目次
はじめに
第一章 外海地域の概況
第二章 様々な石積
1. 宅地や畑の水土流失を防止する―石垣
2. 家や倉庫の壁―石壁
3. 宅の境界を示す―石塀
4. その他の石積構造物
第三章 石積の作りと職人
1. 石積の作り方
2. 職人の出現と消失
第四章 石積の文化財化について
むすび
謝辞
参考文献
はじめに
今回の調査を行った所は長崎駅から「板の浦」行きのバスを乗って、一時間をかかって出津文化村という場所である。その場所がある外海地域では長崎県にある西彼杵半島南西部に位置されている。
本稿は、四日間で長崎外海地域の出津文化村をフィールドとして、現地に多く存在してい石積構造物を中心に、石はそちらで生活をしている人たちにとってはどのような意味を持っているのか、そして石積の作り方と職人のことをテーマにしたものである。今回の調査は現地の村民たち十数名、そしてフェルム.ド.外海の日宇夫婦、日宇夫婦の友たち浜さん、外海公民館で勤めている石鍋そして外海の石を研究している和泉さんにお話しを伺った。
第一章:外海地域の概況
外海地域では標高400メートルの山地がよく見られている。山地の間を流れている出津川はその地域の重要な川として、両岸に川によって作られていた谷地形が非常に発達している。
外海地域には、特に出津川の周辺に山が多い。そして山の構成に主に結晶片岩というガラス質の石で構成されている。外海地域の海岸付近では急斜面が多く、平地はごくわずかである。そのため、その地域に住んでいる集落は一カ所ではなく、川の両岸のわずかな平地や水脈に沿って作られている斜面地に点在している。
右の「彼杵郡三重図」のように昔からいままでも外海地域の集落は変わらずに分散している。また外海地域には周りの山地によくある石積という名前で結晶片岩を使った建物や石垣などをよく見られている。そのよな構造物は外海地域の東出津町、西出津町そして新牧野町の一部、及び大野集落にはよく存在し、今でもその地域に住んでいる人々の生活と深い関係を持っている。
(彼杵郡三重図)
右のちずに描いてあるのが石積の分部である。これらの石構造物は風雨や山地の複雑な環境の中で、人々の生活を支えている。例えば、元々平地が少ない山地の間で部屋を建てる他に糧食物を植える平地はもっと少なくなっている。出津川が雨季の時よく氾濫してしまうことを加えて、米など大面積の平地が必要な糧食の植えることもかなり困難である。自分の手で斜面で平地を作ら無ければならない当地の人にとって、石垣の作りに必要な結晶片岩はとても重要となっている。それは自然と人の力が組み合わさった技術の結晶である。このような集落や石構造物、石の生活生産製品の伝承が今外海地域の特徴でもあると考えられる。その地域の人々と石の密接な関係性も表している。
(石積の分部図)
第二章:様々な石積
外海地域に多く存在している結晶片岩は山の斜面を開墾する際に数多く出る、柔らか平らで加工しやすい性質を持つことから斜面で生活をしている人々の畑や宅地の石垣、水路などの石積のほか、お墓石など生活に密着している。元々それぞれの方法で作る必要がある石積構造物は外海地域の人々が特殊な方法で(藁や貝、石炭などと赤土を混ぜる)作ることが発達している。
1.宅地や畑の水土流失を防止する―石垣
今回フィールド対象としての長崎外海出津文化村は山の谷間に位置されているため、平地が少なく、ほぼ斜面の状態になっている。その原因で、村民が糧食を植えるため、屋敷用の平地以外に、自分で作りのがとても重要となっている。出津公民館で勤めている長崎の石鍋歴史を研究している和泉さんの話によると、この地域では山を開墾し、山から持ってきた結晶片岩を使って、畑用の平地を積むような行為恐らく、一番早いのが繩文時代からである。様々の石積構造物の中で、一番簡単なのも石垣である。
(写真1)
写真 (1)は古い時期から保存された石垣の様子である。写真のように、平地である上の部分に農産物とか、部屋でも作れるようにしている。このような石垣は外海地域で生活をしている人々に江戸時代からいままで支えてきた。
石垣の上に登ると、よく写真(2)のような光景を見える、畑の一側に別の石垣と連続してる。外海地域ではこのような段階式の石垣で大きな面積で農産物を植えている。
(写真2)
石が主体なので、大雨の時や川氾濫する時、有効に水土の流失を防止できるのである。そして屋敷や農産物の安全も保てる。外海地域ではこのような古い石垣はよく分部していてそして今でも当地の人々に利用されていることが石垣の高い安定さの一番の証明であることが考えられる。しかし、村の中で、歩いて回ってみたら、現代性がある石垣のようなものも存在している。
(写真3)
写真(3)のように現代技術で大量生産したコンクリート構造物は石垣の積む形式をマネしてたものがある。当地の人に聞いた後、これは斜面の崩壊を防止するためである。私の考えでは、このようなものは地域の過去と現在の結合であると考えられる。
