関西学院大学 現代民俗学 島村恭則研究室

関西学院大学大学院 現代民俗学 島村恭則研究室

【民俗学の大学院(関西学院大学大学院)2024年度院生募集】

【民俗学の大学院(関西学院大学大学院)2024年度院生募集】

民俗学を専門に学び、修士・博士の学位を取得できます。

 

関学の民俗学教育の特徴

1.民俗学の全範囲をカバーしている。民俗学であればどのようなテーマでも指導可能。

2.英語圏の民俗学理論も含めて、理論をきちんと学んだうえで民俗学を研究できる

3.社会学、文化人類学もあわせて学べるため、視野の広い民俗学研究を実現できる。

4.国際的視野で民俗学を学ぶことができる。

 

2023年現在の在学院生

博士前期(修士)課程在学者5名(会社をめぐる経営人類学/民俗学、日本の祭りと神賑、近代都市における美と装いの経験をめぐる民俗学、動物と人の関係をめぐるフォークロア)

博士後期課程在学者2名(現代の婚姻儀礼、ケガレをめぐる日中比較民俗学)

 

詳細・出願等については、以下をご覧の上、 tshimamura<アットマーク>kwansei.ac.jp(<アットマーク>は、@に変えてください)へお問い合わせください。

 

社会学研究科の概要・入試案内は、こちらをご覧ください。

社会学研究科| 関西学院大学 (kwansei.ac.jp)

進学説明会はこちら。

社会学研究科 進学説明会<6/28(水) 19:00~20:00> | 関西学院大学 社会学部 (kwansei.ac.jp)

 

 

関西学院大学大学院社会学研究科『大学院教員紹介』(2022年4月刊行)より


【1. 教員情報】
氏名:島村恭則
職位:教授(博士後期課程研究指導教授)
学位:文学博士
専門:現代民俗学、ヴァナキュラー文化研究、世界民俗学史と民俗学理論

 

【2. 研究・教育内容】
 わたし個人の研究としては、沖縄の民俗宗教・シャーマニズム研究から出発し、都市伝説の日韓比較研究、妖怪・占い文化の博物館民俗学、在日コリアンや引揚者が生み出したヴァナキュラー文化の研究、喫茶店モーニング文化の都市民俗学的研究、関西私鉄文化研究などを経て、近年は、世界民俗学史をふまえた民俗学理論の研究、とくに、民俗学を国際的・学際的な「ヴァナキュラー文化研究」として再編成する議論を展開しています(「ヴァナキュラー文化」については、島村2018などを参照)。
 大学院教育では、民俗学/ヴァナキュラー文化研究の全領域を扱っており、古典的な民俗学から現代民俗学まで、日本民俗学から中国民俗学・韓国民俗学などアジアの民俗学まで、また、社会伝承、生業伝承、交通・交易、儀礼、祝祭、宗教、口承文芸、芸能、物質文化、文化遺産、博物館など、民俗学研究のすべてのジャンルについて、研究指導を行なっています。あわせて、本研究科の文化人類学系ゼミとの相互乗り入れにより、人類学の知識も身につけられるよう仕組みを整えています。
 現在および過去の島村研究室所属院生の研究テーマは、「流行神をめぐる民俗宗教論―〈残念さん〉信仰を中心に―」「神輿会のフォークロア―東京圏の都市祭礼を支える人びと―」「中国の茶芸館をめぐる都市民俗誌」「ヴァナキュラー宗教の民俗誌―稲荷信仰の事例から―」「ネット・ロアとヴァナキュラー・ウェブ」「フォークアートとアウトサイダーアート」「植民地と引揚者」「新宗教/スピリチュアルの民俗学的研究」「職人と講集団」「食文化と食ツーリズム」「会社をめぐる経営人類学/民俗学」「日本の祭りと神賑」「近代都市における美と装いの経験をめぐる民俗学」「動物と人の関係をめぐるフォークロア」「現代の婚姻儀礼」「ケガレをめぐる日中比較民俗学」などです。
 わたしたちの研究室では、関西圏の他大学大学院の民俗学ゼミとの合同ゼミを定期的に実施しているほか、研究室のメンバー全員で中国や台湾を訪れ、現地の民俗学系大学院ゼミとの合同研究会や共同調査も実施しています。院生は、日常のゼミにおいて修士論文、博士論文の完成に向けての研究指導を受けるとともに、これらの研究室活動からも多くを学びとり、日本や東アジアはもとより、世界の民俗学の第一線で活躍できる研究者として成長しています(国内学会に加え、アメリカ、中国、台湾、ドイツなど海外の民俗学会での発表や論文投稿を経験している院生もいます)。
 日本における民俗学系大学院教育の一拠点としての位置を占める関学社会学研究科島村研究室では、大学院に進学して民俗学/ヴァナキュラー文化研究を学ぼうと考えているみなさんを、国の内外、列島の東西/南北から広く歓迎しています。

 

【3. 代表的な著書・論文等】
島村恭則, 2020, (単著)『みんなの民俗学―ヴァナキュラーってなんだ?』平凡社新書.
島村恭則, 2020, (単著)『民俗学を生きる―ヴァナキュラー研究への道―』晃洋書房.
島村恭則, 2010, (単著)『〈生きる方法〉の民俗誌』関西学院大学出版会.
島村恭則, 2013, (編著)『引揚者の戦後』新曜社.
島村恭則, 2019,(共編著)『民俗学読本―フィールドワークへのいざない―』晃洋書房.
島村恭則, 2003, (単著)『日本より怖い韓国の怪談』河出書房新社.
島村恭則, 2008, (共著)『異界談義』光文社.
島村恭則, 2018, 「民俗学とは何か―多様な姿と一貫する視点―」『現代民俗学のフィールド』古家信平編, 吉川弘文館, 14−30.
島村恭則, 2017, 「グローバル化時代における民俗学の可能性」『東アジア世界の民俗−変容する社会・生活・文化―』(アジア遊学215), 217−231.
島村恭則, 2017, 「『民俗学』是什&#20040;」『文化遺産』46, 59−65, 中国・中山大学中国非物質文化遺産研究センター.
Shimamura, Takanori, 2017, Folklore in the Midst of Social Change: The Perspectives and Methods of Japanese Folkloristics. Japanese Review of Cultural Anthropology, 18(1), 191−220.
島村恭則, 2014, 「フォークロア研究とは何か」『日本民俗学』287, 1−34.
島村恭則, 1995, 「沖縄の民俗宗教と新宗教―「龍泉」の事例から―」『日本民俗学』204, 1−37.
島村恭則, 1993, 「民間巫者の神話的世界と村落祭祀体系の改変―宮古島狩俣の事例―」『日本民俗学』194, 70−124.
島村恭則, 2001, (博物館展示)「異界万華鏡―あの世・妖怪・占い―」国立歴史民俗博物館.

