関西学院大学 現代民俗学 島村恭則研究室

関西学院大学大学院 現代民俗学 島村恭則研究室

「大阪木材商三講」の民俗誌―舞台講・伊勢講・伊太祁曽講―

社会学部 澤山 知里

【要旨】

本研究は、大阪府で材木業を営む人々である大阪の木材商が形成・維持してきた「大阪木材商三講」について、大阪府にある業者や三講に関係する寺社をフィールドに実地調査を行うことで、各講の特徴とそれらの関係性や役割を明らかにしたものである。本研究で明らかになった点は、つぎの通りである。

1.大阪で木材業が始まったとされるのは1583年であり、豊臣秀吉による大坂城築城がきっかけとされている。そして、大坂城に近い場所に流通の為の東横堀川を作り、材木町と名付けて集住させた。そして川沿いに店を構えた材木屋は自ら橋を架け、現在東横堀川に残っている橋の多くは民間のものである。

2.1622年、大阪と経済的な利害関係で強い結びつきがあった土佐藩により、立売堀川にて市売が始まった。その後1716年より業者が増加し、西長堀や堀江、西横堀川など、当時大阪の堀をなしていた川沿いを中心に、大阪の材木業はますます発展していった。

3.明治末期になると、西長堀線の開通により、長堀北側の木材市場は明治40年で廃止、その拠点を境川に移す事となる。その後大正区、現在の平林へと次々に材木街が移転していく。ここから、木材業の大きな特徴として、次第に大阪湾よりの西方向へと移転するという事が挙げられる。その理由として、材木屋が持つ広い木場や木を切る際の騒音等が、行政による都市開発の遮りとなっていた事が考えられる。

4.木材業は景気の波に左右されながらも、現在も大阪の伝統産業として存続している。しかしその環境は厳しく、工法の変化やインターネットの普及などで顧客の嗜好にも変化が生じ、材木屋の需要は著しく低下しているのが現状である。一方打開策として、木場としての広い土地を所有していた特徴を活かし、不動産事業を行う業者も現れている。また木材業の結束強化の為、大阪市住之江区平林への集約計画も進められている。

5.「大阪木材商三講」は、3つとも同じメンバーが所属しており、講行事への参加は自由である。舞台講のみ、講員の家族や友人も参加可能で、それ以外は代参制である。また、役員が作った三講会は、役員同士の親睦を深めるだけでなく、会計処理の役割も果たしている。

6.舞台講は、江戸時代の形成当初は四天王寺への奉賛・寺社勢力との結びつきを目的とした。しかし太平洋戦争を経て社会の風潮が変わった事もあり、現在はそのような活動は見られず、結成当初から行われている舞台講施餓鬼法要のみを大規模に行っており、その目的は舞台講員の先祖供養へと変化している。

7.「大阪木材商伊勢講」として活動を始めたのは1983年であり、この年を「伊勢講元年」と呼んでいる。それまでは伊勢講はあったものの、伊勢神宮側に講としての登録がなされていなかったので、改革を行い、講としての登録を完了させると共に全員での特別参拝と直会ができるようにした。

8.伊太祁曽講は、木材業者で行っていた祭に自分たちの神がいない事に気づいた事が始まりであり、1975年に講が成立してからは、木の神様が祀られる伊太祁曽神社へ年1回の参拝を行っている。神社側の詳しい記録は残っていないが、それまであまり知られていなかった神社に木材関係者が信仰するようになった事は、神社側にとっても非常に良い事だと考えられている。

9.講の中で、舞台講は特に先祖供養の意味合いが強く、講員自身も特別な想いを持っている。また、伊勢講はおかげ参りの流行が起源という事でレクリエーション的要素が強い。そして伊太祁曽講は、木の神様である神社と結びついてる事から、神を発見した後も木材祭を行った他、木材商らの職業神として拠点である大阪木材会館に勧請するなど、講員を始めとする木材業者の人々に同業者信仰的特徴が見られた。

【目次】

序章 問題の所在-------------------1

第1章 大阪の木材商---------------4

 第1節 木材業の展開-------------5

  (1)木材業の形成-------------5

  (2)材木街の変遷-------------11

  (3)オイルショック以後-------16

 第2節 木材業の現在-------------18

 第3節 大阪木材商三講-----------20

第2章 舞台講---------------------29

 第1節 形成と展開---------------30

 第2節 舞台講の現在-------------37

  (1)舞台講施餓鬼法要---------37

  (2)舞台講への想い-----------39

第3章 伊勢講---------------------43

 第1節 形成と展開---------------44

 第2節 伊勢講の現在-------------49

第4章 伊太祁曽講-----------------64

 第1節 形成と展開---------------65

 第2節 伊太祁曽講の現在---------73

結語-------------------------------76

文献一覧---------------------------80

【本文写真から】


写真1 2017年春のお彼岸の舞台講案内



写真2 四天王寺 石舞台(正面)。舞台講と書かれた左右には、講員の名前が書かれている。



写真3 四天王寺石舞台勾蘭と書かれており、左側には昭和39年9月吉日と書かれている。



写真4 「大阪木材商伊勢講」と書かれた旗を先頭に歩く伊勢講の人々



写真5 伊太祁曽神社 大鳥居



写真6 大阪木材会館にある伊太祁曽神社


【謝辞】

本論文の執筆にあたり、多くの方々のご協力をいただいた。お忙しいなか、長時間に渡りお話を聞かせてくださり、本研究のテーマを提供してくださった西庫一氏。知識の疎い私に快く業者さんをご紹介くださった仲買組合の皆様。大阪の歴史、木材業からご自身の事まで何でもお話くださった他、色々な方をご紹介してくださった大岡次郎氏。舞台講の資料や法要のお話を聞かせてくださった一本崇之氏、中西廣道氏。三講の事や木材の事はもちろん、直前だったにも関わらず伊勢講に快くお誘いくださった島崎公一氏。伊太祁曽神社の事だけでなく、伊勢神宮おかげ横丁の事まで親切に教えてくださった奥重視氏。伊勢講にてお世話になった、全ての講員と事務局の皆様。講長という立場からの貴重なお話をしてくださり、資料を見ながらいつも一緒に考えてくださった杉田幸一氏。これらの方々のご協力なしには、本論文は完成に至りませんでした。今回の調査にご協力いただいた全ての方々に、心よりお礼申し上げます。本当にありがとうございました。

商家と文化―堺・大澤徳平商店と湊焼・堺能楽会館―

社会学部 北口ゆりな

【要旨】

本研究は、唯一の個人経営である堺能楽会館で実施調査を行い、オーナーの大澤徳平氏にお話を伺うことで、堺の商家として大澤家が所有していた文化が湊焼や能楽堂の創出にどのように関わっていたのか、また堺能楽会館が創設されてから現在までの変化を記述したものである。本研究で明らかになった点は、以下のとおりである。

1、明治から昭和期にかけて、酒造家の活躍により堺の製造業のトップは醸造産業であった。しかし、より酒造りの条件が良い灘への進出、井戸水の不足、地方からのライバルの出現、そして堺大空襲による酒蔵の焼失のために衰退した。大澤家も家業が醸造で、大澤徳平商店という大きな酒造会社であったが、同理由のために廃業せざるを得なくなった。

2、大澤徳平商店が廃業してから第2の家業となったのが、堺の伝統工芸品である湊焼の製作であった。茶道を「趣味」としていた父鯛六氏が、茶会の時に消滅していた湊焼に出会ったのがきっかけで、その素晴らしさから「趣味」として復興させた。母美代氏が跡を継いだが、昭和36年の第二室戸台風で窯が被害を受け、廃業せざるを得なくなった。

3、次の転機は昭和42年。堺市長からの提案で、大澤家が所有していた土地にビルを建てることが決まり、その中で美代氏が中庭に能楽堂を建てることを決断した。堺の商家は謡を稽古するのが習わしで、最初は体の弱い姉のために稽古場を造る予定だったが、話が膨らんでいき、本式の能楽堂を建てることになった。湊焼と同じく「趣味」から堺能楽会館が創設されたのである。

4、美代氏は能楽堂を能狂言でしか使わないという強い信念を持っていたが、現在は時代の変化と共に能楽堂を活かせるものであったら良いという大澤氏の考えのもと経営を行っている。そのため、コンサートや現代劇といったさまざまなジャンルで使用されている。

5、地域への伝承として、昭和64年から近辺の小中学校の国語の授業として、狂言鑑賞と体験が行われている。

6、海外への発信として、1999年にスペインの女王が主催するポレンサ音楽祭で能狂言の上演を行った。また、現在も海外留学生のために堺能楽会館で体験ツアーを行っている。

7、5年前からおやじのギャラリー六平を始める。鯛六氏がお酒の販売で出張した時に「趣味」として集めていた郷土玩具や湊焼が展示されている。これらが展示され、現在も能楽堂で鑑賞されることで「生きられた」ものとなっている。

8、現在堺能楽会館で能の稽古を行っている人の共通点は、堺の商家であることだ。その中でも茶道、フラワーアレンジメントを「趣味」としている人がいることから、堺の商家は「趣味」で教養として、茶道、お花、謡を身に着けることが習わしであったということが現在も残っていることがわかる。

【目次】


序章 問題の所在―――――――――――――――――――――――――4
第1章 大澤家----------------------------------------------------6
  第1節 堺と醸造------------------------------------------------7
  第2節 大澤徳平商店---------------------------------------------10
第2章 湊焼の復興――――――――――――――――――――――――14
  第1節 湊焼----------------------------------------------------15
  第2節 大澤製陶所----------------------------------------------17
第3章  堺能楽会館―――――――――――――――――――――――22
  第1節 堺と能------------------------------------------------23
  第2節 堺能楽会館の創設--------------------------------------24
  (1)母美代氏の決断------------------------------------------24
  (2)本式の能楽堂--------------------------------------------29
  (3)流派-----------------------------------------------------29
  第3節 堺能楽会館の現在------------------------------------------32
  (1)使用方法の変化------------------------------------------32
  (2)地域への伝承--------------------------------------------37
  (3)海外への発信--------------------------------------------40
  (4)おやじのギャラリー六平----------------------------------43
  (5)個人の稽古----------------------------------------------46
結語―――――――――――――――――――――――――――――――48
謝辞―――――――――――――――――――――――――――――――51
文献一覧―――――――――――――――――――――――――――――52

【本文写真から】


写真1 堺能楽会館が入っているダイトクビルの外観



写真2 大澤徳平商店の銘酒「千代鶴」の広告



写真3 堺能楽会館 能舞台



写真4 大澤氏の父鯛六氏が堺商工会議所から注文を受け、製作した湊焼



写真5 ポレンサ国際音楽祭での公演のために創設した仮能舞台
    大澤氏が現地の大工に指示をし、造った。


【謝辞】

本論文の執筆にあたり、快くご協力してくださった大澤徳平様に心より御礼を申し上げます。堺能楽会館でのさまざまなイベントを見学、そして参加させていただき、大変貴重な経験となりました。お忙しいのにも関わらず、ファミリーヒストリーから能狂言の基礎まで教えてくださったことで、堺の文化への関心が深まり、その奥深さを認識しました。地元である堺にこのような素晴らしい能楽会館があることを誇りに思います。
 大澤様のご協力なしでは、本論文を完成することはできませんでした。今後も堺能楽会館での鑑賞を楽しみにしております。誠にありがとうございました。

能勢の浄瑠璃―竹本井筒太夫派の事例―

社会学部 社会学科 秋山千晶

【要旨】

 本研究は、能勢の浄瑠璃における「おやじ制度」という継承制度について、能勢の浄瑠璃4派の1つである井筒太夫派を例として挙げ、井筒太夫派の地域(能勢町山辺地区、宿野地区、片山地区)をフィールドに実地調査を行うことで、地域に根ざす「おやじ制度」の実態とその中で浄瑠璃を行う人々の経験や習慣、展望について明らかにしたものである。本研究で明らかになった点は、つぎのとおりである。

1.能勢では1793年から浄瑠璃の会が行われており、本格的に能勢で浄瑠璃を広めたのは、能勢の裕福な村人であった。その村人は杉村量輔と言い、大阪市内で竹本弥太夫に弟子入りし、能勢に義太夫節を持ち帰ってきた。それ以降派を増やしながら、各派が「おやじ制度」という独自の制度の下、浄瑠璃を伝承してきた。

2.能勢の素浄瑠璃には、「娯楽(マツリとは関わらない)」、「素浄瑠璃(人形が無い)」、「おやじ制度(能勢における人と人との繋がりで成立している制度)」という、大阪の文楽とは異なる特徴がある。また、これらの特徴は全て繋がっている。例えば、人形が無いのは、観客に人形を使って魅せる事よりも、自分が義太夫節という浄瑠璃の節回しを習得する事自体を目的とした娯楽的側面が大きい浄瑠璃だからである。

3.浄瑠璃の後継者育成のため、保存会活動や浄瑠璃シアターのワークショップ等、浄瑠璃に関する様々な教室や行事を開催し、町民と行政が切磋琢磨してきた。また、文楽座から技芸の指導もあった。その結果、能勢独自の素浄瑠璃に人形と囃子を加えた「鹿角座」の発足や活躍、素浄瑠璃における門人の成長に繋がった。つまり、地域の住民と行政の両方が積極的に浄瑠璃に関わることで、保存・継承が行われているのである。

4.能勢の素浄瑠璃には4派あり、地域によって分けられている。敵対心を燃やすというよりも、協力して能勢の浄瑠璃を継承していこうという動きがある。それは、合同で行われる浄瑠璃の会や、保存会活動、また2001(平成13)年に能勢町東地区の浄瑠璃をみんなで盛り上げようと、竹本東寿太夫派という新しい派をつくった事例に見られる。

5.能勢の素浄瑠璃にみられるおやじ制度の下では、年齢に関係なく早く入門した人が先輩となる。能勢ではこの先輩後輩という関係や、太夫や三味線と門人の弟子関係を大切にする。例えば、浄瑠璃の発表の場での出演順だけでなく、舞台の準備や舞台裏からの補助、飲み会での接待、挨拶等において、弟子関係や先輩後輩の関係が明瞭である。また、浄瑠璃の稽古や発表以外の日常生活でもこの関係が保たれる。入門する事によって人脈が広がったと答える門人が多かったのも、こういった繋がりの強さがあるからである。特に能勢では昔から、地域の人間関係により門人の勧誘を行ってきた歴史もある。

6.入門後に初めて行われる稽古が「100日稽古」である。これは農業の繁忙期を避けて、6月頃から次代太夫の家で行われる。稽古においては、三味線弾きがマンツーマンで語りを指導する。おやじ制度では、門人は太夫をおやじと呼び、稽古をつけてくれる三味線弾きを師匠と呼ぶ。能勢の素浄瑠璃では、床本を暗記して上手く語る事よりも、人形が無い分、語りだけでどのように観客の心を動かせるか、感動を届けられるかという表現力を重視する。それ故、声の出し方や感情の入れ方について重点的に指導を受ける。稽古中は、指導を受けている様子をボイスレコーダーに録音したり、床本にしるしを付ける事で、家に帰ってからそれらを参考にして1人で練習できるようにする。

7.100日稽古が終わると、稽古上げ、引継ぎ式、新浄瑠璃大会、初会の順に浄瑠璃の発表の場がある。稽古上げでは、見習いであった門人が井筒太夫派の一員として認められ、俳名という芸名を授かり数々の浄瑠璃の会に参加できるようになる。引継ぎ式では次代太夫太夫の座を授かる。この場で秘伝書や掛け軸の伝授が行われる。新浄瑠璃大会は、派が合同で行われ、その代に稽古上げを終えた門人が身内以外の友人や親戚に語りを披露する初めての舞台である。初会は、毎年1月に行われる通年行事である。稽古上げ、引継ぎ式、初会にはそれぞれ「浄瑠璃大会」という浄瑠璃を披露する時間がある。この発表順には、おやじ制度下での地位が反映される。また、「直会」という浄瑠璃大会の後に振る舞われる会食の時間がある。稽古上げと引継ぎ式では、鶏のすき焼きが出されると決まっている。

8.稽古後の雑談が大切である。谷尾氏の取材からも分かるように、雑談の中で、門人はこの道の先人の偉業、失敗談、習慣等を知る。そして、こうした稽古や舞台を積むうちに、経済面でも人柄の面でも特に「おやじの偉大さ」を実感するようになる。おやじは門人を育てるため、約3年間で200万や300万という経済的負担を担う。費用を弟子から集めて弟子を育てる家元制度(多くの芸能に見られる)とは異なる点である。それ故、門人はおやじへの恩を常に持っており、「おやじの顔に泥を塗る訳にいかない」と技芸の向上に努める。公演の最後には、おやじへの感謝を込めた一節を全員で語る。

9.浄瑠璃で使われる道具は高価なものや貴重なものが多い。例えば「床本」は1冊ずつ筆で書いていき、約1か月かけて完成させる。また、三味線の撥は象牙か鯨の骨でできており、輸入が禁止されているため、100年、200年前の物を再加工して修理して使っている。これらも含めた浄瑠璃の道具は、修理をしたり、整備を頻繁に行う事で、各個人が長持ちさせるように工夫して使っている。

10.能勢の素浄瑠璃の世界に入るには、家族(特に妻)の協力が必要である。浄瑠璃の会での準備や接待等、妻も浄瑠璃の世界に一緒に参加する事になるからである。ただ、家族の理解を得るのは、実際大変難しい事である。勧誘の際に、外ではなく候補者の家まで行って勧誘する方法を主流として行っていたのは、家族の了解を得やすいからである。

11.能勢の素浄瑠璃への勧誘の方法は様々である。だが、勧誘されたほとんどの人に共通している事は、勧誘された時にあまり乗り気では無い事だ。実際、自分から入った人は少ない。それでも、稽古を続け、舞台を踏んでいくうちに、浄瑠璃の面白さや深さを知るようになる。熱心になり、浄瑠璃に向き合い、浄瑠璃に対して想いや考えが膨らんでくる。

12.浄瑠璃に対して抱く想いは様々だが、取材の結果、歴の長い人は特に、浄瑠璃の洗練された技術や型にきっちりはまった美しい見本を追及するよりも、この地域独特の文化を「継承」していくためにどうするかを重点としてとらえている傾向があった。

