関西学院大学 現代民俗学 島村恭則研究室

関西学院大学大学院 現代民俗学 島村恭則研究室

中村の人びとと提灯台

社会学部 赤井詩織

[目次]
はじめに


第一章 市民祭以前の提灯台
第一節 第二次世界大戦
第二節 中村駅の開業と提灯台


第二章 市民祭と提灯台
第一節 なかむら市民祭としまんと市民祭
第二節 提灯台の唄
第三節 燃える提灯台と現在の提灯台
第四節 お清めの儀式


第三章 枚方市と提灯台
第一節 姉妹都市 枚方
第二節 枚方祭りと提灯台


第四章 祭りの外に持ち出される提灯台
第一節 中村高校の甲子園出場
第二節 結婚式の披露宴
第三節 商工会議所の青色申告会50周年


結び

謝辞

参考文献




はじめに
 現在の四万十市では、毎年七月の第三土曜日に四万十市民祭が行われている。市民祭の中で、提灯台パレードと呼ばれるイベントが行われており、その際に登場する提灯台について取り上げる。
 四万十市は、平成17年4月10日に中村市幡多郡西土佐村が合併した都市である。また、中村市は、昭和29年に中村町、下田町、東山村、蕨岡村、後川村、八束村、具同村、東中筋村、富山村、大川筋村、中筋村が合併した市であり、西土佐村は江川崎村、津大村が合併した村である。今回、調査した地域は、四万十市の中でも中村と呼ばれる地域である。
 提灯台は、1467年、一条教房応仁の乱を避け、京都から中村に逃れる際、伝えたと語られている。しかし、500年前から提灯台が存在したと語られているにも関わらず、インターネット上では、四万十市民祭が行われている13年間のみ提灯台における記録が残されている。ネット上では語られていない空白の時間は、中村の人びとの間でどのように語られているのかについて調査した。また、祭り以外において、提灯台が使用されている場合はどのような場合であるのかについて調査した。


第一章 市民祭以前の提灯台

第一節 第二次世界大戦以前
 提灯台は口伝で伝えられているため、記録や文献はほぼ存在していない。それ故、提灯台の起源は不明である。
しかし、中村市史に基づいて、江戸時代幕末に提灯台が存在していたことが分かる。

小野英(嘉永四生)の幼少期の思い出記、年中行事の項に、「六月十五日、二十五日氏神様ノ祭リ、提灯台ヲ町々カラ出シ、夜ハニワカナドデオモシロイコトモアル。」とある。これが資料で見る提灯台の初見であり、前記中西亀仙記にも「夏祭、宵祭り、提灯台を舁ぐ。皆若衆の奉仕なり。」ともある。共に幕末期の夏祭り町内での出し物であったことを知る。(中村市史編纂委員会1984:975)

 また、調査より、第二次世界大戦以前まで提灯台が使用されていたが、戦後途絶えていたことが分かった。しかし、昭和26年〜28年頃に提灯台を担ぐ文化が復活する。戦後すぐ復活不可能であった理由として、昭和21年に起こった南海大震災により、小京都の跡形はなくなり、提灯台を担ぐ余裕がなかったのではないかと推測されている。昭和30年になかむら市民祭が開催されるようになり、提灯台パレードの中に提灯台が登場する。

第二節 中村駅の開業と提灯台
 昭和45年、日本国有鉄道中村駅が開通する。その際、中村全地区の提灯台、30基〜40基が中村駅の前で担がれ、中村駅開通を祝った。


第二章 市民祭と提灯台

第一節 なかむら市民祭としまんと市民祭
 市民祭は、昭和30年から平成16年はなかむら市民祭、平成17年から現在にかけて、しまんと市民祭が行われている。上記に述べたが、現在の四万十市は平成17年に中村市と西土佐村が合併した都市である。その際、なかむら市民祭からしまんと市民祭へ名前が変化した。
市民祭の中に、提灯台パレードと呼ばれるイベントがあり、その際に提灯台が登場する。提灯台は団体によって、工夫がなされている。


(写真1)中村青年会議所の提灯台


(写真2)中村青年会議所の提灯台


(写真3)中村青年会議所の提灯台


(写真4)提灯台


(写真5)提灯台⑤ 四万十市教育委員会提供


 提灯台に使用されている提灯は180個、花は736〜772個であり、大きさは4m×4m×6mが標準サイズとされている。そして、提灯台の中には太鼓が乗せられている。
団体ごとに工夫がなされているのは提灯台のみではない。提灯台パレードの際、提灯台前方にトラック二台を走らせ、トラックごとに役割が存在する。最も前を走るトラックはその団体をPRする意味合いがあり、トラックの上ではうぐいす嬢が団体に寄付金を募った人名や企業が読み上げ、また、お酒が積まれている。その後ろを走るトラックには演奏者が乗っている。毎年、ドラムやギター、三味線など異なる楽器を演奏し、いかに目立たせるか、工夫がなされている。また、提灯台の唄の歌い手が二台目のトラックの横について歩く。そして、トラック後方には提灯台を誘導する先導、提灯台、場合によっては子供提灯台や女提灯台が続く。


