関西学院大学 現代民俗学 島村恭則研究室

関西学院大学大学院 現代民俗学 島村恭則研究室

炭焼きの人生ー四万十市 今城正剛氏の事例ー

社会学部 山田 馨

[目次]

はじめに

第一章 三原村での炭焼き
第二章 椎葉村
第三章 幡木材センター
第四章 炭焼きの復活

むすび
謝辞 
参考文献

はじめに
 木炭は1950年代までは主に燃料として使用されていたが、ガスや電気の普及で木炭はほとんど使われなくなった。2006年に海外からの輸入量が国内生産量の10倍を超え、現在も輸入量が国内生産量を上回っており、国内での生産量は減少している。
 白炭とは黒炭よりも硬くて炭素を含む割合も大きく、火力が強く長持ちする点を特徴とする木炭で、その分白炭を焼くには技術が必要となる。中でも原料としてカシやウバメガシといった硬い材質の木を使用した白炭のことを備長炭と呼ぶ。
 本稿では、10代のころ炭焼きを行っており現在炭焼きを再開し、四万十市で唯一備長炭を生産している今城正剛氏の事例について取り上げる。

第一章 三原村での炭焼き
 今城正剛氏は、1939年2月15日に高知県三原村で8人兄弟の5人目として生まれた。13歳から15歳まで、3つ上の兄と2人で山小屋に住み、学校に通いながら炭を焼いて家を支えた。もともと炭焼きは農民が農作業の合間に行う仕事で、三原村でも多くの人が白炭を焼いて生活していた。当時三原村は開拓地として開拓されており、吾川郡安芸郡の人たちも開拓地を求めて開拓し農地を作り、人口が増加していた。畑では麦やイモ、タバコの葉を作り多くの人が生活していた。毎朝麦と米を10:1で混ぜて薪で米を炊き、電気も通っていなく娯楽もない中、火を焚いた明かりの中で生活していた。三原村は東西南北にとても広く、4年生までの分校もありとても賑やかな村だった。今城氏が暮らす村にも特別に分校ができ、先生も住宅付きで来られていた。

第二章 椎葉村
 15歳の時、兄が高校に行き、今城氏は三原村を出て一人で宮崎県椎葉村に行き炭焼きを続けることにした。地図を見て場所を山が広い九州に決め、宿毛から船で別府に向かい、そこから列車に乗り宮崎県延岡市へ、そこからバスに乗り宮崎県椎葉村に到着した。布団を丸めて担いで持っていき、山の中に小屋を建ててその布団を敷いただけの場所で生活し、炭を焼いた。    
 木を切るためには6万5000円の山代が必要だったが、そのお金がないため農協に借りに行った。しかし15歳の少年が一人で山にこもって炭を焼くといっても、初めは全く相手にしてもらえずお金を借りることができなかった。何度も組合の方と話すことで信用され、組合のお金は貸すことができないが個人のお金なら貸してもいいと言ってもらうことができた。そのお金で山を買い、そこから2年間木切りから1人で行い、山の中にこもって炭を焼いた。出来上がった炭は農協に持っていって売り、そのお金で米などを買って生活し、仕送りもできた。

第三章 幡多木材センター
 17歳の時、椎葉村で買った分の山を切り終え、三原村に帰った。三原村では3年ほど炭焼きをし、兄の建築の仕事の手伝いをした。主に材木の裁断や建築用材の製材を行った。
 1964年、25歳のときに中村に移り住んだ。建築の仕事を5年ほどして、兄が製材を設立することになり、それを預かって経営した。その後受け取り自営となり、幡多木材センターとして愛媛県宇和島まで建築用材を販売して働いた。
 62歳の時、材木センターを息子に譲り、その後は趣味のゴルフや、中村で11年間歌謡ショーを開催していた。歌謡ショーは毎年6月に行われ、地元の歌好きな人たちが集まり演奏や歌唱をした。750人ほど収容できる会場だったが、多い時には1000人集まったほどの人気なイベントだった。


第四章 炭焼きの復活
 今城氏は、友人から中村に黒炭を焼く人はいるが白炭を焼く人がいないという話を聞き、炭焼きを再開することに決めた。そして2016年、76歳のとき高知県四万十市実崎に炭窯をつくり炭焼きを再開した。


(写真1)今城正剛氏・千恵子氏


(写真2)炭窯の入口


(写真3)釜の様子①


(写真4)釜の様子②

 窯には30㎝程の穴が6個あり、この穴から木を入れて炭を焼いている。備長炭を焼くにはウバメガシやカシなど硬い材質の木が必要で、ここではカシの木を使って炭を焼いている。出来上がった備長炭は焼き鳥屋に持って行って使われたりBBQセットの販売を行ったり、四万十市にある珈琲店では炭焼き珈琲に使用されている。


(写真5)カシの木


(写真6)焼き上がった備長炭


(写真7)焼き上がった備長炭
 
今城氏の炭焼きの活動は地元の高知新聞に掲載された。

(写真8)高知新聞 2017年 3月27日

 今城氏が炭焼きを再開した理由は四万十市に白炭を焼く人がいないと聞いた際に焼いたことがあるため自分にならできると思ったこと、また、若者に炭を焼く楽しみを伝え残したいという思いからだった。しかし、昔の白炭と今の備長炭には多大な差があるため、再開には多くの問題が生じて大変だった。
炭焼きは楽しみもあるが、炭に焼きあがるまでの過程の調整にスリルがあるそうだ。現在は2人の若者が楽しみながら働いている。
 炭を焼く木は20年ほどで丁度よい木になるが、現在の木は60年ほど過ぎているので少し大きくなり、手間がかかる。カシやウバメガシにはたくさん実が付き、動物のえさとなり農家の方々が農作物を荒らされることがなくなると考えている。そのためカシやウバメガシの木を新たに植え、災害に強い山にして広葉樹を日本中に広めてほしいと願っている。
 炭を焼きたい若者がきても、1つの窯で2人以上は経済的に厳しい。四万十市に若者の働く場を増やしたいと日々炭焼きに励んでいる。

むすび
・現在四万十市で唯一備長炭を焼いている今城氏は、高知県三原村、宮崎県椎葉村で炭を焼いていた。そして炭焼きを離れてからも兄の建築業の手伝いや木材センターの経営など、木材にかかわった仕事をおこなってきた。
・若者に炭を焼く楽しみを伝え残したい、四万十市に若者の働く場を増やしたいという思いから炭焼きを再開した。
・炭を焼くことには楽しみもあるが、炭が焼き上がるまでの過程にスリルがあり面白い。
・カシやウバメガシの木が新たに植えられて広葉樹が日本中に広まること、もっと釜を作り若者が働ける場所となることを望んでいる。

謝辞
 本論文執筆にあたりご協力いただいた今城正剛様、千恵子様、お忙しい中何度もお話をしていただき、ありがとうございました。炭焼きについて教えてくださり、また、ご自身の炭焼きの経験について貴重なお話をしていただきました。心より感謝申し上げます。

参考文献
「図説土佐備長炭 21世紀に伝えたいこと」飛鳥出版室、2013
聞き書き紀州備長炭に生きる:ウバメガシの森から」農産漁村文化協会、2007
「炭焼きの20世紀―書置きとしての歴史から未来へ」彩流社、2003
「民俗の技術」朝倉書店、1998

遍路と渡し−四万十市 下田・初崎間の渡船を巡って−

社会学部 門田凌

【目次】
はじめに
1、四万十市下田
2、下田の渡船
3、渡船の廃止と復活
結び
謝辞
参考文献


はじめに
 全国には河川や港湾の両岸を往復し人々を運ぶ渡船が約38か所存在する。フェリーや水上バスを除くと、現在運航しているものは、東は岩手県北上市北上川渡し、西は長崎県西海市の瀬川汽船と広く存在する。
 今回はその中の一つ、高知県四万十市四万十川河口付近で運航する「下田・初崎渡し」を取り上げる。2005年までは四万十市営(旧中村市)で運航され、2009年からは地元住民らによる「下田の渡し保存会」によって運航されている。
 公営であった渡船が廃止され、ブランクを経て地元有志によって運航されていく経緯と下田とお遍路の関係について書いていく。


1、四万十市下田
 高知県四万十市は県の南西に位置し、太平洋に面した両隣にはカツオ漁で有名な佐賀の黒潮町、四国最南端の足摺岬がある土佐清水市が隣接している。四国最長で最後の清流と呼ばれる四万十川が市全域に流れており、沈下橋、屋形船などの観光名所が多数存在する。
 事例として取り上げる下田地区は四万十川河口部分を指し、古くは河口の一大拠点として隆盛を極めた。ここから炭を中心に材木、和紙などを積んで大阪や神戸の阪神地域に出荷された。阪神地域からも塩、米などが持ち込まれ、それらを一時保管する大型木造倉庫も建てられていた。現在は地区の下半分が居住地区と漁港、上半分にはキャンプ場や温泉などレジャー施設が点在している。

図1 四万十川河口下田地区(国土地理院より引用)

写真1 下田の街並み


2、下田の渡舟
 四万十川にはかつて数多くの渡船が存在し、渡し舟にはおよそ3種類存在した。
①架線・滑車式渡し舟――滑車と舟をワイヤーで繋いで川の流れで動かす。
②架線と手繰り網を使って舟を動かす。
③櫓舟で運航する。――経営母体は県営・市営・村営・私営がある。
 運航形態としては個人の善意で運航されたものや、番人がいて渡し賃を取っていたものもあった。渡し賃を取るにしても村民は無料だが部外者は有料といったケースも存在した。昭和時代には四万十川の約20か所で運航され、個人間での申し合わせで運航されていたものを含めるともっと数は多い。
 今回取り上げる四万十川下流の下田の渡船は、上記地図の下田港から対岸の初崎までを結んでいる。タイプは③で、昭和初期から存在し昭和40年代まではいわゆる個人の申し合わせで運航され、そこからは市営で行われた。1976年からは約30年、市の所有である「みなと丸」で運航されてきた。同船は、定員13名、運賃大人100円で1日5回運航されていた。
 1996年にはこの渡船の上流に四万十大橋が開通し、利用客が一時低迷したが、お遍路さんの増加や市のホームページでの宣伝効果もあり増加傾向に転じ、2003年には800名超の利用者があった。(現在の利用者数は年間約250人程度。)また、航路自体は「市道」の一部で環境省が指定する「四国のみち」のルートでもある。利用者のほとんどはお遍路さん。地元の利用者は、高齢者が多く、対岸の知り合いなどに会いに行く用途などで使われる。
 四万十川を渡るお遍路のルートは下田の渡船から4キロ上流に架かる四万十大橋を通るルートと下田の渡船を使うルートがある。現在は四万十大橋を使うのが一般的になっている。

写真2 四万十大橋


3、渡船の廃止と復活 
 下田の渡しは、住民の対岸交通や四万十川を渡るお遍路さんの遍路道として昭和初期から運航されてきた。当時は、櫓船で個人の申し合わせで運航され、その後運営母体が市に移る。
 市営によって運航されてきた「みなと丸」は1976年から就航以来30年が経過し、老朽化が進んできた。1977年には年間5000人ほどの利用者がいたが、道路橋の建設、モータリゼーションの到来の影響を受け、徐々に利用客数が減少する。全盛期に比べ減少したものの2003年には800名超の利用者を記録し増加傾向にあり、お遍路さんの利用も多数あったが、運航コストがかさむことを理由に市議会は運航継続を断念した。また、財政状況からも新規に船を購入することも叶わず、2005年12月31日をもって廃止された。
 こうしてお遍路さんの遍路手段の一つを絶つ形になってしまった。それから、2009年に「下田の渡し保存会」が渡船を復活させるまで4年間の空白期間が生まれた。

・沖章栄氏による復活
 沖氏は高校卒業後、土佐佐賀で7年間カツオ漁に従事し、その後結婚、奥様の土木会社の役員を務めながら、下田の漁協組合員として「下田の渡し保存会」を立ち上げた方である。「下田の渡し保存会」は現在、メンバーが3人在籍し、いずれの方も地元住民である。
 2005年に市営の渡船が廃止され、お遍路のルートが絶たれた後、ある出来事が起こる。元々下田の渡船乗り場であったところにお遍路用の一本の杖と笠がさしてあったのである。おそらく、渡船が廃止されたことへの‘無言’の抗議だと思われる。

写真3 元渡船乗り場。ここに遍路の笠と杖がさしてあった。

 沖氏に渡船が廃止されお遍路ルートが絶たれてしまったことへの責任はない。しかし、その光景を見た沖氏は地元住民として申し訳なさと後悔の気持ちに苛まれたという。渡船を復活させるには費用の面でも労力の面でも多大な負担がかかる。実際、仕事中に渡船運航の依頼を受ければ、仕事を中断し港に向かう。運航コストも自治体などの補助は一切なく、私財で賄っている。このような沖氏の善意から「下田の渡し」は復活を遂げた。

写真4 下田渡し保存会による渡船

・お遍路と渡船
 昔から下田では遍路が家々を回り、その見返りとして米などを支給する‘托鉢’の文化があった。現在ではそのような行為は見られないが、沖氏は渡船が悪天候などで欠航の時にはお接待として代わりに車で対岸まで送り届けるような個人レベルの行為は存在する。サポートする形、規模は様々なものが見られるが、お遍路を助けるという文化が下田には生きられている。


結び
 市の財政健全化によって失われた「下田・初崎渡船」を惜しむ声が港に‘無言の抗議’として現れた。それを見た沖氏は、お遍路の足がなくなったことへの申し訳なさから自らが中心となって渡船復活に動く。その結果、現在お遍路の足として、対岸交通として機能する渡船が運航され続けられている。
 下田では、ある種の接待なる文化を見ることができ、単なる移動手段としての渡船ではなく、そこにお遍路と下田の繋がりをみることができた。


謝辞
 今回の論文作成にあたってたくさんの方々のご協力、ありがとうございました。ご多忙にも関わらず、時間を割いていただき、貴重なお話をしてくださった沖章栄氏には感謝申し上げます。ありがとうございました。


参考文献
佐藤久光(2016)『四国遍路の社会学岩田書院
佐藤久光(2014)『巡拝記にみる四国遍路』株式会社朱鷺書房
浅川泰宏(2008)『巡礼の文化人類学的研究―四国遍路の接待文化―』古今書院
野本寛一(1999)『人と自然と 四万十川民俗誌』雄山閣出版

下田地域の太鼓台

社会学
鈴木祐花



【目次】

はじめに

第一章 下田地域の太鼓台
第一節 下田地域
第二節 太鼓台

第二章 太鼓台の中断そして復活へ
第一節 人口減少による中断
第二節 復活の動き

第三章 現在の太鼓台
第一節 祭りの過程
第二節 下田の人びとにとっての太鼓台

むすび

謝辞

参考文献

はじめに
本稿では高知県四万十市下田地域に伝わる伝統的行事の太鼓台について取り上げる。太鼓台がどのような歴史を持ち下田地域の人びとにとってどのようなものであるかを明らかにしていく。
また、本稿では下田全体を「下田地域」、下田地域の中の集落の下田を「下田」と区別して表記する。


第一章 下田地域の太鼓台
第一節 下田

【写真1 下田地域の地区分け】

下田地域は高知県四万十市に位置する港町であり、地域の中で松野山、下田上、下田下、串江、和田、水戸地区に分けることができる。
また、「徳川時代における下田浦の繁盛は非常なものにして人家稠密して商業は繁盛なりき。漁業亦盛にして、漁獲物豊富なりき。」(宇賀嘉弥太 18) の記述からもわかる通り江戸時代から漁業が盛んな漁師町である。かつては下田港から船で木炭や材木などの物資を大阪・堺に運搬しており、四万十の流通の拠点とされていた。
 ここで下田と水戸の関係性について詳しく述べていく。もともと下田が船着き場として利用されていたのだが、土砂の蓄積などの理由から、徐々により河口に近く船の往来がしやすい水戸が港としての機能を果たすようになったため下田は下田、水戸は水戸の各々の地区としてのプライドや意識が芽生え、対抗意識を持つようになっていった。現在では若い世代同士だとそのような意識はもう薄れているが、年配の世代の中にはいまだに相手地区に対して対抗意識を持っている者もいるそうである。

第二節 太鼓台
 下田地域には祭りの際に太鼓台を出台する伝統がある。この太鼓台の起源は江戸時代にさかのぼる。経済、流通の中心地として力を持っていた下田地域の人々の間でこの有り余るパワーを何かに還元しようということで、物資の運搬などで親交のあった大阪の堺から太鼓台を購入することになったのである。もともとはだんじりを購入する予定であったが、道幅が狭く建物が密集している下田地域の道路を通ることができなかったため太鼓台を購入し、それが現在まで続く太鼓台のはじまりとされている。
もともと下田地域には三台の太鼓台があり、下田(下田上と下田下を合わせた地区)・串江・水戸の三地区がそれぞれ一台ずつ太鼓台を保有していた。しかし、串江の太鼓台が火事により焼失してしまったため残った二台の太鼓台を祭りの日に出台することになった。同日、同時刻に二台出るということで、二台の太鼓台が町の中で出くわす度に喧嘩をしていたそうである。昭和30〜40年代の写真には女性物のワンピースを着用し化粧した男性たちが太鼓台を担ぐ様子が写っており、これは自分が誰かばれないようにして相手の太鼓台に向かっていったのではないかということが推測できる。喧嘩といっても本気の殴り合いなどではなく、地区同士のコミュニケーションの形の一つとして行われていたといえるだろう。

第二章 太鼓台の中断、そして復活へ
第一節 人口減少による中断
 下田地域で江戸時代から続いている歴史ある太鼓台だが、一時中断していた時期がある。水戸の太鼓台の老朽化、水戸・下田両地区にいえる担ぎ手不足により、平成11年頃にはどちらの太鼓台も出台を中断せざるを得ない事態になってしまったのである。下田地域の名物であった太鼓台は中断され、祭りの際には神輿だけが巡行する状態になる。

第二節 復活の動き
 この現状を打破しようと立ち上がったのが太鼓台保存会である。保存会は下田の青年たちが中心となり平成13年に結成された。保存会の結成により下田の太鼓台が復活することとなり、そこから下田の一台のみが出台する状況が約十年ほど続く。
 最近になり水戸の人びとの間で水戸の太鼓台を新調し復活させようとする機運が高まりつつある時に、「ふるさと文化再興事業」を知り、その支援を受け平成21年に太鼓台を新調することができた。こうして中断を余儀なくされていた下田地域の太鼓台は無事に二台とも復活を遂げることになったのである。
 しかし元の通りにそのまま戻ったわけではない。太鼓台は新調できたものの担ぎ手不足は深刻であり、保存会員と地区代表らによる話し合いの結果、毎年二台の出台は不可能と判断し今後は保存会が二台の太鼓台の管理運営責任者となり、一年交代で双方の太鼓台を出台することに決定した。
 前述したとおり下田と水戸は馴れ合うことをあまり好まないため、この決定に対して「水戸の太鼓台を下田の人に担がせるなんてあり得ない」などといったような年長者からの反発もあったそうだが、保存会員を中心に団結することでかつての活気ある太鼓台をよみがえらせることができたといえる。また、水戸の人びとは水戸の太鼓台のほうが下田の太鼓台よりも大きく重さがあるということをとても誇りに思っていたり、下田も水戸の人たちも地区ごとに存在するテーマカラー(下田は黄色、水戸は水色)を大事にしていたりしているところからも、太鼓台を通して自分たちの地区への誇りやプライドを垣間見ることができる。

第三章 現在の太鼓台
第一節 祭りの過程
 現在、下田地域で太鼓台が出台する祭りは二つある。一つは水戸(港)柱神社の祭り、もう一つは住吉神社の祭りである。
 水戸(港)柱神社の祭りは七月第三土曜・七月第三日曜に行われ、土曜は宵宮祭りとして対岸の初崎にある水戸(港)柱神社から貴船神社への御霊遷しの神事が行われる。船に貴船神社の神輿を乗せ四万十川を渡り初崎まで到着後、水戸(港)柱神社の御霊を神輿に移し貴船神社に還御する。日曜には本祭りが行われ、下田地域を貴船神社の神輿が巡幸する。神事を済ませた後水戸(港)柱神社に還御し御霊戻しの神事が行われ、船に乗り貴船神社へと帰る。その後、保存会による太鼓台の出台が行われる。太鼓台の巡行順路は、下田集会所を出発し貴船神社、串江、和田を通り水戸を巡回後串江を通って下田下に戻り、下田上、松野山に到達後下田上の集会所が終点となる。

【写真2 下田にある貴船神社

【写真3 水戸(港)柱神社祭りの太鼓台のルート】
住吉神社の祭りは七月最後の土曜日曜に行われ、水戸(港)柱神社の祭りと同じように土曜に宵宮、日曜に本祭りがある。太鼓台を出台するのは本祭りの神輿巡幸のあとである。太鼓台巡行のルートは水戸地区にある住吉神社を出発後串江を巡回し下田の貴船神社へ、その後下田下、松野山、下田上、串江、和田を通り住吉神社に戻ってくる。

【写真4 水戸にある住吉神社

【写真5 住吉神社祭りの太鼓台のルート】
二つの祭りはどちらとも太鼓台が出台するという似たような祭りなのかと思いきや、調べてみると全く異なるものだとわかる。祭り自体は神事の進め方から順路まで異なっているにも関わらず、どちらの祭りにも太鼓台が登場し下田地域を巡行する。全く別の二つの祭りを太鼓台という一つの伝統が繋いでいるという興味深い構図が浮かんでくる。裏を返せば太鼓台はそれほど下田地域の人びとに根付いている伝統的文化であるといえるだろう。
普段太鼓台は下田集会所、住吉神社でそれぞれ保管されている。



【写真4・5・6 住吉神社に保管されている太鼓台】
どちらの祭りで出台する太鼓台も一ヶ月ほど前から保存会員が準備する。布を裁断し、中に籾殻を詰めて太鼓台の飾りである「フトン」や「シボリ」を完成させる。また、宵宮の日に保存会員総出で太鼓台の組み立て作業が行われる。
また、巡行中の役割も様々である。台の動きを指示する先導役、台の運行の舵を取る舵取り、台の上に乗り太鼓を叩いてリズムをとる太鼓打ち、太鼓台の歌を歌いながら巡行する歌い手、そして担ぎ手など色々な役回りが存在する。担ぎ手は太鼓台を担ぎながら歌い手の歌に合いの手を入れ町を練り歩く。広い場所に差し掛かると「ヤリマッセ―」の掛け声とともに激しく台を廻し、「サセ、サセー」の掛け声で台を高く持ち上げ、「サイトリマッセー」の声で持ち上げた台を激しく廻す。これが太鼓台巡行の一番の見せ場であり、観ている人たちからも合いの手や歓声が飛ぶ。



【写真7・8・9 太鼓台の歌】
大人たちが担ぐ太鼓台の後ろには子ども太鼓台がついて回る。大人太鼓台の余った布で飾り付けられていて、いつか大きな太鼓台を担ぐ日を夢見ながら大人たちの逞しい背中を追いかけていくのである。
このようにして約1トンの太鼓台を担ぎ七時間ほど下田地域を練り歩くのだ。お話を伺った川村氏によると、1トンという重さは恐怖を覚えるほどのもので、あまりの重さに自分が太鼓台を担ぐことに貢献できているかもわからないほどだそうであり、太鼓台を担ぐには重さに対する恐怖心に打ち勝つ勇気が必要なのだそうだ。巡行を終えた担ぎ手たちの肩は腫れ上がり、内出血を起こすこともある。これが下田地域の夏の風物詩である。
第二節 下田地域の人びとにとっての太鼓台
 下田地域には様々な流通ネットワークがあり、すべての人々の間で利害関係が一致するわけではない。そのような中で、誰しもが利害関係なく参加できるものの代表格として太鼓台がある。若い世代が主軸となって盛り上げることで町全体を活性化させることができ、次の世代へバトンを繋いでいくことができるのである。引継ぎが上手くいかずなくなってしまう伝統や祭りが多い中、太鼓台は世代間の繋がりが深く、多くの人が町の誇りに思っているといえる。子ども太鼓台や太鼓台保存会の存在などからもわかるように、次の世代につなげていくという意識をしっかりと感じることができる。また、太鼓台の準備や役割を学ぶだけでなく、太鼓台を通じて下田地域の社会の在り方やこの町で生きる者としての意識などを間接的に肌で学んでいくのである。そして、ある意味で本当の「下田の人間」になっていくのだ。