 

【4. 研究紹介のホームページなど追加情報】
 twitter(関西学院大学 現代民俗学 島村恭則研究室)も参照してください。
twitter.com

 この他、ネット上で「島村恭則」を検索すると、関連情報がいろいろ出てきます。
 進学を検討されている方は、島村恭則 tshimamura<アットマーク>kwansei.ac.jp(<アットマーク>は、@に変えてください)まで、直接ご連絡ください。ゼミ見学も受け付けています。


 進学を検討されている方は、島村恭則 tshimamura<アットマーク>kwansei.ac.jp(<アットマーク>は、@に変えてください)まで、直接ご連絡ください。ゼミ見学も受け付けています。

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講義科目と並行して、指導教員・副指導教員のゼミが開講されています。

 

専任教授は島村恭則(民俗学)、桑山敬己(文化人類学)、鈴木慎一郎(カルチュラル・スタディーズ)。

他に、本年度は、中谷文美岡山大学教授(文化人類学)、後藤晴子大谷大学専任講師(民俗学)、澤井真代日本女子大学兼任講師(民俗学)、ウェルズ恵子立命館大学教授(アメリカ民俗学)、河合洋尚東京都立大学准教授(文化人類学)が出講。2022年度は、鈴木正崇慶應義塾大学名誉教授、塚原伸治東京大学准教授、周星神奈川大学教授、河合洋尚東京都立大学准教授が出講。

 












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【教えてセンセイ】島村恭則先生に聞く〈現代民俗学、ヴァナキュラーの話〉

【教えてセンセイ】島村恭則先生に聞く〈現代民俗学、ヴァナキュラーの話〉

季刊誌『阪神ハイウェイ』228(2023 WINTER)に掲載されたインタビュー記事です。

 

重慶の担ぎ屋「棒棒」の研究

鮑 燊平

 

【要旨】

 

 本研究は、重慶の棒棒について、中国重慶市をフィールドに実地調査を行うことで、棒棒を明らかにしたものである。「棒棒」は竹の棒とロープ及び小型台車を労働道具として、山に築かれた街「重慶」の市街地で坂を登り、叫び声で仕事を依頼する市民を呼びかけて、市民の日常生活、商業活動のために零細な運搬労務サービスを提供し、体力で金を稼ぐ職業である。本研究で明らかになった点は、つぎのとおりである。

 

1.「棒棒誕生の原因」。山地の地形は重慶の地形の起伏が大きく、坂道が多いことに加え、交通が不便で運 送業者が必要であり、このような地理条件の下で、大量な貨物の輸送需要と山地環境が共同で重慶独自の「棒棒」文化を生み出した。

 

 

2.「棒棒になる理由」。なぜ「山城」重慶だけが棒棒という職業 を存在しているのか。「山城」周辺区県から来た農民はなぜこの職業を選んだのか。地勢を引きずり、子供を避け、現金を稼ぐほか、都市に出稼ぎに行く棒棒業界の収入 は他の肉体労働業界に比べて相対的に高い。次に、雇用関係に比較的優位性があり、 従事者は雇用主と直接交渉し、中間的な労働搾取は存在しない、再び棒たちの仕事の 時間は自分でコントロールすることができて、十分な自由があって、自分は「ボス」で、言うことになる。

 

3.「棒棒の社会」 彼らは自動的にそれぞれの取引の過程で 1 つを形成する「リーダーなし」のチームは、その一人が大きなビジネスを手に入れ、一人では忙しくて手が回らない場合、自分とよく知っている他の棒棒をいくつか呼んで、その時、この人はリーダーになって、雇用主に荷物を運んで、お金をもらった時、彼がお金を分配するが、しばらくは「リーダー」が、自分が一時的に「リーダー」だからといって、自分にお金を多く分配することはなく。お金は公平に分配され、他の棒棒の巻目は共有して、具体的な体制と条項の制約のない協力は最も公平性を体現して、すべての個体の心の感じを調和させるのは特に簡単ではなくて、相互の信頼とお金の公平はやっと長期的な協力と共同生存を達成することができる。

 

 

4.「棒棒の生態」棒棒たちがそれぞれ商売の場所 を取り、商売の形を取り、お金を稼ぐことによって「野良棒棒」、「普通の棒棒」、「高 級棒棒」を分け、同時に、家族の成立の有無によって「既婚棒棒」、「未婚棒棒」に分 けられる。しかし、いずれにしても、ビジネスがあれば、これらの区分は消えてしまい、彼らは自覚的に一緒に立って価格を話し、互いに協力して価格を上げ、そして稼いだお金を「業界の習慣」に従って分配します。

 

5.「棒棒の現在」物流会社の台 頭に伴い、宅配便の業界競争が激しくなり、電車などの軌道交通が四方八方に通じ、 自家用車の繁栄など、すべてが棒棒の必要性が減少していると嘆くように、棒棒たちには「使い道」がどんどん減る一歩だ。引き換えに、教育を受ける程度が一般的に向上するにつれて、サラリーマンの待遇は何度も向上し、さらに職業が多元化し、農村からの若者がますます増えている。このことから、棒棒は地勢の理由や市場の需要によって短期的に完全に消えることは難しいが、非公式な「山城名刺」の棒棒として、 急激に数が縮小していると言わざるを得ない。棒棒たちは棒を使ってこの町に奉仕し、得た見返りは少なく、彼らにもっと必要とするのは、尊重するだけかもしれないが、彼らの歴史も、この重慶に尊重され、銘記される必要があると思う。

 

 

 

【目次】

 

