関西学院大学 現代民俗学 島村恭則研究室

関西学院大学大学院 現代民俗学 島村恭則研究室

樺島の漁村社会

社会学社会学科 米田一揮

目次
はじめに
第1章 樺島の歴史
第2章 現在の樺島の様子
第3章 島民の語り
第1節 Aさん
第2節 荒木伊久男さん
第3節 荒木壽さん
第4節 Bさん
第5節 木下光廣さん
結び
謝辞
参考資料一覧

はじめに
 今回の社会調査実習で調査を行った場所は長崎県長崎市に位置している小さな島である樺島である。樺島は長崎市の中心部からバスを使って約1時間で来ることができる島で、途中で無人島の中之島を経由して架かっている1986年に開通した全長227mの樺島大橋で繋がっている。今回の調査では文献と聞き取り調査をもとにして、現在までの樺島の漁村社会の変遷およびそこに暮らす人々の様子を明らかにした。

図1 野母崎半島と樺島(Googleマップより引用)

写真1 樺島大橋


第1章 樺島の歴史
 かつて樺島はキリシタンが多く住む島であった。フランシスコ・ザビエルが鹿児島から平戸に行った時、樺島に寄ったものと推測されている。島内には3ヶ所教会があったとされていて、そのうちの1つがあった場所は現在の熊野神社である。樺島は島原藩に属していたが、当時の島原藩の領主有馬義直自身も洗礼を受けたこともあって、領民にもキリシタンになることをすすめていて、全盛期には400名ほどのキリシタンが暮らしていたとされている。長崎の中心部がキリシタンの街として急速に発展した時に樺島の商人たちもそこに移住していて、1579年頃に崖下の浜を埋め立てて出来た場所は現在の長崎市樺島町になっている。しかし、江戸時代になって幕府がキリシタン禁止条例を出すと、長崎の教会はことごとく棄却され、樺島の教会も取り壊されてしまった。
 江戸時代中期からは樺島は風待ち港として栄えていた。海が荒れて出港できない場合の中継地である。地方で獲れた鰯を干鰯にしたものを積みに来る船が多かった。東シナ海に向かって突き出ている長崎半島の先端に位置する西彼杵郡野母村、脇岬村、樺島村(現在は長崎市野母崎町)は、カツオ釣りとカツオ節加工、鰯漁業と鰯加工などが著しく発達した地区で、野母崎地区と呼ばれる。
 明治13年の樺島村は離島で耕地は狭く、村落規模も小さい。職業別戸数も農家が中心で、漁家は18戸に過ぎない。漁業はブリ、マグロ、シイラといった大型魚とボラ漁業を始めとする沿岸漁業から成り立っている。荷船もあって、水産物だけでなく、日用品や旅客の輸送も行っていたが、海運業の衰退によって漁業への進出が進み、鰯漁業と鰯加工が発達していった。
鰯漁業は野母村を中心に脇岬村や樺島村で行われた。主要漁法は明治初年頃から網船2隻(各15人乗り)、口船(運搬船)2隻(各10人乗り)、灯船2隻(各7人乗り)で構成され、一方の網船に網を積み、6隻が同時に漕ぎ出し、漁場に着くと灯船が篝火を焚いて魚群を集め、魚群が集まったら灯船を囲い込むように網を入れ、その網を手繰り寄せ、掬い網ですくう八田網から、敷網部分の左右に垣網を出して魚群を遮断し、篝火で集めた魚群を敷網部分に誘導する、網船2隻(各15人乗り)、口船2隻(各12人乗り)、灯船3隻(各7人乗り)、計7隻、75人で構成される縫切網に転換した。八田網より沖合で操業するので、灯船を増強している。縫切網の方が規模が大きく、垣網をつけて魚群の逸散を防ぐので漁獲能率が向上した。
 鰯漁業は、縫切網が綿糸漁網や石油集魚灯の普及で発達し、網主網子の関係も次第に近代的な性格に変わった。水産加工は漁業経営からの分離が進み、鰯加工では干鰯の他に塩乾加工が登場し、消費市場の拡大に対応した。
 明治後期の樺島村は住民の約半数が漁民であるが島にしては漁民が少なく、五島方面からの魚類の回漕船と熊本・佐賀方面からの農産物を積んだ船の中継港なので商業が多かったが、鉄道の開通によって打撃を受けて、商業は衰退した。近海が鰯の好漁場なので、この島を根拠として操業する縫切網は30〜40隻に及ぶ。漁獲物の多くは干鰯に製造し、一部は目刺しとして熊本、福岡、佐賀に送った。
 大正期になると鰯漁法は縫切網から揚繰網(巾着網)に転換し、さらに沖合操業、能率漁獲が可能になった。樺島村の鰯漁業は他からの出漁者に多くを依存していた。総戸数は416戸で、農業132戸、漁業81戸、工業47戸、商業114戸と漁業の割合は少なくなっているが、農業、工業、商業もその大部分は漁業と兼業したり、水産加工や水産物販売を内容としている。漁業戸数81戸というのは専業で、その他に兼業が60戸ある。大正期に小鰯網、鰯刺網が急増し、春は小鰯、秋が最盛期で巾着網、冬は刺網(大羽鰯)と夏季を除いて漁獲するようになった。また、秋になると他村から鰯漁船が密集し大変な賑わいを見せていたので、村民は多忙を極め、秋3ヵ月で年間収入の大半を稼ぐといわれるようになった。鰯を干すための棚が空き地、海面あるいは屋上に張り巡らされた。
 目刺しは特産品となったので商業の発展をもたらし、以前は長崎まで送り、そこから大阪、神戸、尾道、佐賀などへ転送していたが、関西方面の汽船会社が直接入港し、直送するようになった。
 昭和2年に脇岬村の築港が完成して樺島村への入港が減少したので、地元民が漁業に進出するようになったが、昭和5年には不漁で中止するものが続出して、40統の刺網だけとなった。それ以後漁業組合が県から資金を借り、40馬力の揚繰網漁船を建造したり、水産加工業者が主体となって「共同船」が建造されるなどして動力揚繰網が8統に増加したが、戦時中は軍による買い上げや徴用で5統に減少した。
 また、明治時代から昭和時代前期にかけては港付近に遊女屋が存在していて、1882年(明治15年)の貸座敷娼妓取締規則で樺島は貸座敷免許地となり、樺島では「客さん宿」と呼ばれていたが、大正時代に汽車が発達して船が樺島から消えたことが影響して無くなっていった。