むすび
今回調査を通してわかったことは以下の通りである。
⦿太鼓台の起源は江戸時代にまでさかのぼり、近年一度中断しているが町の人たちの熱意により復活を果たした
⦿体系を変化させながらも今なお続く下田地域の伝統文化である
⦿現在は2つの異なる祭りで太鼓台が出台している
⦿太鼓台は下田地域の人びとにとって成長の場であり、太鼓台を通じて組織・社会の在り方を学ぶ

お話を伺っていてもとても前向きに答えていただき、太鼓台がいかに下田地域の人たちにとって生活に根付いているものなのか身をもって感じることができた。一度中断してしまったものを復活させ、形をかえながらも新たな歴史を紡いでいくことは簡単なことではない。そこで終わりにするのではなくもう一度立ち上がったからこそ未来へと繋がっていくものであり、下田地域の人びとの熱量を改めて感じた。また、下田という地域も四万十の中心部とは一線を画す独自の雰囲気があり、とても興味深く、おもしろい町であった。

謝辞
 本論文の執筆に際し、様々な方のご協力を頂きました。お忙しい中、いろいろなお話を聞かせていただき、大変貴重な資料をご提供してくださった鎌田虎男様、間崎大介様、川村慎也様、そして調査に協力してくださったすべての皆様のお力なくして本論文を完成させることは叶いませんでした。突然の訪問にもかかわらず調査に真摯にご協力いただき、深く感謝いたします。本当にありがとうございました。

参考文献
津野幸右・太鼓台保存会,2011,『太鼓台』太鼓台保存会
浦田真紀,2012,『史料紹介 宇賀嘉弥太「下田郷土史料」』
中村市史編纂委員会,1984,『中村市史 続編』中村市

中村の人びとと提灯台

社会学部 赤井詩織

[目次]
はじめに


第一章 市民祭以前の提灯台
第一節 第二次世界大戦
第二節 中村駅の開業と提灯台


第二章 市民祭と提灯台
第一節 なかむら市民祭としまんと市民祭
第二節 提灯台の唄
第三節 燃える提灯台と現在の提灯台
第四節 お清めの儀式


第三章 枚方市と提灯台
第一節 姉妹都市 枚方
第二節 枚方祭りと提灯台


第四章 祭りの外に持ち出される提灯台
第一節 中村高校の甲子園出場
第二節 結婚式の披露宴
第三節 商工会議所の青色申告会50周年


結び

謝辞

参考文献




はじめに
 現在の四万十市では、毎年七月の第三土曜日に四万十市民祭が行われている。市民祭の中で、提灯台パレードと呼ばれるイベントが行われており、その際に登場する提灯台について取り上げる。
 四万十市は、平成17年4月10日に中村市幡多郡西土佐村が合併した都市である。また、中村市は、昭和29年に中村町、下田町、東山村、蕨岡村、後川村、八束村、具同村、東中筋村、富山村、大川筋村、中筋村が合併した市であり、西土佐村は江川崎村、津大村が合併した村である。今回、調査した地域は、四万十市の中でも中村と呼ばれる地域である。
 提灯台は、1467年、一条教房応仁の乱を避け、京都から中村に逃れる際、伝えたと語られている。しかし、500年前から提灯台が存在したと語られているにも関わらず、インターネット上では、四万十市民祭が行われている13年間のみ提灯台における記録が残されている。ネット上では語られていない空白の時間は、中村の人びとの間でどのように語られているのかについて調査した。また、祭り以外において、提灯台が使用されている場合はどのような場合であるのかについて調査した。


第一章 市民祭以前の提灯台

第一節 第二次世界大戦以前
 提灯台は口伝で伝えられているため、記録や文献はほぼ存在していない。それ故、提灯台の起源は不明である。
しかし、中村市史に基づいて、江戸時代幕末に提灯台が存在していたことが分かる。

小野英(嘉永四生)の幼少期の思い出記、年中行事の項に、「六月十五日、二十五日氏神様ノ祭リ、提灯台ヲ町々カラ出シ、夜ハニワカナドデオモシロイコトモアル。」とある。これが資料で見る提灯台の初見であり、前記中西亀仙記にも「夏祭、宵祭り、提灯台を舁ぐ。皆若衆の奉仕なり。」ともある。共に幕末期の夏祭り町内での出し物であったことを知る。(中村市史編纂委員会1984:975)

 また、調査より、第二次世界大戦以前まで提灯台が使用されていたが、戦後途絶えていたことが分かった。しかし、昭和26年〜28年頃に提灯台を担ぐ文化が復活する。戦後すぐ復活不可能であった理由として、昭和21年に起こった南海大震災により、小京都の跡形はなくなり、提灯台を担ぐ余裕がなかったのではないかと推測されている。昭和30年になかむら市民祭が開催されるようになり、提灯台パレードの中に提灯台が登場する。

第二節 中村駅の開業と提灯台
 昭和45年、日本国有鉄道中村駅が開通する。その際、中村全地区の提灯台、30基〜40基が中村駅の前で担がれ、中村駅開通を祝った。


第二章 市民祭と提灯台

第一節 なかむら市民祭としまんと市民祭
 市民祭は、昭和30年から平成16年はなかむら市民祭、平成17年から現在にかけて、しまんと市民祭が行われている。上記に述べたが、現在の四万十市は平成17年に中村市と西土佐村が合併した都市である。その際、なかむら市民祭からしまんと市民祭へ名前が変化した。
市民祭の中に、提灯台パレードと呼ばれるイベントがあり、その際に提灯台が登場する。提灯台は団体によって、工夫がなされている。


(写真1)中村青年会議所の提灯台


(写真2)中村青年会議所の提灯台


(写真3)中村青年会議所の提灯台


(写真4)提灯台


(写真5)提灯台⑤ 四万十市教育委員会提供


 提灯台に使用されている提灯は180個、花は736〜772個であり、大きさは4m×4m×6mが標準サイズとされている。そして、提灯台の中には太鼓が乗せられている。
団体ごとに工夫がなされているのは提灯台のみではない。提灯台パレードの際、提灯台前方にトラック二台を走らせ、トラックごとに役割が存在する。最も前を走るトラックはその団体をPRする意味合いがあり、トラックの上ではうぐいす嬢が団体に寄付金を募った人名や企業が読み上げ、また、お酒が積まれている。その後ろを走るトラックには演奏者が乗っている。毎年、ドラムやギター、三味線など異なる楽器を演奏し、いかに目立たせるか、工夫がなされている。また、提灯台の唄の歌い手が二台目のトラックの横について歩く。そして、トラック後方には提灯台を誘導する先導、提灯台、場合によっては子供提灯台や女提灯台が続く。


(写真6)中村青年会議所をPRするトラック


(写真7)トラックの上で演奏している様子

 提灯台を担ぐ際の歩き方は「練る」と呼ばれ、酔っ払いの千鳥足をイメージしたものであり、土佐の小京都と呼ばれる中村は、碁盤の目のような地形をしているため、碁盤の目の交差点で提灯台を勢いよく回す文化が存在する。この時、回す速さは遠心力で人が飛ぶくらいに早く回されるため、参加者は男に限定され、パレードの見せどころでもあると言われている。


(写真8)提灯台を回している様子

 パレードのコースは決まっており、四万十市役所前と高知銀行前のふたつの出発地点がある。市役所、東下町、天神橋、一条通、大橋通の一周がコースであり、提灯台を練りながら歩く。
 提灯台は毎年、団体ごとにおよそ一週間から二週間かけて組み立てられている。提灯台はパレードが終わると解体され、翌年の祭りまで保管される。

(写真9)提灯台組み立ての様子

 毎年、提灯台の団体数に違いが見られ、地元の人びとはパレードの参加人数が減少傾向にある認識を持っている。この理由として、中村の人びとの高齢化が進み、毎年出さずに一年おきに提灯台を出す団体があることに加え、提灯台の高さや提灯を吊るす段が増え、人数が減少したように見えるのではないか、と語った人もいる。また、提灯台パレードに参加する中村の人びとの人数は減少しているが、中村以外の地域の人びとに協力してもらい、近年は提灯台を回している。以下の表から参加人数にほとんど変動がないことが確認できる。

なかむら市民祭(昭和60年以前の記録なし)
 提灯台(団体数)  提灯台(参加者)
昭和61年   11            790
昭和62年   10            705
昭和63年   10            680
平成元年   12            780
平成2年    11            680
平成3年    13            940
平成4年    11            690
平成5年    16            1085
平成6年    13            900
平成7年   13            833
平成8年    12            910
平成9年    10            850
平成10年   10            768
平成11年   7            610
平成12年   9            630
平成13年   9            720
平成14年   11            920
平成15年   11            880
平成16年   9            790


しまんと市民祭
平成17年   13            960
平成18年   9            730
平成19年   10            745
平成20年   10            730
平成21年   12            890
平成22年   8            500
平成23年   14            810
平成24年   11            850
平成25年   11            930
平成26年   9            800
平成27年   11            810
平成28年   8            530
平成29年   11            950

第二節 提灯台の唄
 提灯台パレードの際、提灯台の唄が唄われる。この唄は夜這の唄である。100番まで存在していると言われており、元は三重の(※)伊勢音頭ではないかと語られている。祭りでは、歌い手が好む番号を100番の中から4番を選び、唄う。
市民祭で配布される団扇の裏面には、提灯台の唄の一部が記載されている。

(写真10)団扇表面


(写真11)団扇裏面

 以下は提灯台の唄であるが、ここに記載しているのは40番のみである。1番ごとに改行している。<>の部分は合いの手であり、担ぎ手も歌う部分である。

灯台の唄
下へ下え へと<よいよい>いかだを流す<よいせ どこせ>、流す筏にそれぞれ鮎が飛ぶ。<ささやとこせのよいやな、姉も せい 妹とも せい>

姉がさすかよ<よいよい>、妹とがさすかよ<よいせどこせ>、同じ蛇の目の唐傘を

四万十川の鵜の鳥さえも<よいよい>あいをくわえて<よいよい>瀬を上る。

七つ八つから<よいよい>いろはを習い<よいせどこせ>はの字忘れて色ばかり。

表(思)てナ来たかよ<よいよい>裏から来たか<よいせどこせ>私しゃ表(思)て来た。

藤にゆかりの<よいよい>一条さんの<よいせどこせ>おんしのところにやりたい藤娘。

表来たかよ<よいよい>裏から来たかー<よいせどこせ>私しやな裏からそれぞえ おもてきた<お囃子>

土佐の中村<よいよい>祇園の祭り<よいせどこせ>娘若衆の勇み肌

不場の八幡太鼓の音で<よいよい>男神女神の<よいせどこせ>こし合わせ

恋に焦がれて<よいよい>なく蝉よりも<よいせどこせ>泣かぬ蛍が身を焦がす。

恋に焦がれ鳴く蝉よりも帯びにヤ短しタスキにや長し、お伊勢、いの笠の紐

藤にゆかりの一条公さんよ、お雪かわいや化粧の井戸
清き流れの四万十川にうつし身をやく大文字、ついて行かんか提灯台に消して苦労はさせはせぬ

花の中村<よいよい>祇園お祭<よいせどこせ>娘若衆のそれぞえ 勇み肌

可愛けれやこそ小石を投げる、憎くて小石が投けらりょうか

幡多の中村一条公さんを、しのぶ今宵の提灯台 通よや名が立つ通はねや切れる 通ひやめたら人が取る

咲いた桜になぜ駒つなぐ、駒が勇めば花が散る

何もくよくよ川端柳、水の流れ見て暮らす。鮎は瀬にすむ

鳥りや木に止まる、人は情けの下にすむ。

櫻三月<よいよい>あやめは五月<よいせどこせ>菊は九月の土曜に咲く

女来て寝た<よいよい>東の山に<よいせどこせ>おいせなあ坊んさんそれぞえ、鐘を突く<ささやとこせのよいやな、姉もせい 妹もせい>

幡多の中村<よいよい>一条公さまを、<よこせどこせ>忍ぶなあ、今宵のそれぞえ提灯台<後同じ>

花の中村<よいよい>祇園の祭り<よいせどこせ>娘があ若衆のそれぞえ 勇み肌<ささ同じ>

夏のなあ夜空を<よいよい>茜に染めて、よいせどこせ昔なあなつかしそれぞえ、大文字<ささ同じ>

恋しなけりゃこそ<よいよい>小石を投げる<よいせどこせ>憎てない石が それぞえ投げられようか<ささ同じ>

下へ下えと枯れ木を流す<よいせどこせ>流すなあ枯れ木にそれぞえ 花が咲く<後お囃子>

うとんなあ来てねた 東の山に<よいとせどこせ>おいせなあ坊んさんそれぞえ鐘を突く<後お囃子>

不破のなー八幡、<よいよい>太鼓の音で<よいせどこせ>男神なー女神の それぞえの輿合わせ<ささなんでもせい同じ>

藤になあゆかりの<よいよい>一条公さんよ<よいせどこせ>お雪かわいやそれぞえ化粧の井戸<お囃子>

清きなあ流れの<よいよい>四万十川に<よいせどこせ>うつしなく身をやくそれぞえ、大文字<ささやっとこせのよいやな姉もせい妹ともせいささなんでもせい>

小姓に似合いのそれぞえの藤娘<後お囃子>

付いてゆかんか<よいよい>その提灯に<よいせどこせ>けしてなあ苦労はそれぞえ させわせぬ

夢で見るよしや<よいよい>惚れよか浅 眞<よいせどこせ>惚れたらそれぞえ 寝はせぬ<後お囃子>

好きと嫌いは<よいよい>どれほどちがう <よいせどこせ>命ただやる程ちかう

憎くてたたくと思うなよ<よいよい>キセル可愛けりゃこそ<よいせどこせ>吸いもする

土佐のな中村<よいよい>一条公さんの<よいせどこせ>昔栄し それぞえ城下町

不破の八幡<よいよい>宵宮祭り<よいせどこせ>ちらと見た女がそれぞえ忘れぬ

伊勢は津でもつ<よいよい>津は伊勢でもつ<よいせどこせ>尾張名古屋はそれぞえ城でもつ

春の四万十<よいよい>白帆で下りや<よいせどこせ>秋は紅葉のそれぞえ登船

東山には<よいよい>湯煙立てば<よいせどこせ>西の小富士はそれぞえ雪化粧<ささやっとこせのよおいやな姉もせい妹もせいささなんでもせい>


第三節 燃える提灯台と現在の提灯台
 今や祭りの中に形式化されている提灯台パレードであるが、昔は現在とは違う風潮や目的が存在していた。
 現在の提灯台は提灯の中にLED電球が入れられているが、以前は提灯の中にろうそくが入れられていた。
 ひと昔前の提灯台は「喧嘩神輿」とも呼ばれ、自身が担いでいる提灯台と相手が担いでいる提灯台をぶつけ合い、喧嘩を行う文化が存在した。「喧嘩神輿」の目的は、相手の提灯台の提灯や花を燃やす目的で担がれ、襲う相手を探しながら碁盤の目の街を練り歩く。その際、碁盤の目上にある交差点で敵の提灯台と対面すると、敵の提灯台を壊し、更に碁盤の目を進むと、再び交差点で敵の提灯台と出会い、壊す、という流れが繰り返されていた。そして、燃える提灯台では、火を消すという意味合いでバケツの水が交差点に用意されており、「喧嘩神輿」後には、水を提灯台にかける文化が存在した。ところが、現在も提灯台を回し終えた後に水をかけてもらう文化が存在する。若者は暑さを紛らわせるために水をかぶると考えているが、これは燃える提灯台の文化の名残であると考えられている。
30年以上前、赤鉄橋を提灯台パレードの出発点にした際、赤鉄橋に沿って縦に並び、集合する時点で喧嘩が始まった年もあった。
 しかし、「喧嘩神輿」をただ単に繰り返しているわけではない。このような流れを繰り返して提灯台が向かう先は、栄町であった。栄町は当時、飲み屋やスナックが立ち並ぶ街であったために、男が提灯台を担ぎ、女に自身のかっこよさを主張する場であったと語られている。
現在の提灯台は観光化や地域活性化の意味合いを持っており、以前の提灯台の目的とは相反することが分かる。提灯台一条教房から伝えられたと語られる場合もあるが、祭りをする際に一条教房を意識することは皆無に等しい。

第三節 お清めの儀式
 提灯台パレードの際に開会式が行われるが、近年、提灯台お清めの儀式が行われるようになる。パレード開始前、お酒を飲むが、提灯台の重さで肩を痛めるため、自身を酔わせて痛みを麻痺させることが目的である。その際、口に含んだお酒を提灯台の四方に吹きかけ、提灯台を清める。お酒のほかに、塩も四方にまくそうだ。お清めの最後には、団体の最も位が上の者にお酒を吹きかけ、儀式が終了する。

(写真12)提灯台に酒を吹きかける様子①


(写真13)提灯台に酒を吹きかける様子②


(写真14)提灯台に酒を吹きかける様子③


(写真15)委員長に酒を吹きかける様子

第三章 枚方市と提灯台

第一節 姉妹都市 枚方
 昭和49年、枚方市中村市が友好都市提携を結ぶ。当時、中村青年会議所の理事長を務めた柿谷友造さんと、枚方青年会議所の理事長が知り合いであったことや、中村市市長と枚方市市長の両者が社会党であったことを理由として、提携を結ぶに至る。現在、四万十市枚方市も提携都市であり、枚方四万十市の物産展を開催したり、枚方祭りに参加したりと、交流を行っている。

第二節 枚方祭りと提灯台
 述べたように、枚方市と友好都市提携を結んでいることから、枚方祭りの際、提灯台枚方まで運び、提灯台を回している。友好都市を結んで40年経つ都市に提灯台枚方市へ寄贈するが、提灯台を定期的に回すようになるのは平成26年からのことである。
 そして、枚方祭りは夜に盆踊りが行われるが、その際に提灯台を櫓と見立て、提灯台の周りで盆踊りが行われている。

(写真16)枚方祭りに持ち出された提灯台


第四章 祭りの外に持ち出される提灯台

第一節 中村高校の甲子園出場
 祭り以外における提灯台はどのような場合があるのか、調査した。

 中村高校は昭和52年に甲子園出場を果たす。中村高校を応援するスタンドに提灯台が登場していた様子が、高知新聞昭和52年4月3日月曜日の新聞記事から読み取ることが出来る。記事の見出しには、「『提灯台』も盛り上げ」と記されている。記事の本文には、「アルプススタンドの最上段に中村名物の『提灯台』二台がお見えした。本物のミニ版だが、紅白のちょうちんをつるし、熱戦のふん囲気を盛り上げていた」(『高知新聞』1997.4)と書かれている。このように、中村高校を応援する目的で提灯台を使用することは、中村の人びとにとって、提灯台アイデンティティであることが考えられる。

 加えて、友好都市である枚方市が応援に駆け付けたことが分かる記事があり、「『友好都市』の大阪・枚方市民は、この日、一回戦の時より増員して約八百人を動員」(『高知新聞』1997.4)と記されている。

(写真17)『高知新聞』1997.4

第二節 結婚式の披露宴
 次に、中村青年会議所山崎隆之さんの結婚式披露宴にて、本来の提灯台の半分ほどの大きさの提灯台が登場した。その際の様子が分かる写真が以下のものである。

(写真18)披露宴で提灯台を担ぐ様子①


(写真19)披露宴で提灯台を担ぐ様子②


(写真20)披露宴で提灯台を担ぐ様子③

第三節 商工会議所の青色申告会五十周年記念行事
 最後に例に挙げるのは、商工会議所が青色申告会50周年を記念し、二台の子供提灯台が登場した例である。

(写真21)青色申告会五十周年記念行事で担がれる提灯台

 その他、中村をPRする際には提灯台を使用することがある。
 第二節、第三節より、祝い事に提灯台を担ぐ文化が見られる。したがって、この二つの例からも、中村の人びとにとって提灯台アイデンティティとなるものではないかと考えることができる。


結び
・提灯台は500年前から伝わったと語られているが、インターネット上では13年間のみ記録が残されている。
・提灯台は口伝で伝えられているため、記録や文献はほぼ存在しない。
・提灯台の起源は不明である。
・『中村市史 続編』より、江戸時代幕末に提灯台の存在を確認した。
・戦前まで提灯台は存在したが、戦後途絶える。
・昭和26年〜28年に提灯台を担ぐ文化が復活する。
・昭和30年、なかむら市民祭の中で提灯台パレードが行われる。
・昭和45年、日本国有鉄道中村駅開通時、提灯台が担がれ、開通を祝った。
・昭和30年〜平成16年はなかむら市民祭、四万十市合併後は平成17年から現在にかけてしまんと市民祭が行われている
・市民祭の際、提灯台パレードが行われ、提灯台が登場する。
・提灯台の標準サイズは4m×4m×6mであり、提灯180個、花736個〜772個で組み立てられている。
・提灯台の中には、太鼓が乗せられている。
・パレードに登場する提灯台やトラック、演奏は団体ごとに工夫を凝らしている。
・パレードの際、提灯台の唄が唄われる。
・提灯台を担ぐ際の歩き方は練ると呼ばれる。
・提灯台を交差点で回す。
・近年、中村の人びとの高齢化が進み、中村以外の地域の人びとに協力してもらい、提灯台を担いでいる。
・パレードの団体数は毎年少しの変動が見られる。
・提灯台の唄は100番存在する。
・提灯台の唄は三重の伊勢音頭が元であると語られている。
・祭り当日は4番ほど選ばれて唄われる。
・提灯台の唄は夜這の唄である。
・現在の提灯にはLED電球、以前の提灯にはろうそくが入れられていた。
・提灯台に気をぶつけ合う「喧嘩神輿」と呼ばれる文化が存在した。
・「喧嘩神輿」は提灯台をぶつけ合う敵を探しながら練り歩いた。
・「喧嘩神輿」を行いながら提灯台が向かう先は栄町である。
・栄町で提灯台を担ぐ姿を女にアピールする場であったと語られている。
・「喧嘩神輿」後は火を消すため、提灯台にバケツの水がかけられた。
・現在の提灯台は観光課や地域活性化の役割を持っている。
・提灯台一条教房から伝えられたと語られているが、祭りをする際、一条公を意識することはない。
・パレード開始前、お酒を飲み、酔うことで提灯台の重さを紛らわせている。
・お清めの儀式の際、提灯台に酒や塩をまき、提灯台を清める。
・昭和49年、枚方市中村市が友好都市提携を結ぶ。
・現在も四万十市枚方市は提携都市である。
枚方市四万十市物産展を開催するなど、交流が行われている。
枚方祭りに提灯台が登場する。
枚方祭りの盆踊りの際、提灯台を櫓と見立て、提灯台の周りで盆踊りをしている。
・昭和52年、中村高校が甲子園出場の際、スタンドに提灯台が登場する。
枚方応援団が中村高校甲子園出場時、応援に駆け付けた。
・結婚式の披露宴に提灯台が登場する例あった。
・商工会議所青色申告会50周年記念行事に提灯台が登場する。
・応援や祝い事の際、提灯台を組み立てることとから、中村の人びとにとって、提灯台アイデンティティとなるものではないかと考えられる。

謝辞
 本論文の執筆にあたり、多くの方々にご協力して頂きました。四万十市観光協会の皆様、中村青年会議所の皆様、吉井清泰様、柿谷友造様、貴重なお話を伺わせて頂き、提灯台について理解を深めることが出来ました。ご多忙の中、私のために時間を取っていただき、ありがとうございました。
 皆様のご協力がなければ、本論文を執筆することはできませんでした。この場をお借りして、心より感謝申し上げます。本当にありがとうございました。

