関西学院大学 現代民俗学 島村恭則研究室

関西学院大学大学院 現代民俗学 島村恭則研究室

山を下りた人々 −旧幡多郡後川村城の川の事例

社会学部 松岡有紀

【目次】
序章 
第1章 炭焼長者のムラ
 第1節 旧幡多郡後川村城の川
(1) 城の川の暮らし
 第2節 炭焼き又次郎
(1) 炭焼き伝説
(2) 京塚さま
(3) 2月卯の日の祭り
第2章 民宿こばん
 第1節 今倉慶子氏
(1) 旅館を始めたきっかけ
 第2節 屋号「こばん」
(1) 屋号の由来
第3章 今倉商店
 第1節 今倉渉氏
(1)  城の川を下りるきっかけ
(2)  城の川における母の記憶
 第2節 中鴨川の暮らし
(1) 「今倉商店」
第4章 移住先での炭焼き
 第1節 今倉細美氏
(1) 城の川における炭焼き
(2) 炭焼きを中断するまで
 第2節 炭焼きの再開
(1) 炭焼道場
結語
謝辞
文献一覧

序章 
高知県幡多郡(現四万十市)後川村に位置した城の川。現在は、四万十市奥鴨川地区を構成するひとつの地区であり、更に奥鴨川地区の入り口にある人一人やっと歩ける山を登った山中の集落を指す。

(地図:国土地理院1:25,000地形図「蕨岡」「川登」)

