関西学院大学 現代民俗学 島村恭則研究室

関西学院大学大学院 現代民俗学 島村恭則研究室

中村の染工場−佐竹染工場と垣内染工場の事例−

中村の染工場
― 佐竹染工場・垣内染工場の事例 ―
社会学部 多田友美


【目次】

はじめに

第1章 佐竹染工場
1. 佐竹染工場をめぐる歴史の語り
2. 佐竹染工場の現在

第2章 垣内染工場
1. 垣内染工場の歴史と仕事
2. 染工場のその後

第3章 フラフと大漁旗
1. フラフ
2. 大漁旗
3. 染めの工程
4. フラフを揚げる

むすび

謝辞

参考文献


はじめに

 高知県では端午の節句に近づくと、鯉幟や五月幟とともにフラフと呼ばれる祝い旗が風に吹かれている光景が見られる。今回の調査のフィールドである高知県四万十市中村でもその風習が人びとによって受け継がれ守られている。中村は約550年前、一条教房応仁の乱から逃れてきたことから、一条氏によって京都に模した町づくりが行われた場所だ。その中村には中心を南北に走る京町という町があり、その中でも染工場がある4・5丁目は紺屋町と名付けられるほど、かつて多くの染工場、染物屋があった。本稿では、その高知県四万十市中村京町をフィールドに、フラフを中心に扱う染工場について、またフラフが家庭においてどのように揚げられているかについて取り上げる。


第1章 佐竹染工場

1−1 佐竹染工場をめぐる歴史の語り

 佐竹染工場は一条氏とともに京都からついてきた染物屋といわれている。つまり約550年の歴史があることになる。しかし、佐竹染工場8代目の佐竹将太郎氏の語りによると、昔家系図を寺に預けており、その寺が火事になって焼かれてしまったため、詳しい染工場の歴史は分からないという。
そのため佐竹染工場の歴史は口伝えで伝承されている。先述の通り家系図はないが、7代目の奥様に分かる範囲の先代を聞いたところ将太郎氏から4代前、つまり4代目までは名前が分かった。そのため本当に自分が8代目なのか実は分からないと、佐竹将太郎氏は笑いながら話してくださった。佐竹家の墓を見てみても5〜6代前までほどしかわからないそうだ。
話を伺っていると、佐竹将太郎氏が家の歴史を教わっていた6代目の佐竹善男氏が佐竹染工場の歴史を語る上で重要な人物であることを感じた。佐竹将太郎氏が語る佐竹染工場の歴史は、多くがこの6代目の祖父から聞いたものなのだ。将太郎氏の語りでは、6代目の時に弟子をとったことがある、4代目が絵が上手だったためその人が描いた下絵を今も使っている、6代目のときに染工場を本町のほうまで長くして今の長屋のような形になった、などといったことを口語で教わったことが明らかになった。

1−2 佐竹染工場の現在

 現在、佐竹染工場は7代目と8代目で店を切り盛りしている。フラフや大漁旗五月幟、暖簾、ハッピなどを主につくっており、周りの漁師まちから仙台・沖縄など様々なところから注文を受けている。どこの染物屋も後継者不足が深刻で、全国各地から注文がくるらしい。しかし佐竹染工場8代目の佐竹将太郎氏は、ほかに夢を持ったことがなかったほどに継ぐことが当たり前だと思っていたと話してくれた。これらの製品をつくる工程をすべて家、つまり佐竹染工場で済ますため、家族で協力しながらの作業が必須なこともその要因のひとつだろう。とは言え、佐竹将太郎氏は真摯に染めと向き合っており、県東部のみならず四万十市や中村でも守られているフラフを中心とした染め物を後世に残していこうと、女の子用のフラフやマンションなどでも揚げやすい小さいフラフ、要望に沿った絵柄など変化に柔軟に対応している。また地元の高知新聞の取材に応じ、子どもたちと染め物体験をしたりと様々な形で発信している。


