関西学院大学 現代民俗学 島村恭則研究室

関西学院大学大学院 現代民俗学 島村恭則研究室

民俗学の大学院(関西学院大学大学院)2023年度院生募集

【民俗学の大学院(関西学院大学大学院)2023年度院生募集】

民俗学を専門に学び、修士・博士の学位を取得できます。専任教授は島村恭則、桑山敬己、鈴木慎一郎。他に鈴木正崇慶應義塾大学名誉教授、塚原伸治東京大学准教授、周星神奈川大学教授、河合洋尚東京都立大学准教授が出講。

 

詳細・出願等については、以下をご覧の上、 tshimamura<アットマーク>kwansei.ac.jp(<アットマーク>は、@に変えてください)へお問い合わせください。

 

社会学研究科の概要・入試案内は、こちらをご覧ください。
www.kwansei.ac.jp

 

関西学院大学大学院社会学研究科『大学院教員紹介』(2022年4月刊行)より


【1. 教員情報】
氏名:島村恭則
職位:教授(博士後期課程研究指導教授)
学位:文学博士
専門:現代民俗学、ヴァナキュラー文化研究、世界民俗学史と民俗学理論

 

【2. 研究・教育内容】
 わたし個人の研究としては、沖縄の民俗宗教・シャーマニズム研究から出発し、都市伝説の日韓比較研究、妖怪・占い文化の博物館民俗学、在日コリアンや引揚者が生み出したヴァナキュラー文化の研究、喫茶店モーニング文化の都市民俗学的研究、関西私鉄文化研究などを経て、近年は、世界民俗学史をふまえた民俗学理論の研究、とくに、民俗学を国際的・学際的な「ヴァナキュラー文化研究」として再編成する議論を展開しています(「ヴァナキュラー文化」については、島村2018などを参照)。
 大学院教育では、民俗学/ヴァナキュラー文化研究の全領域を扱っており、古典的な民俗学から現代民俗学まで、日本民俗学から中国民俗学・韓国民俗学などアジアの民俗学まで、また、社会伝承、生業伝承、交通・交易、儀礼、祝祭、宗教、口承文芸、芸能、物質文化、文化遺産、博物館など、民俗学研究のすべてのジャンルについて、研究指導を行なっています。あわせて、本研究科の文化人類学系ゼミとの相互乗り入れにより、人類学の知識も身につけられるよう仕組みを整えています。
 現在および過去の島村研究室所属院生の研究テーマは、「流行神をめぐる民俗宗教論―〈残念さん〉信仰を中心に―」「神輿会のフォークロア―東京圏の都市祭礼を支える人びと―」「中国の茶芸館をめぐる都市民俗誌」「ヴァナキュラー宗教の民俗誌―稲荷信仰の事例から―」「ネット・ロアとヴァナキュラー・ウェブ」「フォークアートとアウトサイダーアート」「植民地と引揚者」「新宗教/スピリチュアルの民俗学的研究」「職人と講集団」「食文化と食ツーリズム」などです。
 わたしたちの研究室では、関西圏の他大学大学院の民俗学ゼミとの合同ゼミを定期的に実施しているほか、研究室のメンバー全員で中国や台湾を訪れ、現地の民俗学系大学院ゼミとの合同研究会や共同調査も実施しています。院生は、日常のゼミにおいて修士論文、博士論文の完成に向けての研究指導を受けるとともに、これらの研究室活動からも多くを学びとり、日本や東アジアはもとより、世界の民俗学の第一線で活躍できる研究者として成長しています(国内学会に加え、アメリカ、中国、台湾、ドイツなど海外の民俗学会での発表や論文投稿を経験している院生もいます)。
 日本における民俗学系大学院教育の一拠点としての位置を占める関学社会学研究科島村研究室では、大学院に進学して民俗学/ヴァナキュラー文化研究を学ぼうと考えているみなさんを、国の内外、列島の東西/南北から広く歓迎しています。

 

【3. 代表的な著書・論文等】
島村恭則, 2020, (単著)『みんなの民俗学―ヴァナキュラーってなんだ?』平凡社新書.
島村恭則, 2020, (単著)『民俗学を生きる―ヴァナキュラー研究への道―』晃洋書房.
島村恭則, 2010, (単著)『〈生きる方法〉の民俗誌』関西学院大学出版会.
島村恭則, 2013, (編著)『引揚者の戦後』新曜社.
島村恭則, 2019,(共編著)『民俗学読本―フィールドワークへのいざない―』晃洋書房.
島村恭則, 2003, (単著)『日本より怖い韓国の怪談』河出書房新社.
島村恭則, 2008, (共著)『異界談義』光文社.
島村恭則, 2018, 「民俗学とは何か―多様な姿と一貫する視点―」『現代民俗学のフィールド』古家信平編, 吉川弘文館, 14−30.
島村恭則, 2017, 「グローバル化時代における民俗学の可能性」『東アジア世界の民俗−変容する社会・生活・文化―』(アジア遊学215), 217−231.
島村恭則, 2017, 「『民俗学』是什&#20040;」『文化遺産』46, 59−65, 中国・中山大学中国非物質文化遺産研究センター.
Shimamura, Takanori, 2017, Folklore in the Midst of Social Change: The Perspectives and Methods of Japanese Folkloristics. Japanese Review of Cultural Anthropology, 18(1), 191−220.
島村恭則, 2014, 「フォークロア研究とは何か」『日本民俗学』287, 1−34.
島村恭則, 1995, 「沖縄の民俗宗教と新宗教―「龍泉」の事例から―」『日本民俗学』204, 1−37.
島村恭則, 1993, 「民間巫者の神話的世界と村落祭祀体系の改変―宮古島狩俣の事例―」『日本民俗学』194, 70−124.
島村恭則, 2001, (博物館展示)「異界万華鏡―あの世・妖怪・占い―」国立歴史民俗博物館.