第1章 炭焼長者のムラ
1. 旧幡多郡後川村城の川
 城の川地区にはかつて8世帯が暮らしており、明治頃には定まっていたと言う。一番多いときで70人ほどがこの集落で暮らしていた。8世帯はすべて百姓で、自給自足の生活を営んでいた。米のほかに味噌や醤油を作り、冬の間は炭焼きをしていた。
2. 炭焼き又次郎
2-1. 炭焼伝説
 城の川地区には「炭焼き又次郎」という伝説が残っている。ここでは、4つの文献に記載された炭焼伝説について紹介したい。
中脇初枝「ちゃあちゃんのむかしばなし」
 むかし、幡多の山奥の鴨川の、そのまた山奥の城の川というところに、又次郎という働きものの男がおり、炭を焼いて暮らしておりました。
 又次郎は炭がまの中に香の木(花柴)を入れて焼いたので、それはそれはよいにおいが、あたり一面にただよいました。そのけむりは雲をつきやぶって、極楽までとどきました。けむりが極楽にとどくたびに、炭がまのまわりには金の雨が降りました。
 けれども、又次郎はそんなことを気にもかけず、毎日炭を焼きつづけました。炭が焼けると、下田の港まで運んでいっては、米や味噌とかえてきました。
 ちょうどそのころ、京の鴻池という長者の家に、お藤という、それはそれはきれいな娘がおりましたが、どうしたことか、お藤を嫁にほしいというものがありません。いつまでたっても、お藤は嫁に行けないので、易者に見てもらうと
「遠い遠い土佐の国に、又次郎という働きものがいるが、そのものよりほかには縁がない。」
と言われました。
 そこで、お藤は船に乗って、はるばる土佐の国までやってきて、下田の港に着きました。船からおりると、炭問屋の金井屋久左衛門というひとに又次郎のことをきいて、城の川めざし、川べりをずぅっと歩いていきました。
 お藤が板の川まで来たときに、キンマ(木材などを運ぶ、そり形の道具)で炭を運んでいる若者に会ったので、又次郎の家をききました。すると、若者は
「又次郎はわしだが。」
と、言いました。お藤はすっかり喜んで、易者に言われ、又次郎の嫁になるためにここまで来たことを話しました。
 又次郎はおどろいて
「めっそうもない。わしのような貧乏人が、京の長者のおじょうさんなんかと一緒になれるもんか。」
と言って、ことわりましたが、お藤は聞いてくれません。
 しかたがないので、又次郎はお藤を自分の家までつれてもどりました。けれども、その家は、家とは名ばかりのぼろぼろの小屋でした。
 お藤は、ふところから小判を出して、又次郎に、これで必要なものを買ってくるように頼みました。
 又次郎が小判を持って、岩田まで来ると、たんぼでかもが遊んでおりました。小判の値打ちを知らない又次郎は、よし、あいつをお藤さんに食わせてやろう、と思い、小石がわりに小判を投げつけました。
 ところが、小判はかもに当たらず、たんぼの底へ沈んでいってしまいました。
 又次郎が手ぶらでもどって、かもに小判を投げたが当たらなかった話をすると、お藤はおどろいて、小判の値打ちを言ってきかせました。すると又次郎は
「あれが黄金か。あんなものなら、わしの炭がまのまわりにいくらでもある。」
と言いました。
そこで、又次郎に連れられて、お藤が炭がままで行ってみると、あたりは一面、ぴかぴかの黄金の山でした。
 それから、ふたりは、その黄金をダス(炭俵)につめて、京のお藤の親に送り、売ってもらったので、又次郎の家は大金持ちになり、炭焼き長者とよばれるようになりました。
松谷みよ子、桂井和雄、市原麟一郎共著「土佐の伝説」
 中村の町の北を流れる後川をつけて12キロばかりさかのぼり、山あいの中鴨川というところには、炭焼長者伝説で知られる炭の倉さまという小さな祠がある。
 昔、この山奥に炭焼き又次郎という若い男が会った。あまりの貧しさに嫁にくる娘もなく、毎日真っ黒になって炭を焼いていた。そのころ、京の都に名代の長者があって、ひとり娘のお藤は美しい娘であったが、年ごろになっても縁がなく両親を心配させていた。あるとき、法者に占うてもらうと、土佐の国の幡多の山奥鴨川というところに住む炭焼きの又次郎というものが、前世からの夫になる人といわれた。お藤は両親にすすめられ、ただひとり海山の旅をつづけ、幡多の山奥まで尋ねてきた。さびしいところで、谷あいの道を通る人影も見えない。
 そのとき、向こうから炭で真っ黒になったぼろ着物の若ものが、炭俵をかついでくるのに出会った。お藤はこれさいわいと若ものに声をかけ、「鴨川の炭焼き又次郎というお方をご存知では」と、問いかけると、「又次郎はわしじゃが」と、いうた。
 お藤はたまげたが、京から尋ねてきたわけを話し、又次郎の家へ連れて行くように頼んだ。又次郎にはまったく思いもかけんことで、それに育ちのよい京娘を連れて行っても、お藤を泊めるところがない。困りきった又次郎は断りつづけた。けれどもお藤は今は覚悟のうえのこと、たっての願いとききいれず、又次郎もとうとう折れて、自分の小屋へ案内することに   した。お藤がたずねてみると、それはまた話にもできんほどの貧しい暮らしぶりであった。お藤は親もとから持ってきていたお金の中から、小判二枚を出して又次郎に渡し、これで道具類を買うてきてもらうことにした。
 又次郎は小判を見たことがない。後川沿いの岩田というところまでくると、田の中に鴨が遊んでいた。又次郎は小判一枚を鴨に投げつけた。山に帰ってきた又次郎は、お藤に小判のたいせつさを説かれ、そんなものなら炭を焼いたかす灰はみんな黄金じゃと答える。お藤とともに炭窯の裏へまわってみると、かす灰の山はぎらぎら黄金に輝いて見えた。ふたりはこの黄金を炭俵に混ぜて京に送りつづけ、やがて京へ上って鴻ノ池を名のったという。
③ 後川村教育委員会「後川村史」
