社会学部
鈴木祐花
【目次】
はじめに
第一章 下田地域の太鼓台
第一節 下田地域
第二節 太鼓台
第二章 太鼓台の中断そして復活へ
第一節 人口減少による中断
第二節 復活の動き
第三章 現在の太鼓台
第一節 祭りの過程
第二節 下田の人びとにとっての太鼓台
むすび
謝辞
参考文献
はじめに
本稿では高知県四万十市下田地域に伝わる伝統的行事の太鼓台について取り上げる。太鼓台がどのような歴史を持ち下田地域の人びとにとってどのようなものであるかを明らかにしていく。
また、本稿では下田全体を「下田地域」、下田地域の中の集落の下田を「下田」と区別して表記する。
第一章 下田地域の太鼓台
第一節 下田
【写真1 下田地域の地区分け】
下田地域は高知県四万十市に位置する港町であり、地域の中で松野山、下田上、下田下、串江、和田、水戸地区に分けることができる。
また、「徳川時代における下田浦の繁盛は非常なものにして人家稠密して商業は繁盛なりき。漁業亦盛にして、漁獲物豊富なりき。」(宇賀嘉弥太 18) の記述からもわかる通り江戸時代から漁業が盛んな漁師町である。かつては下田港から船で木炭や材木などの物資を大阪・堺に運搬しており、四万十の流通の拠点とされていた。
ここで下田と水戸の関係性について詳しく述べていく。もともと下田が船着き場として利用されていたのだが、土砂の蓄積などの理由から、徐々により河口に近く船の往来がしやすい水戸が港としての機能を果たすようになったため下田は下田、水戸は水戸の各々の地区としてのプライドや意識が芽生え、対抗意識を持つようになっていった。現在では若い世代同士だとそのような意識はもう薄れているが、年配の世代の中にはいまだに相手地区に対して対抗意識を持っている者もいるそうである。
第二節 太鼓台
下田地域には祭りの際に太鼓台を出台する伝統がある。この太鼓台の起源は江戸時代にさかのぼる。経済、流通の中心地として力を持っていた下田地域の人々の間でこの有り余るパワーを何かに還元しようということで、物資の運搬などで親交のあった大阪の堺から太鼓台を購入することになったのである。もともとはだんじりを購入する予定であったが、道幅が狭く建物が密集している下田地域の道路を通ることができなかったため太鼓台を購入し、それが現在まで続く太鼓台のはじまりとされている。
もともと下田地域には三台の太鼓台があり、下田(下田上と下田下を合わせた地区)・串江・水戸の三地区がそれぞれ一台ずつ太鼓台を保有していた。しかし、串江の太鼓台が火事により焼失してしまったため残った二台の太鼓台を祭りの日に出台することになった。同日、同時刻に二台出るということで、二台の太鼓台が町の中で出くわす度に喧嘩をしていたそうである。昭和30〜40年代の写真には女性物のワンピースを着用し化粧した男性たちが太鼓台を担ぐ様子が写っており、これは自分が誰かばれないようにして相手の太鼓台に向かっていったのではないかということが推測できる。喧嘩といっても本気の殴り合いなどではなく、地区同士のコミュニケーションの形の一つとして行われていたといえるだろう。
第二章 太鼓台の中断、そして復活へ
第一節 人口減少による中断
下田地域で江戸時代から続いている歴史ある太鼓台だが、一時中断していた時期がある。水戸の太鼓台の老朽化、水戸・下田両地区にいえる担ぎ手不足により、平成11年頃にはどちらの太鼓台も出台を中断せざるを得ない事態になってしまったのである。下田地域の名物であった太鼓台は中断され、祭りの際には神輿だけが巡行する状態になる。
第二節 復活の動き
この現状を打破しようと立ち上がったのが太鼓台保存会である。保存会は下田の青年たちが中心となり平成13年に結成された。保存会の結成により下田の太鼓台が復活することとなり、そこから下田の一台のみが出台する状況が約十年ほど続く。