 

【4. 研究紹介のホームページなど追加情報】
 twitter(関西学院大学 現代民俗学 島村恭則研究室)も参照してください。
twitter.com

 この他、ネット上で「島村恭則」を検索すると、関連情報がいろいろ出てきます。
 進学を検討されている方は、島村恭則 tshimamura<アットマーク>kwansei.ac.jp(<アットマーク>は、@に変えてください)まで、直接ご連絡ください。ゼミ見学も受け付けています。


 進学を検討されている方は、島村恭則 tshimamura<アットマーク>kwansei.ac.jp(<アットマーク>は、@に変えてください)まで、直接ご連絡ください。ゼミ見学も受け付けています。

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2022年度の開講科目です。講義科目と並行して、指導教員・副指導教員のゼミが開講されています。

 












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国際シンポジウム「日韓民俗学の現在地」を開催します。

国際シンポジウム「日韓民俗学の現在地」を開催します。

 

2022年5月14日(土)9:30~18:00(オンライン)

科研基盤B「対覇権主義的学問ネットワークとしての『世界民俗学』構築へ向けた基盤的調査研究」(研究代表者:島村恭則)、関西学院大学世界民俗学研究センター

 

1.日韓民俗学の「協働」とその軌跡:比較民俗学、世界遺産時代そして日常学へ

 岩本通弥

2.日本民俗学の現在地 島村恭則

3.韓国民俗学の現在地:学会の複数性とその動向 南根祐

4.ポスト・コミュニティ時代におけるコミュニティ論の再構築

 安勝澤

5.世界民俗学とworld anthropology  桑山敬己

6.東アジアの民俗学と文化遺産のユネスコ化 丁秀珍

7.安東大学校民俗学科学位論文と研究傾向 李鎮教

8.「変化」についての韓国民俗学と日本民俗学の視線:1990年代以後の研究方法論を中心に 李玟宰

9、全体総括コメント 山泰幸

10、中国民俗学からの感想 周星

 

視聴希望の方は、tshimamura[アットマーク]kwansei.ac.jp までご連絡ください。

NHK文化センター青山「民俗学の歩き方・入門」のお知らせ

NHK文化センター青山「民俗学の歩き方・入門」

2月15日19時~開講、申込受付中(残席あり)。

PC、スマートフォンなどインターネットに接続可能な機器があれば、全国どこからでも受講できます。

 

民俗学とは、地方の農山漁村から大都市に至るまで、広くわたしたちの暮らしの現場に潜む「<俗>なる文化」(身近な非公式的文化)を取り上げて、それが持つ意味を解明する学問です。
祭りや伝説、年中行事や民俗芸能はもちろんのこと、B級グルメや職場の習慣、都市伝説やSNSで広がるうわさなど、すべて民俗学の対象です。
『みんなの民俗学 ヴァナキュラーってなんだ?』(平凡社新書)の著者が、民俗学の魅力をわかりやすく解説します。

 

第1回 民俗学とはどんな学問か?
民俗学とは、何をする学問なのでしょうか? 民俗学の成り立ちと世界各地での展開をわかりやすく概観するとともに、日本の民俗学の特徴について解説します。

第2回 フィールドワークの旅
民俗学の基本は、フィールドワーク(野外調査)です。民俗学者は、どのようなフィールドワークを行なっているのでしょうか? 35年におよぶフィールド体験をもとにお話しします。

第3回 民俗学からみた沖縄
個性的な文化が展開する沖縄(南西諸島)は、民俗学にとって重要な場所です。観光旅行では知ることのできない沖縄を、民俗学の視点で解明します。

 

詳細、申し込みは、こちから。

www.nhk-cul.co.jp

 

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「パンダおばさん」 のフォークロア —高知における誕生と展開—

柏井麻那

 

 

【要旨】

 

本論文は、高知市に暮らす「パンダおばさん」と呼ばれる女性のライフヒストリーや日常に関して、トリックスター性やクィアな存在と彼女との共通点に触れ、彼女が社会に与える影響や役割の重要性を考察したものである。本研究で明らかになった点は、次のとおりである。

 

1.彼女は、「パンダおばさん」というアイデンティティや物語があってこそ生きている人であること。

 

2.トリックスター性やクィア的存在の特徴を持った「パンダおばさん」は、現代の日常的価値体系を逸脱した社会常識の枠に当てはまらず排除されている異質な者たちへ主体性を与え、彼らを支える力がある。

 

3.彼女の存在は、二元論や既存の分類、秩序、常識といった「日常」や「当たり前」に囚われすぎている人々に、自身や既存の概念、社会的秩序を相対化させ、攪乱させるという役割によって、心に余裕がない現世に、日常世界の境界に追いやられた人々に対する寛容性を促す。

 

4.彼女は、秩序と混沌・善と悪の相反するものの境界の往来を我々に見せてくれることや、町興しで硬直した状況に流動性をもたらす役割を果たしている。

 

5.彼女は、現代のマジョリティに該当する者とアウトサイダーである異質な者とを繋ぐ仲介的な役割を果たしている。

 

6.常識や慣習にとらわれ、停滞している現代の社会には、新たな風を巻き起こし、既存の価値秩序を気負いなく破り、攪乱しながら立て直していく「パンダおばさん」のような存在が必要なのではないだろうか。すなわち、トリックスター性やクィア的存在の特徴を持つ存在が、棍棒の一撃を必要とする社会に大きな影響を与える可能性を十分に持っている。

 

【目次】

 

序章 

 第1節 問題の所在

 第2節 トリックスターとクィア

  (1)トリックスターとは

  (2)クィアとは

 

第1章 パンダおばさんのリアル

 第1節 はじめに

 第2節 誕生のきっかけ

 第3節 パンダの被り物

 第4節 衣装の変化

 第5節 手裏剣に込められた裏話

 第6節 町の人との関わり方

 第7節 パンダおばさんの裏の顔

 第8節 パンダおばさんの私生活

 第9節 今後の活動

 

第2章 パンダおばさんへのまなざし

 第1節 名前の由来—「ぶきみ丸」と「パンダおばさん」—

 第2節 都市伝説化したパンダおばさん

 第3節 「奇人」視されたパンダおばさん

 

第3章 考察

 (Ⅰ)両義性

 (Ⅱ)境界を越え、外部とのつながりを持つ

 (Ⅲ)安定や秩序と相反する存在

 (Ⅳ)文化的英雄になる

 

結語

 

文献一覧

 

謝辞

 

【本文写真から】

 

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写真1 パンダおばさん

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写真2 先祖の形見の古文書

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写真3 赤色の忍者の格好をしたパンダおばさん

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写真4 サンタクロースの格好をし、「パンダクロース」として町を歩くパンダおばさん

