関西学院大学 現代民俗学 島村恭則研究室

関西学院大学大学院 現代民俗学 島村恭則研究室

「ソーラン節発祥之地」はどこか?−ソーラン節と余市・積丹−

川本 彩
はじめに −ソーラン節と余市積丹
(1)北海道に二つあるソーラン節発祥の地の碑
北海道には、ソーラン節の発祥の地の記念碑が2つある。
一つは、北海道余市町豊浜にある。(写真1)

彫られてある内容:「ソーラン節発祥之地」  
建立年:昭和36年(1961年)
建立者:余市町余市町教育委員会余市漁業協同組合、余市町郷土研究会
建立場所:ローソク岩が良く見える開けた場所、鰊の積み下ろしの港でもあった場所
ローソク岩”というのは(写真1)の右後ろに見える細長い岩のこと。鰊が、ローソク岩のあたりで良く鰊が獲れていたこと、また、ローソク岩から定置網を張っていたことなどから、ローソク岩が良く見えるあたりに碑が建立された。

もう一つは、豊浜から車で一時間程度のところにある、北海道積丹町美国。


(写真2、写真3)

彫られてある内容:「ソーラン節 鰊場音頭のふるさと しゃこたん」
建立年:昭和57年(1982年)
建立者:ソーラン節保存会
建立場所:湾であり、そこから道路がまっすぐ伸びているので一番建てやすかった場所。すぐ近くに観光名所であり、鰊が良く群来ていた宝島がありロケーションがいい場所。

(2)ソーラン節とは
ソーラン節は、北海道の日本海沿岸部の民謡。
北海道で鰊漁に従事するヤン衆(鰊漁などに雇われて働く男たち)たちが唄った。大きなタモで、枠網の中に入った鰊を3、4人で救い上げるおりに唄われる沖揚げ作業の仕事唄。海の上で鰊を捕まえて陸揚げするまでのことを沖揚げという。 タモとは柄の先に円形の木の枠がついており、それに網がかけられている、虫取り網のような形をしたもの。ソーラン節は元をたどると、青森など東北地方の民謡だといわれている。なぜなら北海道で働くヤン衆たちは、東北地方から雇われてやってきていたからである。そーら、そーら、と掛け声をかけることから、「ソーラン節」となった。
ちなみに、YOSAKOIソーラン節とは1991年、北海道の学生が高知のよさこい祭りを見て北海道の民謡ソーラン節とよさこい祭りを融合することを思いつき学生が主体となって北海道から始められた祭り。
ソーラン節は他にも有名なドラマに大きく取り上げられたり全国的にも非常に有名な民謡である。ただしそれらは元のソーラン節とはかけ離れており、実際のソーラン節はかなり泥臭いものである。

(3)余市積丹
余市町
余市町は北海道の西側に突き出した積丹半島の根元あたりに位置する、人口は約2万2千人のまちである。小樽市に隣接しており電車で40分程かかる。
まちの北側は日本海に面し、それ以外は緩やかな丘陵地に囲まれている。
かつて北海道で鰊が大量に獲れていたころ、余市は主要港の一つであった。余市町は、鰊漁によって栄えたまちと言える。
また果樹栽培も盛んで明治時代には、初めて民間の農家によって林檎の栽培が成功した。
余市町は温暖な気候で知られ古くから人が定住し多くの人々の往来が盛んであったため、遺跡や文化財がたくさん残っている。フゴッペ洞窟、旧下ヨイチ運上家、旧余市福原魚場、大谷地貝塚の4つが国指定の史跡、重要文化財に指定されており、その他には水産博物館や、縄文時代の墓であると言われている西崎山環状列石などがある。
余市出身の有名人としては、宇宙飛行士である毛利衛さん、長野オリンピックで活躍した船木和喜選手、斎藤浩哉選手などが挙げられる。
余市町の自然は非常に豊かである。シリパ岬は余市町のランドマークとしてここを代表する風景の一つである。シリパ岬は300m程の高さの断崖で、日本海側に突出している。(写真4、写真5)
そしてそのシリパ岬から、積丹のほうへ続いていく海岸沿いには、えびす岩、大黒岩(写真6)、ローソク岩(写真7)など、面白い形をした岩がたくさんあり、それぞれが観光名所として有名である。




積丹町
積丹町は、日本海沿岸の積丹半島の先端部に位置し、半島の面積の約4分の1を占めるまちである。人口は約2千6百人。余市からはバスに乗って50分ほどで行くことができる。小樽市からはバスで2時間ほどかかる。
積丹半島の歴史は古く、積丹町余市町と同じく明治から昭和初期にかけて鰊が大漁に獲れる町として発展してきた。また、春にはタケノコ、ウドなどの山菜、夏にはウニを代表とする海の幸、秋には山ブドウにキノコ、冬にはタラが水揚げされるなど一年通して、美味しいものをいただける。
積丹町の海岸は約42kmある。切り立った断崖、面白い形の岩もたくさんあり“神威岬”の景観は絶景である。(写真8)

神威岬は、ニセコ積丹小樽海岸国定公園に属しており人気の観光スポットだ。岬に遊歩道が整備され、先の方まで歩いていくことができる。カムイとは、アイヌ語で「神」を意味する。
(写真9)は黄金岬の積丹ブルーの海。かつて鰊の見張り台でもあったこの岬は、夕陽に映し出された群来が黄金のように輝きながら岸をめがけて押し寄せてきたことから「黄金岬」と呼ばれるようになった。



第一章 鰊漁の世界
(1)北海道と鰊
鰊はアイヌ民族によって昔から捕獲されていたと思われる。本州から北海道に行った和人が鰊漁をし始めたのも江戸時代以前にまでさかのぼる。江戸時代には北海道の産物として鰊製品が注目され、北前船の航路の整備、また網の改良によって幕末にかけて漁獲量は大幅に伸びた。北海道全体の漁獲量は江戸時代から明治30年頃まで高い水準を維持した。明治から大正にかけてが、鰊漁が最も盛んであった。漁期中の3月から5月は雇いの漁夫や手伝いに来る人々で集落には人が一挙に増え、浜では鰊の加工や運搬が行われ、もの売りもいて、お祭りのように活気付いていたという。
江戸時代以降の北海道沿岸部の発展を支えてきた鰊であったが明治時代末頃から漁獲が全くない地域も見られるようになる。その傾向は道南の方から表れ、だんだん北上していき、昭和の始め頃には豊漁で有名な地帯の積丹でも凶漁となるところがあった。それからの漁獲高には波があり、昭和30年頃には漁獲が途絶えてしまった。

2)旧余市福原漁場
福原魚場とは、余市町浜中町に幕末から定住し、鰊漁を行っていた福原家が所有していた建物群。
海岸に面した主屋を中心に、文書庫、米味噌倉、網倉、便所、物置小屋等が残っており建物の周囲は鰊粕等を干すための干し場となっている。鰊漁がどのように行われていたのか、鰊漁を行っていた人々がどのような生活を送っていたのか知ることができ、それを実際に肌で感じることができる。
明治時代といえば、豊漁だったころのはずである。にもかかわらず、この屋敷の持ち主はどんどん替わっている。(写真10、写真11)このことから、いくら明治時代から大正時代に鰊が良く獲れていたとは言え、やはり全く鰊が来ない年もあり、大金を掛けて漁夫を雇い、漁具を準備する親方にとって鰊漁はある意味賭けであったことが伺える。


また、鰊が来なかった場合に備え、この福原漁場の最後の所有者である川内氏は農業も行っていた。(写真12、写真13)

(3)鰊漁の方法
北海道の後志地方において、明治から大正にかけては江戸時代から続いていた鰊漁がもっとも盛んに行われていた時期であった。大正時代の鰊漁は3月末頃から始まる。まず、前年の年末に東方地方などからやってくるヤン衆たちは契約を済ませる。そこで給料の9割を前金として前払いされ、ヤン衆たちは正月を迎える。そして、漁が始まる1ヶ月ほど前(2月頃)になると、ヤン衆たちは夜具や土産を持って各自の漁場にやってくる。
到着後に軽い酒席が設けられたあと、すぐに準備が始まる。皆で力を合わせ、まず船倉から大きな船を搬出する。また山仕事として道具などに使用する木材の切り出しを行い、海岸では船が入るあたりの石を除けたり、浜慣らし、漁具の点検もした。その後、網を海中で固定するための土俵を設置し、一通りの準備は完了する。
これが終わると豊漁を誓う、漁場で一番大きな宴会が開かれる。
そして、土俵、網の固定が終わった現場に網が実際に入れられ、後は鰊が網にかかるのを待つこととなる。
海では枠船に船頭と数名、起船には漁夫が20名弱乗り込み仮眠や食事を取りつつ、待機する。鰊が来るのは夜中から早朝にかけてであった。鰊が網にかかると、船頭は網を閉じる頃合を判断し、起船の方に合図を送る。起船の方で待機していた漁夫たちは一斉に網を手繰り寄せて鰊を枠船の方に追い込む。追い込まれた鰊は海中にぶら下がっている枠網に落としこまれる。その鰊を、船頭のほかに10名ほどの汲船に乗っている漁夫たちが大きなタモ網ですくい上げていた。この作業をするときに唄われていたのがソーラン節である。(写真14)

鰊漁の漁法は北海道が蝦夷地であったときから、全盛期に至るまで漁網の発明や改良を繰り返し発達していった。
蝦夷地における鰊漁はタモ網漁で、海から寄せてくる鰊をすくうという簡単な方法だった。その頃の鰊はタモで簡単にすくえるほど群来ていた。本州の人間が鰊漁業に携わるようになってからは刺網、笊(ざる)網、行成網、建網と改良され使用されてきた。

(4)鰊の用途
鰊は他の魚とは違い、食べる以外に作物の肥料としても利用されていた。鰊漁業最盛期には全体の80%以上を肥料が占めており、中でも締粕が大部分を占めていた。締粕とは、鰊を煮て圧搾し、油をとったあと乾燥させたもののこと。窒素や燐を多く含み、魚肥として使用される。
それらは、例えば、岡山の綿や麦、徳島の藍、愛媛のさつまいも、和歌山のみかんなどの肥料として北前船で全国に運ばれていた。鰊の主な用途は長い間、肥料であったが、大正末期頃からは次第に身欠鰊、数の子等、食料としての需要が増加し、太平洋戦争、そして戦後の食糧難の時代には食料としての需要が肥料としての需要を上回るようになっていった。(写真15、16)

第二章 消えた鰊
(1)原因不明の鰊不漁
後志地方において鰊は明治から大正の時代にかけて大漁の時代が続いていた。けれども鰊漁は網を張って鰊がくるのを待つ、という全て鰊任せの漁法であるからその漁獲高は不安定なものであった。後志地方の鰊漁は明治27年(1894年)の大豊漁以降、好漁、不漁を繰り返しつつ次第にその漁獲高は減少していった。落ち込みはその後も続き、今では「幻の魚」となってしまった。その原因にはさまざまな説がある。海水温の変化や乱獲、などと言われているが、はっきりとした理由は不明である。

(2)まちの衰退
鰊の漁獲高の減少とともに、鰊漁に支えられ発展してきたまちは元気が無くなった。大正から昭和にかけての漁獲高の減少や、世間の不況により、漁家が銀行からの借金を返せなくなる事態が発生した。道庁や銀行が調整に乗り出し、手を打ったものの、肝心な漁獲高が増えることはなかったため上手くいくことはなかった。
まちの衰退は人口統計からも見てとれる。後志地方の各町村は鰊の最大漁獲高を誇っていた年代の前後に最大人口を記録している。また、人口の減少の背景には間違いなく鰊が獲れなくなったことが関係しており、いかに鰊がまちの盛衰に影響を与えているかが分かる。

(3)余市積丹の現在
余市町では現在、鰊に代わり、えび、いか、かれい漁などが盛んに行われている。
また第一章に記したように果樹の栽培が明治初期から試みられた結果、リンゴ、ブドウ,梨などの生産では全道一を誇っている。身欠きニシンや燻製など各種の水産加工製品が産業として盛んであり、他にも余市の気候は非常に醸造業に向いていることからワインやウィスキーも盛んに作られている。
そして、鰊が来なくなったことに伴って廃れていくソーラン節の普及、そして継承、まちの振興を祈願し正調ソーラン沖揚音頭保存会によって「北海ソーラン祭り」が毎年開かれている。
実際初めて訪れてみて、余市は非常にのんびりしていて魅力的なまちであったし観光地としてまち全体が力を入れているように思われた。ソーラン節発祥之地碑の建立も観光事業の一環と言えるだろう。
積丹町では現在、ほっけ、いか、あわび、うになど日本海の幸が陸揚げされる。私が訪れたときは鮭が水揚げされていた。釣り好きの人々の間でも人気の場所となっているそうだ。
積丹町でも、まちの振興、観光事業に力を入れているように感じられた。積丹町で、毎年6月に開かれる積丹ソーラン味覚祭りでは、鰊漁について高らかに唄いあげる積丹町鰊場音頭が披露されるそうだ。またその祭りでは積丹町ならではの海の幸が楽しめたり、YOSAKOIソーランの舞が楽しめる。積丹町では夏から秋にかけイベントが盛りだくさんで非常に活気付いている。私が積丹町で感動したのは、水中展望船だ。水中展望船では、船底から海の中を覗くことができ、動く水族館のようで感動したし、船の上に上がれば綺麗なエメラルドグリーンの海の色を見ることが出来る。カモメへの餌やりもでき非常に良い思い出が出来た。
また、私が積丹町でお話を伺うことができた方は、積丹町の鰊場としての歴史や伝統を継承し、まちを活性化さそうとする取り組みを行う、「ヤン衆小道」づくりに参加されている方で、その拠点となるであろう、改築されている最中の鰊漁最盛期の木造建造物「旧ヤマシメ邸」も見せていただいた。
肝心の鰊については、石狩湾周辺の鰊の漁獲高が平成9年(1997年)以降急増していたり、平成21年(2009年)には余市でも群来たそうだ。今後、鰊の動向に注目したいところだ。

第三章「ソーラン節発祥之地」はどこか?
(1)どちらが発祥の地か
北海道には、ソーラン節発祥の地の記念として建立された碑が二つある。どちらにも建立された理由はちゃんとある。
余市町に場合、石碑の裏面にこんな文章が刻まれている。
安政2年鰊枠網漁法発明され鰊沖揚げに合わせて唄われる民謡としてソーラン節この地に生まるユナイ場所キロクバッコ口伝」
ユナイというのは豊浜地区のこと、キロクバッコというのはこの話を伝えたとされるアイヌのおばあさんのことだそうだ。余市の豊浜辺りに住んでいたアイヌのおばあさんによる、枠網が発明されそれを使うときにソーラン節が唄われ始めた、という話からこの石碑が作られたのだそうだ。けれども、この話は本当かどうか疑わしく、実際このおばあさんが本当に存在したかも謎であるらしく真偽の程は定かではない。
積丹町の場合、明治18年(1885年)、鰊漁に使われる網がそれまで行成網だったのを、積丹の斉藤彦三郎がすでに鮭漁では使われていた角網に試しに変えて使ってみたところ大成功であったため、積丹町をソーラン節の発祥の地として石碑を建立したのだそうだ。ちなみに、ソーラン節は角網が使われ始めたときに唄われ始めたわけではない。行成網を使用していたときには既に唄われていたと思われ、大きな網を使用したときからであると考えると笊網使用のときから唄われていたと思われる。

(2)真実の発祥の地とは
ソーラン節の発祥地はここだ、と言えるような場所は存在しない。後志地方において、どことなく生まれたのだろう。だから、2つの碑は正しいとも正しくないとも言える。

(3)発祥の地の利用
碑は余市町のものが先に建てられた。それを見た積丹町は「本家は積丹町」だとして余市町を追って積丹町に建てた。私は、余市町積丹町それぞれで、それぞれ碑に詳しい方にお会いすることができ、互いのまちが、もうひとつのまちの碑についてどう思っているのか気になったが、どちらの方ももう一つの碑を貶したりされることはなかった。むしろ、お話を伺っていると協力し合って地方の振興を目指しておられるように思えた。余市町でも積丹町でも、ソーラン節発祥の碑はまちおこしのために建てられたのだろう。どちらのまちも、以前のように毎年来るわけではない鰊を今でもしっかりと観光資源として“利用”し、まちおこしに役立てている。鰊によって栄え鰊のせいで衰退し、そしてまたその鰊を利用して再び地域の振興を計る余市町積丹町。鰊、また鰊漁によって生まれたソーラン節は鰊漁が廃れた今でもこの地域にとって大切な資源なのだ。

謝辞
本稿の調査にあたっては小樽市立博物館の石川直章先生、よいち水産博物館の乾芳宏先生、浅野敏昭先生、積丹町美国在住の成田静宏氏の多大なご協力を賜りました。ここに記して感謝申し上げます。

文献一覧
前田 克己
1983 『余市の石碑(改訂版)』 余市教育委員会
余市水産博物館
1995 『鰊』 余市水産博物館
よいち水産博物館
2001 「第27回特別展 『鯡が群来たころ』 に際して作られた展示解説書」 よいち水産博物館
余市水産博物館
2002 『余市水産博物館研究報告書 第5号』 余市水産博物館
余市水産博物館
2007 「余市水産博物館特別展図録 『海山川の記憶−地図と写真に刻まれたふるさと−』」 余市水産博物館
特定非営利活動法人 歴史文化研究所
2005 『後志学 後志鰊街道』、後志鰊街道普及実行委員会
特定非営利活動法人 歴史文化研究所
2006 『おたる案内人 小樽観光大学校 検定試験公式テキストブック』 小樽観光大学校

http://www.town.yoichi.hokkaido.jp/sagyou/syoukai.html
http://www.kanko-shakotan.jp/gaiyou.html
http://www.geocities.jp/nishinsobagoten/page005.html
http://www.bunka.go.jp/1hogo/shoukai/main.asp%7B0fl=show&id=1000000866&clc=1000000153&cmc=1000000171&cli=1000000221&cmi=1000000833%7B9.html
http://www7.ocn.ne.jp/~rukankou/00kankouchi/03ougonnmisaki/01.html
http://www.pref.hokkaido.jp/kseikatu/ks-bsbsk/bunkashigen/parts/10269.html
http://www.hamanasu.or.jp/news_detail.shtml?topicsKey=1231115268

小樽と地酒

小樽と地酒
〜なぜ、小樽で酒造業は栄えたのか〜
      日野 秀哉

はじめに

小樽は多様な地場産業に支えられて成長してきた都市である。特に、硝子産業や水産加工業そして菓子産業などは今でも小樽を代表する主要な地場産業となっている1)。これらの小樽を代表する地場産業を支えているのは、良質なまたは豊富な「水」の存在が実に大きい。例えば、ゴムや硝子産業においては冷却水として。水産加工では洗浄水として。菓子産業などの食品に関しては商品用として。それぞれ小樽の「水」が用いられている。また、小樽の水のおいしさは、水道局が2005年より「小樽の水」(写真1)
として発売していることからもその自信がうかがえる。中でも小樽の「酒造業」に関してはこの小樽の良質な「水」と密接な関係があり、小樽の地で酒造業が発展した大きな理由となっている。
本論では小樽に現存している「北の誉酒造」「田中酒造」「雪の花酒造」「わたなべ酒造」での聞き取り調査の結果を中心に、なぜ小樽で酒造業が栄えたのかについて論じる。

第1章 小樽における酒造りの歴史

酒造りには、その立地条件として①寒冷な気候であること②清らかな水があること③良質な酒米があること④杜氏などの酒造りに必要な人材がいることなどがあげられる。
小樽はこれらの条件をすべて満たしており、酒造りに非常に適した環境にあるといえる。
 また小樽の酒造りの歴史を追うと、これらの環境の要因以外にも小樽という街だからこそ酒造りが栄え、地場産業として発展していった理由が隠されていることがわかった。
それはかつて(または今も)小樽が北海道の人や物資の玄関口であったことから、それに伴って小樽の街が「商都」として栄えていったという理由からである。
 本章ではこの理由を中心に、小樽における酒造りの歴史を考察していく。
 小樽は今もそうであるが、昔から多くの船が行きかう港町であった。明治以前から北前船の寄港地として、内地に鰊かすや海産物などの物資が出荷され、内地からは衣類や塩などの生活物資を運んできていた。2)そのため全国各地の商人が商機をねらい、特に加賀や越後出身の商人が多く小樽に集まってきた。また、明治以降は北海道の開発のために開拓使が派遣され、港町である小樽を拠点に人や物資がどんどん入ってくるようになった。
 そのような時代背景の中で、実は北海道では明治以前、酒造りはほとんど行われていなかった。酒は北前船で運ばれてくる灘の酒などを中心に内地からの輸入に頼っていたのである。そのため、その酒を口にすることができたのは上流層のみであり、とても庶民が手をだせるようなものではない高級品という認識であった。
 よって、人や物資がどんどん流入して人口が増え、自然と酒に対する需要が出てくる中で安価ではない酒を庶民が口にすることはほとんどできなかった。
 そこで、北の誉酒造の創業者である野口吉次郎氏が「この北海道の地で質の良い、みんなに喜んでもらえるお酒を作りたい。」3)との思いから、明治34年に酒造を開始したことが小樽の酒造業の始まりとなった。吉次郎は1856年加賀の生まれ。明治19年に小樽の地に商機を求めてやってきた商人の一人である。吉次郎は小樽で庶民たちが酒を気軽に飲めるように、かつて自身が学んだ醤油や味噌の醸造の技術を応用3)して、
また水は天狗山の伏流水を用いて酒造りを開始した。そうして作った酒は大成功を収め、今まで高価で庶民には手が出なかった酒は小樽の人々に受け入れられて飲まれるようになった。「北の誉」の社名には「この北の大地北海道でみんなに褒め称えられるお酒を作りたい。」3)という創業者吉次郎の意志が込められており、その意志は現在も継承されている。
 それ以後小樽には田中酒造、わたなべ酒造、雪の花酒造が創業し、それぞれの酒造が現在も小樽の地を拠点に営業している。
 このように小樽で酒造業の歴史が幕を開いた要因は、ただ小樽の地に「寒冷な気候」「清らかな水」「良質な酒米」「酒造りに必要な人材」といった酒造りに必要な要素がそろっていたことだけではなく、小樽が非常に多くの人や物が行きかう北海道の玄関口であった。そして、その小樽に酒に対する需要が生まれたことも重要な要因であり、小樽で酒造業が栄えた一因ともいえるのである。

