関西学院大学 現代民俗学 島村恭則研究室

関西学院大学大学院 現代民俗学 島村恭則研究室

四万十川観光とセンバ船

【目次】
はじめに
第1章センバ船の時代
(1)センバ船とは
(2)センバ船の隆盛
(3)センバ船の衰退
第2章観光開発と屋形船
第3章観光船としてのセンバ船
(1)植田英久氏とセンバ船
(2)センバ船の現状
むすび
謝辞


はじめに
日本最後の清流とうたわれる四万十川では、かつてセンバ船と呼ばれる船が多く運航し、重要な物資を町から町へ、町から港へ運搬していた。多くの要因の重なりで一度完全に見られなくなったセンバ船は観光船として現在復活している。この実習報告は、過去は運搬船、現在は観光船として形を変え復活したセンバ船について取り上げるものである。

1.センバ船の時代
1.1センバ船とは
センバ船の具体的外観説明と用途の説明
まず初めに、センバ船の説明を行う。センバ船は縦に高くマストを張る大きな帆かけ船である。

(写真1  センバ船 舟母浪漫 松廣屋公式ホームページより)
写真のようにマストに4反の帆を張っている。縦に大きく白が映え、冴え冴えと美しい船である。東京都杉並区の小学校5年生理科の教科書に風力で動く船として掲載されたこともある。西土佐江川崎より上流では高瀬舟下流ではセンバ船と呼ばれる。木炭や生活物資などを河口にある下田港と上流の間を運ぶ船である。下りに約1日、上りに約3日かかったそうだ。この時代の四万十川は現在の1.8mも高く平水であったため1日で下ることができたが、現在ではとても1日や2日で下れないだろうとのことだ。

(写真2 四万十川)
「センバ=舟母」の由来
センバ船は主に二人一組になって舟を操る。若い男二人組の時もあるが、多くは夫婦で運航する。センバ船は下田港まで下った後、舟をまた上流までもって行かねばならない。この上りの作業が大変である。東風を利用するのだが、風がないときは妻が河原から舟を引っ張る。ここから「センバ=舟母」と呼ばれるようになったという説が有力である。また一説には、他の漁師船よりもセンバ船が大きいことから「舟の母、舟母=センバ」とする説もある。近年は水量が減り、上流にもっていくのがより難しくなっている。
四万十川とセンバ船
センバ船は多い時には120~135艘もの舟が運航していて船頭も多数いた。個人的に2艘ほどのセンバ船を所有した船頭もいたそうだが、大半は商家が所有しているそうだ。四万十川は自然資源が豊富であり、四万十川流域には蛇紋石と呼ばれる石が採れる。蛇紋石は丁寧に磨き上げるとヒスイのように深い緑色をした美しい宝石になる。他にも何種類もの魚がいる。四万十川下流域は海水と淡水が混じる汽水域であるため多種多様な種がたくさんいる。センバ船の上から四万十川を覗き込むと、清らかな水の中に魚が何層にも重なって泳いでいるのが見えるそうだ。昔は青のりや魚もたくさん採れたが近年は温暖化のせいもあり、魚も随分と減っている。海水温が上がるとアユは死んでしまうのだ。また、そういった魚は海水温の低い方へ行ってしまうため、夏は本川からアユが少なくなっている。
1.2センバ船の隆盛
センバ船と中村・下田の街
下田港は昔、日明貿易の際に使われることもあった港である。現在は河口改修のため閉じられている。