13.能勢の浄瑠璃は常に変化している。仕事で大阪市内に出たり残業が多くなったりという生活様式の変化により、参加率の低下等を理由に100日稽古の日数が減ってきている事も1つの例である。また、かつて浄瑠璃をする事は、若者が立派な大人に育つ上で必要な礼儀や頭の回転の速さ等を鍛えられるものとされてきた。それ故、例えば結婚等、普段の生活や人生に深く関わってくるものだったため、浄瑠璃の世界に入門する人も多かった。しかし町人の生活様式の変化と共に志向も変化し、現在は後継者不足になってきている。こうした現在の状況の中で継承を続けるため、浄瑠璃の会での妻の負担軽減や、稽古日程の調整等、「時代に合わせた変化」が望まれている。

【目次】

第1章 能勢と浄瑠璃―――――――――――――――――――――――――――  1
第1節 豊能郡能勢町------------------------------------------------- 2
第2節 能勢の浄瑠璃------------------------------------------------ 2
   (1)成立---------------------------------------------------- 2
   [1]伝播と継承---------------------------------------------- 2
   [2]派------------------------------------------------------ 3
   [3]無形民俗文化財への指定----------------------------------  6
   [4]浄瑠璃継承の舞台と組織---------------------------------- 6
   [5]舞台公演------------------------------------------------ 10
   (2)特徴---------------------------------------------------- 16
   [1]娯楽---------------------------------------------------- 16
   [2]素浄瑠璃------------------------------------------------ 16
   [3]おやじ制度---------------------------------------------- 17

第2章  ムラ入りと浄瑠璃―――――――――――――――――――――――― 28
  第1節 ムラ入り------------------------------------------------ 29
  第2節 勧誘---------------------------------------------------- 30
  第3節 入門---------------------------------------------------- 32

第3章  浄瑠璃の継承―――――――――――――――――――――――――― 37
  第1節 入門以前------------------------------------------------ 38
  第2節 入門---------------------------------------------------- 39
  第3節 師匠への道---------------------------------------------- 39
  第4節 語りと三味線-------------------------------------------- 40

第4章  「能勢の素語り」を語る――――――――――――――――――――― 42
  第1節 心境の変化---------------------------------------------- 43
  第2節 「太夫」を語る------------------------------------------  43
  第3節 「能勢の素語り」を語る---------------------------------- 44
結語――――――――――――――――――――――――――――――――――― 46

謝辞――――――――――――――――――――――――――――――――――― 49

文献一覧――――――――――――――――――――――――――――――――― 49

【本文写真から】


写真1 「床本」師匠から指導を受けたところに付箋が貼られている。



写真2 「稽古」



写真3 「引継ぎ式」(撮影日不明)



写真4 「初会の出演順」(2011年1月22日 撮影)



写真5「初会の舞台」下手に井筒太夫派の掛け軸が掛けられている。(2011年1月22日 撮影)


【謝辞】
 本論文を執筆するにあたり、谷尾剛様はじめ井筒太夫派の方々、稽古場や舞台裏でお世話になった方々、並びにそのご家族の方々、地域の方々にご協力を頂き、誠に感謝しております。能勢町やおやじ制度について取材を申込み、突然現れた見ず知らずの私を快く受け入れて頂き、お時間を割いて頂いた事、私は大変嬉しく思っておりました。また、舞台裏や秘伝の書といった、内部の方しか知らない貴重な経験や資料をご提供頂いた事、心より感謝しております。
 取材をさせて頂くまで、能勢の地域と全く関わりの無かった私でしたが、取材を進める中で、能勢という土地にある「温かさ」を知る事ができました。再度、皆様のご厚意に感謝申し上げます。

カワコ伝承と「福河童大明神」―隠岐の島町西郷の事例―

カワコ伝承と「福河童大明神」―隠岐の島町西郷の事例―

藤原和香

【要旨】
本論文は民間伝承が、伝承者によって、再編され、繁栄・衰退する経緯と流れを、島根県隠岐隠岐の島町西郷のカワコ伝承「唐人屋河童伝説」を具体例として調査したものである。本調査で明らかになったのは以下の通りである。
 
1.隠岐の島町西郷の中心に流れる八尾川は島最大級の川である。しかし古くから増水による氾濫や、渇水による水不足、水難事故に人びとは悩まされてきた。その為、八尾川を初め、島内の川には水にまつわる伝承や文化が多く存在し、水に関する信仰が篤い。水にまつわる伝承の1つとしてカワコ伝承は挙げられる。「唐人屋河童伝説」の中に登場する呪語、「唐人屋の子だじやあ」は現在70代の住民たちは実際に唱えていた。30代から50代の人びとは、唱えてはいないものの、意味や使い方は知っている。この呪語は西郷西町界隈の人びとによって長く共有されているものとなっている。

2.西郷には「福河童大明神」という河童の祠が存在する。この祠は、屋号「唐人屋」である松岡家に代々伝わる河童伝説の河童を神格化させたものである。この「福河童大明神」は12代目当主松岡弥太郎氏によって、1962(昭和37)年に作られたものである。また弥太郎氏は、「唐人屋河童縁起」として唐人屋の河童伝説を文字に書き起こした。また執筆活動を行っており、著書には「修身(理論編・実践編)」がある。

3.「福河童大明神」の入魂式の時に、近所に住む佐々木新太郎氏は「踊ってみようか?」と弥太郎氏に一声かけた。この一声がきっかけになり、「河童踊り」が誕生する。最終的には、1980(昭和55)年に島根県観光連盟会長から「河童踊り」が「古くから隠岐に伝わる郷土芸能」として表彰されることになる。こうした「河童踊り」によって「河童祭り」が誕生した。1965(昭和40)年代から1975(昭和50)年代頃まで継続して行われていたが、「福河童大明神」創出者の弥太郎氏や「河童踊り」の新太郎氏が死去したことにより、徐々に衰退していった。なお、現在も「河童踊り」の伝承者は存在する。

4.「河童踊り」や「河童祭り」は衰退したが、「唐人屋カワコ伝説」は新たな形で伝承されることとなる。弥太郎氏の妻である、松岡豊子氏は伝説を口頭伝承によって引き継いだ。豊子氏の語りは、地域でも有名であり、「語る姿はまるで河童そのもの」と評判であった。

5.昭和中期に起こった「唐人屋河童伝説」を基にした盛り上がりは一旦衰退したものの、「福河童大明神」など伝説が形となって顕在化したことにより、内外の組織にカワコ伝承は発見されることになる。1996(平成8)年には、河童愛好家の団体、「河童共和国」によって「全国かたりべサミットin隠岐」が行われた。勃興以前のカワコ伝承より西郷に根付くこととなる。平成11年には八尾川の河川敷に「八尾川かっぱ公園」と呼ばれる公園が生まれる。初外部組織によるカワコ伝承の“発見”によって、内部組織は、まちづくりや観光など、さらにカワコ伝承を地域に根付かせ“再創造”していく。

6.2001(平成13)年には「一休会」を中心に、「隠岐島後かっぱ交流会」と言う名のまちづくりの一環となるイベントが開催される。この交流会は少なくとも2年間続いたことが分かった。また交流会の中のミニイベントとして、「かっぱ祭り」が復活した。「かっぱ祭り」は「一休会」の一員である松本勝子氏によって企画された。勝子氏は、日本舞踊若柳流の師範や民謡の普及に力を入れていることから、日本舞踊の演目「念仏河童」や、西郷だけでなく各町内の民謡を披露する場を設けるなど、かつて西郷の西町で行われていた「河童祭り」とは異なる形式で行った。フィナーレには、参加者全員で美空ひばりの「河童ブギウギ」に合わせて輪になって踊った。

7.隠岐は「河童連邦共和国」によって「大山隠岐かっぱ村」に認定される。「大山隠岐かっぱ村」が開村されたことによって、「大山隠岐河童地図」や「大山隠岐かっぱ新聞」が作られ、大山と隠岐の河童伝承が接続し、商品も制作され観光資源が生み出されている。

8. 2013(平成25)年には「全国河童サミット」が隠岐で開催された。開催を記念して、かっぱ像が贈呈された。現在そのかっぱ像は「八尾川かっぱ公園」に設置されている。迎え入れる隠岐側も、「福かっぱマップ」が作られ、記念品として「かっぱマグネット」や「かっぱまんじゅう」なども特別に作られた。

9.カワコ伝承は観光にも影響を及ぼす。隠岐旅工舎は、2010(平成22)年から八尾川を周遊する「かっぱ遊覧船」の運行を開始した。河童を目玉として商品化できるほど地域に根付いてきたことが分かった。

10.現代でも隠岐では河童を見た人が存在する。河童の目撃者であるC氏は、「福河童大明神」が鎮座する西町出身である。C氏が河童を目撃したのは、「八尾川かっぱ公園」や「隠岐島後かっぱ交流会」が行われるなど、河童が隠岐の島町西郷で再び盛り上がってきた成人後のことであった。

民間伝承は伝承を受け継ぐ人の個性によって、伝承に新たな文脈が生まれると考える。一定を保つのではなく、繁栄・衰退・再編という創造のサイクルによって受け継がれているのだ。よって、民間伝承は創造の連続によって、現存していると考える。

【目次】

序章―――――――――――――――――――――――――――1
 第1節 問題の所在・・・・・・・・・・・・・・2
第2節 隠岐の島町西郷・・・・・・・・・・・・・3
第3節 河童とは何か・・・・・・・・・・・・・・7
  (1)河童の誕生・・・・・・・・・・・・・・7
  (2)河童の名称・・・・・・・・・・・・・・7
  (3)河童の容姿・・・・・・・・・・・・・・11
  (4)河童の嗜好・・・・・・・・・・・・・・15
  (5)河童の嫌いなモノ・・・・・・・・・・・15
  (6)河童と神様・・・・・・・・・・・・・・16
  (7)河童由来の社寺・・・・・・・・・・・・17

第1章 カワコ伝承―――――――――――――――――――――19
 第1節 中村川水系・・・・・・・・・・・・・・20
 第2節 元屋川水系・・・・・・・・・・・・・・22
 第3節 春日川水系・・・・・・・・・・・・・・23
 第4節 久見川水系・・・・・・・・・・・・・・24
 第5節 重栖川水系・・・・・・・・・・・・・・26
  (1)重栖川・・・・・・・・・・・・・・・・26
  (2)苗代田川・・・・・・・・・・・・・・・27
  (3)小路川・・・・・・・・・・・・・・・・27
 第6節 長尾田川水系・・・・・・・・・・・・・28
 第7節 那久川水系・・・・・・・・・・・・・・28
 第8節 都万川水系・・・・・・・・・・・・・・29
 第9節 加茂川水系・・・・・・・・・・・・・・30
 第10節大久川水系・・・・・・・・・・・・・・31
 第11節八尾川水系・・・・・・・・・・・・・・32
  (1)八尾川・・・・・・・・・・・・・・・・32
  (2)銚子川・・・・・・・・・・・・・・・・39

第2章 「福河童大明神」の創出――――――――――――――――38
 第1節 唐人屋とカワコ・・・・・・・・・・・・39
 第2節 松岡弥太郎氏・・・・・・・・・・・・・45
 第3節 「福河童大明神」の創出・・・・・・・・48

第3章 「河童祭り」―――――――――――――――――――――53
 第1節 「河童祭り」の創出・・・・・・・・・・55
 第2節 「河童祭り」と「河童踊り」・・・・・・60

第4章 カワコの語り部――――――――――――――――――――67
 第1節 語り部としての松岡豊子氏・・・・・・・68
 第2節 豊子氏のカワコ論・・・・・・・・・・・70
 第3節 豊子氏によるカワコをめぐる物語・・・・71

第5章 カワコ伝承の現在―――――――――――――――――――79
 第1節 「八尾川かっぱ公園」と「一休会」・・・80
 第2節 「隠岐島後かっぱ交流会」・・・・・・・84
 第3節 「河童サミット」の開催・・・・・・・・89
 第4節 「大山隠岐かっぱ村」・・・・・・・・・91
 第5節 かっぱ観光・・・・・・・・・・・・・・96
 第6節 現代の河童目撃譚・・・・・・・・・・・98

結語―――――――――――――――――――――――――――――100

文献一覧―――――――――――――――――――――――――――106

謝辞―――――――――――――――――――――――――――――107

【本文写真から】

写真1 隠岐の島町西郷の景観

写真2 「福河童大明神」

写真3 「河童踊り」で使用されたお面

写真4 「唐人屋河童アルバム」


【謝辞】
論文の執筆にあたり、隠岐の多くの方々からご協力をいただいた。
 お忙しい中、隠岐で「河童」に関係する人をご紹介してくださった、吉岡克一氏。そして「河童祭り」の映像提供や話を聞かせてくださった「京見屋分店」の谷田夫妻。伝説に登場する脇差や豊子氏が語る映像を提供してくださった、「唐人屋」の松岡吉弘氏。「河童踊り」に使用したお面や父にあたる新太郎氏の人柄についてお話してくださった、佐々木夫妻。様々な資料、「河童祭り」や隠岐の歴史を教えてくださった斎藤一志氏。「八尾川かっぱ公園」や「かっぱ祭り」について、お話してくださった松本勝子氏。「かっぱ遊覧船」や「大山隠岐かっぱ村」についてお話や資料を提供してくださった「隠岐旅工舎」の八幡洋公氏。図書館で多くの情報や資料を提供してくださった住田美津子氏、隠岐の貴重な研究資料を見せてくださった野津哲志氏。隠岐や「河童祭り」や「河童踊り」について話を聞かせてくださった隠岐の島町の皆さん。これらの方々の温かいご協力があったからこそ、本論文は完成に至ることが出来た。今回の調査にご協力頂いた全ての方々に、心より御礼申し上げます。本当にありがとうございました。

祭りと「唄の力」―高砂市曽根天満宮秋祭りの事例から―

社会学部 渡邉 晴菜

【要旨】

本研究は、高砂市曽根天満宮秋祭りの一ツ物や竹割りの神事、屋台練りに焦点を置き、地域住民と祭りの関わりや独特な組織、そして祭りと「唄の力」の関係について明らかにしたものである。本研究で明らかになった点は、以下のとおりである。

1.唄には、共に唄う仲間に一体感や結束力をもたらし、それがパフォーマンスにも影響する力がある。無音であれば生み出すことのできないであろう、勢いや雄々しさを生み出し、パフォーマンス行う人々の士気や気分を高める効果がある。また時には、その行事を厳かで神秘的なものとする手助けをし、伝統を守る役割もあると考えられる。そのため、この唄自体だけでなく、「唄の力」が加わって披露されるパフォーマンスが人々を魅了し、祭りを盛り上げることに繋がっていると思われる。

2.この「唄の力」を発揮できる理由の1つに、連中制度と言う信頼関係が築かれた集団が存在することが挙げられる。日常生活から家族同然の関係性が築かれていることと顔見知りが増えていく連中の仕組みによって、町や連中を単位とした仲間意識が生まれていく。そして、この仲間意識があることで「唄の力」も生きてくると考えられる。

3.唄の歌詞や竹割り、連中の関係性など、次の世代へと受け継ぎながらも、時代と共に変化している。伝統を大切にしつつも、変化が加わることでvariationが生まれ、祭りを守り続けることにも繋がっているように思われる。

4.警察やテレビの介入により、規制されることも多くある中で、住民の間で共有されてきた伝統や表現を守りつつも、両者の意見を上手く折衷していくことが今後重要となってくるはずである。

5.この祭りが毎年行われる理由として、住民の協力や理解、そして何よりも愛着があることが挙げられる。仕事や家事など忙しい日々の中で、祭り当日だけでなく練習や集まりが行われている。それを可能にするのは、住民1人1人が1年の大切なイベントとしてこの祭りを認識しているからであると思われる。親分や一ツ物などを依頼した際に、大変であると知っていても、引き受けてくれる人たちと依頼し続ける人たちの存在によって現在まで伝統が守り続けられているのである。また、若者のエネルギーが存分に活用できる場や年齢に関わらず参加できる場を設けていることで、年齢に偏りなく地域住民全員が参加しやすい環境が成り立っているのである。

【目次】
序章 問題と方法−−−−−−−−−−−−−−1

 第1節 問題の所在−−−−−−−−−−−−2

 第2節 曽根天満宮秋祭り−−−−−−−−−2

第1章 連中制度−−−−−−−−−−−−−−7

 第1節 連中とは−−−−−−−−−−−−−8

 第2節 日常生活と連中−−−−−−−−−−10

 第3節 祭りと連中−−−−−−−−−−−−12

第2章 一ツ物神事−−−−−−−−−−−−−17

 第1節 一ツ物とは−−−−−−−−−−−−18

 第2節 東之町の一ツ物−−−−−−−−−−25

第3章 竹割り−−−−−−−−−−−−−−−28

 第1節 竹割りとは−−−−−−−−−−−−29

 第2節 竹割りのパフォーマンス−−−−−−34

第4章 ヤッサ−−−−−−−−−−−−−−−37

 第1節 ヤッサとは−−−−−−−−−−−−38

 第2節 パフォーマンスとライバル意識−−−43

第5章 「唄の力」−−−−−−−−−−−−−46

 第1節 一ツ物神事と口取唄−−−−−−−−47

 第2節 竹割りと地搗唄−−−−−−−−−−49

 第3節 屋台と囃言葉−−−−−−−−−−−53

結語−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−55

文献一覧−−−−−−−−−−−−−−−−−−57

謝辞−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−58

【本文写真から】


写真 1 東之町の一ツ物(14日)


写真 2 北之町の行事頭人(14日)


写真 3 駆け足で宮入りする様子(竹割り)


写真 4 竹割りの最中


写真 5 竹に登る青年(竹割りのパフォーマンス)


写真 6 屋台の差し上げに集まる人だかり


【謝辞】

本論文の執筆にあたり、多くの方々のご協力を頂きました。
お忙しい中、お話を聞かせて下さった、鎌田康司氏、鎌田規宏氏、名嶋伸一氏、紙野哲造氏、ほかインタビューの際にお越し下さった奥様方。貴重なお時間を頂いて質問に答えて下さった、東之町の青年団役員の皆さま。曽根天満宮秋祭りに関する資料を提供して下さった曽根天満宮社務所の皆さま。これらの方々のご協力なしには、本論文は完成には至りませんでした。今回の調査にご協力いただいた全ての方々に、心より御礼申し上げます。本当にありがとうございました。

