関西学院大学 現代民俗学 島村恭則研究室

関西学院大学大学院 現代民俗学 島村恭則研究室

遍路と渡し−四万十市 下田・初崎間の渡船を巡って−

社会学部 門田凌

【目次】
はじめに
1、四万十市下田
2、下田の渡船
3、渡船の廃止と復活
結び
謝辞
参考文献


はじめに
 全国には河川や港湾の両岸を往復し人々を運ぶ渡船が約38か所存在する。フェリーや水上バスを除くと、現在運航しているものは、東は岩手県北上市北上川渡し、西は長崎県西海市の瀬川汽船と広く存在する。
 今回はその中の一つ、高知県四万十市四万十川河口付近で運航する「下田・初崎渡し」を取り上げる。2005年までは四万十市営(旧中村市)で運航され、2009年からは地元住民らによる「下田の渡し保存会」によって運航されている。
 公営であった渡船が廃止され、ブランクを経て地元有志によって運航されていく経緯と下田とお遍路の関係について書いていく。


1、四万十市下田
 高知県四万十市は県の南西に位置し、太平洋に面した両隣にはカツオ漁で有名な佐賀の黒潮町、四国最南端の足摺岬がある土佐清水市が隣接している。四国最長で最後の清流と呼ばれる四万十川が市全域に流れており、沈下橋、屋形船などの観光名所が多数存在する。
 事例として取り上げる下田地区は四万十川河口部分を指し、古くは河口の一大拠点として隆盛を極めた。ここから炭を中心に材木、和紙などを積んで大阪や神戸の阪神地域に出荷された。阪神地域からも塩、米などが持ち込まれ、それらを一時保管する大型木造倉庫も建てられていた。現在は地区の下半分が居住地区と漁港、上半分にはキャンプ場や温泉などレジャー施設が点在している。

図1 四万十川河口下田地区(国土地理院より引用)

写真1 下田の街並み


2、下田の渡舟
 四万十川にはかつて数多くの渡船が存在し、渡し舟にはおよそ3種類存在した。
①架線・滑車式渡し舟――滑車と舟をワイヤーで繋いで川の流れで動かす。
②架線と手繰り網を使って舟を動かす。
③櫓舟で運航する。――経営母体は県営・市営・村営・私営がある。
 運航形態としては個人の善意で運航されたものや、番人がいて渡し賃を取っていたものもあった。渡し賃を取るにしても村民は無料だが部外者は有料といったケースも存在した。昭和時代には四万十川の約20か所で運航され、個人間での申し合わせで運航されていたものを含めるともっと数は多い。
 今回取り上げる四万十川下流の下田の渡船は、上記地図の下田港から対岸の初崎までを結んでいる。タイプは③で、昭和初期から存在し昭和40年代まではいわゆる個人の申し合わせで運航され、そこからは市営で行われた。1976年からは約30年、市の所有である「みなと丸」で運航されてきた。同船は、定員13名、運賃大人100円で1日5回運航されていた。
 1996年にはこの渡船の上流に四万十大橋が開通し、利用客が一時低迷したが、お遍路さんの増加や市のホームページでの宣伝効果もあり増加傾向に転じ、2003年には800名超の利用者があった。(現在の利用者数は年間約250人程度。)また、航路自体は「市道」の一部で環境省が指定する「四国のみち」のルートでもある。利用者のほとんどはお遍路さん。地元の利用者は、高齢者が多く、対岸の知り合いなどに会いに行く用途などで使われる。
 四万十川を渡るお遍路のルートは下田の渡船から4キロ上流に架かる四万十大橋を通るルートと下田の渡船を使うルートがある。現在は四万十大橋を使うのが一般的になっている。

写真2 四万十大橋


3、渡船の廃止と復活 
 下田の渡しは、住民の対岸交通や四万十川を渡るお遍路さんの遍路道として昭和初期から運航されてきた。当時は、櫓船で個人の申し合わせで運航され、その後運営母体が市に移る。
 市営によって運航されてきた「みなと丸」は1976年から就航以来30年が経過し、老朽化が進んできた。1977年には年間5000人ほどの利用者がいたが、道路橋の建設、モータリゼーションの到来の影響を受け、徐々に利用客数が減少する。全盛期に比べ減少したものの2003年には800名超の利用者を記録し増加傾向にあり、お遍路さんの利用も多数あったが、運航コストがかさむことを理由に市議会は運航継続を断念した。また、財政状況からも新規に船を購入することも叶わず、2005年12月31日をもって廃止された。
 こうしてお遍路さんの遍路手段の一つを絶つ形になってしまった。それから、2009年に「下田の渡し保存会」が渡船を復活させるまで4年間の空白期間が生まれた。

・沖章栄氏による復活
 沖氏は高校卒業後、土佐佐賀で7年間カツオ漁に従事し、その後結婚、奥様の土木会社の役員を務めながら、下田の漁協組合員として「下田の渡し保存会」を立ち上げた方である。「下田の渡し保存会」は現在、メンバーが3人在籍し、いずれの方も地元住民である。
 2005年に市営の渡船が廃止され、お遍路のルートが絶たれた後、ある出来事が起こる。元々下田の渡船乗り場であったところにお遍路用の一本の杖と笠がさしてあったのである。おそらく、渡船が廃止されたことへの‘無言’の抗議だと思われる。

写真3 元渡船乗り場。ここに遍路の笠と杖がさしてあった。

 沖氏に渡船が廃止されお遍路ルートが絶たれてしまったことへの責任はない。しかし、その光景を見た沖氏は地元住民として申し訳なさと後悔の気持ちに苛まれたという。渡船を復活させるには費用の面でも労力の面でも多大な負担がかかる。実際、仕事中に渡船運航の依頼を受ければ、仕事を中断し港に向かう。運航コストも自治体などの補助は一切なく、私財で賄っている。このような沖氏の善意から「下田の渡し」は復活を遂げた。

写真4 下田渡し保存会による渡船

・お遍路と渡船
 昔から下田では遍路が家々を回り、その見返りとして米などを支給する‘托鉢’の文化があった。現在ではそのような行為は見られないが、沖氏は渡船が悪天候などで欠航の時にはお接待として代わりに車で対岸まで送り届けるような個人レベルの行為は存在する。サポートする形、規模は様々なものが見られるが、お遍路を助けるという文化が下田には生きられている。


結び
 市の財政健全化によって失われた「下田・初崎渡船」を惜しむ声が港に‘無言の抗議’として現れた。それを見た沖氏は、お遍路の足がなくなったことへの申し訳なさから自らが中心となって渡船復活に動く。その結果、現在お遍路の足として、対岸交通として機能する渡船が運航され続けられている。
 下田では、ある種の接待なる文化を見ることができ、単なる移動手段としての渡船ではなく、そこにお遍路と下田の繋がりをみることができた。


謝辞
 今回の論文作成にあたってたくさんの方々のご協力、ありがとうございました。ご多忙にも関わらず、時間を割いていただき、貴重なお話をしてくださった沖章栄氏には感謝申し上げます。ありがとうございました。


参考文献
佐藤久光(2016)『四国遍路の社会学岩田書院
佐藤久光(2014)『巡拝記にみる四国遍路』株式会社朱鷺書房
浅川泰宏(2008)『巡礼の文化人類学的研究―四国遍路の接待文化―』古今書院
野本寛一(1999)『人と自然と 四万十川民俗誌』雄山閣出版