石垣は普段よく見られている低い様式の他に、けっこう高さがある様式も存在している。写真4の中に今回大変ご協力をいただいた日宇さんの後ろ姿を参照すると、高さを確実に感じられる。
(写真4)
(石垣の上の平地で植えているサツマイモで作られた当地の日常食べ物)
2. 家や倉庫の壁―石壁
石壁、名前の通り石を材料として積む形式で壁を作ることである。外海地域の石壁はドロ神父(フランス人である、1879年に外海地域の主任司祭として赴任、宣教する同時、外海地域の産業、社会福祉、農業、教育文化などに大きな影響を与えていた)外海地域に来てからを時点として大きく二種類に分けられている。ネリベイ壁とドロ壁のことである。
(写真5)
外観を見ると、ネリベイ壁とドロ壁を大体分別することができる。写真5は山の奥の方にある主人がなくなったため今廃棄されている石屋の者である。よく観察するとこの部屋の四周に全部石で作られており、窓の面積が小さくて全体的に閉鎖の状態である、高さも一定的に 制限されていた。それは昔の技術原因で、部屋の安定さに配慮する作り方である。ネリベイはこのような形式が主流である。一方、ドロ壁はドロ神父の西洋的石壁技術の介入でネリベイ建物よりもっと高くできるようになっている。石炭や貝を赤土と混ざって結晶片岩の隙間に入れたため、安定さも強くなっている。
写真(6)と写真(7)は出津救助院前にあるドロ壁の写真である。違う角度から撮った写真なので、よく観察見ると、積んでいる結晶片岩の隙間に土が見える、それはドロ壁の特徴の一つである。江戸から昭和まだ、石壁が屋敷での運用が建物の主体としてどんどん付属屋に使用することが傾向である。
(写真6)
(写真7)
3.宅の境界を示す―石塀
外海地域では石垣や石壁など以外、石塀でもよくみられている。自分の部屋もしくは庭の外側をまわって自分の宅地の境界を示す時に使われている。写真(7)は石塀である方か、大きな片岩で直接立ている状態で土の中に差し込むことも石塀の一つの形式である。
4.その他の石積構造物
石積は平地作りそして壁作りに運用している他、日常生活の中で、排水路、暗渠、井戸、通路、お墓、階段などにもよく運用されている。写真(8)は出津文化村の公共墓地である。写真の中にある段階は全て石積形式になっている。その他、ドロ神父記念館の下にある石積の方法で作られていた空間も当時の人々に貯蔵室として使われていたという説がある(写真9)、(写真10)。
(写真8)
(写真9)
(写真10)
第三章:石積の作りと職人
1.石積の作り方
長崎の石鍋文化を研究している和泉さんの話によると、石積楮物を作る時、積むことよりこの石を使えるかどうかの確認そして加工することのほうが時間かかる。昔からいまま外海地域の石積に専用の石場実は存在しない。ほぼ村民たちが村周りの山から開採してきた石である。石開採に重要な道具として「つるはし」よく使われている、更に結晶片岩のガラス質により、つるはしで山を掘るだけで、石は片状で落ちてくる。そしてその場で、片岩の形、厚さなどを確認する上で、つるはしで粗加工してから積むに利用できる石になる。しかしこの過程は非常に苦労するため、当時の村民や職人にとって、積むことより、一番大変なことであると和泉さんが話した。写真(11)は出津公民館に貼ってある和泉さんが描いた昔の人々がつるはしで山から片岩を掘る様子を示し図である。
(写真11)
石を積む時、実は特に決めたれた方法がないようである。和泉さんの話しによると、江戸時代からよく使われていた「いちまつちどり」という方法が一般的であるが、石を高く積むことができれば、様々な方法がある。例えば今回和泉を紹介していただいた日宇さんの知り合い浜口さんの場合、石を積む時、結晶片岩の裏側そして片岩と片岩の隙間によく小さいな丸石を入れる、それは石垣などを高くする時揺れることを防止するためである。
(写真12)
写真(12)では浜口さん自分で作った石垣である、このような自分で石垣を作って畑にする人は実は出津地域で多く存在している。
しかし、壁や屋敷の土台を作る時、石積の一番下に必ず出津地域の人は「男石」という海岸のところによくある丸石を使用する。原因はそのような丸石がガラス質の結晶片岩より硬いのである。
写真13は土台としての大きな丸石である。そのような石は出津地域の海岸で多く存在し、利用する時、人力で海岸から現地まで運ぶことが必要である。
(写真13)
2.職人の出現と消失
今回、和泉さんの話によると、出津地域では恐らく江戸時代からこちらで暮らしている人々に日常生活の中によく利用されている簡単な石積の構造物例えば防水土台などを作ってあげる半職人がいた。なぜ半職人というと、この人たちは完全に注文をうけて村民たちに石積を作ってあげるわけではなく、ただ石積に関する技術が一般の人より上手で「助けてあげる」という形で行動している、何故上手であるかというと、この人たちの家族の人あるいはその本人は出津地域の石場で山の開採や農耕地の拡大のために、よく石に関する作業の経験たくさんあるから。そして報酬の種類と多少も食物やお金など様々な形式がある。この半職人の多数もその地域に住んでいる糧食を植えている農民である。石を積むことで、これらの人たちは自分なりの手法や作り方があるため、それぞれの石積の種類と名前も出てきたわけ。江戸時代から昭和時代の前期までこのような人たちは出津地域で活躍してきた。
