関西学院大学 現代民俗学 島村恭則研究室

関西学院大学大学院 現代民俗学 島村恭則研究室

小樽の繊維問屋史  ―問屋商人たちの足跡をたどる―

中前 亜侑子


はじめに

 北海道の数ある都市のなかでも、特に観光地としてその名を知られる小樽。景観豊かな港町、あるいは運河の残るレトロなまちといったイメージの強い小樽だが、ここがかつて札幌を凌ぐ商業の中心地であったということを知る人は少ない。
そんな小さなまち小樽の商都としての発展を支えた礎の一つ、繊維問屋。今でこそ息を潜めてしまっているが、当時は小樽のみならず北海道全体の重要な経済資源であった。近年下降気味の繊維業界の歴史を掘り起こし、繊維問屋の発展と衰退、現在に至るまでの足跡をたどった。


第1章 繊維問屋のまち 小樽

(1)商都 小樽の発展

北海道唯一の移入港 小樽

 江戸中期から漁業が盛んであったオタルナイ場所が、元治2年に村並となり「小樽」と呼ばれるようになる。北海道開拓の国家政策により、小樽市銭函に仮役所が置かれ、札幌本府建設が始められた。続いて海官所も設置され、福島、江差の問屋が小樽で問屋株を許可され、続々と進出し、やがて、本州からの物資が小樽に大量に移入されるようになり、小樽が北海道の卸売りの中心となってきた。商都小樽の歴史は、ここから始まる。

内地の最先端を手に入れられるまち

 以上に述べたように、小樽は北海道内への物流の唯一の入口であり、内地(つまり本州)の最先端の物資を手に入れられるまちであった。モノや人が一気に集まる場所であるとともにまた、さまざまな文化が行き交う場所であり、問屋をつくるには最適のまちであったと言えるだろう。

小樽の経済最盛期 ―手宮線と小樽商大―

 移入港として栄えた頃、小樽は商都としての最盛期を迎えた。
明治13年には、開拓史顧問であるアメリカ人クロフォードらの手により、機関車、客車、貨車、レール等の機材を輸入し、手宮〜札幌間に鉄道が開通した。これが、現在も線路跡の残る手宮線であり、当時、東京〜横浜、大阪〜神戸に次ぐ、日本で3番目の鉄道であった。

(写真1)旧手宮線跡地
 さらに明治15年には、近代産業のエネルギー源としての石炭輸送のため幌内まで延長され、かくして小樽は北海道への移住者の受け入れや物資の輸送基地となる。
また、明治43年には現在の小樽商科大学の前身である小樽高等商業学校を設置。小樽商科大学は後に、神戸商業大学1)、東京商科大学2)と並ぶ三大商大の一つとも言われるようになったという。
 このような事実を見るだけでも、小樽というまちが日本においていかに重要な位置を占めていたかがよくわかる。東京、大阪に次ぐ商業の中心地として、小さなまち小樽は発展していった。

(2)小樽と繊維

小樽繊維業のはじまり

 小樽における繊維業のはじまりは、明治時代にまでさかのぼる。元々から、生産業として始まったわけではない。繊維産業の風土に恵まれない小樽では、移入港としての特長を生かし、もっぱら小売店や卸問屋が発達していった。あらゆる問屋業の中でも、繊維は最も大きな勢力であった。

行商から身を起こした梅屋商店

 その先駆者とも言える人物が、村住三右衛門3)である。弘化4年3月11日石川県能美郡御幸村生まれの彼は、二十歳のとき父を捜して来樽、明治4年高島郡手宮村に居を構えた。鰊で賑わう漁村で行商(ミソ、醤油、わらじ等)をした後、明治6年手宮村に「梅屋」という雑貨店を開業。ここでは小間物からシャツ、足袋、股引、帽子、さらに食料品や日用雑貨に至るまで、ありとあらゆる品物を揃えていたという。明治12年当時の記録によると、梅屋商店の他に、堺町に岡田呉服店、入船町に山三ツ星呉服店、榎呉服店、高頭小間物店等があった。
 梅屋商店はその後明治39年に色内に移転、その名を「アリババコレクション」に変え、現在もその木骨石造り3階建ての店舗建築を残している。

(写真2)現在も残る木骨石造り3階建ての店舗建築
まるで倉庫のような石造りの店舗は、当時の大火に備えられたもの。梅屋商店のある色内大通りには他にもいくつかの店舗建築が残っており、観光地としても賑わいを見せている場所である。