第2章 水と酒造りの関わり

(1)勝納川と酒造り

 酒造りにおいて重要な要素は前に挙げた通り、「寒冷な気候」や「清らかな水」など様々な要素があるが、小樽において酒造りが適していた最大の理由は「清らかな水」が豊富にあったことだといえる。特に小樽の酒造りにおいては南北に流れる「勝納川」との関わりが重要である。(写真2)
小樽市の地図を見るとよくわかるが、この勝納川流域にはゴム工場や製薬会社などの水を大量に必要とする会社が多く点在していることがわかる。もちろん多くの、そして「きれいな水」を必要とする酒造会社もこの勝納川流域に多く点在していることがわかる。その目的は「天狗山から流れる伏流水」を用いて酒造りを行うからである。この伏流水は、冬に積もった雪が長い時間をかけて地中に浸透し、ゆっくりと酒造りに適した水へと磨きあげられる。ただ、ここでいう酒に適した水とは単に「おいしい水」であればよいということではなくて、程よくカルシウムやカリウムなどの有機物が溶け込んだ「きれいな水」のことである。また、北の誉酒造と田中酒造はこの伏流水を地元小樽の市民にも味わってもらおうと、それぞれ伏流水の取水場をもうけている。(写真3)
ここからも各酒造会社の「水」に対する自身の表れがうかがえる。この伏流水は酒造りの「きれいな水」の基準を楽々クリアしており、軟水〜中硬水の性質をもっている。このような水は、特に辛口のキリッとした味わいの酒を作るのに適している。
 そのため、かつて勝納川流域には多数の酒蔵が軒を連ね「酒造銀座」4)と呼ばれるほどであったそうだ。現在はわたなべ酒造以外の、北の誉酒造・田中酒造・雪の花酒造が勝納川流域に蔵をかまえるだけとなってしまったが、かつて「酒造銀座」(写真4)
と形容されるほど酒蔵があったことから勝納川と酒造りの関わりが非常に重要であることがわかる。

(2)原材料としての水

「水」の良さは酒の出来を大きく左右する。なぜなら日本酒造りは原材料が大きく分けて米と水しかないため、それだけに水の質は酒の出来を大きく左右するのである。
酒造りに適した水の条件は簡単に述べると「マグネシウムカリウム、リン酸などのミネラルが程良く溶けており、大腸菌や鉄分などの酒造りの敵となる成分を含んでいない水質」である。ここで重要なのは後の大腸菌や鉄分を含んでいないという点である。
各酒造会社の方に聞き取り調査を行っていく中で、水が「おいしい」よりも水が「きれい」であることが重要であると強調される会社が多かった。つまり、鉄分を多く含む水を用いて酒造りをすると酒の色が悪くなるし、大腸菌が多いと衛生面でよろしくない。
「名水どころに名酒あり」5)と言われるが、この意味はただ「おいしい」水がそこにあればいい酒が生まれるのではなくて、酒造りの特殊な条件に見合った「きれいな」水がそこにあることでいい酒が生まれるということだとわかる。その酒造りの特殊な条件に見合った「きれいな」水があってはじめて、酒造りの一つの条件が満たされ、その各地の酒造りに適した名水にあわせた酒造りが各酒蔵でそれぞれ行われる。そして、その違いが各酒造会社の特徴となり人々に飲まれていくのである。
 そういった意味で原材料としての小樽の伏流水は酒造りに重要な一つの要素となっているのである。

(3)工業用水としての水

 原材料としての「水」が酒造りにおいて重要なことはもちろんだが、それ以外の酒造りのプロセスにおいて用いられる「水」も見逃してはいけない重要な要素である。
前に酒造りには「きれいで、豊富な水」の存在が必要な要素であると述べたが、この工業用水としての水で重要なのはきれいな水が「豊富」にあるということである。
なぜなら、日本酒は商品として出荷するまでに様々な工程で大量の水を消費し使うからである。酒造りの過程においては「洗米」や「蒸米」において特に多くの水が用いられる。「洗米」においては米のぬかやゴミを取り除くために「きれいな水」が大量に必要であるし、「蒸米」においては米の重量に対して何倍もの「きれいな水」が必要である。
 またそれ以外にも酒造りに用いられる機械や布、樽などの洗浄の際にもこの「きれいな水」は大量に必要となる。酒造りに用いられる樽(写真5)
は非常に大きなものであるので、それを洗浄するだけでも大量の水が必要なのだ。
 もちろん、「原材料として」の水も重要ではあるが、このような「工業用として」の水も同様に重要である。そういった意味では水がきれいであるだけではなく、そのきれいな水が大量に確保できるという小樽ならではの特徴が小樽の酒造りを大きく支えているともいうことができる。

第3章 小樽の酒蔵―4社の比較

 現在小樽を拠点にしている「北の誉酒造」・「田中酒造」・「わたなべ酒造」(写真6)
「雪の花酒造」(写真7)
の各社員の方に共通の以下の質問事項についてインタビューを実施。その違いから4社の比較を考察していく。また、()内はインタビューに応じてくださった方である。
①酒造において「水」がいいとは具体的にどういったことを指すのか?
②出来上がった酒は、主にどこに出荷されるのか?
③「水」以外で酒造りにおいて重要な「米」は、どこから調達しているのか?
④酒造りの造り手は主にどのような方が担っているのか?

(1)北の誉酒造(木村さん)

①水は酒の味を変える。酒造において「水」がいいとは、原材料としてはカルシウムやカリウムなどの有機物がほどよく溶け込んでいることが重要。そこで取れる水に合わせて酒の造り方も変わる。工業用の水としては、酒造りは洗米や蒸米のプロセスで大量の水が必要となってくる。トータルすると酒造りには「きれいな水が大量に確保できること」・「酒造りに適した有機物を含んだ水が確保できること」の2つの条件を満たしていることが重要である。
②かつては創業者野口吉次郎氏の意志を反映し、地元小樽で愛される日本酒のブランドを目指す。その後、昭和40年代には東京にも支社ができ日本各地で飲まれるようになってきた。現在では地元北海道で消費される割合と他の地域で消費される割合は3:1の割合となっている。地域に愛されるブランドを基本方針としてかかげつつ、日本や世界で愛飲される日本酒のメーカーを目指していると木村さんは語ってくれた。
③寒冷地である北海道では、基本的に酒に適した米作りには適していない。そのため、3~5年前までは新潟や東北でとれる山田錦などの酒造好適米を用いて酒造りが行われていた。しかし、最近では北海道でも酒造好適米がとれるようになり、道産の米も酒造りに使用している。
④平成17年までは南部杜氏6)の方が酒造りを担当。平成17年以後は社員の方が酒造りを主に担当している。また、現在でも余市の農業労働者の方が冬に10人ほど手伝いに来られる。

(2)田中酒造(高野さん・寺尾さん)
  
①酒造において「水」がいいとは、原材料としては品質はもちろんのこと、まず大腸菌や鉄分を含まない「きれいな」水であることが重要。また、工業用としては特に洗米や蒸米の際に大量の水を用いる。水は原材料、工業用共に重要であるが、水が大量に確保できてもそれだけでは意味がない。そういった意味では小樽の水は原材料としての水に大きく貢献していると寺尾さんは語ってくれた。
②昔から現在も、ずっと地元小樽で愛されるメーカーを目指し「地産地消」のスタイルをとっている。道内とそれ以外の地域で消費される割合は9:1である。
③10年ほど前までは主に新潟産の米を用いて酒造りを行う。それ以降は道内産の「初雫」や「吟風」などの道内産酒造好適米7)を用いて酒造りを行っている。
④かつては南部杜氏の方が冬に北海道にやってきて酒造りを行う。しかし、現在では社員の方が中心となって酒造りを行っている。いわゆる昔ながらの杜氏と呼ばれる人は現在ではいない。

(3)雪の花酒造(池田さん)

①「水」がいいことはもちろん酒造にとって重要であるが、水以上に作り手にこだわりていねいな酒造りを心がけている。その中で酒造にとっていい「水」とはマグネシウムやカルシウムが溶け込んだ水のこと。酒蔵がかつて何軒も勝納川沿いにあったのも水が酒造りに適していたことによると池田さんは語ってくれた。
②地元小樽に愛されるメーカーを目指し、「地産地消」のスタイルをとっている。
地元小樽・道内・それ以外の地域で消費される割合は7:2:1となっている。
③かつてはほとんど道内産のものは酒造りに用いられていなかった。しかし、現在では道内産の酒米がほぼ100パーセント使われている。これは道内で「吟風」などの酒造好適米が登場したことによる。
④15年ほど前から、製造部長の方が杜氏の役割を果たしている。

(4)わたなべ酒造(酒井さん)

①「水」の品質がいいことはもちろん重要ではあるが、それ以上に「気候」が重要であると考えている。気候が寒冷であり、空気がきれいであることが重要だそう。そういった意味でも小樽は酒造りに適している。
②昔から現在まで、札幌や小樽を含む後志地区で100パーセント消費されている。
③現在では2割程度を道産米、8割程度を山形や秋田産の米を使っている。
④現在ではいわゆる昔ながらの杜氏と呼ばれる方は酒造りをしてはいない。

4、まとめ

 このように小樽の酒造りは、酒造りに適した「水」が豊富にあったことや「小樽」が人や物資が非常に多く集まってくる場所であったことの2点が大きな役割を果たしてきたことがわかった。しかし、この小樽の酒造メーカーに聞き取り調査をおこなっていく中である共通した返答が返ってきた。それは「飲まれる酒の種類全体に対して、日本酒に占める割合が低くなってきている。」ということである。つまり日本酒に対する需要が相対的に低くなってきているのだ。さらに、近年小樽を拠点に「ビール」や「ワイン」を扱うメーカーが登場8)したことにより、小樽の日本酒をとりまく環境はさらに厳しいものとなっている。
 そこで、各酒造メーカーでは日本酒への関心を引き付けるために、他社と様々な差別化をはかり、独特の取り組みを進めている。この各社の取り組みを以下にまとめる。
 北の誉酒造では、日本酒造りは技術的に画一化されているため、①道内産にこだわった日本酒造り②日本酒だけではなく焼酎やにごり酒をつくるなどで他社と差別化を図っている。
 田中酒造では、①日本酒以外に焼酎・リキュール・どぶろくなどの酒造の免許を取得して様々な種類の酒造りを行う②なめらかさのある味わいの酒造りをすすめるなどで他社と差別化を図っている。
 雪の花酒造では、①webページで「ひとしずく」というタイトルの酒造りに関する漫画を公開し、若者に日本酒に関心を持ってもらう②他社にはない超辛口の日本酒造りをするなどで他社と差別化を図っている。
 わたなべ酒造では、①日本酒のネーミングを工夫して、通常「鬼ころし」と呼ばれる辛口の酒を「熊古露里」とネーミングする。また「小樽の女」「おたる運河」など地元小樽を意識したネーミングの日本酒を多くするなどして他社と差別化を図っている。
 このように各社は積極的に地元「小樽の地酒」をアピールしている。これからもこの名水を用いた酒造りが、小樽から日本全体や世界に発信して、広く愛されることを目指し取り組んでいけば素晴らしいと思う。そして、この素晴らしい小樽の酒造りの環境を生かし、酒造業が小樽でますます栄えていくことを願い本論のまとめとする。
 
また、この論文を執筆するにあたって、小樽の各酒造会社のインタビューを受けてくださった方々、小樽市立博物館の佐々木美香先生の多大なご協力を賜りました。ここに記して感謝申し上げます。

1)ここでいう地場産業は『おたる案内人』(2005年 小樽観光大学校)を参照。
2)北前船とは、江戸時代から明治にかけて畿内蝦夷を結んでいた物流の船である。小樽からは多くの鰊かすが畿内へ運ばれ巨万の富を得た。
3)この記述に関しては、北の誉酒泉館ホームページ(http://syusenkan.kitanohomare.com/北の誉の誕生を参照。
4)この記述に関しては、雪の花酒造ホームページ(http://yukinohana-otaru.com/index.html)の会社案内を参照。
5)この記述に関しては(http://www.sgm.co.jp/life/syoku/cat378/cat239/)を参照。
6)南部杜氏とは、現在の岩手県を中心とする杜氏集団の一つ。他に但馬杜氏(兵庫)越後杜氏(新潟)などが代表的な杜氏集団としてあげられる。
7)近年北海道でも「吟風」「初雫」「彗星」などの酒米が登場した。酒造好適米とは酒造に適した酒米という意味である。
8)昭和49年に北海道ワイン株式会社が小樽に開業。平成7年には小樽ビールの工場が銭函に開業する。

文献一覧

小樽観光大学校
 2005  『おたる案内人』小樽観光大学校運営委員会
道新スポーツ
 1997  『北の美酒めぐり』 北海道新聞
穂積忠彦
 1995  『日本酒のすべてがわかる本』 健友館
小樽市教育委員会
 1994  『小樽市の歴史的建造物』
読売新聞社
 1982  『地酒の旅』

「桜町」と「堺町」

「桜町」と「堺町」
渡邉 那奈

はじめに

 「小樽」と聞くと何を思い浮かべるであろう。運河、ルタオ、倉庫群。今や観光地と化した小樽であるが、昔はニシンの漁が盛んで、北前船の往来により栄えていた時代もあった。時代をさかのぼれば、小樽の歴史的背景が見えてくる。小樽の中においても、さらに細かく分析していけば、ある地域内だけで起っている事柄が隠されていることがわかる。このことを踏まえ、「人々の住む小樽」という視点と、「観光地としての小樽」という二つの視点から小樽を分析していきたい。
 第1部では、JR函館本線小樽築港駅周辺の桜地区のまちの姿をみていく。桜町にはロータリーが整備されているが、一体なぜなのか。この町がどのようにつくられていき、現在のまちの姿になったのかまでを探る。
 第2部では、現在観光地として栄える堺町、堺町通りについて詳しく掘り下げる。堺町には、小樽港として栄えた戦前と、戦後の衰退、運河保護運動に関連した堺町通りの再出発など、短い期間に多くの歴史が詰まっていた。これらを時代の流れに沿ってみていく。

第1部 「桜町」

1.野口喜一郎と東小樽土地区画整理組合

 まず、桜町がどのようにつくられたまちであるかを、桜町の創立と深く関連している野口喜一郎及び小樽土地区画整理組合の活躍に触れながら説明していきたい。
 桜町として発足する以前、付近一帯は朝里村大字熊唯村地内であった。


この地域は小樽市と札幌市の間という位置であり、札幌への連絡通路である国道が通っていた。しかし、国道と言っても当時は平磯岬を迂回して到達するといったものであった。地域一帯も山手は沢地、海岸付近は漁業関係に従事していた。
 そのような中、札幌国道の大改修工事が昭和6年に始まった。それを機に、平磯隧道の施工も約束され、小樽の発展においてこの地に目が向けられるようになったのである。
 ここでこの熊唯に関心を寄せたのが野口喜一郎であった。「北の誉酒造」2代目である野口喜一郎氏は、この熊唯に多大の関心を寄せた。知友の河村岩吉氏とこの地域の開発を企てたのである。彼は一台住宅地にしたいと考え、東小樽土地株式会社を設立し、土地の買収を始めた。しかし、この話を聞いた住民たちが、土地の値上がりを予想し次第に売らなくなったため、一度この計画は失敗に終わる。
 この計画の挫折した経緯が道庁に伝わり、道都市計画課長である清水武夫氏が、土地所有者たちの協力に基づく土地区画整理の理論を提案した。野口氏はこの計画に共鳴し、土地区画整理を推進することを約束した。
 清水氏はこの沢の属する朝里村地域の主な人達に区画整理について説明し、市街地としての開発をPRした。地域はこの計画に好意を寄せ、全面的協力を快諾した。朝里村村会は、予定準備期間4カ月の経費を援助する方向に決定された。それと同進行に、清水氏は地域全体の現況測量を実施し、自ら踏査しながら、公園・学校などの配置の検討も慎重に行った。最終的な計画案が出来上がったのは昭和8(1933)年の9月である。
 この計画によって、熊碓村一円約40万坪の土地区画整理事業を起こすこととなり、土地区画整理組合を発足することとなった。朝里村長の田中作平氏は、大地主である野口氏に相談した。もともと開発を企て会社組織で地域内の土地を買収している野口氏は土地区画整理組合の組合長となることに同意し、組合設立へのスタートを切った。
 田中氏は、さらに地域内の大地主に呼び掛け、いずれからも同意を得られると確信し、同都市計画地方委員会に対し、組合設立への援助を要請した。40万坪という当時としては大規模な整理事業は道内では初めてのケースであったため、この事業を盛んに実施していた岡山県と交渉し、組合設立までの準備を整えてもらうため、荒牧亀雄氏を招聘した。彼は組合設立に関する許可申請書を作成し、昭和9(1934)年3月、内務大臣あてに設立許可申請賞を提出した。同年7月に正式に許可が下りるという高速なスピードな結果は、清水氏、荒牧氏の功績の結果であるともいえる。

2.『田園都市』計画と土地区画整理事業

 桜町竣工の計画において注目される場所が「桜町ロータリー」である。

現在ロータリー交差点は日本では数少ないものとなっているが、明治から大正にかけて都心の交差点に数多く設置されていた。桜町ロータリーの竣工計画もその中に入ると考えられる。
 ロータリーが設置される経緯として、「田園都市」を挙げる。「田園都市」とは、明治31(1898)年にイギリスのエベネザー・ハワードが提唱した新しい都市の形態である。明治40(1907)年に内務省地方局有志により翻訳された『田園都市』が刊行され、この都市計画の形態が紹介された。この形態を使い都市開発を行った例として、小林一三が経営する阪急電鉄が明治44(1911)年に箕面市の桜井駅、1930年代に吹田市千里山堺市の大美野田園都市初芝など沿線周辺の宅地分譲などを行い、ロータリーを設けた「田園都市」を開発した。最近ではニュータウンの形態に「田園都市」を組み入れる場合も少なくない。
 野口氏はこの計画に目を付け、東小樽地区の区画整理を「田園都市」の形態を使った開発を進めていった。それを示すものとして、『小樽市桜町由来書誌』において、次のように書かれている。「ロータリーの造園工事については、組合長野口氏の理想を端的に生かすべくロックガーデン式に設備し、その中央部には地区内から厳選した枝振りのよい栓の大木を移植し、その周辺には、張碓神工園付近産出の焼き石を配置した。」野口氏が、特にロータリー周辺の景観に力を入れていたことが分かる。
 さらに、銀鱗荘の存在も忘れてはならない。銀鱗荘は桜町ロータリーのできた昭和13年に建設着手された。もともと余市町の猪俣漁場の邸宅として建てられたが、ニシン不漁のため手放され、後に野口氏がこれを買い取ったのである。野口氏は、東小樽地域の発展と漁場建築の枠を後世に遺すという意味で、この建物の移築を計画した。もともとの予定ではロータリー付近に設置する予定であったが、海を望む眺望の地への移築計画へと変更し、また迎賓館風に建設することとなった。なお、移転復元は大林組が請け負っている。
 なお、「桜町」という名前は昭和18(1943)年に熊碓村から改名されて付けられた名前であるが、この町名も東小樽土地区画整理組合の中で決定されている。名前の通り桜が植えられた通りもあり、「弥生通り」「吉野通り」「八重通り」といった、桜にちなんだ名がつけられている道がある。
 さて、「田園都市」を背景に区画整理を行っていった桜町であるが、上で例をあげたような都市開発の一例と比較すると、「都市開発」と言える規模ではない。しかし、『小樽市桜町由来書誌』の事業着手の記述によれば、先進諸都市の区画整理事業を視察するため、岐阜市で行われた全国土地区画整理事業者大会に組合者が出席したり、当時先進都市であった東京市内、名古屋市、宇治山田市土地区画整理事業の視察へ直接赴くといったこともあり、「当組合今後の運営に資するところ多かった」とあるように、先進都市の視察を重視していた様子が見られる。この様子から、先進都市を目指す方向性がうかがえる。ではなぜ先進都市のような発展を見せなかったのであろうか。
 原因として主に第二次世界大戦の影響があげられる。『小樽市桜町由来小誌』によると、昭和11(1936)年には整備した国道筋に土地分譲の立て看板を掲げ、パンフレットを印刷して一般に配り、宣伝にも力を入れ始め、分譲の数も増大した。しかし、昭和13(1938)年になると支奈事変の影響により、組合職員が満州に召集されるといった事柄も含め、次第に人気が薄れていく。東小樽土地区画整理組合の事業は昭和15(1940)年に完結と至るが、多くの分譲の地が残っていた。この時の金融機関の業日決済の齟齬は、組合長である野口氏が各役員の分を含めた全額を肩代わりして返済している。
 終戦後は、公布された農地法により、地区内整理地の一部が農地の形態を残していた関係上、農地法の適用を受けることとなり、宅地化されるはずであった土地の大半が再び農地として還元されてしまった。これも地域発展を阻む原因の一つでもある。
 東小樽町会の方々にお話を伺うことができたのでそちらも参照していきたい。東小樽町会会長の宮田正幸氏、前副会長の阿部利男氏、小樽さくら保育会理事長の吹田友三郎氏にお話を伺った。戦時中頃のことを伺うと、桜町周辺には住宅はほぼなく、山側である桜町には農家が多く、海側である船浜町においては漁業を行っている家も少なくなかったようである。土地区画整理事業については、都市開発というよりは、道路整理といったイメージでしかなかったようである。しかし、この整理事業によって地域の交通の利便性は格段に上がったため、野口氏の功績は町会においても称えられている。