昭和時代では、長崎外海地域にある石炭多く存在している池島は出津当地の人たちに大きな生活上の影響を与えてきた。戦後日本社会の回復と発展そしてお金を稼ぐためには農村部から都市部に移動する人は大勢いる。ただ農作物の植えることによって家計の充実にはもう足りなくなっている。昭和27年から石炭の開採を進行し、昭和34年池島の営業出炭が始まった。当時、出津地域に昔から山の開採や石積に関する仕事をした人たちそして彼らの家族の人にとってそれはお金を稼ぐための大きなチャンスであった、近代社会になって以来、新しい建築技術の発達などにより、昔の方法で石を積むこともうどんどん歴史の舞台から下がっている。このような原因も含めて、これらの人たちの中に、多数の人が池島で勤め始まった、そしてもう一部の人は都市部に進出した。これをもちまして、石積の職人たちは昭和時代池島の営業出炭に伴って、基本的に消失した。
第四章:石積の文化財化について
近年、日本社会の高速発展によって農村部の人は都市部に人口移動という傾向と同じ、長崎出津地域も人口の年齢構成はバランスなくなっている、今回私調査を行われていた出津地域は老年人口は若い人よりかなり多数である、日宇夫婦の話しによって、近年その地域の二箇所の小学校も子供が父母の都市部進出により、学生不足で廃校になってしまった。しかし、当地の有形文化財の保護には当地の人々は怠慢していない、若い世代も積極的に石積の修復や文化などを勉強し、石積という当地の特色を宣伝するためにも、昔の技術に真似て新しい石積の駐車場の建造や出津小学校の校舎の壁の修繕をした。
石積は有形文化財に登録した以来、当地出身の若い世代と同じ、日宇夫婦や和泉さんのような石積に対して特殊な感情を持っている老人たちも自分なりの力で石積の存在に力入れている。例えば和泉さんは出津地域公民館で石鍋や長崎出津地域の石構造に関する講座を子供たちにやってあげてるなど、他には日宇夫婦のような当地にくる人のガイドとして、いろいろ当地の歴史文化を宣伝をしてた、近年、長崎外海地域資料館や記念館なども当地で建てられ、石積だけではなく、当地の歴史や様々な文化の保留、伝承そして活発に促進した。
むすび
今回の調査を通して以下のことが分かった:
1. 石積の構造と積む方法の違いによって、特徴も大きく分けられている。江戸時代から形成した石積構造物は、発展、大成、衰退、今文化財の形で復活していることが分かった。
2. 石積の作り方は大きく、「石の開採」と「石の積む」二部分で考えられる。特に「石の開採」部分は大変である。そして山からではなく直接現地ある石材を加工して積む場合も多くある。
3. 石積みの衰退と現代社会の発展に大きな関係があ、石工会社の求人そして池島の石炭の開採など当地の石積の発展と伝承に大きな影響を与えていた。
4. 技術が発達している現代社会では、石積は昔の生活実態を反映している同時、現地の人々に対して、今でもかけがえのない存在であることが強く感じる。今でも、生活に密接している。
謝辞
本論文を執筆するにあたり、たくさんの方々から大変あたたかいご協力をいただきました。この場を借りて感謝申し上げます。色々石積に関することを聞かせていただきました出津救助院の人々、そしてドロ神父のことを紹介していただきましたドロ神父記念館の管理人。更に今回の調査内容のメイン部分の完成に大きなご協力をいただきました「フェルム ド 外海」の日宇夫婦から色々お世話もいただきました。日宇さんの紹介で、長崎外海の石鍋などを研究してる和泉さんへの訪問も順調にできました。和泉さんから石積に関する様々貴重なお話までお聴きすることが出来ました。
皆様のご協力がなくしては今回長崎の調査論文は完成することができませんでした。改めて感謝申し上げます。
参考文献
• 重要文化的景観選定地区情報シート(No.1)
(https://www.nabunken.go.jp/org/bunka/landscape/pdf/sotome.pdf,2016年11月20日アクセス)
• 長崎市外海の石積集落景観
(http://www.city.nagasaki.lg.jp/shimin/190001/192001/p026965.html
https://static.nagasaki-ebooks.jp/actibook_data/n02_15051800578_isidumikeikan/_SWF_Window.html?pagecode=2,2016年11月19日アクセス)
• そとめぐり-池島エリア
(http://www.kanko-sotome.com/ikeshima/,2016年11月21日アクセス)