西宮市における修験道 −神光寺と不動寺−

社会学部 福島 聖也
【要旨】
 本研究は、兵庫県西宮市における2つの修験道寺院、神光寺(上ヶ原)と不動寺(山口町)をフィールドに実地調査を行う事で、西宮における修験道について、時代の変遷に伴って起きた変化や再生、現在における修験道寺院の展開と機能、民衆社会との関わり、信仰のあり方、そして修験者を中心に実践されてきた修行について明らかにしたものである。
 本研究で明らかになった点は以下の通りである。

1. 上ヶ原の神光寺創設のきっかけとなったのが、上ヶ原行者講である。昭和時代の上ヶ原地域にはこの上ヶ原行者講に加え、妙見講(妙見菩薩を信仰する集団)や観音講(観世音菩薩を信仰する集団)など、様々な講が存在した。
2. 行者講は、現在の神光寺住職である谷章善氏の祖父、善治氏が昭和時代の初め頃に創設した。当時、善治氏は農地を持ちながら酒蔵で働く一方で、修験者としての一面を持っていた。善治氏が修験者になったきっかけは兵庫県神戸市東灘区岡本にある不動山明王院の第6代住職であった高井本章氏に師事した事だった可能性が高い。
3. 行者講の創設当時は、普段の生活に楽しみがなく、修験道が娯楽としての機能を果たしていた。また、行者講の構成員の大半は上ヶ原の農家たちで、上ヶ原における修験道は、豊作祈願などの為に信仰された農民たちによる宗教であるとも言える。
4. 昭和時代において、30人程が在籍していた行者講は、現在は谷住職を含めて5人しかおらず、かなり衰退してしまった。構成員は高齢者が多く、なかなか若者が入らないことが大きな原因となっている。これに加え、時代の変化と共に娯楽の増加や地域の人とのつながりの希薄化が進んだ事や、阪神淡路大震災などの要因が行者講の衰退化につながったと考えられる。
5. 昭和時代の行者講による主な取り組みは以下の3点である。1:大峰山を登拝する、2:役行者像を行者講のメンバーで持ち回りをし、各家で祀る、3:柴燈護摩供。現在の上ヶ原行者講の取り組みは、昭和時代のものと比べて一部内容に変化があった。元々は行者の像を持ち回りしていたが、現在はその行者像は使っておらず、代わりに役行者不動明王の2本の掛け軸を行者講のメンバーで持ち回りをしている。それを壁にかけ、精進料理を花などと一緒にお供えしているという。
6. 行者講によって持ち回りされていた行者の像は現在、上ヶ原八幡神社のすぐそばの広場に祀られている。また、上ヶ原台地が開発されたぐらいの頃から、関西学院大学の野球部のグラウンドがある場所あたりに不動明王の像があったという。その不動明王像が現在の神光寺の本尊として使われている。
7. 神光寺は谷章善住職の父である、章栄氏によって1975年に創設された。当初、章栄氏は上ヶ原で仕事として農業に従事しており、不動明王像を善治氏と同様に家で祀っていた。しかし、当時の上ヶ原には寺がなかった為、上ヶ原の住民達もお参りしてご利益を得て欲しいと思った。そして章栄氏は自分自身の私財を使って、自分が所有していた上ヶ原5番町の農地に不動明王像を本尊にして、神光寺を創設する事を決断する。現在は、信者がおよそ200〜300人おり、信者の居住地域は西宮地域だけではなく、宝塚、尼崎や箕面などの大阪にも信者がいる。西宮からそれらの地域に移住した人に加え、修験道や醍醐派を信仰したいという人びとがいる為だ。
8. 不動寺の鮫島勇明住職のルーツは薩摩修験道であり、鮫島住職の父方の叔父は、薩摩修験道代18代目相承者の池口恵観大阿闍梨である。鮫島住職は池口師の弟子となり、修行を積んできた。その影響で護摩行に特に力を入れている。
9. 鮫島住職・池口恵観師は共に、仏教の真言宗を中心に据えており、自分が特に修験者であるという意識をしていないが、修験道の手法を修行に多く取り入れている。
10. 鮫島の家系において、薩摩修験道は一度途絶えたが、再度、鮫島勇明住職の祖父によって再生された。現在では池口の家系で薩摩修験道を復興させていく勢いが強い。
11. 不動寺の物件は元々、モデルルームであった。山口町を選んだ理由として、叔父から受け継いだ檀家と、兵庫県の以前務めていた寺の檀家の多くが、大阪、京都に住んでおり、出来るだけその近くの地域が良いと考えた為である。また、暖炉と煙突があった為、護摩を焚けるのではないかと考え、2011年に最福寺の別院として不動寺を創設した。

【目次】
序章・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・6
 第1節 問題の所在・・・・・・・・・・・・・・・・7
 第2節 フィールドの概要・・・・・・・・・・・・・9
 第3節 修験道と修験者・・・・・・・・・・・・・・11
 (1)修験道・・・・・・・・・・・・・・・・・・11
 (2)修験者・・・・・・・・・・・・・・・・・・12
 (3)修験道研究・・・・・・・・・・・・・・・・16
第1章 神光寺(上ヶ原)・・・・・・・・・・・・・・・18
 第1節 近代における上ヶ原・・・・・・・・・・・・19
 第2節 上ヶ原行者講・・・・・・・・・・・・・・・21
 第3節 神光寺の創設・・・・・・・・・・・・・・・27
 第4節 谷章善住職・・・・・・・・・・・・・・・・30
 第5節 行者講の現在  ・・・・・・・・・・・・・・32
第2章 不動寺(山口町)・・・・・・・・・・・・・・・・37
 第1節 薩摩修験道・・・・・・・・・・・・・・・・38
 第2節 薩摩修験道の再生・・・・・・・・・・・・・41
 第3節 鹿児島最福寺と池口恵観師・・・・・・・・・43
 (1)鹿児島最福寺・・・・・・・・・・・・・・・43
 (2)池口恵観師・・・・・・・・・・・・・・・・46
 第4節 鮫嶋勇明住職 ・・・・・・・・・・・・・・60
 第5節 不動寺・・・・・・・・・・・・・・・・・・64
結語・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・70
文献一覧・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・74

【本文写真から】

写真1 神光寺

写真2 柴燈護摩供を行う谷章善住職 *神光寺「神光寺ホームページ」より

写真3 行者堂 (行者講で持ち回りされていた行者像が祀られている)

写真4 不動寺

写真5 護摩行中の鮫島住職


【謝辞】
 本論文の執筆にあたり、多くの方々にご協力を頂きました。
 お忙しい中、何度も神光寺や上ヶ原行者講についてお話を聞かせて下った、谷章善様を初め、上ヶ原行者講の皆さまには大変お世話になりました。また、不動寺や薩摩修験道について、質問した事に対して丁寧に時間をかけて答えて下った鮫島勇明様。知識が疎いながらも親切に対応して下さって感謝の念に耐えません。皆さまのご協力がなければ、本論文を完成させることが出来ませんでした。今回ご協力いただいた全ての方々に、心よりお礼を申し上げます。本当にありがとうございました。

巡礼習俗の誕生と観光化 −中国•舟山群島普陀山•洛迦山の事例−

社会学部 倪 晨飛
【要旨】
 本論文では、中国浙江省普陀洛迦山山をフィールドし、観音修道の最初道場としての洛迦山そして普陀山を中心に、舟山全域に至るまで、観音思想の形成、拡大、日常生活との融合をめぐって、調査を行われた、普陀洛迦山の観音信仰について、宗教信仰行事の変遷を明らかにしたものである。本研究で明らかになった点は、以下のとおりである。

1. 普陀洛迦山の所在浙江省舟山市は島として、古代の航線上重要な一環であって、そして四周海であるため、最初から漁村として発展してきた舟は漁業も非常に発達し、漁業も産業の重要な一部となっている。昔から現代まで生活、生産上で海との関わりは深いであり、このような背景が南海観音は海の仏様として、こちらの人たちにこんな大きな影響を与え、そして信仰の中心となっていることの主要な前提と基礎になってることを明らかにした。

2. 観音信仰の起源に「観音様が道場を選ぶ」という物語の他に、863年日本からきたお坊さん慧鍔は歴史上にあった実際の人物として普陀山の観音信仰の伝播の中心である。最初の時民家で不肯去観音院の建設そして観音思想を舟山当地身の回りの人に宣伝することなしには、今の仏の国のような光景が見えないと分かった。

3. 普陀山と洛迦山の観音信仰の発展と拡大の中に、洛迦山は観音発足の最初の道場として信者たちそして普陀洛迦山にいるお坊さんたちの間で信仰の中で非常に高い地位に位置づけられている。さらに普陀山と洛迦山を分割した「蓮花洋」という海域も「色」と「波の複雑」が原因で「人生の苦しみの海」として信者たちに認識され、「舟に乗り、人生の苦海の彼岸にある道場で観音様の元へ」、つまり「普陀渡海」と呼ばれる説が信者たちそしてお坊さんの間で存在してると分かった。

4. 中国成立以後歴史上で政治と文化が混乱した「文化大革命」の時期に、当時観音信仰の中心となっている普陀洛迦山も被害をうけた。このような思想の革新から齎した文化活動はこちらに大きな衝撃を与えた一方、新時代を迎えるための宗教の変遷と発展のきっかけともなっていたと分かった。

5. 文化大革命以後、1992年洛迦山の修復により再開。元々信仰の净土として洛迦山には当時被害された寺廟の修復、改造、そして新しい寺、仏塔の建設によって、信者としての一般市民でも参拝、巡礼できるようになった。再び以前よりもっと香火絶えず信仰の源頭になっていた。

6. 今の舟山普陀洛迦山は政府そして当地の徳望の高いお坊さんや住職たちの推進によって、完全に「海天仏国」となり、南海観音信仰となる宗教文化はさらに拡大し、中国だけでなく、韓国、日本などの信者たちの中にも高い地位がある。宗教信仰を現代社会の精神文明建設と融合し、人々の生活を充実した。舟山当地の日常生活文化の一部で、家並みに知られている。「南海観音」という思想文化の影響で、舟山も旅行都市となったと分かった。


【目次】

序章−−−−−−−−−−−−−−−−4

(1)舟山群島−−−−−−−−−−−−−−−−4

(2)調査の背景−−−−−−−−−−−−−−−−4

第1章 普陀山と洛迦山−−−−−−−−−−−−−−−−6

(1)観音信仰の形成−−−−−−−−−−−−−−−−6

(2)観音信仰の確定と拡大−−−−−−−−−−−−−−−−10

第2章 観音の道場ー洛迦山−−−−−−−−−−−−−−−−15

(1)洛迦山の過去と現在−−−−−−−−−−−−−−−−15

(2)文化革命の衝撃を受けたあとの洛迦山−−−−−−−−−−−−−−−−21

第3章 海天仏国の現在−−−−−−−−−−−−−−−−22

(1)宗教行事と旅行結合の例-洛迦山−−−−−−−−−−−−−−−−22

(2)四大道場の一つとしての文化拡張-普陀山−−−−−−−−−−−−−−−−32

結語−−−−−−−−−−−−−−−−37

参考文献と資料−−−−−−−−−−−−−−−−38

謝辞−−−−−−−−−−−−−−−−40


【本文写真から】


図1 中国舟山市(赤線右側は舟山群島である)


図2 禁止捨身燃指碑の写真


図3 不肯去観音院の全貌


図4 普済寺寺院内部大勢にくる信者たち


図5 円覚塔の塔頂と全貌


図6 五百羅漢塔の様子


図7 大悲殿で参拝している信者たち


図8 普陀山の入場券と普陀山から洛迦山までの船の切符


図9 普陀洛伽山全域の絵、右下部分は洛伽山であり、そして普陀山から洛伽山まで行くの子舟も描いてある。


【謝辞】

 本論文の執筆にあたり、多くの方々のご協力をいただいた。お忙しいなかで、舟山の地理環境そして普陀山の宗教概況などに関するお話を聞かせていただいた舟山朱家尖普陀山管理委員会高さん、舟山の宗教と日常生活の共存についてインタビューをうけてさせていただいた舟山当地の市民ゴさんそしてご家族の方々、普陀山現存の数多く寺の現状と歴史を聞かせていただいた普陀山にある最大の寺―普済寺に修行しているお坊さんたち、そして洛迦山で現地考察する時、巡礼の内容、意味に関してインタビューさせていただいた巡礼を行われている信者王さん、鄭さん、楊さんたち、論文の完成にこれらの方々から大変多くの協力をいただいた、人生の経験としてもとても貴重である。今回の調査そして論文の完成にご協力いただいた皆さんに、心より感謝いたします。本当にありがとうございました。

神社と工芸―筥崎宮と博多曲物―

社会学部 爲数 美智

【要旨】
 本研究は、福岡県福岡市東区馬出に古くから伝わる博多曲物について実地調査を行なうことで、今まで様々な媒体のなかで語られていた博多曲物と筥崎宮との関係性について脱文脈化されていた部分や、時代と共に減少していった博多曲物の変化や現状を明らかにしたものである。本研究で明らかになった点は、以下のとおりである。

1.曲物は「木工七職」のひとつであり、ヒノキかスギを割って得た薄板を円筒形に曲げ、その両端の合わせ目をサクラの皮で綴じて輪にし、そこへ底板をつけた容器のことである。そして、曲物は中国で始まり、漢代に漆器木地として用いられたという説があるが、詳細はよくわかっていない。

2.考古学的に曲物は、福岡県鹿部山本町遺跡から弥生時代の頃と思われるものや、愛知県二子遺跡から古墳時代の頃と思われるものが出土しており、弥生時代古墳時代には曲物容器が作られていたと思われるが詳細は不明である。

3.秋田県大館市の「大館曲げわっぱ」や静岡県静岡市の「井川メンパ」など、曲物の生産地は日本各地に点在している。同じ曲物でも、「わっぱ」「めんぱ」「まげもん」などと呼び方は様々である。

4.博多曲物の縁起は、神功皇后朝鮮出兵まで遡る。身重の身をおろして西下した皇后は、帰国の途中、筑紫国蚊田(現在の福岡県宇美町)で後に応神天皇となる皇子をお産みになり、胞衣を木筥に収めて、箱崎の松林に埋められたのだが、その筥が曲物だったという。また、博多曲物の端緒は延長元(923)年に造営された筥崎宮の柿葺き薄板をつくる技術だったともいわれている。

5.江戸時代の儒学者である貝原益軒が著した『筑前國續風土記』「土産考上」の「捲」の部分には「檜物師福岡博多に多し。ことに那珂郡馬出の町には、家々に捲を作る。皆羅漢松材を用ゆ。」とある。また、青柳種信の『筑前國續風土記拾遺(上)』の「馬出村」の部分には、「當郡の東北糟屋郡の境にあり。古ハ筥崎村も那珂郡の内なりし故此村も其かミは筥崎の内なるへし。慶長十五年頃よりや別郡とハ成しならむ。人家ハ筥崎に續きて官道に在。町中に檜物師并家上板を製る工人多し。筥崎八幡宮の敷地なり。東方に川一筋有。表糟屋郡より流来りて筥崎村にいる。堅粕村の技郷なり。」という記述があり、古くより筥崎宮の周りで曲物の仕事に従事する人びとが多かったことが考えられる。

6.博多曲物は、昭和54(1979)年に福岡県知事指定特産工芸品に指定されたのち、昭和56(1981)年に福岡市無形文化財に指定されたと同時に、大神章介氏・柴田徳五郎氏・17代柴田玉樹氏が、無形文化財技術保持者に認定された。以前は、「筥崎曲物」や「馬出曲物」と各々呼んでいたものを、無形文化財に指定されたことがきっかけで、同年「博多曲物」に統一された。博多曲物の特徴は、他の地域の曲物と違い、漆などでの塗りを施さず、木そのものの木目を生かすことである。また、曲物に直接絵を描くことも、博多曲物特有のことである。

7.「博多曲物」の語られ方の多くは、応神天皇の胞衣を入れた筥が曲物だったという歴史的背景と、その曲物をつくっていた人びとが筥崎宮の近くにいたという非常に抽出された情報に偏っている。しかし、今回の調査で、博多曲物をつくる人びとが筥崎宮から役職をいただき、長年奉仕しているということなどが明らかとなった。

8.筥崎宮の神事の中には、博多曲物を使用しているものがいくつかみられた。その中でも特に、放生会の際に特殊神饌を置く台は、筥崎宮にしかない丸三方が使用されている。この丸三方は、月次祭でも使用されているが、それ以外の神事では使われない。それは、丸三方が、応神天皇の胞衣をおさめていた筥の形にちなんでいるため、より神聖なものとして考えられているからである。

9.博多曲物玉樹には、筥崎宮からの由緒書がある。そこには、柴田家が代々筥崎宮の飾職として奉仕していたことなどが記してある。現在も、18代柴田玉樹氏の息子が飾職として活動している。また、18代柴田玉樹氏は、女性であるため、飾職として活動はできないが、筥崎宮に曲物をつくり、おさめることで奉仕している。

10.初の女性曲物師である18代柴田玉樹氏は、数々の困難を乗り越えて、今に至る。現在は、海外へのプロモーション活動や、他の伝統工芸品やキャラクターとのコラボレーションなどにも力を入れている。

11.曲物組合は時代とともに名称を変えながら活動していた。しかし、現在では有限会社化し、組合としての機能は果たしていない。昭和の時代から、不動産管理などで収入を得て、株の配当金を渡すという形に変化した。

12.曲物組合の中には、折箱屋や宮大工など、曲物以外のことに関わる人びともいる。しかし、全員が「木」を扱うという点で共通しているのである。この点で、宮大工は雨の日は、屋根工事などの仕事ができない。そのため、以前、雨の日は曲物をしていたときもあったという。

13.現在、福岡県で曲物をしているのは、博多曲物玉樹と柴田徳商店のみである。しかし、株式会社アクタの例のように、以前は曲物の廉価版である折箱を家内工業としていたというところもある。全国的にみれば、折箱屋はもともと肉屋でよく使われる経木をつくっていたことがきっかけで折箱屋になったというところが多いそうだが、福岡だけは、曲物がきっかけで折箱屋になったという例が多いという。
株式会社アクタは現在、メーカーとなったが、プラスチック素材を用いて折箱をつくっている。