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写真5 パンダおばさんの自転車の前かご

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写真6 パンダおばさんのサイン入り色紙

 

【謝辞】

 

 本論文の執筆にあたり、多くの方々のご協力をいただいた。

 お忙しいなか、「パンダおばさん」のライフヒストリーや誕生の秘話についてのお話を聞かせて下さったことや、資料や写真の提供をして下さった、「パンダおばさん」こと熊澤直子氏に心より感謝いたします。指導教官の島村恭則教授からは、研究方針やフィールドワークで行き詰った際、多大なるご指導を賜り、最後まで温かく見守っていただき感謝の念に堪えません。これらの方々のご協力なしには、本論文は完成にいたらなかった。今回の調査にご協力いただいたすべての方々に、心よりお礼申し上げます。本当にありがとうございました。

 

宇和島の牛鬼・吉田の牛鬼ー出現形態の比較研究ー

 

川畑えりか

 

【要旨】

 

本論文は、愛媛県宇和島市および吉田町をフィールドに、宇和島市で行われる和霊大祭とうわじま牛鬼まつり、また吉田町の吉田秋祭で活躍する牛鬼について実地調査、文献調査を行うことで、各祭りにおける牛鬼の出場形態を比較し、宇和島の牛鬼と吉田の牛鬼の役割の違いを明らかにしたものである。本研究で明らかになった点は、次のとおりである。

 

1.牛鬼は、愛媛県南予地方の神社祭礼に出て暴れたり、神輿渡御の際に悪魔祓いや露祓いの役割を担う練物の一つで、全国的にも珍しいものである。南予の牛鬼を研究対象とした論文は、大本敬久氏の一連の研究などを除くと数少ない。

 

2.牛鬼はその起源においては残忍で狂暴な妖怪であるものの、露祓い、悪魔祓いを行い神輿渡御の役割を担い、祭の中で善神的役割を与えられているという点において、妖怪としての牛鬼と、祭の中で練物としての役割を持つ牛鬼は混同させずに全く別のものとして扱わなければならない。

 

3.頼山陽著『日本外史』によると、豊臣秀吉が加藤清正に朝鮮出兵を命じた文禄の役1592年(文禄元年)に武将加藤清正が韓国の慶尚道・晋州にある、晋州城を攻めるときに、亀甲車を造って城の上から射おろす矢や、投げつける石を防いだという亀甲車の話が、宇和島やその周辺に、牛鬼というものが出来た起源であろうといわれているが信憑性はない

 

4.うわじま牛鬼まつりの牛鬼は、胴体の布の色に規定はなく、個性豊かな形相をしており、現代の神賑行事としての祭りの形、また観光名物としてのうわじま牛鬼まつりを象徴している。祭りの中で、牛鬼は悪魔祓いの役割を果たしていて、家々に頭を突っ込んだりしている。牛鬼が祭り内で、暴れるのはこのアクマを背負っているからであるが、観客はアクマを背負ってくれている牛鬼の姿に歓喜するのではなく、ダイナミックな動きや表現に注目しているのであって、牛鬼をパレードの一環としてのみ見ている。これが、見せる、見せられることを意識した現在の祭礼文化としての形なのかもしれない。

 

5.吉田秋祭のおねりの中での牛鬼は、神輿渡御巡業の露祓いとして場を清める役割を持つ。牛鬼の登場は一体のみで、その風貌は、華美なものではなく吉田の牛鬼といったらこれ、という江戸時代からの牛鬼の形相を守り続けている。

 

6.吉田のおねりでは、趣向を凝らした練車や、一番の見物である鹿の子が存在するため、牛鬼は注目されて見られるものではない。吉田おねりを観るために観光客が訪れるが、牛鬼を観るために、ということではないだろう。吉田おねりは、江戸時代からのお練りの形態を変えず現在まで受け継がれている。そのため、牛鬼の姿が変わることがなければ数が増えることもない。このことからも、吉田秋祭は、歴史性、伝承性の高い祭りであるといえる。

 

7.宇和島の牛鬼は、観光客を呼ぶために、祭りをもっと盛り上げるために、パレードとして楽しんでもらうために牛鬼が様々な様相でパフォーマンスするといったように、神賑行事としての側面を牛鬼が盛り上げ役として担っている。一方で吉田の牛鬼は、伝統や歴史を見物客が感じられる点を重視しているので、牛鬼の姿を変えずに当時のままにしておくことで、より観光客は楽しむことができる。

 

8.神輿渡御、露祓い悪魔祓いといった神事としての祭の中での役割を両方の祭では果たしつつ、神賑行事としての牛鬼の役割(観客への見せ方、見られ方)が二つの祭でそれぞれに異なっているからこそ、練物としての牛鬼が宇和島と吉田において今日まで受け入れられ伝承し続けられていて、吉田秋祭のおねりが形の変わることなく続けられている。

 

9.森田は、「祭の規模が大きくなるに従って、ある場面が神事なのか神賑行事なのか、その判断に迷うことがある。また、多くの祭を比較した時、ある祭で神事的に用いられる祭具が、他の祭では神賑行事の祭具としてもちいられる、といった事例にも出会うことが多い」(森田玲2015:37)と述べている。この事例が宇和島と吉田の祭における牛鬼の出現形態にもいえる。

 

10.うわじま牛鬼まつりが、四国有数の大きな祭りとしてここまで発展したのは、牛鬼の派手な様相やパフォーマンスのためでもあるが、宇和島という町が人口が多く土地も広い比較的発展している都市であるということも関係しているだろう。宇和島においては、祭りの規模が町の規模を表している。

 

【目次】

 

序章 問題の所在

 

第1章 和霊大祭とうわじま牛鬼まつり

 第1節 宇和島市の概要

 第2節 和霊神社

 第3節 和霊大祭

 第4節 うわじま牛鬼まつり

 

第2章 吉田秋祭

 第1節 吉田町の概要

 第2節 吉田秋祭のおねり

 

結語

文献一覧

謝辞

 

【本文写真から】

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写真1 令和4年初詣の際の和霊神社

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写真2 走り込みの様子

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写真3 ガイヤカーニバル

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写真4 親牛鬼パレード

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写真5 吉田の牛鬼

 