第2章 現在の樺島の様子
 現在の樺島は人口が600人程度で、長崎市内か他の都道府県に出稼ぎに行っている人が多いので人口減少が問題になっている。住宅地は島の北部に集中していて、南部は山間部となっている。北部は主に2つの町に分かれていて、港から見て右側が古町、左側が新町である。

写真2 港の様子

写真3 島内の様子
 また、かつて風待ち港として栄えていた時に船に提供するための水であったり、島民の生活用水として使用されてきた井戸の跡が数ヶ所に残されていて、井戸の横には妊婦の安産や漁師たちの危険を身代わりになって引き受けてくれるよう願われていた地蔵が祀られている。井戸のあった場所としては港周辺の方が山寄りの場所よりも多かったが、海の近くの場合塩分が多く含まれてしまうので、島民は山間部の井戸を多く使用していた。また、港町なので猫が多く生息しており、執筆者が樺島を訪れた際にも多くの猫を見ることができた。

写真4 島内の井戸

写真5 井戸横の地蔵

写真6 島内で目撃した猫
島の北部から南部にかけては山道で繋がっており、島の最南端には船を監視するために建てられた灯台が残っている。

写真7 樺島南部の灯台

第3章 島民の語り
 樺島の人口は少なくなっていて、実際に島内を歩いてもあまり住民と会うことは困難であったが、本調査では5名の島民と接触することができたので第3章ではその方々が話したことを紹介する。
第1節 Aさん
 樺島の南部にある灯台付近で出会うことができたのがAさんである。Aさんは樺島出身の現在63歳である。大阪や広島での一般企業での仕事を経て25年前に樺島に帰ってきて、現在は嘱託職員として灯台付近の野母半島県立公園の管理をしている。
 Aさん曰く、樺島はかつて鰯の島と呼ばれていたほどで、鰯を煮て乾燥させたものであるいりこの会社も20社ほどあったそうだ。船団も全盛期には10船団ほどいて港に入りきらないぐらいいたそうだが、鰯漁が無くなってからは鯛漁、鯵の一本釣り、伊勢海老漁を中心とした刺し網(磯立て網)が盛んになっていた。刺し網に関しても後継者不足により年々減少している。島民における漁業従事者の割合は半分未満になっているようだ。漁業組合はIターンを募集して九州を中心に3名集めることができたが、依然として状況は厳しい。Aさんが小学1年の頃までは生活用水として井戸水が使われていたようだ。
第2節 荒木伊久男さん
 Aさんの紹介で会うことができたのが荒木伊久男さんである。荒木さんは樺島出身の現在59歳で、両親が業務用魚切身加工販売業を営んでいたので、(有)荒木水産の代表取締役として働いている。長崎の工業高校を出てからは6年ほど一般企業で働いていたが、母親に説得されて樺島に戻ってきた。
 漁業従事者ということもあって漁師のことに詳しく、かつて漁師の役職は網元、網子漁労長に分かれていて、網元は自宅に待機して漁労長と話し合うといったことや、その日の漁の状況から市場の相場を決めるといったことをしていたようだ。網元は裕福で山を持っていたので様々な神社から分祀し、それぞれの山の頂上に祀っていた。昔の漁師は梅雨の時期が休みだったが、当時の網は水に弱いことから腐りやすく、梅雨の時期は乾かなかった影響で漁ができなかったからである。現在は安価な合成繊維の網や漁業協同組合の台頭によって網元制は廃止されている。
 また、樺島はボラを加工して作られるからすみの特産地として知られていて、ボラが日本で初めて獲れたのは樺島とされている。歴史は古く、豊臣秀吉に献上していたという記録も残っている。ボラは11月から12月にかけての短期間にしか獲れない魚だが、全盛期はその期間だけ働けば残りの1年は余裕を持てるほど稼ぐことができた。からすみは当初樺島内でしか広まっておらず、価格もあまり高価ではなかったが、長崎市内から出稼ぎに来ていた労働者が市内に持ち帰ったところ評判が高まり、冷凍技術の向上も相まって全国に広がっていったことにより現在のような高級品となった。
第3節 荒木壽さん