注(※) 伊勢音頭
 伊勢音頭には、二つの意味がある。一つ目は、伊勢古市の遊郭で遊女に唄わせた唄、二つ目は江戸時代の伊勢国で唄われた民謡のことである。

参考文献 
中村市史編纂委員会,1984,『中村市史 続編』第一法規出版株式会社.
・1997.「『提灯台』も盛り上げ」『高知新聞』1997年4月3日,12面

生業と夫婦の民俗誌 四万十市・西土佐口屋内の事例から

社会学部 和田康太郎

目次

序論
1. 研究の目的
2. 調査地について
一章 現代における女性労働の場
1. 「しゃえんじり」について
2. 開業に至るまで
二章 男女協働の場
1. 生業の変遷
2. 林業の現場
3. 漁業の現場
4. 舟母の現場
三章 男性労働の場
1. 生業ごとの男女の分担
2. 猟の現場
結論
1. 「女性は強い」のか
2. 都市生活者が学ぶべきこと


序論

1.研究の目的 
一般的に語られる高知県の県民性のひとつに、女性が強い、というものがある。高知の女性は一言で表すならば男勝りであり、よく働く気の強い人が多いとされている。土佐弁ではこうした女性像を「はちきん」という言葉で表すのはよく知られたことである。
 私は本調査で四万十市の西土佐口屋内地区を訪れたが、確かに行動力、活力にあふれる女性が多い印象を受けた。また地元の方々と交流する中で、この地域の生業の変遷が見えてきた。そこで本研究では生業の場で実際に「女性が強い」、すなわち女性が権威をもつ立場であるのか、という問いの答えを明らかにしようと考えた。しかし、本調査を進めていくことよって明らかになったのはこの問いの答えだけではなかった。この地域の暮らしぶりを見てゆくと、それが現代日本における都市生活者への示唆に富んだものであるということも判明したのである。
 そこで以下では、西土佐口屋内地区における人々の生業という題材から、時の流れとともに変化する男女(夫婦)の労働モデルに着目し、実際の労働の場で男女はどのような立場をとるか、またその暮らしが如何に示唆的であるかという2点について、その答えを示す。また、労働の場についての詳細な記述は、特に記載のない限り実地での聞き取り調査に基づくものである。

2.調査地について
 今回調査した高知県四万十市・西土佐口屋内地区は四万十川河口から直線距離で約20kmの位置にある。平成17年の中村市との合併により四万十市が誕生するまでは、幡多郡西土佐村に属していた。平成30年2月現在、世帯数は65世帯、人口にして114人が暮らす地区である。四万十川の支流である黒尊川との合流地点に位置しており、漁業(アユ、ウナギ等)が盛んである。四万十川流域では伝統的な漁業の方法として火振り漁がおこなわれているが、口屋内においてもこれが行われる。また稲作や畑作なども盛んにおこなわれている。

図1 口屋内中心部を縦貫する四万十川

図2 川の西側の集落では、田畑が多くみられる


一章 現代における女性労働の場

図3 「しゃえんじり」の料理

図4 「しゃえんじり」裏手にあるしゃえんじり

1.「しゃえんじり」について
 口屋内という場所は、以前は交通・物流の要衝として栄え、商店や飲食店、また映画館などが軒を連ねていたそうだ。そんな歓楽街が存在した場所に、1軒の料理屋が建っている。その名も「しゃえんじり」である。この名前は幡多の方言で家庭菜園を意味する(しゃえん=菜園・じり=土地)。しゃえんじりは西土佐の家庭では一般的なもので、「しゃえんじり」では名前の通りしゃえんじりで獲れる野菜や、四万十川の川の幸を使用した家庭料理を提供している。
 以前は飲食店が軒を連ねていた、と述べたが、「しゃえんじり」自体の歴史はそう古いものではない。開業したのが平成17年の3月であるから、13年ほどの歴史である。ではなぜ13年前、開業に至ったのだろうか。

2.開業に至るまで
 「しゃえんじり」の代表である岩本久子さんの話によれば、当時はこの地域の基幹産業である林業が衰退した時期で、働く場所を失い、収入が低下した世帯も多かったという。岩本さんは「木材の輸入自由化」が原因であると語っていたが、林野庁の統計を見れば、確かに平成17年前後は木材自給率が20%を割り込む年もあるなどかなり低下している。口屋内の人々は生業として林業を営む人が多いため、相当な打撃があったことは確かだろう。そこで収入の低下した世帯の「女性」が主体となり、新たな働き場として、また地域おこしのため、田舎料理の店を出す計画を立てたという。この計画も女性が中心となって進められ、同時期に閉鎖された保育所の空家を利用して開店した。この際建物の改装工事を行ったが、その建築資材は「男性」が解体された家屋などから調達してくるなどしたという。
 この事例について考えれば、一見「女性が主役」であり、「男性が支える」という図式に思える。やはり、女性は強いのだろうか。より核心に迫るべく、私は「しゃえんじり」に至る足跡をたどることとした。


二章 男女協働の場

1.生業の変遷
岩本さんによれば「しゃえんじり」が計画されたきっかけは林業の衰退であった。つまりそれまでは林業が盛んだったわけである。そこで口屋内の人々から過去の生業について聞き取りを行い、その内容をつなぎ合わせていくことにした。
口屋内では昭和3,40年代は炭焼きを中心としながら、黒尊川流域での林業(炭の材料、また資材として)・また四万十川での舟母(せんば・舟運業務)が盛んにおこなわれていた。エネルギー革命によって木炭の需要が低下すると炭焼きと同時に舟母も衰退し、以降は林業が中心となり、現代では前述の通り林業の衰退によって他の生業を中心に据えるようになったようである。

2.林業の現場
では、林業が栄えていたころの労働の場において、男女の役割はどのようなものだったのだろうか。林業の現場に関して、数年前まで林業を営んでいたという和田悦雄さん、鈴美さんご夫婦に話を伺った。悦雄さんは昭和40年代から林業に従事しており、70歳のとき足を悪くして引退してからは米づくりを中心としているという。また鈴美さんは現在「しゃえんじり」で働いている方である。
林業というのは数十年という長いサイクルで営まれるものであり、当然和田さんらが営んでいた林業も例外ではない。木を植え、育て、伐採するという工程の中には、さまざまな作業が含まれるが、ご夫婦はこの作業について、順を追って教えてくださった。
まず苗を植える前に、地拵えを行う。植える苗の数は山の斜面を真上から平面として見て、1町歩(約1万平方メートル)につき3000本というように決まっており、それに合わせて整地してゆくのだが、この作業は女性が行うという。
地拵えが終わるとここに苗木を植えるのだが、その苗木を購入してきて、苗木を背負って持ってこなければならない。この苗木の買い付けも植え付け作業も、男女で行うものだという。苗を植えると4~7年くらいの間は周りの草刈りを行う。10年が経過し、木がある程度成長するころには雑木を切り、その後は枝打ちをしたり、間伐をしたりなどしながら手入れをしていく。こうした仕事も、すべて男女で行うものだという。苗を植えることには炭焼きも行っていたそうだが、これも男女の仕事である。
育った木を伐採する際、チェーンソーを用いて木を切るのは男性の仕事である。木を切った後は川岸へ集めるのだが、川の向こう岸へ木材を渡す際、まとめた丸太をロープウェイのようにして「飛ばす」という作業をしていた。この作業では、男性は丸太の上に乗ることもあったようだ。では女性はこの時何をしていたかというと、誘導や、木を束ねるなどの地上での業務を担当したという。この「木を飛ばす」仕事について特筆すべきは、男女の分担があると同時に、夫婦のペアで行うものだったということだ。夫婦で行う理由について悦雄さんは「この仕事は危険であるから、信頼のある相手としかできない」と語った。夫婦で行う仕事には、そうしなければならない理由があるのだ。

図5 伐った木をワイヤーに吊るして渡す様子(『四万十川がたり』より)


3.漁業の現場

図6 口屋内沈下橋と漁舟(口屋内地区活性化協議会蔵)

和田さんご夫婦は、口屋内では唯一「夫婦で漁業を行う家」でもある。地域の方々の話によれば、現在でこそ他の家庭の人と共同で行ったり、漁業権を譲渡してしまったりする家がほとんどになっているが、以前はどの家庭も夫婦で漁業を営んでいたという。そして夫婦で行う漁業では、舟(=家庭)ごとに男女の役割分担の形が決まっているそうだ。
 例として和田さんの舟の分担を示すと、網を上げるまでは悦雄さんが艪を漕ぎ、網を上げるときは鈴美さんが艪に回る。一般的な家庭では終始女性が艪を漕ぎ、男性が網を扱うという分担が多いため、こうした分担は珍しいという。この立ち回りに関して、鈴美さん曰く「網を上げるのは、重いから力がいる。女の人は艪を漕げない人もいるけど、私は艪も漕げるし網も入れられるからこうしている」のだという。話を聞くと、鈴美さんは悦雄さんと結婚するまで、口屋内から少し下流に移動した位置にある久保川という地域に住んでいたそうである。この地域では児童の登下校のための渡船が各家庭の持ち回りで運行されていたため、艪を漕ぐのが上手いそうである。こうした例からもわかるように、漁業の現場における分業は、各家庭の適正に合わせて決められるものなのである。

4.舟母の現場

図7 四万十川を往く舟母(『四万十川がたり』より)

ここまで林業、漁業の現場について見てきた。こうした生業は現在でも行われているものだが、現在では見られなくなった生業においても夫婦協働の象徴的な場が存在したようである。それが先述した「舟母」である。舟母は四万十川流域における物流の主軸であったが、約50年前の沈下橋の増加とともに物理的に通行が困難となり、衰退していった。実際に舟母を運航していた人はもう少なくなってきているが、当時を知る人として、ご両親が舟母に携わっていたという渡辺幸寿さんにお話を伺った。
 舟母は西土佐と中村の港町を結ぶものである。渡辺さんの家の舟では、積み荷は主に炭焼きによって生産された木炭で、これを積んで口屋内を出た舟は河口部の下田地区にある倉庫で荷役を行う。帰りも空荷では帰らず、食料を仕入れて舟に積み込み、中村で一泊してから西土佐へと帰っていたそうである。
 前述したように、舟母は夫婦での労働の場であり、舟は夫婦一組で運航されていた。しかし、渡辺さん曰く「娘は舟母にはやらん」とよく言われるほどに、女性にとって大変な仕事であったようである。舟母は帆掛け船であるから、風のない日の運航は困難である。そうした日には女性が岸から船を引っ張って運航していたという。ただでさえ重労働であるのに、冬場などの冷たい川岸での作業の過酷さは想像に難くない。
 ならば、何故夫婦で働くのだろうか。この理由として渡辺さんは「家計が同じであるという信頼」、そして「ほぼすべての家が様々な仕事を兼業している」こと、つまり「夫婦で仕事をしないと忙しい」という要素を挙げた。私が口屋内に行った際の印象的だった会話に、「川の漁を行っている人に話を聞きたい」と話したら「この辺の人は皆漁をしている」と言われた、というものがある。「しゃえんじり」に関する説明にも含めたように各家庭に畑があり、夫婦で畑仕事を行っている。今回林業については和田さんのお話を軸に考察したが、渡辺さんも営林署にお勤めであった方で、林業全盛期にはやはりほぼすべての家庭が林業に従事していたそうである。こうしたことを考えれば、夫婦で働かねば仕事が回らないというのは明らかであろう。そして渡辺さんは「夫婦で働くというのは炭焼き、舟母の頃から続いてきた考え方だ」と語っていた。代々夫婦で働くことによって、生活を維持してきたのである。


三章 男性労働の場

1.生業単位の男女分担
?章では生業の一つ一つの中で男女の分担が行われている事例を取り上げ、その理由について考察してきたが、すべての生業において男女協働が行われているわけではない。例として、養蚕を行うのは女性の仕事、牛を飼うのは男性の仕事、というものがある。この種の生業の例として、ここでは山での猟を取り上げる。川での漁は男女協働であるが、山の猟は男性労働の場であるそうだ。舟母についてお話してくださった渡辺さんは猟を行っており、引き続きお話を伺うことにした。

2.猟の現場
昭和40年代中盤から後半にかけて、口屋内の周辺の造林地ではイノシシ・シカによる被害が深刻化した。植林をしても苗を食べられる、成長した木も皮を齧られ、そこから腐ってしまうというものである。当時営林署にお勤めであった渡辺さんはこうした害獣の駆除を行うこととなった。こうした経緯であるからそもそもの目的は駆除なのだが、獲れたイノシシ・シカは食用となる。昨今「ジビエ料理」が注目されているが、こうした裏側の事情もあるのだ。
山の猟では跳ね上げ式の仕掛けを用いた罠猟が行われる。10人程度のグループで行動し、渡辺さんのグループには口屋内の人々の他にも玖木や中半などの周辺地区の人々もいたという。組織的な猟とはいえ、各個の縄張りに関してなどは「暗黙のルール」によって決まっていた部分は多かったそうである。しかし最近では市や県の政策により外部の猟師の流入が激しく、こうしたルールは淘汰されてしまっているようだ。また獲物の獲れるポイントなどの変化も生じており、近年では害獣そのものとは違った部分での苦労も絶えないようである。
こうした「男性労働の場」である山の猟だが、ここで獲れた獲物は口屋内でも消費されている。消費される場所の一つとして料理屋しゃえんじりがあるのだが、こちらが「女性労働の場」であるのは興味深い。

図8 「しゃえんじり」で提供されるシカ肉のコロッケ


結論

1.「女性が強い」のか
 私は「女性が強いと言われ、実際そうした印象を受ける社会において、本当に女性は強いのだろうか」という疑問からこの研究に着手したが、暮らしの営みを具に見ていると、生活の中で、特に労働の場においては、立場の上下は無に等しいのではないか、と感じられた。
複数の生業を各家庭で同時に行い、そうした家が集まった社会であるからこそ、欠けてよいピースなど存在しないのである。しかしそれは丸々同じ仕事をするというわけではなく、男性のみの労働、女性のみの労働も存在するが、それはお互いの適性を考えてのことであり、お互いが支え合うことで成立するものだといえる。この視点から言えば、「しゃえんじり」誕生にまつわるエピソードとして紹介した「女性が企画し、男性が店舗の改装を手伝った」という話も、どちらが主役ということではなく、適材適所でお互いが支え合っているからこそであろうと考えられる。こうした社会からは「女性の労働」「男女の協働」「男性の労働」の3つが、一つの円の上に並んでいるような社会の姿を見て取れる。こうした社会であるからこそ男女が同じだけ働き、同じだけ収入を得る。そのためどちらが強いということはない、フラットな関係性が築かれるのだ。

2.都市生活者が学ぶべきこと
これまで取り上げてきたような男女協働の労働モデルは、口屋内という地域のものでもあり、日本の伝統的農村生活の姿でもある。我々がこのような生活モデルの表層を見て「女性が強い」と感じるのは、「男は仕事・女は家事」という都市生活の女性観を刷り込まれているからではないだろうか。即ち「女性が強い」の構造を分解すると、「高知の男性<高知の女性」ではなく、「世間一般の女性<高知の女性」というわけである。「女性が強い」と言うと「かかあ天下」というイメージに直結しがちであるが、実態はそうではないというのは今まで述べてきたとおりである。我々の思う「女性」より、実際の女性が強いというだけなのだ。
このギャップから都市生活者は多くを学ぶべきである。昨今の日本社会では「男女平等」「男女共同参画社会」などというスローガンが頻繁に掲げられるが、我々の目指すべき社会の姿は、農村に暮らす人々の社会なのではないだろうか。労働や家庭の場において女性の立場が弱いと思われてきた都市生活者のライフスタイルでは「仕掛けられた男女平等」が横行し、時に男女がお互いに苛烈なまなざしを向けあったり、逆に労りすぎたりするようなシーンが多々見かけられる。マッチョイズムや行き過ぎたフェミニズムは、こうした土壌から生まれるものだと私は考える。我々は一度原点に立ち返り、「自然な男女平等」について今一度真剣に検討すべきではないか。あらゆることから学び、内省のもとに成立するより良き社会の実現を、切に願うばかりである。


参考資料
西土佐村史編纂委員会編(2009)『西土佐村史:永久保存版』四万十市
蟹江節子(1999)『四万十川がたり』山と渓谷社
四万十市人口推移表 http://www.city.shimanto.lg.jp/life/toukei/shimanto/tukibetu.html (2018/2/5閲覧)
木材供給量及び木材自給率の推移(グラフ) http://www.rinya.maff.go.jp/j/press/kikaku/attach/pdf/170926-2.pdf (2018/2/7閲覧)
美しい郷 口屋内 http://kuchiyanai.blog.fc2.com/ (2017/11/30閲覧)


本レポートの作成にあたり、岩本さん、和田さんご夫婦、渡辺さんをはじめとした口屋内にお住いの方々や、地域おこし協力隊の高濱さんには、さまざまなことについて教えていただいた。ご協力いただいたすべての方に感謝しつつ、筆を置くこととする。

マチバの盛衰 −西土佐村口屋内の事例から−

社会学部 菊井 大希

[目次]
序章
第1章 口屋内と炭焼き
第1節 炭焼きとは
第2節 主要産業としての炭焼き
第2章 口屋内とせんば舟
第1節 せんば舟と炭
第2節 せんば舟の衰退
第3章 口屋内の盛衰
第1節 マチバとしての口屋内
第2節 マチバの衰退
第4章 新たな鍛冶屋の誕生
第1節 行政の政策
第2節 工房くろがねの設立
結語
謝辞 
参考文献

序章
今回、調査を行った四万十市旧西土佐村口屋内という地域は、四万十川の河口から25キロほどの四万十川と黒尊川が合流する地点に位置している。この地にはかつて野鍛冶や炭焼きが存在し、集落は炭焼きや林業を中心に栄えた。現在は人口も減少し、野鍛冶や炭焼きは姿を消したが、くろがね工房というたたら製鉄や鍛治を行っている工房が集落に存在する。本稿では「マチバ」における盛衰の事例を、口屋内というフィールドにおける工房くろがねの設立までの背景を取り上げる。

写真1 四万十川(右)と黒尊川(左)の合流点

第1章 口屋内と炭焼き
第1節 炭焼きとは
炭焼きとは木炭が燃料として使われていた時代に至るまで伝承されてきた木炭を製造する技術である。製造された木炭は家庭用の燃料になることもあれば、たたら製鉄など産業用の燃料として用いられることもあった。エネルギー革命により主要な燃料は木炭や石炭から石油へと転換したが、このように需要が多かったため、各集落に2、3ほどの炭焼き職人が当時は存在したという
第2節 主要産業としての炭焼き
口屋内付近で合流する四万十川と黒尊川の流域には、炭焼きに関わることで生計を立てる人が多くいた。この口屋内は今でこそ農業も行われているが、昔はあまり豊かな土地ではなかったために、畑や田の仕事ではなく山の木を使う仕事が盛んだったという側面もある。
炭焼きに用いられたのは川の流域に自生していた広葉樹が主で、これを伐採して炭にし、四万十川を下って河口にある下田へ売りに行く者もいれば、自身の生活のためにこれを行っていた者もいた。また、口屋内で炭焼きに携わっていたものの中にも、樹木を自身の力で入手できる者とそうでない者がおり、自分で樹木を切って炭を作る力を持たない者はそうした力を持っているいわば親分の手を借りて炭を入手していた。この際、親分に対して「ヤマテ」と呼ばれる代金を納めなければならなかったという。ここで「親分」にあたらない人々はやはり炭を大量生産するといったことはなかったようで、炭焼きで大きな儲けを得て暮らしていたわけではなかった。
第2章 口屋内とせんば舟
第1節 せんば舟と炭
口屋内で作られた炭を四万十川の河口・下田へ運ぶ手段として、せんば舟が使われた。現在、せんば舟は観光用として残っているが、炭焼きの最盛期には口屋内のみならず、四万十川流域の多くの地域で主に炭や生活物資を運ぶ手段として用いられていた。これは、中村と口屋内などの四万十川の流域にある集落を結ぶ道路が貧弱だったことが背景にある。このせんば船には2人1組で乗り込み、一人は帆を操り、一人は舟を漕ぐといったような役割分担があった。夫婦でせんば舟に乗ることもあったという。口屋内で作られた炭を舟に載せ、下田で降ろし、その日の夜は下田周辺で過ごし、翌日下田や中村で入手した物を載せて川を上り、口屋内に帰ってくるという二日がかりの行程が多かったそうだ。
第2節 せんば舟と炭焼きの衰退
西土佐村史によると、昭和30年代から口屋内を含む西土佐村の広い地域で道路の拡幅工事や舗装工事が行われるようになった。これにより、四万十川沿いの集落と中村市街を車で往来することが容易になった。また、炭焼きに利用するため木が伐採された土地には杉や檜といった針葉樹が植樹され、人工林が形成されていった。これは当時、エネルギー革命やモータリゼーションの波により炭の需要が急激に低下していた一方で、木材の需要が高まっており、口屋内などの四万十川流域の山林が注目されたことが背景にある。そのため、次第にせんば舟の輸送船としての需要は無くなっていった。一方で、せんば舟の往来が無くなったことで、沈下橋のような比較的川面から低い橋を架けることが出来るようになったとも考えられる。

写真2 植樹された常緑樹の人工林

写真3 口屋内の右岸と左岸を結ぶ口屋内大橋

第3章 口屋内の盛衰
第1節 マチバとしての口屋内
この口屋内という地域は、現在でこそ下流の中村や上流の江川崎といった地域と容易に行き来することができるが、前章でも述べたように道路の整備が行われるまでは車両による往来も難しく、口屋内は独立した一つの集落として存在していた。人口が最も多かったこの昭和30年代、口屋内には雑貨店や居酒屋、さらには映画館などが存在したという。居酒屋は船乗りから百姓まで、口屋内の人々が集まる憩いの場であったという。また、映画館は口屋内の中に二つあり、少なくとも一つは口屋内で炭焼きをされていた「親分」にあたる方が経営されていたものであったことが分かった。
第2節 マチバの衰退
口屋内の属する西土佐村の人口は昭和40年頃が最も多く、約8000人もの人々が暮らしていたが、現在の西土佐村の人口はその半分ほどにまで減少している。前節で述べた映画館なども姿を消し、現在は空き地となっている。
また、集落には口屋内小学校という小学校があった。こちらも昭和40年頃には100人を超える生徒がおり、運動会などの行事の際は大きな賑わいを見せたそうだ。しかし、次第に若い世代が中村市内や県外などに転出したこともあり生徒数は次第に減少、平成24年に口屋内小学校は西土佐小学校に統合され、現在は閉校となっている。
このように、一時期は林業を中心に栄えた口屋内であったが、現在は次第に人口が減少し高齢化が進んでいる。
第4章 新たな鍛治屋の誕生
第1節 行政の政策
炭焼きも衰退し口屋内の人口が減少していくなかで、1980年代、全国的に四万十川が清流の川として有名になり、現在のように流域が観光地として注目されるようになったという。しかし、当時四万十川周辺は炭焼きや林業が主な産業であり、口屋内でもマチバとしての映画館や居酒屋といった施設は存在したものの、観光地としての施設は存在しなかった。そこで西土佐村では観光開発へと着手することになる。昭和61年には住民の手によって観光屋形船や民宿の開設、カヌーによる川下りなどが始められたという(西土佐村村史より)。その他高知県からも口屋内へ人を呼び込むため新たな観光地を設立しようと、補助金が出された。
第2節 工房くろがねの設立
工房くろがねは口屋内の四万十川右岸にある主にたたら製鉄や鍛治を行う施設である。ここでは打刃物の製造や販売だけでなく、実際に鍛治を体験することも出来る。
この工房くろがねは平成11年の秋に岡田光紀氏(銘を湧風という。銘とはここでは製作した刃物に入れる製作者の名のこと)によって設立された。岡田氏は元々は旧中村市内の出身で、鉄が好きだったこともあり工業高校へと進学したのち、鉄鋼メーカーで半自動溶接の研究員として開発に携わっていた。そこで約4年間勤務したのち四万十へと戻り、釣具屋さんを営むようになった。釣具屋を営む傍、趣味で削り出しの刀を作ったりもしていたが、ある日、岡田氏の奥様の父が林業を主な仕事としながらも鍛冶屋をしていたということを知り、鍛治への興味を持つこととなったという。その後、自ら家の側に鍛冶場を作り上げ、趣味でナイフ作りをするようになったそうだ。そして、鍛治をするにあたって鋼材(刃物の材料となるもの)を調べるうちに玉鋼という鋼材が良いと知り、鋼材屋さんに分けて貰おうとするも「これは素人が使うものではなく、刀鍛冶をする職人たちが使うものだ」と言われ、岡田氏は自らの力で玉鋼を作ろうとたたら製鉄に用いる炉を製作した。4、5年試行錯誤を繰り返し、ついに一握りほどの小さな鉄が出来た時は人生でも一番の達成感であったという。

