関西学院大学 現代民俗学 島村恭則研究室

関西学院大学大学院 現代民俗学 島村恭則研究室

都市民俗としての念仏 ―近世江戸における葛西念仏・泡斎念仏・木魚講の事例―

今村凜

 

【要旨】本研究は、江戸時代に民衆によって行われた念仏芸能である木魚講・葛西念仏・泡斎念仏という3つの事例の発展について、都市民俗という観点から考察していったものである。本研究で明らかになった点は、つぎのとおりである。

 

1.葛西念仏・泡斎念仏の成立は資料によって異なり、5つの説が挙げられる。そして「ほうさい」という人物が葛西念仏・泡斎念仏の成立と発展にかかわりが深いと考えられる。

2.葛西念仏・泡斎念仏は元々踊り念仏であったが、民衆に広まることによって宗教性が薄れていき、芸能化していくことで念仏踊りに近づいていった。これは庶民が担い手となったことが要因であると考えられる。

3.葛西念仏・泡斎念仏は「鉢叩き念仏」や一遍上人の踊り念仏を源流とする、念仏の広がりの1つに含まれる。この源流から各地に踊り念仏が広まり、名前を変え土地によって多様化していった。

4.木魚講は宗教的行動を行うが、経済的な互助を目的とする「講」としての役割も担っていた。主にお金のない人たちが、それぞれ資金を集め仲間内で野辺送りを行っていた。

5.木魚講は野辺送りで木魚を叩き念仏を唱えることが主な活動であり、宗教的行動に重きが置かれていた。しかし民衆に広まることによって、縁日や開帳に参加して派手に増長していき、宗教的意義が薄れ芸能化していった。これも庶民が担い手となったことが要因であると考えられる。

6.木魚講は開帳や縁日などの行事に参加するようになるにつれ、大金をかけるようになり活動がどんどん派手になっていった。このように増長したことで、政府から取り締まりを受けるようになった。

7.木魚講・葛西念仏・泡斎念仏が民衆に広まった要因として、江戸という都市の日常性が考えられる。農村の人々にとって「ハレ」と分類されるような神仏詣でなどが、江戸の人々の日常にはごくあたり前なのである。つまり江戸の日常生活に神仏の行事などが当たり前に溶け込んでおり、人々と念仏の距離が近い。このような江戸の日常性によって木魚講・葛西念仏・泡斎念仏が江戸という都市で民衆に広まり、芸能化していったのではないだろうか。

 

【目次】

序章 問題と研究史

第1節 問題の所在

第2節 研究史

 

第1章 葛西念仏・泡斎念仏

第1節 葛西念仏・泡斎念仏の成立

第2節 ほうさいという道化

第3節 念仏の芸能化

第4節 念仏の広がり

 

第2章 木魚講

第1節 木魚講の成立

第2節 木魚講と木遣

第3節 「講」としての木魚講

第4節 木魚講の芸能化

第5節 木魚講の禁止

 

結語

 

文献一覧

 

【本文写真から】

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写真1 「世事百談」(1994、山崎美成『日本随筆大成 第1期18』日本随筆大成編輯部編、吉川弘文館)59ページから60ページの挿絵

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写真2 「只今御笑草」(1995、瀬川如皐 『日本随筆大成 第2期20』日本随筆大成編輯部編、吉川弘文館)199ページの挿絵