【目次】
序章−−−−−−−−−−−−−−−−1

第1節 問題の所在−−−−−−−−−2
第2節 曲物と博多曲物−−−−−−−2

第1章 「博多曲物」の語られ方−−−10

第2章 筥崎宮に奉仕する人びと−−−13

第1節 筥崎宮と馬出・箱崎−−−−−14
第2節 筥崎宮の神事−−−−−−−−16
(1)玉取祭−−−−−−−−−−−−16
(2)月次祭−−−−−−−−−−−−26
(3)初卯祭−−−−−−−−−−−−28
(4)放生会−−−−−−−−−−−−29
第3節 筥崎宮に奉仕する人びと−−−38
(1)飾職−−−−−−−−−−−−−38
(2)庭燈−−−−−−−−−−−−−39
(3)御炊−−−−−−−−−−−−−40
(4)宮大工−−−−−−−−−−−−42
(5)伶人座−−−−−−−−−−−−43
(6)祝職−−−−−−−−−−−−−47

第3章 曲物に関わる人びと−−−−−51
第1節 曲物組合−−−−−−−−−−52
第2節 博多曲物有限会社−−−−−−55
第3節 博多曲物玉樹−−−−−−−−56
第4節 柴田徳商店−−−−−−−−−63
第5節 株式会社アクタ−−−−−−−65

結語−−−−−−−−−−−−−−−−72

文献一覧−−−−−−−−−−−−−−76

URL一覧−−−−−−−−−−−−−− 77

謝辞−−−−−−−−−−−−−−−−78

【本文写真から】

写真1 福岡市無形文化財技術保持者に認定された三氏。
(左から柴田徳五郎氏、大神章助氏、17代柴田玉樹氏。)

写真2 18代柴田玉樹氏の作品。塗りを施さず、木に直接描くのが博多曲物の特徴。

写真3  玉取祭での玉洗いの儀式。一木・山口家が奉仕している。

写真4 放生会の際の供物。写真右端は筥崎宮の特殊神饌である。

写真5 以前の曲物組合員。写真中央には博多曲物がある。

写真6 町家ふるさと館にて、毎週木曜日に実演をする18代柴田玉樹氏。

写真7 株式会社アクタの折箱とRecoボード。


【謝辞】
 本論文の執筆にあたり、たくさんの方々のご協力を賜りました。
ご多忙の中、本調査のために多くの時間を割いて下さった18代柴田玉樹氏。
貴重なお話を聞かせて下さった筥崎宮 禰宜の平田忠氏をはじめとする筥崎宮の関係者のみなさま。博多曲物有限会社の社長兼株式会社アクタの社長である柴田伊知郎氏、工場長の篠原順二氏。また、急なお願いにも関わらずお話を聞かせて下さった祝宮昌氏、柴田徳商店のみなさま、町家ふるさと館 学芸員の山田広明氏。
 みなさまのご協力なしには本論文を書き上げることはできませんでした。この場をお借りして心より御礼申し上げます。誠にありがとうございました。

樺島の漁村社会

社会学社会学科 米田一揮

目次
はじめに
第1章 樺島の歴史
第2章 現在の樺島の様子
第3章 島民の語り
第1節 Aさん
第2節 荒木伊久男さん
第3節 荒木壽さん
第4節 Bさん
第5節 木下光廣さん
結び
謝辞
参考資料一覧

はじめに
 今回の社会調査実習で調査を行った場所は長崎県長崎市に位置している小さな島である樺島である。樺島は長崎市の中心部からバスを使って約1時間で来ることができる島で、途中で無人島の中之島を経由して架かっている1986年に開通した全長227mの樺島大橋で繋がっている。今回の調査では文献と聞き取り調査をもとにして、現在までの樺島の漁村社会の変遷およびそこに暮らす人々の様子を明らかにした。

図1 野母崎半島と樺島(Googleマップより引用)

写真1 樺島大橋


第1章 樺島の歴史
 かつて樺島はキリシタンが多く住む島であった。フランシスコ・ザビエルが鹿児島から平戸に行った時、樺島に寄ったものと推測されている。島内には3ヶ所教会があったとされていて、そのうちの1つがあった場所は現在の熊野神社である。樺島は島原藩に属していたが、当時の島原藩の領主有馬義直自身も洗礼を受けたこともあって、領民にもキリシタンになることをすすめていて、全盛期には400名ほどのキリシタンが暮らしていたとされている。長崎の中心部がキリシタンの街として急速に発展した時に樺島の商人たちもそこに移住していて、1579年頃に崖下の浜を埋め立てて出来た場所は現在の長崎市樺島町になっている。しかし、江戸時代になって幕府がキリシタン禁止条例を出すと、長崎の教会はことごとく棄却され、樺島の教会も取り壊されてしまった。
 江戸時代中期からは樺島は風待ち港として栄えていた。海が荒れて出港できない場合の中継地である。地方で獲れた鰯を干鰯にしたものを積みに来る船が多かった。東シナ海に向かって突き出ている長崎半島の先端に位置する西彼杵郡野母村、脇岬村、樺島村(現在は長崎市野母崎町)は、カツオ釣りとカツオ節加工、鰯漁業と鰯加工などが著しく発達した地区で、野母崎地区と呼ばれる。
 明治13年の樺島村は離島で耕地は狭く、村落規模も小さい。職業別戸数も農家が中心で、漁家は18戸に過ぎない。漁業はブリ、マグロ、シイラといった大型魚とボラ漁業を始めとする沿岸漁業から成り立っている。荷船もあって、水産物だけでなく、日用品や旅客の輸送も行っていたが、海運業の衰退によって漁業への進出が進み、鰯漁業と鰯加工が発達していった。
鰯漁業は野母村を中心に脇岬村や樺島村で行われた。主要漁法は明治初年頃から網船2隻(各15人乗り)、口船(運搬船)2隻(各10人乗り)、灯船2隻(各7人乗り)で構成され、一方の網船に網を積み、6隻が同時に漕ぎ出し、漁場に着くと灯船が篝火を焚いて魚群を集め、魚群が集まったら灯船を囲い込むように網を入れ、その網を手繰り寄せ、掬い網ですくう八田網から、敷網部分の左右に垣網を出して魚群を遮断し、篝火で集めた魚群を敷網部分に誘導する、網船2隻(各15人乗り)、口船2隻(各12人乗り)、灯船3隻(各7人乗り)、計7隻、75人で構成される縫切網に転換した。八田網より沖合で操業するので、灯船を増強している。縫切網の方が規模が大きく、垣網をつけて魚群の逸散を防ぐので漁獲能率が向上した。
 鰯漁業は、縫切網が綿糸漁網や石油集魚灯の普及で発達し、網主網子の関係も次第に近代的な性格に変わった。水産加工は漁業経営からの分離が進み、鰯加工では干鰯の他に塩乾加工が登場し、消費市場の拡大に対応した。
 明治後期の樺島村は住民の約半数が漁民であるが島にしては漁民が少なく、五島方面からの魚類の回漕船と熊本・佐賀方面からの農産物を積んだ船の中継港なので商業が多かったが、鉄道の開通によって打撃を受けて、商業は衰退した。近海が鰯の好漁場なので、この島を根拠として操業する縫切網は30〜40隻に及ぶ。漁獲物の多くは干鰯に製造し、一部は目刺しとして熊本、福岡、佐賀に送った。
 大正期になると鰯漁法は縫切網から揚繰網(巾着網)に転換し、さらに沖合操業、能率漁獲が可能になった。樺島村の鰯漁業は他からの出漁者に多くを依存していた。総戸数は416戸で、農業132戸、漁業81戸、工業47戸、商業114戸と漁業の割合は少なくなっているが、農業、工業、商業もその大部分は漁業と兼業したり、水産加工や水産物販売を内容としている。漁業戸数81戸というのは専業で、その他に兼業が60戸ある。大正期に小鰯網、鰯刺網が急増し、春は小鰯、秋が最盛期で巾着網、冬は刺網(大羽鰯)と夏季を除いて漁獲するようになった。また、秋になると他村から鰯漁船が密集し大変な賑わいを見せていたので、村民は多忙を極め、秋3ヵ月で年間収入の大半を稼ぐといわれるようになった。鰯を干すための棚が空き地、海面あるいは屋上に張り巡らされた。
 目刺しは特産品となったので商業の発展をもたらし、以前は長崎まで送り、そこから大阪、神戸、尾道、佐賀などへ転送していたが、関西方面の汽船会社が直接入港し、直送するようになった。
 昭和2年に脇岬村の築港が完成して樺島村への入港が減少したので、地元民が漁業に進出するようになったが、昭和5年には不漁で中止するものが続出して、40統の刺網だけとなった。それ以後漁業組合が県から資金を借り、40馬力の揚繰網漁船を建造したり、水産加工業者が主体となって「共同船」が建造されるなどして動力揚繰網が8統に増加したが、戦時中は軍による買い上げや徴用で5統に減少した。
 また、明治時代から昭和時代前期にかけては港付近に遊女屋が存在していて、1882年(明治15年)の貸座敷娼妓取締規則で樺島は貸座敷免許地となり、樺島では「客さん宿」と呼ばれていたが、大正時代に汽車が発達して船が樺島から消えたことが影響して無くなっていった。

第2章 現在の樺島の様子
 現在の樺島は人口が600人程度で、長崎市内か他の都道府県に出稼ぎに行っている人が多いので人口減少が問題になっている。住宅地は島の北部に集中していて、南部は山間部となっている。北部は主に2つの町に分かれていて、港から見て右側が古町、左側が新町である。

写真2 港の様子

写真3 島内の様子
 また、かつて風待ち港として栄えていた時に船に提供するための水であったり、島民の生活用水として使用されてきた井戸の跡が数ヶ所に残されていて、井戸の横には妊婦の安産や漁師たちの危険を身代わりになって引き受けてくれるよう願われていた地蔵が祀られている。井戸のあった場所としては港周辺の方が山寄りの場所よりも多かったが、海の近くの場合塩分が多く含まれてしまうので、島民は山間部の井戸を多く使用していた。また、港町なので猫が多く生息しており、執筆者が樺島を訪れた際にも多くの猫を見ることができた。

写真4 島内の井戸

写真5 井戸横の地蔵

写真6 島内で目撃した猫
島の北部から南部にかけては山道で繋がっており、島の最南端には船を監視するために建てられた灯台が残っている。

写真7 樺島南部の灯台

第3章 島民の語り
 樺島の人口は少なくなっていて、実際に島内を歩いてもあまり住民と会うことは困難であったが、本調査では5名の島民と接触することができたので第3章ではその方々が話したことを紹介する。
第1節 Aさん
 樺島の南部にある灯台付近で出会うことができたのがAさんである。Aさんは樺島出身の現在63歳である。大阪や広島での一般企業での仕事を経て25年前に樺島に帰ってきて、現在は嘱託職員として灯台付近の野母半島県立公園の管理をしている。
 Aさん曰く、樺島はかつて鰯の島と呼ばれていたほどで、鰯を煮て乾燥させたものであるいりこの会社も20社ほどあったそうだ。船団も全盛期には10船団ほどいて港に入りきらないぐらいいたそうだが、鰯漁が無くなってからは鯛漁、鯵の一本釣り、伊勢海老漁を中心とした刺し網(磯立て網)が盛んになっていた。刺し網に関しても後継者不足により年々減少している。島民における漁業従事者の割合は半分未満になっているようだ。漁業組合はIターンを募集して九州を中心に3名集めることができたが、依然として状況は厳しい。Aさんが小学1年の頃までは生活用水として井戸水が使われていたようだ。
第2節 荒木伊久男さん
 Aさんの紹介で会うことができたのが荒木伊久男さんである。荒木さんは樺島出身の現在59歳で、両親が業務用魚切身加工販売業を営んでいたので、(有)荒木水産の代表取締役として働いている。長崎の工業高校を出てからは6年ほど一般企業で働いていたが、母親に説得されて樺島に戻ってきた。
 漁業従事者ということもあって漁師のことに詳しく、かつて漁師の役職は網元、網子漁労長に分かれていて、網元は自宅に待機して漁労長と話し合うといったことや、その日の漁の状況から市場の相場を決めるといったことをしていたようだ。網元は裕福で山を持っていたので様々な神社から分祀し、それぞれの山の頂上に祀っていた。昔の漁師は梅雨の時期が休みだったが、当時の網は水に弱いことから腐りやすく、梅雨の時期は乾かなかった影響で漁ができなかったからである。現在は安価な合成繊維の網や漁業協同組合の台頭によって網元制は廃止されている。
 また、樺島はボラを加工して作られるからすみの特産地として知られていて、ボラが日本で初めて獲れたのは樺島とされている。歴史は古く、豊臣秀吉に献上していたという記録も残っている。ボラは11月から12月にかけての短期間にしか獲れない魚だが、全盛期はその期間だけ働けば残りの1年は余裕を持てるほど稼ぐことができた。からすみは当初樺島内でしか広まっておらず、価格もあまり高価ではなかったが、長崎市内から出稼ぎに来ていた労働者が市内に持ち帰ったところ評判が高まり、冷凍技術の向上も相まって全国に広がっていったことにより現在のような高級品となった。
第3節 荒木壽さん
 次に出会ったのは荒木壽さんである。ちなみに第2節の荒木伊久男さんと兄弟関係というわけではない。荒木さんは樺島出身の現在83歳で、高校卒業後は家業のかまぼこ加工業を継いでいたが、30歳になる頃には島内で漁業の衰退が始まっていたこともあり関東に水産業の出稼ぎに行っていた。定年になってから友人に町の世話をしてほしいと頼まれて、61歳から10年間町議会議員を務めて現在に至る。樺島の名前の由来としてカワ(川)あるいはカワバ(川場)のことを言ったのではないかと考えられていることを話していた。
 荒木さんが小学生の頃は手伝いとして、井戸近くの浜につけた船まで大きな樽を運んでいたようだ。魚を入れる箱としてトロ箱というものがあり、現在こそビニール製であるが昔は木でできていて、昭和前期にはそのトロ箱がひしめき合っていた頃に不始末によって火事が起き、路地のトロ箱を焼いて隣家へ燃え移るというのが繰り返され、全戸数の6割が焼けたこともあったそうだ。
第4節 Bさん
 道中で声をかけてもらって出会うことができたのがBさんである。Bさんは樺島出身の現在75歳である。Bさんは樺島北部にあるオオウナギ井戸横の水槽に現在生息している2匹のオオウナギを採捕、保護した人物である。オオウナギ大正7年に国の天然記念物に指定されたように大変貴重な動物で、2匹のオオウナギは1994年の9月下旬に島の南西部に位置する田原川で採捕された約10匹のうちの2匹である。

写真8 オオウナギ(1)

写真9 オオウナギ(2)

写真10 昔生息していたオオウナギの墓
 島の北部でバス停の近くにある伊津岐神社にBさんが花を供えているということや、島の随所にある地蔵に着させている服は決まった誰かが着させているわけではなく、安産や子供の健康を祈願したい人なら誰でも着させてよいということもBさんの話から知ることができた。

写真11 伊津岐神社
第5節 木下光廣さん
 最後に出会ったのが木下光廣さんである。木下さんは樺島出身の現在75歳で両親は百姓だったそうだ。20歳から50歳までは樺島の郵便局で働き、50歳から60歳までは長崎市内の一般企業で働いて、定年後に樺島に戻ってきて現在に至る。樺島において漁業が全盛期だった頃は鰯漁師を除いたら島全体が裕福というわけではなく、木下さんの家も楽な生活ではなかったようだ。木下さんとしては30歳を過ぎたあたりから生活が少し楽になったようだが、その頃には漁業の衰退が始まっていた。
 島の南部で現在灯台がある場所の近くには行者山という山があり、戦時中には空襲時の逃げ場にもなっていたそうだが、そこには火ともし岩という灯りがともる岩があり、灯台が無かった頃には船からの目印になっていたということも木下さんの話から知ることができた。

結び
 今回の調査で分かったことは以下の通りである。
・樺島は長崎市内などの都市部に出稼ぎに行く人が多く、少子高齢化が進んでいる。
・長崎は歴史的に見てもキリシタンの多い土地であったが、樺島もその中の1つで多くのキリシタンが暮らしていた。
・昭和時代中期までは漁業が盛んな島であったが、高齢化などの影響で現在はあまり盛んではない。
・島内には井戸の跡が数多くあったが、風待ち港だったことから船が多く滞在する期間があり、その船に載せるための水を汲むために多く作られた。

謝辞
今回の論文の執筆にあたり、お話を聞かせてくださったAさん、荒木伊久男さん、荒木壽さん、Bさん、木下光廣さんに心より感謝いたします。本論文は皆様の協力なしでは完成させることはできませんでした。突然の訪問にも関わらず、貴重なお時間を割いてくださり、本当にありがとうございました。

参考資料一覧
片岡千賀之,『西海漁業史と長崎県』,2015,長崎文献社
長崎市,『新長崎市史』,2013,長崎市
長崎市,『水産業の歴史』,2013
http://www.city.nagasaki.lg.jp/jigyo/370000/372000/p005864.html
2016年12月16日にアクセス

ゆうこうの「発見」―長崎県土井首・外海の事例−

社会学部 社会学科 浅野 裕
目次

はじめに
第1章 土井首地区における「発見」
第1節 ゆうこうの「発見」以前
第2節 ゆうこうの発見
第3節 ゆうこうへの愛

第2章 外海地区における「発見」
第1節 ゆうこうの「発見」以前
第2節 ゆうこうの「発見」
第3節 特産品としてのゆうこう
むすび
謝辞

はじめに
 長崎県には土井首地区と外海地区にのみ自生しているゆうこう(写真1)という香酸柑橘類が存在している。ゆうこうは2地区では身近な存在であったが時代を経て土井首地区ではその存在が忘れ去られていく。本稿ではゆうこうが衰退した後の「発見」について土井首町自治会長の小中龍徳氏とフェルム.ド.外海の日宇スギノ氏に聞き取り調査、探索を行いまとめたものである。