 天正年間、京都に藏屋芿次郎という者があつて、家は貧しかつたが正直者で信心深い人であつた。この芿次郎に一人の娘があつて藤と言い、美しく、かしこく、すなおな子であつた。父が貧しかつたので、家計を救うために、名を若藤と變えて、身を島原の廓の三賓屋に賣つて遊女となつた。若藤は日頃、芿水の觀音様を信仰して、日參をしていた處、一晩夢に「土佐國幡多郡加茂川村の堺駄場に炭燒又次郎と言う者があるが、その妻となつたならば、富貴繁榮するであろう」と觀音様のお告げがあつた。若藤はまことに有難い事だと思つて、大いに喜んで、早速三賓屋の主人に許しをもらい京都を出る發し、大阪から船に乘つて中村に着き、それから加茂川村堺駄場に來て又次郎に會い、妻にしてくれる様褚んだ處、又次郎は答えて、炭燒の身分で京都の美女をめとる事はふさわしくないからと之をことわつてしまつた。若藤は大變困つてしまい、又次郎の炭山のもとじめである中村の叶屋(カナイヤ)六右ヱ門に會つて、事の次第をすつかり話して褚んだ。そこで六右ヱ門は若藤を連れて又次郎にこんこんと説きすすめて遂に婚姻させることになつた。
 又次郎は後に名を貞四郎と改めて、毎朝香の木を炭に燒いていたが、一日妻の若藤が炭の中をかいた處、丁銀小玉などおびただしく出て來た。若藤と貞四郎は大へん喜び叺の中に長炭を立て其の中に丁銀小玉等を四貫目入れて、一俵を七貫目として、此の様な叺を七十五俵作つて、六右ヱ門の協力を得て、下田浦に廻送して船に積み込み、大阪に着け、直ぐ様京都の父藏屋芿次郎方に送り届けた。貞四郎は其後呉服屋を營んで、家名を炭藏屋と稱して富貴繁榮した。
中村市史編纂委員会「中村市史続編」
 中鴨川の谷川を渡って山道を二キロあまり登ると高い山を望む山腹に現在も京塚神社といって炭焼きのおくらさまの名で知られた小さいお宮があります。
 このお宮の由来についておもしろい話が伝わっています。
 昔、この山奥に炭焼きで有名な又次郎という者が住んでおり、大変貧しい暮しのため嫁にくる者もなく、一人さびしく山で暮し炭を焼いては遠くはなれた中村の町まで運んで商いをしながらその日暮しの貧しい毎日を送っていました。
 丁度そのころ、京都にはある長者がおり、この長者にお藤というそれはそれは美しい娘がおりました。しかし、どうしたことか、年頃になっても縁がなく、両親は大そう心配をしておられました。
 そんなある日のこと両親が易者に見てもらうと、
「あなたの娘さんの御縁は、土佐の国、幡多の中村より北の方角に鴨川という所があり、そこに住む炭焼きの又次郎という男と一緒になると大そう幸せになる」と教えられ、お藤は両親のすすめもあって、たった一人京都からはるばる遠い山奥まで訪ねてきました。
 中村よりずっと北に入った川岸にたどりついたお藤は旅でよごれた自分の身体を洗い、化粧をなおし、又次郎を訪ねるため、さらに山奥に入り歩きつづけました。
 人通りもなく心細さのあまり立ちすくんでいると、顔も手足もまっ黒になっている男が、炭の俵をかついでやってくるので、お藤はこれさいわいと思い、
「炭焼きの又次郎さんというお方を知りませんか」と聞くと、その男はびっくりし、
「わしがその又次郎じゃが。今から中村の町に商いに出るところじゃ」と答えました。お藤は京から長い旅をつづけてわざわざ訪ねてきたわけを話しました。
「今からどうぞあなたさまのそばにおいて下さい。」とたのみました、又次郎にしてみればまったく思いもかけないことゆえ、こんなお姫さまのように美しい娘さんをつれて行っても泊らすところもないので困りはてて断りましたが、お藤は
「今は覚悟の上でございます。」とききいれず、又次郎もしかたなくお藤をつれて自分の住む山小屋につれていくことにしました。
 お藤がたどりついたところは、それはそれは話にならんほどの、貧しい暮しぶりで、お藤はただただ驚くばかりでありました。
 そこでお藤はさっそく親からもらってきていたお金の中から二枚の小判を出し、又次郎に渡し、これで中村の町からいろいろな道具を買ってくるようにたのみました。
 又次郎にしてみれば小判は初めてのことゆえそれがどんなに尊いものであるかを知りません。川下の岩田にきたところ、田の中で鴨があそんでいたので、これを撃ちとってやろうと考え、持っていた小判の一つを石のかわりになげつけました。
 すると小判は鴨にはあたらず遠くはなれた沼の中に沈んでしまい、又次郎は残った一枚の小判を持って町に出かけました。
 小判を出すといろいろおどろくほどのものが買え、又次郎がかつぎきれんほどの道具を買い入れ、お藤の待つ山に帰りました。
 又次郎は一枚の小判は鴨を撃って沼の中に投げすてたことを話すと、お藤はびっくりし
「あれは小判という大切な宝物です。あの小判一つを持ちたい為に世間の人はみんな苦労しているのです」とおしえると又次郎は
「あんなものなら炭焼き小屋のうちに行けば、いくらでもある。炭を焼いたスパイ土がみんなあんなものに変る」と云うのでお藤が炭がまのところに行ってみるとなるほどそこらあたりのスパイの山がみんな黄金にギラギラ光っておったということです。
 この二人は毎日のように、しきびの木を焼いては、出来た黄金を炭の中につめ炭俵のようにして下田の港から京におくりつづけました。お藤の里もあまりの仕送りに大変驚きました。
 やがてこの夫婦は京に上がり鴻ノ池を名乗って大金持ちになったといわれ現在もこの姓を名乗る家系には金持ちが多いといわれています。
2-2.京塚さま
 これらの炭焼伝説の登場人物である又次郎が祀られたのが、城の川に存在した「京塚さま」である。京塚さまは、城の川で暮らしていた8世帯の家の更に奥地に存在した。京塚さまには、商売繁盛、良縁のご利益がある。