序章

(1)「棒棒」とは

(2)問題の所在

第一章 棒棒の誕生

第一節 棒棒を生む地「重慶」

第二節「力夫」から「棒棒」へ

第三節 棒棒と言う概念の誕生

第二章 都市に生活する「農民」

第一節 移住の動機

(1)棒棒の分布

(2)棒棒になる理由

(3)ひとりっ子政策から逃げる

第二節 棒棒の会

(1)都市生活の直感

(2)入城後の状況

(3)仕事の場所

(4)仕事の道具

第三節 棒棒の生態

(1)棒棒内部のクラス階級

(2)既婚棒棒と未婚棒棒

(3)リーダーなき団体活動

(4)棒棒の領地違い

第三章 棒棒達の現在

第一節 棒棒の屋

第二節 棒棒達のライフヒストリー

(1)黄さんのライフヒストリー

(2)「河南」のライフヒストリー

(3)大石のライフヒストリー

第三節 自由な棒

結語

結論

今回の不足

文献一覧

謝辞

 

 

 

【写真】

 

写真1 群れている棒棒たち
出典:「最後の棒棒」 重慶日報、撮影者何航

 

写真2 普通棒棒達が固定場所で待っている

 

写真3 家具の運び仕事を待つ棒棒達

 

写真4 冗談話をしている棒棒たち

 

写真5 下は寝る場所、上は個人の荷物

 

写真6 お金を寄付した黄さん
出典:「最後の棒棒」 重慶日報、撮影者何航
 

 

 

 

【謝辞】

 

お話をお聞かせくださった棒棒の譚勇さん、黄力元さん、石恒さん、および彼らを紹介してくれた金庸先生。

これらの方々のご協力なしには、本論文は完成に至りませんでした。今回の調査にご協力いただいた全ての方々に、心より感謝申し上げます。本当にありがとうございました。

 

カワビタリモチ再考―分類と考察―

岡林 優

 

【要旨】

本研究は旧暦12月1日行われていた、カワビタリモチという地域ごとによってかなり特色の異なる水難除けの行事の事例と、その日と同日に行われていた他の水難除けの行事の事例について、「供物型」「川浸し型」「陸上型」の新たな体系に分類し、まとめたものである。本研究で明らかになった点は次のとおりである。

 

1.「供物型」のカワビタリモチは川で行事を行うため、同じく川で行事を行うミミフタギや溺死者の供養などと結びつき、独特な事例となる場合がある。

 

2.「川浸し型」のカワビタリモチは妊娠などにも効果があるとされる場合があり、陸上型のカワビタリモチと比較しても効果のバリエーションに富んでいる。

 

3.「陸上型」のカワビタリモチは水難除け以外の効果のバリエーションがみられなかった。

 

4.「川渡り」という12月1日に川を渡ることで水難除けを願う行事においても、川を渡ることで家が栄えるといった、「川浸し型」のカワビタリモチと同様に水難除けに留まらない効果の事例がみられた。

 

5.川から離れた場所で行われた事例よりも、川の付近や川に入って行われた事例からの方が、他の川の付近で行う行事と内容的に結びついている事例がみられたり、水難除け以外にも効果があるとする事例がみられた。

 

【目次】

序章

 

第1章 供物型

第1節 供物型とは

第2節 事例

 

第2章 川浸し型

第1節 川浸し型とは

第2節 事例

 

第3章 陸上型

第1節 陸上型とは

第2節 事例

 

結語

 

文献一覧

 

【本文写真から】

写真 川岸に餅を供えている様子
*出典:宇都宮市歴史文化資源活用 推進協議会,
(年中行事 ~「カピタリ」~ | 宇都宮の歴史と文化財 (utsunomiya-8story.jp)
より転載)

甘木の流れ灌頂 ―福岡県朝倉市の川施餓鬼行事―

鈴木志歩

 

【要旨】

本研究は、福岡県朝倉市甘木という土地をフィールドに、甘木に伝わる流れ灌頂の実地調査をおこなうことで、甘木の流れ灌頂の由来や変遷、そしてもともとは川施餓鬼としておこなわれていたのにも関わらず、なぜ流れ灌頂とよばれるようになったのか、ということを明らかにしたものである。

本研究で明らかになった点は次のとおりである。

 

  1. 流れ灌頂とは、産死者や水死者をはじめとした異常な死を遂げた者に対しておこなわれた特別な供養であった。特別な供養が必要な理由として、異常な死を遂げた者はこの世に未練を残しやすいと考えられていたために、彼らの霊を何か特別な方法で鎮魂しなければならないと考えられていたからだ。

 

  1. 流れ灌頂には大きく分けて3つのタイプがあり、1つ目は、卒塔婆などを川に流して供養する「卒塔婆流し型流れ灌頂」、2つ目は、縄を川の水に浸し、しごいて洗ったり水の中で縄を解いて供養する「縄ざらし型流れ灌頂」、3つ目は、死者が身につけていた衣類の一部、あるいは経文や梵字などを墨書した四角いさらし木綿の布片を川の水にさらして供養する「あらいざらし型の流れ灌頂」と分類されている。(佐々木孝正,『仏教民俗史の研究』,名著出版,1987)

 

  1. 流れ灌頂は、水死者の霊を弔うという目的のために川辺でおこなわれる供養方法の川施餓鬼に類似していることから、次第に流れ灌頂は川施餓鬼とよばれることが多くなった。

 

  1. 福岡県朝倉市甘木では流れ灌頂が現存しているが、現在その姿は打ち上げ花火や灯籠流し、立ち並ぶ屋台がメインとなった行事へと変わっており、その名称を「甘木川花火大会 流灌頂法要会」としている。

 

  1. 「甘木川花火大会 流灌頂法要会」では、打ち上げ花火と灯籠流しの間に、地元の三ヶ寺の住職らが流灌頂法要会として読経をおこなっており、そこでは戦死した方や水害で亡くなった方の霊をはじめ、この世の全ての霊を供養している。またそれとともに、悪疫退散・家内安全・五穀豊穣・諸縁吉祥などの祈願も併せておこなわれているという。

 

  1. 甘木の流れ灌頂は当初川施餓鬼としてはじまったという伝承がある。

 

  1. 流れ灌頂は時代とともに川施餓鬼化していったのにも関わらず、甘木では川施餓鬼が流れ灌頂化していた。その理由は、途中から悪魔退散という目的を追加したことにより、さらに特別な供養である必要性が高まったからだ。流れ灌頂は、異常な死を遂げ、この世に強い未練を残した死者の鎮魂のためにおこなわれていた供養方法であったことから、この要素を取り入れ、流れ灌頂と呼ぶようになった。

