関西学院大学 現代民俗学 島村恭則研究室

関西学院大学大学院 現代民俗学 島村恭則研究室

炭焼きの人生ー四万十市 今城正剛氏の事例ー

社会学部 山田 馨

[目次]

はじめに

第一章 三原村での炭焼き
第二章 椎葉村
第三章 幡木材センター
第四章 炭焼きの復活

むすび
謝辞 
参考文献

はじめに
 木炭は1950年代までは主に燃料として使用されていたが、ガスや電気の普及で木炭はほとんど使われなくなった。2006年に海外からの輸入量が国内生産量の10倍を超え、現在も輸入量が国内生産量を上回っており、国内での生産量は減少している。
 白炭とは黒炭よりも硬くて炭素を含む割合も大きく、火力が強く長持ちする点を特徴とする木炭で、その分白炭を焼くには技術が必要となる。中でも原料としてカシやウバメガシといった硬い材質の木を使用した白炭のことを備長炭と呼ぶ。
 本稿では、10代のころ炭焼きを行っており現在炭焼きを再開し、四万十市で唯一備長炭を生産している今城正剛氏の事例について取り上げる。

第一章 三原村での炭焼き
 今城正剛氏は、1939年2月15日に高知県三原村で8人兄弟の5人目として生まれた。13歳から15歳まで、3つ上の兄と2人で山小屋に住み、学校に通いながら炭を焼いて家を支えた。もともと炭焼きは農民が農作業の合間に行う仕事で、三原村でも多くの人が白炭を焼いて生活していた。当時三原村は開拓地として開拓されており、吾川郡安芸郡の人たちも開拓地を求めて開拓し農地を作り、人口が増加していた。畑では麦やイモ、タバコの葉を作り多くの人が生活していた。毎朝麦と米を10:1で混ぜて薪で米を炊き、電気も通っていなく娯楽もない中、火を焚いた明かりの中で生活していた。三原村は東西南北にとても広く、4年生までの分校もありとても賑やかな村だった。今城氏が暮らす村にも特別に分校ができ、先生も住宅付きで来られていた。

第二章 椎葉村
 15歳の時、兄が高校に行き、今城氏は三原村を出て一人で宮崎県椎葉村に行き炭焼きを続けることにした。地図を見て場所を山が広い九州に決め、宿毛から船で別府に向かい、そこから列車に乗り宮崎県延岡市へ、そこからバスに乗り宮崎県椎葉村に到着した。布団を丸めて担いで持っていき、山の中に小屋を建ててその布団を敷いただけの場所で生活し、炭を焼いた。    
 木を切るためには6万5000円の山代が必要だったが、そのお金がないため農協に借りに行った。しかし15歳の少年が一人で山にこもって炭を焼くといっても、初めは全く相手にしてもらえずお金を借りることができなかった。何度も組合の方と話すことで信用され、組合のお金は貸すことができないが個人のお金なら貸してもいいと言ってもらうことができた。そのお金で山を買い、そこから2年間木切りから1人で行い、山の中にこもって炭を焼いた。出来上がった炭は農協に持っていって売り、そのお金で米などを買って生活し、仕送りもできた。

第三章 幡多木材センター
 17歳の時、椎葉村で買った分の山を切り終え、三原村に帰った。三原村では3年ほど炭焼きをし、兄の建築の仕事の手伝いをした。主に材木の裁断や建築用材の製材を行った。
 1964年、25歳のときに中村に移り住んだ。建築の仕事を5年ほどして、兄が製材を設立することになり、それを預かって経営した。その後受け取り自営となり、幡多木材センターとして愛媛県宇和島まで建築用材を販売して働いた。
 62歳の時、材木センターを息子に譲り、その後は趣味のゴルフや、中村で11年間歌謡ショーを開催していた。歌謡ショーは毎年6月に行われ、地元の歌好きな人たちが集まり演奏や歌唱をした。750人ほど収容できる会場だったが、多い時には1000人集まったほどの人気なイベントだった。


第四章 炭焼きの復活
 今城氏は、友人から中村に黒炭を焼く人はいるが白炭を焼く人がいないという話を聞き、炭焼きを再開することに決めた。そして2016年、76歳のとき高知県四万十市実崎に炭窯をつくり炭焼きを再開した。


(写真1)今城正剛氏・千恵子氏


(写真2)炭窯の入口


(写真3)釜の様子①


(写真4)釜の様子②

 窯には30㎝程の穴が6個あり、この穴から木を入れて炭を焼いている。備長炭を焼くにはウバメガシやカシなど硬い材質の木が必要で、ここではカシの木を使って炭を焼いている。出来上がった備長炭は焼き鳥屋に持って行って使われたりBBQセットの販売を行ったり、四万十市にある珈琲店では炭焼き珈琲に使用されている。


(写真5)カシの木


(写真6)焼き上がった備長炭


(写真7)焼き上がった備長炭
 
今城氏の炭焼きの活動は地元の高知新聞に掲載された。

(写真8)高知新聞 2017年 3月27日

 今城氏が炭焼きを再開した理由は四万十市に白炭を焼く人がいないと聞いた際に焼いたことがあるため自分にならできると思ったこと、また、若者に炭を焼く楽しみを伝え残したいという思いからだった。しかし、昔の白炭と今の備長炭には多大な差があるため、再開には多くの問題が生じて大変だった。
炭焼きは楽しみもあるが、炭に焼きあがるまでの過程の調整にスリルがあるそうだ。現在は2人の若者が楽しみながら働いている。
 炭を焼く木は20年ほどで丁度よい木になるが、現在の木は60年ほど過ぎているので少し大きくなり、手間がかかる。カシやウバメガシにはたくさん実が付き、動物のえさとなり農家の方々が農作物を荒らされることがなくなると考えている。そのためカシやウバメガシの木を新たに植え、災害に強い山にして広葉樹を日本中に広めてほしいと願っている。
 炭を焼きたい若者がきても、1つの窯で2人以上は経済的に厳しい。四万十市に若者の働く場を増やしたいと日々炭焼きに励んでいる。

むすび
・現在四万十市で唯一備長炭を焼いている今城氏は、高知県三原村、宮崎県椎葉村で炭を焼いていた。そして炭焼きを離れてからも兄の建築業の手伝いや木材センターの経営など、木材にかかわった仕事をおこなってきた。
・若者に炭を焼く楽しみを伝え残したい、四万十市に若者の働く場を増やしたいという思いから炭焼きを再開した。
・炭を焼くことには楽しみもあるが、炭が焼き上がるまでの過程にスリルがあり面白い。
・カシやウバメガシの木が新たに植えられて広葉樹が日本中に広まること、もっと釜を作り若者が働ける場所となることを望んでいる。

謝辞
 本論文執筆にあたりご協力いただいた今城正剛様、千恵子様、お忙しい中何度もお話をしていただき、ありがとうございました。炭焼きについて教えてくださり、また、ご自身の炭焼きの経験について貴重なお話をしていただきました。心より感謝申し上げます。

参考文献
「図説土佐備長炭 21世紀に伝えたいこと」飛鳥出版室、2013
聞き書き紀州備長炭に生きる:ウバメガシの森から」農産漁村文化協会、2007
「炭焼きの20世紀―書置きとしての歴史から未来へ」彩流社、2003
「民俗の技術」朝倉書店、1998