写真4 工房くろがね

写真5 工房くろがねの作業場。手前はたたら製鉄に用いられる炉
こうして次第に技術が向上していく中で、前節でも述べたように高知県からの補助金の話を受け、現在の場所に工房くろがねが設立されることとなった。当初は岡田氏と他に二人が運営に携わり、岡田氏はたたら製鉄の研修を行う講師としての役割を担う予定であったが、実際に工房を開いてからは岡田氏が一人で運営をすることとなった。そしてこの頃、現在工房くろがねを運営されている林信哉氏(銘を風子)が岡田氏へと弟子入りする。林氏は愛知県の出身で、元々は会社員をされていたが、田舎での暮らしに憧れを抱き、当時よく雑誌で特集されていたこの口屋内に移住した工房くろがねとの出会いのきっかけだという。林氏が口屋内へ移住してきた当初は、中村までアルバイトをしに行く生活だったが、岡田氏に「せっかく田舎での暮らしに憧れてここへ来たのに、市街地へアルバイトをしに行くのでは意味がないじゃないか。ここで炭焼きをしてみたらどうだ。私はたたら製鉄に炭を使うので、炭を作れば買い取るから、それで生計を立ててみたらどうだろう」というお話を受け、工房くろがねで炭焼きを始めることになったそうだ。現在、林氏はたたら製鉄や鍛治を主な事業としているが、工房くろがねでの当初の役割は炭焼きをすることだったそうだ。
かつて、日本の集落には炭焼きと共に野鍛冶と呼ばれる鍛冶屋が存在した。野鍛冶は集落の農民が使う農具などを製作することが主な仕事であった。しかし、現代では農具も耐久性のあるものが増え、昔ほど頻繁に交換する必要が無くなったことや、農村人口の減少を理由にかつて野鍛冶と呼ばれた鍛冶屋は無くなってしまった。
工房くろがねは鍛冶を行ってはいるが、こうした野鍛冶と呼ばれる鍛冶屋のような事業は行っていない。前述の通り、工房くろがねは県からの補助金を受けたうえで設立された鍛冶屋である。工房くろがねが行っている鍛冶体験や研修は多くが県外や海外からのお客さんで、ここからも工房くろがねが集落の鍛冶屋ではなく、観光地的側面を持った鍛冶屋であることが伺える。また、製作している刃物も口屋内以外の地域からの注文を受けて作っているものがほとんどである。林氏は「普通の鍛冶屋というのはずっと黙々と作業をしているもので、僕はそういうことも好きだけど、鍛冶体験で東京や大阪といった都市や、海外から来た人たちとどこから来たのか、どんな仕事をしているのかといった話が出来るし、黙々と作業し続けるか、もしくは鍛冶体験ばかりをするかどちらかばかりだと嫌になるかもしれないけど、両方のバランスが取れてることが僕にとって良いことです」と、工房くろがねならではの良さを教えてくださった。
また、林氏は「僕より腕の良い鍛冶屋っていうのは全国を探せばたくさん居ると思いますけど、たたら製鉄を出来る人を探すと恐らく日本に100人、もしかすると10人もいないかもしれない。さらにたたら製鉄と鍛冶を両方出来る鍛冶屋さんを探すとなるともっと少なくなるだろうし、そのうえで多少ではあるけれども英語を話せる鍛冶屋さんとなると、僕ともう一人居るかなというくらいになるかもしれませんよね」ともおっしゃっていた。工房くろがねのような鍛冶屋は林氏だからこそ運営出来る鍛冶屋なのかもしれない。
このように、工房くろがねはかつて口屋内で炭焼き職人が活躍していた頃に存在した野鍛冶とは少し異なる鍛冶屋ではあるが、口屋内という地域の魅力を発信する一つの施設として、集落にとって重要な役割を果たしている「集落の鍛冶屋さん」であるといえる。

写真6 切出小刀の製作場面

写真7 加熱と叩く作業を繰り返す

写真8 大まかな部分を機械で叩く様子

写真9 銘を刻む様子

写真10 完成した切出小刀
結語
今回の調査を通じて、明らかになった点は以下の通りである。
1.口屋内はかつて、田畑仕事よりも炭焼きや林業が主要な産業で、四万十川沿いの道路が貧弱であったために炭の輸送にせんば舟が使われた。
2.モータリゼーション、エネルギー革命の影響から炭焼きは衰退、一方で四万十川、黒尊川流域の森林資源の豊富さが注目され、口屋内から多くの木を搬出するため、四万十川流域の道路が整備されたことにより、自動車での往来が容易になったことから、せんば舟は輸送船としての役割を終えた。
3.過疎化や高齢化が問題となる中、四万十川が全国的な注目を浴びるようになり、高知県や西土佐村、現在の四万十市が口屋内をはじめとする四万十川流域の観光地化に力を入れるようになり、岡田光紀氏が工房くろがねを立ち上げるにあたって、高知県より補助金が提供された。
4.工房くろがねは当初は炭焼き、現在はたたら製鉄や鍛冶を行う鍛冶屋ではあるが、炭焼きが盛んだった頃に存在した野鍛冶とは異なる観光地的側面を持った鍛冶屋である。

謝辞
本論文を執筆するにあたってご協力して下さった方々に感謝を申し上げます。特にご多忙のところ、工房くろがねの林さんには二日間に渡って様々なお話を聞かせていただいただけでなく、切出小刀の製作を実際に見せていただいたうえ、記念にと頂きました。また、お話を聞かせていただいた方だけでなく、道案内をしてくださった方、詳しいお話を知っている方を紹介してくださった方などのご協力無しにはこの論文を執筆することは出来ませんでした。
本論文の執筆に関わってくださったみなさまに心より御礼申し上げます。ありがとうございました。

参考文献
西土佐村史編纂委員会 編纂,2009年,『西土佐村史:永久保存版』
永澤正好,2006年,『四万十川Ⅱ川行き』,法政大学出版局
永澤正好,2006年,『四万十川Ⅲムラに生きる』,法政大学出版局

中村の染工場−佐竹染工場と垣内染工場の事例−

中村の染工場
― 佐竹染工場・垣内染工場の事例 ―
社会学部 多田友美


【目次】

はじめに

第1章 佐竹染工場
1. 佐竹染工場をめぐる歴史の語り
2. 佐竹染工場の現在

第2章 垣内染工場
1. 垣内染工場の歴史と仕事
2. 染工場のその後

第3章 フラフと大漁旗
1. フラフ
2. 大漁旗
3. 染めの工程
4. フラフを揚げる

むすび

謝辞

参考文献


はじめに

 高知県では端午の節句に近づくと、鯉幟や五月幟とともにフラフと呼ばれる祝い旗が風に吹かれている光景が見られる。今回の調査のフィールドである高知県四万十市中村でもその風習が人びとによって受け継がれ守られている。中村は約550年前、一条教房応仁の乱から逃れてきたことから、一条氏によって京都に模した町づくりが行われた場所だ。その中村には中心を南北に走る京町という町があり、その中でも染工場がある4・5丁目は紺屋町と名付けられるほど、かつて多くの染工場、染物屋があった。本稿では、その高知県四万十市中村京町をフィールドに、フラフを中心に扱う染工場について、またフラフが家庭においてどのように揚げられているかについて取り上げる。


第1章 佐竹染工場

1−1 佐竹染工場をめぐる歴史の語り

 佐竹染工場は一条氏とともに京都からついてきた染物屋といわれている。つまり約550年の歴史があることになる。しかし、佐竹染工場8代目の佐竹将太郎氏の語りによると、昔家系図を寺に預けており、その寺が火事になって焼かれてしまったため、詳しい染工場の歴史は分からないという。
そのため佐竹染工場の歴史は口伝えで伝承されている。先述の通り家系図はないが、7代目の奥様に分かる範囲の先代を聞いたところ将太郎氏から4代前、つまり4代目までは名前が分かった。そのため本当に自分が8代目なのか実は分からないと、佐竹将太郎氏は笑いながら話してくださった。佐竹家の墓を見てみても5〜6代前までほどしかわからないそうだ。
話を伺っていると、佐竹将太郎氏が家の歴史を教わっていた6代目の佐竹善男氏が佐竹染工場の歴史を語る上で重要な人物であることを感じた。佐竹将太郎氏が語る佐竹染工場の歴史は、多くがこの6代目の祖父から聞いたものなのだ。将太郎氏の語りでは、6代目の時に弟子をとったことがある、4代目が絵が上手だったためその人が描いた下絵を今も使っている、6代目のときに染工場を本町のほうまで長くして今の長屋のような形になった、などといったことを口語で教わったことが明らかになった。

1−2 佐竹染工場の現在

 現在、佐竹染工場は7代目と8代目で店を切り盛りしている。フラフや大漁旗五月幟、暖簾、ハッピなどを主につくっており、周りの漁師まちから仙台・沖縄など様々なところから注文を受けている。どこの染物屋も後継者不足が深刻で、全国各地から注文がくるらしい。しかし佐竹染工場8代目の佐竹将太郎氏は、ほかに夢を持ったことがなかったほどに継ぐことが当たり前だと思っていたと話してくれた。これらの製品をつくる工程をすべて家、つまり佐竹染工場で済ますため、家族で協力しながらの作業が必須なこともその要因のひとつだろう。とは言え、佐竹将太郎氏は真摯に染めと向き合っており、県東部のみならず四万十市や中村でも守られているフラフを中心とした染め物を後世に残していこうと、女の子用のフラフやマンションなどでも揚げやすい小さいフラフ、要望に沿った絵柄など変化に柔軟に対応している。また地元の高知新聞の取材に応じ、子どもたちと染め物体験をしたりと様々な形で発信している。


写真1 佐竹染工場のフラフ例


第2章 垣内染工場

2−1 垣内染工場の歴史と仕事

 佐竹染工場の二軒隣にあるのが垣内染工場である。垣内染工場では8代目の奥様である垣内文子氏にお話を伺った。垣内染工場は1744年創業で、現在77歳の8代目のご主人が7年前に病に倒れ店じまいをするまで、約267年続いてきた染工場だ。当時垣内染工場ではフラフと五月幟大漁旗を主とした染め物を扱っていた。注文は直接もらいに依頼主の家に行き、染め物が完成したらまた自らの手で届けていたそうだ。また佐竹染工場とは絵を描く際の下描きを共有することもあったらしい。奥様がこの町に嫁いできた約50年前は3軒ほど染物屋があり、染めの工程で行う洗いを川で行っていたり、7代目夫婦とともに家族で作業をしていたりと、現在よりも紺屋町という名にふさわしい情緒が残っていたと懐かしそうに話していらっしゃったのが印象的だった。

2−2 染工場のその後

 垣内染工場と染め物は店じまい後も生きられている。8代目の奥様が趣味の裁縫をする場、近所に住む友人たちと集まって話をする場として活用されているのだ。
裁縫ではかつて工場で染めたフラフや大漁旗の残っている布も使用し、染工場でも使っていたミシンで、バッグやお手玉、パッチワークなどを作っている。そのため奥様は「染め物をはじめとしてどんな布でも捨てられずに残している」と笑いながら話してくださった。言葉の通り、染工場には多くの布や染め物が、奥様に生かされるのを待つように積まれていた。
 また、「毎日誰かが訪れてきてくれるから、その時だけは裁縫の手を止めて休んでいる」と奥様が話してくださった通り、私がお話を伺った際も、奥様のお知り合いが染工場に集まり楽しそうに話していた。



写真2 垣内文子氏が染め物を活用して裁縫したバッグ


第3章 フラフと大漁旗

3−1 フラフ

 さて今回の調査の中心といっても過言ではないものがフラフである。フラフというのは高知県のみで端午の節句に鯉幟や五月幟とともに揚げられる祝い旗だ。言葉の由来はオランダ語の「vlag」や英語の「flag」説がある。現地での聞き取りでは英語の「flag」説をよく耳にした。フラフはいつどこで始まったのかが分かっておらず、大きさや絵柄、揚げ方も地域や家庭によってそれぞれ違いがある。2014年4月30日の高知新聞で組まれた特集では、主に県東部のみでしかフラフは揚げられないというような記載があったが、事実四万十市では多くの家庭でかつてから五月幟とともに揚げられていることから、高知県全体の伝統といっていいだろう。
 フラフには必ず家紋・子の名前・絵柄が描かれる。絵柄は親や祖父母などが子どもへの願いや思いを込めて選ぶ。調査先である佐竹染工場では鶴亀や龍、鯉と金太郎、桃太郎、那須与一などが主だが、それ以外にもそれぞれに頼まれた絵柄を描くらしい。本来は男の子の健やかな成長を願って揚げられるものだが、最近は女の子にもフラフをつくる家庭があるようだ。また、母方の祖父母が孫のために揚げるといった習わしなども近年ではそれぞれの家庭に合わせて変化しているらしい。フラフは少子化などの社会的要因や家庭の事情によって柔軟に変化しながら、その伝統が受け継がれ、守られているのだ。

3−2 大漁旗

 上記で述べたフラフのもとになったと言われているのが大漁旗である。大漁旗は本来漁船が帰港する際に大漁であったことを知らせるために揚げていた旗だが、現在は正月の乗り初めの時に掲げたり、新しい船のお披露目(船おろし)のときに船主にゆかりのある人びとがお祝いの品として贈ることが多い。大漁旗には、大漁の文字・船名・船主・贈り主・のし・絵柄(主にその船で獲れる魚)などが描かれる。

3−3 染めの工程

 ここからは佐竹染工場でのフラフと大漁旗の染めの工程を紹介していく。フラフと大漁旗はどちらも同じ工程で作製されている。
⑴下描き:下墨みという墨汁のようなインクを使用し、絵や文字の下描きを行う。最近はパソコンで文字を出してそれを引用するが、あくまでも筆を使い手作業で下描きを行っている。
⑵のり付け:専用ののりをツカと呼ばれる絞りに入れて、それで色を入れない部分にのりをつけていく。その上から煎った米ぬかをふりかける。米ぬかがしっかりくっつくように、描きの線を消すために霧吹きで水をかけ、天日干しをして乾かす(天気が悪いときはガスで)。
ここまでの作業を行う際には布をきっちり張っておく必要がある。この時、シンシとハッチョウと呼ばれる道具を使う。
⑶色付け:天気によって色の出方が違ってくるため、目分量・感覚で色をつくる。染料は大きく色をつけるところに、顔料は細かい部分を染めるときに使う。
⑷なでる:後ろから束子でなでる。これは片面だけ染めると後ろが毛羽立つから裏もきれいにという佐竹染工場のこだわり。
⑸焼き付け:色を定着させるために小さめのガス台で焼き付ける。
⑹洗い:のりをふやかすために3時間ほど浴槽にためたお湯につける。そして水槽のようなもので洗い流し、その後もう一度天日干しで乾かす。
⑺仕上げ:ミシンで周りを縫う。奥様がこの作業を主に行う。
 時期や注文の多さなどで変動はするが、上記の工程は注文から二週間程度で完成する。


写真3 ⑴下描き


写真4 ⑵のり付け で使用するのり



写真5 シンシ 


写真6 ハッチョウ


写真7 ⑶色付け


写真8 ⑷裏なで


写真9 ⑸焼き付け で使用するガス台


写真10 ⑹洗い で使用する水槽


       写真11 ⑺仕上げ


3−4 フラフを揚げる

 四万十市に住む有友家では、離れて暮らす孫二人のために毎年鯉幟と五月幟とともに大きなフラフを揚げている。フラフはそれぞれ二人分つくられ、来年弟が7歳になるまでは兄のフラフも一緒に揚げる予定だ。有友家のフラフと五月幟は垣内染工場で染められたもので、フラフの絵柄は兄弟どちらも鶴亀。鶴は千年・亀は万年という言葉から元気に長生きしてほしいとの願いが込められている。有友家では場所もあったことから一番大きなサイズのフラフを揚げているため、大工に頼んで設置や片付けを行っている。毎年春休み中の大安もしくは吉日の天気の良い日から子どもの日の週末まで揚げていて、お孫さんたちは休日や連休などに遊びに来たときに見たり、上げ下ろしを手伝ったりしているそうだ。また町に子どもが少なくなった現在、有友家のフラフは近所の人びとからも毎年楽しみにされている。フラフは家族の子どもへの願いが込められており、そして子どもの成長を見守る地域住民や周りの人びとにとっても、フラフが大空をたなびく様子は未来に残したい高知の伝統的な風景なのである。


   写真12 有友家で揚げられているフラフ


むすび

・フラフは高知県東部のみでなく四万十市でも時代や家庭に合わせて変化しながら受け継
がれている
・フラフと大漁旗の染めの工程は同じで、佐竹染工場では、下描き・のり付け・色付け・裏
なで・焼き付け・洗い・縫いの工程を家族で協力し行っている
四万十市に残る染工場は佐竹染工場だけだが店じまいをした垣内染工場やそこでつくら
れた染め物もまだ人びとによって生きられている
少子化の現在大きなフラフが見られるのはその家庭だけでなく地域全体の楽しみになっ
ている
・フラフや大漁旗といった染物には人から人への思いや願いが込められている


謝辞

  本論文の執筆にあたり、協力してくださった方々にこの場をお借りしてお礼申し上げます。ご多忙の中、温かく迎えてくださった佐竹将太郎様を始めとするご家族の皆様、垣内文子様、有友万里様のご協力のおかげで、楽しく充実した調査となりました。本論文を完成させることができましたのは、貴重なお時間を割いてご丁寧に対応してくださった皆様のおかげです。改めて心より御礼申し上げます。


参考文献
高知新聞 こども高知新聞「高知なるほど!辞典−フラフ」2014年4月30日
高知新聞 こども高知新聞「読もっか探検隊」2014年10月28日

四万十川流域の養蚕

社会学部 社会学科 川路瑞紀

【目次】
はじめに
第1章 桑
1. 桑の栽培
2. 桑の採取と運搬
第2章 養蚕
1. 蚕種
2. 蚕
3. 蛹
第3章 繭の出荷
1. 繭から出荷するまで
2. 出荷してから次の蚕まで
第4章 養蚕と衰退と消滅
1. 衰退と消滅
2. まゆうちわ
むすび
謝辞
参考文献

はじめに
蚕が繭を作り、その繭が糸となり、糸は織られて絹になる。明治時代以降、近代化を進める日本にとって、蚕を飼育する養蚕業は、外貨を得るための重要な産業であった。かつて繭・絹共に世界一の生産国となった日本では、関東を中心に全国各地で養蚕が行われていた。高知県四万十市にある四万十川流域もその一つである。
四万十川流域における養蚕がいつ始まったのか正確な記録は残されていないが、戦前のピークは大正期から昭和初期、戦後のピークは昭和40年代であった。データによれば、旧西土佐村だけでも昭和46年の養蚕農家戸数は363戸、昭和48年には収穫量が86.7tを記録し、昭和50年には1,200万円もの販売代金があったという記録が残されている。それ以前から養蚕は各家庭で行われていたが、蚕の糞であるコクソを掃除するのが重労働だったことや、適温に保つため火をつけ続けなければならなかったことなどから、多くは飼われていなかった。しかし、複数の要因から養蚕が盛んに行われるようになる。第一に考えられる要因は地形の関係である。四万十川流域にある田が少ない地形では、四万十川の氾濫の際に浸水しやすく、近隣住民はその被害に悩まされていた。しかし、養蚕は、餌となる桑畑の収穫を被害に遭う前に終了させれば、あまり増水の被害を受けずに済んだことから、盛んに行われるようになった。その他にも、絹の需要が高まったことや、使用される機械が発達したこと、蚕の品種改良が行われたことなどの要因から、養蚕する家庭が増加したと考えられる。
四万十川流域で養蚕を行うようになった人の中には、嫌々ながら蚕を飼うことになった人や、蚕とともに成長していった人も多い。そのくらい、当時は蚕を飼うことが当たり前であった。ところが、昭和60年代になると養蚕をする家庭は次第に減少の一途を辿り、現在では、地域の子どもたちに対しての総合学習として行われている場合はあるが、産業としての養蚕はもう完全に消滅してしまっている。
今回調査を行ったのは、四万十市にある大川筋地区である。四万十市は旧西土佐村と旧中村が合併して出来た広大な市であるが、大川筋地区は旧中村に位置している。養蚕は、この大川筋地区はもちろん、愛媛県寄りである旧西土佐村から市街地である中村の手前までの広範囲に渡って行われていた。本稿は、かつて調査地である旧中村に位置する大川筋地区において養蚕をしていた竹澤氏(旧竹内氏)、岡氏・伊与田氏および旧西土佐村に位置する中組において養蚕をしていた高屋孝子氏、また後述するまゆうちわを製作していた高屋健一氏による語りとその他養蚕に関する文献をまとめたものである。

第1章 桑
1. 桑の栽培
 桑の葉は、蚕の餌となるものである。大川筋地区ではこの桑の栽培を行っており、以前は辺り一面桑畑が広がっていた。そのため、あちこちに桑の実が落ちており、子どもが桑の実を食べる光景はよく見られたそうだ。また、大川筋地区は平地な地形であるため、桑を栽培することが可能であったのに対し、中組は山地であったため、桑を愛媛県との県境まで採りにいく必要があったと高屋孝子氏は話していた。
 大川筋地区で養蚕が消滅した後、至る所にあった桑畑はどうなったのかというと、みかんなどの果樹を植える等の施策を行ったそうだが、やはり四万十川の氾濫による被害が懸念されるため、最も有効な施策がなく、そのまま放置され荒れている場所も多く見られる。

(写真1) 現在の大川筋地区

2. 桑の採取と運搬
 昭和30年代頃、高屋孝子氏は旧西土佐村にある実家で養蚕を行っていた。当時はまだ機械も車もない時代だったため、桑の採取は裁縫道具にある指ぬきのような道具で行っていた。桑の葉をちぎっては放り、ちぎっては放りを繰り返す。早朝から始まるうえ、蚕の世話をしながら行き来する必要があり、休む時間もなかったという。そうして採られた桑の葉は大きな籠いっぱいに詰められ、竿のような木の棒の前後に結び、背負うような形で運ぶ場合もあれば、リアカーに積んで運ぶ場合もある。いずれにしても、急斜面かつ長距離を運ぶ必要があり、骨が折れる仕事だったそうだ。

(写真2) 運搬の際使われていた籠

時代が進むと、旧中村および旧西土佐村で、桑の採取や運搬の際に機械が使われるようになる。一つは耕耘機である。耕耘機は後ろに荷物をつけて桑を運ぶことができ、所有している家庭は多かった。人が乗ることも可能であり、大勢の人が自分の車のようにして乗っていたそうである。
また、竹内氏の家庭では、国の補助金を得て桑の枝切り機を購入した。これは県の普及員や農協が養蚕に積極的に協力したからこそ実現したそうだ。その他にも、伊与田家では運搬の際に軽トラックを利用していた。多いときで、一回につき100束もの桑の葉を積むときもあったそうである。
また伊与田家では、葉を切る際は、次の蚕のために20〜30センチほど残して上の部分を切るという工夫をしていた。蚕を飼えば飼うほど蚕の成長速度と桑の成長速度が間に合わなくなるため、計算して採取しなければならない。加えて桑の手入れも大変だったという。
 高屋孝子氏が中組で養蚕をしていた際、運ばれた桑の葉は、家の床下で保存していた。実家の床下に、保存専用の穴を掘っていたそうである。床下は湿気があり、桑を乾燥させてはならないという条件に合った場所だったからだ。また、桑の葉は乾燥の他に、蒸れてもダメになってしまうため、適度に混ぜる必要もあったそうだ。