【謝辞】

 本論文の執筆にあたり、多くの方々のご協力をいただいた。 

 指導教官の島村恭則教授には、研究の着想から、調査方法、論文執筆まで多くのご指導を賜りました。心から感謝申し上げます。お忙しいなか、牛鬼についての様々な情報を提供してくださった、宇和島市の商工観光課、文化・スポーツ課の皆さま。和霊大祭・うわじま牛鬼まつりに関する様々な情報や写真を提供してくださった森田裕子氏。これらの方々の協力なしには本論文は完成にいたらなかった。今回の調査にご協力いただいたすべての方々に、心よりお礼申し上げます。本当にありがとうございました。

尼崎の特飲街ー形成史とその後ー

福﨑玲音

 

【要旨】

 本研究は、戦後の尼崎市に存在した特飲街の形成過程とその後について明らかにしたものである。本研究で明らかになった点は、次のとおりである。

 
1.尼崎市に存在した特飲街は、全て戦後に形成され青線地帯に属するものであった。
 
2.戦後まもなく誕生した特飲街は、パーク街(現:かんなみ新地)、難波新地・新天地、杭瀬高田、出屋敷浮世小路、竹谷小学校裏の5つである。その後、これら5つの特飲街の取り締まりの強化に伴い、神崎新地と初島新地が誕生した。
 
3.神崎・初島両新地は創設にあたり、地域住人の反対運動があったものの、孤島である地形や必要悪であるという理由から押し切られる形で誕生した特飲街である。
 
4.初島新地は、神崎新地と時を同じくして1955年(昭和30年)の夏に開業した。その後、度重なる取り締まりを受け、1968年(昭和43年)7月に消失した。
 
5.神崎新地は、初島新地と時を同じくして1955年(昭和30年)の夏に開業した。その後は、初島新地と並行して兵庫県警による取り締まりが行われた。取り締まりを掻い潜った少数の業者のみで営業を続けてきたが、1995年の阪神淡路大震災をきっかけに消失した。
 
6.難波新地・新天地、杭瀬高田、出屋敷浮世小路、竹谷小学校裏の特飲街は、近隣住人の反対運動や県警の取り締まりにより、それぞれ消失した。具体的な年次などは明らかになっていない。
 
7.最後まで尼崎市に存在していた特飲街は、かんなみ新地である。かんなみ新地は、戦後に誕生して以来、幾度となく取り締まりや規制の対象となっていた。また、移転を望む声も後を立たなかったが、押し切って営業を続けていた。しかし、2021年(令和3年)11月1日に全店閉店という形で幕を下ろした。
 
8.特飲街の形成には、幾つもの思惑が絡み合う。神崎・初島両新地への移転問題から、教育・環境衛生面から悪とされていた特飲街は、市街地から離れた場所へ追いやられた。また、そこに住む人からの反発があったとしても、より多くの人が納得する選択を取り続けた結果として、神崎・初島両新地への移転が行われた。このことから、特飲街の形成には、多くの思惑が複雑に絡み合っているということができる。
 
【目次】
 
序章 
 第1節 問題の所在
 第2節 尼崎の概要
 第3節 特飲街とは何か
 第4節 研究手法
 
第1章 かんなみ新地
 第1節 形成史
 第2節 取締りと移転
 第3節 現状
 
第2章 神崎新地(戸ノ内新地)
 第1節 形成史
 第2節 取締りと移転
 第3節 現状
 
第3章 初島新地
 第1節 形成史
 第2節 取締りと終焉
 第3節 現状
 
第4章 難波新地・難波新天地
 第1節 形成史
 第2節 現状
 
第5章 杭瀬高田
 第1節 形成史
 第2節 現状
 
第6章 出屋敷浮世小路
 第1節 形成史
 第2節 現状
 
第7章 竹谷小学校裏
 第1節 形成史
 第2節 取締りと終焉
 第3節 現状
 
結語
 
参考文献
 
【本文写真から】
 

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写真1 花街の分類(自作)
 
 
 

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写真2 かんなみ新地前の通り
 
 
 

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写真3 1954年(昭和29)年9月8日の神戸新聞
 
 

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写真4 1956年(昭和31年)6月24日発行のアサヒグラフ「伸びる尼崎特飲街」
 
 
 

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写真5 警察官による張り込みが行われているかんなみ新地
 
 
【謝辞】
 

 本論文の執筆にあたり、たくさんの方にご協力をいただきました。お忙しいなか、尼崎市の特飲街についての資料を提供して下さった、尼崎市教育委員会の辻川淳様、西村豪様をはじめとする尼崎市立歴史博物館あまがさきアーカイブズの皆さま。これらの方々のご協力がなくては、本論文は完成に至りませんでした。今回の調査にご協力いただいた全ての方々に、心より御礼申し上げます。本当にありがとうございました。

大阪心中考 ―天和~正徳年間の花街と芝居―

 

榎村麻里子

 

【要旨】本研究は、江戸時代の心中沙汰流行について、天和正徳年間を中心とした江戸期前半の大坂をフィールドに、大坂で起こった心中流行と大坂花街の独自システムの関係性について明らかにしたものである。本研究で明らかになった点は、次の通りである。

 

1.心中するのは共に金銭に困った町人と端女郎が殆どであった。

 

2.大坂の心中は、官許の新町遊郭で流行した期間と、非官許花街の外町で流行した期 

       間に分かれる。

 

3.本来遊郭は廓状で出入口も一つだけのため遊女は簡単に脱走できない。しかし、市

       街地の町人たちが主な客層だった新町遊郭は、町人達の要望のもと市街地直結の大

       門と橋を増設した。

 

4.新町遊郭は火事も多く、避難用の用心門も造設された。

 

5.警備する箇所が増えると次第に門番の監視も弱まり、遊女の位に関わらず、多少の

       金銭を門番に渡せば遊女の外出が可能になったため、心中目的の遊女の逃走も容易         になった。

 

6.懐に余裕のある芝居客が多い南地五花街など南に比べて、天満周辺市街地に隣接し         ていた曾根崎新地は客層も落ち着きがあった曾根崎新地では心中者が良く出た。

 

7.客層に加え、曾根崎新地の遊女は客に付き添って芝居見物に行く機会も多かったた          め、当時流行していた心中芝居を見て影響を受けた可能性もある。

 

 

【目次】

序章                               5

第1節 問題の所在          6

第2節 先行研究               6

 