(地図 1 中村・下田周辺地図)
地図中央が旧中村市である。これよりも上流にセンバ船の出発地として栄えた西土佐口屋内、江川崎がある。この大きく蛇行する四万十川がセンバ船の運航ルートである。口屋内・中村を中継地点として地図右下にある下田港へ木炭・生活物資を運ぶ。多くの船頭は帰りに中村や口屋内で娯楽を楽しんだそうだ。四万十の集落には木炭や薪を集積している商人がおり、中村・下田の地区でも例外ではなかった。中村・下田で木炭、薪を下すことを「下げ荷」と呼び、米・塩・味噌・醤油などを積み上流に戻ることを「上げ荷」と呼んだ。また雑貨品などを中村の街で求めることもあったようだ。また、中村市でもセンバ船の船頭相手に魚屋、うどん屋、居酒屋などの店が立ち並んでいたそうだ。
大きな役割を果たすセンバ船
センバ船は花嫁を運んだこともあるそうだ。これは、センバ船が住民の交通手段として大きな役割を果たしていたことの証明に他ならない。交通手段・運搬手段としてのセンバ船は非常に優れていた。センバ船が運んだ木炭は下田港から大阪・堺の方へ運ばれ、大阪で使われた。当時、大阪で使われるほぼすべての木炭は四万十産であり、いかに多くの炭焼き業者がいて、いかに大量に木炭が運ばれていたかがわかる。このころ、センバ船での運搬の仕事は出来高制であったため、より多くの物資を運べるようにセンバ船はどんどん大きくなっていった。炭俵を多くて300俵積むこともあったという。西土佐村にはカシの木が豊富にあり、これが木炭となった。炭俵はカヤで作られた直径40㎝長さ60㎝くらいの俵である。原料であるカヤは河川敷に多く見られ、冬場には茶色になる草である。通称ダスガヤという。この大切な商品を運ぶセンバ船は今現在あるものの3倍の大きさだった。職人の熟練の技でご神木のように太く大きな一本の木から釘を使わず接ぎあわせ丈夫なセンバ船を作った。このように大きくなり、そして増えてゆくセンバ船を取りまとめたのが今回お話をうかがった一人である岡島海運さんである。

1.3センバ船の衰退
モータリゼーションの開発
このように隆盛を誇ったセンバ船だが、陸運の発達とともに徐々に衰退していくこととなる。一番の大きな原因はやはりモータリゼーション、自動車化であろう。今までセンバ船が運んでいた木炭はトラックでの運送が主流となった。センバ船では下田港で荷を積み替える必要があったが、車では積み替えをする必要がない。鉄道ができた昭和44年ころには貨物列車が走り、さらに大量の輸送が可能となった。センバ船である必要がなくなったのである。またこのころ、多くの土木・建設会社が設立された。しかし今現在まで長く続けている会社は少ないようだ。
炭焼きの衰退
また、センバ船の消滅に大きく関係することとしてプロパンガスの普及である。そのため炭焼き業者は45,6年ころには大きく減少した。これまで木炭の主な運び先は大阪などの都市であったが、都市ガスが発達し、木炭の使用は減る一方であった。
沈下橋の出現
現在の四万十川の風景として欠かせない沈下橋もまたセンバ船の消滅をより加速させるものであった。沈下橋とは主に低水域にかけられる橋で、欄干や橋げたがないことが特徴である。増水時には完全に水の中に沈んでしまう。そのために、増水時には橋として機能しなくなるが、流木や土砂は沈下橋の上を流れていくため引っかかって壊れることがない。工事費用が比較的安いこと、速やかに作ることができるため、災害で橋が崩落した際には仮設橋として建設されることもある、メリットの多い橋である。しかし低い位置に架橋される沈下橋が建設されることでセンバ船の通路は遮られることになるのである。沈下橋が住民の生活に欠かせないものとして重宝されると同時に、センバ船はその役割を失っていったのである。
消えゆくセンバ船と人々の生活
このように、様々な要因が重なり、センバ船は昭和32,3年のあたりにとうとう消滅の時を迎える。センバ船に関わった人の行く先としてはトラックの運転手など、陸運への転向もあったそうだ。また、このころの下田には陸運とともにやって来た人も多かった。山を切り開いて大きな墓も建てたようだが、中村に居を移すわけではなかった。また、バスの運転手が花形職業としてとても人気があった。これらのことから、中村の町はモータリゼーションの時代にあわせて適応していったと考えられる。