写真1 ゆうこう

第1章 土井首地区における発見 
第1節 ゆうこうの「発見以前」
土井首町自治会長の小中龍徳氏に話を伺ったところゆうこうは小中氏のひいおばあちゃんの時代の嘉永6年にはすでにあったようだ。屋敷の中というより畑の脇や急な斜面に数多く自生しており(写真2)子供の頃山に行った際に飲み物の代わりに自分で木に登り取ってきては竹で出来たストローを刺し身をほぐしながら飲んでいた。(写真3)その時に飲んでいたゆうこうは実が青いことが多くまずいものだと認識していた。また他にもゆうこうは酢の代わりに使われ、焼酎の中に入れる、エタリイワシとゆうこうを酢の代わりに用いたゆうこうみそを使いぬたを作るといった使い方をしていた。しかし1960年代のベットタウン化やみかんブームの時に温州みかんと交雑する恐れがある、高木であり実が取りにくく邪魔な存在(写真4)であった、酢の代わりに使っていたが他に様々な調味料が作られ使わなくなってきたといった理由からゆうこうの木は切り倒され、その結果ゆうこうが人々から忘れ去られていった。

写真2山深くにあるゆうこうの木

写真3ゆうこうの飲み方

写真4 高枝切りばさみを用いて収穫

第2節 ゆうこうの「発見」
 はじめに、小中氏に小学校の校長先生が昔使われていたとのさま道を子供たちに見せたいと依頼したそうだ。昔のとのさま道には石で出来た道標(写真5)が50本程あったがその道導が土地開発によって失われていたりして元の位置になかったため最初は分からなかった。だが、とのさま道につながる道標をダイヤランドの入り口で発見しこれを基点として子供たちととのさま道を歩き始めた。しばらくするとみんなが疲れて子供達ももう歩きたくないといい出した。その時ふと小中氏が横を見るとゆうこうが実っていることに気づく、その時他の大人や子供たちはゆうこうのことを知らなかった。小中氏はゆうこうの実を取り、自分が子供の頃に飲んでいた飲み方を子供達にレクチャーしみんなで飲んだところ先程まで歩きたくないと言っていた人たちが回復し、最後まで歩くことができたという。
その後、一緒にとのさま道を歩いたメンバーの一人である川上正徳氏がNHK趣味の園芸にゆうこうを送りそこで紹介され、これは珍種であると言われ長崎市が取り上げようとする。また、独自調査、本格的な調査をし、学会で発表することによってそれが新種であると認められた。その後、外海が合併により長崎市となったことからゆうこうの増産、ブランド化がはじまる。また、シーボルト大学へ成分分析を依頼したところゆうこうのフラボノイドが健康にいいことが判明した。(写真6)2008年にはイタリアで行われたスローフードの世界大会で味の方舟に認められ
る。このように長崎市はゆうこうを特産品にしようという動きによって小中氏は今までゆうこうは勝手に取っても怒られることはなかったが今では勝手に取るなと注意されることもあると言っていた。また市や農協は商業目的でのゆうこうに援助をしており、また外海地区と東長崎県に力を入れておりゆうこうの木を残そうと述べるものの市は農家がほとんどいない土井首地区に対して何もしてくれないようだ。実際土井首地区では山の中にゆうこうの木が生えているが計画的に植樹が行われた場所はあまりなく、またゆうこうが自生している場所へ行く道も整備されておらず険しい道なき道を歩かねばたどり着くことが出来ない場合が多い。(写真7ー1、7ー2)

写真5 石の道標

写真6 ゆうこうのフラボノイド量


写真7ー1、7ー2 整備されていない道のり

第三節 ゆうこうへの愛
小中氏はゆうこうを商業目的で利用するのではなく昔からあり、栄養価が高いことがわかったゆうこうを地元の人々にもっと知ってもらおうという思いから様々な活動をしている。
『小中氏の活動』
1愛のゆうこう園
2ゆうこうの新たな利用方法、講習会
3植樹活動

1 愛のゆうこう園
小中氏はゆうこうを地元に広める活動の一環として愛のゆうこう園というゆうこうの木を植樹した農園を協力者と共に作った。しかし、商業目的でゆうこうを利用しようとする人々との考えの違いにより愛のゆうこう園の活動から半ば強制的に追い出されることとなった。

2 ゆうこうの新たな利用方法、講習会
 小中氏はゆうこうをもっと身近に感じてもらおうとゆうこうを用いて化粧水やママレード、ピール、酵素ジュースといったものを作り、その作り方をホテルのシェフを呼び地元の主婦たちに講習会を行っていた。ゆうこうは自然木や土壌によって皮の厚さが異なりピール用、ママレード用と小中氏は分けていた。また、ゆうこうを用いて作った商品を駅前で売ってほしいという市の要請があり、小中氏は駅前で販売した。それらはあっという間に売れたが、売り上げからお金が引かれ駐車場代もかかり手元にほとんど残らなかった。このことからもう売るのをやめ、現在は近所の人や知人にあげたりと利益が目的ではなく普及目的で売ったりしている。

3 植樹活動
 小中氏は知り合いの山や山の持ち主とその土地にゆうこうを植えるための相談し植樹活動を行っており土井首地区にもっと多くのゆうこうの木を増やしている。また、小学校へも植樹活動を行っておりゆうこうを地元に根付かせるため精力的に活動している。(写真8)

写真8 小中氏が植樹した新たなゆうこう園

これらの活動は自分が子供の頃に食べてきたゆうこうを忘れてほしくない思いと栄養価の高い食べ物ということを知ってもらいぜひ使ってほしい、今の若い人はゆうこうを全然知らないので小学生たちに教育することでゆうこうを愛してほしいという思いがあり小中氏のゆうこうへの愛から起こっている。

第2章 外海地区における「発見」
第1節 ゆうこうの発見以前
外海地区でのゆうこうについては日宇スギノ氏に話を伺った。日宇氏によると外海地区ではゆうこうは各家庭にあったというよりまばらにあり、また山の中というより畑の脇に生えていることが多く、木がある人からゆうこうの実をもらったり物々交換を行っていた。
外海地区のゆうこうには夏みかんタイプやザボンタイプがあり、側にある木の影響を受けて原木により味は変わらないが皮の厚さが変わったりする。遠足におやつとしてゆうこうを持っていき日向夏のように切り食べていたり、ゆうこうをカットしてレモンのようにして食べることもあった。(写真9)

他にもゆうこうを輪切りにし砂糖と一緒に囲炉裏で焼いて風邪をひいたときの薬として用いられる家庭もあった。

写真9 カットしたゆうこう
 土井首地区ではみかんブームによってゆうこうが衰退したが外海地区ではみかんをほとんど作っていなかったのでゆうこうを残しているようであった。そのため小中氏が「発見」する以前から衰退することなくずっと用いられており、日宇氏自身も料理コンテストにゆうこうを用いた料理を出したことはあったがゆずの一種としか取り上げられなかった。

第2節 ゆうこうの「発見」
 土井首地区でゆうこうが取り上げられている頃、同じく外海地区でもゆうこうが自生していることが分かった。これによって外海地区では市や外海地区のゆうこう振興会の協力でブランド化、商業目的での植樹活動が行われている。市では経済効果を目的としているが日宇氏自身はゆうこうを広めたい、地域活性化という思いを第一に持っている。
日宇氏はゆうこうはド・ロ神父がもってきたものだと思っており、理由としてド・ロ神父は貧困に苦しむ人々に様々な技術を伝えた人物であるがそのド・ロ神父の教会の近くにゆうこうが多くあったことやド・ロ神父がゆうこうや友情といった言葉が好きであり、またド・ロ神父の記録の中にyuukouという文字が発見されたことが挙げられる。

第3節 特産品としてのゆうこう
土井首地区とは異なり外海地区では農業の一つとしてゆうこうの植樹が行われるようになった。これを新たな市の特産品にしようと活動しており、ゆうこうに対して金銭面での援助やPR活動が行われている。しかし、外海地区では市がゆうこうなどの加工所といった施設そのものを作る訳ではないといった現状がある。
この援助を受け現在道の駅(写真9)ではゆうこうちゃんケーキ、ゆうこうみそ、ゆうこうのジャムやパン等が作られている。(写真10〜13)現在はゆうこうの需要が供給を上回っており日宇氏の畑でも新たに植樹が行われている。農家ではこういった植樹が行われているところもあるがゆうこうの木を新しく畑や家庭に植えたくないという声もある。日宇氏はゆうこうを広めたい、みんなのために役立ちたい、地元の活動費のためになればいいという思いをもってゆうこうの植樹や加工を行っている。

写真9 道の駅




写真10〜13 ゆうこうを使った加工品

むすび
 ・土井首地区では邪魔なものや金にならないものという認識であったゆうこうであるが「発見」されることにより以前とは異なる価値観が生まれた。
 ・土井首地区では農家がほとんどないこともありゆうこうの普及活動が行われており、
外海地区ではゆうこうを商品作物として扱い様々な加工品が作られている。
 ・小中氏、日宇氏の両方からゆうこうを知ってもらいたいという市の考える商業目的や経済効果のための一つのアイテムとしてではないゆうこうに対する思いを強く感じた。

謝辞
本論文を執筆するにあたり、ご協力くださった小中龍徳さん、日宇スギノさんにはこの場をお借りしてお礼を申し上げます。皆さんのご協力のおかげで実際にゆうこうを取りに山へ入ったり、数々の貴重なお話を聞かせて頂けたりととても良い体験ができ論文を完成させることが出来ました。本当にありがとうございました。

ハイヤ節は誰のものか ー長崎・樺島半島における民謡の衰退・再発見・保存ー

社会学部 川島圭司



【目次】
はじめに
第1章 ハイヤ節とは何か
第2章 樺島とハイヤ節
第3章 ハイヤ節の再発見
第4章 保存会と現状
むすび
謝辞
参考資料


はじめに
 日本には多くの民謡が今もなお保存・継承がなされている。その土地に暮らす人々の日常の生活や労働について歌った生活歌としての日本民謡を、かつて帆船時代において風待ち港として栄えた長崎県の樺島をフィールドに、その土地に根付く独自の日本民謡「樺島ハイヤ節」の保存と継承についての事例を取り上げる。


第1章 ハイヤ節とは何か
 ハイヤ節とは、「ハイヤ!」の掛け声で始まるいわゆるお座敷の騒ぎ歌として歌われた日本民謡である。陸上交通よりも海上交通が発達していた帆船時代において、風待ちの港で船が出港できるまでの間に船乗りの人たちの酒盛りをする席で歌われたものである。
 同じ文句で歌いだすことから、長崎県平戸島の田助港や熊本県天草の牛深が全国のハイヤ節の根拠地といわれ、ここから広がって日本の港々で歌われた。西日本ではハイヤと発音するが、鹿児島と佐渡の小木ではハンヤ、東北地方ではアイヤもしくはアエヤとも歌う。
しかし、後の機動船の登場によって、船乗りたちは風を待つ必要がなくなったことにより、港とその周囲の遊郭はさびれ、ハイヤ節も次第に歌われなくなり衰退していった。


第2章 樺島とハイヤ節
 樺島は長崎半島の南端に位置する島であり、かつて帆船時代の風待ち港として全国にその名をはせ出港、入り船行き交う船で繁盛していた。鹿児島を出た上り船は、ハエと呼ばれる南風にのって天草の牛深に着き、それから東志那海を北に進み長崎半島野母崎に浮かぶ樺島に着く、さらに松島(大瀬戸町)を経由して平戸島の田助港に入る。江戸時代から樺島は八田網(イワシ漁)の根拠地として賑わい、諸国の歌としてハイヤ節も持ち込まれた。



写真1 長崎半島と樺島


 樺島には民謡が多い。ハイヤ節、さのさ節、磯節など、明治・大正のはやり歌をすべて定着させて、樺島ハイヤ節、樺島さのさ節、樺島磯節の固有名詞を付けて、自分たちの民謡に育て上げてきた。樺島ハイヤ節は、船乗りの夫を樺島の地で待ち続ける女の情景を歌ったものとしてアレンジが施され、樺島の地に根付き、島民や島に訪れる船乗りたちに歌われるようになった。



写真2 風待ち港樺島と遊郭


 風待ち港の入り口のすぐ側には遊郭がいくつも立ち並び、酒盛り歌として遊女たちによって樺島ハイヤ節が歌われたが、機動船導入期になると樺島港に立ち寄る船も少なくなり次第に港は衰退していった。加えて、昭和初期に島の大半を消失する大火や、昭和12年から始まった日中戦争およびその後の太平洋戦争のため、いつしか樺島ハイヤ節は歌われることがなくなった。


第3章 ハイヤ節の再発見
 昭和59年、警察官の夫をもつ岩崎キクエ氏が、夫の樺島赴任をきっかけに樺島へ移り住んだ。移住後、三味線演奏の技術を持っていた岩崎キクエ氏は、島民との融和交流を図ることを目的に樺島公民館にて民謡教室をひらいた。このことが契機となり、昔を懐かしむ島民たちの希望もあって、岩崎キクエ氏の尽力により60年ぶりに樺島ハイヤ節の復活に着手することとなった。樺島ハイヤ節に関する過去の書物などはほとんど存在しない中で、かつて樺島ハイヤ節を目にしていた古老の記憶を頼りに、曲の節や踊りを作り上げた。島で盛んに歌われその後衰退し一度は消失した民謡が、岩崎キクエ氏という島外から移り住んだ人物を中心として再発見・再創造がなされたのである。
 その後、岩崎キクエ氏は樺島に「野母半島樺島ハイヤ節保存会」を立ち上げ、本格的に樺島ハイヤ節の保存と継承につとめた。保存会は、熊本県牛深市で開かれた「ふるさとの民謡ハイヤ節の系譜をたどる」をはじめとする様々なイベントに出演、また、平成元年「第2回全国子ども民謡大会」で当時9歳だった田上寿里氏が樺島ハイヤ節を歌い見事グランドチャンピオンに輝いたことで、一躍樺島ハイヤ節の名は全国に広まった。さらに、平成9年第11回「日本民俗音楽学会平戸大会」では田助ハイヤとともに踊りを披露し、樺島ハイヤ節は高名な先生たちの賞賛を得るに至った。


写真3 ハイヤ節復活を取り上げた記事



写真4 岩崎キクエ氏と田上寿里氏


 その後、2代目保存会会長として岩崎キクエ氏が就任したのを契機に、保存会の活動の拠点を樺島から当時岩崎キクエ氏が暮らしていた長崎半島三和町晴美台地区へと移し、保存会の名称も「長崎半島樺島ハイヤ節保存会」に変更された。ここには、これまでの樺島や野母半島の人々だけでなく、三和町をはじめとする長崎半島全体からの保存会への新たな会員を増加への期待という思いが込められている。


「樺島ハイヤ節」
ヨイサヨイサ ヨイヤサ ヨイヤサ
ヨイサーヨイサ ヨイサーヨイサ サーサヨイヨイ
ハイヤァァー 可愛やァー 今朝出したァァー船はェー
     どこの港に サァァーマ入れたァァやらえー
エェーサ 京崎鼻から やって来た
     新造か白帆か白鷺か
     よくよく見たれば我が夫さまだい
     我が夫さまならおてちいたもんだい
サーサヨイヨイ サァーサヨイヤサ
     出船ェェ可愛やァー 入り船ェよりもおェーー
     又と合うぅやら サァァマ合わぬうぅヤラェーー
エェーサ 雲仙岳から 後ろ跳びするとも
     おまえさんに暇じょは やりもせにやとりもせん
サーサヨイヨイ サーサヨイヤサ
     樺島あァァせまいとてェェ せまい気おぉもつなェー
     広いィィ野原のサーマ 気をもぉぉちやれねー
サーサヨイヨイ サーサヨイヤサ
     沖のおぉー島影ェェ あますてェ小舟ェー
     だれにィィこがれてサーマ いるじやァァやらェーー
エーサ 段々畑のさや豆が 一さや走れば皆走る
    私しやおまえさんについて走る
サーサヨイヨイ サーサヨイヤサ
    樺島ァァ見えるようなァー 眼鏡がァあればェー
    千両出してもォサァァーマ もとめェェェたいねェー
エーサ 川端石だい おこせばガネだい
    ガネの生焼食傷のもとだい
    食傷ガネなら 色なしガネだい
サーサヨイヨイ サーサヨイヤサ
     船もォォ早かれェー 櫓もおしよかれ
     先の幸サーマ なほよかれェェ
サーサヨイヨイ ヨイヤサヨイヤサ
ヨ       ヨイサヨイサヨイサ




写真5 樺島灯台祭りにてハイヤ節を披露


 再発見がなされた樺島ハイヤ節の歌詞が記載されている書物は見つからなかった。保存会の方のご協力の末、本論文ではそのすべてを記載する。歌詞に関して、全体的な意味の理解はできるものの、現在ではすでに消失してしまった樺島の方言が盛り込まれており、歌い手である長崎半島樺島ハイヤ節保存会のメンバーでさえ、曲中に登場するいくつかの言葉の意味についてはわからないという。


第4章 保存会と現状
現在は、4代目会長・森貞雄氏を中心に長崎半島樺島ハイヤ節保存会は切り盛りされている。保存会のメンバーは18名ほど(うち6名が樺島島民)在籍しているが、そのほとんどが活動の中心地である三和町民であると森貞雄氏は述べている。一時的なメンバーを含め、現在は計20名〜25名ほどで活動をしており、全体での合わせ練習は月に2回ほど行われる。練習場所である三和町公民館までは、樺島島民のメンバーは森貞雄氏の自家用車に同乗して片道20分ほどの時間をかけて練習に参加している。
 長崎半島樺島ハイヤ節保存会は、島内の中学校では民謡教育で樺島ハイヤ節の指導を行っているほか、年間を通じて現在も多くのイベントに出演しているが、イベントの一度の出演料がおよそ5000円から10000円ほどであるため、報酬は気にせずほとんどボランティアで演奏を行っている。
 森貞雄氏は保存会に入会して約10年目であり、会長に就任して3年ほどになる。近々、会長を他のメンバーに引き継ぐつもりだが、保存会メンバーの高齢化と後継者不足が保存会で深刻化しており、世代交代をなかなか円滑に進められない現状を嘆いている。
今後の展望について森貞雄氏は、会員を増やして大きな大会に出ることが目標であると述べている。そしてそのためには第一に、ハイヤ節の火を絶やさず継承しなければならないという。若い世代に加わってもらうために中学校などの授業に取り入れてもらうことや、長崎県が新たに導入した観光企画「長崎さるく」に関わり、樺島や野母崎に訪れた人々に樺島ハイヤ節を披露する機会を得ることで、多くの観光客に知ってもらえるようになりたいと述べた。