和裁を必修科目とした量徳小学校

 先程、小樽は繊維産業の風土に恵まれなかったと述べたが、だからと言って生産の技術がなかったわけではない。漁師である夫の防寒着や魚網を繕う鰊場の女たちの縫製技術、開拓移民団の鵙目塾4)などをルーツとして、南小樽駅前にある小樽市立量徳小学校においては、女子必修科目に和裁を採用。今でこそ衰退してしまったものの、小樽における縫製・染色技術は永くその栄誉を伝統とし、繊維問屋の発展にも貢献した。

(写真3)小樽市立量徳小学校

(写真4)量徳小学校の外観

(3)南樽繊維問屋街

入船町と住吉町にまたがる大問屋街

 小樽における繊維問屋業の盛栄を最もよく表しているのが、南樽繊維問屋街である。入船町と住吉町にまたがる大きな繊維問屋街で、南小樽駅の北西区域一体を占め道内一の規模を誇った。かつてそこには50以上の繊維問屋があり、小樽が商業の中心地であることを存分に示す場所であった。

(図1)JR南小樽駅周辺の地図

(図2)南樽繊維問屋街のあった範囲を示す地図
(北海道繊維小売新聞より)

(写真5)現在のJR南小樽

商品の仕入先はさまざま

 繊維問屋の商品の仕入先は、東京、岐阜、岡山、京都、博多、米沢、十日町、丹後など実にさまざま。呉服店ならば京都、洋物店ならば岐阜の問屋からさらに買い付けるなど、扱う商品によっても仕入先はそれぞれに異なった。

売店の買い付け客で賑わう南小樽

 南樽繊維問屋街のお客は、もっぱら小売店として買い付けにくる人々である。また、かつては南小樽駅が現在よりも少し北方にあり、問屋街により近い場所にあった。このこともあり、仕入れに非常に便利な立地の問屋街は連日満員、通りは小売店の買い付け客で賑わった。そのため、問屋街の周りには、問屋が得意先を接待するための料亭やキャバレーも数多く存在し、繁華街も栄えていたのだという。

(写真6)かつて南小樽駅があったとされる場所

(写真7)線路が通っていた所は広い道となっている

戦前戦後 道内のシェア90%に

 南樽繊維問屋街が最も大きな勢力として存在したのは、大正〜昭和戦後あたり。第一次世界大戦の頃は、日本全体が未曾有の好景気に包まれた。ヨーロッパの穀倉地帯が戦場となったことから、繊維のみならず雑穀、澱粉などの輸出が急増し、価格も暴騰。特に北海道は、過去に例を見ないほどの景気の上昇があり、この時期小樽は世界への貿易港として君臨した。
 また、第二次世界大戦の頃になると、シンガー5)やミシンなどが輸入され、軍服の染織・縫製をも担い、南方をはじめ戦地に供給するようになる。こういった、生産を伴う問屋事業の積み重ねを経て、南樽繊維問屋街は、朝鮮戦争特需以後全道シェア90%へと成長し、全盛を極めた。

繊維製品卸商同業会

 戦後、一般庶民の衣料生活は戦時中以上に窮乏を極める。敗戦のどん底から抜け出そうと、小樽の繊維業界は手を取り合って立ち上がった。43社が協力し合い特売会を実施、庶民の衣料生活を活気づけようとしたのである。また、ちょうどこの頃から繊維製品の統制が解除され、「今後は横の連絡がますます重要であり、また本道は繊維製品の大需要地であるに拘わらず、生産地から遠く離れているので、常に中央の情報をキャッチする必要がある6)」として、繊維製品卸商同業会を結成、団結を強めていった。


第2章 南樽の転落と苦難

(1)南樽繊維問屋街の衰退

スーパーや百貨店の進出

 しかし、そんな南樽繊維問屋街の盛栄も永くは続かない。戦後の復興とともに急速な近代化が進む中、道内にもスーパーや百貨店などが続々と進出、問屋の需要はどんどん低下していってしまう。小売店の時代が始まりつつあった。