写真1 佐竹染工場のフラフ例


第2章 垣内染工場

2−1 垣内染工場の歴史と仕事

 佐竹染工場の二軒隣にあるのが垣内染工場である。垣内染工場では8代目の奥様である垣内文子氏にお話を伺った。垣内染工場は1744年創業で、現在77歳の8代目のご主人が7年前に病に倒れ店じまいをするまで、約267年続いてきた染工場だ。当時垣内染工場ではフラフと五月幟大漁旗を主とした染め物を扱っていた。注文は直接もらいに依頼主の家に行き、染め物が完成したらまた自らの手で届けていたそうだ。また佐竹染工場とは絵を描く際の下描きを共有することもあったらしい。奥様がこの町に嫁いできた約50年前は3軒ほど染物屋があり、染めの工程で行う洗いを川で行っていたり、7代目夫婦とともに家族で作業をしていたりと、現在よりも紺屋町という名にふさわしい情緒が残っていたと懐かしそうに話していらっしゃったのが印象的だった。

2−2 染工場のその後

 垣内染工場と染め物は店じまい後も生きられている。8代目の奥様が趣味の裁縫をする場、近所に住む友人たちと集まって話をする場として活用されているのだ。
裁縫ではかつて工場で染めたフラフや大漁旗の残っている布も使用し、染工場でも使っていたミシンで、バッグやお手玉、パッチワークなどを作っている。そのため奥様は「染め物をはじめとしてどんな布でも捨てられずに残している」と笑いながら話してくださった。言葉の通り、染工場には多くの布や染め物が、奥様に生かされるのを待つように積まれていた。
 また、「毎日誰かが訪れてきてくれるから、その時だけは裁縫の手を止めて休んでいる」と奥様が話してくださった通り、私がお話を伺った際も、奥様のお知り合いが染工場に集まり楽しそうに話していた。



写真2 垣内文子氏が染め物を活用して裁縫したバッグ


第3章 フラフと大漁旗

3−1 フラフ

 さて今回の調査の中心といっても過言ではないものがフラフである。フラフというのは高知県のみで端午の節句に鯉幟や五月幟とともに揚げられる祝い旗だ。言葉の由来はオランダ語の「vlag」や英語の「flag」説がある。現地での聞き取りでは英語の「flag」説をよく耳にした。フラフはいつどこで始まったのかが分かっておらず、大きさや絵柄、揚げ方も地域や家庭によってそれぞれ違いがある。2014年4月30日の高知新聞で組まれた特集では、主に県東部のみでしかフラフは揚げられないというような記載があったが、事実四万十市では多くの家庭でかつてから五月幟とともに揚げられていることから、高知県全体の伝統といっていいだろう。
 フラフには必ず家紋・子の名前・絵柄が描かれる。絵柄は親や祖父母などが子どもへの願いや思いを込めて選ぶ。調査先である佐竹染工場では鶴亀や龍、鯉と金太郎、桃太郎、那須与一などが主だが、それ以外にもそれぞれに頼まれた絵柄を描くらしい。本来は男の子の健やかな成長を願って揚げられるものだが、最近は女の子にもフラフをつくる家庭があるようだ。また、母方の祖父母が孫のために揚げるといった習わしなども近年ではそれぞれの家庭に合わせて変化しているらしい。フラフは少子化などの社会的要因や家庭の事情によって柔軟に変化しながら、その伝統が受け継がれ、守られているのだ。

3−2 大漁旗

 上記で述べたフラフのもとになったと言われているのが大漁旗である。大漁旗は本来漁船が帰港する際に大漁であったことを知らせるために揚げていた旗だが、現在は正月の乗り初めの時に掲げたり、新しい船のお披露目(船おろし)のときに船主にゆかりのある人びとがお祝いの品として贈ることが多い。大漁旗には、大漁の文字・船名・船主・贈り主・のし・絵柄(主にその船で獲れる魚)などが描かれる。

