社会学部 菊井 大希
[目次]
序章
第1章 口屋内と炭焼き
第1節 炭焼きとは
第2節 主要産業としての炭焼き
第2章 口屋内とせんば舟
第1節 せんば舟と炭
第2節 せんば舟の衰退
第3章 口屋内の盛衰
第1節 マチバとしての口屋内
第2節 マチバの衰退
第4章 新たな鍛冶屋の誕生
第1節 行政の政策
第2節 工房くろがねの設立
結語
謝辞
参考文献
序章
今回、調査を行った四万十市旧西土佐村口屋内という地域は、四万十川の河口から25キロほどの四万十川と黒尊川が合流する地点に位置している。この地にはかつて野鍛冶や炭焼きが存在し、集落は炭焼きや林業を中心に栄えた。現在は人口も減少し、野鍛冶や炭焼きは姿を消したが、くろがね工房というたたら製鉄や鍛治を行っている工房が集落に存在する。本稿では「マチバ」における盛衰の事例を、口屋内というフィールドにおける工房くろがねの設立までの背景を取り上げる。
写真1 四万十川(右)と黒尊川(左)の合流点
第1章 口屋内と炭焼き
第1節 炭焼きとは
炭焼きとは木炭が燃料として使われていた時代に至るまで伝承されてきた木炭を製造する技術である。製造された木炭は家庭用の燃料になることもあれば、たたら製鉄など産業用の燃料として用いられることもあった。エネルギー革命により主要な燃料は木炭や石炭から石油へと転換したが、このように需要が多かったため、各集落に2、3ほどの炭焼き職人が当時は存在したという
第2節 主要産業としての炭焼き
口屋内付近で合流する四万十川と黒尊川の流域には、炭焼きに関わることで生計を立てる人が多くいた。この口屋内は今でこそ農業も行われているが、昔はあまり豊かな土地ではなかったために、畑や田の仕事ではなく山の木を使う仕事が盛んだったという側面もある。
炭焼きに用いられたのは川の流域に自生していた広葉樹が主で、これを伐採して炭にし、四万十川を下って河口にある下田へ売りに行く者もいれば、自身の生活のためにこれを行っていた者もいた。また、口屋内で炭焼きに携わっていたものの中にも、樹木を自身の力で入手できる者とそうでない者がおり、自分で樹木を切って炭を作る力を持たない者はそうした力を持っているいわば親分の手を借りて炭を入手していた。この際、親分に対して「ヤマテ」と呼ばれる代金を納めなければならなかったという。ここで「親分」にあたらない人々はやはり炭を大量生産するといったことはなかったようで、炭焼きで大きな儲けを得て暮らしていたわけではなかった。
第2章 口屋内とせんば舟
第1節 せんば舟と炭
口屋内で作られた炭を四万十川の河口・下田へ運ぶ手段として、せんば舟が使われた。現在、せんば舟は観光用として残っているが、炭焼きの最盛期には口屋内のみならず、四万十川流域の多くの地域で主に炭や生活物資を運ぶ手段として用いられていた。これは、中村と口屋内などの四万十川の流域にある集落を結ぶ道路が貧弱だったことが背景にある。このせんば船には2人1組で乗り込み、一人は帆を操り、一人は舟を漕ぐといったような役割分担があった。夫婦でせんば舟に乗ることもあったという。口屋内で作られた炭を舟に載せ、下田で降ろし、その日の夜は下田周辺で過ごし、翌日下田や中村で入手した物を載せて川を上り、口屋内に帰ってくるという二日がかりの行程が多かったそうだ。
第2節 せんば舟と炭焼きの衰退
西土佐村史によると、昭和30年代から口屋内を含む西土佐村の広い地域で道路の拡幅工事や舗装工事が行われるようになった。これにより、四万十川沿いの集落と中村市街を車で往来することが容易になった。また、炭焼きに利用するため木が伐採された土地には杉や檜といった針葉樹が植樹され、人工林が形成されていった。これは当時、エネルギー革命やモータリゼーションの波により炭の需要が急激に低下していた一方で、木材の需要が高まっており、口屋内などの四万十川流域の山林が注目されたことが背景にある。そのため、次第にせんば舟の輸送船としての需要は無くなっていった。一方で、せんば舟の往来が無くなったことで、沈下橋のような比較的川面から低い橋を架けることが出来るようになったとも考えられる。
写真2 植樹された常緑樹の人工林
写真3 口屋内の右岸と左岸を結ぶ口屋内大橋
第3章 口屋内の盛衰
第1節 マチバとしての口屋内