(写真:現在の京塚さま、右奥の岩が御神体であったのではないかと言われている)
 現在この神社は奥鴨川全体の氏神五社神社境内に移設・合祀されている。

(写真:五社神社に合祀された現京塚さま)
  2-3. 2月の卯の日の祭り
 この京塚さまでは、昭和30年ごろまで、旧暦2月の卯の日に祭りが催されていた。この祭りの日は、奥鴨川一帯の住民のみに止まらず中村方面からの参拝客が城の川に溢れていたという。祭りの日は、京塚さまの周りに屋台や出店が出ていた。また、素人すもうをとるなど、催し物も行われていた。
城の川で暮らす8世帯は、この日ばかりは無礼講だとお寿司などを参拝客に振る舞った。しかし、炭焼き伝説にある「又次郎の炭窯の炭を持ち帰ると黄金に変わる」という迷信を信じる参拝客へのいたずらとして、参道に炭をまく住民もいたという。

第2章 民宿こばん
1. 今倉慶子氏
1-1. 旅館を始めたきっかけ
 四万十市で民宿を営む今倉慶子氏は、かつて城の川で暮らしていた住民のうちの一人である。幼少期を城の川で過ごし、1954年家族とともに城の川を出て現在の四万十市役所付近で旅館を始めた。もとより母の知り合いが四万十市で旅館を経営しており、勧められたことが城の川を下りた大きなきっかけである。また、城の川を下りて旅館や民宿を始めた家は、慶子さん一家のほかに2軒あったという。建物の老朽化とともに昭和51年に場所を移った。また、旅館より民宿の方が親しみやすいのではという考えのもと、移設とともに旅館から民宿へと変化した。

(写真:民宿「こばん」)
2. 民宿「こばん」
2-1. 屋号の由来
 屋号「こばん」には、炭焼き伝説が関係している。
 
まず、”こばん”という屋号を初めての人に話しますと、
はあ?ご飯ですか?おばんですか?
で、「お金のこばんです」と言い直すと、さすがに伝わります。

ストレートでは50%位の割合ですんなりと伝わりません。
それくらい、馴染みがない響きなんですね。

その次に聞かれるのが、なんで”こばん”なの??
では、その由来をお答えしましょう。

(中略)

四万十市 奥鴨川 城の川(じょうのかわ)。
市街地から約14km離れた四万十川支流の上流に位置し、
今は住む人がいなくなってしまった、山上の集落です。
ここが創業女将の故郷です。


五社神社の向かって右側に常盤神社という小さなトタンで作った社があります。
そこに炭焼き又次郎を祭った京塚さんのご神体をおろしてきてるそうです。

(中略)

炭焼き又次郎が住んでいたとされる場所に
京塚さんと言われる神社を建て、お参りすると
商売繁盛、良縁のご利益があったそうです。
昭和30年頃まで、旧暦2月卯の日にお祭りが催されていたそうで、
城の川まで鴨川の麓(上写真の神社)からでも1時間ちょっとかかります。
当然、徒歩登山です。それでも、幡多郡内からたくさんの人が集まり、
列をなしてご利益頂くために山道を上っていったそうです。

(中略)

とても長いお話でしたが、
そんな故郷の昔話に思いを馳せ、
「こばん」と名付けました。

(引用:四万十市の民宿 隠れ宿”民宿こばん”紹介ブログ)
 このように、こばんは炭焼伝説に由来していることがわかる。城の川を下りた今も、屋号として、城の川がかつての住民である慶子氏のそばにあることが分かる。

