関西学院大学 現代民俗学 島村恭則研究室

関西学院大学大学院 現代民俗学 島村恭則研究室

四万十川流域の養蚕

社会学部 社会学科 川路瑞紀

【目次】
はじめに
第1章 桑
1. 桑の栽培
2. 桑の採取と運搬
第2章 養蚕
1. 蚕種
2. 蚕
3. 蛹
第3章 繭の出荷
1. 繭から出荷するまで
2. 出荷してから次の蚕まで
第4章 養蚕と衰退と消滅
1. 衰退と消滅
2. まゆうちわ
むすび
謝辞
参考文献

はじめに
蚕が繭を作り、その繭が糸となり、糸は織られて絹になる。明治時代以降、近代化を進める日本にとって、蚕を飼育する養蚕業は、外貨を得るための重要な産業であった。かつて繭・絹共に世界一の生産国となった日本では、関東を中心に全国各地で養蚕が行われていた。高知県四万十市にある四万十川流域もその一つである。
四万十川流域における養蚕がいつ始まったのか正確な記録は残されていないが、戦前のピークは大正期から昭和初期、戦後のピークは昭和40年代であった。データによれば、旧西土佐村だけでも昭和46年の養蚕農家戸数は363戸、昭和48年には収穫量が86.7tを記録し、昭和50年には1,200万円もの販売代金があったという記録が残されている。それ以前から養蚕は各家庭で行われていたが、蚕の糞であるコクソを掃除するのが重労働だったことや、適温に保つため火をつけ続けなければならなかったことなどから、多くは飼われていなかった。しかし、複数の要因から養蚕が盛んに行われるようになる。第一に考えられる要因は地形の関係である。四万十川流域にある田が少ない地形では、四万十川の氾濫の際に浸水しやすく、近隣住民はその被害に悩まされていた。しかし、養蚕は、餌となる桑畑の収穫を被害に遭う前に終了させれば、あまり増水の被害を受けずに済んだことから、盛んに行われるようになった。その他にも、絹の需要が高まったことや、使用される機械が発達したこと、蚕の品種改良が行われたことなどの要因から、養蚕する家庭が増加したと考えられる。
四万十川流域で養蚕を行うようになった人の中には、嫌々ながら蚕を飼うことになった人や、蚕とともに成長していった人も多い。そのくらい、当時は蚕を飼うことが当たり前であった。ところが、昭和60年代になると養蚕をする家庭は次第に減少の一途を辿り、現在では、地域の子どもたちに対しての総合学習として行われている場合はあるが、産業としての養蚕はもう完全に消滅してしまっている。
今回調査を行ったのは、四万十市にある大川筋地区である。四万十市は旧西土佐村と旧中村が合併して出来た広大な市であるが、大川筋地区は旧中村に位置している。養蚕は、この大川筋地区はもちろん、愛媛県寄りである旧西土佐村から市街地である中村の手前までの広範囲に渡って行われていた。本稿は、かつて調査地である旧中村に位置する大川筋地区において養蚕をしていた竹澤氏(旧竹内氏)、岡氏・伊与田氏および旧西土佐村に位置する中組において養蚕をしていた高屋孝子氏、また後述するまゆうちわを製作していた高屋健一氏による語りとその他養蚕に関する文献をまとめたものである。

第1章 桑
1. 桑の栽培
 桑の葉は、蚕の餌となるものである。大川筋地区ではこの桑の栽培を行っており、以前は辺り一面桑畑が広がっていた。そのため、あちこちに桑の実が落ちており、子どもが桑の実を食べる光景はよく見られたそうだ。また、大川筋地区は平地な地形であるため、桑を栽培することが可能であったのに対し、中組は山地であったため、桑を愛媛県との県境まで採りにいく必要があったと高屋孝子氏は話していた。
 大川筋地区で養蚕が消滅した後、至る所にあった桑畑はどうなったのかというと、みかんなどの果樹を植える等の施策を行ったそうだが、やはり四万十川の氾濫による被害が懸念されるため、最も有効な施策がなく、そのまま放置され荒れている場所も多く見られる。

(写真1) 現在の大川筋地区

2. 桑の採取と運搬
 昭和30年代頃、高屋孝子氏は旧西土佐村にある実家で養蚕を行っていた。当時はまだ機械も車もない時代だったため、桑の採取は裁縫道具にある指ぬきのような道具で行っていた。桑の葉をちぎっては放り、ちぎっては放りを繰り返す。早朝から始まるうえ、蚕の世話をしながら行き来する必要があり、休む時間もなかったという。そうして採られた桑の葉は大きな籠いっぱいに詰められ、竿のような木の棒の前後に結び、背負うような形で運ぶ場合もあれば、リアカーに積んで運ぶ場合もある。いずれにしても、急斜面かつ長距離を運ぶ必要があり、骨が折れる仕事だったそうだ。

