関西学院大学 現代民俗学 島村恭則研究室

関西学院大学大学院 現代民俗学 島村恭則研究室

神社と工芸―筥崎宮と博多曲物―

社会学部 爲数 美智

【要旨】
 本研究は、福岡県福岡市東区馬出に古くから伝わる博多曲物について実地調査を行なうことで、今まで様々な媒体のなかで語られていた博多曲物と筥崎宮との関係性について脱文脈化されていた部分や、時代と共に減少していった博多曲物の変化や現状を明らかにしたものである。本研究で明らかになった点は、以下のとおりである。

1.曲物は「木工七職」のひとつであり、ヒノキかスギを割って得た薄板を円筒形に曲げ、その両端の合わせ目をサクラの皮で綴じて輪にし、そこへ底板をつけた容器のことである。そして、曲物は中国で始まり、漢代に漆器木地として用いられたという説があるが、詳細はよくわかっていない。

2.考古学的に曲物は、福岡県鹿部山本町遺跡から弥生時代の頃と思われるものや、愛知県二子遺跡から古墳時代の頃と思われるものが出土しており、弥生時代古墳時代には曲物容器が作られていたと思われるが詳細は不明である。

3.秋田県大館市の「大館曲げわっぱ」や静岡県静岡市の「井川メンパ」など、曲物の生産地は日本各地に点在している。同じ曲物でも、「わっぱ」「めんぱ」「まげもん」などと呼び方は様々である。

4.博多曲物の縁起は、神功皇后朝鮮出兵まで遡る。身重の身をおろして西下した皇后は、帰国の途中、筑紫国蚊田(現在の福岡県宇美町)で後に応神天皇となる皇子をお産みになり、胞衣を木筥に収めて、箱崎の松林に埋められたのだが、その筥が曲物だったという。また、博多曲物の端緒は延長元(923)年に造営された筥崎宮の柿葺き薄板をつくる技術だったともいわれている。

5.江戸時代の儒学者である貝原益軒が著した『筑前國續風土記』「土産考上」の「捲」の部分には「檜物師福岡博多に多し。ことに那珂郡馬出の町には、家々に捲を作る。皆羅漢松材を用ゆ。」とある。また、青柳種信の『筑前國續風土記拾遺(上)』の「馬出村」の部分には、「當郡の東北糟屋郡の境にあり。古ハ筥崎村も那珂郡の内なりし故此村も其かミは筥崎の内なるへし。慶長十五年頃よりや別郡とハ成しならむ。人家ハ筥崎に續きて官道に在。町中に檜物師并家上板を製る工人多し。筥崎八幡宮の敷地なり。東方に川一筋有。表糟屋郡より流来りて筥崎村にいる。堅粕村の技郷なり。」という記述があり、古くより筥崎宮の周りで曲物の仕事に従事する人びとが多かったことが考えられる。

6.博多曲物は、昭和54(1979)年に福岡県知事指定特産工芸品に指定されたのち、昭和56(1981)年に福岡市無形文化財に指定されたと同時に、大神章介氏・柴田徳五郎氏・17代柴田玉樹氏が、無形文化財技術保持者に認定された。以前は、「筥崎曲物」や「馬出曲物」と各々呼んでいたものを、無形文化財に指定されたことがきっかけで、同年「博多曲物」に統一された。博多曲物の特徴は、他の地域の曲物と違い、漆などでの塗りを施さず、木そのものの木目を生かすことである。また、曲物に直接絵を描くことも、博多曲物特有のことである。

7.「博多曲物」の語られ方の多くは、応神天皇の胞衣を入れた筥が曲物だったという歴史的背景と、その曲物をつくっていた人びとが筥崎宮の近くにいたという非常に抽出された情報に偏っている。しかし、今回の調査で、博多曲物をつくる人びとが筥崎宮から役職をいただき、長年奉仕しているということなどが明らかとなった。

8.筥崎宮の神事の中には、博多曲物を使用しているものがいくつかみられた。その中でも特に、放生会の際に特殊神饌を置く台は、筥崎宮にしかない丸三方が使用されている。この丸三方は、月次祭でも使用されているが、それ以外の神事では使われない。それは、丸三方が、応神天皇の胞衣をおさめていた筥の形にちなんでいるため、より神聖なものとして考えられているからである。

9.博多曲物玉樹には、筥崎宮からの由緒書がある。そこには、柴田家が代々筥崎宮の飾職として奉仕していたことなどが記してある。現在も、18代柴田玉樹氏の息子が飾職として活動している。また、18代柴田玉樹氏は、女性であるため、飾職として活動はできないが、筥崎宮に曲物をつくり、おさめることで奉仕している。