 次に出会ったのは荒木壽さんである。ちなみに第2節の荒木伊久男さんと兄弟関係というわけではない。荒木さんは樺島出身の現在83歳で、高校卒業後は家業のかまぼこ加工業を継いでいたが、30歳になる頃には島内で漁業の衰退が始まっていたこともあり関東に水産業の出稼ぎに行っていた。定年になってから友人に町の世話をしてほしいと頼まれて、61歳から10年間町議会議員を務めて現在に至る。樺島の名前の由来としてカワ(川)あるいはカワバ(川場)のことを言ったのではないかと考えられていることを話していた。
 荒木さんが小学生の頃は手伝いとして、井戸近くの浜につけた船まで大きな樽を運んでいたようだ。魚を入れる箱としてトロ箱というものがあり、現在こそビニール製であるが昔は木でできていて、昭和前期にはそのトロ箱がひしめき合っていた頃に不始末によって火事が起き、路地のトロ箱を焼いて隣家へ燃え移るというのが繰り返され、全戸数の6割が焼けたこともあったそうだ。
第4節 Bさん
 道中で声をかけてもらって出会うことができたのがBさんである。Bさんは樺島出身の現在75歳である。Bさんは樺島北部にあるオオウナギ井戸横の水槽に現在生息している2匹のオオウナギを採捕、保護した人物である。オオウナギ大正7年に国の天然記念物に指定されたように大変貴重な動物で、2匹のオオウナギは1994年の9月下旬に島の南西部に位置する田原川で採捕された約10匹のうちの2匹である。

写真8 オオウナギ(1)

写真9 オオウナギ(2)

写真10 昔生息していたオオウナギの墓
 島の北部でバス停の近くにある伊津岐神社にBさんが花を供えているということや、島の随所にある地蔵に着させている服は決まった誰かが着させているわけではなく、安産や子供の健康を祈願したい人なら誰でも着させてよいということもBさんの話から知ることができた。

写真11 伊津岐神社
第5節 木下光廣さん
 最後に出会ったのが木下光廣さんである。木下さんは樺島出身の現在75歳で両親は百姓だったそうだ。20歳から50歳までは樺島の郵便局で働き、50歳から60歳までは長崎市内の一般企業で働いて、定年後に樺島に戻ってきて現在に至る。樺島において漁業が全盛期だった頃は鰯漁師を除いたら島全体が裕福というわけではなく、木下さんの家も楽な生活ではなかったようだ。木下さんとしては30歳を過ぎたあたりから生活が少し楽になったようだが、その頃には漁業の衰退が始まっていた。
 島の南部で現在灯台がある場所の近くには行者山という山があり、戦時中には空襲時の逃げ場にもなっていたそうだが、そこには火ともし岩という灯りがともる岩があり、灯台が無かった頃には船からの目印になっていたということも木下さんの話から知ることができた。

結び
 今回の調査で分かったことは以下の通りである。
・樺島は長崎市内などの都市部に出稼ぎに行く人が多く、少子高齢化が進んでいる。
・長崎は歴史的に見てもキリシタンの多い土地であったが、樺島もその中の1つで多くのキリシタンが暮らしていた。
・昭和時代中期までは漁業が盛んな島であったが、高齢化などの影響で現在はあまり盛んではない。
・島内には井戸の跡が数多くあったが、風待ち港だったことから船が多く滞在する期間があり、その船に載せるための水を汲むために多く作られた。

謝辞
今回の論文の執筆にあたり、お話を聞かせてくださったAさん、荒木伊久男さん、荒木壽さん、Bさん、木下光廣さんに心より感謝いたします。本論文は皆様の協力なしでは完成させることはできませんでした。突然の訪問にも関わらず、貴重なお時間を割いてくださり、本当にありがとうございました。

参考資料一覧
片岡千賀之,『西海漁業史と長崎県』,2015,長崎文献社
長崎市,『新長崎市史』,2013,長崎市
長崎市,『水産業の歴史』,2013
http://www.city.nagasaki.lg.jp/jigyo/370000/372000/p005864.html
2016年12月16日にアクセス