 

  1. 甘木の流れ灌頂は過去にサーカスなどの興行も併せておこなわれ、一時は全国祭典番付に掲載されるほどの盛り上がりをみせていた。

 

  1. 現在は、当時ほどの勢いは衰えてしまったものの、それでもなお地元の方々をはじめ、多くの人々に深く愛され続けている甘木の大切な行事なのである。

 

 

 

【目次】

序章 問題の所在

 

第1章 起源の伝承

 

第2章 変遷の過程

 

第3章 流れ灌頂の現在

 

第4章 流れ灌頂と川施餓鬼

 第1節 流れ灌頂の3類型

 第2節 流れ灌頂と川施餓鬼

 第3節 甘木における流れ灌頂と川施餓鬼

 

結語

 

参考文献

 

謝辞

 

 

【本文写真から】

写真1 千葉県市川市下貝塚で実際におこなわれていた流れ灌頂

*出典:坪井洋文『日本民俗文化体系10 家と女性 暮しの文化史』小学館,1985

 

 

写真2 第71回 甘木川花火大会 流灌頂法要会のチラシ

 

 

写真3 第71回 甘木川花火大会 流灌頂法要会の様子(1)

 

 

写真4 第71回 甘木川花火大会 流灌頂法要会の様子(2)

 

 

写真5 第71回 甘木川花火大会 流灌頂法要会の様子(3)

 

 

【謝辞】

本論文の作成にあたり、多くの方々のご協力をいただきました。

当日にも関わらず温かく受け入れてくださり、快くお話を聞かせてくださいました、朝倉商工会議所の太田利博様をはじめとする朝倉商工会議所の職員の皆様。そして、お忙しいなか文献・資料探しにご尽力いただきました、朝倉市中央図書館の司書の皆様。

これらの方々のご協力がなくては本論文は完成に至りませんでした。コロナ禍という状況にも関わらず今回の調査にご協力いただいた全ての方々に心より御礼申し上げます。本当にありがとうございました。

天道総天壇の来歴―中華系新宗教の日本における展開―

田中瑞稀

 

【要旨】本論文は、一貫道系新宗教天道総天壇について、文献調査及び実地調査を行うことで、今日まで組織がどのように発展してきたのかを明らかにしたものである。本研究で明らかになった点は、次のとおりである。

 

1.天道総天壇の組織運営を携わる領導理事会の理事長を務めた徐錦泉は、2018年10月13日に亡くなっている。現在、彼の魂は「対極世界」という未来の世界にいると信者の間で信じられている。

 

2.「夢ノート」というノートに夢や目標を書くことで、対極世界にいる徐錦泉に思いが通じてパワーを得ることができるとされる。

 

3.「霊数」と「霊格」という考え方がある。霊数とは「たましいの輝きの度数」、霊格とは「たましいの段階、レベル」であり、霊格を上げることが天道の主神老との約束であるとされる。霊数は「五聖の道具」の使用や、「金剛甘露」という精霊が宿った食べ物を食べたり、使ったりすることで上げることができる。

 

5.天道総天壇は菜食主義であるため肉・魚を食べてはいけなかった。しかし、細分化した魂を1つにまとめ、人間への転生を早めるという考え方から魚は食べても良いことになった。

 

6.総本山弥勒寺における稲荷社や地蔵、靖国神社など他の宗教や民間信仰の要素を含む建造物は、一貫道・天道の教義である五教合一、万教帰一が根底にある。

 

7.現在、天道総天壇では一貫道の神人連絡法である霊査を行っていない。平成5年から「鳴り護摩」という儀式が始まり、この儀式中に行われる神人連絡法を「霊査」と呼んでいる。

 

【目次】

序章

 

第1章 前史としての一貫道

第1節 一貫道の起源

第2節 中国での展開

第3節 台湾への伝播

 

第2章 天道と天道総天壇

第1節 日本への伝播

第2節 「天道」の分派

第3節 天道総天壇

 

第3章 国父徐錦泉

第1節 入信以前

第2節 天道との出会い

第3節 国父としての徐錦泉

第4節 国父の死

 

第4章 教義・聖地・儀礼

第1節 教義

(1)主神・世界観

(2)得道・積得

(3)三曹普渡

(4)菜食主義

(5)霊格・霊数・霊団

(6)精霊

(7)対極世界

(8)泉珠神国

第2節 聖地

第3節 儀礼

(1)飛鸞宣化・霊査

(2)修霊超度・祖霊超抜

(3)護摩壇

 

第5章 信者と組織

第1節 台湾人信者

第2節 日本人信者

第3節 教団組織

 

結語

 

付論 日本における一貫道系新宗教

第1節 孔孟聖道院

第2節 先天大道日本総天壇

第3節 道徳会館

第4節 忠恕道院

 

謝辞

 

文献一覧

 

【本文写真から】

写真1 天道総天壇総本山 玉皇山弥勒寺

写真2 徐錦泉国父

*出展:天道総天壇公式ウェブサイト(徐錦泉国父 (tendo.net),2023年1月14日閲覧)

写真3 神戸準総壇

写真4 大阪道縁ビル

写真5 神戸準総壇「育元天壇」



【謝辞】

本論文の執筆にあたり、多くの方々にご協力をいただきました。

弥勒寺の皆様、大坂道縁ビルの皆様、神戸準総壇の皆様、何度も足を運んだのにも関わらず親切にご対応いただきありがとうございました。北村讓国父代行をはじめ、天道総天壇のすべての皆様のご協力がなければ、本論文は完成にいたりませんでした。本当にありがとうございました。

 

満州族のシャーマニズム ―孟門大堂の事例―

 

文秋荻

 

【要旨】

 

本研究は、満州族のシャーマニズムについて、中国黒竜江省ハルビン市双城区をフィールドに調査を行うことで、孟門大堂のシャーマニズムの事例を明らかにしたものである。本研究で明らかになった点は、次の通りである。

 

1.黒竜江省ハルビン市の双城区は古くからツングース系民族と深いかかわりがある土地であり、確証のある最古は殷朝まで遡ることが可能、粛慎から扶余、勿吉、靺鞨、契丹、黒水靺鞨、女真、モンゴル等を含む複数の少数民族、漢民族、満州族、長い歴史の中でツングース系の文化のひとかけらであるシャーマニズムは双城区に大きな影響を与えてきた。