10.初の女性曲物師である18代柴田玉樹氏は、数々の困難を乗り越えて、今に至る。現在は、海外へのプロモーション活動や、他の伝統工芸品やキャラクターとのコラボレーションなどにも力を入れている。

11.曲物組合は時代とともに名称を変えながら活動していた。しかし、現在では有限会社化し、組合としての機能は果たしていない。昭和の時代から、不動産管理などで収入を得て、株の配当金を渡すという形に変化した。

12.曲物組合の中には、折箱屋や宮大工など、曲物以外のことに関わる人びともいる。しかし、全員が「木」を扱うという点で共通しているのである。この点で、宮大工は雨の日は、屋根工事などの仕事ができない。そのため、以前、雨の日は曲物をしていたときもあったという。

13.現在、福岡県で曲物をしているのは、博多曲物玉樹と柴田徳商店のみである。しかし、株式会社アクタの例のように、以前は曲物の廉価版である折箱を家内工業としていたというところもある。全国的にみれば、折箱屋はもともと肉屋でよく使われる経木をつくっていたことがきっかけで折箱屋になったというところが多いそうだが、福岡だけは、曲物がきっかけで折箱屋になったという例が多いという。
株式会社アクタは現在、メーカーとなったが、プラスチック素材を用いて折箱をつくっている。

【目次】
序章−−−−−−−−−−−−−−−−1

第1節 問題の所在−−−−−−−−−2
第2節 曲物と博多曲物−−−−−−−2

第1章 「博多曲物」の語られ方−−−10

第2章 筥崎宮に奉仕する人びと−−−13

第1節 筥崎宮と馬出・箱崎−−−−−14
第2節 筥崎宮の神事−−−−−−−−16
(1)玉取祭−−−−−−−−−−−−16
(2)月次祭−−−−−−−−−−−−26
(3)初卯祭−−−−−−−−−−−−28
(4)放生会−−−−−−−−−−−−29
第3節 筥崎宮に奉仕する人びと−−−38
(1)飾職−−−−−−−−−−−−−38
(2)庭燈−−−−−−−−−−−−−39
(3)御炊−−−−−−−−−−−−−40
(4)宮大工−−−−−−−−−−−−42
(5)伶人座−−−−−−−−−−−−43
(6)祝職−−−−−−−−−−−−−47

第3章 曲物に関わる人びと−−−−−51
第1節 曲物組合−−−−−−−−−−52
第2節 博多曲物有限会社−−−−−−55
第3節 博多曲物玉樹−−−−−−−−56
第4節 柴田徳商店−−−−−−−−−63
第5節 株式会社アクタ−−−−−−−65

結語−−−−−−−−−−−−−−−−72

文献一覧−−−−−−−−−−−−−−76

URL一覧−−−−−−−−−−−−−− 77

謝辞−−−−−−−−−−−−−−−−78

【本文写真から】

写真1 福岡市無形文化財技術保持者に認定された三氏。
(左から柴田徳五郎氏、大神章助氏、17代柴田玉樹氏。)

写真2 18代柴田玉樹氏の作品。塗りを施さず、木に直接描くのが博多曲物の特徴。

写真3  玉取祭での玉洗いの儀式。一木・山口家が奉仕している。

写真4 放生会の際の供物。写真右端は筥崎宮の特殊神饌である。

写真5 以前の曲物組合員。写真中央には博多曲物がある。

写真6 町家ふるさと館にて、毎週木曜日に実演をする18代柴田玉樹氏。

写真7 株式会社アクタの折箱とRecoボード。


【謝辞】
 本論文の執筆にあたり、たくさんの方々のご協力を賜りました。
ご多忙の中、本調査のために多くの時間を割いて下さった18代柴田玉樹氏。
貴重なお話を聞かせて下さった筥崎宮 禰宜の平田忠氏をはじめとする筥崎宮の関係者のみなさま。博多曲物有限会社の社長兼株式会社アクタの社長である柴田伊知郎氏、工場長の篠原順二氏。また、急なお願いにも関わらずお話を聞かせて下さった祝宮昌氏、柴田徳商店のみなさま、町家ふるさと館 学芸員の山田広明氏。
 みなさまのご協力なしには本論文を書き上げることはできませんでした。この場をお借りして心より御礼申し上げます。誠にありがとうございました。