社会学部 川島圭司
【目次】
はじめに
第1章 ハイヤ節とは何か
第2章 樺島とハイヤ節
第3章 ハイヤ節の再発見
第4章 保存会と現状
むすび
謝辞
参考資料
はじめに
日本には多くの民謡が今もなお保存・継承がなされている。その土地に暮らす人々の日常の生活や労働について歌った生活歌としての日本民謡を、かつて帆船時代において風待ち港として栄えた長崎県の樺島をフィールドに、その土地に根付く独自の日本民謡「樺島ハイヤ節」の保存と継承についての事例を取り上げる。
第1章 ハイヤ節とは何か
ハイヤ節とは、「ハイヤ!」の掛け声で始まるいわゆるお座敷の騒ぎ歌として歌われた日本民謡である。陸上交通よりも海上交通が発達していた帆船時代において、風待ちの港で船が出港できるまでの間に船乗りの人たちの酒盛りをする席で歌われたものである。
同じ文句で歌いだすことから、長崎県平戸島の田助港や熊本県天草の牛深が全国のハイヤ節の根拠地といわれ、ここから広がって日本の港々で歌われた。西日本ではハイヤと発音するが、鹿児島と佐渡の小木ではハンヤ、東北地方ではアイヤもしくはアエヤとも歌う。
しかし、後の機動船の登場によって、船乗りたちは風を待つ必要がなくなったことにより、港とその周囲の遊郭はさびれ、ハイヤ節も次第に歌われなくなり衰退していった。
第2章 樺島とハイヤ節
樺島は長崎半島の南端に位置する島であり、かつて帆船時代の風待ち港として全国にその名をはせ出港、入り船行き交う船で繁盛していた。鹿児島を出た上り船は、ハエと呼ばれる南風にのって天草の牛深に着き、それから東志那海を北に進み長崎半島野母崎に浮かぶ樺島に着く、さらに松島(大瀬戸町)を経由して平戸島の田助港に入る。江戸時代から樺島は八田網(イワシ漁)の根拠地として賑わい、諸国の歌としてハイヤ節も持ち込まれた。
写真1 長崎半島と樺島
樺島には民謡が多い。ハイヤ節、さのさ節、磯節など、明治・大正のはやり歌をすべて定着させて、樺島ハイヤ節、樺島さのさ節、樺島磯節の固有名詞を付けて、自分たちの民謡に育て上げてきた。樺島ハイヤ節は、船乗りの夫を樺島の地で待ち続ける女の情景を歌ったものとしてアレンジが施され、樺島の地に根付き、島民や島に訪れる船乗りたちに歌われるようになった。
写真2 風待ち港樺島と遊郭
風待ち港の入り口のすぐ側には遊郭がいくつも立ち並び、酒盛り歌として遊女たちによって樺島ハイヤ節が歌われたが、機動船導入期になると樺島港に立ち寄る船も少なくなり次第に港は衰退していった。加えて、昭和初期に島の大半を消失する大火や、昭和12年から始まった日中戦争およびその後の太平洋戦争のため、いつしか樺島ハイヤ節は歌われることがなくなった。
第3章 ハイヤ節の再発見
昭和59年、警察官の夫をもつ岩崎キクエ氏が、夫の樺島赴任をきっかけに樺島へ移り住んだ。移住後、三味線演奏の技術を持っていた岩崎キクエ氏は、島民との融和交流を図ることを目的に樺島公民館にて民謡教室をひらいた。このことが契機となり、昔を懐かしむ島民たちの希望もあって、岩崎キクエ氏の尽力により60年ぶりに樺島ハイヤ節の復活に着手することとなった。樺島ハイヤ節に関する過去の書物などはほとんど存在しない中で、かつて樺島ハイヤ節を目にしていた古老の記憶を頼りに、曲の節や踊りを作り上げた。島で盛んに歌われその後衰退し一度は消失した民謡が、岩崎キクエ氏という島外から移り住んだ人物を中心として再発見・再創造がなされたのである。
その後、岩崎キクエ氏は樺島に「野母半島樺島ハイヤ節保存会」を立ち上げ、本格的に樺島ハイヤ節の保存と継承につとめた。保存会は、熊本県牛深市で開かれた「ふるさとの民謡ハイヤ節の系譜をたどる」をはじめとする様々なイベントに出演、また、平成元年「第2回全国子ども民謡大会」で当時9歳だった田上寿里氏が樺島ハイヤ節を歌い見事グランドチャンピオンに輝いたことで、一躍樺島ハイヤ節の名は全国に広まった。さらに、平成9年第11回「日本民俗音楽学会平戸大会」では田助ハイヤとともに踊りを披露し、樺島ハイヤ節は高名な先生たちの賞賛を得るに至った。
その後、2代目保存会会長として岩崎キクエ氏が就任したのを契機に、保存会の活動の拠点を樺島から当時岩崎キクエ氏が暮らしていた長崎半島の三和町晴美台地区へと移し、保存会の名称も「長崎半島樺島ハイヤ節保存会」に変更された。ここには、これまでの樺島や野母半島の人々だけでなく、三和町をはじめとする長崎半島全体からの保存会への新たな会員を増加への期待という思いが込められている。