第2章 養蚕
1. 蚕種
 ここからは、蚕の卵である蚕種の段階について述べていく。その前に、蚕がどのように成長していくのかを大まかに説明する。まず蚕は、孵化してから約一か月の間エサとなる桑を食べ続け、計4回の脱皮を繰り返しながら成長し、最後には蛹の期間を過ごすための繭を作る。蚕は脱皮が近づくと桑の葉を食べるのをやめ、動かなくなる。その様子が眠っているかのように見えることから「眠」と表現され、初めて眠を行うことを「初眠」という。そして皮が剥け桑を食べるようになり2,3日すると再び眠を迎える。これが2眠である。そうやって3,4日経つと3眠、5,6日経つと4眠を迎える。ちなみに4眠は最後の眠であるため、「おおどまり」と呼ばれていた。おおどまりを済ませた蚕は次第に糸を出し、蛹となる。また、蚕が初眠を迎えるまでの期間を1齢、初眠後に脱皮してからの期間は2齢、と脱皮をする度に齢を重ね、最終的に5齢まで成長するのが一般的である。ここまでの飼育を、1年の4月から11月前までの暖かい時期に限り行っていた。詳しくいうと、4月頃に飼われる蚕が春子、続いて夏子、秋子とがあり、その他にも真夏日に飼われる土用子や、秋子がまだ家にいる段階で飼われる晩々子などもあった。多くの蚕を飼育していた伊与田家では、年8回も蚕を飼った時期があったそうである。
 四万十川流域では、蚕種は箱に入れられてやってきていた。大きさは2mmほどであったため、匹単位ではなくグラム単位で飼われていた。一回につき何グラムなのかは家庭により様々であるが、多い家庭では70〜80gほどの蚕を育てていた。蚕種を取り扱う際には、潰れるのを防ぐため、鳥の羽や刷毛のようなもので掃いて取り扱う必要があった。そうしてしばらくすると蚕種は卵から孵り、桑を食べるようになる。しかし、小さいうちは大きなまな板の上に桑の葉を置き、包丁のようなもので小さく切り刻んでから与えていた。枝ごとあげると潰れてしまうからである。葉の量は多く、こちらも大変な作業だったようだ。そうして成長した蚕が2齢になり黒色が濃くなってくると、普及員が買い取り、他の養蚕農家に配る場合や養蚕農家に直々に取りに来てもらって配る場合もあったようである。

2. 蚕
 ここからは、1齢から5齢までの蚕について述べていくこととする。蚕は桑の葉を食べれば食べるほど大きくて重い繭となるため、朝・昼・晩と欠かさず桑を食べさせなければならない。その際、「えびら」と呼ばれる道具が使われていた。このえびらの上に蚕を乗せ、上から桑を与えていく。中組で養蚕をしていた高屋孝子氏は、桑の葉だけを採取し食べさせていたのに対し、大川筋地区では、蚕がまだ幼い頃は桑の葉のみを切って与え、成長するとともに一枚の葉をあげるようになり、最終的には枝ごと与える形が多かったようだ。桑を食べ成長した蚕は、1齢の頃は7mmほどの大きさで黒っぽかったのに対し、5齢ほどになると60〜70mmほどの大きさにまでなり、青白くなる。
えびらにはコクソ(蚕の糞)や桑の食べ残しが溜まる。そうしたらまた綺麗なえびらへと移し、溜まったコクソや桑の葉は焼いて処分したそうだ。何匹もの蚕が桑を食べる音は、ザーザー雨が降るときのような、ムシャムシャとなんともいえない音がしたと印象深そうに話す人が多かった。
桑のあげ方も工夫をしていたと伊与田氏は教えてくれた。桑をあげていくと、蚕が偏り薄くなって穴があく場所が現れる。その穴が開かないように、交互に上手くあげなくてはダメだという。蚕は来るたびに大きくなるからかわいらしい、同じように飼っていてもよく食べる子もいればあまり食べない子もいて、人間と同じだと笑いながら話してくれた。

(写真3) えびら

3. 蛹
 次に、蚕を上蔟し、繭を作り蛹となるまでの過程を述べていく。蚕が5齢になると、桑を食べるのをやめる。その状態を「蚕があがる」と表現する。そうすると次第に5mm〜1cmほど縮んで、白から透明へと変化する。その段階になると、繭を吐き出す前に、「蔟」と呼ばれる巣に移さなければならない。竹内家では上蔟する建物と蚕を育てる建物を分けていたため、蚕が通るほどの穴がある網に蚕をたからせ、蚕がくっついた網ごと移動させ、持ち上げて落とすという作業を行っていた。蚕があがる日は親戚や普及所の人、農協の人も手伝ってくれるほど忙しかったそうである。
 上蔟の際に用いられていた道具が回転蔟である。回転蔟とは、蚕が一匹入るほどの幅で等間隔に仕切られたボール紙製の枠を、10個ほど木枠に固定して使うものである。回転蔟はその名のとおり回転させる必要があるため、天井から木枠の両端を吊るし専用の針金で吊るして使う。秤で計量された一定量の蚕を回転蔟の下へ落とすと、蚕は下から上に登っていく性質があるため、高いほうへ移動してくる。すると重心が上になるため、回転蔟は半回転する。そうやって回転を繰り返しながら、蚕は自分たちの専用の穴を見つけ、そこで繭を作っていく。穴を見つけるまではコクソやおしっこを出すので、下には新聞紙またはネットを張っていた。伊与田氏曰く、染みが出来たら繭の値段が下がってしまうので、おしっこが出る蚕は下へ回し、綺麗なものを上に回すようにしていたそうである。また、穴に灯りを当てて見てみると、蚕が実際に中で糸を出している様子が分かるのだそうだ。

(写真4) 上蔟の際に使われていた秤


(写真5) 回転蔟1


(写真6) 回転蔟2

 前述したとおり、竹内家は蚕を育てる建物と上蔟する建物を分けていた。蚕を育てる場所は、元々鶏を飼っていた小屋を養蚕専用に変えたものである。対して上蔟する建物は、一見普通の家に見えるほどの、立派な瓦屋根の二階建ての家である(写真7)。8畳ほどの部屋が3つ並ぶほどの広さを持ちながらも人間は住まず、蚕のためだけに使われた。一方、伊与田家では蚕の飼育と上蔟を同じ建物で行っていた。まだピークを迎える前の段階では小さなスペースで養蚕をしていたが、より広い飼育場所が欲しくなり、バブル期に養蚕専用の建物を建てた。その他にも倉庫があり、そこでも養蚕を行っていたそうである。

(写真7) 上蔟を行っていた建物の外観


(写真8) 回転蔟を吊るしていた跡

第3章 繭の出荷
1. 繭から出荷するまで
 繭が固くなり蚕が蛹になると、いよいよ出荷となる。蛹になって色が黒くならないと機械をかけたときに繭が傷んでしまうため、完全に蛹になるまで待つ必要があるそうだ。そうして出来た繭を蔟から外し、まず毛羽取りを行う。毛羽とは、繭の周りにあるふわふわとした毛のことである。櫛のようなものがついた機械を使用し、上から押し出すようにして蔟から繭を外した後、毛羽取り機にかけると、毛羽が取り除かれ、つるっとした綺麗な繭になる(写真9)(写真10)。

(写真9) 毛羽取り機1


(写真10) 毛羽取り機2

その次に行う作業は選別である。木製の大きな台に繭を乗せ、上から綺麗な繭か否かを選別する。この作業に一切の妥協はしなかったと伊与田氏は話していた。自分自身がそういう性格だから、何回も何回も繰り返し、丁寧に選別をしたそうである。ちょっとした汚れがついているだけでもすぐに外してしまっていた。良い繭じゃなければ値段が落ちてしまうし、なんせ汚い繭と一緒にされるのが嫌だったと話す。当然、大川筋地区内で競争心もあったそうだ。こういうのは張り合いがないとダメだという。私が話を聞きに行った際、繭の品質に関して県や市、四国から表彰してもらったことがあると教えてくれた人が多かった。

(写真11) 選別台

 選別し終わった繭は袋詰めされ、農協に回収されて出荷となる。ここで選別漏れの繭をどうしていたのかについて述べたいと思う。汚れがついていた、二匹の蚕で一つの繭になってしまった、繭になる途中で死んでしまった等の理由で選別漏れとなった繭を自分たちで煮て糸にしていた家庭は多い。なぜ煮るのかというと、繭糸にあるセリシンと呼ばれるたんぱく質が煮ることにより一部溶け出した結果、糸がほどけやすくなるからである。岡氏はこの煮ているときの臭いも記憶に残るほどなんともいえない臭いだったと話していた。高屋孝子氏の家庭も商品に出せない繭を糸にしていていたため、以前は絹糸を巻いた枠が何本も家にあったという。伊与田家は機織り機があったため、同じように糸にしたものを織って布にしていた。竹内家も、煮て糸にし、機織りで織り、着物を作っていたそうである。このように選別漏れの繭で出来た糸を織って出来る布のことを「紬」と呼ぶ。竹内家曰く、二匹入った繭等を使っているので、一匹よりも糸が太くなり、絹の表面がデコボコするのが独特の味となっているのだという。

2. 出荷してから次の蚕まで
 蚕があがる日と出荷日の時期は、養蚕農家において最も忙しい時期である。しなければならないことは多く、手伝いの人や雇い人と合わせて作業を行う。そうしてやっと出荷が終わると、次の蚕の間まで少し楽になるので、竹内家では手伝ってくれた人たちに対してごちそうをし、一緒にお酒を呑んで一息ついたそうだ。伊与田家でも、同じように雇っている人に対してご飯をごちそうし、労をねぎらっていたそうである。
 出荷が終わり次の蚕を飼うまでの期間は、コクソ等の処理や道具の掃除をし、次の蚕に備える。そうして繰り返し11月頃まで養蚕を行ったあと、冬を迎える。養蚕農家は養蚕専業ではなく、兼業農家が多いため、冬の間は別の作物の栽培および稲作を行っていた家庭が多い。四万十川流域において、最も中心として行われていたのは稲作であった。年間を通して稲作を行い、その合間に養蚕を行っていたのである。稲作と養蚕を掛け持ちするのは、両方に気をかけておく必要があり、休みがなく、たいへん重労働だったそうだ。現在、前述したとおり養蚕は消滅してしまったが、稲作は今でも引き続き行われている。


第4章 養蚕の衰退と消滅
1. 衰退と消滅
 四万十川流域において昭和40年代にピークを迎えた養蚕だが、昭和の終わり頃になるとその数を減らす。四万十川流域で養蚕が衰退した要因について触れる前に、そもそも日本全体でどのように養蚕が衰退したのかについて言及したい。かつては、日本が外貨を得るための重要な産業として養蚕業があった。昭和初期には年間で約40万tもの繭を生産し、世界一にまで上り詰めた。だが、第1次世界大戦などの戦争による影響を受け、繭の生産は一旦減少する。そして昭和30年代から始まった高度経済成長により日本人の所得が増加した結果、国内における着物の需要が高まり、絹が国民に普及し始める。絹の需要が増加すればおのずと繭・生糸の増産計画も立てられるようになり、ピークである昭和44年には戦前の半分程の生産量にまで達した。しかし、高度経済成長による所得増加は、生糸の需要を増加させた一方で、家具の洋風化やマイカーなどの普及も促進させた。その結果、せっかく高まったきもの需要も、次第に洋風化に飲まれてしまい、長続きはしなかった。これが養蚕の衰退へと繋がったのである。
また、外国産生糸の輸入の増加も養蚕が衰退した要因であると考えられている。具体的に国を挙げると、韓国や北朝鮮、中国、ベトナム、ブラジル等である。外国産の生糸は、賃金上昇の影響により、国産よりも低いコストで生産することが可能である。すると、国産の高い生糸よりも外国産の安い生糸の方に需要が高まるようになり、外国産の生糸の輸入が増加した。そして次第に国内の養蚕が衰退してしまったのである。
 四万十川流域における養蚕が衰退したのも、日本で作られた絹の価値が低下したことが要因の一つであることは間違いない。前述したとおり、養蚕の作業は重労働である。常に蚕を中心とした生活が求められるといっても過言ではない。にもかかわらず、絹の価値が下がり、それだけの労働に合った収益が得られなくなり、養蚕から離れた人は増加した。また、若者が地元から都会へ出て行ってしまったことも要因の一つだと考えられる。都会に対して憧れを抱き出ていく人が多く、引き継ぐ者がいなくなってしまったのである。
 ここからは、養蚕を辞めた家庭が何を始めたかについて触れたい。養蚕をしていた人が高齢になったため、辞めた後に何も始めなかった家庭もあれば、新しく何かを始めた家庭もあった。例えば、当時は山のチップが高く売れたため、チップ切りの仕事をする人や、狭い国道を広げる工事が多くなされていたので、土方などをする人もいた。菜花を植えることを勧められた家庭もある。菜花は、秋に種を蒔き、冬から春にかけて収穫するため、四万十川の氾濫の影響を受けなかったからである。私が話を聞いた竹内家では、養蚕を辞めた後、苺の栽培を始めた。辞めた当時では苺農家自体が少なく、1パック約1,000円するほどお金になったからである。先に養蚕から苺栽培へ移行した家庭から苗を分けてもらい、ビニールハウスを建てて、本格的に苺を栽培するようになった。
 このように、昭和60年代になると、様々な要因から養蚕を辞め、別の道へ進んだ者が多く、四万十川流域における養蚕は減少の一途を辿った。その過程でまゆうちわという製品がつくられ、一時期繁栄を見せたが、それも現在では生産を終了し、養蚕は消滅した。次項では、そのまゆうちわについての説明を述べる。

2. まゆうちわ
 四万十川流域で養蚕が減少し始めている頃、養蚕を何かの形として残せないかということで生まれたのがまゆうちわである。まゆうちわとは、うちわの面の部分が全て蚕の糸で作られているうちわのことをいう。まゆうちわを作り始めたのは、大川筋地区の養蚕農家たちだ。岐阜県でまゆうちわを生産しているのを知った養蚕農家たちは、指導員に来てもらって作り方を教えてもらい、生産し始めたのだそうだ。伊与田家が所有していた養蚕専用の倉庫を、使わなくなったのを理由に貸し出し、そこで生産を行っていた(写真13)。しかし生産者も高齢化が進み、まゆうちわが途絶えそうになる中で、高屋健一氏が代わりに引き継ぎ、生産を続けた。

(写真12) まゆうちわ


(写真13) まゆうちわを生産していた建物

 高屋健一氏は当時から現在までも屋形船の船頭をしている。よって当時はまゆうちわの生産と屋形船を掛け持ちしながら行っていた。高屋氏がまゆうちわと出会ったのは平成9年か10年のことである。以前京都で染織をやっていた経験があったことから、まゆうちわの存在を知る機会があり、そこからまゆうちわに興味を持ったのだそうだ。よく、養蚕の復活を望んでまゆうちわを引き継いだのではないかと訊かれるそうだが、決してそうではなく、まゆうちわ自体に惹かれて始めたのだと話していた。
 蚕を飼って育てるという作業を担っていたのは高屋氏一人だけだった。愛媛県から3g程の蚕種を購入し、そこから上蔟する手前まで育てていく。遮光ネットを容器にし、上から桑の葉を与えていた。始めた頃は糸を出し始める状態の見分けがつかず、難しかったと話す。
 5齢になり、糸を出し始めるようになった蚕をうちわの骨組みに這わせる。この作業は高屋氏や地元住民と合わせて行っていた。うちわを回さなければ満遍なく糸を張ってくれないため、朝から晩まで一本一本、うちわを回す必要がある。そのため、昼間のうちは片面につき6,7匹程の蚕を這わせるのに対し、回せない夜には1,2匹に減らして帰っていたそうだ。蚕は器用にうちわの周りに糸を吐いたあと、どんどん内へ入りながら糸を吐く。そうして一気に糸を張らせ終わると、骨組みの周りの部分をハサミで切り落としていた。このような作業の末、一回の蚕につき約100本のうちわを生産していた。まゆうちわは無地のものもあったが、その他にも、以前染織をやっていた経験を生かして、切り絵やブラシで模様を付けたまゆうちわもあった。まゆうちわは少しの手違いでダメになってしまうくらい繊細なものであるため、全く上手くいかず、お手上げになってしまった年もあったのだという。
 養蚕農家がまゆうちわを生産し始めた頃は、1本1万円程の値段で販売され、額縁に入れて飾られるほどの高級品であった。しかしそれでは売れないと考えた高屋氏は、値段を下げて販売した。具体的にいうと、無地のもので一本5,000円、切り絵の模様で7,000円、ブラシで模様付けされたもので2,500円ほどの値段だったそうだ。無地のものが一番よく売れたという。まゆうちわはよく売れた時期があった。地元の直販所であるかわらっこ市にまゆうちわを置いても、すぐ品切れになった。ネット販売も行っており、購入者は新聞などのメディアでまゆうちわの存在を知った人たちで、リピーターが多かったそうだ。作家がうちわの面に文字を書くために購入する場合もあり、県外から問い合わせがくる場合もあった。しかしながら、年々販売数は減少し、最終的には赤字になってしまった。まゆうちわの生産は重労働であるため引き継ぐ者もおらず、今から約4年前に生産を終了した。

(写真14) まゆうちわの作業風景

むすび
 以上が、四万十川流域に位置する大川筋地区および旧西土佐中組の養蚕について記述したものである。それらをまとめると、次のようになる。
1. 四万十川流域における養蚕の戦前のピークは大正から昭和にかけてであり、戦後のピークは昭和40年代である。
2. 四万十川流域で養蚕が盛んになった要因として、四万十川の氾濫による被害をあまり受けなかったことや絹の需要が高まったこと、機械の発達、蚕の品種改良などが挙げられる。
3. 四万十川流域における桑の栽培状況は地形によって様々である。使用していた道具で当時の時代背景を見ることもできる。
4. 養蚕は、重労働かつ蚕中心の生活を求められる。上質な繭をつくるために数多くの工夫をしていた。その分養蚕にまつわるエピソードも多い。
5. 昭和60年代になると、四万十川流域における養蚕は衰退した。その要因として、国内で生産された絹の価値が下がったこと、若者が都会へ出ていってしまい後を継ぐ者がいなくなってしまったこと等が挙げられる。養蚕を辞めて次の仕事を始めた者も多く、現在では消滅している。
6. 衰退の過程で誕生したのがまゆうちわである。地元の人たちによって生産されていたが、約4年前には生産を終了している。

【謝辞】
本稿を執筆するにあたり、多くの方々にご協力頂きました。突然お伺いしたにもかかわらず、貴重なお話をたくさん聞かせてくださった高屋健一さん。いきなりやってきた私に元養蚕農家さんを紹介してくださった弘田晶子さんおよびかわらっこの皆様。当時の養蚕について詳しくお話してくれ、親身になって助けてくださった竹澤香さん。買い物中だったのにもかかわらず、様々なお話をしてくださった高屋孝子さん。養蚕についての話を聞かせてくれた上に、たいへん親切にしてくださった岡郁美さん。養蚕について丁寧に分かりやすく説明してくださった伊与田信子さん。
皆様のご協力がなければ、本論文を執筆することはできませんでした。この場を借りて、心より感謝申し上げます。本当にありがとうございました。

【参考文献】
・高木賢編著,2014,『日本の蚕糸のものがたり―横浜開港後150年 波乱万丈の歴史―』大成出版社
・伊藤智夫,1992,『ものと人間の文化史 絹Ⅰ』法政大学出版局
・伊藤智夫,1992,『ものと人間の文化史 絹Ⅱ』法政大学出版局
・岩井宏實,2013,『民具・民俗・歴史―常民の知恵と才覚』慶友社
・西土佐村史編纂委員会,『西土佐村史 高知県幡多郡西土佐村』高知県幡多郡西土佐村教育委員会事務局
 ・西土佐村史編纂委員会,2009,『西土佐村史:永久保存版』四万十市
・中村市史編纂委員会,1984,『中村史 続編』中村市

中村の喫茶店

社会学部 信田実希

【もくじ】

はじめに

第1章 珈琲館ひいらぎ
1.店主 佐竹洋子氏と喫茶店
2.常連客A氏と喫茶店

第2章 ウオッチ
1.店主 篠川ひとみ氏と喫茶店
2.常連客B氏と喫茶店
3.常連客C氏と喫茶店

第3章 わんもあ
1.店主 黒岩佳男氏と喫茶店
2.常連客D氏と喫茶店

むすび

謝辞

参考文献


はじめに
 本稿では、現在の四万十市にある中村における3つの喫茶店について取り上げる。高知県は全国屈指の喫茶店激戦区といわれている。その中でも今回の調査地である中村は特に喫茶店が多く、「モーニングをしない喫茶店は喫茶店じゃない」といわれるように、モーニングの時間帯が1日の中で最も賑わう時間帯だという。今回の調査では、中村に存在する3つの喫茶店にモーニングの時間帯に訪問し、それぞれの店の店主と常連客の方に話を伺った。本稿はそれらの人々の語りから、各々にとっての喫茶店の存在や役割を明らかにし、まとめたものである。


第1章 珈琲館ひいらぎ
1.店主 佐竹洋子氏と喫茶店
40年ほど前、当時働いていた県の出先機関の上司にコーヒーを飲みに連れて行ってもらった時、砂糖をいっぱい入れたら上司に笑われた、と懐かしそうに語る佐竹氏。この出来事がきっかけで佐竹氏はコーヒーが好きになり、「これならできるかもしれない」と喫茶店を始めようと決意したという。家族からの反対があったものの、最終的には母から「中村で一番人通りの良いところ」を探してくるという条件付きで承諾を得た。それなら素人でもできるかもしれないという理由だった。
当時の中村には100件を超える喫茶店があった。そこで佐竹氏は一つも喫茶店がなく、かつ人通りの多かった天神橋商店街を見つけてきた。そして昭和49年7月4日、「ひいらぎ」を開店した。「ひいらぎ」という名前は、一年中葉が落ちないひいらぎのように、という願いと魔除けの意味を込めて前の職場の上司がつけてくれたものだという。
開店当初は独占企業と言われたが、天神橋商店街だけで7件もの喫茶店が存在する喫茶店ブームの時代も訪れた。以前は家族でモーニングに来る人も多かったという。少しでも多くの人がモーニングを利用できるようにと日曜日は他の曜日よりモーニングの利用時間を1時間長く設定した。佐竹氏の話からは、2階建ての店が大勢の人で賑わっていた風景が想像できた。
しかし最近では郊外に多くの大型チェーン店ができ、夜の外食が増加したために、家族連れでモーニングに来る人が減ったのではないかと佐竹氏は言う。喫茶店ブームの時代と比較すると、お客さんは減ってしまった。それでも開店当初から来てくれているお客さんや、毎日決まった時間に来てくれる常連さんがいる。佐竹氏は「大きな変化なく、一緒に働く従業員さんにも恵まれずっとマイペースでやってきた」と笑顔で話してくださった。
佐竹氏の1日は、喫茶店を開けるところから始まる。営業時間を短くすることや、他人に場所を貸すように提案されることもあるが、そのつもりはないという。この日課ができなくなるまで喫茶店を続けるつもりであると佐竹氏ははっきりという。喫茶店の店主という職業は、佐竹氏にとっての天職なのだ。


写真1 天神橋商店街の入り口


写真2 天神橋商店街に位置するひいらぎ


2.常連客A氏と喫茶店
中村で着物教室の講師をしているというA氏。ひいらぎの近くに引っ越してきたことを機に、定休日以外は毎朝モーニングを食べるためにひいらぎに訪れるという。そのような日々はもう10年以上続いている。長年ひいらぎに通う理由を伺うと、少し甘めの味噌汁の味付けが好きだということ、お店の落ち着いた雰囲気が好きだからとのことだった。いつもおむすびかホットドックのモーニングを頼むと決まっていて、座る席まで決まっているのである。A氏の場合、開店時間の8時に来店し、1〜1.5時間滞在する。以前はご主人と来ていたが、最近は一人で来ることが多いという。モーニングの後は、着付け教室や趣味の卓球というように曜日ごとに決まった予定があるが、モーニングの後は一度家に帰るという。これは、モーニングのためだけに家を出るということであり、ひいらぎでモーニングを取ることがA氏の中で習慣となっており、1日の始まりを意味していると言えよう。