2屋形船と観光開発
センバ船がなくなった昭和32,33年の後、昭和46年まで沈下橋は立ち続けた。一方で四万十川周辺にも大きな変化の兆しが現れる。昭和39年、東京オリンピックの次の年、旧中村市による産業化である。民営化推進が本格化していくなかで、この時期に総理であった中曽根康弘総理の、民間の力で経済活性化するという政策のもと、12月に日本電信電話公社、つまり現在のNTTの株が民間に売却された。その資金が民間都市開発機構に貸し出され、またその金を借りて港を作ることになる。これを活性化させるために国や市が四万十川の周囲を開発し、河川公園を作った。春に四万十川へ訪れると、一面に咲く満開の菜の花畑を観光することができるだろう。
 屋形船の導入
観光開発が進んでいく四万十川に、2艘の屋形船が導入されることになる。戦前にも四万十川に屋形船は存在していたようだが、川船にテントを張っただけのようなもので、あまり本格的な屋形船とは言えなかったようだ。この“屋形船”も、戦後にはなくなったのであるが、観光開発が進んでゆくなかで、本格的な屋形船が旧中村市の事業として新たに導入されたのである。

(写真3 屋形船)
そもそも屋形船とは?写真の左端に見える船である。屋根があり、船内の大半は客室で占められている。古くは平安時代に原形が確認され、河川交通が盛んだった江戸時代には豪華絢爛な屋形船が花見や月見に利用された。今現在も観光船として親しまれており、とくに大阪の天満橋、東京の隅田川あたりで運航されるものが有名である。旧中村市が導入した屋形船は運航しても赤字、しなくても赤字というありさまだったという。そこで民間に払い下げようということになり、この2艘の船を買い取ったのが四万十川観光開発株式会社になる。
四万十川観光開発株式会社と住友大阪セメント
四万十川観光開発株式会社とは中村の有志で結成された会社である。しかし、やはり赤字が続き、四万十川観光開発株式会社をまた次の方が買収し、また赤字となり、また買収し、また…ということを繰り返し、最終的に住友大阪セメントの子会社、コーヨー運輸が買収することとなった。この四万十川観光開発株式会社が四万十川の新鮮な食材を使った料理や名産品を楽しめる施設、アカメ館や陸上施設を作り、船を増やし全国キャンペーンを行い、四万十川観光の一大ムーブメントを作ったのである。

3.観光船としてのセンバ船
 この章では、四万十川で観光船として屋形船が導入された後、センバ船が観光船として復活した経緯を述べる。
3.1植田英久氏とセンバ船
植田氏の人生
今回のセンバ船の調査をするにあたって、植田英久氏にご協力いただいた。植田氏は四万十川の出身であり、センバ船を幼いころから眺めていたそうだ。植田氏の幼いころは家で使うものの大半を手作りし、何軒かで集まってお互い助け合ったそうだ。日々の生活は貧しかったが、助け合って生きる互助の精神が植田氏の中で強く根付いている。植田氏は現在四万十市で様々な会社を経営している。そのうちの一つが西部生コンクリート株式会社である。
西部生コンクリート株式会社
西部生コンクリート株式会社と住友大阪セメントの二つの関係の背景には民間都市開発機構がある。民間都市開発機構のおかげで都市部ではビルが多く建ち、セメントがよく売れていた。住友大阪セメントと西部生コンクリートは取引関係にあったのだ。西部生コンクリート株式会社がコンクリートを提供し、そのお返しとして地域開発を行う。ここにも互助の精神がみられる。住友大阪セメントは、漁業権の兼ね合いなどから、地元の人にやってもらうのが一番である、と四万十川観光開発株式会社を植田氏に買収してもらったのである。建築物資が繋ぐ人の縁により四万十川の観光船は四万十の人のもとへ帰ってきたのである。
「ミレニアムの遺産」「四万十の原風景」である現在のセンバ船
植田氏は、さらに船を増やし21世紀ミレニアムとして、20世紀の終わりの年、2000年にセンバを製造する。植田氏が少年期に感銘を受けたセンバ船がゆったり四万十川を運航する美しい風景を再現するためである。「四万十川の原風景はセンバの美しい風景である」と氏は述べる。「四万十の青、山の緑、そこにすーっと映える白い帆…」氏の言葉をそのままお借りしたが、日本最後の清流と呼ばれる四万十川の美しさと悠々と進むセンバ船を人々の頭のなかにそのまま想起させる、素晴らしい表現である。現に各地からセンバ船に乗るために四万十川にやってくる、という観光客は多いようだ。植田氏の奥さん代表取締役を務めていらっしゃったときには、小学校の校長先生をガイドとして招き、365日変わる四万十川の美しい風景を毎度違う言葉で表現してもらったそうだ。このガイドも好評で、著名人が乗ることもあったそうだ。旅行会社がセンバ船のためのツアーを文化人向けに組むほどであった。
 舟母浪漫 松廣屋