(写真6)中村青年会議所をPRするトラック


(写真7)トラックの上で演奏している様子

 提灯台を担ぐ際の歩き方は「練る」と呼ばれ、酔っ払いの千鳥足をイメージしたものであり、土佐の小京都と呼ばれる中村は、碁盤の目のような地形をしているため、碁盤の目の交差点で提灯台を勢いよく回す文化が存在する。この時、回す速さは遠心力で人が飛ぶくらいに早く回されるため、参加者は男に限定され、パレードの見せどころでもあると言われている。


(写真8)提灯台を回している様子

 パレードのコースは決まっており、四万十市役所前と高知銀行前のふたつの出発地点がある。市役所、東下町、天神橋、一条通、大橋通の一周がコースであり、提灯台を練りながら歩く。
 提灯台は毎年、団体ごとにおよそ一週間から二週間かけて組み立てられている。提灯台はパレードが終わると解体され、翌年の祭りまで保管される。

(写真9)提灯台組み立ての様子

 毎年、提灯台の団体数に違いが見られ、地元の人びとはパレードの参加人数が減少傾向にある認識を持っている。この理由として、中村の人びとの高齢化が進み、毎年出さずに一年おきに提灯台を出す団体があることに加え、提灯台の高さや提灯を吊るす段が増え、人数が減少したように見えるのではないか、と語った人もいる。また、提灯台パレードに参加する中村の人びとの人数は減少しているが、中村以外の地域の人びとに協力してもらい、近年は提灯台を回している。以下の表から参加人数にほとんど変動がないことが確認できる。

なかむら市民祭(昭和60年以前の記録なし)
 提灯台(団体数)  提灯台(参加者)
昭和61年   11            790
昭和62年   10            705
昭和63年   10            680
平成元年   12            780
平成2年    11            680
平成3年    13            940
平成4年    11            690
平成5年    16            1085
平成6年    13            900
平成7年   13            833
平成8年    12            910
平成9年    10            850
平成10年   10            768
平成11年   7            610
平成12年   9            630
平成13年   9            720
平成14年   11            920
平成15年   11            880
平成16年   9            790


しまんと市民祭
平成17年   13            960
平成18年   9            730
平成19年   10            745
平成20年   10            730
平成21年   12            890
平成22年   8            500
平成23年   14            810
平成24年   11            850
平成25年   11            930
平成26年   9            800
平成27年   11            810
平成28年   8            530
平成29年   11            950

第二節 提灯台の唄
 提灯台パレードの際、提灯台の唄が唄われる。この唄は夜這の唄である。100番まで存在していると言われており、元は三重の(※)伊勢音頭ではないかと語られている。祭りでは、歌い手が好む番号を100番の中から4番を選び、唄う。
市民祭で配布される団扇の裏面には、提灯台の唄の一部が記載されている。