写真3 ひいらぎの店内。右に見える囲いの中がA氏の決まった席である。


第2章 喫茶ウオッチ


写真4 ウオッチの入り口。天神橋商店街近くの京町通りに位置する。

1.店主 篠川ひとみ氏と喫茶店
 父の代からの喫茶店を引き継いで4年目になる。篠川氏が小学生の時は、まだ周りに喫茶店が多くなかったという理由で父が始めたという。喫茶店を始める前、篠川氏の母は毛糸屋と編み物教室をしていたが、どうしても夏季と冬季の客数の差が大きかった。一年中絶え間なくお客さんが来るようにという願いを、針が回り続ける時計に重ねて、篠川氏のご両親が「ウオッチ」と名付けたという。
篠川氏は、京都の短大から戻った後、店を手伝いはじめた。それを機にコーヒーが好きになり、いろんな人が来ることが楽しいと思うようになり、「やってみようかな」と思ったという。「余計なものは嫌いな人だった」という篠川氏の父は、あくまでコーヒーがメインの空間であったが、店内のジャズの音楽とオーディオにもこだわりを持っていた。そのこだわりのオーディオを見るために遠くからやってくる人までいたという。
篠川氏へと代替わりした後、篠川氏は自分が気に入った作家のハンドメイド雑貨を置くようになった。その結果、それらを好む人が来店するようになり、新たな人のつながりが生まれたという。趣味を通して人がつながる場を提供するという意味では、父の時代から変わらない。篠川氏は喫茶店を「人のつながりが生まれる場」と表現する。最近はFacebookを始めたことにより若者や女性客が増加したという。新たな人々のつながりを生む可能性を持っている。
 篠川氏は、喫茶店が少なくなりつつある今、人々にとってはかえって珍しいのではないか、と今後もいろんな人が来るだろうと予想する。「見た目よりハードな仕事ではあるが、これからも変わらないスタイルで頑張っていきたい」とまっすぐな眼差しで語る姿が印象的であった。


写真5 篠川氏が販売するハンドメイド雑貨

2.常連客B氏と喫茶店
ウオッチのすぐそばに住むというB氏は、週に2,3回モーニングの時間帯に来店する。B氏のご主人は、別の喫茶店が行きつけで、夫婦で違う喫茶店に行くというから興味深い。B氏は、スープが飲みたくなったときウオッチに来るという。以前は美容師として働いており、「喫茶店に行きよる暇なんてなかったわね」と振り返る。自分のお客さんを娘に引き継いでもらい、現在は娘の手伝い程度で働いているという。仕事が気楽になり、喫茶店に来る時間ができたというわけだ。朝食もこれまでは自分の家で作っていたが、毎日ご主人と自分の体に気をつかって朝食を作らなければならないことに疲れを感じることもあり、「昼と夜は自分で作るから、朝はちった力をぬいてもいいかなあ」という思いで朝はモーニングに来るのだと話してくださった。B氏が喫茶店に訪れる目的は家事の負担を減らすことである。おいしいものを手軽に食べたいという思いもあるのだそうだ。来たときは、約1時間、本を読むなどして滞在する。息抜きの場としても利用されている。

3. 常連客C氏と喫茶店
「コーヒーがおいしいんです。それとひとみさんが大好きで。」と話すC氏は、平日のみならず週末にもよく訪れるという。リラックスしたいときは必ず来るそうだ。C氏は中村の出身ではないものの、中村の高校に通っていた。中村駅から高校まで歩く道のりにウオッチがあった。当時は高校生同士が制服で喫茶店に入ることが禁じられていた時代で、前を通るたびに、高校を卒業したらウオッチに入って雰囲気を味わいたいという憧れが募ったと当時を思い出しながら語ってくださった。高校卒業後に初めて友人と来て念願がかなった、と嬉しそうに言う。その後、高知県外の大学へと進学したが帰省の際には、友人との待ち合わせ場所として利用し、決して途絶えることはなかったという。今は仕事で忙しい毎日ではあるが、30分でも時間があれば行きたい場所であるそうだ。基本的には、一人で来ることが多い。モーニングに来る理由としては、少し楽をしたい、おいしいコーヒーが飲みたいとのことであった。ウオッチに来て、ジャズの音楽を聴きながらコーヒーを飲めば、悩んでいることもまあいいか、と思えてしまう。喫茶店に訪れることで、家などの見慣れた景色から離れることができるのだという。C氏にとって喫茶店は、リラックスするための場所という大きな役割を持っている。また、週末にはご主人とくることもある。互いに忙しい生活のため、喫茶店が夫婦のコミュニケーションの場となっている。


写真6 ウオッチの店内


第3章 わんもあ


写真7 わんもあの外観。天神橋商店街と同じ通りに位置する。

1.店主 黒岩佳男氏と喫茶店
 中村出身の黒岩氏は、高校卒業後、横浜で5年ほど働いたのち、故郷に戻り「わんもあ」を始めた。40年ほど前のことである。きっかけは、「自分の家で何か始めたら」という母の言葉であったという。当時、喫茶店は自宅でできる仕事だという認識が持たれていた。
「わんもあ」という名前は、お客さんに「もう一回」とまた来てほしいという気持ちが込められている。わんもあは、モーニングメニューのボリュームと種類が自慢である。初めは今ほどボリュームがなかったが、喫茶店の激戦区であったために、各店が競争状態になり、「差別ができてしまうからつけざるを得ん」状態であったために今の量に行きついたのだと当時を振り返る。「今あれ(=昔の状態)やったらできゃあせん」という黒岩氏の言葉が、かつての中村の町の喫茶店の多さを物語っていた。
 中村がそれほどの喫茶店の多さを誇ったのは、喫茶店へのニーズが多かったからではないかと黒岩氏は分析している。例えばモーニングにおいては、家でトーストを焼いてコーヒーを飲む手間を考慮すると、喫茶店に行けば手間がないうえに価格がお手頃であるために人々に必要とされ続けているのではないか、ということだ。それゆえ、黒岩氏は「便利」であるということが喫茶店の役割であると感じているという。
 最近は黒岩氏も大型店やコンビニエンスストアの影響によるお客さんの減少を感じている。しかし、わんもあには決まった常連さんがおり、それらの常連さんは8時のオープンと同時にやってくる。もう一人の従業員である女性は、常連さんの頼むものを把握していて、店に入ってきた常連さんの顔を見ると、何も聞くことなく黒岩氏にオーダーを通す。そこには、わんもあと常連さんが築き上げてきた関係性がみえる。
 黒岩氏は14〜15時になると店を閉め、買い出しに出かける。その後の時間を使って次の日のために仕込みをする。時にその仕込み作業は20時近くまで続くこともあるそうだ。一日の大半を喫茶店に費やしている。「わんもあ」は黒岩氏の人生の一部である。


写真8 わんもあのモーニングメニュー。安さとボリュームが特徴。

2.常連客D氏と喫茶店
D氏は、わんもあのすぐ近くに住み、そこで美容師として働いている。もう50年のキャリアだという。予約をしてくれる人のみで昼までの営業だ。毎日仕事を始める前に、モーニングを取るためわんもあを訪ねる。店の奥には、1人できた人々が集まるテーブルがあり、そこに座る。1人で来た人がそれぞれ場所を使ったらカップルなどで座る人に悪いから、という理由で始まったものであるというが、今ではその奥の席に座る人はほとんど決まっており、一つのコミュニティを形成しているように見受けられた。いつも相撲や天気の話をして楽しむようで、「家族のつもりです」とD氏は嬉しそうに言う。
 D氏は、わんもあに来るようになって20年ほどになる。子供が巣立ってひとりになったとき、息子に朝は必ずわんもあでモーニングを食べて、人としゃべって1日の元気を養うように言われたことが始まりだという。「3日来んかったら覗きに来て。倒れちょうか分からん。」と伝えてあるのだそうだ。そこには、わんもあにいる人々への信頼が垣間見え、わんもあに来るということは、孤独を防ぐという大事な役割も兼ねていることがわかる。そのD氏の息子が中村に帰ってきた時もこの喫茶店に来るのだと嬉しそうに話してくださった。誕生日になると息子が、「このお金でわんもあに行ってくれ」とお小遣いをくれるそうだ。
 初めは、息子の勧めから始まったが、今では「私の憩いの場なんです」と穏やかに話すD氏。マスターが必要以上に話に入ってくることなく、小さな町でも自分が話したことが外に漏れないという安心感が長年通う理由の一つだという。D氏にとっては、わんもあに通うことが生きていく上での楽しみになっている。


写真9 わんもあの店内。1人で来た人々が集まる席。

むすび
 本稿では、中村に存在する3つの喫茶店で、喫茶店の店主・常連客という2つの立場から聞き取り調査を行った内容に関して記述してきた。それぞれの喫茶店で、今回の聞き取り調査を通して明らかになったことは、以下の通りである。

1.珈琲館ひいらぎ
・店主の佐竹氏は、上司とコーヒーを飲んだことがひいらぎを始めるきっかけとなった。
・店を毎朝開けることができる限り、佐竹氏はひいらぎを続けていく。
・常連客のA氏にとって、ひいらぎに訪れることは1日の始まりを意味している。

2.喫茶ウオッチ
・店主の篠川氏は、父の手伝いを通してウオッチを引き継ぐ決意をした。
・篠川氏にとっての喫茶店は「人とのつながりの場」である。
・常連客のB氏にとって、ウオッチにおけるモーニングは家事の軽減・息抜きという役割を持っている。
・常連客C氏はリラックス・夫とのコミュニケーションの場としてウオッチを利用している。

3.わんもあ
・店主の黒岩氏は、母の勧めによって自宅でできる喫茶店を始めた。
・黒岩氏は喫茶店の役割について、便利さを提供することであると考えている。
・常連客D氏は、わんもあで形成されるコミュニティに属しており、それは孤独を防ぐという役割も担っている。

謝辞
 本論文の執筆にあたり、関わってくださったすべての皆様にこの場を借りてお礼申し上げます。皆様のあたたかい協力があり、本論文を執筆することができました。突然の訪問の上、お忙しい時間帯であったにも関わらず、お話を聞かせてくださり、また常連のお客様を紹介してくださった珈琲館ひいらぎの佐竹様、ウオッチの篠川様、わんもあの黒岩様、誠にありがとうございました。

参考文献
総務省統計局,2017,「喫茶店の『いま』」.

山を下りた人々 −旧幡多郡後川村城の川の事例

社会学部 松岡有紀

【目次】
序章 
第1章 炭焼長者のムラ
 第1節 旧幡多郡後川村城の川
(1) 城の川の暮らし
 第2節 炭焼き又次郎
(1) 炭焼き伝説
(2) 京塚さま
(3) 2月卯の日の祭り
第2章 民宿こばん
 第1節 今倉慶子氏
(1) 旅館を始めたきっかけ
 第2節 屋号「こばん」
(1) 屋号の由来
第3章 今倉商店
 第1節 今倉渉氏
(1)  城の川を下りるきっかけ
(2)  城の川における母の記憶
 第2節 中鴨川の暮らし
(1) 「今倉商店」
第4章 移住先での炭焼き
 第1節 今倉細美氏
(1) 城の川における炭焼き
(2) 炭焼きを中断するまで
 第2節 炭焼きの再開
(1) 炭焼道場
結語
謝辞
文献一覧

序章 
高知県幡多郡(現四万十市)後川村に位置した城の川。現在は、四万十市奥鴨川地区を構成するひとつの地区であり、更に奥鴨川地区の入り口にある人一人やっと歩ける山を登った山中の集落を指す。

(地図:国土地理院1:25,000地形図「蕨岡」「川登」)

第1章 炭焼長者のムラ
1. 旧幡多郡後川村城の川
 城の川地区にはかつて8世帯が暮らしており、明治頃には定まっていたと言う。一番多いときで70人ほどがこの集落で暮らしていた。8世帯はすべて百姓で、自給自足の生活を営んでいた。米のほかに味噌や醤油を作り、冬の間は炭焼きをしていた。
2. 炭焼き又次郎
2-1. 炭焼伝説
 城の川地区には「炭焼き又次郎」という伝説が残っている。ここでは、4つの文献に記載された炭焼伝説について紹介したい。
中脇初枝「ちゃあちゃんのむかしばなし」
 むかし、幡多の山奥の鴨川の、そのまた山奥の城の川というところに、又次郎という働きものの男がおり、炭を焼いて暮らしておりました。
 又次郎は炭がまの中に香の木(花柴)を入れて焼いたので、それはそれはよいにおいが、あたり一面にただよいました。そのけむりは雲をつきやぶって、極楽までとどきました。けむりが極楽にとどくたびに、炭がまのまわりには金の雨が降りました。
 けれども、又次郎はそんなことを気にもかけず、毎日炭を焼きつづけました。炭が焼けると、下田の港まで運んでいっては、米や味噌とかえてきました。
 ちょうどそのころ、京の鴻池という長者の家に、お藤という、それはそれはきれいな娘がおりましたが、どうしたことか、お藤を嫁にほしいというものがありません。いつまでたっても、お藤は嫁に行けないので、易者に見てもらうと
「遠い遠い土佐の国に、又次郎という働きものがいるが、そのものよりほかには縁がない。」
と言われました。
 そこで、お藤は船に乗って、はるばる土佐の国までやってきて、下田の港に着きました。船からおりると、炭問屋の金井屋久左衛門というひとに又次郎のことをきいて、城の川めざし、川べりをずぅっと歩いていきました。
 お藤が板の川まで来たときに、キンマ(木材などを運ぶ、そり形の道具)で炭を運んでいる若者に会ったので、又次郎の家をききました。すると、若者は
「又次郎はわしだが。」
と、言いました。お藤はすっかり喜んで、易者に言われ、又次郎の嫁になるためにここまで来たことを話しました。
 又次郎はおどろいて
「めっそうもない。わしのような貧乏人が、京の長者のおじょうさんなんかと一緒になれるもんか。」
と言って、ことわりましたが、お藤は聞いてくれません。
 しかたがないので、又次郎はお藤を自分の家までつれてもどりました。けれども、その家は、家とは名ばかりのぼろぼろの小屋でした。
 お藤は、ふところから小判を出して、又次郎に、これで必要なものを買ってくるように頼みました。
 又次郎が小判を持って、岩田まで来ると、たんぼでかもが遊んでおりました。小判の値打ちを知らない又次郎は、よし、あいつをお藤さんに食わせてやろう、と思い、小石がわりに小判を投げつけました。
 ところが、小判はかもに当たらず、たんぼの底へ沈んでいってしまいました。
 又次郎が手ぶらでもどって、かもに小判を投げたが当たらなかった話をすると、お藤はおどろいて、小判の値打ちを言ってきかせました。すると又次郎は
「あれが黄金か。あんなものなら、わしの炭がまのまわりにいくらでもある。」
と言いました。
そこで、又次郎に連れられて、お藤が炭がままで行ってみると、あたりは一面、ぴかぴかの黄金の山でした。
 それから、ふたりは、その黄金をダス(炭俵)につめて、京のお藤の親に送り、売ってもらったので、又次郎の家は大金持ちになり、炭焼き長者とよばれるようになりました。
松谷みよ子、桂井和雄、市原麟一郎共著「土佐の伝説」
 中村の町の北を流れる後川をつけて12キロばかりさかのぼり、山あいの中鴨川というところには、炭焼長者伝説で知られる炭の倉さまという小さな祠がある。
 昔、この山奥に炭焼き又次郎という若い男が会った。あまりの貧しさに嫁にくる娘もなく、毎日真っ黒になって炭を焼いていた。そのころ、京の都に名代の長者があって、ひとり娘のお藤は美しい娘であったが、年ごろになっても縁がなく両親を心配させていた。あるとき、法者に占うてもらうと、土佐の国の幡多の山奥鴨川というところに住む炭焼きの又次郎というものが、前世からの夫になる人といわれた。お藤は両親にすすめられ、ただひとり海山の旅をつづけ、幡多の山奥まで尋ねてきた。さびしいところで、谷あいの道を通る人影も見えない。
 そのとき、向こうから炭で真っ黒になったぼろ着物の若ものが、炭俵をかついでくるのに出会った。お藤はこれさいわいと若ものに声をかけ、「鴨川の炭焼き又次郎というお方をご存知では」と、問いかけると、「又次郎はわしじゃが」と、いうた。
 お藤はたまげたが、京から尋ねてきたわけを話し、又次郎の家へ連れて行くように頼んだ。又次郎にはまったく思いもかけんことで、それに育ちのよい京娘を連れて行っても、お藤を泊めるところがない。困りきった又次郎は断りつづけた。けれどもお藤は今は覚悟のうえのこと、たっての願いとききいれず、又次郎もとうとう折れて、自分の小屋へ案内することに   した。お藤がたずねてみると、それはまた話にもできんほどの貧しい暮らしぶりであった。お藤は親もとから持ってきていたお金の中から、小判二枚を出して又次郎に渡し、これで道具類を買うてきてもらうことにした。
 又次郎は小判を見たことがない。後川沿いの岩田というところまでくると、田の中に鴨が遊んでいた。又次郎は小判一枚を鴨に投げつけた。山に帰ってきた又次郎は、お藤に小判のたいせつさを説かれ、そんなものなら炭を焼いたかす灰はみんな黄金じゃと答える。お藤とともに炭窯の裏へまわってみると、かす灰の山はぎらぎら黄金に輝いて見えた。ふたりはこの黄金を炭俵に混ぜて京に送りつづけ、やがて京へ上って鴻ノ池を名のったという。
③ 後川村教育委員会「後川村史」
 天正年間、京都に藏屋芿次郎という者があつて、家は貧しかつたが正直者で信心深い人であつた。この芿次郎に一人の娘があつて藤と言い、美しく、かしこく、すなおな子であつた。父が貧しかつたので、家計を救うために、名を若藤と變えて、身を島原の廓の三賓屋に賣つて遊女となつた。若藤は日頃、芿水の觀音様を信仰して、日參をしていた處、一晩夢に「土佐國幡多郡加茂川村の堺駄場に炭燒又次郎と言う者があるが、その妻となつたならば、富貴繁榮するであろう」と觀音様のお告げがあつた。若藤はまことに有難い事だと思つて、大いに喜んで、早速三賓屋の主人に許しをもらい京都を出る發し、大阪から船に乘つて中村に着き、それから加茂川村堺駄場に來て又次郎に會い、妻にしてくれる様褚んだ處、又次郎は答えて、炭燒の身分で京都の美女をめとる事はふさわしくないからと之をことわつてしまつた。若藤は大變困つてしまい、又次郎の炭山のもとじめである中村の叶屋(カナイヤ)六右ヱ門に會つて、事の次第をすつかり話して褚んだ。そこで六右ヱ門は若藤を連れて又次郎にこんこんと説きすすめて遂に婚姻させることになつた。
 又次郎は後に名を貞四郎と改めて、毎朝香の木を炭に燒いていたが、一日妻の若藤が炭の中をかいた處、丁銀小玉などおびただしく出て來た。若藤と貞四郎は大へん喜び叺の中に長炭を立て其の中に丁銀小玉等を四貫目入れて、一俵を七貫目として、此の様な叺を七十五俵作つて、六右ヱ門の協力を得て、下田浦に廻送して船に積み込み、大阪に着け、直ぐ様京都の父藏屋芿次郎方に送り届けた。貞四郎は其後呉服屋を營んで、家名を炭藏屋と稱して富貴繁榮した。
中村市史編纂委員会「中村市史続編」
 中鴨川の谷川を渡って山道を二キロあまり登ると高い山を望む山腹に現在も京塚神社といって炭焼きのおくらさまの名で知られた小さいお宮があります。
 このお宮の由来についておもしろい話が伝わっています。
 昔、この山奥に炭焼きで有名な又次郎という者が住んでおり、大変貧しい暮しのため嫁にくる者もなく、一人さびしく山で暮し炭を焼いては遠くはなれた中村の町まで運んで商いをしながらその日暮しの貧しい毎日を送っていました。
 丁度そのころ、京都にはある長者がおり、この長者にお藤というそれはそれは美しい娘がおりました。しかし、どうしたことか、年頃になっても縁がなく、両親は大そう心配をしておられました。
 そんなある日のこと両親が易者に見てもらうと、
「あなたの娘さんの御縁は、土佐の国、幡多の中村より北の方角に鴨川という所があり、そこに住む炭焼きの又次郎という男と一緒になると大そう幸せになる」と教えられ、お藤は両親のすすめもあって、たった一人京都からはるばる遠い山奥まで訪ねてきました。
 中村よりずっと北に入った川岸にたどりついたお藤は旅でよごれた自分の身体を洗い、化粧をなおし、又次郎を訪ねるため、さらに山奥に入り歩きつづけました。
 人通りもなく心細さのあまり立ちすくんでいると、顔も手足もまっ黒になっている男が、炭の俵をかついでやってくるので、お藤はこれさいわいと思い、
「炭焼きの又次郎さんというお方を知りませんか」と聞くと、その男はびっくりし、
「わしがその又次郎じゃが。今から中村の町に商いに出るところじゃ」と答えました。お藤は京から長い旅をつづけてわざわざ訪ねてきたわけを話しました。
「今からどうぞあなたさまのそばにおいて下さい。」とたのみました、又次郎にしてみればまったく思いもかけないことゆえ、こんなお姫さまのように美しい娘さんをつれて行っても泊らすところもないので困りはてて断りましたが、お藤は
「今は覚悟の上でございます。」とききいれず、又次郎もしかたなくお藤をつれて自分の住む山小屋につれていくことにしました。
 お藤がたどりついたところは、それはそれは話にならんほどの、貧しい暮しぶりで、お藤はただただ驚くばかりでありました。
 そこでお藤はさっそく親からもらってきていたお金の中から二枚の小判を出し、又次郎に渡し、これで中村の町からいろいろな道具を買ってくるようにたのみました。
 又次郎にしてみれば小判は初めてのことゆえそれがどんなに尊いものであるかを知りません。川下の岩田にきたところ、田の中で鴨があそんでいたので、これを撃ちとってやろうと考え、持っていた小判の一つを石のかわりになげつけました。
 すると小判は鴨にはあたらず遠くはなれた沼の中に沈んでしまい、又次郎は残った一枚の小判を持って町に出かけました。
 小判を出すといろいろおどろくほどのものが買え、又次郎がかつぎきれんほどの道具を買い入れ、お藤の待つ山に帰りました。
 又次郎は一枚の小判は鴨を撃って沼の中に投げすてたことを話すと、お藤はびっくりし
「あれは小判という大切な宝物です。あの小判一つを持ちたい為に世間の人はみんな苦労しているのです」とおしえると又次郎は
「あんなものなら炭焼き小屋のうちに行けば、いくらでもある。炭を焼いたスパイ土がみんなあんなものに変る」と云うのでお藤が炭がまのところに行ってみるとなるほどそこらあたりのスパイの山がみんな黄金にギラギラ光っておったということです。
 この二人は毎日のように、しきびの木を焼いては、出来た黄金を炭の中につめ炭俵のようにして下田の港から京におくりつづけました。お藤の里もあまりの仕送りに大変驚きました。
 やがてこの夫婦は京に上がり鴻ノ池を名乗って大金持ちになったといわれ現在もこの姓を名乗る家系には金持ちが多いといわれています。
2-2.京塚さま
 これらの炭焼伝説の登場人物である又次郎が祀られたのが、城の川に存在した「京塚さま」である。京塚さまは、城の川で暮らしていた8世帯の家の更に奥地に存在した。京塚さまには、商売繁盛、良縁のご利益がある。

(写真:現在の京塚さま、右奥の岩が御神体であったのではないかと言われている)
 現在この神社は奥鴨川全体の氏神五社神社境内に移設・合祀されている。

(写真:五社神社に合祀された現京塚さま)
  2-3. 2月の卯の日の祭り
 この京塚さまでは、昭和30年ごろまで、旧暦2月の卯の日に祭りが催されていた。この祭りの日は、奥鴨川一帯の住民のみに止まらず中村方面からの参拝客が城の川に溢れていたという。祭りの日は、京塚さまの周りに屋台や出店が出ていた。また、素人すもうをとるなど、催し物も行われていた。
城の川で暮らす8世帯は、この日ばかりは無礼講だとお寿司などを参拝客に振る舞った。しかし、炭焼き伝説にある「又次郎の炭窯の炭を持ち帰ると黄金に変わる」という迷信を信じる参拝客へのいたずらとして、参道に炭をまく住民もいたという。