(写真4舟母浪漫松廣屋さん 乗り場 )
奥さんが代表を辞められた後、船頭を務めていらっしゃった松廣屋さんが現在センバ船を運航している。今回、センバ船や四万十川に関するお話をたくさん聞かせていただいた。センバ船の船頭さんは鮎漁の他、猟を行うこともあるそうだ。
3.2センバ船の現状
屋形船とセンバ船
今現在の四万十川には二種類の観光船がある。四万十市観光協会の観光遊覧船のページには5つの団体が登録されている。そのうちの4つが屋形船、後の一つが上に述べたセンバ船を扱う舟母浪漫 松廣屋さんである。半数以上を占める屋形船のメリットとデメリットはなんだろうか。まずメリットとして屋根があることで雨風をしのぐことができ、中で食事が行えることが挙げられる。また、雨天時でも安定して運航を決行できる。そして船の体高が低いため沈下橋の下を通ることができ、大きな距離を周遊することできる。デメリットとしては、覆いがある分、自然を感じにくい点だろう。四万十川を船の上から見るには覗き込まなくてはならない。対してセンバ船はどうだろうか。センバ船は雨天時運航できない。また、センバ船の上で食事をすることはできない。先述したとおり、沈下橋の下を通ることはできないため、ルートは制限される。しかし、屋形船とは反対に開放的であり、自然をじかに感じることができる。風を肌に受け、すぐそこにある水面を見ることができる。屋形船とセンバ船、双方に正反対のメリット・デメリットがある。昔は運搬船だったセンバ船も今は観光船として屋形船と同じくくりで存在することになる。昔の姿のままのセンバ船であるが、用途・見方が変わった新しい姿である。
上の章で述べたように、センバ船は人気があるが、センバ船の数は屋形船と比較してあまりに少ない。植田氏は、もっとセンバ船を増やしたい、とおっしゃっていた。しかしその願いは他の屋形船同業者や漁協との兼ね合いの問題もあり、現状難しいそうだ。
「四万十らしさ」
なぜセンバ船は増えないのか?もちろん上に述べたように兼ね合いの難しさが一番の問題であるが、私が気になったのはセンバ船のこと知る層が少ないことだ。私が今回四万十市を訪れる前にインターネットで「四万十川」と検索すると、どの検索エンジンでも最初に大きく出てくるのは沈下橋であった。これにより、私の頭の中に「四万十川の名物と言えば沈下橋」というイメージがしっかりとついてしまっていた。私は実際に四万十市へ行き、お話を伺うことで、沈下橋よりも前の四万十川の名物であるセンバ船について深く知ることができたが、四万十市に行く機会がなかった、センバ船を知る機会がなかった人たちの四万十川アイデンティティ検索エンジンによって沈下橋に固定されることになる。家族や友人と旅行の計画を立てるとき、まず旅行地の名前を検索することが多いことだろう。そのとき、検索エンジンが一番上に出す結果を、一番の名物だと考えないだろうか。これを繰り返すことで、検索エンジンという外部が四万十川に関するものを一つ選び(この場合沈下橋)、「四万十川アイデンティティ」と意味づけ、強化していくのである。
 では、「四万十川アイデンティティ」は内部からはどこに意味づけられているのだろうか。植田氏は「本当の四万十の原風景」としてセンバ船を復活させた。屋形船はまさしく観光用の船であり、植田氏の少年期には存在するものではなかった。また屋形船は日本の各地にあり、多くの人は隅田川の屋形船を思い浮かべることだろう。これは「四万十のアイデンティティ」と呼べそうにはない。植田氏の考える「本当の四万十の原風景」は四万十川とそれを囲む山々、その間を進む何艘ものセンバ船である。センバ船はかつての人々の生活の種、生きるための手段であり、まさに「生きた原風景」である。また現在では観光船として生きる「四万十の新しく、かつ元来の原風景」である。植田氏はセンバ船を「四万十川アイデンティティ」として意味づけ、現代に復活させたのである。
 では沈下橋の方はどうだろうか。最後の沈下橋が建設されたのは昭和46年である。今からおおよそ47年前のことである。沈下橋四万十市の人々に生活用の橋として親しまれており、「生きられて」いる。この点で沈下橋とセンバ船は似ているといえるだろう。私が勝間沈下橋を訪れた時、現地の方と思われる自動車が軽やかに沈下橋の上を走っていくのを見て、沈下橋がいかに四万十の人にとって当たり前のものであるかを実感した。今現在の四万十市に住んでおられる方の中で「四万十のアイデンティティ」として沈下橋を思い浮かべる方は多いのではないだろうか。センバ船と沈下橋、同じ地域に住む人々の中でもアイデンティティは同一ではないことがわかる。