「樺島ハイヤ節」
ヨイサヨイサ ヨイヤサ ヨイヤサ
ヨイサーヨイサ ヨイサーヨイサ サーサヨイヨイ
ハイヤァァー 可愛やァー 今朝出したァァー船はェー
どこの港に サァァーマ入れたァァやらえー
エェーサ 京崎鼻から やって来た
新造か白帆か白鷺か
よくよく見たれば我が夫さまだい
我が夫さまならおてちいたもんだい
サーサヨイヨイ サァーサヨイヤサ
出船ェェ可愛やァー 入り船ェよりもおェーー
又と合うぅやら サァァマ合わぬうぅヤラェーー
エェーサ 雲仙岳から 後ろ跳びするとも
おまえさんに暇じょは やりもせにやとりもせん
サーサヨイヨイ サーサヨイヤサ
樺島あァァせまいとてェェ せまい気おぉもつなェー
広いィィ野原のサーマ 気をもぉぉちやれねー
サーサヨイヨイ サーサヨイヤサ
沖のおぉー島影ェェ あますてェ小舟ェー
だれにィィこがれてサーマ いるじやァァやらェーー
エーサ 段々畑のさや豆が 一さや走れば皆走る
私しやおまえさんについて走る
サーサヨイヨイ サーサヨイヤサ
樺島ァァ見えるようなァー 眼鏡がァあればェー
千両出してもォサァァーマ もとめェェェたいねェー
エーサ 川端石だい おこせばガネだい
ガネの生焼食傷のもとだい
食傷ガネなら 色なしガネだい
サーサヨイヨイ サーサヨイヤサ
船もォォ早かれェー 櫓もおしよかれ
先の幸サーマ なほよかれェェ
サーサヨイヨイ ヨイヤサヨイヤサ
ヨ ヨイサヨイサヨイサ
写真5 樺島灯台祭りにてハイヤ節を披露
再発見がなされた樺島ハイヤ節の歌詞が記載されている書物は見つからなかった。保存会の方のご協力の末、本論文ではそのすべてを記載する。歌詞に関して、全体的な意味の理解はできるものの、現在ではすでに消失してしまった樺島の方言が盛り込まれており、歌い手である長崎半島樺島ハイヤ節保存会のメンバーでさえ、曲中に登場するいくつかの言葉の意味についてはわからないという。
第4章 保存会と現状
現在は、4代目会長・森貞雄氏を中心に長崎半島樺島ハイヤ節保存会は切り盛りされている。保存会のメンバーは18名ほど(うち6名が樺島島民)在籍しているが、そのほとんどが活動の中心地である三和町民であると森貞雄氏は述べている。一時的なメンバーを含め、現在は計20名〜25名ほどで活動をしており、全体での合わせ練習は月に2回ほど行われる。練習場所である三和町公民館までは、樺島島民のメンバーは森貞雄氏の自家用車に同乗して片道20分ほどの時間をかけて練習に参加している。
長崎半島樺島ハイヤ節保存会は、島内の中学校では民謡教育で樺島ハイヤ節の指導を行っているほか、年間を通じて現在も多くのイベントに出演しているが、イベントの一度の出演料がおよそ5000円から10000円ほどであるため、報酬は気にせずほとんどボランティアで演奏を行っている。
森貞雄氏は保存会に入会して約10年目であり、会長に就任して3年ほどになる。近々、会長を他のメンバーに引き継ぐつもりだが、保存会メンバーの高齢化と後継者不足が保存会で深刻化しており、世代交代をなかなか円滑に進められない現状を嘆いている。
今後の展望について森貞雄氏は、会員を増やして大きな大会に出ることが目標であると述べている。そしてそのためには第一に、ハイヤ節の火を絶やさず継承しなければならないという。若い世代に加わってもらうために中学校などの授業に取り入れてもらうことや、長崎県が新たに導入した観光企画「長崎さるく」に関わり、樺島や野母崎に訪れた人々に樺島ハイヤ節を披露する機会を得ることで、多くの観光客に知ってもらえるようになりたいと述べた。
結び
・一度は衰退した樺島ハイヤ節は、外部から移り住んできた人物の手によって再発見がなされた。現在の踊り手の多くは樺島島民以外の人が多く、その活動場所も樺島から離れて保存がなされている。
・実は「現在の樺島ハイヤ節は好きではない」と感じている島民もおり、そこには島外から来た人々の手によって樺島の郷土芸能が演奏されていることに対する疑問であった。
謝辞
本論文の執筆にあたり、協力してくださった方にこの場をお借りしてお礼申し上げます。ご多忙にもかかわらず訪問に応えてくださった森貞雄様、荒木壽様のご協力により本論文を完成することができましたこと、心より感謝いたします。本当にありがとうございました。