最近になり水戸の人びとの間で水戸の太鼓台を新調し復活させようとする機運が高まりつつある時に、「ふるさと文化再興事業」を知り、その支援を受け平成21年に太鼓台を新調することができた。こうして中断を余儀なくされていた下田地域の太鼓台は無事に二台とも復活を遂げることになったのである。
しかし元の通りにそのまま戻ったわけではない。太鼓台は新調できたものの担ぎ手不足は深刻であり、保存会員と地区代表らによる話し合いの結果、毎年二台の出台は不可能と判断し今後は保存会が二台の太鼓台の管理運営責任者となり、一年交代で双方の太鼓台を出台することに決定した。
前述したとおり下田と水戸は馴れ合うことをあまり好まないため、この決定に対して「水戸の太鼓台を下田の人に担がせるなんてあり得ない」などといったような年長者からの反発もあったそうだが、保存会員を中心に団結することでかつての活気ある太鼓台をよみがえらせることができたといえる。また、水戸の人びとは水戸の太鼓台のほうが下田の太鼓台よりも大きく重さがあるということをとても誇りに思っていたり、下田も水戸の人たちも地区ごとに存在するテーマカラー(下田は黄色、水戸は水色)を大事にしていたりしているところからも、太鼓台を通して自分たちの地区への誇りやプライドを垣間見ることができる。
第三章 現在の太鼓台
第一節 祭りの過程
現在、下田地域で太鼓台が出台する祭りは二つある。一つは水戸(港)柱神社の祭り、もう一つは住吉神社の祭りである。
水戸(港)柱神社の祭りは七月第三土曜・七月第三日曜に行われ、土曜は宵宮祭りとして対岸の初崎にある水戸(港)柱神社から貴船神社への御霊遷しの神事が行われる。船に貴船神社の神輿を乗せ四万十川を渡り初崎まで到着後、水戸(港)柱神社の御霊を神輿に移し貴船神社に還御する。日曜には本祭りが行われ、下田地域を貴船神社の神輿が巡幸する。神事を済ませた後水戸(港)柱神社に還御し御霊戻しの神事が行われ、船に乗り貴船神社へと帰る。その後、保存会による太鼓台の出台が行われる。太鼓台の巡行順路は、下田集会所を出発し貴船神社、串江、和田を通り水戸を巡回後串江を通って下田下に戻り、下田上、松野山に到達後下田上の集会所が終点となる。
【写真2 下田にある貴船神社】
【写真3 水戸(港)柱神社祭りの太鼓台のルート】
住吉神社の祭りは七月最後の土曜日曜に行われ、水戸(港)柱神社の祭りと同じように土曜に宵宮、日曜に本祭りがある。太鼓台を出台するのは本祭りの神輿巡幸のあとである。太鼓台巡行のルートは水戸地区にある住吉神社を出発後串江を巡回し下田の貴船神社へ、その後下田下、松野山、下田上、串江、和田を通り住吉神社に戻ってくる。
【写真4 水戸にある住吉神社】
【写真5 住吉神社祭りの太鼓台のルート】
二つの祭りはどちらとも太鼓台が出台するという似たような祭りなのかと思いきや、調べてみると全く異なるものだとわかる。祭り自体は神事の進め方から順路まで異なっているにも関わらず、どちらの祭りにも太鼓台が登場し下田地域を巡行する。全く別の二つの祭りを太鼓台という一つの伝統が繋いでいるという興味深い構図が浮かんでくる。裏を返せば太鼓台はそれほど下田地域の人びとに根付いている伝統的文化であるといえるだろう。
普段太鼓台は下田集会所、住吉神社でそれぞれ保管されている。
【写真4・5・6 住吉神社に保管されている太鼓台】
どちらの祭りで出台する太鼓台も一ヶ月ほど前から保存会員が準備する。布を裁断し、中に籾殻を詰めて太鼓台の飾りである「フトン」や「シボリ」を完成させる。また、宵宮の日に保存会員総出で太鼓台の組み立て作業が行われる。