(写真10)団扇表面


(写真11)団扇裏面

 以下は提灯台の唄であるが、ここに記載しているのは40番のみである。1番ごとに改行している。<>の部分は合いの手であり、担ぎ手も歌う部分である。

灯台の唄
下へ下え へと<よいよい>いかだを流す<よいせ どこせ>、流す筏にそれぞれ鮎が飛ぶ。<ささやとこせのよいやな、姉も せい 妹とも せい>

姉がさすかよ<よいよい>、妹とがさすかよ<よいせどこせ>、同じ蛇の目の唐傘を

四万十川の鵜の鳥さえも<よいよい>あいをくわえて<よいよい>瀬を上る。

七つ八つから<よいよい>いろはを習い<よいせどこせ>はの字忘れて色ばかり。

表(思)てナ来たかよ<よいよい>裏から来たか<よいせどこせ>私しゃ表(思)て来た。

藤にゆかりの<よいよい>一条さんの<よいせどこせ>おんしのところにやりたい藤娘。

表来たかよ<よいよい>裏から来たかー<よいせどこせ>私しやな裏からそれぞえ おもてきた<お囃子>

土佐の中村<よいよい>祇園の祭り<よいせどこせ>娘若衆の勇み肌

不場の八幡太鼓の音で<よいよい>男神女神の<よいせどこせ>こし合わせ

恋に焦がれて<よいよい>なく蝉よりも<よいせどこせ>泣かぬ蛍が身を焦がす。

恋に焦がれ鳴く蝉よりも帯びにヤ短しタスキにや長し、お伊勢、いの笠の紐

藤にゆかりの一条公さんよ、お雪かわいや化粧の井戸
清き流れの四万十川にうつし身をやく大文字、ついて行かんか提灯台に消して苦労はさせはせぬ

花の中村<よいよい>祇園お祭<よいせどこせ>娘若衆のそれぞえ 勇み肌

可愛けれやこそ小石を投げる、憎くて小石が投けらりょうか

幡多の中村一条公さんを、しのぶ今宵の提灯台 通よや名が立つ通はねや切れる 通ひやめたら人が取る

咲いた桜になぜ駒つなぐ、駒が勇めば花が散る

何もくよくよ川端柳、水の流れ見て暮らす。鮎は瀬にすむ

鳥りや木に止まる、人は情けの下にすむ。

櫻三月<よいよい>あやめは五月<よいせどこせ>菊は九月の土曜に咲く

女来て寝た<よいよい>東の山に<よいせどこせ>おいせなあ坊んさんそれぞえ、鐘を突く<ささやとこせのよいやな、姉もせい 妹もせい>

幡多の中村<よいよい>一条公さまを、<よこせどこせ>忍ぶなあ、今宵のそれぞえ提灯台<後同じ>

花の中村<よいよい>祇園の祭り<よいせどこせ>娘があ若衆のそれぞえ 勇み肌<ささ同じ>

夏のなあ夜空を<よいよい>茜に染めて、よいせどこせ昔なあなつかしそれぞえ、大文字<ささ同じ>

恋しなけりゃこそ<よいよい>小石を投げる<よいせどこせ>憎てない石が それぞえ投げられようか<ささ同じ>

下へ下えと枯れ木を流す<よいせどこせ>流すなあ枯れ木にそれぞえ 花が咲く<後お囃子>

うとんなあ来てねた 東の山に<よいとせどこせ>おいせなあ坊んさんそれぞえ鐘を突く<後お囃子>

不破のなー八幡、<よいよい>太鼓の音で<よいせどこせ>男神なー女神の それぞえの輿合わせ<ささなんでもせい同じ>

藤になあゆかりの<よいよい>一条公さんよ<よいせどこせ>お雪かわいやそれぞえ化粧の井戸<お囃子>

清きなあ流れの<よいよい>四万十川に<よいせどこせ>うつしなく身をやくそれぞえ、大文字<ささやっとこせのよいやな姉もせい妹ともせいささなんでもせい>

小姓に似合いのそれぞえの藤娘<後お囃子>

付いてゆかんか<よいよい>その提灯に<よいせどこせ>けしてなあ苦労はそれぞえ させわせぬ

夢で見るよしや<よいよい>惚れよか浅 眞<よいせどこせ>惚れたらそれぞえ 寝はせぬ<後お囃子>

好きと嫌いは<よいよい>どれほどちがう <よいせどこせ>命ただやる程ちかう

憎くてたたくと思うなよ<よいよい>キセル可愛けりゃこそ<よいせどこせ>吸いもする

土佐のな中村<よいよい>一条公さんの<よいせどこせ>昔栄し それぞえ城下町

不破の八幡<よいよい>宵宮祭り<よいせどこせ>ちらと見た女がそれぞえ忘れぬ

伊勢は津でもつ<よいよい>津は伊勢でもつ<よいせどこせ>尾張名古屋はそれぞえ城でもつ

春の四万十<よいよい>白帆で下りや<よいせどこせ>秋は紅葉のそれぞえ登船

東山には<よいよい>湯煙立てば<よいせどこせ>西の小富士はそれぞえ雪化粧<ささやっとこせのよおいやな姉もせい妹もせいささなんでもせい>


第三節 燃える提灯台と現在の提灯台
 今や祭りの中に形式化されている提灯台パレードであるが、昔は現在とは違う風潮や目的が存在していた。
 現在の提灯台は提灯の中にLED電球が入れられているが、以前は提灯の中にろうそくが入れられていた。