 

2.孟門大堂のシャーマニズムにおいて、シャーマンの機能は大神(香童)と二神の二人によって果たされている。大神は憑依される肉体、二神は交流による働きをもってシャーマンである。

 

3.孟門大堂の大神は対外的に大神と呼ばれることを許容、しかし自分自身は香童であることを明確に認識している。

 

4.孟門大堂の大神は仙家によって選出される。そこに拒否権はなく、受け入れるまで心身の不調に陥り、受け入れて出馬した後一生香童である。それに対して二神は大神から指定可能、学習すれば務められる。

 

5.孟門大堂で信仰される仙家とは主に五種類の動物霊、通称「五大家」、「胡黄白柳灰」。うち胡仙はキツネ、黄仙はイタチ、白仙はハリネズミ、柳仙はヘビ、灰仙はネズミである。胡黄白柳灰が五大家と称される原因の一部として、キツネはその各種伝説や文学作品などにおける豊かな表象形態、イタチは臭腺から放出される匂いに含まれる物質による効果、ハリネズミは身体特性と満州族の神話伝説に現れるハリネズミの女神の存在、ヘビは中華民族の始祖とされる伏羲と女媧の身体特徴と脱皮の生物特性、ネズミは暗闇にて生活する習性や福建省の香鼠への崇拝、及び十二干支の最初にある特殊な立ち位置など、以上の可能性が挙げられる。

 

6.中国の東北地域で広く信仰されている保家仙も仙家の一種で、同時に出馬仙として 降り立つことも可能である。

 

7.仙家には仙門大堂という組織化された集団を持つ、集団組織に属さない仙家もいるが、その内部は掌教、領兵、護法、二排教主、穿堂報馬といったはっきりとした組織図を持っている。

 

8.孟門大堂は現在推定三代目まで持続しており、その伝承からは他宗教の痕跡が見られる。

 

9.孟門大堂の現在拠点、在籍仙家の数、活動開始時期、組織構成、オフィス及び住居の所在、香童(大神)の血族に特別庇護を与える例の存在が判明された。

 

10.孟門大堂の儀礼の実態、供え物の要求、送迎の祝辞、仙家から道教の特徴がみられる現象、仙家の憑依が香童(大神)への影響などが判明された。

 

 

 

【目次】

 

序章

 第1節 問題の所在

 第2節 双城区

 第3節 シャーマニズムとは

 

第1章 シャーマン

 第1節 分類

 第2節 成巫過程

 

第2章 仙家とその組織

 第1節 仙家とは

 第2節 保家仙

 第3節 仙門大堂

 

第3章 孟門大堂

 第1節 孟門のシャーマンたち

 第2節 孟門の仙家組織

 第3節 儀礼の実態

 

結語

 

文献一覧

 

 

 

【本文写真から】

 

写真1 保家仙

 

写真2 孟傅氏家族写真(写真中央老婦人)

 

写真3 文于氏家族写真(写真中央老婦人)

写真4 承旭門楼

 

写真5 南廟

 

写真6 供え物例(自作)

 

かむろ大師信仰の消長 ―和歌山県橋本市における祈祷系寺院の事例―

かむろ大師信仰の消長 ―和歌山県橋本市における祈祷系寺院の事例―


上野陽南

 

【要旨】本研究は、和歌山県橋本市に存在する祈祷系寺院「かむろ大師」を事例とし、実地調査を行うことで、新宗教における信仰組織構築の変遷を明らかにしたものである。本研究で明らかになった点は、つぎのとおりである。


1. かむろ大師は、1910年(明治43年)に開創した真言宗系単立宗教寺院であり、独自の「水加持」と呼ばれる祈祷法を行っている。この祈祷法は、開祖である尊海によって編み出された祈祷法が元になっており、参拝者の頭上に霧状の水をかけて祈祷を行う。


2.開祖の尊海は、1892年(明治25年)3月26日に農家の長男として誕生する。幼いころから信仰が篤いことで知られており、18歳の時に同じ村に住む村人から祈祷の依頼をされ、祈祷が成功したことがきっかけとなり、祈祷師として「かむろ大師」を開創する。独自の祈祷による利益と、親しみやすい説法、教義に基づいて尊海自身によって詠まれた「道歌」という歌によって全国各地に多くの信者を獲得し、1981年(昭和56年)7月7日に90歳で亡くなった。

 

3. かむろ大師には「救いを求める人がいれば、その人の手助けをする」という考えが根底にある。その一方で、尊海は「自らが努力しなければ救いは得られない」ということも常に信者に伝えていた。


4. 尊海の没後、かむろ大師では宗教法人化が行われた。また、尊海の晩年期から没後約20年の間に、「奥の院」と「新本堂」の建立がされており、聖地の整備が進んだ。


5.かむろ大師は、関西全域に在住の信者が多いことが特徴的である。これは、かむろ大師の信者により構成された「支部」と呼ばれる団体が全国に存在し、講のような役割を果たしていたことが関係している。支部は霊能力者や超自然的な力を持つ人々が先達のようになり、支部長として支部を管理し、団体参拝の際に引率を行ったり、各地での祈祷を行うなどの役割を果たしていた。現在、支部長や構成員の高齢化により、支部はほとんど機能していない。

 

6. 現在の信者は高齢化が進んでおり、50代~70代の信者が最も多い。また、学文路が学問の聖地として有名なことから、学業祈願に訪れる若い世代の参拝客もいるという。かむろ大師の信者の多くは信徒のため、代々かむろ大師を信仰する信者の家もあれば、個人の信仰にとどまる場合もある。道歌は現堂主の説法でも引用され、尊海没後の現在も信者に親しまれている。

 

【目次】

序章 
 第1節 問題の所在 
 第2節 「学文路」という場所 
 第3節 かむろ大師 
 第4節 水加持 
    
第1章 尊海上人 
 第1節 少年時代 
 第2節 宗教者としての出発 
 第3節 かむろ大師開創 
 第4節 救いの構造 
 第5節 道歌と説法 
 第6節 弟子 
    