第1章  心中とは何か         11

第1節 延宝年間まで        12

第2節 天和年間以降        13

小括           14

 

第2章 江戸期の心中         16

第1節 主な心中事件         17

第2節 心中者の傾向         18

小括                                      20

 

第3章 花街と心中もの                   22

第1節 心中ものによる心中流行     23  

第2節 新町遊郭と心中                      26

(1)新町遊郭のおこり                      26

(2)新町遊女と大門と心中               29

 

第3節 外町と心中              35

(1)  大坂の外町                     35

(2)   曽根崎新地の心中         37

(3) 小括                            38

結語                                        39

 

参考文献一覧                         41

 

 

【本文写真から】

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(図1 元吉原の立地)

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(図2 新吉原の立地)

吉原遊郭は移設前(元吉原)も移設後(新吉原)も周辺が水路や畑に囲まれた僻地にあった。また出入りは大門とそれに連なる大橋の一対のみ。

 

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(図3 元禄9年の新町遊郭)

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(図4 新町遊郭周辺図)

市街中心部からの客の訴えの為に、新町遊郭は大門が二つに増設し、通行用の新町橋も架設された。(図3)橋の架設により堺筋からのアクセスが向上し、より市街地に密接した。(図4)

 

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(図5 大坂の主な外町)

南地五花街、堀江、堂島、曾根崎の中でも、大きく心中が流行したのは曾根崎であった。(図5:④)

融通念仏宗「御回在」の民俗学的研究

出崎和沙

 

【要旨】

 

本研究は、融通念仏宗の伝説・伝承に着目し、それらが語られ、伝播していく場として「御回在」の現場をフィールドに調査を行うことで、受け入れ側の声をふまえて「御回在」の現状を明らかにしたものである。本研究で明らかになった点は、次のとおりである。

 

1.融通念仏宗は庶民にも分かりやすい霊験譚が書かれた『融通念仏縁起』を用いて布教や勧進を行っていた。現在末寺のある大阪・奈良だけでなく他県にも『融通念仏縁起』は伝わっており、その他にも融通念仏宗の伝説には、歌舞伎などでも上演されている『片袖縁起』や『亀鉦縁起』に加え、融通念仏宗のゆかりのある地で良忍上人を偲ぶ伝説や御利益が語られている伝承が数多く伝わっていた。これらの伝説や伝承は、現代においても語り継がれている点から、深く伝播していることが分かった。

 

2.融通念仏宗独自の「御回在」という行事は、本尊が掛け軸だからこそ各檀家の家々を回る事ができ、直接本山のお力をいただくことができるため、より融通念仏宗を近くに感じることができる行事であるといえる。本来であれば、本山の下に末寺があり、その下に檀家という構図が一般的であるが、融通念仏宗においては、本山・末寺・檀家のそれぞれが対等な立場として考えることができる。

 

3.「御回在」で各家々を回るにあたり、檀家の家で休憩をとる時間で世間話をし、寺回向の際にはたくさんの人が参拝され、最後に説法が行われるなど、「御回在」のような巡回の場は語りや交流の場となり、本山と檀家を強く結びつけ、地域に密着した宗派であるといえる。

 

4.「御回在」を受け入れている側の実態は軸として、「本山からわざわざ来て頂けるので有難い」という共通の思いが強くあった。現代において、お祓いをしてもらう機会は減っているが、当世利益的な御祈禱やお祓いが目的という時代があったと言われているように、融通念仏宗は現世利益に強みを持っている宗派であるが、「御回在」において、受け入れ側は当世利益を求め、また宗教側もそれを受け入れ、「御回在」に当世利益の強みを持たせていることが分かった。

 

【目次】

 

序章

第1節 問題の所在

第2節 融通念仏宗

(1)良忍上人と融通念仏宗

(2)融通念仏宗の復興

(3)『融通念佛縁起』

(4)「非文字」文化

 

第1章 御回在

第1節 儀礼としての「御回在」

(1)地域をめぐる御本尊

(2)大和御回在と河内・近郷御回在

(3)お勤め

第2節 御本尊を「迎える」

(1)荘厳と信仰心

(2)供養心

 

第2章 大和御回在の現場

第1節 奈良県奈良市二名の事例

(1)現状

(2)受け入れ側の声

第2節 奈良県生駒市山崎の事例

(1)現状

(2)受け入れ側の声

第3節 奈良県生駒市菜畑の事例

(1)現状

(2)受け入れ側の声

第4節 御帰院

 

結語

文献一覧

謝辞

 

【本文写真から】

 

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写真1 法融寺に掲示されていた御回在の案内

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写真2 御開帳された御本尊(掛け軸)

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写真2 お勤めの最後に行われるお頂戴の様子

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写真3 大念佛寺での御帰院(御回在を終え本山へ帰ってくる)

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写真4 御帰院(平野の市内を歩く様子)

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写真5 御帰院(御本尊が本山へ帰ってくる様子)

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写真6 御帰院法要の様子






 

【謝辞】

本論文の執筆にあたり、多くの方々のご協力をいただきました。お忙しい中、御回在の現地調査の日程を調整いただき、数多くの資料を提供してくださった、大念佛寺教学部長吉井様、教学次長吉田様をはじめとする大念佛寺の職員の皆さま。また、御回在の現場で調査を快く許可していただいた法融寺、安養寺、大融寺、並びに聞き取り調査にご協力いただいた各檀家の皆さま。これらの方々のご協力なしでは、本論文は完成に至りませんでした。今回の調査にご協力いただいたすべての方々に、心よりお礼申し上げます。本当にありがとうございました。

頭屋と保存会ー吹田市吉志部神社「どんじ祭り」の事例ー

武藤菫

 

【要旨】

 

本研究は、大阪府吹田市の吉志部神社をフィールドに、この神社で行われる宮座神事「どんじ祭り」と祭祀組織である宮座の旧頭屋およびどんじ保存会について調査を行うことで、祭祀組織の変遷と現代においての実態を明らかにしたものである。本研究で明らかになった点はつぎのとおりである。

 

1.南地区は戦前どんじが中断されるまでは堀内・森岡・堀内・並田の4軒、どんじ復活の1990年は南地区に残っていた森岡と堀内が頭屋を勤め、2008年まで2軒で1年交代に頭屋を勤めた。堀内氏の死後2年にわたって森岡のみが頭屋を勤めた後、1軒のみでの継続が困難となり森岡氏が南吉志部奉賛会に加入し南どんじ保存会が結成された。