3.住宅地化した桜町

 第二次世界大戦の影響で都市開発として一頓挫をした桜町であったが、戦後には大きく変化を遂げていく。
 昭和22(1947)年、札幌市と小樽市をつなぐ国道5号線の平磯トンネルの工事が完成する。昭和25(1950)年には市立桜小学校の新校舎が建築され、昭和26(1951)年中央バス朝里線が開通、30(1955)年に中央バス東小樽線が開通するといった公共・交通機関の整備が行われるようになる。
 急激な発展が見られたのが昭和30年代後半からである。理由としては、中央バスが桜町ロータリーまで開通したことによる。吹田氏に当時の様子を尋ねたところ、確かに昭和35(1960)年から桜に家を買う人が増え始め、昭和40年代になると急増したという。『小樽市東小樽町会 五十年のあゆみ』の中でも、元町会役員であった佐々木喜久雄氏が「昭和40年代の地域の急激な発展」を思い出として語っている。また、この住宅の急増に伴い、農家人口は激減していった。


現在の雰囲気としては、昭和後期や平成になって建てられた、同じような構造・外観を持つ家々が軒を連ねている場所が多い。

札幌市よりであるからなのか、その利便性を理由に小樽市内の住宅地として栄えているようだ。しかし、細い道路へ入っていくと昭和30〜40年代に建てられたと考えられる建物も数件あった。また、海岸地域の船浜町へ行くと、今でも船を持った家や木造建築の家が残っている。

銀鱗荘は今なお高級旅館として運営されている。


第2部 「堺町」 ―観光地化した背景―

1.堺町の成立

 小樽駅から通称「北のウォール街」を経たところに位置するのが堺町である。「堺町」という名前の由来は、オコバチ川(妙見川)が「高島場所」と「オタルナイ場所」の境界だったことからであるとされる。堺町通りは水際の道であり、明治中期に埋め立てられた。埋め立て後、堺町通りの海側に港の岸壁が設けられ、日露戦争以後、小樽経済の発展に大きく寄与した樺太航路の船が発着した。これに伴い堺町界隈には銀行や商屋が店を出し始めた。三井財閥は明治13(1880)年に三井銀行、明治16(1883)年に三井物産を小樽に進出させ、石炭の他・砂糖・綿花など様々分野で強力な支配力を持っていた。これにより、堺町通りの問屋街も大いに栄えることとなる。

2.問屋のまちから小売りのまちへ

 大正から昭和初期において繁栄を見せた堺町通りであったが、昭和に入ると今までの繁栄が札幌市へと移り変わっていった。この時代は「斜陽」とも表現される。三井物産を除いた大手商社は、昭和30年代までに出張所の機能をすべて札幌へと移行し、金融機能においても昭和45年までに同様の現象が起こった。また、札幌へ機能が移ったと同時に、小樽商人の多くも札幌へ移動し始めた。札幌へ経済の中心が移り変わったことにより、堺町界隈は衰退の道をたどることとなった。
 では、いつ頃から今のような「堺町通り」として観光地と化したのであろうか。


それは、現在堺町通りで多くの店舗を出店する「北一硝子」がカギを握っていた。

 堺町通りに位置する、「旗イトウ製作所」の代表取締役である伊藤一郎氏にお話を伺うことができた。伊藤氏は大阪で職人修行を終えた後、小樽で今の製作所を運営している。
 伊藤氏は、「北一硝子」の出店提案に協力した人物であった。その出店の仕方は、問屋街の倉庫を、テナントとして借りるというものであった。つまり、衰退した問屋街の空き倉庫を有効活用するという考えである。昭和58(1983)年、倉庫で初めての出店をした「北一硝子」であったが、この空き倉庫の転用利用は成功を収めた。要因の一つとして、昭和59(1984)年に行われた「小樽博覧会」がある。6月10日から8月26日までの78日間行われ、入場者数はのべ約168万人と、地方博としては大成功を収めた博覧会とされている。この博覧会の会場であった色内は、堺町に近く、また第2会場であった勝納町との間になるため、良好な立地から集客が見られたと思われる。
 ここで一つ注意したいのが、「北一硝子」の販売方法である。もともと問屋というものは卸売で商売を行ってきた。しかし、この「北一硝子」では小売業として営業を行う形をとった。この売り方の違いが現在の堺町通りの姿に影響を与えている。
 かつて問屋で働いていた人たちは、小売り手法を好まず、受け入れなかった。つまり、小樽商人の人々は「北一硝子」方式で新しい商店を出そうとしなかったのだ。しかし、小樽の人々も生計を立てなければならない。そこで彼らがとった策が、空き倉庫をテナントとして貸すという方法であった。
 この頃、小樽市では小樽運河の保存運動がますます盛んになり、保存運動の盛んさと「北一硝子」の成功を目にした他市、他県の人々はこれに着目するようになった。各地から小樽に商売に赴き、小樽の倉庫を借り経営するという例がうかがえる。伊藤氏の話によると、札幌、大阪、名古屋、京都といった大都市から商売に来る人も少なくなかったらしい。
 地方から小樽で商売を始めた例として興味深かったものを1つあげておきたい。それは「運河まんじゅう」である。運河まんじゅうは「運河まんじゅう本舗」の看板商品であり、店舗は入船1丁目と、堺町通りの近くに位置する。伊藤氏によると、この店舗は鳥取から商売に出向いた人が開業したとのことである。さらに、運河まんじゅうは、広島の菓子であるもみじまんじゅうの技術を使った、形を変えて作られたものであるとされる。なお、店舗の開業は昭和59(1984)年であり、運河保存運動や「北一硝子」の開業と関連するところがあるとみられる。
 小樽の有名ブランド菓子屋と発展した「ルタオ」もこの堺町通りの一角に本店を設けている。今では小樽の顔となった「ルタオ」だが、経営元の「株式会社ケイシイシイ」(本社は千歳市)の設立は平成8(1996)年と、その歴史は意外にも浅い。また、同社は「寿スピリッツ株式会社」のグループ会社であり、この会社は鳥取県に本社を構えている。堺町通りにある「可否茶館」も、小樽が本店であるものの、焙煎工場としての出発であった。初めに店舗開業が行われたのは札幌市内である。小樽の地に店舗として開設されたのは平成2年である。
 このような例から、小樽が観光地として発展した背景には、各地の商売人が深く絡んでいることが分かる。
伊藤氏によると、小樽の人々は、観光地と化す以前、まちづくりにさほど関心がなかったようである。特に問屋街で商売を営んでいた人々は、テナント貸しについて、生計を立てる手段として大家となるケースが多かった。小樽の観光地は、小樽市民だけでなく、各地の人々によってつくられたといってもよい。

おわりに

 小樽市内の全く性質の違う2つの「町」について調べた。まず、桜町の土地区画整理であるが、「田園都市」計画と知り、同計画で発展した阪急沿線のような性質を持っている町なのではないかと仮定して調べていた。しかし、実際は第2次世界大戦の影響を受けて思うように発展しなかったことがわかった。また、単なる道路整理であったという人々の声も忘れてはならない。だが、道内で初の大規模な土地区画整理として行われたという証拠が、今なお桜町ロータリーや銀鱗荘という形として残されている。堺町は今や観光地として栄えているが、倉庫が利用されている背景に、大家となった問屋街の商人と、それを借りる各地の人々の関係が隠されていた。小樽のまちを再生したまちづくりの背景として、運河保存活動と並んでこの事例が挙げられてもよいだろう。
 小樽がまちづくりをするにあたって「人々の住む小樽」と「観光地としての小樽」、どちらもが共存して成り立っていかなければならない。小樽市はこれからも「共存」にむけて様々な活動を行い続けるであろう。


謝辞

この研究をこのような形にすることが出来たのは、担当して頂いた島村恭則教授のご指導や、調査に協力していただいた東小樽町会の関係者である阿部利男さん、宮田正幸さん、吹田友三郎さん、旗イトウ製作所の伊藤一郎さんのおかげです。協力していただいた皆様へ心から感謝の気持ちと御礼を申し上げたく、謝辞にかえさせていただきます。


文献一覧

青木 由直
 2007 『小樽・石狩 秘境100選』 共同出版
朝日新聞小樽通信局編
 1989 『小樽 坂と歴史の港町』 北海道教育社
荒巻孚
 1984 『北の港町 小樽』 古今書院
小樽観光大学校
 2006 『おたる案内人』 小樽観光大学校運営委員会
小樽市東小樽町会編
 2001 『小樽市東小樽町会 五十年のあゆみ』 記念誌編集委員会
小野洋一郎
 1999 『小樽歴史探訪』 共同出版
清水武夫 
1967 『小樽市桜町由来書誌 東小樽土地区画整理組合経緯』 郷土文庫


朝日新聞社 阪急千里線」
http://www.asahi.com/kansai/travel/ensen/OSK200808300016.html
「小樽可否茶館」 http://www.kahisakan.jp/index.html
「小樽観光協会HP」 (運河まんじゅう本舗)
         http://www.otaru.gr.jp/otarudb/node/708
「小樽経済史」  http://www.mmjp.or.jp/OTARU/kyoyou/jkeiz.html
小樽市ホームページ」 (おたる坂まち散歩 長昌寺の坂と銀鱗荘)
http://www.city.otaru.hokkaido.jp/simin/koho/sakamati/1408.html
北一硝子」   http://www.kitaichiglass.co.jp/
「寿スピリッツ」 http://www.okashinet.co.jp/info/
「北海観光節」  (特別付録―北海道・博覧会の時代)
         http://www.onitoge.org/ryokou/2005banpaku/index.htm

(参考サイトはいずれも2010年1月12日アクセス)

小樽と小豆

小樽と小豆

二上 愛

第一章 小樽と小豆産業

(1)栄光とその時代

 小樽における小豆の豆撰産業の発達は、明治22年(1899年)に小樽港が特別輸出港に指定され、日本でも有数の貿易港として発展していくことと大いに関係する。小樽港で取り扱う品目は石炭、海産物、穀物、雑貨など多くの種類を移出していたが、なかでも米や小豆、大豆といった穀物が多数を占めるようになる。そのため、小樽は道内から来た産物の集積地となり、小豆を選別する工場も増えていった。
 そして、大正3年(1914年)、第一次世界大戦が勃発すると、ヨーロッパの豆主産地だったルーマニアハンガリーも戦場と化し、輸出がストップした。その影響で豆が不足し、世界的に値上がりしたとき、北海道から穀物が大量に輸出された。この時すでに、道内で取れた穀物はほとんどが小樽に集積されるようになっており、第一次世界大戦がはじまった3、4年後にあたる大正6、7年にかけて小豆の豆撰産業の最盛期を迎えることになった。
 最盛期には、現在の色内1丁目〜3丁目の運河周辺に20数件の工場が立ち並び、豆撰工場で働く女工の数が約6000人にも上ったというのだから、驚きである。確かに小樽で小豆の豆撰産業は盛んであったのだと言えよう。
 第三章で聞き取り調査から得た、当時の工場の様子や女工さんの働きを紹介しようと思う。

(2)そして衰退へ

 (1)でも述べたように、小豆の好況は華々しかったがその衰退は早い。多くの資料にもその後の動向は書かれていないが、昭和 初期頃から船舶は大型化、世界の商港は接岸荷役へと転じていたため、小樽港も大規模な工事を余儀なくされ、一時衰退する。それに伴い小樽の小豆も衰退の一途をたどる。昭和に入ると工場は減り続け、女工さんも小樽の地から離れるようになり、現在では渋沢倉庫が形を残しているのみである。
 現在では、小樽市民の方も小豆工場の繁栄を知らない人が多く、その栄光は忘れ去られてしまった印象を受けた。

第二章 活躍した「小豆商人」

小樽における穀物輸出の急激な伸びで、多くの小樽商人が莫大な富を得ることとなる。この章では、特に小豆によって活躍した人々を紹介する。

(1)高橋直

当時のロンドン相場まで揺さぶった彼の名は今でも「小豆将軍」として伝えられ、小樽の小豆を語る上で彼の存在は欠かせないであろう。
 直治は安政3年(1856年)に新潟県で生まれる。18歳で小樽にやってくると約三年間の荒物屋の店員をした後に独立し、味噌・醤油の醸造などを手掛ける。その後も精米所や小樽商会の設立、小樽新聞の出資者になるなど幅広い活躍をし、さらには明治35年(1902年)に、北海道初の衆院議員となる。
 直治は弟の喜蔵とともに、明治30年(1897年)に高橋合名会社を始め、主に米・海産物・荒物・醤油などの売買、委託などをした。さらに、委託だけにとどまらず、積み出しから輸出までをも扱うようになる。
 彼には、次代を見越す力があったのだろうか。第一次世界大戦が始まれば、ヨーロッパの穀物類が不足し、必ず価格は値上がりすると考えた。その予測をもとに、道内から13万俵という膨大な量の小豆を買占め、自分の倉庫に貯え値上がりを待った。この時の小豆の価格は一俵6、7円である。そして予測は的中し、戦火が激しくなるにつれ小豆の価格は上がり、一俵17円の高値をつけると、備えていた13万俵の小豆を一気に売りに出した。それ以来、直治は小豆将軍といわれ、ロンドン市場を揺るがす以外にも世界中の市場関係者の間で知れ渡ることとなる。
 その後も何度か衆議院議員を務め、大正15年(1926年)に生涯の幕を閉じた。

(2)板谷宮吉
 
彼は直治と同郷の新潟県出身で、後に海運王として知られるようになる。直接小豆業と関わることはなかったが、小豆将軍の直治との生涯の友であり、同業として多くの接点があったため紹介した。

(3)その他の小豆将軍

 名前などは残ることがなかったようだが、多くの小豆仲買人が富を得ることとなる。雑穀商の中心地となった堺町筋は「売った」「買った」を叫びながら、店から店へと飛びまわる。そして儲かれば、妙見町界隈の花柳町で札ビラを切る風景も見られたらしい。
 当時よほど儲かっていたことが想像できる。


第三章 「豆撰」全盛時代の話

 では小豆の豆撰産業が小樽で全盛を迎えていた時、当時の様子はどのようだったのであろう。小樽での聞き取り調査にご協力いただいた小樽市在住の北村猪之助さんと同じく小樽市在住の中ノ目定男さんの話を元に紹介していこうと思う。

(1)小豆工場の仕組み

 小樽の小豆工場と他の工場の違いはその外観である。雪が多いこの地では三角形をした屋根が多いが小豆工場の屋根は平らになっている。


 まず女工さんたちが、工場内で集積された小豆の選別を全て手作業で行い、それを麻袋に入れ、屋根に通じる梯子を登る。そしてその豆を屋根の上に天日干しにし、それが終わればもう一方の梯子から戻ってくるという流れ作業を行うために屋根は平らになっている。
 しかし屋根が平らでない工場もあり、その場合はだだっ広い外の空地までいき、天日干しの作業を行っていたそうだ。
 また、石造りの工場内は防火対策として窓が少なく、それゆえ中は薄暗く湿気が多かったようだ。
 このように、小豆工場はほかの工場とは違った特徴を見せ、工夫が凝らされていたことが分かる。

(2)女工さんの働き

 最盛期の頃、小豆工場へ吸い込まれて行く多くの女工さんを見てか、人々に小豆工場は「豆撰女学校」とも言われていた。
 女工さんたちは年齢も10代〜50代くらいとさまざまであった。
 給与体系は工場ごとに異なっていたそうだが、どのくらい悪い豆を見つけることができましたよ、あるいは良い豆をこんなにも選別しました、ということを評価基準にする請負賃金制が基本だったそうだが、それでは賃金をもらいたいがゆえに嘘の選別をする女工さんもいたそうだ。そのため、問題が起きた工場などは日給や時間給に変更するところも多くなっていた。しかし、賃金を巡っては最善の解決策がなかったようで、困ったこともあったそうだ。
 そんな豆撰産業に代表する女工さんたちも、小豆が衰退の一途をたどるのと同じように小樽を後にしていくこととなる。明確なその後の所在地は分らないが、さらに発達している町の中心部や太平洋側の地域に移ったのではないかと考えられている。

第四章 小豆の建物今・昔

 この章では、文献や聞き取り調査の結果分かった小豆に関する場所を現在ではどのように変化したのかを写真とともに紹介していきたい。

(1)小豆工場

 渋沢倉庫は第一章でも紹介したように現在唯一残る小豆倉庫である。場所は色内町の運河沿いにあり、写真のように屋根が平らで、小豆工場の特徴をはっきり残していることが分かる。第三章(1)内で示した渋澤倉庫の写真の反対側に回ってみると、お洒落な建物が今では居酒屋さんとして使われているようだ。


 次に、勝納町にある銭湯「汐の湯」は、昔豆撰であったとされている場所だ。当時の資料は残っておらず、明確ではないが銭湯の方たちに聞くと代々その話が伝わっていたというのだから、おそらくそうであろう。

(2)小豆将軍の家

 現在、小樽市歴史的建造物となっている旧寿原邸は、第二章でも紹介した高橋直治が創建者であったとされる。



明治42年の土地明細録、大正3年の土地台帳によると、土地所有者は「高橋直治」となっていたが、電話番号簿では昭和9年には寿原外吉に変わっていた。(http://www.mmjp.or.jp/OTARU/kyoyou/jr-27.htmlより)場所は東雲町の高台にあり、邸宅内の様子からも高橋直治の優雅な生活ぶりが想像できる。
 次に、同じく第二章で紹介した板谷宮吉の邸宅も、旧板谷邸として小樽市歴史的建造物となっている。和風の母屋とその北側に続く洋館は独特の雰囲気を醸し出し、高台に建つ広々とした敷地は風格がある。現在は休業中のようだが2005年に商業施設となり、母屋で日帰り入浴やエステサロン、洋館ではフレンチが楽しめるお店になっているそうだ。




まとめ

 小樽での豆撰は小樽港の繁栄とともに多くの工場や女工さんに支えられて栄えた。その栄光は数十年という短い期間だったが、今回の調査を行い、たしかに存在していたことを確認することができた。しかし文献を調べたり、小樽に行きフィールド調査を進めていく中で、現在小樽に住む人々にはあまり知られていないことであったように感じた。
 今回調査するにあたって、小豆産業の繁栄という今から約80数年前の事実を掘り起こすことは本当に困難なことであると実感した。この調査で得たフィールドワークの方法は今後活かしていきたい。そして、このリポートによって小樽の小豆産業の栄光が少しでも色褪せてしまわない事を願う。

謝辞
本稿の調査にあたっては、小樽市在住の北村猪之助氏、中ノ目定男氏、小樽市立博物館の石川直章先生、佐々木美香先生に多くのご協力を賜りました。ここに記して感謝を申し上げます。

文献一覧

小樽市
 1981 『小樽市史 第二巻小』図書刊行会。

合田一道
 2004 『目で見る小樽・後志の100年』郷土出版会。

小樽商工会議所HP
http://www.otarucci.jp/

北海道中央タクシーHP
http://www.chuo-taxi.jp/feature_articles4.html(小樽の歴史)

「火災都市」小樽と「ブン公」伝説

「火災都市」小樽と「ブン公」伝説
今北 有美

はじめに

小樽と聞いて我々が思い浮かべるのは小樽運河とそれに並ぶレトロな石造りの倉庫である。今では小樽観光において外すことのできない大きな目玉となっている。しかし、倉庫は当初から観光が目的で建てられていたわけではない。もちろん運搬する物資を保管しておくために造られたのだが、石造りである必要はないだろう。小樽の倉庫は火災から物資を守るためにあのように石造りになっているのである。火災というキーワードを調べていると、「ブン公」という犬の存在が明らかになった。そこで火災にまつわる人々の記憶や、文化に小樽らしい特徴がみられるので火災という視点から小樽を見てみる事にする。

第1章「火災都市」小樽

1.小樽の大火

 まず、明治時代に小樽で発生し、被害が100戸以上のものを(図1)で示した。

明治13年から44年の31年間の間に19回も大火が発生している。大火の数が函館と小樽で全国1、2を占めた時期も存在した。
なぜこのように大火が多い町なのか。その原因は複数存在している。
まず、明治28年まで、小樽は電気が引かれていなかった。灯りはすべて蝋燭やランプという火を使用。もちろん炊事も現在使われるような電気炊飯器ではなく竈である。日常生活で火種となるものが毎日使われていたのであるから当然といえよう。
 しかし、それだけが原因で大火になるはずもない。大火となる原因としては小樽の特徴が表れている。
明治から大正にかけて小樽、札幌では急激に人口が増加していた。(図2)

この原因には両者とも開拓の起点となった町だったことが挙げられる。人口が急激に増加すると共に人家も増加する。だが、小樽は前に海、背後に山が迫っている土地だったために人家が密集してしまった。また急遽こしらえた家屋の構造は粗末なものであることが多く、その結果一度火事が起きると炎は瞬く間に燃え広がってしまうこととなった。これが大火になりやすい原因のひとつである。
そして道幅が狭く、坂が多いために水の便が悪かったことも火が大きくなる原因となった。今のように消防車もない時代には木製の手動ポンプ、(図3・4)もしくは木桶による鎮火という地道な作業しか火を食い止める方法がなかったというのもあげられるだろう。
 
2.防火都市への変貌

 道内において重要な位置を占める小樽は、一度火災が起きると甚大な被害を出してしまう構造であった。この火災被害を防ぐため、小樽では防火対策がとられることとなる。
その代表例が倉庫である。小樽に残っている倉庫の数は石造り388棟、そのうち345棟が木骨石造であると平成4年の小樽市全域調査でわかっている。
石造はすべてを石で積み上げたもの。木骨石造は骨組みを木で組み上げ、外側を石で積んだものだ。外側を石にすることで火が燃え広がるのを防ぐようにしたのである。また、木骨石造が多い理由としては、石の産地が近隣にあったことと、木造の技術を使えば工期が短縮でき、経費が安くできたため木骨石造の建物が多く建設された理由である。
明治時代の最大の被害をもたらしたとされる稲穂町の火事は色内、石山を超えて手宮まで達し、2500余戸を焼き尽くしたと伝えられている。その後の町の様子を残した日記があるので紹介する。