結び
・一度は衰退した樺島ハイヤ節は、外部から移り住んできた人物の手によって再発見がなされた。現在の踊り手の多くは樺島島民以外の人が多く、その活動場所も樺島から離れて保存がなされている。
・実は「現在の樺島ハイヤ節は好きではない」と感じている島民もおり、そこには島外から来た人々の手によって樺島の郷土芸能が演奏されていることに対する疑問であった。



謝辞
 本論文の執筆にあたり、協力してくださった方にこの場をお借りしてお礼申し上げます。ご多忙にもかかわらず訪問に応えてくださった森貞雄様、荒木壽様のご協力により本論文を完成することができましたこと、心より感謝いたします。本当にありがとうございました。


参考資料:『わたしたちの郷土 風俗』長崎県教育委員会.1983
『西日本民俗博物誌(上)』谷口治達.1978

長崎県・外海地域の石積みをめぐる生活と文化財化

社会学部 社会学科 倪晨飛

目次

はじめに

第一章 外海地域の概況

第二章 様々な石積
1. 宅地や畑の水土流失を防止する―石垣
2. 家や倉庫の壁―石壁
3. 宅の境界を示す―石塀
4. その他の石積構造物

第三章 石積の作りと職人
1. 石積の作り方
2. 職人の出現と消失

第四章 石積の文化財化について

むすび

謝辞

参考文献


はじめに

 今回の調査を行った所は長崎駅から「板の浦」行きのバスを乗って、一時間をかかって出津文化村という場所である。その場所がある外海地域では長崎県にある西彼杵半島南西部に位置されている。
 本稿は、四日間で長崎外海地域の出津文化村をフィールドとして、現地に多く存在してい石積構造物を中心に、石はそちらで生活をしている人たちにとってはどのような意味を持っているのか、そして石積の作り方と職人のことをテーマにしたものである。今回の調査は現地の村民たち十数名、そしてフェルム.ド.外海の日宇夫婦、日宇夫婦の友たち浜さん、外海公民館で勤めている石鍋そして外海の石を研究している和泉さんにお話しを伺った。

第一章:外海地域の概況

  外海地域では標高400メートルの山地がよく見られている。山地の間を流れている出津川はその地域の重要な川として、両岸に川によって作られていた谷地形が非常に発達している。
外海地域には、特に出津川の周辺に山が多い。そして山の構成に主に結晶片岩というガラス質の石で構成されている。外海地域の海岸付近では急斜面が多く、平地はごくわずかである。そのため、その地域に住んでいる集落は一カ所ではなく、川の両岸のわずかな平地や水脈に沿って作られている斜面地に点在している。
  右の「彼杵郡三重図」のように昔からいままでも外海地域の集落は変わらずに分散している。また外海地域には周りの山地によくある石積という名前で結晶片岩を使った建物や石垣などをよく見られている。そのよな構造物は外海地域の東出津町、西出津町そして新牧野町の一部、及び大野集落にはよく存在し、今でもその地域に住んでいる人々の生活と深い関係を持っている。

彼杵郡三重図)
  右のちずに描いてあるのが石積の分部である。これらの石構造物は風雨や山地の複雑な環境の中で、人々の生活を支えている。例えば、元々平地が少ない山地の間で部屋を建てる他に糧食物を植える平地はもっと少なくなっている。出津川が雨季の時よく氾濫してしまうことを加えて、米など大面積の平地が必要な糧食の植えることもかなり困難である。自分の手で斜面で平地を作ら無ければならない当地の人にとって、石垣の作りに必要な結晶片岩はとても重要となっている。それは自然と人の力が組み合わさった技術の結晶である。このような集落や石構造物、石の生活生産製品の伝承が今外海地域の特徴でもあると考えられる。その地域の人々と石の密接な関係性も表している。

(石積の分部図)

第二章:様々な石積

 外海地域に多く存在している結晶片岩は山の斜面を開墾する際に数多く出る、柔らか平らで加工しやすい性質を持つことから斜面で生活をしている人々の畑や宅地の石垣、水路などの石積のほか、お墓石など生活に密着している。元々それぞれの方法で作る必要がある石積構造物は外海地域の人々が特殊な方法で(藁や貝、石炭などと赤土を混ぜる)作ることが発達している。

  1.宅地や畑の水土流失を防止する―石垣

  今回フィールド対象としての長崎外海出津文化村は山の谷間に位置されているため、平地が少なく、ほぼ斜面の状態になっている。その原因で、村民が糧食を植えるため、屋敷用の平地以外に、自分で作りのがとても重要となっている。出津公民館で勤めている長崎の石鍋歴史を研究している和泉さんの話によると、この地域では山を開墾し、山から持ってきた結晶片岩を使って、畑用の平地を積むような行為恐らく、一番早いのが繩文時代からである。様々の石積構造物の中で、一番簡単なのも石垣である。

(写真1)
写真 (1)は古い時期から保存された石垣の様子である。写真のように、平地である上の部分に農産物とか、部屋でも作れるようにしている。このような石垣は外海地域で生活をしている人々に江戸時代からいままで支えてきた。
  石垣の上に登ると、よく写真(2)のような光景を見える、畑の一側に別の石垣と連続してる。外海地域ではこのような段階式の石垣で大きな面積で農産物を植えている。

(写真2)
石が主体なので、大雨の時や川氾濫する時、有効に水土の流失を防止できるのである。そして屋敷や農産物の安全も保てる。外海地域ではこのような古い石垣はよく分部していてそして今でも当地の人々に利用されていることが石垣の高い安定さの一番の証明であることが考えられる。しかし、村の中で、歩いて回ってみたら、現代性がある石垣のようなものも存在している。

(写真3)
写真(3)のように現代技術で大量生産したコンクリート構造物は石垣の積む形式をマネしてたものがある。当地の人に聞いた後、これは斜面の崩壊を防止するためである。私の考えでは、このようなものは地域の過去と現在の結合であると考えられる。
  石垣は普段よく見られている低い様式の他に、けっこう高さがある様式も存在している。写真4の中に今回大変ご協力をいただいた日宇さんの後ろ姿を参照すると、高さを確実に感じられる。

(写真4)

(石垣の上の平地で植えているサツマイモで作られた当地の日常食べ物)
  2. 家や倉庫の壁―石壁

 石壁、名前の通り石を材料として積む形式で壁を作ることである。外海地域の石壁はドロ神父(フランス人である、1879年に外海地域の主任司祭として赴任、宣教する同時、外海地域の産業、社会福祉、農業、教育文化などに大きな影響を与えていた)外海地域に来てからを時点として大きく二種類に分けられている。ネリベイ壁とドロ壁のことである。

(写真5)

  外観を見ると、ネリベイ壁とドロ壁を大体分別することができる。写真5は山の奥の方にある主人がなくなったため今廃棄されている石屋の者である。よく観察するとこの部屋の四周に全部石で作られており、窓の面積が小さくて全体的に閉鎖の状態である、高さも一定的に 制限されていた。それは昔の技術原因で、部屋の安定さに配慮する作り方である。ネリベイはこのような形式が主流である。一方、ドロ壁はドロ神父の西洋的石壁技術の介入でネリベイ建物よりもっと高くできるようになっている。石炭や貝を赤土と混ざって結晶片岩の隙間に入れたため、安定さも強くなっている。
  写真(6)と写真(7)は出津救助院前にあるドロ壁の写真である。違う角度から撮った写真なので、よく観察見ると、積んでいる結晶片岩の隙間に土が見える、それはドロ壁の特徴の一つである。江戸から昭和まだ、石壁が屋敷での運用が建物の主体としてどんどん付属屋に使用することが傾向である。

(写真6)

(写真7)


 3.宅の境界を示す―石塀
 外海地域では石垣や石壁など以外、石塀でもよくみられている。自分の部屋もしくは庭の外側をまわって自分の宅地の境界を示す時に使われている。写真(7)は石塀である方か、大きな片岩で直接立ている状態で土の中に差し込むことも石塀の一つの形式である。

 4.その他の石積構造物
 石積は平地作りそして壁作りに運用している他、日常生活の中で、排水路、暗渠、井戸、通路、お墓、階段などにもよく運用されている。写真(8)は出津文化村の公共墓地である。写真の中にある段階は全て石積形式になっている。その他、ドロ神父記念館の下にある石積の方法で作られていた空間も当時の人々に貯蔵室として使われていたという説がある(写真9)、(写真10)。 

(写真8)

(写真9)

(写真10)

第三章:石積の作りと職人
 
 1.石積の作り方

 長崎の石鍋文化を研究している和泉さんの話によると、石積楮物を作る時、積むことよりこの石を使えるかどうかの確認そして加工することのほうが時間かかる。昔からいまま外海地域の石積に専用の石場実は存在しない。ほぼ村民たちが村周りの山から開採してきた石である。石開採に重要な道具として「つるはし」よく使われている、更に結晶片岩のガラス質により、つるはしで山を掘るだけで、石は片状で落ちてくる。そしてその場で、片岩の形、厚さなどを確認する上で、つるはしで粗加工してから積むに利用できる石になる。しかしこの過程は非常に苦労するため、当時の村民や職人にとって、積むことより、一番大変なことであると和泉さんが話した。写真(11)は出津公民館に貼ってある和泉さんが描いた昔の人々がつるはしで山から片岩を掘る様子を示し図である。

(写真11)
 石を積む時、実は特に決めたれた方法がないようである。和泉さんの話しによると、江戸時代からよく使われていた「いちまつちどり」という方法が一般的であるが、石を高く積むことができれば、様々な方法がある。例えば今回和泉を紹介していただいた日宇さんの知り合い浜口さんの場合、石を積む時、結晶片岩の裏側そして片岩と片岩の隙間によく小さいな丸石を入れる、それは石垣などを高くする時揺れることを防止するためである。

(写真12)
写真(12)では浜口さん自分で作った石垣である、このような自分で石垣を作って畑にする人は実は出津地域で多く存在している。
 しかし、壁や屋敷の土台を作る時、石積の一番下に必ず出津地域の人は「男石」という海岸のところによくある丸石を使用する。原因はそのような丸石がガラス質の結晶片岩より硬いのである。
写真13は土台としての大きな丸石である。そのような石は出津地域の海岸で多く存在し、利用する時、人力で海岸から現地まで運ぶことが必要である。

(写真13)

 2.職人の出現と消失

 今回、和泉さんの話によると、出津地域では恐らく江戸時代からこちらで暮らしている人々に日常生活の中によく利用されている簡単な石積の構造物例えば防水土台などを作ってあげる半職人がいた。なぜ半職人というと、この人たちは完全に注文をうけて村民たちに石積を作ってあげるわけではなく、ただ石積に関する技術が一般の人より上手で「助けてあげる」という形で行動している、何故上手であるかというと、この人たちの家族の人あるいはその本人は出津地域の石場で山の開採や農耕地の拡大のために、よく石に関する作業の経験たくさんあるから。そして報酬の種類と多少も食物やお金など様々な形式がある。この半職人の多数もその地域に住んでいる糧食を植えている農民である。石を積むことで、これらの人たちは自分なりの手法や作り方があるため、それぞれの石積の種類と名前も出てきたわけ。江戸時代から昭和時代の前期までこのような人たちは出津地域で活躍してきた。
  昭和時代では、長崎外海地域にある石炭多く存在している池島は出津当地の人たちに大きな生活上の影響を与えてきた。戦後日本社会の回復と発展そしてお金を稼ぐためには農村部から都市部に移動する人は大勢いる。ただ農作物の植えることによって家計の充実にはもう足りなくなっている。昭和27年から石炭の開採を進行し、昭和34年池島の営業出炭が始まった。当時、出津地域に昔から山の開採や石積に関する仕事をした人たちそして彼らの家族の人にとってそれはお金を稼ぐための大きなチャンスであった、近代社会になって以来、新しい建築技術の発達などにより、昔の方法で石を積むこともうどんどん歴史の舞台から下がっている。このような原因も含めて、これらの人たちの中に、多数の人が池島で勤め始まった、そしてもう一部の人は都市部に進出した。これをもちまして、石積の職人たちは昭和時代池島の営業出炭に伴って、基本的に消失した。


第四章:石積の文化財化について

  近年、日本社会の高速発展によって農村部の人は都市部に人口移動という傾向と同じ、長崎出津地域も人口の年齢構成はバランスなくなっている、今回私調査を行われていた出津地域は老年人口は若い人よりかなり多数である、日宇夫婦の話しによって、近年その地域の二箇所の小学校も子供が父母の都市部進出により、学生不足で廃校になってしまった。しかし、当地の有形文化財の保護には当地の人々は怠慢していない、若い世代も積極的に石積の修復や文化などを勉強し、石積という当地の特色を宣伝するためにも、昔の技術に真似て新しい石積の駐車場の建造や出津小学校の校舎の壁の修繕をした。
  石積は有形文化財に登録した以来、当地出身の若い世代と同じ、日宇夫婦や和泉さんのような石積に対して特殊な感情を持っている老人たちも自分なりの力で石積の存在に力入れている。例えば和泉さんは出津地域公民館で石鍋や長崎出津地域の石構造に関する講座を子供たちにやってあげてるなど、他には日宇夫婦のような当地にくる人のガイドとして、いろいろ当地の歴史文化を宣伝をしてた、近年、長崎外海地域資料館や記念館なども当地で建てられ、石積だけではなく、当地の歴史や様々な文化の保留、伝承そして活発に促進した。

むすび

 今回の調査を通して以下のことが分かった:

1. 石積の構造と積む方法の違いによって、特徴も大きく分けられている。江戸時代から形成した石積構造物は、発展、大成、衰退、今文化財の形で復活していることが分かった。

2. 石積の作り方は大きく、「石の開採」と「石の積む」二部分で考えられる。特に「石の開採」部分は大変である。そして山からではなく直接現地ある石材を加工して積む場合も多くある。

3. 石積みの衰退と現代社会の発展に大きな関係があ、石工会社の求人そして池島の石炭の開採など当地の石積の発展と伝承に大きな影響を与えていた。   

4. 技術が発達している現代社会では、石積は昔の生活実態を反映している同時、現地の人々に対して、今でもかけがえのない存在であることが強く感じる。今でも、生活に密接している。

謝辞
 本論文を執筆するにあたり、たくさんの方々から大変あたたかいご協力をいただきました。この場を借りて感謝申し上げます。色々石積に関することを聞かせていただきました出津救助院の人々、そしてドロ神父のことを紹介していただきましたドロ神父記念館の管理人。更に今回の調査内容のメイン部分の完成に大きなご協力をいただきました「フェルム ド 外海」の日宇夫婦から色々お世話もいただきました。日宇さんの紹介で、長崎外海の石鍋などを研究してる和泉さんへの訪問も順調にできました。和泉さんから石積に関する様々貴重なお話までお聴きすることが出来ました。
 皆様のご協力がなくしては今回長崎の調査論文は完成することができませんでした。改めて感謝申し上げます。

参考文献
重要文化的景観選定地区情報シート(No.1)
(https://www.nabunken.go.jp/org/bunka/landscape/pdf/sotome.pdf,2016年11月20日アクセス)

長崎市外海の石積集落景観
(http://www.city.nagasaki.lg.jp/shimin/190001/192001/p026965.html
https://static.nagasaki-ebooks.jp/actibook_data/n02_15051800578_isidumikeikan/_SWF_Window.html?pagecode=2,2016年11月19日アクセス)

• そとめぐり-池島エリア
(http://www.kanko-sotome.com/ikeshima/,2016年11月21日アクセス)

敬供瓶(砂糖瓶)の民俗誌―長崎県における葬送贈答習俗ー

社会学部 社会学科 尾崎聡香
【目次】
はじめに

第1章 東彼杵郡

第2章 大村市
 第1節 TSUBAKIYA 大村店
 第2節 cafeshop Fukujudo
 第3節 稲田製菓舗
 第4節 前田菓子
 第5節 森洋海堂
 第6節 街の声(大村街角ギャラリー、為永斎場)
 第7節 祭壇の実例

第3章 諫早市
 第1節 西村菓子舗
 第2節 街の声

第4章 西彼杵郡
 第1節 元祖時津まんじゅう中村
 第2節 福田菓子

第5章 長崎市東部
 第1節 桐屋
 第2節 高田進勇堂

第6章 長崎市
 第1節 大竹堂
 第2節 千寿庵 長崎屋
 第3節 街の声

結び

謝辞

はじめに

 長崎県のある地域には大切な人が亡くなった時に香典のほかにお砂糖の入った瓶をお供え物として贈るという古くから受け継がれている独特の風習がある。昔から日本には葬儀の際に、香典としてお金だけでなく、米や乾物、お砂糖など食べ物を贈っていたという記述は資料にもあるが、敬供瓶・砂糖瓶の記載はどこにもなかった。
 そこで、実際に敬供瓶や砂糖瓶を取り扱っているお菓子屋さんや住民の方々からお話を伺いその内容をまとめた。この風習は五島列島にもあるそうだが、本稿では長崎県本島での事例を取り上げる。

(地図1)長崎県 東彼杵町大村市諫早市時津町長与町長崎市
GoogleMap https://www.google.co.jp/maps/@32.8955771,129.9312834,11.44zより引用