新しい経済都市札幌へ 問屋の大量移転

 南樽繊維問屋街の衰退が進む裏で力をあげてきたのが、札幌市である。近隣町村との度重なる合併・編入によって、着実に市域と人口を拡大してきた札幌市は、落ち目にあった小樽に取って代わり、やがて新たな経済の中心地として発展していくこととなった。
 それに伴い、南樽に居を据えていた繊維問屋たちはこぞって札幌へ移転。新たな需要を求めて、大量の繊維問屋たちが小樽を離れていってしまった。そのうちの一つ、呉服を扱う株式会社和光の田中傳右衛門氏も「人材も情報も集めやすく、経営資源が充実。何よりも、お客様の集まりがとてもよくなった。」と話している。

大手に飲み込まれる中小問屋

 札幌への移転に伴い、多くの繊維問屋が大手のスーパーや百貨店に飲み込まれていった。小樽の繊維問屋はもともと小さい規模のものばかり。それゆえ景気に左右されやすく、安定した経営基盤を持っている所は少ない。時代について行くため、生き残っていくためには、より大きな勢力に身を委ねるしか方法がなかったのかもしれない。

(2)抜け殻と化した南樽

小樽の人口激減 衰退へ

 札幌に大量の人やモノが流れていった結果、小樽の人口は20万人から13万人にまで減少した。かつての活気はなくなり、商業の中心地として栄えた頃の面影はずいぶんと薄れてしまっているようだ。現在は観光地として賑わいを見せる小樽のまちも、中心部を少し離れると、そんな哀愁漂う風景に出逢える。

現在の問屋街

 かつて経済的象徴であった南樽繊維問屋街もまた、当時の建物は残したまま、ずいぶんと廃れてしまった。人通りもほとんどなく、当時の名残であろう貸衣装屋や呉服屋の看板がちらほら点在するばかり。しかもそのほとんどが、どうやら現在は使われていない様子。やはり、文字通り抜け殻と化してしまったようだ。いつかの賑わいが嘘のようである。

(写真8)かつて南樽繊維問屋街のあった通り 縫製工場が今も残る

(写真9)空き家と見られる建物が続く

(写真10)貸衣装や呉服卸の看板

(写真11)ずいぶん年季の入った建物

(写真12)事務所や車がぽつぽつとあるばかりで、人通りはほとんどない

(写真13) 坂を上ると南小樽駅がある

(写真14)坂の上から見下ろした風景

(写真15)少し路地に入れば、より閑散とした通りに

繊維問屋街の生き残り ―丸龍・丸久星・ハイダ―

 そんな閑散とした通りで、今も営業を続ける繊維問屋があった。それが、株式会社丸龍・丸久星商事株式会社・ハイダ商事株式会社。南樽繊維問屋街の生き残りとも言える3社である。

(写真16)株式会社丸龍

(写真17)丸久星商事株式会社

(写真18)ハイダ商事株式会社
 「現状は非常に厳しい」。繊維問屋の継承者たちは口を揃えて言う。繊維業界自体が傾きつつある今、札幌に後れを取る小樽の問屋への風当たりは特に強いようだ。それでも何故小樽に残るのか、私の問いに対する答えは、「小樽が好きだから」という至ってシンプルなものだった。彼らは、小樽という土地を心から愛し、代々継承してきた繊維問屋という商いの伝統を静かに守り続けている…問屋商人たちの素顔に出逢い、そんな強い意志を感じることができた。かつての人だかりはなくなってしまったが、南樽繊維問屋街の遺志は確かに受け継がれていた。
 では、札幌に移転した繊維問屋たちは、現在どうなっているのだろうか。第3章では、問屋商人たちの足跡と、札幌での現状について述べたい。


第3章 札幌と小樽

(1)小さな小樽 札幌

桑園というまち 小樽出身繊維問屋の密集地域

 JR札幌駅の一つ西隣、桑園という駅がある。札幌市のほぼ中心部に位置しており、北部に札幌競馬場、南部には知事公館や道立近代美術館などがある。近隣には北海道大学もあり、現在も発展が続いている。

(図3)JR桑園駅周辺の地図

(写真19)JR桑園駅

 40〜50年前、そんな桑園地区に小樽の繊維問屋たちは大移動してきたのである。もともと、繊維商社などの企業が密集していた地域。その上に小樽出身の繊維問屋たちが集団移住したことによって、桑園地区はさらに繊維の色濃いまちとなった。

(写真20)桑園地区の繊維企業

(写真21)スーツやネクタイなどの店も多い

桑園から札幌繊維卸しセンターへ

 桑園にあった繊維問屋たちがやがて20〜30社集まり、団結のためにまた新たな商業団地をつくる。それが札幌繊維卸しセンターである桑園から今度は札幌駅前へ、またもや繊維問屋の大移動は起こるのである。