“午后一時頃学校を出てゝ、色内町を通ってみると、郵便局、三井銀行支店、越後屋などの大きな建物も何れも類焼にかゝって目もあてられぬ惨情である。それでも石造或は土蔵で屋根に瓦を用ひたのは大概残っていゐる。石造でも若し窓戸の構造の粗なるものは、悉く焼き尽された。これで昨夜の火事が如何に猛烈であったかが分かる。何しろ小樽第一目ぬきの場処であったので、焼跡至る処にポツンポツンと金庫の据って居るものも殊更に目立って気の毒に見えた。(中略) それから、帰りがけに浜町を通って見ると、流石にこゝは石造の倉庫が多い丈に、焼け残ったものが多い。(中略) 三井銀行は、建設費三十万円を投じて建設したもので、全部石造であったから、其部分は残ったが、屋根と窓の構造が粗麁であった故、上図の如き形に残っていた。”(図5)
 
稲垣益穂日誌 明治37年5月9日分より抜粋




この火災を契機に小樽区は市区改正(現在の都市計画)をおこない、色内地区を中心とした道路の拡幅と新セル工事を実施、幌内鉄道の線路も西側に移動させ、市街地の主要建築物の構造は木造から木骨石造へと一気に転換することとなった。
また、倉庫の他にも市街地の商店で防火対策が施された建物としては岩永時計店(図6)
、などがある。この建築物では瓦屋根に鯱鉾の鴟尾(しび)1)がつけられている。鯱鉾(図7)
は建物が火事の際には水を噴き出して火を消してくれるという火除けのまじないとして考えられていた。ここからも人々が火事を恐れていたことがわかる。建物の中には建物の両側に防火のための袖壁(うだつ)を建てるものも存在している。(図8・9)
建物と建物の間に壁をはさむことで防火対策にしていた。2)
防火対策がなされた建物は時代の流れとともに変貌をとげる。大正10年代になると銀行の各支店の建物は当時の主要建築に採用されはじめていた鉄筋コンクリートで建てられた。また、商店では外壁にコンクリートモルタルを塗り、タイルを張り付ける防火建築が出現した。明治に盛んに用いられた石材にかわってセメントが新たな建築材料としてつかわれるようになったのだ。
また、都市計画の中でも防火について取り上げられている。
昭和27年には船見通りと大通線をT字型に結び、全国的に火災発生率の高かった市中央部の全長1426メートルを防火建築帯に設定している。
 
3.カラフルな消火栓





 
 小樽の街を歩いていると青、赤、黄色の消火栓が目に入ってくる。(図10〜14)
このカラフルな消火栓3)にも小樽の特色があらわれているので紹介したい。
小樽は大変坂が多い町である。住宅地の高低差が激しく、小樽市水道局は安定して水を供給するために、配水池を36カ所配置し、配水系統は42系統から水を配給している。


昭和49年11月22日に起きた長橋での火災で、同じ配水系統の消火栓から何台もポンプ車が水を放水した。同系統から大量の水を吸い上げたために配水管内の水量が落ち、水が出にくくなるという事態が発生した。今後このような事態を避けるために昭和50年から高区、中区、低区や配水系統によって色分けされるようになった。(図15・16)


第二章 「ブン公」伝説

1.消防犬「ブン公」

ブン公とは大正から昭和の初めまで小樽消防署5)で飼われていた雄犬である。元々はブンという名前であったがいつしか東京渋谷駅前の「ハチ公」のように「ブン公」と呼ばれるようになった。
ブン公は火災が発生すると消防車に飛び乗って現場まで出動し、火事で集まってくる野次馬の整理、よじれたホースを咥えてなおすなど大変活躍していた犬である。その活躍によって子供たちの人気者となり、ラジオや新聞でブン公は全国に消防犬として知られるようになった。ブン公の出動回数はゆうに1000回を超えていたという。
また、火災報知機4)のベルの音が鳴るとブン公は消防士たちに吠えて火事を知らせ、一番にシボレーポンプ車のサイドステップに乗って出動を待っていたという話や、気をつけの号令の際に「ワン」と一番に吠え、隊員が「2」と号令したというユニークな話も残っている。
そんなブン公も老いには勝てなかった。身体も衰弱し、組員達の必死の看病によって余命を保っていたが、昭和13年2月3日に別れを告げることとなった。4日には消防組葬を本部で執り行い、棺の前には「小樽消防犬文公之霊」という塔婆が建てられ皆ブン公との別れを惜しんだ。彼の功績を記念するためにブン公は剥製にされ、しばらくは小樽市消防団本部に飾られていたのだが、現在では小樽市立博物館に保存されている。(図17)

この全国に知られることとなったブン公も時の流れとともに少しずつ人々の記憶から忘れ去られていくこととなる。

2.「ブン公」以後

(1) ブン公の子孫

それでは、ブン公以後はどうだったのか。1958(昭和33)年1月4日の北海道新聞にブン公についての記事が書かれていた。その中に
“ブン公は城とコゲ茶のまだらな秋田県ににた雑種犬のメスで、死ぬ昭和13年までに仔を一匹生んだ。小ブンと名付けたが、名犬の犬だというのである夜盗に盗まれてしまつた。”
という一文があった。子ブンは夜盗に盗まれたという話であるが、実際はどうやら違っていたようだ。2006(平成18)年3月10日の北海道新聞(小樽版)に、家族でブン公の子を育てていた新井田さんの記事が載っていたので紹介する。
新井田さんは一九三一年(昭和六年)、小樽生まれ。父親の故石山謙治さんは小樽の消防署に勤めていた。当時、署内で「賢い」と評判の消防犬がぶん公だった。小学生のころ、謙治さんがぶん公にお弁当を分け与えていた姿を覚えている。「父は『ぶん公は偉いんだぞ。火事だと一番に現場に行くんだと一番に現場に行くんだ』とよく話してくれました。」と振り返る。犬好きの謙治さんは、消防署で一匹の雄犬を譲り受けた。「ぶん公の子どもだから賢いよ」と言われ、家族で親と同じ「ぶん公」と呼んでかわいがっていた。一九三九年、一家が家庭の事情で岩内に引っ越した際、「ぶん公」は行方不明になった。”北海道新聞(小樽版)2006(平成18)年3月10日より抜粋。
これがどうやら真実のようだ。また、ブン公は当時、雌犬だと思われていたが、実際には雄犬だったことがわかっている。では子ブンはどこからやってきたのか。今となってはわからない。

(2) 二代目消防犬「ゴロー」

さて、ブン公や子ブンが存在していたことは知られているが、実は消防署に、もう一匹消防犬が存在していたことはあまり知られていない。
今回お話を伺うことができたAさんは昭和36年から43年までそんな知られざる消防犬とともに小樽消防署で働かれていた元消防士の方である。
昭和36年、消防署に一匹の犬が迷い込んできた。消防署内で飼うこととなり、消防士たちのアイドル的な存在となった。名前はゴローという。
ゴローはよく消防署の2階か3階におり、消防士たちは1階にいることが多かったという。ゴローはブン公と同様火災報知機の音を聞き分けることができたようで、ゴローが一階に吠えながらやってくるときは火災報知機が鳴っている時であった。ゴローも吠える事で火事を知らせてくれたのだという。
ゴローもまた消防車に乗って火事現場に出動していた。現場へ向かう途中振り落とされないように立っており、運転するものは気をつかったなどという話も伺うことができた。ブン公のように野次馬の整理やホースのねじれをなおしたりはしなかったが、鎮火するころになるとどこからともなく帰ってきて自動車に乗り込んでいたという。
当時は大変野犬が多かったらしく、多くの犬が処分されていた。ゴローも一度保健所に捕まってしまったことがあったのだが、首輪に消防士の階級章が付けてあることに気付いた保健所職員が消防署に電話をしたために命拾いをしたということもあったそうだ。
消防士たちにかわいがられていたゴローは人がやってくる足音も聞き分けられたようである。当時巡視と呼ばれる上官が支部を抜き打ちでチェックすることがあったようで、「上官がやってくる前にゴローは上官の前を走って消防署のガラス戸を叩き、上官が来たことを知らせてくれたよ。」とAさんは笑いながら話してくださった。
昭和43年にAさんは移動となってしまったため確かなことはわからないが、ゴローも歳を重ねるごとに弱っていき、車にものれないようになったという。最後には一番ゴローをかわいがっていた消防士の方が引き取っていったそうだ。

(3)再び注目される「ブン公」

 さて、時代の流れとともに影をひそめていたブン公であるが、近年再び注目されている。
きっかけは「小樽歴史物語」の中に書かれていた消防犬「ブン公」の話が児童書として平成10年に「消防犬ぶん公」として絵本化されたことが大きいのではないだろうか。これを機にぶん公の剥製は毎年命日の2月3日に展示されることになった。
 もうひとつは小樽市観光物産運河プラザ前広場に立つぶん公記念碑(図18)である。
この建設の中心となったのはかつて消防団副団長として活躍されていた木下さんである。木下合金90周年記念の際に木下会長が「お世話になった小樽市に何か恩返しをしたい」と考えていた。そんな時会長は小樽市民のために尽力したぶん公の存在を思い出し、消防・防火の意識を多くの人に感じてもらうためにぶん公の銅像をつくろうと決意。そしてブン公の命日である平成18年2月3日に「消防犬ぶん公記念碑建設期成会」を発足させ、同年7月21日に記念碑建立・除幕式が行われた。ブン公の銅像は現在私たちに当時の雄姿を伝えている。
そして平成20年2月3日にはぶん公没後70年のメモリアルコンサートが開催された。ここでは日本社会福祉愛犬協会からぶん公の功績を讃えた賞状6)と受賞記念に『銀の首輪』(図19)
が贈呈され、最後には絵本作者である水口さん作詞によるブン公の歌「ぼくは消防犬」(図20)が披露された。
同年10月15日〜18日には小樽市消防署主催「消防犬ぶん公」火災予防フェアが小樽市観光物産プラザで開催され、4日間で延べ800人の人々が来場し、ブン公や住宅用火災警報器の説明が行われた。

まとめ

 さて、第一章で挙げたことからわかるように小樽はかつて大火が発生しやすい火災都市であった。これは第二章で挙げたブン公の出動回数から見てもお分かりいただけるだろう。防火対策のひとつとして建てられた倉庫や建物は今では当時の面影を我々に伝えている。時間の流れとともに倉庫の小樽での倉庫の在り方は変化しているが、小樽の発展に役立っていることには変わりはないようだ。
そしてブン公の伝説は口頭伝承から絵本という媒体の変化したものの現在でも語り継がれている。そしてブン公が注目されることが小樽市民に火災を意識するきっかけになっている。こうしてブン公物語を語り継ぐことが小樽にとって一番の防火対策になっているのかもしれない。

1) 瓦屋根の両端につけられる飾りの一種。寺院や仏殿などによく用いられ、飛鳥時代に大陸から日本に伝えられたとみられる。唐時代末に鴟尾は魚の形、鯱の形状へと変化していった。鯱はインドの空想の魚で、海にすみ雨を降らすと考えられていたことなどから火除けとして考えられるようになったのだろう。

2) うだつ(本来は梲と書く)を上げるためにはそれなりの出費が必要だったことから、うだつが上がっている家庭は比較的裕福な家庭に限られていた。出世しない、見栄えがしないなどの意味でつかわれる慣用句「うだつが上がらない」の語源のひとつと考えられている。小樽では鰊によって富を気付いた人々もいたので、うだつが上げられる裕福な家庭が多かったのだろう。



3)カラフルな消火栓は既製品ではなく、小樽市では毎年消防署職員の方々によって色を塗りなおされている。このようにカラフルな消火栓は全国でも珍しく、小樽の他には札幌でも見かける事が出来る。(図21・22)


4)電話の普及していなかった当時は火災報知機が市内のいたるところに設置してあった。1028年に設置されて以来、296機まで増設されたが1974年にその役目を終えて廃止となる。仕組みはボタンを押すと、消防署内で火災発生を知らせるベルがなるというものである。(図23・24)





5)ブン公が活躍していた時代の消防署は1944年に北海道庁小樽市消防署として花園町西三丁目4番地に開庁。現在はこのようになっている。(図25・26)
 しかし、戦後火災の重大化認識が求められ、1951年に花園町西二丁目二四番地に新庁舎を建築。(図27)
現在この建物は庄坊番屋(図28〜30)
という飲食店として利用されている。消防署が現在の場所に移されたのは1983年のことである。

6)NPO法人日本社会福祉愛犬協会(KCジャパン)は「人と動物がよりよい関係で共生できる社会を創ること」を目的とし、「犬を通じた社会貢献」を推進している団体。銀の首輪賞は過去・現在を問わず、犬を通じた社会貢献に大きな業績を残した犬や人間に与えられる賞である。ブン公はこの賞受賞一号である。


 謝辞
本稿の調査にあたっては、小樽市在住の木下英俊氏、新保義彦氏、水口忠氏、村岡典久氏をはじめとする小樽市消防署職員の皆さま、小樽市立博物館の石川直章先生、佐々木美香先生の多大なご協力を賜りました。
ここに記して感謝申し上げます。

参考文献

水口忠
 1989 『おたる歴史ものがたり』、北海道郷土史研究会。
1998 『消防犬ぶん公』、文渓堂。
稲垣益穂
 1903 『稲垣益穂日誌』9巻、小樽市博物館編。
井尻正二
 1975(2007再刊)『消防犬・文』、築地書館
福田博道
 2003『名犬のりれき書 あの犬たちはすごかった』、中経出版
2006『犬名辞典』、グラフ社
青木由直
 2007『小樽・石狩秘境100選』、共同文化社。
発行者 小樽市
 1993『小樽市史』第七巻。
1994『小樽市史』第八巻。
1995『小樽市史』第九巻。
2000『小樽市史』第十巻。
発行者 小樽観光大学校
 2006『おたる案内人』、小樽観光大学校運営委員会編、石井印刷。

2003『小樽散歩案内』、ウィルダネス編、ウィルダネス。
2008『小樽なつかし写真帖 総集編』、小樽なつかし写真帖編集委員会編集、小樽市総合博物館 監修、北海道新聞小樽支社。
1983『小樽−坂の歴史の港町』、朝日新聞・小樽通信局編、北海道教育社。
2009『月刊 おたる』2月号、(株)月刊おたる。
2006『Wan』10月号、緑書房
2007『Wan Day 犬と暮らす』VOL.5、あおば出版
 1935.7.15 『小樽新聞』火災現場で活躍する人も及ばぬ愛犬。
 1936.5.6  『小樽新聞』赤い風に勇む消防犬ブン公。
1938.2.4  『小樽新聞』颯爽火事場護る名犬“文公”。
      『小樽新聞』消防犬文公病死。
1938.2.5  『小樽新聞』文公を葬ふ。
 1958.1.4  『北海道新聞』消防犬ブン公。
2006.3.1  『北海道新聞(小樽版)』銅像建設へ寄付着々。
2006.4.3  『北海道新聞(小樽版)』ぶん公はく製化粧直しの旅。
2006.4.13 『北海道新聞(小樽版)』消防犬 ぶん公像のデザイン決定。
2006.8.8  『北海道新聞(小樽版)』お仕事拝見 木下合金

小樽市消防署本部HP
小樽市の消火栓
http://www.city.otaru.hokkaido.jp/simin/anzen/shobo/syoukasen.html
 消防犬ぶん公
http://www.city.otaru.hokkaido.jp/simin/anzen/shobo/bunkou.html

NPO法人 日本社会福祉愛犬協会
http://www.kcj.gr.jp/news/2008/vol1.html

犬ニュース01 2008.1.25
http://news01.net/news/2008/01/20080125192249.php

小樽ジャーナル 
2006.2.3  http://otaru-journal.com/2006/02/post-991.php
2007.12.20  http://otaru-journal.com/2007/12/post-2163.php
2008.2.3  http://otaru-journal.com/2008/02/post-2255.php
2008.10.18 http://otaru-journal.com/2008/10/post-2886.php
「消防犬ぶん公」没後70年メモリアルコンサート
http://homepage2.nifty.com/tamizu-otaru/miz165.htm

小樽のニュータウン

小樽のニュータウン 
 木戸 彩香

はじめに

 北海道小樽市という土地を聞いて思い浮かぶのは、小樽運河、レンガ造りの倉庫、市場など港に関することでではないだろうか。それは、今日の小樽が観光地化され、マスメディアでも観光地として報じられ、視覚的に我々の目に記憶されているからであろう。では、小樽市に住む人々はどのような暮らしをしているのか。小樽市は面積243.30平方キロメートル、総人口、約13万人である。札幌市からJR快速列車で30分前後であることから隣接する札幌市のベッドタウンとしての役割を担っている。戦後、小樽は発展を遂げたが、発展を遂げたのは小樽だけではない。札幌も同様に発展を遂げ、さらに札幌は小樽の都市機能までも吸収した。都市機能を吸収され、札幌のベッドタウンとなり小樽にニュータウンができるようになった。このニュータウンの出現により小樽市は郊外のような機能も兼ね備えるようになった。今日のニュータウンとしては小樽市東南部に位置する、望洋パークタウンがその役割を担っている。
 本研究は戦後から今日までの小樽のニュータウンについて着目し、移り変わり、ニュータウンの構造、時代背景などを踏まえ記述、解明するものである。また、時代に応じて、ニュータウンという言葉が示す集合住宅地は特色がそれぞれ異なる。そのような点においても比較していく。

第1章 戦後の住宅対策

(1)戦後の小樽

 日中戦争から太平洋戦争にかけて、小樽も戦争に参加していたが大きな戦災を受けることもなく、戦争終結を迎えることとなった。小樽には港があるため、アメリカの艦船が入港し、連合軍が駐留するなど、北海道の中で小樽が重要視されたこともあった。昭和22年にはソ連からの引き揚げも始まる。サハリン(樺太)や沿海州からの身よりのない引き揚げ者は、小樽に住みつくものが多かった。そのため、戦後の小樽市は人口も急激に増え、終戦直後に 比べると1万4000人ほど増加していた。そういった環境の中で、小樽は食糧不足と経済不安に陥り、物価が跳ね上がった。樺太からの引き揚げ者や、戦災を受けて内地から移り住んだ人々の中には、お金のかからない商法として道端で生活必需品を売る者や、魚を捕って行商に出かける者もいた。特に行商人は各々の品物を小樽駅前で交換したり、露天を開いたりしていた。これが、三角市場の始まりである。小樽が北海道で最も市場が多いことはこのことに由来する。また、小樽は漁港があったことで、戦後重要港湾に指定され、商業活動が盛んに行われた。その後、昭和29年の国際観光都市指定と合わせ、観光面でも力を入れていくこととなる。昭和30年代には、小樽海岸が国定公園に指定され、高度経済成長に先だって開発計画を進め、隣接都市とともに発展を遂げてきた。

(2)戦後の住宅政策

 さて、(1)戦後の小樽で述べた通り、戦後小樽は商業が盛んな都市になったものの、多くの引き上げ者の住宅対策が問題となり急務とされた。戦後の住宅対策はどのようなものであったのだろうか。まず小樽市は、遊郭、料亭、遊休個人住宅など利用し対策を立てた。しかし、昭和25年時点で、依然として住宅難は解消されなかった。そこで、住宅対策も今までのような応急措置ではなく、計画性と恒久性を持った制度を確立し、「公営住宅法」の制度が検討されるようになった。この制度は昭和26年に公布された。これにより、地方公共団体が国の補助を受けて建設・管理し、住宅に困窮する定額所得者に対して、低価格の家賃で賃貸する公共賃貸共同住宅が国の恒久的な政策として確立された。この制度により、住宅難の解消を目的に公営住宅が建設された。公営住宅建設にあたり、住宅建設の敷地の確保が問題であった。小樽市の地形の構造上からも宅地不足で郊外に敷地を求めなければならなかった。道路交通や下水道、交通手段を確保するためにも大規模団地の造成が必要となった。そこで、小樽で最初に造成された団地が最上団地とオタモイ団地である。これらは小樽市の中で初期に造られた庶民のニュータウンとも言えるだろう。この2つの団地は現存しており、現在でも入居者がいる。この2つの団地の中で特に、オタモイ団地を初期のニュータウンの一例として取り上げ、次の章では深く触れたい。

第2章 オタモイ団地 と かもめヶ丘タウン

(1)オタモイ団地

 前節より、戦後の住宅対策として、大規模団地の造成が行われた。これに続いて小樽市には大規模団地が次々と造られていく。では小樽市に初期のニュータウンとして造られたオタモイ団地はどのような特徴を持つのであろうか。フィールドワークでの分析を踏まえ、記述する。
 オタモイ団地へ行くには、JR「小樽駅前」駅からバスで25分である。私がフィールドワークを行ったのは夕方4時頃であった。道を歩いている人は少なく、静かな雰囲気の町であった。建物は古めの平屋
が何軒も連なっていて、新しいマンションのようなビルもいくつか建っていた。
バス停からすぐ近くの「オタモイフード」
というスーパーの奥さんに話を伺った。何十年も住んでいるそうで、昔の話や当時と現在との違いなどを聞くことができた。その話によれば、平屋には今は、5,6人しか住んでいないそうだ。住んでいるのは皆、高齢の方で、身寄りのない者が多い。平屋は長屋が取り壊されてできたもので、長屋は戦後の住宅対策により造られた、おもに引き上げ者の住む住居であった。長屋の頃には、座談会という会が開かれ、近隣同士で深い人間関係が構築されたそうだ。また、オタモイ団地には、現在あるマンションに加え、今後新しいマンションが2件程建つ計画もあるという。
建設予定のマンションには、現在平屋に住んでいる方々が移るそうだ。また、オタモイ団地の近くには、育成院という擁護老人ホームがある。これは、オタモイ団地ができた当初から住んでいた方が高齢になり、入居しているのではないかという推測がたつ。
 このように、オタモイ団地には、平屋という今日あまり見られない建物があった。マンションには、家族が住んでいたもののオタモイの町の人口は高齢者が多い。そう言った点で、時代に遅れている町であるように感じた。これは、オタモイ団地の立地条件にも原因があると考える。戦後、土地買収をするに当たり、小樽市中心部は地価が高く、手が出なかった。そこで、地価が比較的安い、山の手にオタモイ団地を造成した。結果、交通の便が悪く、坂の上に立地しているので、学校、大型スーパー、市の中心部に行くのも一苦労である。この問題は現在も抱えており、中心部へ出る交通手段は主にバスであるし、道路も完全に整備された状態とは言えなかった。以上のようなことを、初期に造られたニュータウンの特徴とし、次に、昭和50年代頃に造られた、小樽の中期のニュータウンについて着目していきたい。