(写真2) 運搬の際使われていた籠

時代が進むと、旧中村および旧西土佐村で、桑の採取や運搬の際に機械が使われるようになる。一つは耕耘機である。耕耘機は後ろに荷物をつけて桑を運ぶことができ、所有している家庭は多かった。人が乗ることも可能であり、大勢の人が自分の車のようにして乗っていたそうである。
また、竹内氏の家庭では、国の補助金を得て桑の枝切り機を購入した。これは県の普及員や農協が養蚕に積極的に協力したからこそ実現したそうだ。その他にも、伊与田家では運搬の際に軽トラックを利用していた。多いときで、一回につき100束もの桑の葉を積むときもあったそうである。
また伊与田家では、葉を切る際は、次の蚕のために20〜30センチほど残して上の部分を切るという工夫をしていた。蚕を飼えば飼うほど蚕の成長速度と桑の成長速度が間に合わなくなるため、計算して採取しなければならない。加えて桑の手入れも大変だったという。
 高屋孝子氏が中組で養蚕をしていた際、運ばれた桑の葉は、家の床下で保存していた。実家の床下に、保存専用の穴を掘っていたそうである。床下は湿気があり、桑を乾燥させてはならないという条件に合った場所だったからだ。また、桑の葉は乾燥の他に、蒸れてもダメになってしまうため、適度に混ぜる必要もあったそうだ。

第2章 養蚕
1. 蚕種
 ここからは、蚕の卵である蚕種の段階について述べていく。その前に、蚕がどのように成長していくのかを大まかに説明する。まず蚕は、孵化してから約一か月の間エサとなる桑を食べ続け、計4回の脱皮を繰り返しながら成長し、最後には蛹の期間を過ごすための繭を作る。蚕は脱皮が近づくと桑の葉を食べるのをやめ、動かなくなる。その様子が眠っているかのように見えることから「眠」と表現され、初めて眠を行うことを「初眠」という。そして皮が剥け桑を食べるようになり2,3日すると再び眠を迎える。これが2眠である。そうやって3,4日経つと3眠、5,6日経つと4眠を迎える。ちなみに4眠は最後の眠であるため、「おおどまり」と呼ばれていた。おおどまりを済ませた蚕は次第に糸を出し、蛹となる。また、蚕が初眠を迎えるまでの期間を1齢、初眠後に脱皮してからの期間は2齢、と脱皮をする度に齢を重ね、最終的に5齢まで成長するのが一般的である。ここまでの飼育を、1年の4月から11月前までの暖かい時期に限り行っていた。詳しくいうと、4月頃に飼われる蚕が春子、続いて夏子、秋子とがあり、その他にも真夏日に飼われる土用子や、秋子がまだ家にいる段階で飼われる晩々子などもあった。多くの蚕を飼育していた伊与田家では、年8回も蚕を飼った時期があったそうである。
 四万十川流域では、蚕種は箱に入れられてやってきていた。大きさは2mmほどであったため、匹単位ではなくグラム単位で飼われていた。一回につき何グラムなのかは家庭により様々であるが、多い家庭では70〜80gほどの蚕を育てていた。蚕種を取り扱う際には、潰れるのを防ぐため、鳥の羽や刷毛のようなもので掃いて取り扱う必要があった。そうしてしばらくすると蚕種は卵から孵り、桑を食べるようになる。しかし、小さいうちは大きなまな板の上に桑の葉を置き、包丁のようなもので小さく切り刻んでから与えていた。枝ごとあげると潰れてしまうからである。葉の量は多く、こちらも大変な作業だったようだ。そうして成長した蚕が2齢になり黒色が濃くなってくると、普及員が買い取り、他の養蚕農家に配る場合や養蚕農家に直々に取りに来てもらって配る場合もあったようである。