(写真22)繊維以外の卸もある区画

(写真23)大手企業の看板も並ぶ

(写真24)札幌繊維卸センター

(写真25)札幌繊維卸センター案内図

(写真26)ユニフォームの卸し店

(写真27)こちらにも大手の看板がちらほら

(写真28)あらゆる方向に看板が

(写真29)外から見た札幌繊維卸センター

札幌繊維卸しセンター

 昭和40年、25社の繊維問屋でもって札幌駅東に札幌繊維卸しセンターが完成。全国でも初めての店舗集団化事業であったという。「ガイドブック 楽しい職場 札幌繊維卸しセンター」によると、「たまたま札幌市内の繊維卸業の有志が集い交通量の増大に伴う駐車難、それにもまして流通経済の激動は、中小企業個々の力では到底防ぎ切れるものではなく、企業の協同化によって合理化を図るべく、国・北海道、札幌市の強力なバックアップにより全国で初めての商業団地が昭和40年8月完成25社が入店しました」とある。

(図4)札幌繊維卸センター周辺の地図

札幌は小さな小樽である?!

 以上をまとめると、自ずと繊維問屋たちの大きな動きが見えてくる。小樽から桑園へ、桑園から札幌繊維卸しセンターへという流れで、まるで民族大移動のように、彼らは各地を転々としていったのだ。そう考えると、札幌というまちは、小さな小樽、つまり小樽の問屋商人たちのコロニーであると言えるのかもしれない。

札幌繊維製品卸同業会

 札幌繊維卸しセンターと肩を並べて、札幌繊維製品卸同業会という団体も存在する。これは、主に桑園地区の繊維卸商社などを束ねたもので、同じく桑園地区にある丸金浅野商事株式会社の代表取締役、浅野正俊氏が同業会会長を務める。

(写真30)丸金浅野商事株式会社

(写真31)丸金浅野商事株式会社の中

(写真32)所狭しと並ぶ洋服の数々

 札幌繊維製品卸同業会の事務所の程近くには、株式会社北海道繊維小売新聞社もある。北海道の繊維業界の話題やコラム、イベント情報などを綴った北海道繊維小売新聞を発行している新聞社だ。北海道繊維小売新聞は毎月5・15・25日に発行され、小売業に止まらず卸業のことも多く取り上げられている。

(写真33)北海道繊維小売新聞社

(写真34)北海道繊維小売新聞社の外観
 同業会本部もあれば、新聞社もあり…。桑園地区は、いわば札幌の繊維担当部署のような地域なのである。

(2)札幌における繊維問屋の現状

数少なくなった地元企業

 札幌に大量移転し、一時の盛栄を取り戻したにも拘わらず、またしても繊維業界は暗礁に乗り上げてしまう。札幌繊維卸しセンター内に移転してきた中小繊維問屋たちもほとんど全て潰れてしまい、大半がトンボ学生服やアカチャンホンポなど全国的大手企業の支部ばかりで埋め尽くされてしまった。在庫を各自で持つ地元の企業は、現在はたったの3社しかない。営業開始以来卸しセンター内に増えつつあった小売店舗も全て、百貨店にのまれていってしまった。

消えつつある小樽の面影

この流れに巻き込まれた小樽出身の企業はとうとう卸しセンターから姿を消し、札幌から小樽の面影は少しずつ消えていく。同業会においても、かつては小樽出身の繊維問屋も多く参画していたが、呉服を扱う株式会社和光を始めとして、今では3社ほどになってしまった。小樽コロニー崩壊の日も遠くはないのかもしれない。

問屋文化の衰退

 繊維業界に大きなダメージを与えた大きな要因の一つは、やはり大手小売店の急成長である。より利益を上げるため、手間とコストを削減するために、まず排除されたのが卸しという工程である。その結果、問屋を経由することなく製造から直接小売店へとモノが流れていく仕組みが出来上がってしまった。効率よくかつ安く製品を提供することができるため、小売店にとっても消費者にとっても好都合だった。
 こうした問屋文化の衰退によって、問屋商人たちはまたしても窮地に立たされてしまう。

繊維業界の苦難と奮闘

 繊維業界は、最も景気に左右されやすく、浮き沈みの激しいもの。中でも中小問屋たちは、何度も時代の荒波にのまれてきた。しかしその度に立ち上がってきたのも事実。数度目の挫折を乗り越えようと、今また奮闘している。