 (2)かもめヶ丘タウン

 昭和55年頃に造られたニュータウンとして、かもめヶ丘タウン(地区としては祝津)がある。高島という地区に隣接して造られた。このかもめヶ丘タウンも固有の特徴を持っている。ここでもフィールドワークによる分析を通して、記述していく。かもめヶ丘タウンへ行くのにはJR「小樽駅前」駅からバスで15分程度である。
高台に位置する、かもめヶ丘タウンへ行く途中に、学校、コンビニエンスストアなどが見られ、生活条件は良いように見られる。住宅群は個別住宅の一軒家が多く、一家に一台、車が見受けられた。かもめヶ丘タウンができた当時のものから建て替えられたのか比較的新しい住宅が多く見られた。道路幅も多く、車の利用も便利になっていた。この地域にも私は夕方頃に訪れたのが、ひっそりとした雰囲気であった。学校帰りの子供がぞろぞろと歩いていたので、かもめヶ丘タウンは家族で住む人々が多いようだ。バスが走っているのに加え、車も利用しやすいので、中心部や市外に通勤するサラリーマンにとっても都合がいいのだろう。学校の近くには公園などもあり、ニュータウンといった要素も持っていた。では、かもめヶ丘タウンよりも後にできたニュータウンはどのような構造であるだろうか。昭和56年から着工し、完成予定では、住宅5000戸にもなる、望洋パークタウンについてもフィールドワークを行った。

第3章 望洋パークタウン

 望洋パークタウンは現在、1000戸が建設され、約3000人が居住している。小樽市の東南部に位置し、東西約4キロメートル、南北約1キロメートルの広大なニュータウンである。JR「小樽築港」駅からバスで約9分、JR「小樽駅前」駅から約20分というアクセスである。望洋パークタウンは、前節の、オタモイ団地やかもめヶ丘タウンと違い、小樽開発公社や三菱地所株式会社などによる宅地造成がなされ、「青と緑に彩られた、暮らしがリゾートになる街」というコンセプトがある。
フィールドワークを行ったが、確かに、緑の生い茂る緑地や道路の端に花壇が置かれているなど、緑溢れる町であった。
フィールドワークを行っている途中に、望洋パークタウンの現在の町会長である、新保義彦さんからお話を伺うことができた。新保さんは4代目会長である。望洋パークタウンは「望洋台」という町名が創られ、1町目から順に造成されている。望洋パークタウンができた当初の建物も残っていた。
昭和をイメージするマンションで、今でもほぼ全室入居している。人の出入りは比較的激しいそうだ。2町目の方に上っていくと、新興住宅地というような一軒家が軒を連ねている。望洋パークタウン内には、小・中学校、コンビニエンスストア、介護老人ホーム、コミュニティーセンターなどがあり、施設に充実している。道路の幅も広く、車利用者には大変便利である。新保さんの話によると、現在、大型スーパーはタウン内にないそうで、スーパーとタウンをつなぐ無料バスが出ているそうだ。
 当時の様子(昭和60年頃)についてもお話を伺うことができた。当時は、スーパーの代わりとして、コープ生協があったそうだ。(現在は取り壊され、空き地になっている。)また、市内に住む人々がニュータウンを珍しがって見物に来たという。市の中心に出るバスは1時間に1本しかなく、現在よりは交通の便が良くなかったそうだ。
 また、町を歩いてみると、公園が多い。
パーク内に5つあるそうだ。現在、中学には約270人、小学生には約400人が通っている。そのような点からも公園があるということは、子供の生活する環境として良いと言える。
 さらに、望洋パークタウンの住民はどのような人が多いのだろうか。新保さんの話によると、小樽市内から引っ越して来た方や、静かにシニアライフを過ごすため札幌から引っ越して来た方など、出身はバラバラである。共働きが多く、仕事は小樽市内の方がほとんどだが、中には札幌市まで仕事に行く人もいる。これは、望洋パークタウンの位置にも関係していて、望洋パークタウンから札幌都心までは、車で約40分という比較的早い時間行けるからである。そういった意味で、札幌の特徴も兼ね備えているのである。ここが、前節に述べたニュータウンと違っている点ではないだろうか。札幌近郊のニュータンの特徴については、後の付論で述べることとする。

 第4章 まとめ

 以上のように、小樽市に存在する大規模団地、ニュータウンとして、オタモイ団地、かもめヶ丘タウン、望洋パークタウンの3つを例に挙げ、戦後から今日に至るまでの小樽の住宅環境の移り変わりを記述した。ニュータウンの歴史は戦後直後に造られたオタモイ団地から始まり、昭和後期に造られた望洋パークタウンにまで移り変わる。また、小樽市朝里地区には平成に造られた、小樽市で現在最も新しい、小樽ベイビュータウンというニュータウンも存在する。今後も、小樽は観光地として、札幌もベッドタウンとして発展していくのではないだろうか。
また、今回のフィールドワークを行う中で、小樽市民のひとつの意見としてニュータウンとして捉えているのは望洋パークタウンである、という意見も得ることができた。その意識はどのような点から生まれてくるのであろうか。ひとつには、望洋パークタウンのみ、小樽開発公社や三菱地所株式会社などにより本格的にニュータウンとして造られたという点が挙げられるであろう。望洋パークタウンはちょうどバブル期に造られた市街地である。交通の便を考えた道路や、緑をコンセプトにして造られた街並みは今日のニュータウンを想像させるものである。
 さらに、小樽市ニュータウンに共通した点についても言及しておきたい。小樽市に住むに当たって、坂との関わりは切り離せない。また、戦後から今日までを通して言えることであるが、大規模団地、ニュータウンを造成するにあたり広大な土地が必要であるため、どうしても坂の上の丘陵地などに集中する。そのため、どうしても交通の手段が車になってしまう。オタモイ団地に関して言えば、道路の幅が狭く、駐車場の設備などがあまり整っていないため、車を日常に使う人にとっては不便であろう。その点、望洋パークタウンでは道路の幅が広い点では、坂による交通の便は解消されやすいように思う。しかしながら、この地形の特色は今後もつきまとうものである。坂との関わりの中でいかに生活環境を豊かにしていくかが今後の課題であろう。

 付論

 (1)恵み野ニュータウン

 先ほど、望洋パークタウンは札幌近郊のニュータウンの特色も兼ね備えていると述べた。それに関して、札幌近郊のニュータウンである、恵み野ニュータウンあいの里ニュータウンのフィールドワークによる分析を通して、付論で述べておきたい。
 恵み野ニュータウン札幌郊外そのものという感じの印象をうけた。JR「恵み野」駅前には、自転車置き場や、タクシー、バスなどが止まるロータリーがあった。
また、大型ショッピングモールであるイトーヨーカドーもあった。道路、歩道とも新しく舗装された様子である。
住宅も新築が多く、周辺には、飲食店などもあった。
このニュータウンの利便性は住宅、ショッピングモールともに、駅から近いことであると考える。また通勤、通学者にとっても駅から自転車を使えば、自宅から駅までもそんなに多くの時間はかからないと予想できる。

 (2)あいの里ニュータウン

 恵み野ニュータウンに引き続き、あいの里ニュータウンについてもフィールドワークを行った。JR「あいの里公園」駅で降り、周辺を歩くことにした。
駅前には、新興住宅地が広がっていた。
また、駅の左手には、スポーツジムのような施設も見受けられた。街の中を歩いていき、茨戸福移通という通りに着くと、新築マンションも建設されていた。
その周辺には、恵み野ニュータウン同様に、大型ショッピングモールのような施設があった。
また、近くには、あいの里教育大学、北海道医療大学病院などもあり、生活環境としては整っているといえよう。

 (3)望洋パークタウン

 では、以上の、札幌近郊のニュータウンと望洋パークタウンが類似している点はなんであろうか。それは、札幌とのつながりではないだろうか。小樽市民の多くは、小・中・高・大、社会人になるまで、小樽の中で過ごしている。それは、小樽市で人生の多くを過ごせる環境にあるからであるが、望洋パークタウンの人々の中には望洋パークタウンは札幌近郊のニュータウンという認識を持っている人も多い。ゆえに、小学生から中学受験をして、札幌市内に通う中学生や、札幌市に通勤するサラリーマンがいるのである。しかし、付論で述べた3つのニュータウンを比較したとき、はっきりと差がつくのは、札幌までの移動手段と距離である。恵み野ニュータウンあいの里ニュータウンは、JR「札幌」駅まで、電車1本で、約15分たらずで行くことができる。その一方で、望洋パークタウンから、JR「札幌」駅までは前者と比べると、はるかに遠い。また、一般の認識として坂の存在がより遠いというイメージに結びついているのではないだろうか。しかし、恵み野、あいの里、小樽と比べたとき、小樽という地名ブランドははるかに高い。よって、小樽市には、そのブランド力を利用して、今後も発展してほしいものである。

 おわりに

本研究に際して、様々なご指導を頂きました小樽市総合博物館の皆さまに深謝致します。また、現地での聞き取り調査を快く引き受けてくださった、望洋パークタウン町会長、新保義彦様に感謝致します。そして、多くのご指摘を頂きました島村恭則教授に感謝致します。

文献一覧

荒巻 孚
 1984  「北の港町 小樽‐都市の診断と小樽運河‐」、古今書院
小樽市 市政資料
 2005  「小樽市住宅マスタープラン」
小樽市
 1977  「小樽市東南部地域(毛無山ろく)開発基本計画
望洋台町会
 2008  「望洋台町会のしおり」

俗地名から見る高島

俗地名から見る高島
尾崎 有香子

はじめに

 俗地名とは、実際の住所としては存在しない地名のことであり、その土地に住む人々によって名付けられたものである。今回の調査を進めるにあたって我々独自で俗地名と称し、以下もそのように記す。俗地名はその土地の特徴を示す一つの情報源となる。

 第1章 高島の歴史

(1)明治

 1868年の明治維新によって日本は大きな革新の時代へと突入し、現北海道である蝦夷地も開拓が進められた。明治2年(1869)、開拓使が設置されると共に蝦夷地を北海道と改め、11カ国86郡を置いた。高島郡(オコバチ川〜オタモイ)は、小樽郡と共に翌年開拓使所管となる。
 漁場はこれまで場所請負制度で行ってきたが、明治2年の開拓使の布達によって廃止された。しかし一挙に廃止してしまうと不都合も生じてしまうため、場所持と名称を変え今までどおりの漁場経営が行われることとなった。この時の場所持であったのが、西川家 高島場所支配人 長谷川久八である。元運上屋西川家漁場は、ニシン、シャケ、マス、タラなどの漁で大きな繁栄を築いていたので、海に面した土地を占有して大規模な漁場を営んでいた。そのため当時の高島の戸数は周辺地域に比べて少なかったと言われている。それに比べて一般漁家は一夫婦単位で掘立て小屋に住み、漁船や漁具は小規模で資金も乏しく、何かと場所持に頼ることが多かったと考えられる。また、漁場を営んでいた人達の出身地は新潟・北陸沿岸か道南辺りであるとも言われているが明らかではない。東北や北陸からの移住が続き、村落に発展していった。
 開拓によって人の招致が行われ、漁場も同様に漁民を募集した。漁民の移住類型は「漁夫出稼ぎ」と「漁船出稼ぎ」とに分けられ、北陸出身者が多かった。小樽が文明の発達を進め、人口も5千人を越すようになると、高島も移住者によって人口が増し、ニシン漁業に前進を見せていった。建網、刺網共に数を増して漁獲高も向上すると、西日本での需要の拡大や日本海航路の整備によってニシンはますます価値を増していったのである。
 小樽は水産業以外にも商業都市として発展し、明治2年に手宮に海関所を設けて以来、将来の発展を見越した福山の富裕な商人や漁家達は、続々と小樽に移り住んだ。こうして入港する弁財船と水産物生産者や、小売業者の間に立って取引の仲介を担う回船問屋ができるのだ。こうして小樽港に入港する船舶の数は次第に増えていった。
 明治13年には、三菱会社の函館・小樽定期船航路の開設や、手宮・札幌間に北海道初の汽車の開通など、陸海運共に画期的な年となった。こうした状況下に出された「高島郡小樽郡に合併する」という案は、両群の友好関係の構築や、郡をより活性化させることも考慮され、受け入れられることとなったのである。
 明治初期の西川漁場においては、秋田県出身の佐藤与左衛門を支配人として、弁天島に建網を1ヵ統増設し、祝津もまた移民の増加に加えて肝油製造やヨードの製造などの研究が行われ、次第に活気づいていった。
 明治15年には高島の人口が一挙に増加し、初の高島郡漁業組合(色内〜祝津)が結成され、その頭取に就任したのが佐藤与左衛門であった。
 明治19年に札幌・箱根・根室の3県を廃止して北海道庁を設置し、本格的な殖民開拓に取り組むようになる。以来小樽が特別輸出港となり、埋立地には北陸海運の巨商達の支店が建ち、石造り倉庫が立ち並ぶようになったのもこの頃である。
 そして、高島郡ではさらなる発展が続き、様々な設備も整ってきた。高島へ移住する者は越後(新潟)を主として越中(富山)、加賀(石川)からの漁船出稼ぎを経て、家族で移住し、そのまま定住するというパターンが多く見られ、ニシンを主体とする沿岸漁業のみにとどまらず、沖合漁業にも進出するようになった。ニシンの豊漁によって漁家には階層ができた。建網5ヵ統以上・雇漁夫100〜200人を所有する漁家を大漁業家、建網1〜2ヵ所で定置網を行う漁家を中漁家、ニシンの刺網・昆布採取・雑漁業の家族労働を行う漁家、「ヤン衆」と言われる臨時の出稼ぎや雇われ漁夫に分けられる。ニシン漁には多大な経費がかかり、加えて漁船や漁具の準備や食料、漁夫の給料などを考えると、採算の取れるニシンの量を水揚げしなければ、到底生活できない厳しい世界であることが分かる。 
ニシン漁によって大きな富を得た漁家はのちに成金と言われる程豪遊する者もいれば、堅実な使い道を選ぶ者もおり、様々な境遇をたどることとなる。

(2)大正・昭和

第一次世界大戦の影響を受け、日本が欧米に「追いつけ追い越せ」の風潮で様々な動きを見せるようになったのもこの頃である。北海道において道産雑穀類の輸出が急激に伸び、その集積地であった小樽は非常に活気に満ちていた。高島では、電線が施設され、電灯が登場し、また、焼玉エンジンで走る発動機船時代へと移行された。
 漁業における変遷も数多くあった。明治における高島の主な漁獲物は、ニシン、サケ、マス、昆布であったが、中でも特にニシンの漁獲が大きかった。しかし、明治33年を期に、以後資源の衰退、沿岸漁業の枠内にとどまったこと、仕込み問屋資本の支配などの不利な条件と、魚群の局地的な来遊が年々大きく変化してしまったことが最大の原因となって、不漁の傾向が強まっていった。しかし、大きな網元は漁場の数が多く分散的に漁を行えることから不漁にも対処できるので、大正初期にはまだ目立った不漁の影響はなかったようだ。その証拠の一つとして祝津の青山別邸が大正7年の建築である。借金をして網を建てた者にとっては、月2、3分の高利に苦しい状況を強いられたであろうことが想像できる。これによって、高島の漁師は一発勝負のニシン漁のみに期待をかけるのではなく、改良された川崎船によるカレイ、ホッケ、タラなどの沖合い漁業を主体として生活を維持していったのである。
 ニシン漁業の不漁に加えて、浅海魚介類もまた乱獲の結果、次第に水揚高が減少した。
その一例としてホタテの大不漁が挙げられる。当時のホタテ漁業の中心地は後志であり、漁期の取れ高は非常に良かった。生は産地で消費し、他は丸干しにして本州や中国に輸出して、かなりの収益を挙げており、高島にも入港していたとされている。ところが、ホタテをほとんど取りつくしてしまうという事態になり、他の地域に漁に出ることになる。初めは漁を許可されていたものの、漁獲高の減少を恐れて拒否されてしまう。そこで、高島のホタテ船団は、さらに他の地域での漁に出ることとなったが大不漁からは逃れられず、ホタテ漁業は中止されたのであった。
このような背景から、人々の漁業にたいする見方にも最盛期の頃とは変わってきたように思える。この頃に高島へ移住してきた者は、全員が漁業に従事するとは限らず、農業や建設など様々な方面で活躍していった。
ニシン漁業は全道で50〜60万石台にまで減少し、沿岸漁業だけでは存続しかねるということから、沖合漁業への転換が進められた。高島はいち早く川崎船による沖合漁業への進出が見られたが、人力によるためかなりの重労働であり、大暴風雨による遭難事故も起きていた。こうした中で大正以降の高島では続々と焼玉エンジンの発動機船が造られ、沖合漁業がさかんになっていった。
大正時代の町文化は目覚しい発展を遂げていく中、やはり町民の職業は大半が漁業であった。当時高島〜手宮間は道路が狭く、交通機関は客馬車、冬は馬そりであった。荷物がかさばる際の運送も馬車であったが、魚商の女性はザルに魚を入れて、天秤棒で肩に担いで高島から手宮までの道のりを歩いて商売をしていたとされている。
小樽市の最盛期が大正13年から昭和4、5年頃までであると言われ、高島も着々と
近代化を進めていた。機船漁業も板につき、電話も機能するようになり、社会機能は整っていった。
 戦局が進む中で、小樽と高島は昭和15年に合併した。両群共に合併について問題を抱えていたが、多くの人の尽力あって合併が実現したのである。終戦を迎えた後は、小樽と高島は復興に向けて近代化に力を注いでいくことになる。



 第2章 高島の俗地名

前節では、明治維新から小樽との合併を果たすまでの高島を見てきた。これによって、今回の調査テーマである高島の俗地名との歴史的な関連性も踏まえてより理解しやすいと考える。
この節では、今でも高島に存在する俗地名をいくつか挙げる。聞き取り調査を通じての情報入手を試みたが、起源がかなりさかのぼるため、全てにおいて明確な証言を得ることはできなかった。しかし、実際にその地を訪れることによって歴史を物語る風景に出会うことができたのである。

地図1 高島の俗地名を大まかに表した。



(1)成金町

写真1 今も残る石垣が、かつて屋敷があったことを思わせる。

写真2 大きな石垣と今は使われていない屋号の付いた蔵。

写真3 かつて成金町に住んでいた富裕層の人々。 

・ 由来:ニシン漁で成功し、巨額の財を成した親方が豪華な屋敷を構えて住んでいたから。
・ 場所:現在の亀山商店裏から山に通じる3本の坂道のうち、最も小樽寄りの道に面した一帯。


(2)引越し町

写真4 比較的新しい家々が並ぶ。

写真5

・ 由来:大正8年10月の大火で焼け出された人々がこの付近に移り住んだから。
・ 場所:成金町の坂の隣に面した付近一帯。


(3)喜楽町

写真6 かなり坂を上った所に位置する。引越し町の上辺り。

・ 由来:明治から大正にかけて、親元から分家した次男、三男が新婚で気楽に住んだから。気楽ではなく喜楽という字が俗地名に使われていることに関しては明確な説がない。
・ 場所:引越し町の坂の隣の最も祝津に近い坂付近一帯


(4)稲荷町

写真7 境界が定かではないが、右に稲荷神社があるので右が稲荷町、左が沢町だと推定される。この道がかつて沢だった。

・ 由来:稲荷神社があることから。
・ 場所:現在の高島郵便局から坂に沿って開けた、稲荷神社の周辺地域一帯。


(5)沢町

・ 由来:現在は道路となっている所がかつては沢であったから。
・ 場所:稲荷神社へと入る手前の坂を少し登った、稲荷町と隣り合う地域一帯。


(6)励ましの坂

写真8 手宮バスターミナルを少し上った辺り。緩やかな坂。

写真9 緩やかな坂の後の急傾斜。自転車を押してでは到底上れなかった。

・ 由来:証言は得られなかったのだが、坂の上にある末広中学校まで上る時に生徒達が励ましあって上ったからという説。
・ 場所:手宮ターミナルから末広中学校までの坂。
・ 呪文:この坂を上る人は「人生は、重荷を負うて煤田山を上るがごとし、急ぐべからず。ただただ一心に励むべし」という呪文を唱えるという言い伝えがある。今この呪文を知る人は調査した中では出会うことができなかった。


 第3章 地名研究の見地から

(1) 幸福という地名について

前節にあるように、一つの地域においても俗地名を調査すればいくつも出てくる。ここでは、我々が定義している俗地名とはまた違った地名の観点から、北海道に実存する幸福という地名を例に挙げて考察する。
 昭和49年に「愛の国から幸福へ」のキャッチフレーズによって、愛国駅と幸福駅とを結ぶわずか60円の切符が一躍ブームを巻き起こした。格好のデートスポットとして注目を浴びたが、なぜこのような駅名になったかということに興味を示す人は今も昔もいないようだ。
 そもそも幸福という駅名ができたのは昭和31年のことであり、それまでは幸震駅であった。ではどのように幸福に変化し、幸福町という町名が誕生したのか。幸はもちろんそのまま付けられたものだが、福はどこから来たのか。
 実は、幸福町という地域一帯は、明治時代に主に福井県の人が移民して開発されてきた場所であり、福は福井県の福から付けられたのである。
明治中期、福井県の大野郡はしばしば大水害に見舞われた。復旧にめどが立たないまま、村民100人余りが故郷をあとに北海道に移住してきた。未開の地である十勝に足を踏み入れ、原野を目の当たりにした村民達はどんな思いで生活を始めたのだろうか。これからの生活への不安や希望、様々な思いから幸福という地名が付けられたのだ。


(2) 地名が表すもの

 地名とは、その響きや文字そのものに魅力を感じることはあるが、なぜそのような地名がつけられたのか、誰がどんな思いで付けたのかというルーツを探ることでより魅力的な発見がある。その地域にまつわる歴史や文化、生活などあらゆるものを引き出すことができ、価値ある発見につながるのだ。こんな地名があるのかと驚くだけでなく、小さな地名一つ一つに人々の思いや願いが込められていることを知る重要な手がかりであることを忘れてはいけない。
 また、今回定義した俗地名は、目に付く所には表示されておらず、その土地に暮らす人々しか認識されていない、いわば音声の世界に生きる地名である。耳にすることはあるが目にすることはない。だからこそ、その土地により密着しており、その時代においては重要度が高かった歴史があることを物語っていると言える。