第2章 尊海没後のかむろ大師 
 第1節 後継者の登場 
 第2節 法人化と聖地の整備 

第3章 信仰組織 
 第1節 教団の構造 
 第2節 支部と信者 
 第3節 合格祈願 
    
第4章 信仰体験 
 第1節 K氏の場合 
 第2節 M氏の場合 
 第3節 I氏の場合 

結語 
文献一覧 
謝辞 

【本文写真から】

写真1 尊海上人御廟 

写真2 奥の院休憩所 祭壇

写真3 尊海上人直筆の道歌

写真4 加持水場

写真5 御神水置き場

 

【謝辞】

本論文の執筆にあたり、多くの方々にご協力いただきました。突然ご連絡を差し上げたにも関わらずご対応くださいました、かむろ大師関係者の皆様。お忙しい中、お話を聞かせてくださり、資料のご提供やメールでのやりとりにご対応いただきました、かむろ大師副堂主河野様。記録がほとんど残っていないお上人様のお話をしていただきました、かむろ大師堂主左官様。お時間を空けてインタビューを受けてくださいました、かむろ大師奉賛会会員の皆様。皆様のご協力が無ければ、本論文の完成には至りませんでした。今回の調査にご協力いただきましたすべての方々に、心より御礼申し上げます。

横浜の御嶽信仰ー横浜御嶽神社の成立と展開ー

平田里佳

 

【要旨】

 

本研究は神奈川県横浜市に存在する横浜御嶽神社をフィールドに実地調査を行うことで、横浜御嶽神社の成立と展開を明らかにしたものである。本研究で明らかになった点は、つぎのとおりである。

 

1.横浜御嶽神社は初代先達、森巳之助が明治時代初期に木曽御嶽山で修行を行い木曽御嶽神社により御分霊を勧請し社を建立した。

 

2.御嶽教に所属し神奈川懸起立講を結成し、森巳之助が主に横浜南部、横須賀、鎌倉方面の家々に森巳之助が自らの脚で出向き崇敬者を集めた。

 

3.本殿の中央には国常立尊(くにとこたちのみこと)、大己貴命(おおなむちみこと)、少彦名命(すくなひこなのみこと)の3柱を合わせた御嶽大神が祀られている。境内には「御嶽不動尊」、「御嶽稲荷社」が存在する。

 

4.横浜御嶽神社から北に約300m先に遥拝所がある。御嶽山に深く関わった方々が亡くなる御嶽山に魂がやどり「霊神」と呼ばれ、霊神碑が集まっている場所を遥拝所と呼んでいる。

 

5.毎月行われている行事として毎月1日と9日に先達が護摩木を焚き上げその浄火で力を授かりお願いごとを祈願する護摩行を行っている。

 

6.御嶽信仰の中で大切にしている神がかりを行う儀式である「御座立て」は15年ほど前まで行っていた。御座立てには7人の行者が必要であり現在は高齢化による人手不足のため儀式は行われていない。

 

 

7.御嶽山に登り参拝する御嶽登拝は神奈川懸起立講として明治33年から行っている。昭和後期は約80名で登拝していたが近年は数名で登拝を行っている。

 

【目次】

 

序章 御嶽信仰とはなにか

 

第1章 森巳之助と神奈川懸起立講

 

第1節 森巳之助のライフヒストリー

第2節 神奈川懸起立講

第3節 崇敬者たち

 

第2章 横浜御嶽神社と御嶽山遥拝所

 

第1節 横浜御嶽神社の成立と展開

第2節 祭神

第3節 遥拝所

 

第3章 御座立て

 

第1節 御嶽教と御座

第2節 横浜御嶽神社の御座

 

第4章 御嶽山登拝

 

第1節 御嶽教と御嶽山登拝

第2節 横浜御嶽神社と御嶽山登拝

 

結語

 

文献一覧

 

謝辞

 

【本文写真から】

写真1 森巳之助(嶽寛霊神)

写真2 横浜御嶽神社鳥居

 

写真3 横浜御嶽神社本殿内

写真4 横浜御嶽神社遥拝所

 

写真5 護摩行



【謝辞】

本論文を執筆するにあたり、多くの方々にご協力いただき心よりお礼申し上げます。お忙しい中貴重なお時間をいただきお話しを聞かせてくださいました渡邊俊平氏、森克己氏、横浜御嶽神社の崇敬者の方々のご協力なしには本論文は完成にいたりませんでした。本当にありがとうございました。

 

 

面花をめぐる伝承人と商品化 ―中国陝西省渭南市華県の事例―

劉嘉浩

 

【要旨】本研究は中国陝西省渭南市華県の下廟をフィールドとして、華県の面花の歴史、形態、用途、非物質文化遺産伝承人の選出にまつわる面花の変容に着目し、現代における面花の 姿、用途、役割 変容 、商品化の一連の変化 について 調査を行った。本調査で明らかになったのはつぎのとおりである。

 

1.面花の歴史は遡ると、漢代の面塑にたどり着くことができた。しかし、第二次世界大戦を経て、新中国成立し、その後も伝承しつつ面花が1960年代の中国文化革命に影響を及ぼし、迷信だということに叩かれ、一時伝承が途絶えたが、2004年にユネスコ「無形文化財遺産保護条約」が結んだことによって、非物質文化遺産に登録され、保護された。また、政府は保護におけるかなり力を入れており、非物質文化遺産伝承人という制度を設立し、商品化されていくことによって保護されると提唱しつつ今に至る。

 

2.面花の形態は100種類以上存在しており、面花は華県の人々の人生四大儀礼である生、婚、寿、葬の担い手となっているが、それだけでなく、二十四節気、祝日や春節などにも使われている。それぞれの儀式と祝日に応じて、使い方や使う種類、置き方にも違いがある。それを合計11種類の用途がある。まず人生四大儀礼である生、婚、寿、葬である子供の誕生と満月、完灯、結婚、お年寄り10の壽、葬式と死後と分けられている。それぞれ使う面花の種類や用途、意味が異なっている。そして、一年の行事の面花の使い方を年順に並ぶとお正月(旧暦春節)、龍頭節、清明節、看忙罢、六月六、棟上げと分けられ、それぞれの用途について明らかにした。

 