まとめ ―小樽繊維問屋のこれから―

小樽繊維製品卸商同業会 解散へ

 平成21年3月、小樽繊維製品卸商同業会は解散し、60年の歴史に幕を下ろす。かつては商都小樽を象徴する団体であったが、規模も縮小し活動拠点も解体。同業会そのものも姿を消してしまった。最終的には加盟7社にまで縮小していたようで、これ以上の事業継続は困難と判断され、同年1月の総会で解散が決定された。

大手には任せきれない産業

 小樽の繊維問屋たちは、これから一体どこへ向かうのか。そんな問いを田中傳右衛門氏に投げかけると、「繊維は、大手には任せきれない産業だ」という力強い答えが返ってきた。確かに、札幌や小樽における卸し業界の中で繊維は最も大きな勢力であり、中小問屋の支えがなければ崩れてしまう。量販店には成せない業を、彼らが担っているのだ。繊維問屋はまだやれる、そう思えた。

“地域問屋”としての再起図る

 問屋商人たちも、新しい試みをしている。方向性としては、「小樽問屋は地域問屋に徹すること、札幌との補完関係強化を図ること、創業精神に立ち返り、変化にはバイタリティで挑戦する7)」などを掲げ、具体化してきた。パッチワークや刺し子、ゆかたなどの展示及び販売を行う「なんたるこっちゃ市8)」がその一例で、単なるお祭りとしてではなく、地域の伝統文化の紹介をするイベントとしての位置づけを目指した結果、来場者も1万5000人を数えるほどになった。こういった地域密着型の繊維問屋として盛んにイベントなどを行っていけば、南樽の振興は十分に期待できるだろう。

(写真35)「なんたるこっちゃ市」の開かれた小樽商工会館の跡地

(写真36)同じく商工会館跡地を反対側から

小樽繊維問屋の野望

「小樽なしで繊維業界は語れない」。株式会社タナカの田中敏治氏は言う。“問屋無用論”や大手量販店の台頭、インドや中国の介入など、繊維業界を取り巻く環境は日々移り変わり、より厳しくなっているが、だからこそ繊維問屋にしか担うことのできない役割があるはず。伝統にあぐらをかくことなく常に時代の流れを見極めていけば、必ず生き残る道はある。歴史の記憶となりつつある繊維問屋街を復活させ、是非とも小樽のまちを活気づけていってほしいものである。


1)現在の、神戸大学
2)現在の、一橋大学
3)その後、大正3年稲穂に運動具店を開業し、販路を北海道一円や樺太にも伸ばす。手宮郵便局長、小樽小間物商組合長を勤める。
4)当時の和裁学校のこと。
5)足踏みミシンのこと。
6)小樽繊維製品卸商同業会創立50周年記念誌
「小樽繊維業界 100年のあゆみ」より
7)北海道繊維小売新聞 第2025号 記事より
8)当時は南樽にあった商工会館で行われていたが、商工会館がなくなってしまったため、現在は行われていない。


なお、本稿を書くに当たっては、小樽市及び札幌市の皆様から多くの示唆を得た。感謝の意を表する。

文献一覧

小樽繊維製品卸商同業会
1965 「『小樽の繊維』 小樽繊維製品卸商同業会結成満15周年記念誌」
2000 「『小樽繊維業界 100年のあゆみ』
小樽繊維製品卸商同業会創立50周年記念誌」

株式会社 和光繊維
1980 「三十年のあゆみ」

協同組合札 幌繊維卸センター
     「1965/8 SENI CENTER GUIDE」
「ガイドブック 楽しい職場 札幌繊維卸センター
1968 「第2次竣工記念」
1980 「十五年史 回顧と展望」

北海道繊維小売新聞社
     北海道繊維小売新聞

参考URL

http://www.city.otaru.hokkaido.jp/
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E6%A8%BD%E5%B8%82
http://www.otarucci.jp/kiseki/kiseki-11a.html
http://www.otaru-kyouikuryokou.com/gakusyu-plan4.htm
http://otaru-journal.com/prologue/tatemono/page04.htm
http://www.mics.co.jp/grp/shokunin/otaru/03alacal.html
http://www.city.sapporo.jp/city/
http://otaru-journal.com/
http://www.sooen.com/
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A1%91%E5%9C%92%E9%A7%85
http://www.hana-wakou.co.jp/index.asp