 最後に

 本調査に際して、貴重なお時間を割いて様々なご指導、ご協力を頂きました小樽市立博物館運河館の石川直章先生、小樽市総合博物館の相馬久雄館長、小樽市高島町会の大黒昭会長に深謝いたします。また、多くのご協力をして頂きました小樽市の皆様へ心からの感謝の気持ちと御礼を申し上げたく、謝辞にかえさせて頂きます。


 文献一覧

高島小学校開校百周年記念称賛会  『新高島町史』
大黒昭     『高島町史 改定増補版』
堀耕      『高島の話』
谷川彰英    『地名の魅力』
上野智子    『小さな地名の調べ方』

そば屋から見る小樽のまち

1 小樽とそば屋
・小樽にそば屋が多いわけ
 明治時代、北海道は政府によって開拓され、また多くの天然資源の多い土地でもあった。特に夕張や美唄は石炭がよく取れた。その石炭などを本州に運ぶために小樽は政府の政策で本州と北海道をつなぐ強固な懸け橋となった。政府は北海道の開発に2000万を投入したが絶頂期には一年にそのうちの400万が小樽へ投入された。
こうして本州から北海道への入り口となった小樽には本州からたくさんの人々が仕事を求めやってきた。仕事を求めてくるほとんどは男性だったので小樽のまちは男性で溢れ返った。昼は仕事に精を出し、夜や休日は気を晴らすのがよかったのであろう、劇場などの歓楽街が増え、それに付随して飲食店も増えた。すし屋など様々な飲食業はあったが、その中でもそば屋は居酒屋や料亭やスナックの機能も兼ね備えていたので特に繁盛した。だから小樽にはそば屋が多いのである。

・小樽のそばは関東風
 先ほど「小樽には本州からたくさんの人々が仕事を求めやってきた。」と書いたがその中の多くは北陸出身の人が多く、また今あるそば屋の出身も北陸の出の人が多かった。北陸は関西に近いので蕎麦も関西風かと思っていたが意外にも関東風であった。一つは労働者は塩分・糖分をほしがっており、男性社会で成り立っていた江戸も同じ条件で、関東風のだしのほうがあっていたから。関西風ではだしをとるのに時間がかかることと、何より薄味だったので男性労働社会の小樽では受けいれられなかったのである。もう一つはその関東風の蕎麦を伝えたのが江戸から来た蕎麦職人であったことである。晴れて一人前の蕎麦職人になったところで、江戸の町にはすでにそば屋は飽和状態であった。そこで新たに働けるところを探した蕎麦職人たちは北海道へ向かい、そこで北陸から出稼ぎに来た人々に蕎麦を教えたのである。


2 まちとそば屋
 小樽には様々な市場やかつては電気館などもあり、それぞれのまちに多くの特色をもった所に思える。そしてそのまちにはそのまちのそば屋がある。そこでそば屋から見たまち、またまちの風土に影響されたそれぞれのそば屋を個々に取り上げる。

2−1 銭湯と「三マス本店」
明治10年ごろ、北海道で一番古い銭湯とされているのが信香町にある「小町湯」である。
この銭湯の経営者は銭湯と一緒にそば屋も経営していた。そして石川県から来樽してきた河本徳松がそば屋を買ったところ銭湯も付いてきて、それからも一緒に経営した。私が話を聞いた河本道子さんは毎日銭湯とそば屋を行き来し番頭とそば屋の接客と両方で働いていたらしい。最も繁盛していた時には午後5時に「朝ご飯」なんてことも珍しくなかった。お客は銭湯に入った後蕎麦を食べに来た人々や、海沿いの工場で働いている労働者たちで、工場にはリヤカーで100個もの蕎麦を運んでいた。ずっと繁盛し続けていた「三マス本店」であったが、20年前に当時(明治時代)のままの建造物が珍しいということで、北海道の「開拓記念館」に建物を寄付してからのれんを下ろすこととなった。

2−2 入船市場と「三マス支店」

大正7年「三マス本店」からのれん分けをし、商大通りの緑町に店をかまえた。しかし戦争が始まり経営ができなくなり、戦後も緑町に道路を作る計画が立てられ立ち退きを迫られたので、昭和24年入船市場の中に蕎麦屋を開業した。しかし経営は大変だったそうだ。蕎麦にはゆでたりつゆに使ったりと大量の水が必要である。しかし店から水道までが遠く、不便であった。そして市場は強い生活共同体である。市場は朝早く開店し夕方には店を閉めるので夜の商売ができなかった。このことから今の入船通りへ店をかまえることにした。市場に店があった時は出前が中心で市場の人や入船通りの商店の人に届けていた。

2−3 住宅街と「更科」

最初は都通りに店をかまえていたが借家だったことと予てから坂の上で、出前中心の店にしたかったことから入船の住宅地に開業。坂の上がよかったのは天狗山へのスキー客を狙っていたこともあった。客は都通りからの人が来る時もあるがやはり住宅街の人も多く、出前中心である。昭和50年ごろからはお年寄りの方が多くなったらしい。










2−4 料亭と氷菓―「伊佐美屋」

昭和11年花園町第二大通り学校通り下で開業する。出前中心の経営で、病院や消防署といった24時間体制のところへも出前をしていたため、深夜2時まで店を開けていたこともあった。住吉神社や水天宮が近いため、正月には参拝客が食べに訪れた。また夏場には蕎麦以外にアイスキャンデーを作っていた。これは店での販売ではなく、朝に駄菓子屋などに配達していたらしい。最初からアイスキャンデーではなく、大学芋など様々な甘味を蕎麦と同時に販売することを考えていた。これはおそらく子どもたちのためではないかという。昭和30年代には近くの「海洋亭」と「豊楽荘」という料亭に相当な量の生蕎麦を納めていた。
















2−5 労働者の色内―「一福」

明治27年開業し創業から115年となる。鳥取出身の一代目は北海道にひと旗あげようと入植した。そして明治34年に色内へ移転する。当時色内は「北のウォール街」と呼ばれるほど発展しており、活気があった。ここで働いている銀行員や呉服屋をターゲットとして移転したのである。これらの人々は毎日一生懸命働いているせいか疲れており、塩分を欲していた。なので蕎麦の味付けは今よりも濃かったという。





















2−6 電気館から商店街へ―「石川屋」

 電気館―今で言う映画館は昭和、小樽でとても流行ったという。小樽駅の前には多い時で50~60軒ほどあった。創業当時から稲穂町に店をかまえていた「石川屋」には映画を観終わった後にそばを食べに来る人が多かった。今の閉店は夜7時であるがその時は夜10時くらいまで店を開けていた。しかし電気館のない現在は商店街など町の常連客が多いそうだ。またこの店は、戦時中も開店しておりそば粉などの材料が入手しにくかったため、代用品として海藻の粉、「カイホウ麺」を使って蕎麦を打っていた。




2−7 国道5号線と「かねさく」

 最初は住之江の新廓の遊び人相手に担ぎ屋台を始めるが、明治29年の住之江町大火のために商売にならず、閉店。それから色内川畔に移転し、労働者相手に屋台蕎麦屋を始めた。当時は手宮野高島の道路の工事現場までかついでいた。店をかまえたのは大正3年頃で、国道5号線の付近で稲穂町を中心に出前を行っていた。昭和に入ってからは色内の小学校や富岡町ニュータウンまで出前をとっていた。だがニュータウンはまだ人が根付いていないため、あまり注文はなかったという。昭和初期国道ではダンスホールがたくさん建っており、その客で店は賑わっていたがそれがつぶれると今度は電気館が建ち、電気館がつぶれるとまたダンスホールができた。また近くには中央市場や銭湯もあり、その帰りの人がよく訪れていた。

2−8 満州引揚者の中央市場と「たかはし屋」


 昭和13年から緑町で菓子屋を経営していたが、先代が戦争で満州に行き、その後満州からの引き揚げ者が作った中央市場で食堂を開いた。当時は食べ物であれば何でも売れたこともあり、お弁当を配達していた。蕎麦の出前も取っていたが圧倒的に弁当が売れたという。しかしコンビニができたことや駅前に長崎屋ができたことで人の流れが変わり、弁当はほとんど売れなくなった。そして昭和50年ごろに今のように蕎麦屋として営業することとなったのである。






2−9 手宮市場と小産業―「ヤマカ加藤」

 最初はラーメン屋台であったが大正14年手宮へラーメン屋として店をかまえる。それから蕎麦も始める。手宮は昔、水産業が栄えており出前のほとんどは水産業で働いている人たちであった。そば屋の近くにはキャバレーなどがあり、色内や稲穂などの中心街から船員さんが多く訪れて、その帰りなどに店にも寄ってきた。水産業のおかげで手宮市場も繁盛しており、市場から帰る人々もよく蕎麦を食べに来ていた。しかしだんだんと漁獲数も減り、水産業も衰退していったので今のお客は出前と近所の人々が中心である。また手宮より市街地へ離れた所には蕎麦屋はない。



おわりに
 私が現在住んでいるまちや、故郷にはこれほど多くの蕎麦屋はなかったので、なぜこの小樽には蕎麦屋があるのか気になったのが調べようと思ったきっかけである。インタビューをしているときよく「別に蕎麦屋でなくてもいいじゃないか」と言われることがあったが、この小樽というまちと根付いた蕎麦屋だからこそ見えてくるものがたくさんあったように思える。また場所によって一つ一つ蕎麦屋に違いが出てきたことは予想外であった。この調査書を作成するにあたってインタビューを受けてもらった蕎麦屋の方々に深く感謝します。


文献一覧
1970 『小樽麺業界の歩み』小樽蕎麦商工組合
2001 『小樽の蕎麦屋100年』小樽商工組合創立100周年記念大会実行委員会

小樽と映画館

吉田 依里香

はじめに

アメリカの発明王エジソンがキネトスコープを発明したのは明治22年(1889年)のことだった。その7年後の明治29年の秋、日本の神戸に初めてキネトスコープが上陸し、新開地を拠点に次々と映画館ができる。そして早くもその1年後小樽の小樽の末広座、住吉座でシネマトグラフ「電気作用活動大写真」が上映され、小樽「映画館の時代」の幕開けとなった。その後も映画館は次々に開館し、大正末期には10館を超え、ピークの昭和30〜36年には23館にまで増えた。人口比にして北海道一の映画館のまちになったのである。しかし昭和30年代後半から映画の人気は衰え始め、市内の映画館はあいついで閉館し、平成7年に最後の小樽東宝スカラ座が閉館し、小樽「映画館の時代」は幕を下ろした。
本レポートでは、小樽「映画館の時代」を支えた単独映画館(以下、単館)それぞれのエピソードや小樽の元映画技師下田修一さんへのインタビュー、映画館がその後どういった道を歩んだのか、そして現在の花園町での取り組みをとりあげる。


1章 映画館の時代

(1)単館の世界

21世紀、平成も20年過ぎた今、地域の昔からある小さな映画館で映画を見る人はどれくらいいるのだろうか。いまや映画館といえば大型ショッピングセンター内にある「ワーナーマイカル」の「シネコン」が主流で、大都市大阪梅田でも東宝映画の三番街シネマが平成19年に閉館に追い込まれた。単館にはシネコンにはない個性ある魅力がたくさんあった。では小樽の単館にはどんな世界が広がっていたのだろうか。
小樽の映画館は芝居小屋をルーツにしているものが多い。北海道開拓の時代、本州から渡った開拓史たちの娯楽のために旅の芝居一座が道内を回ったのが始まりだった。明治の中ごろから芝居小屋には内地の役者が来なくなって経営難に陥ったので当時まだ目新しかった映画を上映しだしたのだった。その芝居小屋の名残である桟敷の映画館が小樽にはあった。富士館、中央座(のちの日活オスカー)、電気館の2階が戦前まで桟敷だった。なんと若松館は昭和45年まで桟敷が残っていた。
戦前のスパル座では鈴木澄子主演の映画「化け猫騒動」を上映した際には、まず封切りの前に化け猫のたたりが出てはいけないと神社にお参りに行ったそうだ。そして上映中も化け猫の霊が出てはいけないのでスクリーンの横にお供え物を置き、見終わった客に帰り際に「お清めの餅」を配るという徹底ぶりだった。こういうところに単館の個性が出ていておもしろい。
戦後、昭和26年の映画館の入場料は4円99銭だった。なぜこんなスーパーの安売りの値段みたいな中途半端な額なのか。それは5円からは税金がかかるために映画館の考えた対策だった。でも5円払って1銭お釣りをもらうような人はいなかったという。そんなころ、「蟹工船」が小樽で上映された。この蟹工船の上映でハプニングが起きた。スクリーンを破いてしまった人がいたのである。その人は元海軍軍人。海軍といえば蟹工船の中では労働者をいたぶる悪役。映画の中での軍人の描かれ方に腹を立てスクリーンを引きちぎったのだった。客が破ってしまえるほど小さなスクリーンだったのだ。
昭和30年代になると小樽の映画館は全盛期を迎えた。映画館周辺は活気づき、昭和の懐かしい風景が広がっていた。中でも一際目を引くのが迫力ある大看板やノスタルジックなポスターたちだ。看板をどのように飾るか、ポスターをどこに貼るか、映画技師たちの腕の見せ所だった。図1の「007」の映画の看板(写真1) 撮影者下田

にはある工夫が施されている。客は映画館に入るとき、主役の男女の股の下をくぐって映画館に入るレイアウトになっている。映画館に入る瞬間から映画の世界に入ってほしいという技師たちの粋な計らいである。
 看板だけでなく、ポスターにも物語がある。元映画技師下田さんは「ポスター戦争だった」と語る。映画館の激戦区でポスターを貼る場所を開拓するのは至難の業だった。とくに東映劇場と東宝スカラ座と花園映劇は競いあってポスターを貼っていた。このポスター貼りには一つだけルールがあった。それは「他の映画館の近くには絶対貼らないこと」だった。違反するとすぐにポスターははがされた。ポスターは主に古い木造家屋や商店のウィンドーに限られていたので各館の競いあいが激化し、衝突が起きたこともあった。そんなときは話し合って「上映が始まったら他の映画館に譲る」ということになった。人情味あふれる単館同士ならではのことではないだろうか。ただ悲しいことに、のちにこの譲り合いは閉館した映画館がまだ生き残っている映画館に「ポスターの縄張り」を譲ることにもなった。
 ポスター戦争を繰り広げていた花園映劇にはカーボン映写機という珍しい映写機があった。カーボンを燃やした火で照明をとる映写機で小樽にはこの花園映劇にしかなかった。このカーボンで燃やした火は普通の映写機の電球よりも明るく、1番きれいな映画を上映できたそうだ。しかしこの映写機はカーボンの取り扱いが難しく、操作はめんどうだった。この高度な技術を要する映写機とそれを巧みに取り扱う技師がいる映画館だった。

(2)小樽の中の「東京」

大正3年、「電気館」(写真2)
が現在の都通りにオープンした。当時映画は「電気作用活動写真」と呼ばれていて、明治36年東京浅草に日本で初めて映画専門興行館として「電気館」が開業した。この浅草の電気館にあやかって小樽にも電気館ができたのだ。それで電気館周辺は東京浅草にちなんだ地名がつけられるようになった。電気館前から第一大通りまでの50メートルくらいの細い路地を「仲見世通り」、電気館から南へ2筋向こうの通りを「浅草通り」と呼ぶ(写真3)
この名は、東京浅草を模して明治末期に付けられたという。
 電気館周辺だけでなく、小樽にはもう一つ「東京」があった。小樽にはかつて北郭と南郭(写真4)
という遊廓があった。小樽の遊郭は舟に関係する人たちが主に利用していた。北郭は舟で仕事をしている労働者が行く低所得者向けで、南郭はその舟でやってきたお金持ちが行く高所得者向けの遊廓だった。この南郭は鯉川楼の八木周蔵が作ったもので入り口には今も現存している大きな桜の木があり、大門をくぐれば大門湯という銭湯があった。南郭は仲ノ町、京町、柳町、弁天町、羽衣町で構成されており、東京吉原遊廓と同じ地名である。東京の吉原がそのまま小樽に引っ越してきたような感じだ。戦後になって八木周蔵が女性たちを解放して南郭は消滅するが、実はこの八木周蔵は映画館を2つも作っている。スパル座とスパル座地下が八木周蔵の映画館だった。戦前に遊廓と映画館、そして鯉川温泉まで手がけた八木周蔵とはどんな人だったのだろうか。非常に興味深い人物である。

(3)小樽の元映画技師 下田修一さん
 
小樽の映画館の終焉を看取った映画技師がいる。下田修一さんだ。下田さんは小樽日活劇場から花園映劇、小樽東宝スカラ座、プレミアシネマズへと小樽の4つの映画館で働いてきた。しかし今、映画館は小樽築港駅にワーナーマイカルシネコンが1つあるだけだ。このシネコンの登場が小樽の映画館の衰退に拍車をかけたことは言うまでもない。豊富な客席数に、きれいな館内、そして一つの映画館でたくさんの映画を一度に見られる。たしかにシネコンが1つあればいいのかもしれない。だが、シネコンにも多くの長所があるが、短所もある。小樽のワーナーマイカルも大阪のワーナーマイカルも神戸のそれもどこに行っても同じサービス、同じ風景が広がる。つまり映画館に個性がないのだ。人々は映画を見た記憶を映画館という場所とともに思い出にすることはできない。
 映画を見ようと思って劇場に行く。誰しもが最初にするのは窓口で座席を決め、チケットを購入することではないだろうか。ところが、単館には指定席はない。満席になってしまったときは立ち見も可能だった。常連さんの中には「自分は絶対この席だ」というのを持っていて自分だけの指定席を作ることができた。その「自分だけの指定席」は「自分の居場所」だった。
 そして席についてスクリーンを見ると予告が流れている。それからワーナーマイカルのキャラクター、バックスバニーが上映中の注意や案内についてしゃべりだす。中でも次のシーンに注目したい。バックスバニーが「上映ミスやサウンドミスを見つけたら劇場の係員に知らせてほしい」と言い、画面が意図的に二重になる。「おい!ずれてるぞ!」というコメントとともに画面は通常に戻る。このバックスバニーのセリフに下田さんは疑問を感じている。「ベテランの映画技師がいる映画館で、ミスは許されない。フィルムが逆さまになったり、画面が動かなくなったり、音が出なくなるようなことは技師のプライドとして絶対ありえない。」と悔しさをにじます。
 いよいよ映画本編の上映になるとき、シネコンと単館の決定的な違いが出る。スクリーンカバーだ。ワーナーマイカルなどのシネコンではスクリーンがむき出しの状態になっており、単館には左右にカーテン状の、舞台などでよく見られる幕がある。シネコンでは映画上映の合図は館内が暗くなるだけだが、単館は幕が開く。この幕でも映画技師の技術が試されるのだ。この幕の開閉、実はとてもタイミングが難しいのだ。オープニングではタイミングよく開けなければならないし、エンディングでは余韻を残しつつ閉める。技師たちの観客に対する思いやりで開閉するスクリーンカバー。スクリーンカバー一つにも技師の思いがこめられているのだ。
「映画館のコンビニ化だ」と下田さんは言う。利便性、効率性を重視し、人と人とのコミュニケーションがなくなる。今の映画館は便利さだけが追求され、さらには全国展開、大量配給、まるでコンビニだ。コンビニやスーパーが商店街から客を奪ったように、映画館も同じ道をたどっている。また下田さんは著書のなかで「『小樽・映画館の時代』の最後に、かろうじて滑り込みに間に合った」とこうも述べている。下田さんは映画館のピークが終わり、衰退に向かいつつあった昭和50年から平成11年を映画館とともに歩んでいる。今でも下田さんは、小樽文学館で「小樽・映画館の時代」という企画展に協力したり、自ら講演を行ったりして今でも人々から小樽の映画館の記憶を消さないように活動している。

2章 映画館のその後

(1)各映画館のその後

小樽にはピークで23館もの映画館があった。明治から平成まで全ての映画館をあわせると39館もあり、とくに転業先や廃業時に特徴のあるものを以下の表にまとめた。

映画館     廃業、    転業先
高島劇場・・・・・スーパー
若松館・・・・・・スーパー
錦映劇場・・・・・スーパー
新星映画劇場・・・スーパー
入船映画劇場・・・スーパー
手宮劇場・・・・・出火後改装復旧、閉館後スーパーへ転業
富士館・・・・・・焼失後再建、 また焼失、廃業
電気館・・・・・・焼失後再建、 また焼失、廃業
住吉座・・・・・・焼失、廃業
末広座・・・・・・焼失、廃業
星川座・・・・・・焼失、廃業
八千代館・・・・・焼失、廃業
公園館・・・・・・焼失、廃業
大和館・・・・・・焼失後、倉庫に転業
松竹映画劇場・・・焼失後ダンスホールへ、さらにボーリングへ転業
日活劇場・・・・・ボーリングに転業、また映画館に戻る
東宝スカラ座・・・ゲームセンター