また、巡行中の役割も様々である。台の動きを指示する先導役、台の運行の舵を取る舵取り、台の上に乗り太鼓を叩いてリズムをとる太鼓打ち、太鼓台の歌を歌いながら巡行する歌い手、そして担ぎ手など色々な役回りが存在する。担ぎ手は太鼓台を担ぎながら歌い手の歌に合いの手を入れ町を練り歩く。広い場所に差し掛かると「ヤリマッセ―」の掛け声とともに激しく台を廻し、「サセ、サセー」の掛け声で台を高く持ち上げ、「サイトリマッセー」の声で持ち上げた台を激しく廻す。これが太鼓台巡行の一番の見せ場であり、観ている人たちからも合いの手や歓声が飛ぶ。
【写真7・8・9 太鼓台の歌】
大人たちが担ぐ太鼓台の後ろには子ども太鼓台がついて回る。大人太鼓台の余った布で飾り付けられていて、いつか大きな太鼓台を担ぐ日を夢見ながら大人たちの逞しい背中を追いかけていくのである。
このようにして約1トンの太鼓台を担ぎ七時間ほど下田地域を練り歩くのだ。お話を伺った川村氏によると、1トンという重さは恐怖を覚えるほどのもので、あまりの重さに自分が太鼓台を担ぐことに貢献できているかもわからないほどだそうであり、太鼓台を担ぐには重さに対する恐怖心に打ち勝つ勇気が必要なのだそうだ。巡行を終えた担ぎ手たちの肩は腫れ上がり、内出血を起こすこともある。これが下田地域の夏の風物詩である。
第二節 下田地域の人びとにとっての太鼓台
下田地域には様々な流通ネットワークがあり、すべての人々の間で利害関係が一致するわけではない。そのような中で、誰しもが利害関係なく参加できるものの代表格として太鼓台がある。若い世代が主軸となって盛り上げることで町全体を活性化させることができ、次の世代へバトンを繋いでいくことができるのである。引継ぎが上手くいかずなくなってしまう伝統や祭りが多い中、太鼓台は世代間の繋がりが深く、多くの人が町の誇りに思っているといえる。子ども太鼓台や太鼓台保存会の存在などからもわかるように、次の世代につなげていくという意識をしっかりと感じることができる。また、太鼓台の準備や役割を学ぶだけでなく、太鼓台を通じて下田地域の社会の在り方やこの町で生きる者としての意識などを間接的に肌で学んでいくのである。そして、ある意味で本当の「下田の人間」になっていくのだ。
むすび
今回調査を通してわかったことは以下の通りである。
⦿太鼓台の起源は江戸時代にまでさかのぼり、近年一度中断しているが町の人たちの熱意により復活を果たした
⦿体系を変化させながらも今なお続く下田地域の伝統文化である
⦿現在は2つの異なる祭りで太鼓台が出台している
⦿太鼓台は下田地域の人びとにとって成長の場であり、太鼓台を通じて組織・社会の在り方を学ぶ
お話を伺っていてもとても前向きに答えていただき、太鼓台がいかに下田地域の人たちにとって生活に根付いているものなのか身をもって感じることができた。一度中断してしまったものを復活させ、形をかえながらも新たな歴史を紡いでいくことは簡単なことではない。そこで終わりにするのではなくもう一度立ち上がったからこそ未来へと繋がっていくものであり、下田地域の人びとの熱量を改めて感じた。また、下田という地域も四万十の中心部とは一線を画す独自の雰囲気があり、とても興味深く、おもしろい町であった。
謝辞
本論文の執筆に際し、様々な方のご協力を頂きました。お忙しい中、いろいろなお話を聞かせていただき、大変貴重な資料をご提供してくださった鎌田虎男様、間崎大介様、川村慎也様、そして調査に協力してくださったすべての皆様のお力なくして本論文を完成させることは叶いませんでした。突然の訪問にもかかわらず調査に真摯にご協力いただき、深く感謝いたします。本当にありがとうございました。
参考文献
津野幸右・太鼓台保存会,2011,『太鼓台』太鼓台保存会
浦田真紀,2012,『史料紹介 宇賀嘉弥太「下田郷土史料」』
中村市史編纂委員会,1984,『中村市史 続編』中村市