3.非物質文化遺産伝承人について、中国文化と観光部の「国家級非物質文化遺産代表性伝承人の認定および管理方法」をもとに、その選出方法と基準が明らかにできた。そして、その選出方法と基準に問題点が生じており、「特定の区域」から影響を及ぼすことについてこの区域の範囲は如何なるものか村、県、市、省それとも国家がはっきり示されず、曖昧な境となっている。また、そもそも非物質文化遺産ということに関して、明確に伝承がある非物質文化遺産があれば、面花のように、民間で口頭伝承に頼って明確の師匠弟子がはっきりしていないようなものもあり、それらを分けられていないのではないだろうか。そして、その伝承人たちは役割の中にある「実物と資料」は持っているかどうかも懸念付けられる。面花の場合だとこのような食べ物を媒体とした民俗事象はそもそもその実物が残せないということが事実である。また、それに伴う資料もほとんどなく、面花作りができる人の頭の中にいるということから考えると、この「実物と資料の保護」はそもそもできないということが理解できる。最後に、第五条の伝承人が備える素質について、どのように判断できるかが問題で、その判断基準は抽象的で、どのように、如何に伝承人が選定できるかが非常に曖昧立場となっている現状が明らかにした。

 

4.本調査では直接現在面花の非物質文化遺産伝承人であるリン氏に直接聞き取り調査を行い、非物質文化遺産伝承人に選出された経緯について知ることができたが、これらのことが「国家級非物質文化遺産代表性伝承人の認定および管理方法」に書かれている方法と基準とやや異なっていることに疑問を感じ、そして、リン氏が知っている祖母と話をし、リン氏の選出には師匠を証明しなければならないなどの条例を祖母に聞くと、リン氏はもう10数年前から面花作りをやめ、弟子の受け取りもしてなかった。そもそも面花作りは昔では女性の必修科目と言えるほどのもので、上手くできる人が珍しくない。また、弟子入りなどと言った師匠もなければ教わる基準もなかった。想像に任せた技術であるということを明らかにした。

 

5.そして、非物質文化遺産伝承人の選出にあたって闇について、非物質文化遺産伝承人に選ばれると政府から年単位で経費がもらえる。この「経費」いわゆ「金」に巡って非物質文化遺産伝承人の選抜に泥がついた。つまり、選出にあたってその一連の賄賂、偽物書類の作成と言った悪しきことが発生している。また、審査にあたって、評価結果はすべて審査員の主観によって、選ばれるものであり、その選出にあたって評価できる客観的なデータも明確に書いておらず、このうちに賄賂などの働きによって、その審査の判定も改訂されているではないだろうか。それにつき加え、非物質文化遺産伝承人であるリン氏は今回の聞き取り調査では直言しなかったが、祖母の話によると、リン氏の子供は当時県長であり、1990年代だと現在とは異なり、人間関係などでいろんなことができる。その子供の仕事の原因誰よりも早く情報が入手することができ、また、職務も高く、そのうち賄賂が行われていることを推測している。この推測を証明できたのが、非物質文化遺産伝承人のサンプル申請表を見つかり、その中には一人の伝承人を例に記載されているが、申請者伝承人と審査員が同一人物であり、かつ、研究員となっているという、禁じられている状態となっている中にも関わらず、審査員の評価意見ではすべて同意という結果となった。つまり、伝承人として認められたという闇を明らかにできた。

 

6. 華県の人々の生活様式の変化によって、「礼饅頭文化」の衰退が原因となっている。一方、政府は面花を保護するために介入したが、その原因で設立した伝承人制度は多くの問題点が存在しており、選出された伝承人は義務履行していない。また、保護にあたっての保護計画は保護されずに面花の商品化を促しつつ、元の姿が保つことができなく、その姿は人々のニーズにおじて、その形態がどんどん華麗に変化しつつあり、やがて「食」としての機能が失われている現状となっている。

【目次】

 

第1章 「面花」とは何か

 第1節 面花とは

 (1)面花の歴史

 (2)面花と饅頭

第2節 祖母の面花

 

2章 華県の面花

 第1節 面花の形態

(1)立ち虎

(2)走り虎

(3)伏せ虎

(4)高饅頭盤

(5)谷巻

 第2節 面花の用途

(1)子供の誕生と満月

(2)完灯

(3)結婚

(4)お年寄り10の壽

(5)葬式と死後

(6)お正月(旧暦春節)

(7)龍頭節

(8)清明節

(9)看忙罢

(10)六月六

(11)棟上げ

 第3節 道具と食材

3章 非物質文化遺産伝承人

第1節 非物質文化遺産伝承人制度

第2節 選出方法と基準

(1)選出方法

(2)選出基準

第3節 伝承人の事例

第4節 選出の闇

4章 商品化される「面花」

 第1節 面花の変容

 第2節 華麗を求める面花

結語

 

文献一覧

 

【謝辞】

 

【本文写真から】

写真1 立ち虎(儀式用)

写真2 谷巻

写真3 高饅頭盤

写真4 面花を作る道具

写真5 面花現在の様式

【謝辞】

 本論文の執筆にあたり、華県にいる多くの方々からご協力いただいた。

 お忙しいなか文献をご紹介してくださった民俗カメラマンの張氏。そして、面花の全般を教えてくださった祖母王忙肖氏。祖母の話を補充してくださった叔母さん谷当婷氏、父劉鉄奇氏、母杜海蓮氏。結婚式に実際参加してくださった張玉龍氏および、その子供である張軍氏。最後に、面花の非物質文化遺産伝承人についての選出の話をしてくださったリン氏。そして、調査に協力してくださった華県下廟町の皆様。これらの方々の協力がなければ、本論文は完成に至ることができなかったはず。

今回の調査をご協力頂いたすべての方々に、心より御礼を申し上げます。本当にありがとうございました。

半僧坊信仰の消長 ―遠州・方広寺における鎮守のゆくえ―

 飯島大夢

 

 

【要旨】

 

本研究は、静岡県浜松市の方広寺における鎮守である半僧坊の信仰について、方広寺をフィールドに実地調査等を行うことで、半僧坊信仰の辿った歴史とその実情を明らかにしたものである。本研究で明らかになったことは次のとおりである。

 

1.半僧坊信仰は明治初期、経営面で窮地に立たされた方広寺がその脱却を目指し、それまで低調だった鎮守の半僧坊に着目したことで流行が始まった。

 