 

2.小路地区は戦前まで西島・速水・平田・奥田の4軒、どんじ復活時の1990年には小路に残っていた西島が頭屋を勤めた。西島氏と宮司の数年にわたる協議の結果、1996年に小路のどんじを移譲することに西島氏が了承し、1998年に小路どんじ保存会が結成された。

 

3.東地区は戦前まで東村の中西・岸本・竹原・阪本・奥・岸本・野口の7軒と七尾村の1軒が頭屋を勤めており、1990年には7軒の旧頭屋のうち中西が頭屋を勤めた。その後7軒によって2006年まで簡略化した形式で祭りが行われた。どんじ再興について竹原氏と宮司の協議の結果2007年から再興が決定したが、継続が困難であるため中西・奥・岸本・野口の4軒は頭屋を辞めることになった。残った岸本・竹原・阪本の3軒は祭りの継続が困難なため東奉賛会に加入するとともにどんじを移譲し、東どんじ保存会が結成された。

 

4.どんじ保存会が以前は頭屋の仕事であった祭具の作成、神饌の調製、奉納にあたる神事への参列を行うことで頭屋の役割を担い、どんじ祭りを継続させていること。

 

5.3つの地区のどんじ保存会は共通して「祭具の材料調達」「どんじ祭り・祭具作成の経験者不足」「祭り全体の人手不足」という課題を抱えていること。

 

【目次】

 

序章 問題の所在

 

第1章 吉志部神社とどんじ祭り

 

第1節 吉志部神社

 (1)吹田市岸部と紫金山

 (2)神社の歴史

 (3)七間社の社殿

 (4)祭神・年中行事

 

第2節 どんじ祭り

(1)祭りの概要

(2)人身御供伝説

(3)特殊神饌

(4)どんじ講・頭人仲とどんじ保存会

 

第2章 南村

 第1節 頭屋の変遷

 第2節 保存会の登場

 

第3章 小路村

 第1節 頭屋の変遷

 第2節 保存会の登場

 

第4章 東村

 第1節 頭屋の変遷

 第2節 保存会の登場

 

結語

 

文献一覧

 

謝辞

 

【本文写真から】

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写真1 吉志部神社

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写真2 どんじ祭りで奉納された神饌

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写真3 1990年どんじ祭り復活時の東地区の様子(東どんじ保存会提供)

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写真4 『御官當番書』當番之次第  (「當番之次第」という文字の後に右から堀内、森岡、堀内、並田の4名の頭屋が記載されている。)

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写真5 祭り前日 注連縄が飾られた小路地区旧頭屋の西島家




【謝辞】

本論文の執筆にあたり多くの方々にご協力いただきました。お忙しい中どんじ祭りの前日・当日ともに随行させていただき、お話を聞かせてくださった吉志部神社の奥田様。調査に快くご協力くださった小路どんじ保存会の西川様、南どんじ保存会の森岡様、東どんじ保存会の岸本様、どんじ保存会の皆様、吹田市立博物館の藤井様。皆様のご協力がなければ本論文は完成に至りませんでした。今回の調査にご協力いただいたすべての方に心より御礼申し上げます。本当にありがとうございました。

 

都市民俗としての念仏 ―近世江戸における葛西念仏・泡斎念仏・木魚講の事例―

今村凜

 

【要旨】本研究は、江戸時代に民衆によって行われた念仏芸能である木魚講・葛西念仏・泡斎念仏という3つの事例の発展について、都市民俗という観点から考察していったものである。本研究で明らかになった点は、つぎのとおりである。

 

1.葛西念仏・泡斎念仏の成立は資料によって異なり、5つの説が挙げられる。そして「ほうさい」という人物が葛西念仏・泡斎念仏の成立と発展にかかわりが深いと考えられる。

2.葛西念仏・泡斎念仏は元々踊り念仏であったが、民衆に広まることによって宗教性が薄れていき、芸能化していくことで念仏踊りに近づいていった。これは庶民が担い手となったことが要因であると考えられる。

3.葛西念仏・泡斎念仏は「鉢叩き念仏」や一遍上人の踊り念仏を源流とする、念仏の広がりの1つに含まれる。この源流から各地に踊り念仏が広まり、名前を変え土地によって多様化していった。

4.木魚講は宗教的行動を行うが、経済的な互助を目的とする「講」としての役割も担っていた。主にお金のない人たちが、それぞれ資金を集め仲間内で野辺送りを行っていた。

5.木魚講は野辺送りで木魚を叩き念仏を唱えることが主な活動であり、宗教的行動に重きが置かれていた。しかし民衆に広まることによって、縁日や開帳に参加して派手に増長していき、宗教的意義が薄れ芸能化していった。これも庶民が担い手となったことが要因であると考えられる。

6.木魚講は開帳や縁日などの行事に参加するようになるにつれ、大金をかけるようになり活動がどんどん派手になっていった。このように増長したことで、政府から取り締まりを受けるようになった。

7.木魚講・葛西念仏・泡斎念仏が民衆に広まった要因として、江戸という都市の日常性が考えられる。農村の人々にとって「ハレ」と分類されるような神仏詣でなどが、江戸の人々の日常にはごくあたり前なのである。つまり江戸の日常生活に神仏の行事などが当たり前に溶け込んでおり、人々と念仏の距離が近い。このような江戸の日常性によって木魚講・葛西念仏・泡斎念仏が江戸という都市で民衆に広まり、芸能化していったのではないだろうか。

 

【目次】

序章 問題と研究史

第1節 問題の所在

第2節 研究史

 

第1章 葛西念仏・泡斎念仏

第1節 葛西念仏・泡斎念仏の成立

第2節 ほうさいという道化

第3節 念仏の芸能化

第4節 念仏の広がり

 

第2章 木魚講

第1節 木魚講の成立

第2節 木魚講と木遣

第3節 「講」としての木魚講

第4節 木魚講の芸能化

第5節 木魚講の禁止

 

結語

 

文献一覧

 

【本文写真から】

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写真1 「世事百談」(1994、山崎美成『日本随筆大成 第1期18』日本随筆大成編輯部編、吉川弘文館)59ページから60ページの挿絵