この口屋内という地域は、現在でこそ下流の中村や上流の江川崎といった地域と容易に行き来することができるが、前章でも述べたように道路の整備が行われるまでは車両による往来も難しく、口屋内は独立した一つの集落として存在していた。人口が最も多かったこの昭和30年代、口屋内には雑貨店や居酒屋、さらには映画館などが存在したという。居酒屋は船乗りから百姓まで、口屋内の人々が集まる憩いの場であったという。また、映画館は口屋内の中に二つあり、少なくとも一つは口屋内で炭焼きをされていた「親分」にあたる方が経営されていたものであったことが分かった。
第2節 マチバの衰退
口屋内の属する西土佐村の人口は昭和40年頃が最も多く、約8000人もの人々が暮らしていたが、現在の西土佐村の人口はその半分ほどにまで減少している。前節で述べた映画館なども姿を消し、現在は空き地となっている。
また、集落には口屋内小学校という小学校があった。こちらも昭和40年頃には100人を超える生徒がおり、運動会などの行事の際は大きな賑わいを見せたそうだ。しかし、次第に若い世代が中村市内や県外などに転出したこともあり生徒数は次第に減少、平成24年に口屋内小学校は西土佐小学校に統合され、現在は閉校となっている。
このように、一時期は林業を中心に栄えた口屋内であったが、現在は次第に人口が減少し高齢化が進んでいる。
第4章 新たな鍛治屋の誕生
第1節 行政の政策
炭焼きも衰退し口屋内の人口が減少していくなかで、1980年代、全国的に四万十川が清流の川として有名になり、現在のように流域が観光地として注目されるようになったという。しかし、当時四万十川周辺は炭焼きや林業が主な産業であり、口屋内でもマチバとしての映画館や居酒屋といった施設は存在したものの、観光地としての施設は存在しなかった。そこで西土佐村では観光開発へと着手することになる。昭和61年には住民の手によって観光屋形船や民宿の開設、カヌーによる川下りなどが始められたという(西土佐村村史より)。その他高知県からも口屋内へ人を呼び込むため新たな観光地を設立しようと、補助金が出された。
第2節 工房くろがねの設立
工房くろがねは口屋内の四万十川右岸にある主にたたら製鉄や鍛治を行う施設である。ここでは打刃物の製造や販売だけでなく、実際に鍛治を体験することも出来る。
この工房くろがねは平成11年の秋に岡田光紀氏(銘を湧風という。銘とはここでは製作した刃物に入れる製作者の名のこと)によって設立された。岡田氏は元々は旧中村市内の出身で、鉄が好きだったこともあり工業高校へと進学したのち、鉄鋼メーカーで半自動溶接の研究員として開発に携わっていた。そこで約4年間勤務したのち四万十へと戻り、釣具屋さんを営むようになった。釣具屋を営む傍、趣味で削り出しの刀を作ったりもしていたが、ある日、岡田氏の奥様の父が林業を主な仕事としながらも鍛冶屋をしていたということを知り、鍛治への興味を持つこととなったという。その後、自ら家の側に鍛冶場を作り上げ、趣味でナイフ作りをするようになったそうだ。そして、鍛治をするにあたって鋼材(刃物の材料となるもの)を調べるうちに玉鋼という鋼材が良いと知り、鋼材屋さんに分けて貰おうとするも「これは素人が使うものではなく、刀鍛冶をする職人たちが使うものだ」と言われ、岡田氏は自らの力で玉鋼を作ろうとたたら製鉄に用いる炉を製作した。4、5年試行錯誤を繰り返し、ついに一握りほどの小さな鉄が出来た時は人生でも一番の達成感であったという。
写真4 工房くろがね
写真5 工房くろがねの作業場。手前はたたら製鉄に用いられる炉
こうして次第に技術が向上していく中で、前節でも述べたように高知県からの補助金の話を受け、現在の場所に工房くろがねが設立されることとなった。当初は岡田氏と他に二人が運営に携わり、岡田氏はたたら製鉄の研修を行う講師としての役割を担う予定であったが、実際に工房を開いてからは岡田氏が一人で運営をすることとなった。そしてこの頃、現在工房くろがねを運営されている林信哉氏(銘を風子)が岡田氏へと弟子入りする。林氏は愛知県の出身で、元々は会社員をされていたが、田舎での暮らしに憧れを抱き、当時よく雑誌で特集されていたこの口屋内に移住した工房くろがねとの出会いのきっかけだという。林氏が口屋内へ移住してきた当初は、中村までアルバイトをしに行く生活だったが、岡田氏に「せっかく田舎での暮らしに憧れてここへ来たのに、市街地へアルバイトをしに行くのでは意味がないじゃないか。ここで炭焼きをしてみたらどうだ。私はたたら製鉄に炭を使うので、炭を作れば買い取るから、それで生計を立ててみたらどうだろう」というお話を受け、工房くろがねで炭焼きを始めることになったそうだ。現在、林氏はたたら製鉄や鍛治を主な事業としているが、工房くろがねでの当初の役割は炭焼きをすることだったそうだ。
