大きな例大祭があるのに対し、大須観音は例大祭というより、様々な年中行事が衰退と再生を経て現在も行われている点で異なる。

 4.新しく始まった現代の祭りとして、大須の大同町人祭や浅草のサンバカーニバルなどの似ている祭りもある。

 5.盛り場に関して、大須は清須越により人工的に造られ寺社や家が計画的に配置された町であり、寺社や商店街の人々と共に衰退と再生を経て発展していったことに対し、浅草は観音の出現当初から宗教的集落として観音の圧倒的な存在感と共に発展していった盛り場である。

 

【目次】

序章 問題と方法

第1章 寺と神社

 第1節 大須    

  (1)大須観音

  (2)清寿院

  (3)万松寺

  (4)七つ寺

  (5)富士浅間神社

 第2節 浅草

  (1)浅草寺

  (2)浅草神社

  (3)浅草富士浅間神社

  (4)待乳山聖天

  (5)大観音寺

  (6)石浜神社

  (7)吉原神社

第2章 祭り

 第1節 大須

  (1)大須観音の年中行事

    ・左義長祭り

    ・大正琴大祭

    ・馬の塔

    ・歯歯塚、人形、扇供養会

  (2)大須大道町人祭

 第2節 浅草

  (1)三社祭

  (2)サンバカーニバル

  (3)大根まつり

第3章 盛り場

 第1節 大須

  (1)清須越

  (2)大須の形成

  (3)盛り場大須

  (4)宗春の時代

  (5)旭遊郭

  (6)大須二十館

  (7)衰退と再生

 第2節 浅草

  (1)近世以前の浅草

  (2)浅草と米蔵

  (3)吉原遊郭

  (4)奥山

  (5)仲見世

  (6)浅草公園

  (7)六区映画街

  (8)観光地としての再生

結び

文献一覧

 

【本文写真から】

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写真1 左義長火祭り(出典:大須ほっとニュース)

 

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写真2 第42回大須大道町人祭 ポスター(出典:第42回大須大道町人祭)

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写真3 びんざさら舞(出典:金龍山浅草寺編『図説浅草寺』金龍山浅草寺、1996年)

 

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写真4 船渡御(出典:Wa☆Daフォトギャラリー)

 

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写真5 現在のサンバカーニバル(出典:浅草観光連盟)

 

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写真6 「万治年間名古屋絵図」 (出典:名古屋城ウェブサイト)







 

 

大庄屋堀家と龍野の醤油業 ー近世から近代への移行はいかになされたかー

福井雄一郎

 

【要旨】

 本研究は、大庄屋堀家と龍野の醤油業の関わりについて、たつの市をフィールドに実地調査を行う事で、両者の関係を明らかにしたものである。

 1.江戸時代の堀家

 堀家とは、現たつの市龍野町日飼にある、江戸時代にこの地域の大庄屋を務めた一族の事である。

 堀家が庄屋を務めていた日飼村は、揖保川の東岸に位置しており、龍野城下町とは反対の方向に位置していた。延享4年(1747)以降は龍野藩領から一橋徳川家の直轄領となって、明治時代に入るまで支配を受けた

  江戸時代、堀家は日飼村の庄屋、菜種の売買、鯨油商売、高瀬舟を利用した運輸業、金融業、御用金の上納、木綿専売仕法など、多くの事業に着手していた。御用金の上納と木綿専売仕法に関しては一橋徳川家と大きく関わっており、一橋徳川家に大きく貢献していた。一方、醤油業への貢献はほとんど見られなかった。

 2.龍野の醤油業

⑴龍野醤油業の展開

  龍野は日本でも有数の醤油の名産地である。赤松氏の家臣たちによって始められた。龍野はうすくち醤油の名産地である。うすくち醤油は調理をしても料理に色がつかず、見栄えの良い料理を作る事が出来た事から、公家に大変好まれた。龍野藩主である脇坂家は、このうすくち醤油の生産を奨励し、うすくち醤油を生産する蔵元が増え、龍野は江戸時代には日本を代表する“うすくち醤油生産地”を形成していた。

 ⑵港町網干と醤油の流通

  網干は、龍野の醤油の流通、生産において重要な町であった。龍野で作られた醤油は、高瀬舟を用いて揖保川を南下し、網干まで持って行った。網干で廻船に積み替え、大坂・京都まで持って行ったのである。網干は龍野醤油の流通における中継点としての役割を果たした。

 このような網干の町の庄屋が、龍野藩南組大庄屋片岡家であった。庄屋のほか、運輸業や塩田事業も兼任していた。片岡家は、現在は網干に屋敷跡を残しているのみであり、この家についての詳しい情報は得られなかった。

  網干は港町だけでなく、塩田事業も行っている場所であった。龍野醤油の原料である塩は赤穂の塩を買い付けていたが、龍野藩の財政難により、龍野藩は自領である網干に塩田を開発して、網干の塩を醤油づくりに使用するようにさせた。その塩田事業に、龍野藩南組大庄屋片岡家が関わっていたのである。しかし、網干の塩は赤穂の塩ほど上質なものではなく、龍野醤油の品質が下がることが懸念され、醤油業者から多くの反対があった。結果、龍野藩の網干塩の政策は失敗に終わった。