第2章 民宿こばん
1. 今倉慶子氏
1-1. 旅館を始めたきっかけ
 四万十市で民宿を営む今倉慶子氏は、かつて城の川で暮らしていた住民のうちの一人である。幼少期を城の川で過ごし、1954年家族とともに城の川を出て現在の四万十市役所付近で旅館を始めた。もとより母の知り合いが四万十市で旅館を経営しており、勧められたことが城の川を下りた大きなきっかけである。また、城の川を下りて旅館や民宿を始めた家は、慶子さん一家のほかに2軒あったという。建物の老朽化とともに昭和51年に場所を移った。また、旅館より民宿の方が親しみやすいのではという考えのもと、移設とともに旅館から民宿へと変化した。

(写真:民宿「こばん」)
2. 民宿「こばん」
2-1. 屋号の由来
 屋号「こばん」には、炭焼き伝説が関係している。
 
まず、”こばん”という屋号を初めての人に話しますと、
はあ?ご飯ですか?おばんですか?
で、「お金のこばんです」と言い直すと、さすがに伝わります。

ストレートでは50%位の割合ですんなりと伝わりません。
それくらい、馴染みがない響きなんですね。

その次に聞かれるのが、なんで”こばん”なの??
では、その由来をお答えしましょう。

(中略)

四万十市 奥鴨川 城の川(じょうのかわ)。
市街地から約14km離れた四万十川支流の上流に位置し、
今は住む人がいなくなってしまった、山上の集落です。
ここが創業女将の故郷です。


五社神社の向かって右側に常盤神社という小さなトタンで作った社があります。
そこに炭焼き又次郎を祭った京塚さんのご神体をおろしてきてるそうです。

(中略)

炭焼き又次郎が住んでいたとされる場所に
京塚さんと言われる神社を建て、お参りすると
商売繁盛、良縁のご利益があったそうです。
昭和30年頃まで、旧暦2月卯の日にお祭りが催されていたそうで、
城の川まで鴨川の麓(上写真の神社)からでも1時間ちょっとかかります。
当然、徒歩登山です。それでも、幡多郡内からたくさんの人が集まり、
列をなしてご利益頂くために山道を上っていったそうです。

(中略)

とても長いお話でしたが、
そんな故郷の昔話に思いを馳せ、
「こばん」と名付けました。

(引用:四万十市の民宿 隠れ宿”民宿こばん”紹介ブログ)
 このように、こばんは炭焼伝説に由来していることがわかる。城の川を下りた今も、屋号として、城の川がかつての住民である慶子氏のそばにあることが分かる。

第3章 今倉商店
1. 今倉渉氏
1-1. 城の川を下りるきっかけ
 昭和5年、今倉渉氏は城の川で生まれた。小学生までは、奥鴨川地区の学校に通い、中学生からは、少し離れた利岡にある学校に通った。昭和27年、22歳のころに城の川を下りるまでは、稲作や炭焼きを行い、百姓として生計を立てていた。城の川のふもとにある、中鴨川では、商売ができるのではないかと思ったことがきっかけだったという。
1-2. 城の川における母の記憶
 四万十市奥鴨川地区を構成する一つである中鴨川で、今倉渉氏は現在も暮らしている。渉氏の母乾氏は、城の川一の物知りであったという。城の川では、養蚕を行い独学で学んだ機織りをして暮らしていた。また、城の川地区や、幡多に残る諸民話を、近隣の子供に話して聞かせることが多々あった。炭焼伝説もその一つである。
2. 中鴨川の暮らし
2-1.  「今倉商店」
昭和27年、雑貨店「今倉商店」を開業すると、酒やみそ、しょうゆの卸売りや精米を行い、奥鴨川地区へ配達を行っていた。また、奥鴨川地区には以前7軒もの店が存在し、渉氏のお店のほかに、魚屋、駄菓子屋、酒屋、飲み屋などがあった。民家だけでなく、飲み屋への商品の配達も行っていたという。繁忙期は正月前であり、奥鴨川の世帯を一軒ずつまわり、精米を行った。このように、今倉商店は平成17年に店を閉じるまで、53年間奥鴨川地区の暮らしとともにあった。

第4章 移住先での炭焼き
1. 今倉細美氏
1-1. 城の川における炭焼き
 今倉細美氏は、前章に登場する今倉渉氏の2つ年下の弟である。同じく城の川で生まれ、20歳の時に下りるまで城の川で暮らした。炭焼伝説が残っている通り、幡多は大変炭焼が盛んな地域であり、例によって城の川もそのひとつであった。城の川地区では、竹炭を生成しており、農作物の取れない冬の間、住民は炭焼に徹していた。
1-2. 炭焼を中断するまで
 細美氏は、昭和27年20歳の時に城の川を下りると、城の川のふもとにある五社神社から20分ほどの奥鴨川地区内で生活を始めた。城の川を下りてもなお、生業を炭焼とし、昭和40年四万十市具同田黒に移住をしても炭焼を続けた。
 しかし、電気・ガスなどの発達により炭焼を生業とすることに限界を感じ、昭和42年35歳の時より近隣の製材会社で勤務を始めた。勤務する中で、城の川の暮らしを思い出し、懐かしむ瞬間があったと語っている。
2. 炭焼の再開
  2-1. 炭焼道場
 細美氏は定年後、具同田黒にある自宅の近くにスギの皮ぶきで炭焼き小屋を建設し、中にはブロックを積み上げた炭焼窯をつくった。城の川への思いが起こした行動であった。町の中での炭焼きは瞬く間に評判になり、新聞の取材を受けるほどであったという。また、新聞の取材を受けたことで、記事を見た夫婦が細美氏のもとに、炭焼き体験をさせてほしいと訪ねてきた。細美氏はこれを機に、炭焼き体験教室を開設し、「炭焼道場」と名付け80歳で窯を閉じるまで続けた。

(写真:細美氏が焼いた竹炭)

結語
 本調査は、かつて高知県四万十市奥鴨川地区城の川で暮らし、現在は城の川を離れた人々の人生を追うことにより、人々の心に残る城の川への思いを明らかにした。第2章では屋号、第3章では生活の場、第4章では炭焼を通し、人々の心に今もなお城の川における暮らしが色濃く残っていることが分かった。また、城の川で暮らした人々のつながりが、現在もなお続いているということも分かった。

謝辞
 本論文の執筆にあたり、大変多くの方々にご協力をいただきました。民宿の経営でお忙しい中、たくさんのお話を聞かせてくださり貴重な資料を見せてくださった民宿こばんの女将の今倉慶子氏、ご子息の達也氏、奥鴨川地区に関する貴重な資料を見せてくださり五社神社また奥鴨川地区一帯を車で案内してくださった今倉渉氏、貴重な竹炭を見せてくださり、自宅付近を案内してくださった今倉細美氏、以上の皆様の協力なしには、本論文を完成することはできませんでした。
 皆様との出会いに感謝し、お力添えいただいたすべての方々にこの場を借りて心よりお礼を申し上げます。本当にありがとうございました。

参考文献
中脇初枝,2016,『ちゃあちゃんのむかしばなし』福音館書店
松谷みよ子、桂井和雄、市原麟一郎共著,『土佐の伝説』角川書店
後川村教育委員会,1954,『後川村村史』後川村役場
中村市史編纂委員会,1984,『中村市史続編』中村市

四万十川観光とセンバ船

【目次】
はじめに
第1章センバ船の時代
(1)センバ船とは
(2)センバ船の隆盛
(3)センバ船の衰退
第2章観光開発と屋形船
第3章観光船としてのセンバ船
(1)植田英久氏とセンバ船
(2)センバ船の現状
むすび
謝辞


はじめに
日本最後の清流とうたわれる四万十川では、かつてセンバ船と呼ばれる船が多く運航し、重要な物資を町から町へ、町から港へ運搬していた。多くの要因の重なりで一度完全に見られなくなったセンバ船は観光船として現在復活している。この実習報告は、過去は運搬船、現在は観光船として形を変え復活したセンバ船について取り上げるものである。

1.センバ船の時代
1.1センバ船とは
センバ船の具体的外観説明と用途の説明
まず初めに、センバ船の説明を行う。センバ船は縦に高くマストを張る大きな帆かけ船である。

(写真1  センバ船 舟母浪漫 松廣屋公式ホームページより)
写真のようにマストに4反の帆を張っている。縦に大きく白が映え、冴え冴えと美しい船である。東京都杉並区の小学校5年生理科の教科書に風力で動く船として掲載されたこともある。西土佐江川崎より上流では高瀬舟下流ではセンバ船と呼ばれる。木炭や生活物資などを河口にある下田港と上流の間を運ぶ船である。下りに約1日、上りに約3日かかったそうだ。この時代の四万十川は現在の1.8mも高く平水であったため1日で下ることができたが、現在ではとても1日や2日で下れないだろうとのことだ。

(写真2 四万十川)
「センバ=舟母」の由来
センバ船は主に二人一組になって舟を操る。若い男二人組の時もあるが、多くは夫婦で運航する。センバ船は下田港まで下った後、舟をまた上流までもって行かねばならない。この上りの作業が大変である。東風を利用するのだが、風がないときは妻が河原から舟を引っ張る。ここから「センバ=舟母」と呼ばれるようになったという説が有力である。また一説には、他の漁師船よりもセンバ船が大きいことから「舟の母、舟母=センバ」とする説もある。近年は水量が減り、上流にもっていくのがより難しくなっている。
四万十川とセンバ船
センバ船は多い時には120~135艘もの舟が運航していて船頭も多数いた。個人的に2艘ほどのセンバ船を所有した船頭もいたそうだが、大半は商家が所有しているそうだ。四万十川は自然資源が豊富であり、四万十川流域には蛇紋石と呼ばれる石が採れる。蛇紋石は丁寧に磨き上げるとヒスイのように深い緑色をした美しい宝石になる。他にも何種類もの魚がいる。四万十川下流域は海水と淡水が混じる汽水域であるため多種多様な種がたくさんいる。センバ船の上から四万十川を覗き込むと、清らかな水の中に魚が何層にも重なって泳いでいるのが見えるそうだ。昔は青のりや魚もたくさん採れたが近年は温暖化のせいもあり、魚も随分と減っている。海水温が上がるとアユは死んでしまうのだ。また、そういった魚は海水温の低い方へ行ってしまうため、夏は本川からアユが少なくなっている。
1.2センバ船の隆盛
センバ船と中村・下田の街
下田港は昔、日明貿易の際に使われることもあった港である。現在は河口改修のため閉じられている。

(地図 1 中村・下田周辺地図)
地図中央が旧中村市である。これよりも上流にセンバ船の出発地として栄えた西土佐口屋内、江川崎がある。この大きく蛇行する四万十川がセンバ船の運航ルートである。口屋内・中村を中継地点として地図右下にある下田港へ木炭・生活物資を運ぶ。多くの船頭は帰りに中村や口屋内で娯楽を楽しんだそうだ。四万十の集落には木炭や薪を集積している商人がおり、中村・下田の地区でも例外ではなかった。中村・下田で木炭、薪を下すことを「下げ荷」と呼び、米・塩・味噌・醤油などを積み上流に戻ることを「上げ荷」と呼んだ。また雑貨品などを中村の街で求めることもあったようだ。また、中村市でもセンバ船の船頭相手に魚屋、うどん屋、居酒屋などの店が立ち並んでいたそうだ。
大きな役割を果たすセンバ船
センバ船は花嫁を運んだこともあるそうだ。これは、センバ船が住民の交通手段として大きな役割を果たしていたことの証明に他ならない。交通手段・運搬手段としてのセンバ船は非常に優れていた。センバ船が運んだ木炭は下田港から大阪・堺の方へ運ばれ、大阪で使われた。当時、大阪で使われるほぼすべての木炭は四万十産であり、いかに多くの炭焼き業者がいて、いかに大量に木炭が運ばれていたかがわかる。このころ、センバ船での運搬の仕事は出来高制であったため、より多くの物資を運べるようにセンバ船はどんどん大きくなっていった。炭俵を多くて300俵積むこともあったという。西土佐村にはカシの木が豊富にあり、これが木炭となった。炭俵はカヤで作られた直径40㎝長さ60㎝くらいの俵である。原料であるカヤは河川敷に多く見られ、冬場には茶色になる草である。通称ダスガヤという。この大切な商品を運ぶセンバ船は今現在あるものの3倍の大きさだった。職人の熟練の技でご神木のように太く大きな一本の木から釘を使わず接ぎあわせ丈夫なセンバ船を作った。このように大きくなり、そして増えてゆくセンバ船を取りまとめたのが今回お話をうかがった一人である岡島海運さんである。

1.3センバ船の衰退
モータリゼーションの開発
このように隆盛を誇ったセンバ船だが、陸運の発達とともに徐々に衰退していくこととなる。一番の大きな原因はやはりモータリゼーション、自動車化であろう。今までセンバ船が運んでいた木炭はトラックでの運送が主流となった。センバ船では下田港で荷を積み替える必要があったが、車では積み替えをする必要がない。鉄道ができた昭和44年ころには貨物列車が走り、さらに大量の輸送が可能となった。センバ船である必要がなくなったのである。またこのころ、多くの土木・建設会社が設立された。しかし今現在まで長く続けている会社は少ないようだ。
炭焼きの衰退
また、センバ船の消滅に大きく関係することとしてプロパンガスの普及である。そのため炭焼き業者は45,6年ころには大きく減少した。これまで木炭の主な運び先は大阪などの都市であったが、都市ガスが発達し、木炭の使用は減る一方であった。
沈下橋の出現
現在の四万十川の風景として欠かせない沈下橋もまたセンバ船の消滅をより加速させるものであった。沈下橋とは主に低水域にかけられる橋で、欄干や橋げたがないことが特徴である。増水時には完全に水の中に沈んでしまう。そのために、増水時には橋として機能しなくなるが、流木や土砂は沈下橋の上を流れていくため引っかかって壊れることがない。工事費用が比較的安いこと、速やかに作ることができるため、災害で橋が崩落した際には仮設橋として建設されることもある、メリットの多い橋である。しかし低い位置に架橋される沈下橋が建設されることでセンバ船の通路は遮られることになるのである。沈下橋が住民の生活に欠かせないものとして重宝されると同時に、センバ船はその役割を失っていったのである。
消えゆくセンバ船と人々の生活
このように、様々な要因が重なり、センバ船は昭和32,3年のあたりにとうとう消滅の時を迎える。センバ船に関わった人の行く先としてはトラックの運転手など、陸運への転向もあったそうだ。また、このころの下田には陸運とともにやって来た人も多かった。山を切り開いて大きな墓も建てたようだが、中村に居を移すわけではなかった。また、バスの運転手が花形職業としてとても人気があった。これらのことから、中村の町はモータリゼーションの時代にあわせて適応していったと考えられる。

2屋形船と観光開発
センバ船がなくなった昭和32,33年の後、昭和46年まで沈下橋は立ち続けた。一方で四万十川周辺にも大きな変化の兆しが現れる。昭和39年、東京オリンピックの次の年、旧中村市による産業化である。民営化推進が本格化していくなかで、この時期に総理であった中曽根康弘総理の、民間の力で経済活性化するという政策のもと、12月に日本電信電話公社、つまり現在のNTTの株が民間に売却された。その資金が民間都市開発機構に貸し出され、またその金を借りて港を作ることになる。これを活性化させるために国や市が四万十川の周囲を開発し、河川公園を作った。春に四万十川へ訪れると、一面に咲く満開の菜の花畑を観光することができるだろう。
 屋形船の導入
観光開発が進んでいく四万十川に、2艘の屋形船が導入されることになる。戦前にも四万十川に屋形船は存在していたようだが、川船にテントを張っただけのようなもので、あまり本格的な屋形船とは言えなかったようだ。この“屋形船”も、戦後にはなくなったのであるが、観光開発が進んでゆくなかで、本格的な屋形船が旧中村市の事業として新たに導入されたのである。

(写真3 屋形船)
そもそも屋形船とは?写真の左端に見える船である。屋根があり、船内の大半は客室で占められている。古くは平安時代に原形が確認され、河川交通が盛んだった江戸時代には豪華絢爛な屋形船が花見や月見に利用された。今現在も観光船として親しまれており、とくに大阪の天満橋、東京の隅田川あたりで運航されるものが有名である。旧中村市が導入した屋形船は運航しても赤字、しなくても赤字というありさまだったという。そこで民間に払い下げようということになり、この2艘の船を買い取ったのが四万十川観光開発株式会社になる。
四万十川観光開発株式会社と住友大阪セメント
四万十川観光開発株式会社とは中村の有志で結成された会社である。しかし、やはり赤字が続き、四万十川観光開発株式会社をまた次の方が買収し、また赤字となり、また買収し、また…ということを繰り返し、最終的に住友大阪セメントの子会社、コーヨー運輸が買収することとなった。この四万十川観光開発株式会社が四万十川の新鮮な食材を使った料理や名産品を楽しめる施設、アカメ館や陸上施設を作り、船を増やし全国キャンペーンを行い、四万十川観光の一大ムーブメントを作ったのである。

3.観光船としてのセンバ船
 この章では、四万十川で観光船として屋形船が導入された後、センバ船が観光船として復活した経緯を述べる。
3.1植田英久氏とセンバ船
植田氏の人生
今回のセンバ船の調査をするにあたって、植田英久氏にご協力いただいた。植田氏は四万十川の出身であり、センバ船を幼いころから眺めていたそうだ。植田氏の幼いころは家で使うものの大半を手作りし、何軒かで集まってお互い助け合ったそうだ。日々の生活は貧しかったが、助け合って生きる互助の精神が植田氏の中で強く根付いている。植田氏は現在四万十市で様々な会社を経営している。そのうちの一つが西部生コンクリート株式会社である。
西部生コンクリート株式会社
西部生コンクリート株式会社と住友大阪セメントの二つの関係の背景には民間都市開発機構がある。民間都市開発機構のおかげで都市部ではビルが多く建ち、セメントがよく売れていた。住友大阪セメントと西部生コンクリートは取引関係にあったのだ。西部生コンクリート株式会社がコンクリートを提供し、そのお返しとして地域開発を行う。ここにも互助の精神がみられる。住友大阪セメントは、漁業権の兼ね合いなどから、地元の人にやってもらうのが一番である、と四万十川観光開発株式会社を植田氏に買収してもらったのである。建築物資が繋ぐ人の縁により四万十川の観光船は四万十の人のもとへ帰ってきたのである。
「ミレニアムの遺産」「四万十の原風景」である現在のセンバ船
植田氏は、さらに船を増やし21世紀ミレニアムとして、20世紀の終わりの年、2000年にセンバを製造する。植田氏が少年期に感銘を受けたセンバ船がゆったり四万十川を運航する美しい風景を再現するためである。「四万十川の原風景はセンバの美しい風景である」と氏は述べる。「四万十の青、山の緑、そこにすーっと映える白い帆…」氏の言葉をそのままお借りしたが、日本最後の清流と呼ばれる四万十川の美しさと悠々と進むセンバ船を人々の頭のなかにそのまま想起させる、素晴らしい表現である。現に各地からセンバ船に乗るために四万十川にやってくる、という観光客は多いようだ。植田氏の奥さん代表取締役を務めていらっしゃったときには、小学校の校長先生をガイドとして招き、365日変わる四万十川の美しい風景を毎度違う言葉で表現してもらったそうだ。このガイドも好評で、著名人が乗ることもあったそうだ。旅行会社がセンバ船のためのツアーを文化人向けに組むほどであった。
 舟母浪漫 松廣屋

(写真4舟母浪漫松廣屋さん 乗り場 )
奥さんが代表を辞められた後、船頭を務めていらっしゃった松廣屋さんが現在センバ船を運航している。今回、センバ船や四万十川に関するお話をたくさん聞かせていただいた。センバ船の船頭さんは鮎漁の他、猟を行うこともあるそうだ。
3.2センバ船の現状
屋形船とセンバ船
今現在の四万十川には二種類の観光船がある。四万十市観光協会の観光遊覧船のページには5つの団体が登録されている。そのうちの4つが屋形船、後の一つが上に述べたセンバ船を扱う舟母浪漫 松廣屋さんである。半数以上を占める屋形船のメリットとデメリットはなんだろうか。まずメリットとして屋根があることで雨風をしのぐことができ、中で食事が行えることが挙げられる。また、雨天時でも安定して運航を決行できる。そして船の体高が低いため沈下橋の下を通ることができ、大きな距離を周遊することできる。デメリットとしては、覆いがある分、自然を感じにくい点だろう。四万十川を船の上から見るには覗き込まなくてはならない。対してセンバ船はどうだろうか。センバ船は雨天時運航できない。また、センバ船の上で食事をすることはできない。先述したとおり、沈下橋の下を通ることはできないため、ルートは制限される。しかし、屋形船とは反対に開放的であり、自然をじかに感じることができる。風を肌に受け、すぐそこにある水面を見ることができる。屋形船とセンバ船、双方に正反対のメリット・デメリットがある。昔は運搬船だったセンバ船も今は観光船として屋形船と同じくくりで存在することになる。昔の姿のままのセンバ船であるが、用途・見方が変わった新しい姿である。
上の章で述べたように、センバ船は人気があるが、センバ船の数は屋形船と比較してあまりに少ない。植田氏は、もっとセンバ船を増やしたい、とおっしゃっていた。しかしその願いは他の屋形船同業者や漁協との兼ね合いの問題もあり、現状難しいそうだ。
「四万十らしさ」
なぜセンバ船は増えないのか?もちろん上に述べたように兼ね合いの難しさが一番の問題であるが、私が気になったのはセンバ船のこと知る層が少ないことだ。私が今回四万十市を訪れる前にインターネットで「四万十川」と検索すると、どの検索エンジンでも最初に大きく出てくるのは沈下橋であった。これにより、私の頭の中に「四万十川の名物と言えば沈下橋」というイメージがしっかりとついてしまっていた。私は実際に四万十市へ行き、お話を伺うことで、沈下橋よりも前の四万十川の名物であるセンバ船について深く知ることができたが、四万十市に行く機会がなかった、センバ船を知る機会がなかった人たちの四万十川アイデンティティ検索エンジンによって沈下橋に固定されることになる。家族や友人と旅行の計画を立てるとき、まず旅行地の名前を検索することが多いことだろう。そのとき、検索エンジンが一番上に出す結果を、一番の名物だと考えないだろうか。これを繰り返すことで、検索エンジンという外部が四万十川に関するものを一つ選び(この場合沈下橋)、「四万十川アイデンティティ」と意味づけ、強化していくのである。
 では、「四万十川アイデンティティ」は内部からはどこに意味づけられているのだろうか。植田氏は「本当の四万十の原風景」としてセンバ船を復活させた。屋形船はまさしく観光用の船であり、植田氏の少年期には存在するものではなかった。また屋形船は日本の各地にあり、多くの人は隅田川の屋形船を思い浮かべることだろう。これは「四万十のアイデンティティ」と呼べそうにはない。植田氏の考える「本当の四万十の原風景」は四万十川とそれを囲む山々、その間を進む何艘ものセンバ船である。センバ船はかつての人々の生活の種、生きるための手段であり、まさに「生きた原風景」である。また現在では観光船として生きる「四万十の新しく、かつ元来の原風景」である。植田氏はセンバ船を「四万十川アイデンティティ」として意味づけ、現代に復活させたのである。
 では沈下橋の方はどうだろうか。最後の沈下橋が建設されたのは昭和46年である。今からおおよそ47年前のことである。沈下橋四万十市の人々に生活用の橋として親しまれており、「生きられて」いる。この点で沈下橋とセンバ船は似ているといえるだろう。私が勝間沈下橋を訪れた時、現地の方と思われる自動車が軽やかに沈下橋の上を走っていくのを見て、沈下橋がいかに四万十の人にとって当たり前のものであるかを実感した。今現在の四万十市に住んでおられる方の中で「四万十のアイデンティティ」として沈下橋を思い浮かべる方は多いのではないだろうか。センバ船と沈下橋、同じ地域に住む人々の中でもアイデンティティは同一ではないことがわかる。

