福﨑玲音
【要旨】
本研究は、戦後の尼崎市に存在した特飲街の形成過程とその後について明らかにしたものである。本研究で明らかになった点は、次のとおりである。
1.尼崎市に存在した特飲街は、全て戦後に形成され青線地帯に属するものであった。
2.戦後まもなく誕生した特飲街は、パーク街(現:かんなみ新地)、難波新地・新天地、杭瀬高田、出屋敷浮世小路、竹谷小学校裏の5つである。その後、これら5つの特飲街の取り締まりの強化に伴い、神崎新地と初島新地が誕生した。
3.神崎・初島両新地は創設にあたり、地域住人の反対運動があったものの、孤島である地形や必要悪であるという理由から押し切られる形で誕生した特飲街である。
4.初島新地は、神崎新地と時を同じくして1955年(昭和30年)の夏に開業した。その後、度重なる取り締まりを受け、1968年(昭和43年)7月に消失した。
5.神崎新地は、初島新地と時を同じくして1955年(昭和30年)の夏に開業した。その後は、初島新地と並行して兵庫県警による取り締まりが行われた。取り締まりを掻い潜った少数の業者のみで営業を続けてきたが、1995年の阪神淡路大震災をきっかけに消失した。
6.難波新地・新天地、杭瀬高田、出屋敷浮世小路、竹谷小学校裏の特飲街は、近隣住人の反対運動や県警の取り締まりにより、それぞれ消失した。具体的な年次などは明らかになっていない。
7.最後まで尼崎市に存在していた特飲街は、かんなみ新地である。かんなみ新地は、戦後に誕生して以来、幾度となく取り締まりや規制の対象となっていた。また、移転を望む声も後を立たなかったが、押し切って営業を続けていた。しかし、2021年(令和3年)11月1日に全店閉店という形で幕を下ろした。
8.特飲街の形成には、幾つもの思惑が絡み合う。神崎・初島両新地への移転問題から、教育・環境衛生面から悪とされていた特飲街は、市街地から離れた場所へ追いやられた。また、そこに住む人からの反発があったとしても、より多くの人が納得する選択を取り続けた結果として、神崎・初島両新地への移転が行われた。このことから、特飲街の形成には、多くの思惑が複雑に絡み合っているということができる。
【目次】
序章
第1節 問題の所在
第2節 尼崎の概要
第3節 特飲街とは何か
第4節 研究手法
第1章 かんなみ新地
第1節 形成史
第2節 取締りと移転
第3節 現状
第2章 神崎新地(戸ノ内新地)
第1節 形成史
第2節 取締りと移転
第3節 現状
第3章 初島新地
第1節 形成史
第2節 取締りと終焉
第3節 現状
第4章 難波新地・難波新天地
第1節 形成史
第2節 現状
第5章 杭瀬高田
第1節 形成史
第2節 現状
第6章 出屋敷浮世小路
第1節 形成史
第2節 現状
第7章 竹谷小学校裏
第1節 形成史
第2節 取締りと終焉
第3節 現状
結語
参考文献
【本文写真から】
写真1 花街の分類(自作)
写真2 かんなみ新地前の通り
写真3 1954年(昭和29)年9月8日の神戸新聞
写真4 1956年(昭和31年)6月24日発行のアサヒグラフ「伸びる尼崎特飲街」
写真5 警察官による張り込みが行われているかんなみ新地
【謝辞】
本論文の執筆にあたり、たくさんの方にご協力をいただきました。お忙しいなか、尼崎市の特飲街についての資料を提供して下さった、尼崎市教育委員会の辻川淳様、西村豪様をはじめとする尼崎市立歴史博物館あまがさきアーカイブズの皆さま。これらの方々のご協力がなくては、本論文は完成に至りませんでした。今回の調査にご協力いただいた全ての方々に、心より御礼申し上げます。本当にありがとうございました。