2. 蚕
 ここからは、1齢から5齢までの蚕について述べていくこととする。蚕は桑の葉を食べれば食べるほど大きくて重い繭となるため、朝・昼・晩と欠かさず桑を食べさせなければならない。その際、「えびら」と呼ばれる道具が使われていた。このえびらの上に蚕を乗せ、上から桑を与えていく。中組で養蚕をしていた高屋孝子氏は、桑の葉だけを採取し食べさせていたのに対し、大川筋地区では、蚕がまだ幼い頃は桑の葉のみを切って与え、成長するとともに一枚の葉をあげるようになり、最終的には枝ごと与える形が多かったようだ。桑を食べ成長した蚕は、1齢の頃は7mmほどの大きさで黒っぽかったのに対し、5齢ほどになると60〜70mmほどの大きさにまでなり、青白くなる。
えびらにはコクソ(蚕の糞)や桑の食べ残しが溜まる。そうしたらまた綺麗なえびらへと移し、溜まったコクソや桑の葉は焼いて処分したそうだ。何匹もの蚕が桑を食べる音は、ザーザー雨が降るときのような、ムシャムシャとなんともいえない音がしたと印象深そうに話す人が多かった。
桑のあげ方も工夫をしていたと伊与田氏は教えてくれた。桑をあげていくと、蚕が偏り薄くなって穴があく場所が現れる。その穴が開かないように、交互に上手くあげなくてはダメだという。蚕は来るたびに大きくなるからかわいらしい、同じように飼っていてもよく食べる子もいればあまり食べない子もいて、人間と同じだと笑いながら話してくれた。

(写真3) えびら

3. 蛹
 次に、蚕を上蔟し、繭を作り蛹となるまでの過程を述べていく。蚕が5齢になると、桑を食べるのをやめる。その状態を「蚕があがる」と表現する。そうすると次第に5mm〜1cmほど縮んで、白から透明へと変化する。その段階になると、繭を吐き出す前に、「蔟」と呼ばれる巣に移さなければならない。竹内家では上蔟する建物と蚕を育てる建物を分けていたため、蚕が通るほどの穴がある網に蚕をたからせ、蚕がくっついた網ごと移動させ、持ち上げて落とすという作業を行っていた。蚕があがる日は親戚や普及所の人、農協の人も手伝ってくれるほど忙しかったそうである。
 上蔟の際に用いられていた道具が回転蔟である。回転蔟とは、蚕が一匹入るほどの幅で等間隔に仕切られたボール紙製の枠を、10個ほど木枠に固定して使うものである。回転蔟はその名のとおり回転させる必要があるため、天井から木枠の両端を吊るし専用の針金で吊るして使う。秤で計量された一定量の蚕を回転蔟の下へ落とすと、蚕は下から上に登っていく性質があるため、高いほうへ移動してくる。すると重心が上になるため、回転蔟は半回転する。そうやって回転を繰り返しながら、蚕は自分たちの専用の穴を見つけ、そこで繭を作っていく。穴を見つけるまではコクソやおしっこを出すので、下には新聞紙またはネットを張っていた。伊与田氏曰く、染みが出来たら繭の値段が下がってしまうので、おしっこが出る蚕は下へ回し、綺麗なものを上に回すようにしていたそうである。また、穴に灯りを当てて見てみると、蚕が実際に中で糸を出している様子が分かるのだそうだ。

(写真4) 上蔟の際に使われていた秤


(写真5) 回転蔟1


(写真6) 回転蔟2

 前述したとおり、竹内家は蚕を育てる建物と上蔟する建物を分けていた。蚕を育てる場所は、元々鶏を飼っていた小屋を養蚕専用に変えたものである。対して上蔟する建物は、一見普通の家に見えるほどの、立派な瓦屋根の二階建ての家である(写真7)。8畳ほどの部屋が3つ並ぶほどの広さを持ちながらも人間は住まず、蚕のためだけに使われた。一方、伊与田家では蚕の飼育と上蔟を同じ建物で行っていた。まだピークを迎える前の段階では小さなスペースで養蚕をしていたが、より広い飼育場所が欲しくなり、バブル期に養蚕専用の建物を建てた。その他にも倉庫があり、そこでも養蚕を行っていたそうである。

(写真7) 上蔟を行っていた建物の外観


(写真8) 回転蔟を吊るしていた跡

第3章 繭の出荷
1. 繭から出荷するまで
 繭が固くなり蚕が蛹になると、いよいよ出荷となる。蛹になって色が黒くならないと機械をかけたときに繭が傷んでしまうため、完全に蛹になるまで待つ必要があるそうだ。そうして出来た繭を蔟から外し、まず毛羽取りを行う。毛羽とは、繭の周りにあるふわふわとした毛のことである。櫛のようなものがついた機械を使用し、上から押し出すようにして蔟から繭を外した後、毛羽取り機にかけると、毛羽が取り除かれ、つるっとした綺麗な繭になる(写真9)(写真10)。