(写真5 沈下橋からの風景)
今回調査をしていて感じたのが、センバ船は今現在の「四万十のアイデンティティ」と共存が難しいのではないか?ということである。今の「四万十らしい」ものである沈下橋がある限りセンバ船は多く増えることはできない、逆にセンバ船が増え、そのルートを拡大するとなれば沈下橋は少なくなることだろう。なにかを選ぶことは、同時になにかを選ばないことにも繋がる。センバ船は四万十川流域を代表し、口屋内、中村、下田の町を栄えさせた、いわば当時の四万十のシンボルの一つであったが、時代の流れにより、人々は生活のために便利で丈夫な沈下橋を建設することを選んだ。つまりセンバ船を選ばないことを選んだのである。多種多様な選択の上に成り立つアイデンティティは一体何が一番「らしい」と言えるのだろうか。これからの四万十の風景はまた時代とともに変化していくのかもしれない。

むすび
今回の調査を通じて以下のことが分かった。
・センバ船は四万十川でたくさんの物資を運んだ運搬船であり、モータリゼーションの到来とともに一度消滅した。
・人と物資のつながりで、植田英久氏の手により「ミレニアムの記念」の際、観光船として復活を遂げる。
・観光船として人気はあるものの数が増やせず、現状一社だけが取り扱っている。
・「本当の四万十の原風景であるセンバ船」は「四万十の新たなアイデンティティ」である。



(写真6 舟母浪漫松廣屋さん 船頭さん)
今回、舟母浪漫 松廣屋さんにお話を聞かせていただいたとき、屋号の由来をお尋ねした。「センバの夢をもう一度、という意味の浪漫で、舟母浪漫です」と教えていただいた。植田さんの夢とも通じるものがあり、センバ船を深く知る人の共通の夢ではないだろうか。私はこの言葉にセンバ船にかかわる方々の深い思いと誇りを感じた。


謝辞
この実習報告を書きあげるにあたってたくさんの方々にご協力いただきました。
忙しい中時間を割いて協力してくださった舟母浪漫松廣屋さんのおかみさん、船頭さん、
突然の訪問にも関わらず快くお話していただいた岡島海運さん、
連日の訪問にも関わらずたくさん貴重なお話を聞かせていただいた植田英久さんと奥様にこの場を借りて心よりお礼を申し上げます。
皆さんのご協力なしにこの実習報告を書きあげることはかないませんでした。皆様の温かいお心にとても感謝しています。本当にありがとうございました。


参考文献
山川海幸雨,1994,『四万十川たより_沈下橋から』南の風社.
永澤正好,2007,『四万十Ⅲ_ムラに生きる』法政大学出版局.
野本寛一,1999,『四万十川民俗誌_人と自然と』雄山閣出版.
三浦裕二・陣内秀信・吉川勝秀,2008,『舟運都市_水辺からの都市再生』鹿島出版会.
公共財団法人四万十川財団,2016,『四万十川のくらし-文化と歴史』(2017,http://www.shimanto.or.jp/sugata/bunka.html,)

「咲かずの藤」が咲いたとき〜四万十市中村の歴史と伝承〜

「咲かずの藤」が咲いたとき〜四万十市中村の歴史と伝承〜

                          社会学部 23015222 山田美玖

【目次】

はじめに 

第1章 一條兼定と「咲かずの藤」

 第1節 土佐一條家衰退

 第2節 長宗我部時代
 
 第3節 山内時代

第2章 一條神社の建立と「咲かずの藤」

 第1節 一條神社の建立

 第2節 県社への昇格

第3章 軍国主義のなかの「咲かずの藤」

 第1節 戦争下の藤の花

 第2節 久邇宮朝融王の参拝

第4章 藤まつり

結び

謝辞

参考文献

はじめに

 今回の実習地、高知県四万十市中村は、京都と深いつながりを持っている。それは、1467年に起こった応仁の乱を逃れた一條教房公がこの中村に下向されたことに始まる。町の中心には中村御所が建ち、その周囲には京の街並みを模した街づくりがなされた。以来、一條家はこの中村の発展に大いに寄与し、この地は公家大名の町として栄えることとなる。
 現在、この御所は一條神社として、土佐一條氏をお祀りした神社が建立されており、春と秋にはそれぞれ大きな祭りが開かれ、町の人びとの集う場となっている。
 また、この地には中村御所の名残として、一條神社建立のきっかけともなった藤の花、「咲かずの藤」が残っており、この藤にまつわる逸話もいくつか存在している。それらは文献や石碑、口伝によって継承されたものであり、時代によってその性質・意味合いを変えて今日まで続いてきたものである。この「咲かずの藤」は、先にも述べた通り一條神社の建立に関わるものであり、土佐中村における一條神社の重要性と共に語られるべきものである。
 今回は、この「咲かずの藤」の伝承のされ方の変遷について、文献、石碑、インタビューから調査を行い、歴史的事実と伝承とを分類したうえで、土佐中村において藤の花が持つ意味について研究していく。

第1章 一條兼定と「咲かずの藤」
 「咲かずの藤」は、一條神社が建立される前からこの地に存在した。この章では、土佐中村における土佐一條氏の衰退から一條神社建立に至るまでの歴史を、「咲かずの藤」伝説と共に紹介していく。

第1節 土佐一條家衰退 
 1467年に起こった応仁の乱を避け、一條教房公が土佐中村に下向されたのは1468年のことである。一條教房公は土佐中村に中村御所を立てられ、息子である房家公と共に、御所を中心とした碁盤の目の道路や地名など、京の都を思わせるような街づくりを行ってこられた。この御所の建っていた小森山の麓に、藤遊亭と名付けた亭を設け、家紋でもある藤の花を多数陪植していたとされる。これが後の「咲かずの藤」となる。
 そうして中村の町が発展していく中、1480年に父である教房公、1481年に祖父である兼良公を亡くされた房家公は、その霊を祭る為に御廟所(おたまや)を御所内に建立された。これが一條神社の始まりとされる。以降この御廟所は、この地が戦国大名長宗我部元親の支配を受けるまで残っている。
その後、房家公を初代として四代目である兼定公の治世になると、土佐国司であった兼定公は、当時四国を平定していた長宗我部元親に土地を追われ、1574年に豊後の国へ追放されることとなった。
 この中村御所を去る際に兼定公は、「植え置きし 庭の藤ヶ枝 心あらば 来む春ばかり 咲くな匂ふな」、つまり、私を恋しく思うのであれば、私がいないときには咲かないでおくれ、という歌を詠んだと伝えられており、その願いが届いたのか、翌年から藤の花が咲かなくなった、と石碑や口伝によって現在までその伝説が残っている。

第2節 長曾我部時代
 その後、先に述べた通りこの地は長宗我部の支配下にあり、1589年には土佐全域で地検が行われ、その地検帳の中に、森山という場所(現在の小森山であり、一條神社が建っている場所)に維摩堂が建っていたということが記録されている。維摩堂とは、維摩経の教典が納められたお堂であり、護摩供養の際にはその前で護摩を焚いて祈祷が行われていたとされている。その為、正式に記録が残っている訳ではないが、追放滅亡を余儀なくされた一條氏の神霊鎮魂の為に、先に述べた御廟所が変形したものではないかと考えられている。
 長曾我部の支配下において、中村御所は長曾我部の配下であった岩崎佐渡の居住地として扱われ、藤遊亭があった場所は森となり、藤の花についても記述はなく、放置されていたと考えられている。ここから察するに、兼定公が去って後に藤の花が咲かなくなった、というのは、特別な世話をしなかったが為に咲かなかったか、あるいは放置されていた為に、花が咲いても気付く人がいなかったのではないか、というのは現宮司の川村公彦氏の考察である。
 
第3節 山内時代
 更に後に戦国時代も終わりを迎えると、今度は山内一豊が土佐へ入国し、その弟である康豊が幡多の支藩の藩主となりこの地を治めることとなる。この時に、かつて一條氏に仕えていた者達が揃って山内家に訴え、既に存在した御廟所に土佐一條家の神霊を奉ることと、御所が存在した小森山の山頂に祠堂を建立することの許しを得たのである。この祠堂が一條神社創立の基となった。当時は一條神社の名ではなく一條権現と称されていたことも記録に残っている。
 この頃においても、藤の花に関する記録はない。

写真1 一條神社

写真2 咲かずの藤

写真3 咲かずの藤伝説が記された石碑1  

写真4 咲かずの藤伝説が記された石碑2
   
第2章  一條神社の建立と「咲かずの藤」
 本章では、特に「咲かずの藤」に関する伝説が集中した、一條神社の建立から1900年頃までの歴史を、「咲かずの藤」伝説と共に紹介していく。

第1節 一條神社の建立
 1574年に兼定公が中村を去ってから咲くことのなかった藤であるが、1861年に突如藤の花が咲き、そのことをきっかけに一條神社も転機を迎えることとなる。
 この藤の花の開花を受けて、当時の幡多奉行である間市之進、高屋順平は社殿を新しく建立すること、また春と秋にそれぞれ大祭を執行することを定め、一條氏の故事来歴をただし、社殿の建設に着手したのである。社殿が建立されると、今度は小森山の山頂にあった祠堂を新たな社殿へと移し、1862年には国学者として有名な木戸明氏に頼り、正式に一條神社の名を得て、兼良公と夫人にもそれぞれ尊号を奉り、ここに正しく一條神社が誕生したのであった。一條神社が誕生する一年前の1861年から1865年まで藤の花は咲き続けるが、1866年からは再び咲かなくなってしまう。

第2節 県社への昇格
 その後、花が咲かないまま27年が過ぎた1892年に、未だに神社の社格が定まらないことを遺憾に感じた時の神職、川村知義氏が神社の昇格を企画し、都へ赴き方々へ働きかけ、ついに1900年に県社への昇格が決定する。するとまた不思議なことに、再び藤の花が咲くようになり、それ以降は何か良いことが起こると咲くようになる、との伝説が語り継がれることとなった。
 兼定公が去って後、なぜ1861年に藤の花が咲いた、または咲くとされる吉事があったのかは不明であるが、現神職の川村公彦氏によれば、丁度この頃土佐では勤王思想が隆盛を極めていた為、更にこの運動に勢いをつけるために、五摂家の一つでもある一條家に所縁のあるこの神社の再建に踏み出す、そのきっかけとして藤の花の伝説を持ち出したのではないか、とのことである。

第3章 軍国主義のなかの「咲かずの藤」
 本章では、これまで一條家、または一條神社に関わることについて開花が関係してきたとされる藤の花が、別の要因で開花が左右されてきている現象について、日本の歴史、一條神社の歴史を「咲かずの藤」伝説と共に紹介していく。

第1節 戦争下の藤の花
 一條神社が県社に昇格してから4年後の1904年、日本は大々的に日露戦争に突入することとなる。各地で様々な会戦が起こり、勝利を収めていくのだが、国をあげての吉事ということなのか、「咲かずの藤」も戦勝の知らせが届く度にその花を開いた、と伝えられている。

第2節 久邇宮朝融王の参拝
 1928年には一條神社とも関わりが深い久邇宮朝融王が一條神社を参拝された。その頃は藤の花の開花時期ではなかったが、不思議と一房だけ花が咲き、それをご覧になった王はこの藤の花にまつわる伝説をお聞きになり、「不時に咲く 藤の花こそ ゆかしけれ」と歌を口ずさまれた、とも伝えられている。
藤の花における伝説、あるいは言い伝えはこれ以降新たに生まれることなく、昔の伝説をそのままに現在まで伝えている。

写真5 久邇宮朝融王殿下御参拝記念碑

第4章 藤祭り
 中村では、毎年5月に藤祭りが開催される。一條教房公の入府を再現した公家行列をメインとして様々なイベントが開催され、中村の町、あるいは外からも観光客が訪れる、春の大きな祭りの一つとなっている。この祭りについて、中村商工会議所の福留拓氏にお話を伺った。
 1992年、中村の中心を占める6商店街が、中村の市街地の活性化を目的に、中小商業活性化事業を活用したことがきっかけではじまったのが 藤祭りである。
 中村という土地が京都とも関わり深いことから、京都の葵祭をベースに、中村の中心ともいえる一條神社の一條公の家紋である藤の花からとって藤祭りとし、自然、そして中村の発展に寄与した一條公に感謝するお祭りとされている。
 第1回から8回までは、企画元であった中村市商店街振興組合が運営を担っていたが、祭りが続くにつれ、負担が増大したことから、第9回以降は中村商工会議所が運営を引き継ぐこととなっている。
 また、行列については、それぞれ特別な衣装を身にまとった約200名の人びとが長蛇の列を作り、一條神社を起点に町内を練り歩く華々しいものとなっている。行列の中にも役職が存在し、中心を担う一條教房公、そして教房公の孫嫁とされる玉姫様を担うのは、現在の中村の町の中心人物、そして一般公募で集められた女性の役目である。
行列以外のイベントに関しても種々の工夫が凝らされ、開始当初は鷺舞のみであったものが、買いを重ねるにつれ増えていき、運営元が変わった第9回目以降はフリーマーケット等も加わり、現在では音楽から踊り、飲食、物販に至るまで町をあげての一大イベントとなっている。

写真5 公家行列1

写真6 公家行列2

結び

 以上、藤の花にまつわる中村の歴史について述べてきた。
この調査によって分かったことは、「咲かずの藤」が咲くとき、というのは、初めは一條氏の不幸にかかわる形でマイナスの意味合いで語り始められていたもの(第1章)が、次第に一條氏、そして一條神社の吉事にまつわる形でプラスの意味合いで語り継がれるようになり(第2章)、更に後には一條氏、一條神社の吉事ではなく、国をあげての吉事にまつわる形で語り継がれるようになった(第3章)という点である。
藤の花が関わる事象というのが、時代によって、中心となるもの・ことが変化してきているのである。そして、これらの伝説はどれも公的な記録には残っておらず、伝承として語り継がれてきたものである、ということも併せて注目したい。
これらの事実から考察するに、この「咲かずの藤」の伝説というのは、単なる伝説としての藤の花なのではなく、一條氏、一條神社、中村における歴史のターニングポイントとなる出来事により強力な意味を付与し、印象づける為の象徴であるということが分かった。
そして、現代において中村における藤の花とは、藤祭りにおける例からも分かるように、出来事を印象付ける為のものではなく、それまでの伝説・伝承から強く根付いた藤の花と一條氏の関係から、より単純化されて捉えられるようになったと考えられる。

謝辞
本論文の執筆にあたり、多くの方の温かいご協力を頂きました。お忙しい中、当時の資料やお写真をご提供頂いただけでなく、街中のご案内もして下さった中村商工会議所経営指導課課長の福留拓様、飛び込みでお伺いしたにも関わらずご丁寧にインタビューにお答えくださった一條神社宮司の川村公彦様、皆様のご協力のお陰で本論文が完成致しました。心より厚く御礼申し上げます。 

参考文献
・上岡正五郎,2012,『一條神社 百五十年史』一條神社
・「中村商工会議所」,http://www.nakamura-cci.or.jp/

酒場の人生 ─キャバレー「グランドサロン十三」社長 松崎良一氏のライフヒストリー─

社会学部 大谷加玲

【要旨】
 本研究は大阪にある、或るキャバレーを対象に、その社長のライフヒストリーを通してキャバレーの世界とはどのようなものであるかを明らかにしたものである。明らかにしたのは以下の通りである。
1.キャバレー発祥とその経緯
ルーツは明治に洋行帰りの洋画家が開いた「カフェー」。大正時代に入り間もなく、コーヒーの店と酒の店が分化した。酒の店では女給が客席でのサービスも行うようになり、酒のお酌だけでなく"色気"を売り物にするようになる。第一次世界大戦後の不自然な経済の急成長の行き詰まりと、関東大震災後の不況により昭和初期は重苦しい世情になった。その頃からカフェー業界でもいわゆるエロ・サービスが氾濫するようになり、後に”キャバレー王”と言われる榎本正が、専属の踊り子を養成してステージショーを上演する” 赤玉ダンスショー”を目玉にし、大箱のカフェーを開店。これを”キャバレー”と呼称した。戦争により、閉鎖されていった社交場はキャバレー・ダンスホールとして復活高度経済成長とともに爆発的に店舗が増え、日本中の繁華街に大型キャバレーが軒を連ねていく。
2.キャバレーの世界
現在キャバレーの常連客は、70から80歳の男性が多い。年金受給者が多く、受給日の翌日に来店する。馴染みのホステスに会うために来る。アルコールは飲まないという人も多く、コーヒーやウーロン茶を頼み、カラオケをする。客の素性は特に知らない。本人に話されれば聞くが、こちらから尋ねることもない。ホステスの現在の時給は近隣の地域の他の仕事と変わらないため、あえてキャバレーを選ぶ人は少なくなってきた。「お客さんもだけどホステスさんも減ってきている」そうだ。しつらえは、1階、2階は吹き抜けのホール。1階にはステージとオーディエンスフロア、バーカウンターがある。ステージを取り囲むように作られた半円形のバルコニー席になっている。エントランスからは赤い絨毯が延び、ビロードのソファが並ぶ。手元のランプは風営法に配慮してつけているものだ。
3.キャバレーとは何か
キャバレーは、全てが人間関係で成り立っている。そこには、時々もうやめてしまいた いと思うようなこともある。しかし、関わりによって、癒されたり、考えさせられたり、頑張れたり、自らを律したりできる。このように人の中にどっぷりと浸かる商売は他にはない。キャバレーにある商品は「サービス」であり、奉仕の精神によって成り立っている。「モノ」のないところにお金が発生する。そこに見られるのは、客とホステスの関係や、男と女の関係というよりも人と人のコミュニケーションの場であった。

【目次】
序章 ......................................................................... 4
 1.問題の所在大阪駅環状線ホームのゴミ箱はキャバレーの世界への入り口だった ... 5
 2.キャバレーとは何か ..................................................... 5
 3.十三という場所 ......................................................... 8
1章 放浪時代..............................................................12
 第1節 キャバレーの世界に入るまで.........................................13
 第2節 日本全国を旅する .................................................13
 第3節 寅さんへの憧れ、フーテン生活.......................................15
2章 京橋にて..............................................................17
 第1節 大阪駅環状線ホームのゴミ箱はキャバレーの世界への入り口だった........18
 第2節 酒場を調理場と勘違いする...........................................18
 第3節 京橋のキャバレーでの悪い待遇.......................................19
3章 グランドサロン十三....................................................20
 第1節 若い衆を連れて十三へ...............................................21
 第2節 ボーイから幹部へ..................................................21
 第3節 スナックのオーナーに...............................................23
 第4節 郵便局で働く......................................................25
 第5節 グランドサロン十三への復帰 ......................................... 27
4章 キャバレーの世界......................................................28
 1.松崎氏から見た客とホステス............................................. 29
 2.しつらえの工夫 ........................................................ 31
 3.キャバレーとはどういう場所なのか ....................................... 35
結語 ........................................................................ 38
文献一覧 .................................................................... 40

【本文写真から】


図1,2 キャバレーグランドサロン十三・外観

図3 グランドサロン十三社長・松崎氏

図4 ボーイ




図5,6,7,8 しつらえ
【謝辞】
本論文の執筆にあたり多くの方々が調査に協力してくださいました。忙しい中、キャバレーと自らのライフヒストリーをお話してくださった、グランドサロン十三社長の松崎氏。営業している店内の撮影に協力してくださったボーイ、ホステスの皆様。地元十三について教えてくださった大和氏。これらの方々のご協力なしには、本論文は完成に至りませんでした。また、松崎氏から「今までいろんな取材を断ってきたが今回初めて取材を受けた理由」として、ご自身が経営されていた2件目のスナックに当時の関西学院大学生が足しげく通ってくれていたことへの感謝の思いからだと聞きました。今回の調査にご協力いただいた全ての方々と松崎氏との縁を結んでくださった先輩方にも、心より御礼申し上げます。本当にありがとうございました。

尼崎の公衆浴場ー創業者の出身地による系列に着目してー

社会学部 仲久保岳

【要旨】
 本研究は、兵庫県尼崎市で経営されている公衆浴場の創業者の出身地に着目し聞き取り調査、また文献調査をを行うことにより、尼崎の公衆浴場の全体図を明らかにしたものである。
 本研究で明らかにしたのは次のとおりである

1.【尼崎という地域】 尼崎という地域は公衆浴場が増加する条件が揃った地域だった。公衆浴場の増加は「人口密度」と「住宅環境」が大きく影響している。実際、尼崎は1970年には全国から労働者が集まることで人口密度が全国で3位になり、住宅環境においては浴室普及率が周辺地域と低いという結果になっていた。
2.【尼崎の内での格差】 浴室普及率を見ていくことで尼崎内の地域格差というものが見えてくる。武庫之荘周辺は浴室普及率が尼崎市の平均よりかなり高く、早い段階から生活水準が高かったと思われる。さらに尼崎は南に行くにつれて浴室が普及していなかったということも分かった。実際、南に行くほど公衆浴場も密集していた。
3.【創業者の全体図】 尼崎の公衆浴場の出身者は大まかに地元系、広島系、四国系、石川系で分けることができる。
4.【地元系】 尼崎には地元の人が経営している公衆浴場が多い。地元系が多いという結果は尼崎の公衆浴業の特徴であると考えることができる。
5.【広島系】 H家は尼崎で三つの公衆浴場を経営していた。八雲温泉はH家が経営していた公衆浴場の一つだ。その流れの源流は出世湯になるという。
6.【四国系】 桜木温泉の創設者を頼って他の愛媛系の創設者がきた流れになる。桜木温泉の主人は風呂の紹介など様々なことで同郷の経営者をバックアップしていたという。
7.【石川系】 石川系の特徴は能登と加賀に分かれているということだ。この二つの昔ライバル関係だったという。

【目次】
序章 ――――――――――――――――――――――――――――― 7
第1節 研究史-------------------------------------------------8
第2節 問題の所在--------------------------------------------13
第1章 尼崎と公衆浴場――――――――――――――――――――――16
第1節 尼崎に来た人々----------------------------------------17
第2節 尼崎の公衆浴場----------------------------------------19
 (1)公衆浴場の数の推移-------------------------------------19
(2)浴室普及率と公衆浴場の需要の関係性---------------------23
 (3)武庫之荘からみる尼崎の地域性と公衆浴場の関係-----------25

第2章 地元系――――――――――――――――――――――――――31
第1節 三興湯------------------------------------------------32
第2節 東洋温泉----------------------------------------------37
(1)公衆浴場を始める前のO氏--------------------------------39
(2)東洋温泉の始まり---------------------------------------40
(3)結婚と東洋温泉-----------------------------------------40
(4)現代の変化---------------------------------------------41
第3章 四国系――――――――――――――――――――――――――43
第1節 桜木温泉----------------------------------------------45
(1)始まり--------------------------------------------------47
(2)愛媛のつて役--------------------------------------------47             
 (3)現在-----------------------------------------------------47

第2節 神田温泉・長洲温泉 ----------------------------------48
(1)始まり--------------------------------------------------50
(2)最近のマナーについて------------------------------------51
第3節 蓬莱湯------------------------------------------------52
(1)蓬莱湯について------------------------------------------54
(2)蓬莱湯までの道のり--------------------------------------55
(3)転機と温泉とイベント------------------------------------55
 
第4章 広島系――――――――――――――――――――――――――57
第1節 八雲温泉----------------------------------------------58
第5章 石川系------------------------------------------------62
第1節 福寿温泉----------------------------------------------64
(1)T氏の生まれ---------------------------------------------65
(2)戦時中の体験--------------------------------------------65
(3)公衆浴場の始まり----------------------------------------67
(4)2回目の公衆浴場-----------------------------------------68
第2節 ゆーとぴあ琴浦----------------------------------------67
(1)始まり--------------------------------------------------70
(2)働いた時の気付き----------------------------------------71
結語―――――――――――――――――――――――――――――75
謝辞―――――――――――――――――――――――――――――――73
文献一覧―――――――――――――――――――――――――――――76

図1 創設者の全体図

図2 四国系図

図3 広島系図

図4 石川系図
【謝辞】
 今回、本論文の執筆にあたり、多くの方々のご協力をいただきました。 お忙しい中、貴重なお話を聞かせていただいた、各公衆浴場の経営者の皆様、突然の訪問にも関わらず貴重な資料を見せてくださった兵庫県公衆浴場業生活衛生同業組合の皆様、尼崎市又、尼崎市の公衆浴場についての資料を探していただいた尼崎市立地域資料館の皆様には大変感謝しております。
 最後になりますが、皆様のご協力なしには、本論文を完成することは出来ませんでした。心よりお礼申し上げます。本当にありがとうございました。