2.1881(明治14)年に発生した火災で本堂を含めほとんどの建築が焼失する中、再建したばかりの半僧坊真殿がこの大火を免れたことから半僧坊には「火伏」の霊験があるとして宣伝を行い、半僧坊信仰は爆発的に流行していった。

 

3.半僧坊信仰が広がっていくにあたって、それを支えた要素として軽便鉄道の開通があった。アクセスが良くなったことで参拝者の増加を促し、特に遠方からの参拝客に大きく影響した。

 

4.半僧坊信仰の拡大に伴って方広寺周辺が盛り上がり、門前町には土産屋や旅館が立ち並び、娯楽施設も生まれた。中でも、旅館は講や遠方からの参拝客に向けたものであり、1885(明治18)年には日本各地からの参拝客が訪れていた。

 

5.こうした信仰の広がりに寄与したのが外務員と呼ばれる僧だった。その役割は時代と共に信仰を広めることから講との連絡など、講と方広寺・半僧坊を繋ぐ役割へと変わっていった。

 

6.鎌倉や京都、北陸にも半僧坊を祀る場所がある。半僧坊は元来火伏や海上安全祈願の対象として広がっていったが、祈願対象が変わっていった事例もあった。

 

7.方広寺には明治初期以前は講がなく、再建・復興に伴って講が初めて組織された。静岡県や三重県、愛知県を中心とした東海地方の講が多かったが、関東でも講が組織されていた。

 

8.現在は軽便鉄道も廃線して主要な交通手段はバスに変わり、門前町でも現在営業が続いているのは数店のみとなっている。講に関しても、組織していた人々の高齢化によって、現在は講としての参拝はほぼ無く、個人として訪れるといったケースが圧倒的に多くなっている。

 

【目次】

 

序章

 

第1章 半僧坊と方広寺

 第1節 開山・無文元選

 第2節 半僧坊

 第3節 方広寺と半僧坊真殿

 

第2章 拡大する半僧坊

 第1節 方広寺の衰退と半僧坊への着目

 第2節 『火伏』信仰の発生

 第3節 半僧坊信仰の拡大

 第4節 現代の半僧坊と方広寺

 

第3章 半僧坊と講

 第1節 講と外務員

 第2節 講の記録と体験談

  (1)東京都港区麻布誠信講(正真講)

  (2)愛知県刈谷市半栄講

  (3)静岡県榛原郡吉田町松栄講(住吉半僧講)

  (4)静岡県焼津市の講

  (5)三重県四日市市の講

 

結語

 

文献一覧

 

謝辞

 

【本文写真から】

写真1 方広寺本堂 *出典:方広寺公式ウェブサイト(http://www.houkouji.or.jp/ 2023年1月9日閲覧)

写真2 半僧坊 *出典:方広寺公式ウェブサイト(http://www.houkouji.or.jp/about.html 2023年1月9日閲覧)

写真3 半僧坊真殿・拝殿

写真4 門前町

写真5 新居・浜名の講寄進の神輿

 

【謝辞】

 本論文を執筆するにあたり、多くの方にご協力をいただきました。お忙しい中お話を聞かせくださり、大祭の見学・撮影をお許しいただき様々な資料を提供してくださった方広寺教学部長巨島善道氏、半僧坊や奥山周辺についてお話を聞かせてくださった信徒代表・自治会代表や門前町の皆様のご協力がなければ、本論文は完成に至りませんでした。今回の調査にご協力いただいたすべての方に心より御礼申し上げます。本当にありがとうございました。

泥松稲荷信仰の消長 ―霊能者の動向を中心に―

坂本莉子

 

【要旨】本研究は、京都府八幡市に存在する泥松稲荷神社をフィールドに実地調査を行うことで、泥松稲荷神社と霊能者の関係を明らかにしたものである。本研究で明らかになった点は、つぎのとおりである。

 

1.泥松稲荷神社は、尼崎出身の「庵主さん」という人物が、人間に対してよくいたずらをすることで知られている狸の「どろ松」の看病を行い、ともに修行を行ったことで、どろ松の死後は神がかりによって占いが当たるようになり、信仰を集めた神社である。

 

2.かつては尼崎や大阪出身の信者が多く、祭壇の幕や、どろ松稲荷社ののぼり、提灯の多くは尼崎や大阪から寄贈されている。その後、阪神淡路大震災の影響で尼崎からの信者が途絶え、現在は尼崎や大阪からの参拝者はほとんど存在しない。

 

3.どろ松には子供である狸の久松が存在し、久松稲荷として泥松稲荷神社のなかでともに祀られている。久松を守護神として信仰していた守屋たけという女性は大阪市城東区蒲生2丁目に蒲生教会を持つ、霊力を持った女性であった。

 

4.現在、久松稲荷を管理している井上智俊という女性もどろ松の降霊を行うことが出来る。どろ松の霊が入った際には単語を呟くことがあるが、自身ではその内容を覚えていない。

 

5.泥松稲荷神社には、庵主さん、おタカさん、守屋たけ、井上智俊という4名の霊能者が存在し、どろ松の降霊や占い、予言を行うことが出来た。

 

【目次】

序章

 第1節 問題の所在

 

第1章 泥松稲荷

 第1節 庵主さんと泥松稲荷

 第2節 おタカさん

 第3節 現在の泥松稲荷

 

第2章 久松稲荷と蒲生教会

 第1節 久松稲荷と守屋たけ

 第2節 井上智俊

 (1)父親の病気

 (2)泥松との出会い

 (3)修行を行うきっかけ

 (4)霊の入る感覚

 (5)泥松稲荷の初午祭

 

結語

 

文献一覧

 

謝辞

 

【本文写真から】

写真1 泥松稲荷神社の外観

写真2 御神木と泥松稲荷の祭壇

写真3 おタカさん

写真4 久松稲荷の祭壇

写真5 守屋たけ(前列右から5番目)

 

【謝辞】本論文の執筆にあたり多くの方々にご協力いただきました。泥松稲荷神社を訪れるたびにお話を聞かせていただき、写真やのぼりなどの資料集めにご協力いただいたIさん、長時間にわたり貴重なお話を聞かせていただいた井上智俊さんのご協力がなければ本論文は完成に至りませんでした。今回の調査にご協力いただいたすべての方に心より御礼申し上げます。本当にありがとうございました。