(写真9) 毛羽取り機1


(写真10) 毛羽取り機2

その次に行う作業は選別である。木製の大きな台に繭を乗せ、上から綺麗な繭か否かを選別する。この作業に一切の妥協はしなかったと伊与田氏は話していた。自分自身がそういう性格だから、何回も何回も繰り返し、丁寧に選別をしたそうである。ちょっとした汚れがついているだけでもすぐに外してしまっていた。良い繭じゃなければ値段が落ちてしまうし、なんせ汚い繭と一緒にされるのが嫌だったと話す。当然、大川筋地区内で競争心もあったそうだ。こういうのは張り合いがないとダメだという。私が話を聞きに行った際、繭の品質に関して県や市、四国から表彰してもらったことがあると教えてくれた人が多かった。

(写真11) 選別台

 選別し終わった繭は袋詰めされ、農協に回収されて出荷となる。ここで選別漏れの繭をどうしていたのかについて述べたいと思う。汚れがついていた、二匹の蚕で一つの繭になってしまった、繭になる途中で死んでしまった等の理由で選別漏れとなった繭を自分たちで煮て糸にしていた家庭は多い。なぜ煮るのかというと、繭糸にあるセリシンと呼ばれるたんぱく質が煮ることにより一部溶け出した結果、糸がほどけやすくなるからである。岡氏はこの煮ているときの臭いも記憶に残るほどなんともいえない臭いだったと話していた。高屋孝子氏の家庭も商品に出せない繭を糸にしていていたため、以前は絹糸を巻いた枠が何本も家にあったという。伊与田家は機織り機があったため、同じように糸にしたものを織って布にしていた。竹内家も、煮て糸にし、機織りで織り、着物を作っていたそうである。このように選別漏れの繭で出来た糸を織って出来る布のことを「紬」と呼ぶ。竹内家曰く、二匹入った繭等を使っているので、一匹よりも糸が太くなり、絹の表面がデコボコするのが独特の味となっているのだという。

2. 出荷してから次の蚕まで
 蚕があがる日と出荷日の時期は、養蚕農家において最も忙しい時期である。しなければならないことは多く、手伝いの人や雇い人と合わせて作業を行う。そうしてやっと出荷が終わると、次の蚕の間まで少し楽になるので、竹内家では手伝ってくれた人たちに対してごちそうをし、一緒にお酒を呑んで一息ついたそうだ。伊与田家でも、同じように雇っている人に対してご飯をごちそうし、労をねぎらっていたそうである。
 出荷が終わり次の蚕を飼うまでの期間は、コクソ等の処理や道具の掃除をし、次の蚕に備える。そうして繰り返し11月頃まで養蚕を行ったあと、冬を迎える。養蚕農家は養蚕専業ではなく、兼業農家が多いため、冬の間は別の作物の栽培および稲作を行っていた家庭が多い。四万十川流域において、最も中心として行われていたのは稲作であった。年間を通して稲作を行い、その合間に養蚕を行っていたのである。稲作と養蚕を掛け持ちするのは、両方に気をかけておく必要があり、休みがなく、たいへん重労働だったそうだ。現在、前述したとおり養蚕は消滅してしまったが、稲作は今でも引き続き行われている。