第3章 今倉商店
1. 今倉渉氏
1-1. 城の川を下りるきっかけ
 昭和5年、今倉渉氏は城の川で生まれた。小学生までは、奥鴨川地区の学校に通い、中学生からは、少し離れた利岡にある学校に通った。昭和27年、22歳のころに城の川を下りるまでは、稲作や炭焼きを行い、百姓として生計を立てていた。城の川のふもとにある、中鴨川では、商売ができるのではないかと思ったことがきっかけだったという。
1-2. 城の川における母の記憶
 四万十市奥鴨川地区を構成する一つである中鴨川で、今倉渉氏は現在も暮らしている。渉氏の母乾氏は、城の川一の物知りであったという。城の川では、養蚕を行い独学で学んだ機織りをして暮らしていた。また、城の川地区や、幡多に残る諸民話を、近隣の子供に話して聞かせることが多々あった。炭焼伝説もその一つである。
2. 中鴨川の暮らし
2-1.  「今倉商店」
昭和27年、雑貨店「今倉商店」を開業すると、酒やみそ、しょうゆの卸売りや精米を行い、奥鴨川地区へ配達を行っていた。また、奥鴨川地区には以前7軒もの店が存在し、渉氏のお店のほかに、魚屋、駄菓子屋、酒屋、飲み屋などがあった。民家だけでなく、飲み屋への商品の配達も行っていたという。繁忙期は正月前であり、奥鴨川の世帯を一軒ずつまわり、精米を行った。このように、今倉商店は平成17年に店を閉じるまで、53年間奥鴨川地区の暮らしとともにあった。

第4章 移住先での炭焼き
1. 今倉細美氏
1-1. 城の川における炭焼き
 今倉細美氏は、前章に登場する今倉渉氏の2つ年下の弟である。同じく城の川で生まれ、20歳の時に下りるまで城の川で暮らした。炭焼伝説が残っている通り、幡多は大変炭焼が盛んな地域であり、例によって城の川もそのひとつであった。城の川地区では、竹炭を生成しており、農作物の取れない冬の間、住民は炭焼に徹していた。
1-2. 炭焼を中断するまで
 細美氏は、昭和27年20歳の時に城の川を下りると、城の川のふもとにある五社神社から20分ほどの奥鴨川地区内で生活を始めた。城の川を下りてもなお、生業を炭焼とし、昭和40年四万十市具同田黒に移住をしても炭焼を続けた。
 しかし、電気・ガスなどの発達により炭焼を生業とすることに限界を感じ、昭和42年35歳の時より近隣の製材会社で勤務を始めた。勤務する中で、城の川の暮らしを思い出し、懐かしむ瞬間があったと語っている。
2. 炭焼の再開
  2-1. 炭焼道場
 細美氏は定年後、具同田黒にある自宅の近くにスギの皮ぶきで炭焼き小屋を建設し、中にはブロックを積み上げた炭焼窯をつくった。城の川への思いが起こした行動であった。町の中での炭焼きは瞬く間に評判になり、新聞の取材を受けるほどであったという。また、新聞の取材を受けたことで、記事を見た夫婦が細美氏のもとに、炭焼き体験をさせてほしいと訪ねてきた。細美氏はこれを機に、炭焼き体験教室を開設し、「炭焼道場」と名付け80歳で窯を閉じるまで続けた。

(写真:細美氏が焼いた竹炭)

結語
 本調査は、かつて高知県四万十市奥鴨川地区城の川で暮らし、現在は城の川を離れた人々の人生を追うことにより、人々の心に残る城の川への思いを明らかにした。第2章では屋号、第3章では生活の場、第4章では炭焼を通し、人々の心に今もなお城の川における暮らしが色濃く残っていることが分かった。また、城の川で暮らした人々のつながりが、現在もなお続いているということも分かった。

謝辞
 本論文の執筆にあたり、大変多くの方々にご協力をいただきました。民宿の経営でお忙しい中、たくさんのお話を聞かせてくださり貴重な資料を見せてくださった民宿こばんの女将の今倉慶子氏、ご子息の達也氏、奥鴨川地区に関する貴重な資料を見せてくださり五社神社また奥鴨川地区一帯を車で案内してくださった今倉渉氏、貴重な竹炭を見せてくださり、自宅付近を案内してくださった今倉細美氏、以上の皆様の協力なしには、本論文を完成することはできませんでした。
 皆様との出会いに感謝し、お力添えいただいたすべての方々にこの場を借りて心よりお礼を申し上げます。本当にありがとうございました。

参考文献
中脇初枝,2016,『ちゃあちゃんのむかしばなし』福音館書店
松谷みよ子、桂井和雄、市原麟一郎共著,『土佐の伝説』角川書店
後川村教育委員会,1954,『後川村村史』後川村役場
中村市史編纂委員会,1984,『中村市史続編』中村市