3−3 染めの工程

 ここからは佐竹染工場でのフラフと大漁旗の染めの工程を紹介していく。フラフと大漁旗はどちらも同じ工程で作製されている。
⑴下描き:下墨みという墨汁のようなインクを使用し、絵や文字の下描きを行う。最近はパソコンで文字を出してそれを引用するが、あくまでも筆を使い手作業で下描きを行っている。
⑵のり付け:専用ののりをツカと呼ばれる絞りに入れて、それで色を入れない部分にのりをつけていく。その上から煎った米ぬかをふりかける。米ぬかがしっかりくっつくように、描きの線を消すために霧吹きで水をかけ、天日干しをして乾かす(天気が悪いときはガスで)。
ここまでの作業を行う際には布をきっちり張っておく必要がある。この時、シンシとハッチョウと呼ばれる道具を使う。
⑶色付け:天気によって色の出方が違ってくるため、目分量・感覚で色をつくる。染料は大きく色をつけるところに、顔料は細かい部分を染めるときに使う。
⑷なでる:後ろから束子でなでる。これは片面だけ染めると後ろが毛羽立つから裏もきれいにという佐竹染工場のこだわり。
⑸焼き付け:色を定着させるために小さめのガス台で焼き付ける。
⑹洗い:のりをふやかすために3時間ほど浴槽にためたお湯につける。そして水槽のようなもので洗い流し、その後もう一度天日干しで乾かす。
⑺仕上げ:ミシンで周りを縫う。奥様がこの作業を主に行う。
 時期や注文の多さなどで変動はするが、上記の工程は注文から二週間程度で完成する。


写真3 ⑴下描き


写真4 ⑵のり付け で使用するのり



写真5 シンシ 


写真6 ハッチョウ


写真7 ⑶色付け


写真8 ⑷裏なで


写真9 ⑸焼き付け で使用するガス台


写真10 ⑹洗い で使用する水槽


       写真11 ⑺仕上げ


3−4 フラフを揚げる

 四万十市に住む有友家では、離れて暮らす孫二人のために毎年鯉幟と五月幟とともに大きなフラフを揚げている。フラフはそれぞれ二人分つくられ、来年弟が7歳になるまでは兄のフラフも一緒に揚げる予定だ。有友家のフラフと五月幟は垣内染工場で染められたもので、フラフの絵柄は兄弟どちらも鶴亀。鶴は千年・亀は万年という言葉から元気に長生きしてほしいとの願いが込められている。有友家では場所もあったことから一番大きなサイズのフラフを揚げているため、大工に頼んで設置や片付けを行っている。毎年春休み中の大安もしくは吉日の天気の良い日から子どもの日の週末まで揚げていて、お孫さんたちは休日や連休などに遊びに来たときに見たり、上げ下ろしを手伝ったりしているそうだ。また町に子どもが少なくなった現在、有友家のフラフは近所の人びとからも毎年楽しみにされている。フラフは家族の子どもへの願いが込められており、そして子どもの成長を見守る地域住民や周りの人びとにとっても、フラフが大空をたなびく様子は未来に残したい高知の伝統的な風景なのである。


   写真12 有友家で揚げられているフラフ


むすび

・フラフは高知県東部のみでなく四万十市でも時代や家庭に合わせて変化しながら受け継
がれている
・フラフと大漁旗の染めの工程は同じで、佐竹染工場では、下描き・のり付け・色付け・裏
なで・焼き付け・洗い・縫いの工程を家族で協力し行っている
四万十市に残る染工場は佐竹染工場だけだが店じまいをした垣内染工場やそこでつくら
れた染め物もまだ人びとによって生きられている
少子化の現在大きなフラフが見られるのはその家庭だけでなく地域全体の楽しみになっ
ている
・フラフや大漁旗といった染物には人から人への思いや願いが込められている


謝辞

  本論文の執筆にあたり、協力してくださった方々にこの場をお借りしてお礼申し上げます。ご多忙の中、温かく迎えてくださった佐竹将太郎様を始めとするご家族の皆様、垣内文子様、有友万里様のご協力のおかげで、楽しく充実した調査となりました。本論文を完成させることができましたのは、貴重なお時間を割いてご丁寧に対応してくださった皆様のおかげです。改めて心より御礼申し上げます。


参考文献
高知新聞 こども高知新聞「高知なるほど!辞典−フラフ」2014年4月30日
高知新聞 こども高知新聞「読もっか探検隊」2014年10月28日