かつて、日本の集落には炭焼きと共に野鍛冶と呼ばれる鍛冶屋が存在した。野鍛冶は集落の農民が使う農具などを製作することが主な仕事であった。しかし、現代では農具も耐久性のあるものが増え、昔ほど頻繁に交換する必要が無くなったことや、農村人口の減少を理由にかつて野鍛冶と呼ばれた鍛冶屋は無くなってしまった。
工房くろがねは鍛冶を行ってはいるが、こうした野鍛冶と呼ばれる鍛冶屋のような事業は行っていない。前述の通り、工房くろがねは県からの補助金を受けたうえで設立された鍛冶屋である。工房くろがねが行っている鍛冶体験や研修は多くが県外や海外からのお客さんで、ここからも工房くろがねが集落の鍛冶屋ではなく、観光地的側面を持った鍛冶屋であることが伺える。また、製作している刃物も口屋内以外の地域からの注文を受けて作っているものがほとんどである。林氏は「普通の鍛冶屋というのはずっと黙々と作業をしているもので、僕はそういうことも好きだけど、鍛冶体験で東京や大阪といった都市や、海外から来た人たちとどこから来たのか、どんな仕事をしているのかといった話が出来るし、黙々と作業し続けるか、もしくは鍛冶体験ばかりをするかどちらかばかりだと嫌になるかもしれないけど、両方のバランスが取れてることが僕にとって良いことです」と、工房くろがねならではの良さを教えてくださった。
また、林氏は「僕より腕の良い鍛冶屋っていうのは全国を探せばたくさん居ると思いますけど、たたら製鉄を出来る人を探すと恐らく日本に100人、もしかすると10人もいないかもしれない。さらにたたら製鉄と鍛冶を両方出来る鍛冶屋さんを探すとなるともっと少なくなるだろうし、そのうえで多少ではあるけれども英語を話せる鍛冶屋さんとなると、僕ともう一人居るかなというくらいになるかもしれませんよね」ともおっしゃっていた。工房くろがねのような鍛冶屋は林氏だからこそ運営出来る鍛冶屋なのかもしれない。
このように、工房くろがねはかつて口屋内で炭焼き職人が活躍していた頃に存在した野鍛冶とは少し異なる鍛冶屋ではあるが、口屋内という地域の魅力を発信する一つの施設として、集落にとって重要な役割を果たしている「集落の鍛冶屋さん」であるといえる。
写真6 切出小刀の製作場面
写真7 加熱と叩く作業を繰り返す
写真8 大まかな部分を機械で叩く様子
写真9 銘を刻む様子
写真10 完成した切出小刀
結語
今回の調査を通じて、明らかになった点は以下の通りである。
1.口屋内はかつて、田畑仕事よりも炭焼きや林業が主要な産業で、四万十川沿いの道路が貧弱であったために炭の輸送にせんば舟が使われた。
2.モータリゼーション、エネルギー革命の影響から炭焼きは衰退、一方で四万十川、黒尊川流域の森林資源の豊富さが注目され、口屋内から多くの木を搬出するため、四万十川流域の道路が整備されたことにより、自動車での往来が容易になったことから、せんば舟は輸送船としての役割を終えた。
3.過疎化や高齢化が問題となる中、四万十川が全国的な注目を浴びるようになり、高知県や西土佐村、現在の四万十市が口屋内をはじめとする四万十川流域の観光地化に力を入れるようになり、岡田光紀氏が工房くろがねを立ち上げるにあたって、高知県より補助金が提供された。
4.工房くろがねは当初は炭焼き、現在はたたら製鉄や鍛冶を行う鍛冶屋ではあるが、炭焼きが盛んだった頃に存在した野鍛冶とは異なる観光地的側面を持った鍛冶屋である。
謝辞
本論文を執筆するにあたってご協力して下さった方々に感謝を申し上げます。特にご多忙のところ、工房くろがねの林さんには二日間に渡って様々なお話を聞かせていただいただけでなく、切出小刀の製作を実際に見せていただいたうえ、記念にと頂きました。また、お話を聞かせていただいた方だけでなく、道案内をしてくださった方、詳しいお話を知っている方を紹介してくださった方などのご協力無しにはこの論文を執筆することは出来ませんでした。
本論文の執筆に関わってくださったみなさまに心より御礼申し上げます。ありがとうございました。
参考文献
西土佐村史編纂委員会 編纂,2009年,『西土佐村史:永久保存版』
永澤正好,2006年,『四万十川Ⅱ川行き』,法政大学出版局.
永澤正好,2006年,『四万十川Ⅲムラに生きる』,法政大学出版局.