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写真2 「只今御笑草」(1995、瀬川如皐 『日本随筆大成 第2期20』日本随筆大成編輯部編、吉川弘文館)199ページの挿絵

 

はんざき祭りの創始と展開―岡山県真庭市湯原温泉街の事例―

野見山三四郎

 

【要旨】

 本研究は、岡山県真庭市湯原温泉街をフィールドに実地調査を行なうことで、はんざき祭りの創始、展開を明らかにするものである。本研究で明らかになった点は、次のとおりである。

 

1.湯原温泉街ははんざきにゆかりを持つ土地である。温泉街に流れる旭川ははんざきの最多生息地域だ。また、日本で初めてオオサンショウウオの研究が開始された場所であり、農科大学教授である石川千代松が湯原を訪問している。著書である『はんざき(鯢)調査報告』には湯原地域の土地のことや、湯原のはんざき文化について触れられており、湯原がはんざきの里として認識されるようになった。現在でも「はんざきセンター」という生きているはんざきを見ることのできる施設があることや「日本オオサンショウウオの会」と呼ばれる研究発表会が湯原温泉街で開かれるなど湯原とはんざきとの結びつきの深さが見える。

 

2.はんざきの社は作陽誌に書かれている神社の若宮として建てられた。湯原温泉街には国司神社と呼ばれる神社が存在していた。神社の合併により、同じ真庭市にある八幡神宮に国司神社は吸収されてしまって現在は存在していない。はんざき大明神が湯原温泉街に残っているのはその際に吸収されなかったからである。その理由は、はんざき大明神の社地が私有物であったためであると言われている。石川千代松は、湯原に立ち寄った際にはんざき大明神を地域の人々が大切にしていることに感動したらしく、その当時、社地を買い取ったのだという。この行動により、神社が吸収されたのちも若宮のはんざき大明神は湯原温泉街に残っている。

 

3.はんざき祭りの始まりは1962年に岡山国体山岳競技の閉会式が湯原で開催され、その際地元の若者が選手の方々を喜ばせようと何か企画できないかということで考えられたものが、地元にあったはんざき伝説をもとにしたはんざき祭りだった

 

4.はんざき祭りの特徴として神仏習合の祭りであることが挙げられる。神事ははんざき大明神に、仏事は三井彦四郎に行われているという理由。元々夏祭りとして行われていた温泉祭りが、薬師寺の祭りであった名残であるという理由も挙げられる。

 

5.初期の造り物は毎年つくりかえており、毎年布を被せ、竹を組んでいる。造り物の上には三井彦四郎に扮した人物が乗り、お菓子をばらまく。

 

6.初期の造り物を毎年造ることが困難になってきたこと、新調したいとの声があがったことにより1994年に「太郎」が造られる。その1年後に「太郎」が好評だったため「花子」が造られる。

 

7.祭りの50周年を迎えた2011年に「はんざきねぶた」が岡山県高梁市川上町で「まんが絵ぶた」を参考に造られる。

 

【目次】

序章

 第1節 問題の所在

 第2節 研究史

 第3節 調査方法

 

第1章湯原温泉とはんざき

 第1節湯原とはんざき

 第2節はんざき大明神

 第3節 ヌシとしてのはんざき

 

第2章 はんざき祭りの創始

 第1節 岡山国体と祭りの創始

 第2節 造り物の登場

 

第3章 はんざき祭りの創始

 第1節 祭りの観光化

 第2節 造り物の変化

 第3節 はんざきねぶたの誕生

 第4節 祭りの現在

 

結語

 

文献一覧

 

 

【本文写真から】

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写真1 はんざき大明神の鳥居(2021年10月20日)

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写真2 はんざき大明神の社(2021年10月20日)

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写真3 三井彦四郎の墓(2021年10月20日)

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写真4 はんざき祭りの初期(湯原温泉観光協会提供)

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写真5 はんざきの造り物(2021年10月20日)

【謝辞】

 本論文の執筆にあたり、多くの方々のご協力をいただいた。お忙しいなか、はんざき祭り、湯原温泉街についてお話を聞かせて下さった、小河原弘基氏、坂手修三氏、浜子尊行氏、早瀧俊海氏、伴野良子氏、ほか調査にご協力いただいた湯原温泉街の皆さん。これらの方々のご協力なしには、本論文は完成にいたらなかった。今回の調査にご協力いただいた全ての方々に、心よりお礼申し上げます。本当にありがとうございました。

 

薬師堂由来譚としての佐用姫伝説-奥州市胆沢の事例-

黒田楓香

 

【要旨】本研究は、岩手県奥州市胆沢をフィールドに、「松浦佐用姫伝説」についての実地調査を行うことで、この伝説が胆沢の地においてどのように形成され、また宗教的・社会的役割を果たしてきたかについて考察したものである。本研究で明らかになった点は、次の通りである。

 

1.水の神に供える犠牲としての佐用姫人柱伝説は全国的に分布している。「サヨ」という名には悲劇的な女性、遊行の宗教芸能者、神を迎える巫女性などの特徴が見出されており、胆沢の松浦佐用姫伝説に登場する「佐用姫」にもそれらの特徴が表れている。

 

2.胆沢の松浦佐用姫伝説は、内容上、ある程度のかたまりに分けられることができる。それぞれの構成要素に分けて検討してみると様々な伝説が上手く組み合わされて一体の伝説に仕上げられていることが明らかであった。

 

3.主な構成要素としては「長者伝説」「長者没落伝説」「道成寺物」「人柱伝説」「佐用姫伝説」「霊験譚」「仏教説話」「弁才天縁起」であった。そしてこのような複雑化した伝説の定着と成長を支えたのが「長者屋敷」である。

 

4.久須志神社の薬師堂には佐用姫が持っていた薬師如来が祀られている。佐用姫伝説全体がこの薬師堂の由来譚として、薬師如来のご利益を説く形で語られている。

 

5.当地の松浦佐用姫伝説は、元来、薬師堂に関係する宗教者(僧侶、巫女など)によって、もともと別の説話であったいくつもの構成要素が一体のものに仕立て上げられ、薬師堂のご利益を説くための説経として語られていたのではないかと推測される。そして、その説経が伝説化して今もなお語り継がれているのではないかと考えられる。