小樽市史、下田さんの話から作成

 こうして表を見ると、開拓の昔から火災の多い町とされてきた「火災の街小樽」がくっきり浮かび上がる。映画館の消滅の原因に火災が多い。とくに富士館や電気館は2度も火災に見舞われている。巻き添えになったのもあるが、映画館の映写室からの出火という映画館自体も小樽の火災の原因のひとつになっている。
また中でも1965〜70年代に転業先として目立ったのがスーパーだった。映画館のピークに陰りが見え始めた頃と、商店街や市場からスーパーが台頭しだした頃がちょうど同じ昭和30年代後半だったのだ。映画館も商店街も高度経済成長の波に押され、近現代化への転換の時を同じくしている。
 そして高度経済成長とともに娯楽の多様化も進んだ。テレビの家庭への普及により映画館への来場者の減少、ボーリングやスケート場など新しい娯楽施設も生まれた。それを受けて松竹映画劇場や日活劇場はさっそくボーリング場に転換している。しかしボーリングの流行もつかの間、日活劇場はまた映画館に戻った。スカラ座はゲームセンターになり、生き残りの策として一般映画館から成人映画館へと転換した映画館もあったが、レンタルビデオ屋の登場に敗れた。そして平成7年、東宝スカラ座が閉館して単館は小樽から姿を消す。
 2009年9月、かつて映画館が密集していた花園町(写真5)
を訪れた。ここには東映(写真6)
スパル座(写真7)
日活(写真8)
東宝劇場(写真9)
花園映劇(写真10)
松竹座(写真11)
の6つの映画館が同じ町内に軒を連ねていた。閉館後、いろいろ姿を変えてきた映画館たちは最終的にどのようになっているのだろうか。
 映画館の建物は面影もなく、ほとんどが駐車場になっていた。スパル座はスパルビルというスナックが複数入った夜の商業施設に、松竹座はマンションに変わっていた。90年代から駐車場になる映画館が急増したのはバブルが終わり、新しく何かを建てるよりも更地にするほうが楽だったためだろう。

3章 花園町とキネマ祭

(1)花園町 人々の記憶
 
夜になると立ち並ぶ料亭の明かりが辺りを照らし、寿司屋通りにあった妙見見番という置屋から派遣されてきた芸者たちが華やかに行き交っている。戦前、花園町は人々が続々と集まってくる小樽随一の歓楽街だった。稲穂町から花園町へかけて置屋は29軒、芸妓が90名所属しており、その繁栄ぶりを証明している。ところが昭和12年ごろから軍人の出入りが目立つようになった。そして16年にはついに軍部の統制を受け、料亭は軍部専用のものになり庶民から遠い存在になってしまった。
現在も稲穂町から花園町にかけての地域はスナック街の嵐山新地(写真12)
や、飲食店が立ち並ぶ繁華街である。しかし花園町(写真13)
がにぎわっていたのは夜だけではなかった。かつて、花園町には前述した6つの映画館があったのだ。
「子供のころ、よくタダで映画を見せてもらったなぁ」と東宝劇場の隣にある三川屋のご主人は懐かしそうに話してくれた。昔、映画は「実演」と呼ばれており、女優がPRしに映画館まで舞台挨拶に来ていたのだ。美空ひばりこまどり姉妹ザ・ピーナッツなど大物芸能人たちの来館に花園町は沸いた。芸能人は東宝劇場の非常口から抜け出して、三川屋を控え室として利用したそうだ。そのお礼に招待券をもらえたので、子供のころから映画館は遊び場の一つであり、なじみ深い場所だったという。越後商店の大正生まれのご主人は松竹座、中央座(のちの日活)で弁士のいる無声映画を見たことがあるそうだ。BGMもその場での演奏で洋画なら楽隊が、邦画なら三味線の演奏があったと当時を振り返る。このまま、映画館は当時を知る人々の記憶の中に埋もれていってしまうのだろうか。

(2)キネマ祭
 日本で3番目に鉄道が開通してから炭鉱でにぎわい、戦後には樺太からたくさんの人が引き揚げてきて小樽は港町として大きく発展した。だが戦後になって北海道の経済の中心が小樽から札幌へと移ってしまったため、小樽は衰退してしまった。しかし小樽運河をPRした観光事業の成功により、小樽はにぎわいを取り戻した。小樽運河の成功の影で、衰退の一途をたどるままだった花園町。その花園町で「映画の都復活祭・小樽キネマ祭」が平成18年に開催された。同祭は今年(平成21年)で4回目を迎えた。この祭りの内容は野外にスクリーンを用意し、昭和の小樽の映画を上映するというものである。また、抽選会や屋台などもある(写真14)
運河に客をとられることと、商店街の衰退を防ごうと花園映劇の跡地の裏にある石倉のスナックの人が呼びかけたのがきっかけだった。祭りは花園映劇の跡地で開催し、石倉をスクリーンに石原裕次郎の映画を上映する。この映画上映は石原裕次郎記念館とのコラボで実現した。お客さんはほとんど花園町の人だが、なかには小樽商大生もちらほら見受けられる。しかし若いお客さんは映画自体に興味はなく、水天宮のお祭りに合わせた開催なので、なんとなくお祭りの雰囲気につられて来場している人が多いという。会場には映画関係者もおらず、せめて当時の雰囲気の映画館のセットでもあれば、「映画の都」を強調できるのではないだろうか。

おわりに

 今、小樽の街にはかつて映画館の街だったころの面影がまったくといってない。映画館だった建物も今となっては駐車場やマンションだ。「小樽と言えば」と聞かれたら多くの人が「運河」と答えるだろう。「映画館がたくさんあったね」と答える人はこれからだんだん少なくなるだろう。映画館は単館からシネコンへと時代とともにシフトし、映画館も技師の技術いらずの機械化、個性なきチェーン店化の時代を迎えた。そんな中、花園町は映画の街の記憶を復活させ、町おこしに励んでいる。嵐山新地やスナック街に昭和の面影が残っている。その映画の街復活祭で、もし昭和の情緒あふれる映画館や街並みが再現できれば、今注目されている「B級観光」のスポットになりうるのではないか。観光地化だけが町おこしではないが、映画館の記憶の灯火が消えないようにこれからも毎年キネマ祭が開催し続けられることを願う。


この研究をレポートとして形にすることが出来たのは、担当して頂いた島村恭則教授の熱心なご指導や、下田修一さん、越後久司さん、花園町の商店街の方々のおかげです。協力していただいた皆様へ心から感謝の気持ちと御礼を申し上げたく、謝辞にかえさせていただきます。  





文献一覧

下田修一
 2007 『エッセイ集 レトロな映画館につれてって』緑鯨社。
小樽市
 2000  小樽市史 第10巻文化編
《小樽なつかし写真帖》編集委員会
 2007 「月刊小樽なつかし写真帖」発行 どうしん小樽販売所会。
神戸100年映画祭実行委員会/編 神戸映画サークル協議会/編
 1998 『神戸とシネマの一世紀』 神戸新聞総合出版センター

URL
http://www.shurakumachinami.natsu.gs/03datebase-page/hokkaido_data/otaru%20hanazono/hanazono_file.htm
http://theaterkino.net/yomoyama/015.html

高島の伝統行事とアイデンティティ

高島の伝統行事とアイデンティティ

はじめに
 このレポートは社会調査実習の一環として、北海道小樽市で行った調査をまとめたものである。私は小樽市の一地区、高島地区にて主に聞き取り調査を行った。その上で、高島地区における七夕行事、高島越後盆踊りといった伝統行事を通して、高島という町について調査をした。

 第1章 高島という町

 (1)高島地区の成り立ち

 高島地区は石狩湾に面した小樽市の西北部、北防波堤からカヤシマ岬の間の海岸沿いにある集落で、赤岩山へと連なる丘陵地帯に住宅地が広がっている(写真1:高島の町並み。丘陵地帯に住宅が広がる)


 今では小樽市に合併してしまったが、かつては高島郡高島村が存在した(写真2:旧高島町役場庁舎。現在は小樽高島診療所)

  高島にはかつてアイヌの人が暮らしていた。江戸時代、場所請負制によって高島場所を受け持った西川伝右衛門によって、高島場所が開かれた。高島はニシン漁で栄え、アイヌの人に和人がニシンの漁法やホタテ、サケの塩蔵などを教えていた。出稼ぎの漁民もたくさん本州から渡ってきて、高島は漁業が大変栄えていた。ニシン漁の時期には、古着屋、煮売り屋、髪結所なども開店していた。しかし、ニシン漁の時期を除いて高島に残る和人はいなかった。和人は春に来て秋に帰ってしまい、冬季はわずかな人数の番人を残すだけであった。アイヌの人たちは数箇所にまとまり、ずっと暮らしていた。
 その後、場所請負制の廃止、明治維新によって人の流れが自由になると、高島にも移民がやってきた。高島村としては明治二年に十三戸、四十四人が移住してきた。高島への移住者は、越中、越後、佐渡、庄内、出羽、津軽など北陸や東北地方の人がほとんどである。聞き取りによれば、今でも年配の住民の方は、自分たちのことをご先祖様の出身地である土地をつけて「〜衆」と呼ぶそうである。高島がひとつの行政としての町でなくなってしまった今でも、彼らは自分たちのルーツを強く意識しているのである。小樽市ではあるが小樽ではない雰囲気をそこに感じた(写真3:高島の町並み)


(2)移住者が伝えたもの

 さて、高島に移住してきた人たちはそれぞれの土地の文化もそこに伝えた。北海道の小京都、松前町に京風の文化が今でも残るように、北前舟はモノ、人だけではなく、土地の風習や行事も一緒に運んできたのである。その中でも高島には興味深い伝統行事が今でも残る。
 まず、七夕行事というものがある。これは青森、秋田のねぶた、ねぷたというものが移住者とともに伝わったものである。これについては後で詳しく述べる。
 次に越後盆踊りというものがある。これは名前のとおり、越後衆によってもたらされたものである。これも後ほど詳しく述べる。さらに、越中から伝わったといわれる山車をぶつけ合うお祭りが、昭和のはじめまで残っていた。行事を主催するのはそれぞれの土地出身者である。自分たちの先祖の土地より運んできた行事を主催し、それを町の人全員で楽しむ、これが高島のスタイルである。

第2章 高島にともる七夕の灯

(1)七夕行事の概要

 高島に伝わる七夕行事は、上でも述べたように東北地方から伝えられた。毎年の八月六日、七日に青森・津軽地方の「ねぶた」さながらの人形ねぶたや、扇の形をしたねぶたが町内をねり歩くのである(写真4:青森の特徴を持ったねぶた、5:町内を練り歩く「やま」高島郷土館ホームページより)

ねぶたの形によって、青森のどこのねぶたに似ているというものがある。津軽五所川原などの特徴を持った形のねぶたが存在する。この行事はやはり、いまでも青森の津軽出身者の子孫の方たちによって主催されている。
 高島の人たちはこのねぶたのことを「やま」と呼んでいる。この「やま」を夏休みになると、地元の子供から大人まで、みんなで協力して作るのである。昔は細い木などで作った角形の城や塔など、そしてねぶたに描かれるようなデザインが多かったそうであるが、最近ではテレビや漫画の主人公をくみ上げたものが多い(写真6:ピカチュウカレーパンマン

特に人気があるのはポケモンアンパンマンといったキャラクターである。この「やま」昔は垂木で組んだ櫓の上に乗せて四人で担ぎ、やぐらの中の一人は歩きながら太鼓をたたいた。後の子供たちは、絵や文字が描かれ、ろうそくを灯された灯籠を持って、「やま」の前を歩く。そして、太鼓の音に合わせて掛け声を出し、ほかの「やま」とすれ違うときにはやし立てるのである。しかし、時代の流れとともに行事も変わっていった。近年は担いで歩くこともなく、リヤカーや軽自動車にのせ、ローソクも電球に変わってしまった。
 かつて、「やま」に使うローソクは子供たちが集めていた。家々を回って、ろうそくを自分たちで集めるのである。高島の人たちも、夕方から家の前で子供たちを待ち、「やま」の出来栄えを褒め、ローソクを用意して、お金やお菓子とともに渡すことが習慣になっていた。そのときに、かつては子供たちがローソクもらいの歌を歌っていたそうだ。「ローソク出せ、出せよ、出さねば、かっちゃくぞ」といった具合に。しかし、このローソクもらいというものは今ではもうその形を変えてしまった。かつては高島の地区だけではなく、手宮から小樽の市外まで「やま」を引っ下げて出かけていたものの、ローソクをもらって歩くことが、物乞い、物貰いのようであるといった声を受けて、高島地区から町外へ「やま」が出て行くことはなくなってしまった。博物館の清掃員の方に伺った話では、十年から二十年ぐらい前になくなったとのことであった。
 そのかわりに、高島町会の青少年部が中心となって、町内パレードと「やま」コンクールが実施されるようになった。コンクールでは立派な「やま」に対して、賞が授与されていた。パレードだけではつまらないから、コンクールをするということになったということであった。
 高島でも少子化が進み、かつては五十基以上の「やま」が集まる、住民にとっての一大イベントであった七夕祭りも、だんだんとその存在意義が問われることになってきた。そして平成十年、祭りの中止とともに、七夕の灯は消えてしまった。
 しかし、五年後の平成十五年夏、高島小学校創立百二十周年記念にあわせて、保護者たちが七夕祭りを再現して校区内をパレードしたことがきっかけとなり、祭りが復活することとなった。山作りの技術を子供たちに伝えようと、七夕の前に講習会が行われることになった。子供も大人も競うように「やま」を作り、高島の町をパレードしたのである。かつての賑やかさには及ばないが、高島の町に再び灯がともったのである。
 
(2)大黒さんと高島

 上で述べた話は高島町会会長の大黒昭さんに伺ったものである
大黒さんは元小学校教諭で、ご先祖様は青森の津軽出身。高島に来て、四代目の方である。生まれは東京だが、二歳のときに高島に移り住んだ。それ以来、ずっと高島に暮らしている高島っ子である。ではその大黒さんと高島のかかわりについて見ていきたい。
 大黒さんのご先祖様は廻船問屋の仕事に従事していた。明治二年に船が難破、遭難し、新天地を求めて蝦夷地に渡ってきた。なるほど、大黒屋といえば廻船問屋の響きを感じる。私だけであろうか。
 大黒さんは教師として教壇に立つ傍ら、郷土の伝統を守るための活動をしてこられた人である。具体的にはたこ作りがあげられる。大黒さんは小さいころから祖父にたこ作りを教わったそうだ。そのたこというものは津軽の伝統工芸品である。ご先祖様が高島に伝えたものを、今でも大黒さんは地域の子供たちに指導している。たこ作りの名人で小樽職人の会の一人にも数えられる。
 私は大黒さんに、かつて高島に暮らしたアイヌの人たちはどこへ行ってしまったのですかと聞いた。アイヌの伝説が残るなど、アイヌの人たちの存在が高島にもたらしたものは多い。高島大黒さんの話では、かつて氏の同級生にもアイヌの人はいたそうだ。肌が透き通るように白く、髪は大変黒く、長い。それはもう大変な美人だったそうだ。そんなアイヌの人たちも、時代の流れとともに同化してしまって、今では区別がつかなくなってしまったとのことだった。ただ、アイヌにルーツを持つ人はいるということだった。
 さて、そんな大黒さんであるが、彼はずっと七夕祭りを見守り続けてきた。七夕祭りがなくなったときは大変悲しかったそうだ。しかし、大黒さんの高島に対する思いは熱いものであった。高島町会会長として、七夕祭りの復活に向け奔走した。そのかいあって、七夕祭りは復活した。高島の七夕祭りを復活できたのは、大黒さんの役割が大きかったのである。
 大黒さんは今でも高島のために活動している。高島町会会長として、七夕祭りはもとより、盆踊りや十月に開催される町民文化祭にも関わっている。私が彼を訪ねたときは、大変多忙な日程の合間を縫って、私に対して詳しく、そして熱く高島について語ってくれた。大変気さくな方で、私の質問に対して熱心に答えてくれた。本当に感謝したい。

第3章 高島と越後の調べ

(1)越後から高島へ

 高島には津軽出身者とともに、越後出身者が多い。どこから来た人が多いというところまではっきりしている。移住してきた人の出身地は、新潟県北蒲原郡紫雲寺町からの人が多い。現在の新潟県北蒲原郡紫雲寺町市町村合併によって、新発田市になっている。この地域は日本海側の海岸線に沿って半農半漁の村々が点在していた。これらの村々では、明治の初期のころから高島に少しずつ移住が行われていた。特に明治十年頃、藤塚浜で村の三分の二が消失するという大火があり、これを契機に大量の移住者が出たとのことである。現在、高島には「須貝、本間、小林」といったせいが大変多いそうであるが、これらの方々の先祖は、この藤塚浜からの移住者であるという。
 私はこの北海道から帰った翌月、実際に新潟県北蒲原郡紫雲寺町を訪れた(写真8:新潟県北蒲原郡紫雲寺町藤塚浜地区)

現在は新発田市になっていたが、藤塚浜の地名は残っていた。そこで集落を注意しながら歩いていると、確かに「須貝、本間」といった性が多かった(写真9:藤塚浜の町並み。須貝、本間の姓が多い)


とても静かな集落であった。しかし、どこか高島に似たような雰囲気を私は感じた。集落から宿泊している民宿に帰り、民宿の御主人に事の次第を話した。すると御主人は戦前から戦後すぐの紫雲寺町と北海道とのつながりについて話してくれた。
 新潟県北部北蒲原郡は当時としては大変人口が多いところであった。この町だけに限らず、新潟県は人口が多かった。戦前から戦後の食糧難の時代に、この土地の人たちは北海道に出稼ぎに出かけて言った。家族を養うために。御主人の親戚の方も北海道に出稼ぎに向かい、帰還した際には塩鮭、塩カレイなどの塩魚をお土産にもらったという。これらの出稼ぎに向かった人は、かつて彼らに先駆けて北海道に向かった人たちの後を追いかけていったのである。藤塚浜の人たちは、生きるために北海道に向かったのである(写真:新発田市に現在も残る、戦後の名残を残す公設露天市場。出稼ぎに行った人たちはこういったところで商いをしていたのであろうか。)


(2)高島越後盆踊り

 故郷を遠くはなれ、北の果ての漁村高島での生活を始めた移住者たちは、お盆になると先祖たちが眠る藤塚浜に思いをはせながら、故郷の盆踊りを踊った。それが現在の高島越後盆踊りである。つまり、移住者たちの故郷、藤塚浜は高島越後盆踊り発祥の地である。
 高島盆踊りとはどのようなものなのであろうか。詳しく見ていきたい。越後でこの盆踊りが始まったのはいつごろか定かではないが、おおよそ江戸時代初期ということらしい。当初は笛だけで踊っていたが、後に囃子唄を伴った踊りが加わり、今日のような笛と太鼓だけで踊る「高台寺踊り」と呼ばれるものと、太鼓の囃子と盆唄で踊るゆっくりとした踊りの二種類が高島に移住者とともに伝えられたということである(写真10、11:高島にある高島越後盆踊り記念碑)

 高島越後盆踊りの歌詞を実際に見た(写真12:越後高島盆踊りの歌詞)

その内容は故郷への思いや、若者の恋の歌、漁の安全を祈る歌まで様々なものがあった。七夕祭りの話を聞いた大黒さんによれば、盆踊りの場は男女の出会いの場であったそうだ。普段はなかなか声をかけることができない、気に入った娘と懇ろになるチャンスであり、大変盛り上がったという話である。娘と話がまとまれば盆踊りを抜け出して、浜に降りていって一夜を共にすることもあった。このようなこともあり、その娯楽性の強さから、第二次世界大戦中は盆踊りが中止の憂き目に会った。戦後はいち早く復活したが、もはや昔のものとは変わってしまったという。
 平成十三年、高島越後盆踊りが小樽市の無形民俗文化財に指定され、同十六年、北海道文化財保護功労賞を受賞した。近年では都市を追うごとに行事も活発になってきており、高島地区以外の人たちも参加し、大変な盛り上がりを見せている(写真13:盆踊りの様子。高島郷土館ホームページより)

 先ほど述べたように、私は実際に藤塚浜を含む新潟県中部から北部を訪れた。民宿のご主人は私が宿を出る朝、興味深いものを持ってきてくれた。それは約十年前、藤塚浜の老人ホームで行われた敬老会における、盆踊り大会の音声を録音したものであった。カセットテープから流れてくる越後の調べは、私が高島で聞いたもの、また大黒さんに資料としていただいた、CDROMに収録されていた高島における盆踊りの調べとまったく同じものだったのである。私は正直なところ、多少は新潟と高島で音の響きというものが違うであろうと思っていた。しかし、メロディーからお囃子の調子まで、まったく同じだったのである。確かに後日、新高島町史を読み直したところ、平成十六年に藤塚浜の住民が高島を訪れて、一緒に盆踊りを踊ったところ、一度もあわせたことがないのに、笛や太鼓のリズムも、踊りの振りもまったく同じであったということが記述してあった。大黒さんもそう述べていた。
 はるか故郷を離れても、盆踊りを踊るたびに故郷のことを思い出したと高島のある人は言っていた。そのつながりを示すがもうひとつある。それはかつて、いや未だに高島の越後出身者の中には越後に本籍を残している人が多いということである。かつて、大黒さんが教壇に立っていたとき、クラスの生徒の本籍地はほとんどが新潟県北蒲原郡、すなわち彼らのご先祖様の出身地であったそうだ。これはいまでも移住者が故郷とのつながりを持っている証拠である。やはり故郷との縁は切っても切れないものなのであろうか。

第4章 伝統行事の再生

(1)変化する伝統行事

 今までに述べてきた七夕祭り、高島越後盆踊りといった伝統行事というものは、今でも形の上では伝統行事として残っているが、もうかつての姿ではない。少子化による祭りの担い手の減少や、時代の流れとともに祭りの姿は大きく変わってしまった。かつて住民たちは自分たちの故郷のことを思い、伝統行事にも精を出していた。しかし、だんだんと自分たちのアイデンティティーを意識する人たちが少なくなってきたことによって、このような行事も規模が小さくなり、新しいものに生まれ変わってきている。そして、今では観光客もこれらの行事に参加している。つまり、これらの祭りのあり方が、地区内の人たちのアイデンティティーを保つ、忘れないようにするという本来の目的から、伝統行事によって、希薄になった人のつながりや子供とのふれあいというものを再構築しようというものに変化してきているのである。さらにこれに観光客を呼び込むなどの外向きの要素が加わっている。七夕祭り、越後盆踊りはその本質を変えながらも、現在に引き継がれているのである。

まとめ

 高島の伝統行事は、その本来の目的、姿というものは変わってしまったが、現在でもしっかりと住民の人たちによって執り行われている。大黒さんをはじめとした、地元の方の高島に対する思いはとても熱い。誰よりも自分たちの郷土を愛している。大黒さんは私にこう言った。
「たとえ伝統行事本来の意義を失っていたとしても、伝統行事が地域の人の心をつなぐものであり、また、若い人たちに伝統を伝えていくきっかけになればいい」と。
 私は高島において、彼をはじめとした伝統を守ろうと奔走する人を見た。「消えそうになった灯」をみて、自分たちのアイデンティティーを再認識し、それを次世代につなごうとする人を。
「自分は高島の人間です。」
高島に誇りを持って生きる彼らの姿を見て私は郷土を思うということはこういうことなのかと実感した。それと同時に、自分が生まれ育った町に誇りを持てるということは、すばらしいことだなと思った。
高島の公民館(写真14:高島の公民館、高島会館)