 江戸時代、龍野から網干までは、先ほど述べたように高瀬舟を用いて揖保川を南下して醤油を運んでいたが、高瀬舟を用いた醤油の運搬はあまり良いものといえなかった。運搬が雑で、網干に着くまでに醤油樽が傷ついていたり、悪天候時は舟を出さなかったりと、非常に対応が悪かった事から、龍野の醤油業者は頭を抱えていた。上方で有利に醤油を売るためにも、運搬における醤油の品質確保は非常に重要であったからだ。

 明治時代に入ると、鉄道が敷設されたことにより、龍野醤油の流通は大きく改善された。

 3.明治時代の堀家

 ⑴堀家が行なった事業

  明治時代以降、堀家は武庫郡魚崎の酒造や赤穂の塩田地主への貸金、さらに自ら塩田経営に乗りだしたり、多くの土地の購入、売却の不動産取引を行ったりして、実業家としての一面が更に強くなった。

 中でも、堀謙次郎(兄)・堀豊彦(弟)が様々な会社を設立した。堀謙次郎は龍野醤油株式会社を設立し、社長となった。堀豊彦は、網干銀行を設立して頭取となった後、翌年には堀銀行を設立した。そして、龍野町から網干港を結ぶ龍野電気鉄道を敷設した。堀家の実業家としての顔は一層濃くなっていった。

 

⑵醤油業との関わり

  堀謙次郎が龍野醤油株式会社を設立し社長となった。龍野醤油株式会社は、のちに浅井醤油に経営を委ねる事になる。

 堀豊彦は、龍野電気鉄道を敷設した。龍野電気鉄道は、龍野醤油の流通に大きく貢献した。

明治時代に入り、現竜野駅から大阪方面へ山陽鉄道(現JR西日本山陽本線)が開通し、醤油の流通は大きく改善された。しかし、竜野駅から龍野城下町は離れており、龍野城下町から山陽鉄道の駅までどう運ぶのかという問題は未だ残されたままであった。その問題を解決したのが、堀豊彦が敷設した龍野電気鉄道だったわけである。龍野電気鉄道は、龍野町から網干港を結ぶ鉄道路線であった。龍野電気鉄道とは別に、龍野の醤油業者が中心となって龍野鉄道(龍野町〜竜野駅)の敷設を計画していたが、この計画は実現出来ずに終わった。

 ⑶考察

  堀家と龍野醤油業について把握し両者の関係を見てきたが、江戸時代に関わりを持つことはなく、明治時代以降に関わりを持つようになった。堀家は、龍野醤油業の中でも特に流通面において貢献した。

 では、なぜ堀家は江戸時代に龍野醤油業と関わる事が無かったのか。それは、堀家が一橋徳川家に仕えていた事が原因であると考えている。当時の日飼村は、龍野藩領ではなく一橋徳川家領であった。つまり、堀家は脇坂家に仕えているわけでは無かった。醤油業を奨励している脇坂家が、堀家に醤油業に関する事業を委託しなかった理由は、堀家が一橋家に仕えている身であった事から、脇坂家は堀家に関わりを持つ事が出来なかったが故、堀家は江戸時代に龍野醤油業と関わる事がなかったと結論づける。

 明治時代に入ると江戸幕府が崩壊し、一橋徳川家による日飼村の支配は終わる。この事により、堀家は実業家としての顔を見せ始め、様々な事業を起こすようになった。その事業の一部に、醤油業に関わるものが含まれていたのである。

  

【目次】

序章

第1章 江戸時代の堀家

  • 日飼村
  • 堀家が行なった事業
  • 一橋徳川家との関わり

・御用金の上納

・木綿専売仕法

 

第2章 龍野の醤油業

  • 龍野醤油業の展開
  • 港町網干と醤油の流通

 ・網干

 ・新在家村と龍野藩南組大庄屋片岡家

 ・網干の塩

 ・醤油の流通

 

第3章 明治時代の堀家

  • 堀家が行なった事業
  • 醤油業との関わり

 ・龍野醤油株式会社

 ・鉄道事業

 ・考察

 

結語

 

参考文献

 

【本文写真から】

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江戸時代の日飼村(出典:龍野市立歴史文化資料館 1991 『描かれた龍野-絵図の世界-』より)

 

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堀家の外観

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龍野藩南組大庄屋片岡家家屋

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龍野駅に停車する龍野電気鉄道(出典:神戸新聞総合出版センター 2005 『兵庫懐かしの鉄道-

廃線ノスタルジー-』より)

【謝辞】

本論文の執筆にあたり、お忙しい中インタビューに応じて下さったうすくち龍野醤油資料館の皆様、堀様に厚く御礼申し上げます。

位山信仰の研究 ―岐阜県高山市の聖地をめぐって―

位山信仰の研究―岐阜県高山市の聖地をめぐって―

 堀口 裕哉

 