 

 

【目次】

 

序章

 

 第1節 問題の所在

 

 第2節 柳田國男による研究

 

 第3節 奥州市胆沢の概況

 

第2章 掃部長者

 

 第1節 長者物語

 

  (1)掃部長者の先祖

 

  (2)佐用姫伝説の中で語られる掃部長者

 

第2節 大蛇と化した長者の妻

 

 (1)道成寺物としての側面

 

 (2)長者の妻の正体

 

第2章 松浦佐用姫

 

 第1節 人身御供

 

  (1)一人目の人柱「花世姫」

 

  (2)虚空蔵菩薩の加護

 

 第2節 佐用媛人柱の伝承

 

  (1)サヨ姫の「神を迎える巫女性」

 

  (2)九州に伝わる佐用姫伝説

 

  (3)全国に伝わる佐用姫伝説

 

第3節 胆沢の佐用姫伝承

 

 (1)高山掃部長者屋敷跡・高山稲荷神社

 

 (2)垢取り石(宝寿寺境内)

 

 (3)化粧坂と薬師清水

 

 (4)四ツ柱

 

 (5)見分森

 

 (6)角塚古墳

 

第3章 法華経と薬師如来

 

 第1節 法華経の功徳

 

  (1)大蛇の退治

 

  (2)退治したその後

 

 第2節 久須志神社の薬師堂

 

 第3節 弁才天縁起としての佐用媛

 

  (1)竹生島の概況

 

  (2)「弁才天」という神様

 

  (3)佐用姫との関係

 

結語

 

文献一覧

 

【本文写真から】

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写真1 久須志神社の薬師堂

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写真2 薬師堂

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写真3 薬師堂の看板

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写真5 化粧坂

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写真6 角塚古墳

 

 

現代の修験ー宝塚市・長尾山宝秀院の事例ー

杠菜々子

 

 

【要旨】

 本研究は、兵庫県宝塚市の修験道寺院「長尾山宝秀院」をフィールドに実地調査を行うことで、宝秀院の住職であり、修験者でもある藤本誠秀氏がどのような人生を送ってきたのか、また、現代の修験の実相について明らかにしたものである。本調査で明らかになった点はつぎのとおりである。

 

1.聞き取り調査から、藤本氏の人生の転機として幼少期の生活と阪神淡路大震災、交通事故の経験が挙げられた。これらの経験からは、人に対しての憎しみや自分自身に対しての疑問、諦めなどの様々な感情を得た。このことから、藤本氏は人間や愛、慈しみなど全ての物事について深く考えるようになった。

 

2.これらの経験があったものの、藤本氏は修験の世界に入るきっかけというものは特にないと語っている。建築関係の仕事をしながら全て流れに身を任せているうちに偶然修験の世界に導かれ、それが自分に合っていたと語る。

 

3.兵庫県神戸市北区に位置する丹生山が、藤本氏に大きな影響を与えた山である。丹生山で念仏行や回峰行、滝行を行ったことで藤本氏自身が助けられ、周囲の人も病気が治るなど、他の山とは違うものを感じたという。

 

4.藤本氏は現在も定期的に丹生山に訪れ、5月5日に開催される丹生神社の申祭には毎年参加している。申祭では「丹生山で修行をさせて頂いたお礼」として、玉串奉奠などの神事の手伝いや、丹生山頂上までの道中で法螺貝を吹いて先導をしている。

 

5.長尾山宝秀院のご本尊は丹生都比売命、山王権現、牛頭天王である。それら三尊は丹生山にお祀りされており、藤本氏自身や周囲の人が多くの助けを頂いたと感じていることから、ご本尊としてお祀りすることにした。

 

6.藤本氏が最も大変であったという修行の一つが、八千枚護摩行である。宗派によって修行内容には違いがあるが、藤本氏は肉体的にも精神的にも準備が必要だと考え、2年間準備期間を設け、本番に向けて護摩行・念仏行・穀断などの修行を行った後、2017年に正式に八千枚護摩行を行った。

 

7.藤本氏は、修験道とは「山であそぶこと」だと語っている。藤本氏自身が、修行を行う「修験道」は苦しく耐えるだけのもので敷居が高いと感じていたため、もっと身近なものとして捉えてほしいという想いがある。先輩から、「修行には滝行や座禅など様々なものがあるが、それだけではなく自然や全てに同化することが修行」と教わったことが、現在の藤本氏の活動につながっている。

 

8.現代の修験道は弟子や信者が少なくなっている状況であるが、藤本氏は「友縁」と呼んでいる信者から、会費はもらっていない。それは、藤本氏が「修験道が全員でなくとも誰かの心に刺さって、この世界に入ってくれればそれでいい」と考えていることからである。「人々が少しでも前に進んでいけるように何かお役に立ちたい」という想いが、宝秀院を続けている大きな理由である。

 

 

【目次】

 

序章 問題の所在

 

第1章 藤本誠秀氏のライフヒストリー

 第1節 生い立ち

  (1)母親との関係と阪神淡路大震災

  (2)交通事故

 第2節 丹生山との出会い

  (1)丹生山と丹生神社

  (2)藤本氏と丹生山

 第3節 長尾山宝秀院の創設

  (1)宝塚市山本地区

  (2)創設までの過程

 

第2章 長尾山宝秀院

 第1節 祭神

 第2節 儀礼

 第3節 修行

 第4節 藤本氏の信念

 

結語

 

文献一覧

謝辞

 

【本文写真から】

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写真1 長尾山宝秀院の看板

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写真2 長尾山宝秀院の入口

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写真3 採燈護摩壇

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写真4 丹生神社の鳥居

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写真5 山田町から望む丹生山(写真中央奥)



【謝辞】

 本論文の執筆にあたり、多くの方々にご協力いただきました。お忙しい中、何度も貴重なお話をお聞かせくださいました藤本誠秀様、長尾山宝秀院のお弟子の皆様、丹生宝物殿の見学にご協力くださいました神戸市北区役所山田出張所の林芳宏様、田尾憲一様、山田民俗文化保存会会長の新田嘉己様、丹生宝物殿管理者の田中様、これらの方々のご協力なしに本論文の完成はありませんでした。今回の調査にご協力いただいたすべての方々に心より御礼申し上げます。本当にありがとうございました。