を私が訪れたとき、小学校くらいのお子さんであろうか、地元のお子さんが私に挨拶をしてくれた。大黒さんの目は、高島の伝統の灯は消えないこの子達がいつの日か、きっと伝統を受け継いでくれる、そんな目をしているように思えた。
 またいつの日か、高島を訪れたい。七夕に町中を「やま」が行きかい、夏の夜に越後の調べが鳴り響く、そんな高島を。

最後に

今回の調査では、小樽市立総合博物館の学芸員の先生方、高島町会会長の大黒さんをはめとした高島のみなさんのご好意によって、お話をうかがわせていただき、様々な面で協力していただいた。私のために時間を割いていただき、大変貴重なお話をしてくださったことに、最後になってしまったが、この場を借りて感謝を申し上げたい。

文献一覧

天野 武
 1996 『子供の歳時記−祭りと儀礼』岩田書店
大黒 昭
 2009 『自分史 日々是好日(定年後の日々)大黒 昭 
 2005 『新高島町史 改訂増補版』大黒 昭
小田嶋 政子
 1996 『北海道の年中行事』北海道新聞
新人物往来社
 2008 「歴史読本2009年1月号」新人物往来社
新谷 尚紀
 1999 『読む・知る・楽しむ 民俗学がわかる辞典』日本実業出版社

 インターネット資料

高島郷土館
http://www17.tok2.com/home2/takashimakyodokan/index.html

お話を伺った人

高島町会会長 大黒 昭さん
高島の住民のみなさん
小樽市総合博物館の学芸員の先生方

小樽遊廓史

小樽遊廓史

永田 拓也

第1章 遊廓の誕生

(1)遊廓が生まれるまで

 17世紀末から、幕府を中心とした農業の振興政策によって、農業の肥料であるに鰊粕の需要が急激に伸び、北海道各地には、鰊の漁場として人々が集まるようになった。
出稼ぎ人が多く集まるところ、漁場には、自らの性を売る女が現れだし、その流れで遊廓が生まれるのは一般的である。特に小樽は北海道屈指の漁場であって、出稼ぎ人も多く集まっていたので、そういった地理的要因からも遊廓が出現していてもおかしくなかった。しかし、当時の神威岬には「女人渡海禁制」という掟があったのである。「神威岬より北を「神地」」と呼び、「神地は女人の通行を絶対に許さず、妻子を伴った移民も漁夫も、これより北方へは移動することはできなかった」のである。また、「松前藩はその通行を許さなかったのは、奥地の資源を知られることを恐れ、こうした渡海禁止の政策をとった」のだ(小寺1974:124−125)。そのため、小樽には出稼ぎ人や滞在者が増えても、なかなか遊女が出現しなかったのである。いや、できなかったと言ったほうが正しい。この神威岬以北渡海禁止の掟は、安政3年(1856)に解かれ、次第に小樽にも女が入ってくるようになる。「浜千鳥」(小寺1974)と呼ばれる賎妓が現れだしたのもこの頃である。 
 「安政四年(1857)二月、蝦夷地奥への道路の開鑿が急速に進められた。開かれた道路付近では、開墾希望者や旅人宿等の営業を希望する者には出願を許し、入 稼者に課してきた入役銭を免除し、旅客の通行を自由とするなどの優遇処置を講じ」(「小樽の女性史」編集委員会編1999:33)ることで、海岸一帯はすぐに土着する人々の数を増やしていき、漁場を中心に大きな集落が形成されていって、居酒屋、旅篭屋なども見られるようになっていった。また、万延2年(1861)、海岸での荷揚げを簡単にするために、場所請負人である岡田家などを中心とした裕福な商人たちによって、 入船川河口辺りから現在の信香町方面へ埋立、道路を開削(2007 小樽観光大学校運営委員会編:73)することによって、その地一帯は市街地化していった。
 このように、安定した漁場としての実績があったことは、小樽に遊女を発生させる起因となったことは言うまでもないが、他の土地に比べその発生が遅れたのは、安政三年まで存在した神威岬以北の女性渡海禁止の掟に由来する。

(2)官営遊廓の誕生

 先に述べたように、急速に人口が増加した当時の小樽には、続々と居酒屋、旅篭が開かれていった。当時の旅篭の多くには、酌取、飯盛りなどと呼ばれる娼婦が置かれているのが常で、人口の増加に相まって、遊女屋として開業する店が目立ち始め、やがて町を形成するほどまで栄えるようになった。これが、小樽における官営遊廓発祥の地「金曇町」である。神威岬以北の女人渡海禁制が解かれてからは、金曇通りがまず遊女街になった。遊女屋や居酒屋などは、15、6戸もあったそうだ。金曇通りとは、臨港線から信香会館までの道路のことである(写真1)。
金曇町となったのは明治になってからのことであるが、この金曇町は勝内川河口付近(現 信香町)に存在した。当時、北前船は勝内川河口に船を休め、乗客や積荷を下ろしていくというのが常であった。
一方、明治2年(1869)に「北海道」と名づけられ、それと同時に発足した開拓史は、北海道の開拓を進め、労働力の確保のためには遊女屋も必要との思惑から、明治4年(1871)に金曇町を遊廓として公認したのである。町としての発展とともに、遊廓も発展していった。北海道新聞社が編集した『小樽のアルバムから』で、昭和56年8月21日付の北海道新聞の記事中には、このような記述もある。

   青楼「南部屋」は、住ノ江町時代まで北海道随一のにぎわいをみせていた。抱えの女性約七十人、ニシンの盛漁中、一日の収入は約三千円(今の金額で約五千万円)。女性の収入は、筆頭者が月七百円(同約千百万円)であったといわれている。
   (市立小樽図書館1991:「7.旅館兼業の遊廓」)

実際に、信香町を歩いてみると、現存する遊廓に関連した建造物は残っておらず、全体的に閑散としているといった印象を受けたが、町は碁盤の目上に整備されていて、通りはかなり広く(写真1)、当時この辺り一帯が栄えていたことを十分に示している。信香町にあり、明治14年開業「小町湯」の女将さんに話を聞く機会があったのだが、小町湯はその当時蕎麦屋であり、1日に500杯もの蕎麦を遊廓に届けていたのだそうだ。その数の多さを聞いても、金曇町の遊廓が栄えていたことがうかがえる。

第2章 住ノ江遊廓

 明治14年(1877)「札幌小樽貸座敷並ニ芸娼妓営業規則」が発布され、貸座敷は旅篭と分離されるようになり、その地域も金曇町と新地町に限定された。しかし、実際には入舟町などには「あいまいな女」を置いている料理屋が存在するというのが実状であったそうだ(「小樽の女性史」編集委員会編1999:37)。さらに、貸座敷が商家と軒を連ねているのは、風紀上や取締上にかなり問題があるということで、市民の間からは移転陳情も強まっていくことになる。ここで、明治14年(1881)5月21日に、現在の信香町一帯で旧11カ町が焼失するほどの大火が発生し、金曇町の遊廓も丸焼けとなった。当時の俗謡では、「かわい金曇町何にして焼けた 寝てて金取った其の罪で 三十三軒ばらっと焼けた」(小寺1974:132)と歌われた。この明治14年の大火を契機として、遊廓は住ノ江町に移転し、明治16年(1883)に移転は完了し、以前にも優る歓楽街ができあがった。当時の住ノ江町は畑地であり、中央通り22メートル、小路14メートルの区画を整備し、移転を渋る業者に公金を貸し付けて奨励を図った。また、小樽における中心街も金曇町があった勝内方面より西側で、山手方面の入舟方面に移っていった。
 ここで、重要になるのが、以前は中心地に存在した遊廓が、当時畑地であった住ノ江町に移されたという点である。これは、「旧小樽の十一ヶ町五百六十有余戸を稀有に帰した」(小寺1974:132)明治14年の大火を教訓にした、風紀・取締りを強化しようという開拓史の考えが読み取れる。そのため、遊廓の市街地からの隔離ともとれる、住ノ江町への移転を断行したのである。
 以下は、『北海道遊里史考』で、その頃名のあった貸座敷について記された文章である。
  
   「貸座敷南部屋
    明治十四年の大火のあと、住吉裏の遊廓営業指定地に、移転したのは南部屋であるが、    当時ここには南部屋が二軒あった。一つを大南部、一つのを小南部と呼んでいたとい     う。札幌県から三万円の貸付を受け、四層楼であった。この頃は三菱と共同運輸との海    運競争時代で、官吏の往復が繁く、南部屋は旅館としても隆盛を極めたものであった。
    四層の楼は洋風館であり、異彩を放ち楼上には「南部」と書いた額を掲げ、また岩村長    官等の「呑海楼」の扁額もあったと伝えられている。楼主の南部てつは医師中井杏庵の    女で、南部屋の養女となり、当時の有名な芸妓の一人であった。
   (小寺1974:132−133)

   「丸立」
    顕官もしくは府県から来遊する人々は、海路窮屈な旅を終えると、蘇生の思いで小樽に    上陸した。そして上陸早々に豪遊したことは上下尊卑の別がなかったが、特に顕官紳商    などが、遊興ふけったのは、丸立であったとされる。(小寺1974:133)

第3章 南廓

 先にも述べたように、明治16年(1883)に遊廓は住ノ江町に移り、その後小樽の市街地も信香方面から、入舟、色内と北に移動し、明治30年ごろには遊廓があった住ノ江町近辺も市街地化されていった。そのため、遊廓と一般の民家が隣接する形となり、またもや風紀上の問題が浮上してきた。それと同時に、明治29年(1896)4月27日夜、住ノ江遊廓からの出火が原因で、旧小樽の7ヶ町を全焼させてしまうほどの大火が発生したのを機に、13年間もの間栄華を極めた住ノ江遊廓は、天狗山山麓の、人里離れた山奥の入舟町の奥、松ヶ枝町へと移されることになる。明治40年に誕生した梅ヶ枝町の遊廓と存在した時期が重なるため、この松ヶ枝町の遊廓が「南廓」、対して梅ヶ枝町の遊廓は「北廓」とも呼ばれる。
 写真3、写真4を見てもわかるように、大火の教訓があってか、松ヶ枝町の通りは広すぎるほどの道幅を持ち、町並みは整然とした印象を受ける。大門を抜けると、手前から順に、柳町、京町、仲町、弁天町、羽衣町と名付けられる町が存在し、これは江戸・吉原にも京町、仲町の名があるので、吉原になぞらえたものだといわれる。この南廓には計18軒の廓があったという(木村2007:38)。花街にふさわしい彩りを添えようという考えから、遊廓の移転と同じ頃に入舟川に沿って植樹された桜並木は、閑静な住宅街となったこの辺りではちょっとした桜名所となっていた(小樽なつかし写真帖編集委員会編2009:第58号)そうだが、私が調査を行った2009年9月頃には見確認することはできず、無くなったものと思われる。
 また、松ヶ枝町という地域は、前述したように、タクシーが無いとたどり着けないような、坂を上ったところ、天狗山の山麓にあり、当時は人里離れた地域であった。バスもタクシーも無い時代にそのような辺鄙な場所に移転した理由としては、風紀上の問題が挙げられるのだが、その当時の遊廓の名残を感じさせるものに、「洗心橋」という橋がある(写真5)。
南廓に向かうには、今の南小樽駅辺りから入船町を通っていくルートと、手宮方面から今の緑山手線を通っていくルートの2通りがあったが、洗心橋は後者の場合に、当時の男衆たちが通ったものと考えられる。「当時遊廓で心置きなく遊んだ男衆たちが、せめて心だけでもきれいに洗って帰ろう」、ということから洗心橋という名がついたという説がある。同様に、遊廓に入る前にしばし考え、思案するということから名付けられたとされる、長崎県は丸山遊廓の入り口にある「思案橋」も有名な話である。
 風紀上の問題のため、天狗山の麓に移された遊廓であったが、交通の便の悪さから客足が減少し、業者らは明治39年(1906)、色内川上への再移転を陳情するが、一般市民の反対に合い、結局、再移転は許可されなかった(北海道新聞社編1984)。戦後まもなく遊廓が廃止され、松ヶ枝町一帯は現在の閑静な住宅街へと次第に姿を変えていった。

第4章 北廓

 これまでに述べてきた、小樽における遊廓の移り変わりの理由には、一定の原則が読み取れる。それは、「小樽が発展していく中で各遊廓での風紀・取締上の問題が浮上し、大火が起きたのを契機として、移転されていく」という流れであり、金曇町に誕生した遊廓からの住ノ江町遊廓への移転、また住ノ江遊廓からの松ヶ枝町遊廓(南廓)への移転のいずれにも該当するのである。しかし、この第4章で触れる梅ヶ枝町の遊廓の誕生理由は、他と一線を画しているのである。
 
(1)北廓誕生の要因

住ノ江町から松ヶ枝町へと遊廓が移転した一方で、明治40年(1907)3月、手宮
・現梅ヶ枝町の一部に遊廓が設けられた。これが北廓である。この北廓の誕生は、明治13年(1880)に開通した小樽―札幌間の鉄道に大きく起因する。その始発駅となった手宮は、以後鉄道とともに大きく発展していった。当時小さな漁村が存在するだけであった町が鉄道敷設によって、界隈の様子を一変させることになったのである。鉄道開通とともに、小樽の経済機能は一気に北に傾き、内外の船舶は手宮方面に集中し、人の動きも活発化、それに伴って飲食店が続々と開かれ、密娼の数も増加をたどり、風紀上の問題が浮上し、こうした問題の対応策として遊郭が誕生するに至ったのである。その名も梅ヶ枝町と命名され、これが「北廓」である(写真6)。
誕生の翌年には、16戸もの楼が立ち並び、各楼の抱え娼妓の数は130人にも及び、別世界を現出した。やがて廓内には「駆黴院(性病対策医院)」が設けられた。(「小樽の女性史」編集委員会編1999:39)
 また、鉄道開通によって、当時まだ未開の沢地であった手宮の地には、急激に経済発展する。それによって、多大な労働人口を必要としたはずだ。そのため、労働者をつなぎとめておくためにも、やはり遊廓やそれに近いあいまい屋が必要であったと考えられなくもない。実際に、最盛期の手宮タヌキ小路(写真9)には、40〜50軒もの店が軒を連ねていたそうだ。
戦後にこの遊廓は、現在の梅ヶ枝町はマンションや住宅が立ち並び、閑静な住宅街へと様変わりしている。

(2)当時の様子

 今回の調査にあたり、遊廓が存在する時期に梅ヶ枝町周辺で生活していた方に話を聞くことができたので、その情報を基にしながら、北廓を中心に当時の様子について述べる。しかし、注意点として、以下に述べる記述は、すべて当時のことを知る者からの聞き取りによるものだが、それを証明するものがないため、すべてが正確な情報であるとは断定できない、ということは先に記しておく必要がおる。

 当時、そこには高さ10メートルほどでレンガ造りの大門があり、数多くの妓楼が立ち並んでいたのだという。火事が頻繁に起こり、その原因のほとんどが「寝タバコ」による布団への引火によるものだったという。午前3、4時ごろ、火事が起きると、男女問わず、真っ裸の人々が、逃れようと楼の2階から飛び出してくるさまはとても印象に残っているという。
妓楼の配置としては、現在手宮川通線となっている道路の真ん中には手宮川が通っていて、現在の済生会小樽病院が位置する場所(写真8)
には「越治楼」、坂を少し上り、現在の梅ヶ枝郵便局のあたりに「日の出楼」、その向かい(写真7)
には「勢州楼」があり、「日の出楼」の隣には「音羽楼」、その向かいには「第二越治楼」があったという。
 また、当時の遊廓には、比較的安価なものから、高級なものがあったという。北廓があった梅ヶ枝町を例にすれば、先に記した大門の周辺や手宮の辺りに比較的安価な店が置かれていて、大門を抜けて坂を上がれば上がるほど、店も高級になっていたそうだ。
手宮タヌキ小路の中には、人身売買や出稼ぎに来た朝鮮、中国人しか抱えていない店も存在していたそうだ。よって、当時開拓に従事していた男衆たちは手宮、大門周辺辺りに通い、高官などは高級な店に通っていたものと思われる。楼の中は、まず入り口にその店で抱えの遊女の写真がかけられていて、女を選ぶと、2階に通されるという流れであり、遊女は、15〜16ほどの若いものから、さまざまだったそうだ。
 当時手宮や梅ヶ枝町に隣接する豊川町あたりは、ほとんどが長屋であったらしく、それは労働者が多く住む手宮という地域性を感じさせるものである。長屋に住む労働者たちの中には、生活苦のためか「長男だけいればいい」という風潮があったらしく、娘が生まれると、金を得るために実の娘を売る者もいたそうだ。
聞き取りに協力して頂いた方々の中には、戦後の赤線時代に、そういった店に客を呼び込むというアルバイトをしたことがあるという方がいた。内容としては、町角に立って客に女を紹介し、客がその紹介した女で遊べば、報酬が与えられるというものである。もし、泊まりの客を捕まえることができれば約50円(現在の2、3000円ほど)、泊まりでないならば3〜5円の報酬があったそうだ。
さらに、当時このような店は「立ちんぼ」や「パンパン(屋)」「線香」と呼ばれていたらしく、当時の平均月給が3000円の時代に、1000〜1500円もする店もあったのだという。

 「聞き取りに協力して頂いた方々」
・ 梅ヶ枝町在住、男性、66歳
・ 梅ヶ枝町在住、男性、年齢不明
・ 豊川町、男性、82歳 

第5章 遊廓の終焉

(1)遊廓消滅までの流れ
 これまで述べてきたように、風紀上の問題と大火を契機として、小樽において遊廓は誕生、消滅を繰り返して、最終的に松ヶ枝町の南廓と梅ヶ枝町周辺の北廓とに至ったのであるが、戦後昭和21年(1946)にはGHQによって公娼制度が廃止され、この南・北廓も消滅することになる。しかし、公娼制度が廃止されたが、全国的に「赤線」といわれる私娼地域が発生するようになった。小樽も例外ではない。「赤線」についてさらに詳しく述べると、「集団的な管理売春(組織売春)を黙認するかたちで、戦前の遊郭や私娼街の業者を風俗営業として許可し、営業場所を指定した地区。地域によっては店舗の商業統計上の分類が「特殊飲食店」(「特飲店」と略される)や「特殊喫茶店」とされたことから、特殊飲食店街(「特飲街」と略される)と呼ばれることもあった。特に旧遊廓の貸座敷の一階部分に喫茶室やダンスホールを設えるなどの部分的な改善をほどこし、特殊飲食店として使用される例が多かった。」(加藤2009:17)というもので、赤線が設置された背景には、占領軍のための「性的慰安施設」など、国策が関っていたそうである(加藤2009:22−38)。
 小樽の赤線時代については、『全国女性街・ガイド』(渡辺1955)において、次のような記述があるため、昭和30年代の小樽のようすを知ることができる。

    情熱のプロ作家小林多喜二が色内町の私娼婦田口滝子を十年にわたって愛し
   たことはあまりにも有名な話。最近は北方輸出不振で小樽の色街は火の消えた
よう。
 市内の都通り裏や勝内川沿いの新地にも赤線はあるが、小樽で圧倒的に有名な
のは、町端れの手宮手宮川を渡った右側に曖昧屋が百軒ほど密集している。田口滝子ではないが色白で丸顔の、おとなしい女が多い。部屋は汚いが北海道では湯ノ川の芸者とここの酌婦が一番いい。
 青線が最近発展し、駅前右側の西六丁目あたりから花園町の裏側、ずつとはずれて南小樽駅附近の「もつきり屋」(一ぱいのみ屋)で女に当りをつけるか、かく巻ばば(婆)が町角に立つているからそれに当ればよい。泊り千円からである。
(渡辺1955)
   
 しかし、この赤線時代も昭和31年(1956)の「売春防止法」に伴って廃止された。
売春防止法施行後も、小樽では10年ほど尾を引いていたそうだが、その後はあまり見られなくなった。

(2)小樽歓楽街
 赤線時代に見られた手宮周辺、新地、南小樽駅付近の特殊飲食店は完全に無くなり、小樽経済の衰退とともに、現在の小樽の歓楽街は、花園町に限られているが、その花園町自体も衰退の一途をたどっている。写真11を見てもわかるように、花園にはスナック、飲み屋などが狭い地域に密集していた。実際に調査として歩いたのだが、昼からカラオケがあちこちの店から聞こえ、何とも哀愁を感じさせる町であった。風俗店もあまり発見することができず、一軒発見するのがやっとであった。

さいごに
 全国の遊廓と比較しても、小樽のように、これほどまで遊廓が移転をくりかえすという地域はあまりない。1〜5章までで述べてきたように、小樽遊廓の移転には、経済発展による市街地化にともなって浮上してきた風紀上の問題点と、頻繁に起こる大火が影響している。それが、小樽遊廓史の特徴なのである。(写真15)
 
文献一覧

小樽観光大学校運営委員会編
 2007 『おたる案内人−小樽観光大学校認定 検定試験公式テキストブック−』、
      小樽観光大学校。
小樽なつかし写真帖編集委員会
 2009 『小樽なつかし写真帖』、どうしん小樽販売所会。
「小樽の女性史」編集委員会
 1999 『小樽の女性史』、小樽市男女共同参画プラン推進協議会。
加藤政洋
 2009 『敗戦と赤線―国策売春の時代―』、光文社。 
木村聡
 2007 『赤線跡を歩く 完結編』、自由国民社
小寺平吉
 1974 『北海道遊里史考』、北書房。
渡辺寛
 1955 『全国女性街・ガイド』、季節風書店。
北海道新聞社編
 1984 『おたる再発見』、北海道新聞社。
1991 『小樽のアルバムから』、市立小樽図書館。