第4章 養蚕の衰退と消滅
1. 衰退と消滅
 四万十川流域において昭和40年代にピークを迎えた養蚕だが、昭和の終わり頃になるとその数を減らす。四万十川流域で養蚕が衰退した要因について触れる前に、そもそも日本全体でどのように養蚕が衰退したのかについて言及したい。かつては、日本が外貨を得るための重要な産業として養蚕業があった。昭和初期には年間で約40万tもの繭を生産し、世界一にまで上り詰めた。だが、第1次世界大戦などの戦争による影響を受け、繭の生産は一旦減少する。そして昭和30年代から始まった高度経済成長により日本人の所得が増加した結果、国内における着物の需要が高まり、絹が国民に普及し始める。絹の需要が増加すればおのずと繭・生糸の増産計画も立てられるようになり、ピークである昭和44年には戦前の半分程の生産量にまで達した。しかし、高度経済成長による所得増加は、生糸の需要を増加させた一方で、家具の洋風化やマイカーなどの普及も促進させた。その結果、せっかく高まったきもの需要も、次第に洋風化に飲まれてしまい、長続きはしなかった。これが養蚕の衰退へと繋がったのである。
また、外国産生糸の輸入の増加も養蚕が衰退した要因であると考えられている。具体的に国を挙げると、韓国や北朝鮮、中国、ベトナム、ブラジル等である。外国産の生糸は、賃金上昇の影響により、国産よりも低いコストで生産することが可能である。すると、国産の高い生糸よりも外国産の安い生糸の方に需要が高まるようになり、外国産の生糸の輸入が増加した。そして次第に国内の養蚕が衰退してしまったのである。
 四万十川流域における養蚕が衰退したのも、日本で作られた絹の価値が低下したことが要因の一つであることは間違いない。前述したとおり、養蚕の作業は重労働である。常に蚕を中心とした生活が求められるといっても過言ではない。にもかかわらず、絹の価値が下がり、それだけの労働に合った収益が得られなくなり、養蚕から離れた人は増加した。また、若者が地元から都会へ出て行ってしまったことも要因の一つだと考えられる。都会に対して憧れを抱き出ていく人が多く、引き継ぐ者がいなくなってしまったのである。
 ここからは、養蚕を辞めた家庭が何を始めたかについて触れたい。養蚕をしていた人が高齢になったため、辞めた後に何も始めなかった家庭もあれば、新しく何かを始めた家庭もあった。例えば、当時は山のチップが高く売れたため、チップ切りの仕事をする人や、狭い国道を広げる工事が多くなされていたので、土方などをする人もいた。菜花を植えることを勧められた家庭もある。菜花は、秋に種を蒔き、冬から春にかけて収穫するため、四万十川の氾濫の影響を受けなかったからである。私が話を聞いた竹内家では、養蚕を辞めた後、苺の栽培を始めた。辞めた当時では苺農家自体が少なく、1パック約1,000円するほどお金になったからである。先に養蚕から苺栽培へ移行した家庭から苗を分けてもらい、ビニールハウスを建てて、本格的に苺を栽培するようになった。
 このように、昭和60年代になると、様々な要因から養蚕を辞め、別の道へ進んだ者が多く、四万十川流域における養蚕は減少の一途を辿った。その過程でまゆうちわという製品がつくられ、一時期繁栄を見せたが、それも現在では生産を終了し、養蚕は消滅した。次項では、そのまゆうちわについての説明を述べる。

2. まゆうちわ
 四万十川流域で養蚕が減少し始めている頃、養蚕を何かの形として残せないかということで生まれたのがまゆうちわである。まゆうちわとは、うちわの面の部分が全て蚕の糸で作られているうちわのことをいう。まゆうちわを作り始めたのは、大川筋地区の養蚕農家たちだ。岐阜県でまゆうちわを生産しているのを知った養蚕農家たちは、指導員に来てもらって作り方を教えてもらい、生産し始めたのだそうだ。伊与田家が所有していた養蚕専用の倉庫を、使わなくなったのを理由に貸し出し、そこで生産を行っていた(写真13)。しかし生産者も高齢化が進み、まゆうちわが途絶えそうになる中で、高屋健一氏が代わりに引き継ぎ、生産を続けた。