 ひと昔前の提灯台は「喧嘩神輿」とも呼ばれ、自身が担いでいる提灯台と相手が担いでいる提灯台をぶつけ合い、喧嘩を行う文化が存在した。「喧嘩神輿」の目的は、相手の提灯台の提灯や花を燃やす目的で担がれ、襲う相手を探しながら碁盤の目の街を練り歩く。その際、碁盤の目上にある交差点で敵の提灯台と対面すると、敵の提灯台を壊し、更に碁盤の目を進むと、再び交差点で敵の提灯台と出会い、壊す、という流れが繰り返されていた。そして、燃える提灯台では、火を消すという意味合いでバケツの水が交差点に用意されており、「喧嘩神輿」後には、水を提灯台にかける文化が存在した。ところが、現在も提灯台を回し終えた後に水をかけてもらう文化が存在する。若者は暑さを紛らわせるために水をかぶると考えているが、これは燃える提灯台の文化の名残であると考えられている。
30年以上前、赤鉄橋を提灯台パレードの出発点にした際、赤鉄橋に沿って縦に並び、集合する時点で喧嘩が始まった年もあった。
 しかし、「喧嘩神輿」をただ単に繰り返しているわけではない。このような流れを繰り返して提灯台が向かう先は、栄町であった。栄町は当時、飲み屋やスナックが立ち並ぶ街であったために、男が提灯台を担ぎ、女に自身のかっこよさを主張する場であったと語られている。
現在の提灯台は観光化や地域活性化の意味合いを持っており、以前の提灯台の目的とは相反することが分かる。提灯台一条教房から伝えられたと語られる場合もあるが、祭りをする際に一条教房を意識することは皆無に等しい。

第三節 お清めの儀式
 提灯台パレードの際に開会式が行われるが、近年、提灯台お清めの儀式が行われるようになる。パレード開始前、お酒を飲むが、提灯台の重さで肩を痛めるため、自身を酔わせて痛みを麻痺させることが目的である。その際、口に含んだお酒を提灯台の四方に吹きかけ、提灯台を清める。お酒のほかに、塩も四方にまくそうだ。お清めの最後には、団体の最も位が上の者にお酒を吹きかけ、儀式が終了する。

(写真12)提灯台に酒を吹きかける様子①


(写真13)提灯台に酒を吹きかける様子②


(写真14)提灯台に酒を吹きかける様子③


(写真15)委員長に酒を吹きかける様子

第三章 枚方市と提灯台

第一節 姉妹都市 枚方
 昭和49年、枚方市中村市が友好都市提携を結ぶ。当時、中村青年会議所の理事長を務めた柿谷友造さんと、枚方青年会議所の理事長が知り合いであったことや、中村市市長と枚方市市長の両者が社会党であったことを理由として、提携を結ぶに至る。現在、四万十市枚方市も提携都市であり、枚方四万十市の物産展を開催したり、枚方祭りに参加したりと、交流を行っている。

第二節 枚方祭りと提灯台
 述べたように、枚方市と友好都市提携を結んでいることから、枚方祭りの際、提灯台枚方まで運び、提灯台を回している。友好都市を結んで40年経つ都市に提灯台枚方市へ寄贈するが、提灯台を定期的に回すようになるのは平成26年からのことである。
 そして、枚方祭りは夜に盆踊りが行われるが、その際に提灯台を櫓と見立て、提灯台の周りで盆踊りが行われている。

(写真16)枚方祭りに持ち出された提灯台


第四章 祭りの外に持ち出される提灯台

第一節 中村高校の甲子園出場
 祭り以外における提灯台はどのような場合があるのか、調査した。

 中村高校は昭和52年に甲子園出場を果たす。中村高校を応援するスタンドに提灯台が登場していた様子が、高知新聞昭和52年4月3日月曜日の新聞記事から読み取ることが出来る。記事の見出しには、「『提灯台』も盛り上げ」と記されている。記事の本文には、「アルプススタンドの最上段に中村名物の『提灯台』二台がお見えした。本物のミニ版だが、紅白のちょうちんをつるし、熱戦のふん囲気を盛り上げていた」(『高知新聞』1997.4)と書かれている。このように、中村高校を応援する目的で提灯台を使用することは、中村の人びとにとって、提灯台アイデンティティであることが考えられる。

 加えて、友好都市である枚方市が応援に駆け付けたことが分かる記事があり、「『友好都市』の大阪・枚方市民は、この日、一回戦の時より増員して約八百人を動員」(『高知新聞』1997.4)と記されている。

(写真17)『高知新聞』1997.4

第二節 結婚式の披露宴
 次に、中村青年会議所山崎隆之さんの結婚式披露宴にて、本来の提灯台の半分ほどの大きさの提灯台が登場した。その際の様子が分かる写真が以下のものである。