第1章 東彼杵郡

 東彼杵郡東彼杵町本郷にある町田商店の町田きよみ氏にお話しを伺った。
 店内には様々な種類の砂糖瓶や砂糖の贈り物が並んでいた(写真1)。サイズは小(3240円)・中(4320円)・大(5400円)・特大(7560円)・箱入り(2480円)(写真2)の5種類。角砂糖でV字型の模様を作り中身は白砂糖である(写真3)。セロファン紙で作った模様と白砂糖だけで作るものもある(写真4)。デザインは昔からV字だそうだ。
 東彼杵では砂糖瓶文化が根強く残っており、訪れた際も注文分のたくさんの砂糖瓶が準備されていた。この辺では砂糖瓶を取り扱っているのはここ一軒だけである。
 お葬式が終わると注文を受け、初七日までに配達する。四十九日まで飾り、四十九日の法要の参列者に引き出物と一緒に少しずつ分けて配るのが一般的である。最近はギフトやさんが、法要の際の引き出物を買ってもらう代わりに、瓶に入っている砂糖を配る準備をしてくれるらしい。
 親族(子、兄弟、孫、叔父伯母)から贈ることが多く、他にも友達やお世話になった方、ご近所さんは班一同として贈るそうだ。亡くなると砂糖瓶を贈ることが一般的なので、お葬式の時に親族や班の方とどの大きさの瓶にするかという相談が行われるそうだ。人それぞれではあるが、昔は小さな瓶が人気だったが、今は大きな瓶が好まれているそうだ。準備されていたものも大きな瓶ばかりだった。
 親戚が多い方や砂糖瓶をたくさん贈っていた方はもらって飾る瓶の数も多い。きよみ氏は新聞のお悔やみ欄を見るとあの方は親戚が多かったな、たくさん贈っていた方だなと数がだいたい見当がつくとおっしゃっていた。昔は1軒に50個60個並ぶこともあったそうだ。きまりがあるわけではないが、上から故人と血縁が近い人から飾るそうだ。
 きよみ氏は野母崎出身で彼杵に嫁いできて初めて砂糖瓶を知ったそうだ。昔から彼杵地区は砂糖が豊富だったらしく料理もかなり甘口だそうだ。長崎は料理に甘味が足りないときは「あらお砂糖やさんが遠かったとね」と言われるそうだ。家庭料理もそうだが東彼杵にある料亭の料理も甘口である。その昔は砂糖折りといってお殿様に菓子折りとしてお砂糖を渡していたこともあるらしい。昔から砂糖が馴染み深いものだったことがうかがえる。
 調べてもはっきりとした起源はわからなかったが、互助の精神で砂糖瓶文化が行われてきたのではないかとのことだった。

《砂糖瓶のつくり方》
➀三角形に切った紙をまるめて芯をつくる(写真5-1)。丸めた後の紙の端の位置を揃えることで、だいたい同じ大きさに揃えている。
➁正方形の紙に切り込みをいれ印をつけ、それを目安にきっちり折り目をつけていく。
➂1枚86円の大きなカラフルな紙を15センチ角に切る。1枚から12個分できるそうだ(写真5-2)。
➃切った紙で角砂糖を包む。角砂糖の5面が覆われる形になる(写真5-3)。瓶サイズにあわせて半分に切った角砂糖も用意しておく。作り置きしている。
➄瓶に赤い紐をつける(写真5-4)。これはV字の模様をまっすぐにするための工夫である。
➅容器の中に角砂糖を並べ模様をつくる(写真5-5)。今はプラスチックの容器であるが昔は薄いガラス瓶だった。プラスチックの容器は角砂糖を並べている時にちょっとあたるとずれてしまうので、きよみ氏の義父はガラス瓶にこだわって使っていたが入手できなくなりプラスチックの容器になった。ガラス瓶は値段が高く当時1本1400円ほどしたそうだ。
➆ある程度並べたら赤い紐を目安に角砂糖がずれていないか、まっすぐになっているかを確かめる(写真5-6)。
➇角砂糖をならべたあと、透明なセロハンを角砂糖のV字に合わせて切っておく写真(5-7)。角砂糖の間から白砂糖がでないようにするための工夫である。
⑨白砂糖を瓶にぎっちり詰める。
⑩先ほど作成した芯に切り込みをいれ、ふたに貼る(写真5-8)。
⑪折り目をつけた紙をかぶせ、輪ゴムでとめる。
⑫白と黒の水引と黒のリボンをつける(写真5-9)。
⑬造花をつけて完成(写真5-10)。
だいたい1本20分ほどで作成していた。

【サイズ】 小(3240円)・中(4320円)・大(5400円)・特大(7560円)・箱入り(2480円)の5種類。
【デザイン】角砂糖+白砂糖 V字型、白砂糖+セロファンの模様 水引・リボン・名前の札あり
【いつ】  初七日〜四十九日 小分けにして配布
【誰から】 親族(子・兄弟・孫・叔父伯母)、いただいたことがある人、友達、班

(写真1)店内の様子

(写真2)砂糖箱

(写真3)町田商店の砂糖瓶

(写真4)町田商店の砂糖瓶

(写真5-1)角砂糖を包む色紙

(写真5-2)芯を作る様子


(写真5-3)色紙に包まれた角砂糖


(写真5-4)赤い紐をつけた瓶 きれいに仕上げる工夫の一つである


(写真5-5)角砂糖を並べ模様をつくる様子


(写真5-6)曲がっていないか確かめる様子


(写真5-7)透明なセロハンを角砂糖のV字の形に切って瓶にいれる


(写真5-8)芯を貼りつける様子


(写真5-9)折った紙をかぶせてゴムでとめ、水引とリボンを結ぶ様子


(写真5-10)造花をつける様子

 東彼杵では敬供瓶のことを砂糖瓶と呼ぶことのほうが多いようだ。砂糖瓶がほかの地域に比べて根強くあり、現在も盛んに行われている。初七日から四十九日まで飾り、四十九日の法要の参列者に配るのが一般的である。大きな瓶が好まれるそうだ。

第2章 大村市

第1節 TSUBAKIYA大村店

 松原駅から徒歩12分。長崎県大村市松原本町にあるスーパーTSUBAKIYA大村店にお伺いした(写真6)。
 こちらではなんとお客様の一番目線を集めるレジ横にお買得品として陳列されていた(写真7-1,2)。砂糖瓶が生活に根付いていることがここからもわかる。サイズは1種類5L瓶で4680円である。白砂糖に角砂糖でひし形のデザイン。
 店員さんにお話をお聞きしたところ、この周辺にはお菓子屋など砂糖瓶を置いている専門店がないため、スーパーに砂糖瓶を購入しにくるそうだ。誰かが亡くなった時に砂糖瓶を贈るところは、昔と比べると少なくなってきてはいるが、現在も年齢関係なく行っており、砂糖瓶は身近なものという認識だった。
 砂糖瓶をあげる範囲は兄弟や孫・甥っ子や姪っ子など親戚の人がほとんどで、また地域や町内会からあげることもあるそうだ。初七日までに祭壇にあげて、四十九日の法要の際に引き出物と一緒に配る。
 祭壇にどれだけ敬供瓶が並ぶかがステータスにもなり、多ければ多いほど人脈がある人と認識されることもあるそうだ。
【サイズ】 5L瓶1種類4680円
【デザイン】白砂糖+角砂糖 ひし形 
【いつ】  初七日〜四十九日 小分けにして配布
【誰から】 親戚、町内会

(写真6)TSUBAKIYA大村店外観

(写真7-1)レジ横に陳列される。この時は売り切れていた。

(写真7-2)お買い得品の砂糖瓶

第2節 cafeshop Fukujudo

 大村駅から徒歩13分。大村市馬場町にあるお菓子屋福寿堂の福井エミコ氏にお話しを伺った(写真8)。お店に入ると砂糖瓶がショーケースの後ろに飾られていた。
 他のお店や街の方からも砂糖瓶のことをお聞きすると福寿堂さんの名前があがる場面が多かった。隣町から買いに来る方もいるそうだ。サイズは3種類あり一番小さな5斤瓶は3350円。白砂糖にきれいな紙で包んだ角砂糖でひし形をデザインする(写真9)。福井氏曰く昔からずっとひし形だそうだ。
 やはり大村市では砂糖瓶が昔から盛んなようで、今は昔に比べて少なくなってはいるが定番のしきたりであるという認識のようである。初七日までにお供えし、四十九日の法要に来てくれた方に配る。
 お供えする理由は・お世話になっていたから・親しくしていた友達だから・祭壇が寂しいからなど人それぞれだが兄弟など親戚が大きいサイズのものをお供えすることが多いようだ。班一同として地域の人でお供えすることもある。
 砂糖瓶にはお供えした人の名札がはられ、祭壇の横に飾られる。お参りする時に持っていく人もいるが注文して配達を頼まれることが多い。飾られている砂糖瓶が多いほど人脈がある人だと認識されるようだった。 
【サイズ】 3種類 小5斤瓶(3350円)
【デザイン】角砂糖+白砂糖 ひし形 名前の札あり
【いつ】  初七日〜四十九日 小分けにして配布
【誰から】 親戚・友達・班

(写真8)外観

(写真9)砂糖瓶

第3節 稲田製菓舗

 大村駅から徒歩15分。大村市杭出津にあるお菓子屋稲田製菓舗の稲田善男氏と和子氏にお話しを伺った。
 ちょうど注文を受けたところだったようで中(8斤瓶)の敬供瓶のみショーケースの横に陳列されていた。サイズは3種類大(10斤瓶)6480円中(8斤瓶)5400円小(5斤瓶)3240円。大は親、中は親戚、小は友達や遠い親戚に贈ることが多い。今は小さいサイズの注文は少なくなり、ほとんどが大きいサイズで、その分あげる人が少なくなったそうだ。
 砂糖瓶の作成は昔から奥さんやお嫁さんなど女の人の仕事だそう。和子氏曰く1本15分くらいでできるそうだ。
 白砂糖と角砂糖でカラフルなV字型のデザイン(写真10)。昔はひし形で、いろいろなデザインを試したが、V字が一番たくさんの色を使えるためカラフルで華やかになりお客様の反応が一番よかった。昔はお菓子でデザインしていた時もあったが、時間がたつとわるくなったりべたべたしてしまっていたため、長持ちする角砂糖を使っている。角砂糖でV字のデザインは昔あまりなく、このお店オリジナルだったため、この砂糖瓶をめあてに買いに来る人もいたそうだ。
 買いに来るのは地元の人が多い。昔は四十九日の法要をすべて家で行っていたため、遺族の方の事を気遣って、その時の料理に使えるようにとお砂糖や豆やしいたけを入れた瓶をお供えしていたようだ。当時砂糖は貴重品だからお砂糖瓶をお供えすることが好まれたそうだ。
 昔は1軒につき30、40本お供えされているのが普通だったが、今は数が少なくなり、親戚からの大きいサイズの砂糖瓶が10本くらい並んでいる。瓶の数が多いと親戚が多いか広いお付き合いをしていたことがわかる。
 お葬式が終わると注文し、初七日までに配達することが多いとのこと。他の地域であった初盆にはあげることはきいたことがないそうだ。四十九日までは祭壇に飾られ、その後、昔は料理に使っていたが、今は使いきれないので法要に来てくれた人に引き出物と一緒に配るそうだ。空瓶は梅酒やらっきょなど貯蔵瓶として使い道があるということも大きい瓶が好まれる理由のひとつかもしれない。使わない瓶を引き取ることもしているそうだ。
 砂糖瓶はお供えされると祭壇の骨壺の周りに血筋が近い順に並べられていくそうだ。
 敬供瓶の文化は大村が多く、島原、諫早西彼杵でも残っているので昔の大村藩が多いのではないかということだ。他の地域の人でもめずらしいからといって買いに来る人もいるそうだ。
【サイズ】 3種類大(10斤瓶) 6480円中(8斤瓶)5400円小(5斤瓶)3240円 
【デザイン】角砂糖+白砂糖 V字型 名前の札あり
【いつ】  初七日〜四十九日 小分けにして配布
【誰から】 親戚・友達・班


(写真10)稲田製菓舗の砂糖瓶

第4節 前田菓子

 大村駅から徒歩5分。大村市本町にあるお菓子屋前田菓子にお伺いした。砂糖瓶売り場があり、ちょうど真ん中のサイズが売れたところだったため2種類陳列していた。サイズは3種類である。大(10斤瓶)7020円・中・小(5斤瓶)3780円。白砂糖に口砂香と袋菓子でデザインしている。上の白い部分のところの折り方を東川氏に教えて頂いた。

【サイズ】 3種類 大(10斤瓶)7020円・中・小(5斤瓶)3780円
【デザイン】口砂香+袋菓子+白砂糖 名前の札あり
【いつ】  初七日〜四十九日 小分けにして配布
【誰から】 親戚・友達・班


(写真11)前田菓子の砂糖瓶

 第5節 森洋海堂

 大村駅から徒歩8分。大村市本町にあるお菓子屋森洋海堂の森昌子氏夫妻にお話しを伺った。
 お店には砂糖瓶の棚がありたくさん陳列されていた。白砂糖にフィルムを挟んでカラフルな紙で包んだ口砂香でひし形をデザインしている。昌子氏曰く5、6年前に角砂糖から口砂香にしたそうだ。理由は角砂糖を使う人が少なくなったこと。また、セロハンに包まれ箱に入った角砂糖が生産中止になり、スーパーで売っているような袋に入った角砂糖しかないためどうしても角砂糖の角がかけてしまっていてきれいにみえないからそれならと思い変更したそうだ。
 サイズは3種類あり特大6500円大5500円中4500円。昔は小5斤瓶も作っていたが、あまり注文がないため現在は作っていない。大きいものの方が売れているそうだ。お付き合いの程度により大きさが変わり、親戚だと花輪の時と同じように大きいものを渡さないとなとなるようだ。班一同でお供えすることもある。
 お葬式の後に注文にきて、初七日までに配達することが多いそう。お供えされた砂糖瓶は四十九日まで飾られ、法要に来られた方に袋に少しずついれて、引き出物と共に配るそうだ。
 砂糖瓶のいいところはお花や果物と違って季節に関わらず長持ちする点である。砂糖瓶にはお供えした人の名前が添えられるため、四十九日の法要まで誰がお供えしたかがわかる。そのため、あの人があげているから私もお供えしなきゃと注文しにくる方もいるそうだ。並んでいる瓶が多いほど故人はお付き合いが広かったということがわかるそうだ。お付き合いが簡単になってきていることもあり、昔ほどたくさんは並んでいない。最近は砂糖瓶だけでなくお菓子やお米の瓶もあるそうだ。
 なぜ長崎だけで砂糖瓶がお供えされるのかはシュガーロードがありお砂糖の文化が昔からあったからではないかということだった。
【サイズ】 3種類 特大6500円大5500円中4500円。
【デザイン】口砂香+白砂糖 ひしがた 名前の札あり
【いつ】  初七日〜四十九日 小分けにして配布
【誰から】 親戚・友達・班

(写真12)砂糖瓶売り場の様子

(写真13)森洋海堂の砂糖瓶

第6節 街の声(大村街角ギャラリー、為永斎場)

 大村街角ギャラリーにいらしていた方々に敬供瓶についてお話をお聞きした。お菓子やさんからお聞きしたことが市民の方々からもきくことができた。お聞きした内容を紹介する。
 知り合いが亡くなったらすぐに3日以内くらいにお砂糖やさんに行き、配達を頼む。特大大中小のサイズがあった場合、お隣さんちょっとしたお付き合いの人は小、親は特大、叔父伯母は大を贈ることが多い。初七日までには必ずもっていてもらう。砂糖瓶は重たいからだいたいは配達してもらう。
 今はプラスチックになっているが昔はわれやすいガラスのビンだった。砂糖を出した後の空瓶は梅酒などに使う。砂糖は袋に少しずつ詰めて四十九日の法要に来た方に渡す。大村が多い。
 飾り方は祭壇の横に軽挙瓶ようのひな壇を作り、並べ方は位牌の近くから血縁の近い順にならべる。最近はたくさんの砂糖はいらないという人もいるので砂糖どうする?と確認し、他のものをあげたりもする。なにも言わなかったら砂糖瓶をあげるのが一般的である。
 為永斎場の為永けい子氏にお話を伺った。砂糖瓶につける造花や中に入れる飾りを販売している。いつ頃からかはわからないが、けい子氏がここに来た時にはすでに造花を作っていたのでかなり前から行っているのではないかということだった。
 砂糖瓶は昔に比べたら減り、今は砂糖瓶だけでなく砂糖箱やお米のはいったものを贈る人も増えてきている。初七日から四十九日まで飾り、法要で参列者のかたやお手伝いをしてくれた人に配る。


(写真14)為永斎場で取り扱っている砂糖瓶のチラシ お花の柄のシートを入れている

第7節 祭壇の実例

 ご厚意で大村市にある三七日をむかえたばかりのA氏のお家にお邪魔し、実際にどのように砂糖瓶を飾るのかをみせて頂いた。
 A氏のお父様の祭壇である(写真15,16)。砂糖瓶が14個お供えされていた。砂糖瓶をのせるため頑丈な木でできた祭壇であった(写真17)。大きな瓶がやはり好まれているようで、すべて大きなサイズのビンであった。
 砂糖瓶はすべて初七日までに届き、四十九日まで飾る。四十九日の忌明けの法要の時に来てくれた方に配布するそうだ。
 今は親族からもらうこと多いが、昔はみんな砂糖瓶を贈っていたので、祭壇に置ききれないほどだった。今は時代の流れと共に、砂糖ばかりあっても大変なので代用品の飲み物などをあげることが多いそうだ。
 親族や特に関わりの深い人からはやはり昔ながらの砂糖瓶を贈りたいということでいただいたそうだ。ちょっと離れた人は砂糖ばかりもらっても大変だろうから必需品の飲み物とか他のものでいいかと聞かれてそうしてもらったそうだ。砂糖瓶の風習は年配の方々に特に根付いており、知り合いが亡くなると、流行りではないが風習で砂糖瓶をあげんばいけんとなるそうだ。私の親世代の方々も、もらっているからお返しとしてあげんばいけんと思うし、祭壇に砂糖瓶が1個もないのは寂しいとおっしゃっていた。砂糖瓶は長持ちするし、祭壇が華やかになる。
 長崎街道がシュガーロードと呼ばれるほど砂糖はたくさんあったが、当時やはり貴重なものだったので、普段買えないものを贈りたいとして始まったのではないかとのことだった。


(写真15)祭壇全体図

(写真16)祭壇

(写真17)頑丈な木でできている

 大村市でも砂糖瓶とよばれていた。大村市には取り扱いのあるお菓子屋も多く、今でも砂糖瓶の文化が盛んであった。親族が贈る大きな瓶が好まれる。初七日から四十九日の法要まで飾り、参列者に少しずつ分けて配るやり方が定番である。