(写真12) まゆうちわ


(写真13) まゆうちわを生産していた建物

 高屋健一氏は当時から現在までも屋形船の船頭をしている。よって当時はまゆうちわの生産と屋形船を掛け持ちしながら行っていた。高屋氏がまゆうちわと出会ったのは平成9年か10年のことである。以前京都で染織をやっていた経験があったことから、まゆうちわの存在を知る機会があり、そこからまゆうちわに興味を持ったのだそうだ。よく、養蚕の復活を望んでまゆうちわを引き継いだのではないかと訊かれるそうだが、決してそうではなく、まゆうちわ自体に惹かれて始めたのだと話していた。
 蚕を飼って育てるという作業を担っていたのは高屋氏一人だけだった。愛媛県から3g程の蚕種を購入し、そこから上蔟する手前まで育てていく。遮光ネットを容器にし、上から桑の葉を与えていた。始めた頃は糸を出し始める状態の見分けがつかず、難しかったと話す。
 5齢になり、糸を出し始めるようになった蚕をうちわの骨組みに這わせる。この作業は高屋氏や地元住民と合わせて行っていた。うちわを回さなければ満遍なく糸を張ってくれないため、朝から晩まで一本一本、うちわを回す必要がある。そのため、昼間のうちは片面につき6,7匹程の蚕を這わせるのに対し、回せない夜には1,2匹に減らして帰っていたそうだ。蚕は器用にうちわの周りに糸を吐いたあと、どんどん内へ入りながら糸を吐く。そうして一気に糸を張らせ終わると、骨組みの周りの部分をハサミで切り落としていた。このような作業の末、一回の蚕につき約100本のうちわを生産していた。まゆうちわは無地のものもあったが、その他にも、以前染織をやっていた経験を生かして、切り絵やブラシで模様を付けたまゆうちわもあった。まゆうちわは少しの手違いでダメになってしまうくらい繊細なものであるため、全く上手くいかず、お手上げになってしまった年もあったのだという。
 養蚕農家がまゆうちわを生産し始めた頃は、1本1万円程の値段で販売され、額縁に入れて飾られるほどの高級品であった。しかしそれでは売れないと考えた高屋氏は、値段を下げて販売した。具体的にいうと、無地のもので一本5,000円、切り絵の模様で7,000円、ブラシで模様付けされたもので2,500円ほどの値段だったそうだ。無地のものが一番よく売れたという。まゆうちわはよく売れた時期があった。地元の直販所であるかわらっこ市にまゆうちわを置いても、すぐ品切れになった。ネット販売も行っており、購入者は新聞などのメディアでまゆうちわの存在を知った人たちで、リピーターが多かったそうだ。作家がうちわの面に文字を書くために購入する場合もあり、県外から問い合わせがくる場合もあった。しかしながら、年々販売数は減少し、最終的には赤字になってしまった。まゆうちわの生産は重労働であるため引き継ぐ者もおらず、今から約4年前に生産を終了した。

(写真14) まゆうちわの作業風景

むすび
 以上が、四万十川流域に位置する大川筋地区および旧西土佐中組の養蚕について記述したものである。それらをまとめると、次のようになる。
1. 四万十川流域における養蚕の戦前のピークは大正から昭和にかけてであり、戦後のピークは昭和40年代である。
2. 四万十川流域で養蚕が盛んになった要因として、四万十川の氾濫による被害をあまり受けなかったことや絹の需要が高まったこと、機械の発達、蚕の品種改良などが挙げられる。
3. 四万十川流域における桑の栽培状況は地形によって様々である。使用していた道具で当時の時代背景を見ることもできる。
4. 養蚕は、重労働かつ蚕中心の生活を求められる。上質な繭をつくるために数多くの工夫をしていた。その分養蚕にまつわるエピソードも多い。
5. 昭和60年代になると、四万十川流域における養蚕は衰退した。その要因として、国内で生産された絹の価値が下がったこと、若者が都会へ出ていってしまい後を継ぐ者がいなくなってしまったこと等が挙げられる。養蚕を辞めて次の仕事を始めた者も多く、現在では消滅している。
6. 衰退の過程で誕生したのがまゆうちわである。地元の人たちによって生産されていたが、約4年前には生産を終了している。

【謝辞】
本稿を執筆するにあたり、多くの方々にご協力頂きました。突然お伺いしたにもかかわらず、貴重なお話をたくさん聞かせてくださった高屋健一さん。いきなりやってきた私に元養蚕農家さんを紹介してくださった弘田晶子さんおよびかわらっこの皆様。当時の養蚕について詳しくお話してくれ、親身になって助けてくださった竹澤香さん。買い物中だったのにもかかわらず、様々なお話をしてくださった高屋孝子さん。養蚕についての話を聞かせてくれた上に、たいへん親切にしてくださった岡郁美さん。養蚕について丁寧に分かりやすく説明してくださった伊与田信子さん。
皆様のご協力がなければ、本論文を執筆することはできませんでした。この場を借りて、心より感謝申し上げます。本当にありがとうございました。

【参考文献】
・高木賢編著,2014,『日本の蚕糸のものがたり―横浜開港後150年 波乱万丈の歴史―』大成出版社
・伊藤智夫,1992,『ものと人間の文化史 絹Ⅰ』法政大学出版局
・伊藤智夫,1992,『ものと人間の文化史 絹Ⅱ』法政大学出版局
・岩井宏實,2013,『民具・民俗・歴史―常民の知恵と才覚』慶友社
・西土佐村史編纂委員会,『西土佐村史 高知県幡多郡西土佐村』高知県幡多郡西土佐村教育委員会事務局
 ・西土佐村史編纂委員会,2009,『西土佐村史:永久保存版』四万十市
・中村市史編纂委員会,1984,『中村史 続編』中村市