(写真18)披露宴で提灯台を担ぐ様子①


(写真19)披露宴で提灯台を担ぐ様子②


(写真20)披露宴で提灯台を担ぐ様子③

第三節 商工会議所の青色申告会五十周年記念行事
 最後に例に挙げるのは、商工会議所が青色申告会50周年を記念し、二台の子供提灯台が登場した例である。

(写真21)青色申告会五十周年記念行事で担がれる提灯台

 その他、中村をPRする際には提灯台を使用することがある。
 第二節、第三節より、祝い事に提灯台を担ぐ文化が見られる。したがって、この二つの例からも、中村の人びとにとって提灯台アイデンティティとなるものではないかと考えることができる。


結び
・提灯台は500年前から伝わったと語られているが、インターネット上では13年間のみ記録が残されている。
・提灯台は口伝で伝えられているため、記録や文献はほぼ存在しない。
・提灯台の起源は不明である。
・『中村市史 続編』より、江戸時代幕末に提灯台の存在を確認した。
・戦前まで提灯台は存在したが、戦後途絶える。
・昭和26年〜28年に提灯台を担ぐ文化が復活する。
・昭和30年、なかむら市民祭の中で提灯台パレードが行われる。
・昭和45年、日本国有鉄道中村駅開通時、提灯台が担がれ、開通を祝った。
・昭和30年〜平成16年はなかむら市民祭、四万十市合併後は平成17年から現在にかけてしまんと市民祭が行われている
・市民祭の際、提灯台パレードが行われ、提灯台が登場する。
・提灯台の標準サイズは4m×4m×6mであり、提灯180個、花736個〜772個で組み立てられている。
・提灯台の中には、太鼓が乗せられている。
・パレードに登場する提灯台やトラック、演奏は団体ごとに工夫を凝らしている。
・パレードの際、提灯台の唄が唄われる。
・提灯台を担ぐ際の歩き方は練ると呼ばれる。
・提灯台を交差点で回す。
・近年、中村の人びとの高齢化が進み、中村以外の地域の人びとに協力してもらい、提灯台を担いでいる。
・パレードの団体数は毎年少しの変動が見られる。
・提灯台の唄は100番存在する。
・提灯台の唄は三重の伊勢音頭が元であると語られている。
・祭り当日は4番ほど選ばれて唄われる。
・提灯台の唄は夜這の唄である。
・現在の提灯にはLED電球、以前の提灯にはろうそくが入れられていた。
・提灯台に気をぶつけ合う「喧嘩神輿」と呼ばれる文化が存在した。
・「喧嘩神輿」は提灯台をぶつけ合う敵を探しながら練り歩いた。
・「喧嘩神輿」を行いながら提灯台が向かう先は栄町である。
・栄町で提灯台を担ぐ姿を女にアピールする場であったと語られている。
・「喧嘩神輿」後は火を消すため、提灯台にバケツの水がかけられた。
・現在の提灯台は観光課や地域活性化の役割を持っている。
・提灯台一条教房から伝えられたと語られているが、祭りをする際、一条公を意識することはない。
・パレード開始前、お酒を飲み、酔うことで提灯台の重さを紛らわせている。
・お清めの儀式の際、提灯台に酒や塩をまき、提灯台を清める。
・昭和49年、枚方市中村市が友好都市提携を結ぶ。
・現在も四万十市枚方市は提携都市である。
枚方市四万十市物産展を開催するなど、交流が行われている。
枚方祭りに提灯台が登場する。
枚方祭りの盆踊りの際、提灯台を櫓と見立て、提灯台の周りで盆踊りをしている。
・昭和52年、中村高校が甲子園出場の際、スタンドに提灯台が登場する。
枚方応援団が中村高校甲子園出場時、応援に駆け付けた。
・結婚式の披露宴に提灯台が登場する例あった。
・商工会議所青色申告会50周年記念行事に提灯台が登場する。
・応援や祝い事の際、提灯台を組み立てることとから、中村の人びとにとって、提灯台アイデンティティとなるものではないかと考えられる。

謝辞
 本論文の執筆にあたり、多くの方々にご協力して頂きました。四万十市観光協会の皆様、中村青年会議所の皆様、吉井清泰様、柿谷友造様、貴重なお話を伺わせて頂き、提灯台について理解を深めることが出来ました。ご多忙の中、私のために時間を取っていただき、ありがとうございました。
 皆様のご協力がなければ、本論文を執筆することはできませんでした。この場をお借りして、心より感謝申し上げます。本当にありがとうございました。

注(※) 伊勢音頭
 伊勢音頭には、二つの意味がある。一つ目は、伊勢古市の遊郭で遊女に唄わせた唄、二つ目は江戸時代の伊勢国で唄われた民謡のことである。

参考文献 
中村市史編纂委員会,1984,『中村市史 続編』第一法規出版株式会社.
・1997.「『提灯台』も盛り上げ」『高知新聞』1997年4月3日,12面