社会学部 福島 聖也
【要旨】
本研究は、兵庫県西宮市における2つの修験道寺院、神光寺(上ヶ原)と不動寺(山口町)をフィールドに実地調査を行う事で、西宮における修験道について、時代の変遷に伴って起きた変化や再生、現在における修験道寺院の展開と機能、民衆社会との関わり、信仰のあり方、そして修験者を中心に実践されてきた修行について明らかにしたものである。
本研究で明らかになった点は以下の通りである。
1. 上ヶ原の神光寺創設のきっかけとなったのが、上ヶ原行者講である。昭和時代の上ヶ原地域にはこの上ヶ原行者講に加え、妙見講(妙見菩薩を信仰する集団)や観音講(観世音菩薩を信仰する集団)など、様々な講が存在した。
2. 行者講は、現在の神光寺住職である谷章善氏の祖父、善治氏が昭和時代の初め頃に創設した。当時、善治氏は農地を持ちながら酒蔵で働く一方で、修験者としての一面を持っていた。善治氏が修験者になったきっかけは兵庫県神戸市東灘区岡本にある不動山明王院の第6代住職であった高井本章氏に師事した事だった可能性が高い。
3. 行者講の創設当時は、普段の生活に楽しみがなく、修験道が娯楽としての機能を果たしていた。また、行者講の構成員の大半は上ヶ原の農家たちで、上ヶ原における修験道は、豊作祈願などの為に信仰された農民たちによる宗教であるとも言える。
4. 昭和時代において、30人程が在籍していた行者講は、現在は谷住職を含めて5人しかおらず、かなり衰退してしまった。構成員は高齢者が多く、なかなか若者が入らないことが大きな原因となっている。これに加え、時代の変化と共に娯楽の増加や地域の人とのつながりの希薄化が進んだ事や、阪神淡路大震災などの要因が行者講の衰退化につながったと考えられる。
5. 昭和時代の行者講による主な取り組みは以下の3点である。1:大峰山を登拝する、2:役行者像を行者講のメンバーで持ち回りをし、各家で祀る、3:柴燈護摩供。現在の上ヶ原行者講の取り組みは、昭和時代のものと比べて一部内容に変化があった。元々は行者の像を持ち回りしていたが、現在はその行者像は使っておらず、代わりに役行者と不動明王の2本の掛け軸を行者講のメンバーで持ち回りをしている。それを壁にかけ、精進料理を花などと一緒にお供えしているという。
6. 行者講によって持ち回りされていた行者の像は現在、上ヶ原八幡神社のすぐそばの広場に祀られている。また、上ヶ原台地が開発されたぐらいの頃から、関西学院大学の野球部のグラウンドがある場所あたりに不動明王の像があったという。その不動明王像が現在の神光寺の本尊として使われている。
7. 神光寺は谷章善住職の父である、章栄氏によって1975年に創設された。当初、章栄氏は上ヶ原で仕事として農業に従事しており、不動明王像を善治氏と同様に家で祀っていた。しかし、当時の上ヶ原には寺がなかった為、上ヶ原の住民達もお参りしてご利益を得て欲しいと思った。そして章栄氏は自分自身の私財を使って、自分が所有していた上ヶ原5番町の農地に不動明王像を本尊にして、神光寺を創設する事を決断する。現在は、信者がおよそ200〜300人おり、信者の居住地域は西宮地域だけではなく、宝塚、尼崎や箕面などの大阪にも信者がいる。西宮からそれらの地域に移住した人に加え、修験道や醍醐派を信仰したいという人びとがいる為だ。
8. 不動寺の鮫島勇明住職のルーツは薩摩修験道であり、鮫島住職の父方の叔父は、薩摩修験道代18代目相承者の池口恵観大阿闍梨である。鮫島住職は池口師の弟子となり、修行を積んできた。その影響で護摩行に特に力を入れている。
9. 鮫島住職・池口恵観師は共に、仏教の真言宗を中心に据えており、自分が特に修験者であるという意識をしていないが、修験道の手法を修行に多く取り入れている。
10. 鮫島の家系において、薩摩修験道は一度途絶えたが、再度、鮫島勇明住職の祖父によって再生された。現在では池口の家系で薩摩修験道を復興させていく勢いが強い。
11. 不動寺の物件は元々、モデルルームであった。山口町を選んだ理由として、叔父から受け継いだ檀家と、兵庫県の以前務めていた寺の檀家の多くが、大阪、京都に住んでおり、出来るだけその近くの地域が良いと考えた為である。また、暖炉と煙突があった為、護摩を焚けるのではないかと考え、2011年に最福寺の別院として不動寺を創設した。
【目次】
序章・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・6
第1節 問題の所在・・・・・・・・・・・・・・・・7
第2節 フィールドの概要・・・・・・・・・・・・・9
第3節 修験道と修験者・・・・・・・・・・・・・・11
(1)修験道・・・・・・・・・・・・・・・・・・11
(2)修験者・・・・・・・・・・・・・・・・・・12
(3)修験道研究・・・・・・・・・・・・・・・・16
第1章 神光寺(上ヶ原)・・・・・・・・・・・・・・・18
第1節 近代における上ヶ原・・・・・・・・・・・・19
第2節 上ヶ原行者講・・・・・・・・・・・・・・・21
第3節 神光寺の創設・・・・・・・・・・・・・・・27
第4節 谷章善住職・・・・・・・・・・・・・・・・30
第5節 行者講の現在 ・・・・・・・・・・・・・・32
第2章 不動寺(山口町)・・・・・・・・・・・・・・・・37
第1節 薩摩修験道・・・・・・・・・・・・・・・・38
第2節 薩摩修験道の再生・・・・・・・・・・・・・41
第3節 鹿児島最福寺と池口恵観師・・・・・・・・・43
(1)鹿児島最福寺・・・・・・・・・・・・・・・43
(2)池口恵観師・・・・・・・・・・・・・・・・46
第4節 鮫嶋勇明住職 ・・・・・・・・・・・・・・60
第5節 不動寺・・・・・・・・・・・・・・・・・・64
結語・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・70
文献一覧・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・74
【本文写真から】
写真1 神光寺
写真2 柴燈護摩供を行う谷章善住職 *神光寺「神光寺ホームページ」より
写真3 行者堂 (行者講で持ち回りされていた行者像が祀られている)
写真4 不動寺
写真5 護摩行中の鮫島住職
【謝辞】
本論文の執筆にあたり、多くの方々にご協力を頂きました。
お忙しい中、何度も神光寺や上ヶ原行者講についてお話を聞かせて下った、谷章善様を初め、上ヶ原行者講の皆さまには大変お世話になりました。また、不動寺や薩摩修験道について、質問した事に対して丁寧に時間をかけて答えて下った鮫島勇明様。知識が疎いながらも親切に対応して下さって感謝の念に耐えません。皆さまのご協力がなければ、本論文を完成させることが出来ませんでした。今回ご協力いただいた全ての方々に、心よりお礼を申し上げます。本当にありがとうございました。