第3章 諫早市

第1節 西村菓子舗

 諫早市下大渡野町にあるお菓子屋西村菓子舗の西村浩明氏にお話しを伺った(写真18)。
 敬供瓶は店内に陳列はされておらず注文を受けてから作成する。大村は敬供瓶が盛んだが諫早はほとんど少なくなっているそうだ。昔やっていた風習という認識である。西村氏の親世代の時代は盛んだったそうだ。今はあげものとしてビールやその他のものにかわってしまっている。年間20本くらいしかつくらないとのことだ。買いに来るのはほとんど年配の方である。
 サイズは5斤瓶1種類。周りは白砂糖に角砂糖でひし形にデザインする。水引あり。
 渡し方は初七日にお供えし、四十九日まで飾るそうだ。ほかの地域である初盆にあげるのはきいたことがないそうだ。1本ずつではなく対でわたすのが定番だそうだ。
【サイズ】 5斤瓶1種類
【デザイン】角砂糖+白砂糖 ひしがた 水引・名前の札あり
【いつ】  初七日〜四十九日
【誰から】 親族

(写真18)西村菓子舗外観

第2節 街の声

 諫早市にあるお菓子屋3軒にお話を伺ったが、作っているお店はなく、どんな瓶かはわかるが注文を受けたことやあげたこともないとのことだった。お参りにいったお葬式でも見たことがないと教えてくださる方もいた。昔行っていた記憶があるから、田舎の昔からある地元に密着したお菓子屋さんにはあるかもしれないと教えてくれた。年配の方でも敬供瓶を知らない人もいた。
 バス停でお話した年配の女性は自分の幼い頃はあったけど最近は全く見ておらず懐かしいと話してくださった。

 諫早では敬供瓶を知らない人や見たことがない人も多く、昔行っていたことや田舎に残っている風習という意識である。小さなサイズのものを1本ずつでなく対で贈るのが定番である。

第4章 西彼杵郡

第1節 元祖時津まんじゅう中村

 西彼杵郡時津町浦郷にあるお菓子屋中村饅頭店の中村妙子氏にお話しを伺った(写真19)。
 敬供瓶はお店の前のショーケースに綺麗に並べられていた(写真20)。サイズは5斤瓶1種類のみ。昔は大中小と3種類あったが、今は大きい瓶の注文がほとんどないため作っていないそうだ。
 白砂糖にお菓子や豆をいれたこともあったが、最終的には角砂糖が一番綺麗にできることから角砂糖でデザインするようになった。また角砂糖よりも料理にも使える白砂糖の方がお客様に喜んでいただけるため、周りを角砂糖で中に白砂糖をいれている。デザインは十字模様に変更した時もあったが、昔からV字型だそうだ。
 初七日までにお供えし四十九日の法要まで飾っている。昔は敬供瓶を飾る祭壇が5段分ほどたくさん並んでいたが、今はあげる人が少なくなっている。敬供瓶を贈るのは親戚が多いそうだ。昔は必ず対で贈るのが主流だったが今は1本ずつお供えする人が多い。
 長崎は砂糖が裕福にあり、お砂糖が身近だったから砂糖瓶が流行ったのではないかとのことだった。
【サイズ】 5斤瓶1種類
【デザイン】角砂糖+白砂糖 V字型 黒いリボン・名前の札あり
【いつ】  初七日から四十九日 
【誰から】 親戚・友達

(写真19)外観

(写真20)ケースに並べられた砂糖瓶

第2節 福田菓子舗

 長与駅から徒歩13分。西彼杵郡長与町のお菓子屋福田菓子舗の福田トシ子氏にお話しを伺った。
 店内には2つ敬供瓶が飾られてあった(写真21)。サイズは5斤瓶1種類。デザインは、すべて角砂糖でV字型の模様の瓶3500円(写真22)とひし形の模様は角砂糖で作り、中身は白砂糖の瓶4500円の2種類(写真23)。
 夫さんが亡くなり和菓子屋を辞めた後も敬供瓶だけはやって欲しいというお客様からの声でずっと作り続けているそうだ。今は駄菓子と敬供瓶を置いており、周辺の方々や子供たちの憩いの場である。訪れた際もちょうど注文を受けて敬供瓶作成の最中で、作り方を教えて頂いた。
 長与町で敬供瓶を取り扱っているのはここ1軒で、年間300個から350個作っているそうだ。1軒に30個くらい配達することもある。たまに福岡など県外に送ることもあるらしい。
 お葬式後注文を受け、初七日までに配達し四十九日まで飾るのが一般的である。初盆に注文は受けたことがないそうだ。四十九日の法要で来てくれた方に少しずつお土産として配る。たくさんもらった場合は瓶ごとおすそ分けする場合もある。
 親族(子・兄弟・孫)から贈ることが多く、故人と付き合いが深かった人や以前もらった人からも贈る。昔は必ず班一同であげていたが、時代の流れで近所づきあいが希薄になってきているからか、今はほとんどなくなったそうだ。瓶の数が多いと親戚が多いことや人付き合いが多かったことがわかる。ほとんど年配の人で、だいたい知っている人からの注文である。新聞のお悔やみ欄からだいたいの数の検討がつくとおっしゃっていた。突然の注文にも応えることができるように、2個必ず作って飾っておくそうだ。
 トシ子氏が敬供瓶を作り続けて46年。このお店が長与で始めたのは昭和27年だが、その前からもずっと敬供瓶はあったそうだ。はっきりとした起源はわからないが、シュガーロードとよばれるほど、長崎県は他県と比べて、昔から砂糖に馴染みが深いことが関係しているのではないかということだった。馴染みが深いとはいえど、昔砂糖は貴重品であることにはかわりない。今は斎場で行うことがほとんどだが、亡くなったあとの法要などをすべて家で行なっていたため、料理に使ってもらえたらと、遺族を気遣って敬供瓶を贈っていた。他にも料理で使えそうなシイタケや豆を入れていた時期もあったそうだ。
 容器が今はプラスチックだが昔はガラス瓶だった(写真24)。藁に包まれて届くがちょっとした衝撃ですぐ割れてしまうから、作ったり届けたりするのが大変だったそうだ。ガラス瓶のときは空き瓶でらっきょや梅をつける人が多かったが、今は捨てる人が多いのではということだった。
 敬供瓶の良い点は、飾ることで寂しい仏さんが華やかになることや、生花と違って、長持ちする点である。華やかさが大事なので、昔は造花がもうちょっと小さなものだったが、今は特別に瓶にあった大きさで派手なものを特別に作ってもらっているそうだ。

《敬供瓶作り方》
➀折り紙より薄いさまざまな色の紙を切って(写真25-1)、角砂糖を見える側半分だけ巻く(写真25-2)。この時きっちり角をつけることが、仕上がりをきれいにするポイントだそうだ(写真25-3)。
➁ビニールの袋を瓶に入れ、そこに白砂糖をいれる(写真25-4)。昔はビニールの袋は使っていなかったが、夏場は特にべたべたして手に砂糖がついてしまうので、この方法を思いついたそうだ。
➂角砂糖で模様を作りながら、白砂糖で固定していく。砂糖はだいたい3キロほど使うそうで、1瓶15分ほどで作り上げるそうだ。
➃瓶のうえにかぶせる白い紙は奉書をつかう。片面がつるつる片面がざらざらで、厚みがあるしっかりとした紙だった。折り目をしっかりつけることがポイントである(写真25-5)。
【サイズ】 5斤瓶
【デザイン】角砂糖のみ3500円 角砂糖+白砂糖4500円
【いつ】  初七日から四十九日 小分けにして配布
【誰から】 親族、付き合いが深かった人

(写真21)店内の様子

(写真22)作っている途中の敬供瓶(角砂糖)

(写真23)福田菓子舗の敬供瓶

(写真24)昔の敬供瓶の容器(ガラス) 実際に使っていたもの

(写真25-1)角砂糖にまく色紙

(写真25-2)角砂糖 半分だけ包まれている

(写真25-3)角砂糖を色紙で包む様子

(写真25-4)お砂糖を詰めている様子

(写真25-5)奉書に折り目をつけている様子


第5章 長崎市東部

第1節 桐屋
 
 肥前古賀駅から徒歩13分。長崎市古賀町にあるお菓子屋桐屋の桐和喜氏にお話しを伺った。
 店内に陳列はしておらず、お店の中に何個か作り置きがあり、注文を受けると作成する。昔は5斤瓶7斤瓶10斤瓶があったが小さな瓶が好まれるため今は5斤瓶のみ。
 古賀では、お通夜から飾るのが定番である。そのため、注文を受けてからすぐに配達しなければならない。スピード勝負である。そのため、色紙を巻いた角砂糖がしっかり準備されていた(写真26-1,2)。デザインは昔からひし形だそうだ(写真27)。
 生花や灯篭をあげるほどでもないちょっと遠い親戚やある程度近い人が渡すそうだ。班や自治会で渡すことはなくなった。買う人は50・60代の人や年配の方が多いので若い人は知らない人もいるのではないかということだった。最近は敬供瓶を渡す人は少なくなってきている。本人の気持ち次第で1本渡す人もいれば2本対で渡す人もいる。
 お通夜で飾った後、四十九日まで飾り、もらった家で消費する。対でもらったものの一つをお供えしてくれた人に返すことはあるそうだ。昔はお砂糖を小分けにして四十九日の法要で配っていたが今はもうしていないとのことだった。
 和喜氏曰く、古賀は見栄っ張りが多いから、四十九日までずっと名前付きの敬供瓶が飾ってあることで、お参りにくる人に「私は生花まではいかないけど砂糖瓶をあげたばい」としたいということがあるのではとおっしゃっていた。
【サイズ】 5斤瓶1種類 
【デザイン】角砂糖+白砂糖
【いつ】  お通夜〜四十九日 もらった家で消費する
【誰から】 ちょっと遠い親戚、ある程度近い人

(写真26-1)色紙は小さく切りすぐ使えるように

(写真26-2)事前に角砂糖を準備しておく

(写真27)桐屋の敬供瓶

第2節 高田進勇堂
 
 長崎市戸石町にあるお菓子屋高田進勇堂の高田洋氏と家族にお話しを伺った(写真28)。
 ショーケースの上に置いてあった。注文を受けてから作成し配達するそうだ。この辺ではお通夜に間に合うように贈るのが定番らしい。なので、配達も斎場に持っていくことがほとんどだそうだ。
 サイズは昔大小あったが大はほとんどででないので5斤瓶2800円1種類のみ。白砂糖に市販の袋菓子でデザインする(写真29)。これには理由がある。注文を受けてからお通夜までに作成し配達しなければならず、時間との勝負である。他の仕事もあり手が回らなくなるので、角砂糖を並べる時間がないからである。
 敬供瓶にはお供えした人の名前が添えられるためだれがお供えしたのかすぐわかる。洋氏も参列者に名前が見えやすいように工夫して配置するとおっしゃっていた。洋氏曰く、その名前をみて私もあげなきゃ「私も欲しかばい」といって注文する人がとても多く、お通夜が始まる直前が一番忙しいそうだ。時間差で注文がくるから一日に何度も斎場を往復することがあるとおっしゃっていた。
 ちょっと遠い親戚やお世話になった知り合いや友達など、生花をあげるほどでもないけど、香典だけでなくなにかあげたいという人が敬供瓶を渡す。香典帳をみて昔敬供瓶を貰ったことがあるからといった理由であげる人もいる。注文するのは若い人はほとんどなく年配の人が多い。
 生花は斎場で分解され捨てられてしまったり、灯篭はその時しか使えなかったりするが、敬供瓶は四十九日まで名前付きでずっと飾っておくことができることが良い点である。また見た目も華やかである。
 四十九日の法要のあと、今まではお供え物をくれた人に砂糖を配っていたが、それが面倒で敬供瓶をやらない人も多いので、洋氏は自分の家で使うことをおすすめしているそうだ。空き瓶は買い取りもしている。
 最近はあげる人も少なくなってきているので、多くても15.6瓶少ないと5.6瓶仏様の両端に並ぶそうだ。田舎の方では残っているという認識で、敬供瓶をみて懐かしいと言われることもたびたびあるそうだ。
【サイズ】 5斤瓶1種類 2800円
【デザイン】袋菓子+白砂糖
【いつ】  お通夜〜四十九日 もらった家で消費する
【誰から】 生花をあげるほどでもないが香典だけでは物足りなく感じるような、ちょっと遠い親戚や知り合い、もらったことがある人

(写真28)外観

(写真29)高田進勇堂の敬供瓶

 長崎市東部は贈るシステムも対象の人もほかの地域と異なっていた。故人とある程度近い知人が、お通夜までに、香典とともに渡すためサイズも小さなものが好まれる。贈り主の名前がわかるため見栄をはる気持ちが購入という行動につながるのも興味深い。

第6章 長崎市

 第1節 大竹堂

 長崎県長崎市丸山町にあるお菓子屋大竹堂の大平和広氏にお話しを伺った(写真30)。
 お店に入るとガラスケースに敬供瓶がずらっと陳列されていた(写真31)。 サイズは5斤瓶6480円1種類のみ。すべて角砂糖を敷き詰めながら並べて作っていて(注文があれば中を白砂糖への変更も可能)、V字のデザインである(写真32)。昔はひし形や十字の模様をいれたこともあったが、より大きく見えて華やかであるV字になったそうだ。瓶の中身も和広氏が子供の頃には白砂糖に焼き菓子やゼリーでデザインしていた。すべて角砂糖になったのは30年前くらいだそうだ。敬供瓶用の台があるのは大竹堂さんだけだった。
 初七日までにあげて四十九日まで飾る決まりはなく、敬供瓶は法事・法要または供養のお供え物のひとつという認識である。四十九日まで飾る人もいれば、3か月くらい飾っている人もいる。初盆や三回忌など節目のお供え物として購入する人が多い。病院から1年間で亡くなられた方の供養をお寺で行う時のお供えものとして毎年注文があるらしい。
 年配の方からの注文が多い。現金だけでなくなにか贈りたい親族や特別付き合いの深い人が渡すものである。自分の身内で故人から敬供瓶をもらったことがありお返しとして渡すこともある。今は1本だけ購入する人もいるが、対で購入する人が多い。なので、ショーケースにあるものも対になっている(写真31)。昔は敬供瓶が20本30本並ぶことがあるほど多かったが、今はお金だけで済ませることが多い。
 たくさん敬供瓶がお供えされていたころは、瓶の数の多さがステータスだったようで、故人の人脈が広かったことを示すために、瓶の数が少ない場合、お金でもらっていたものを遺族の方が敬供瓶に変えて並べていたこともあったそうだ。
 市内において敬供瓶の風習はまり知られていないが田舎では盛んであるという認識である。時代の流れにより近所づきあいが少なくなっていることも関係しているのではということだった。
【サイズ】 5斤瓶1種類 6480円
【デザイン】角砂糖のみV字型 リボン・名前の札・台あり
【いつ】  初盆や三回忌などの節目、供養
【誰から】 親族や特別付き合いの深いひと、病院

(写真30)外観

(写真31)敬供瓶がショーケースに陳列されている様子

(写真32)大竹堂の敬供瓶

第2節 千寿庵 長崎屋

 長崎市新大工町にあるお菓子屋千寿庵長崎屋の井上正和氏にお話しを伺がった。
 店内のガラスケースに敬供瓶が飾ってあった。サイズは5斤瓶5550円1種類(写真33)。
 初七日までにあげる決まりはなく、敬供瓶をお供え物としてあげる。今は敬供瓶でなくお菓子やビールを贈る人が多い。初盆に贈ることが多いそうだ。注文を受けるのはお盆の時がほとんどで、普段の葬式ではほとんど出ないとのことだった。親戚などの親しい人に渡すものである。4・5人の連名でわたすことも多いそうだ。購入する人は昔もらったことがある年配の方がほとんどである。
 昔はお葬式に行くと10個も20個も並んでいたが、今は敬供瓶があるとめずらしいと感じるそうだ。年間5本くらいの注文なのでもうそろそろやめることも検討しているようだ。
 昔から田舎のほうが盛んだったそうで、大村は多いという認識である。
【サイズ】 5斤瓶5550円1種類
【デザイン】角砂糖のみ ひし形 水引・名前の札あり
【いつ】  お盆
【誰から】 親戚

(写真33)千寿庵長崎屋の敬供瓶

第3節 街の声

 様々なお菓子屋をめぐったが取り扱っていないどころか、敬供瓶を知らない人、見たことがない人がとても多かった。市内に敬供瓶を置いているお店を知らない人が多い。年配の人が幼い時に少し見たことがあるといっていた程度だった。

 長崎市内では敬供瓶を見たことがない人や知らない人が多かった。ほかの地域と違い敬供瓶はお供え物のひとつにすぎないようである。

結び

 本稿では長崎県本島をフィールドとして、敬供瓶や砂糖瓶を取り扱っているお菓子屋さんや住民の方々からお話を伺い、敬供瓶を亡くなった方に贈るという長崎のある地域に伝わる独自の風習の実態を明らかにしてきた。お店によって作り方やデザインが異なることはもちろんの事、同じ長崎県でも地域によって、捉えられ方や行われ方が全く異なることがわかった。

謝辞

 最後になりましたが、本論文の調査執筆にあたり多くの方々にご協力いただきました。お忙しいなか、突然の訪問にも関わらず、温かく迎えてくださり、貴重なお話をたくさんお聞きすることができました。皆様のご協力なしには本論文を完成することはできませんでした。出会いに感謝し、お力添えいただいた皆様にこの場を借りて心より御礼申し上げます。本当にありがとうございました。

日本民俗学会・京都民俗学会での卒業論文発表

日本民俗学会京都民俗学会での卒業論文発表

日本民俗学会卒業論文発表会(2017年2月12日、神奈川大学)、および京都民俗学卒業論文報告会(2017年2月26日、キャンパスプラザ京都)で、島村ゼミ生が卒業論文発表を行ないました。

発表者、発表タイトルは、つぎのとおりです。

日本民俗学会卒業論文発表会】
中村優花「都市修験の民俗誌―名古屋市倶梨伽羅不動寺の事例―」
石野太一「加賀鳶梯子登りの芸能民俗誌―秘伝・マニュアル・個別性―」

京都民俗学卒業論文報告会】
蓮田佳菜絵「蔵の民俗誌―大阪市鶴見区旧古宮村の事例―」
中村優花「都市修験の民俗誌―名古屋市倶梨伽羅不動寺の事例―」