(写真5 沈下橋からの風景)
今回調査をしていて感じたのが、センバ船は今現在の「四万十のアイデンティティ」と共存が難しいのではないか?ということである。今の「四万十らしい」ものである沈下橋がある限りセンバ船は多く増えることはできない、逆にセンバ船が増え、そのルートを拡大するとなれば沈下橋は少なくなることだろう。なにかを選ぶことは、同時になにかを選ばないことにも繋がる。センバ船は四万十川流域を代表し、口屋内、中村、下田の町を栄えさせた、いわば当時の四万十のシンボルの一つであったが、時代の流れにより、人々は生活のために便利で丈夫な沈下橋を建設することを選んだ。つまりセンバ船を選ばないことを選んだのである。多種多様な選択の上に成り立つアイデンティティは一体何が一番「らしい」と言えるのだろうか。これからの四万十の風景はまた時代とともに変化していくのかもしれない。

むすび
今回の調査を通じて以下のことが分かった。
・センバ船は四万十川でたくさんの物資を運んだ運搬船であり、モータリゼーションの到来とともに一度消滅した。
・人と物資のつながりで、植田英久氏の手により「ミレニアムの記念」の際、観光船として復活を遂げる。
・観光船として人気はあるものの数が増やせず、現状一社だけが取り扱っている。
・「本当の四万十の原風景であるセンバ船」は「四万十の新たなアイデンティティ」である。



(写真6 舟母浪漫松廣屋さん 船頭さん)
今回、舟母浪漫 松廣屋さんにお話を聞かせていただいたとき、屋号の由来をお尋ねした。「センバの夢をもう一度、という意味の浪漫で、舟母浪漫です」と教えていただいた。植田さんの夢とも通じるものがあり、センバ船を深く知る人の共通の夢ではないだろうか。私はこの言葉にセンバ船にかかわる方々の深い思いと誇りを感じた。


謝辞
この実習報告を書きあげるにあたってたくさんの方々にご協力いただきました。
忙しい中時間を割いて協力してくださった舟母浪漫松廣屋さんのおかみさん、船頭さん、
突然の訪問にも関わらず快くお話していただいた岡島海運さん、
連日の訪問にも関わらずたくさん貴重なお話を聞かせていただいた植田英久さんと奥様にこの場を借りて心よりお礼を申し上げます。
皆さんのご協力なしにこの実習報告を書きあげることはかないませんでした。皆様の温かいお心にとても感謝しています。本当にありがとうございました。


参考文献
山川海幸雨,1994,『四万十川たより_沈下橋から』南の風社.
永澤正好,2007,『四万十Ⅲ_ムラに生きる』法政大学出版局.
野本寛一,1999,『四万十川民俗誌_人と自然と』雄山閣出版.
三浦裕二・陣内秀信・吉川勝秀,2008,『舟運都市_水辺からの都市再生』鹿島出版会.
公共財団法人四万十川財団,2016,『四万十川のくらし-文化と歴史』(2017,http://www.shimanto.or.jp/sugata/bunka.html,)