【要旨】本研究は、岐阜県高山市に位置する位山及びその周辺地域にて実地調査を行うことにより、位山を中心に展開されている多数の信仰を分析し、太古より聖地としての側面を持つ位山が、今日に至るまでどのように信仰され意味付けされてきたのかを明らかにしたものである。本研究で明らかになった点は以下の通りである。

 

1. 岐阜県高山市一之宮町に位置する位山は南北に川が流れ、日本を南北に分断する分水嶺である。そのことから元来、水を司る神である水無大神を祀る飛騨一宮水無神社の御神体として祀られてきた。位山に現存するイチイの木は、歴代の天皇が即位される際に献上される笏の材木として使用されてきたという習わしが存在する他、官位昇進を例えた歌枕として和歌の題材になるなど、太古から数多の信仰を集めてきた山である。

 

2. やがて昭和9年頃に郷土研究者の上原清二が、現在は偽書として扱われている太古の日本の歴史について記された資料である竹内文書をもとに、高天原は飛騨に存在したとする「飛騨高天原説」を提唱した。竹内文書には位山は日本を治める中心の地であったと記されており、飛騨高天原説の中でも位山は重要な場所であるとされた。このことを契機に位山を日本の中心であるとする信仰が展開されるようになった。

 

3. 上原と平行して、丹生川村で教師をしていた山本健造が、昭和10年頃に若田仁太郎という人物から伝え聞いた伝承をもとに研究を行い、平成元年にその調査結果を第二の飛騨高天原説として発表した。この説は上原の提唱したものとは起源を別にするものである。山本の飛騨高天原説において位山は、オオヒルメムチノミコト(天照大御神)などの歴代天皇家の家系の人々を葬った場所であると同時に祭事を行う場所であるとされた。

 

4. 昭和25年には、上原の影響を受けた都竹峰仙が独自の信仰を展開した。都竹峰仙は、高山市内の御嶽教飛騨教会の不動明王像を製作した仏師であり、幼い頃より神仏の夢を見るなど不思議な体験をしていたという。峰仙は自身の手で「位山開き」を行い、位山奉賛会という団体を結成した。そして位山奉賛会によって位山の神を祀る太陽神殿と龍神像が位山内に作られた。位山では現在でも年に2回、奉賛会主催の位山祭りが開催されている。

 

5. 現在の位山は、メディアやインターネットなどで「パワースポット」として扱われており、個人特有の信仰を実践するスピリチュアルな人々が数多く訪れている。パワースポット化した位山では、上記の飛騨高天原説を始めとした多数の信仰の要素が織り交ぜられ、同時に「UFO」「オーラ」などの本来位山とは関係のない文脈までもが巻き込まれる形で新たな信仰の文脈が形成されている。

 

6. 上記の通り位山では昭和初期から現在にかけて多数の信仰が発生した。そんな中で、一之宮町の土着の信仰である飛騨一宮水無神社は、信仰の自由という観点から、神社側から他の信仰へ干渉するつもりはないとしており、極めて中立な姿勢を取っている。また一之宮町の人々の大半は水無神社を信仰しており、他の信仰については殆ど認知しておらず無関心である。一方で一之宮観光協会や行政などの一部の人々は、ウェブサイトで位山をパワースポットとして紹介する他、「最強級のパワースポット」と称する横断幕を町内に掲げるなど、位山のパワースポットとしてのイメージを利用した観光化を試みており、土着信仰の維持と現代的な文脈を用いた観光化とが両立している場所と言える。

 

【目次】

序章 一之宮町と位山・・・1

第1章 飛騨高天原説・・・8

 第1節 竹内文書と飛騨高天原説・・・9

 第2節 山本健造と飛騨高天原説・・・11

第2章 都竹峰仙・・・25

 第1節 都竹峰仙の生涯・・・26

 第2節 都竹峰仙の思想・・・34

 第3節 御嶽教飛騨教会と都竹峰仙・・・37

第3章 パワースポットとしての位山・・・42

 第1節 パワースポット化する聖地・・・43

 第2節 位山のパワースポット化・・・44

第4章 飛騨一宮水無神社から見た位山・・・47

 (1) 飛騨一宮水無神社と観光地化する一之宮町・・・48

 (2) 信仰の維持と観光化・・・55

結語・・・57

文献一覧・・・59 

 

【本文写真から】

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写真1 一之宮町から望む位山(写真中央奥)

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写真2 山中の飛騨一宮水無神社の奥宮であることを示す鳥居と石碑

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写真3 位山信仰においてしばしば信仰の対象となる巨石、通称「天の岩戸」

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写真4 位山奉賛会によって山中に建てられた「太陽神殿」

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写真5 位山奉賛会によって製作された龍神像

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写真6 一之宮町をパワースポットと称している横断幕(一之宮町内)

 

【謝辞】

本論文を書き上げるにあたり、岐阜県高山市での現地調査にご協力いただいた、飛騨一宮水無神社宮司の牛丸大吾氏、御嶽教飛騨教会のお役目の方、その他一之宮町の皆様方に心より厚く御礼申し上げます。

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