関西学院大学 現代民俗学 島村恭則研究室

関西学院大学大学院 現代民俗学 島村恭則研究室

ゆうこうの「発見」―長崎県土井首・外海の事例−

社会学部 社会学科 浅野 裕
目次

はじめに
第1章 土井首地区における「発見」
第1節 ゆうこうの「発見」以前
第2節 ゆうこうの発見
第3節 ゆうこうへの愛

第2章 外海地区における「発見」
第1節 ゆうこうの「発見」以前
第2節 ゆうこうの「発見」
第3節 特産品としてのゆうこう
むすび
謝辞

はじめに
 長崎県には土井首地区と外海地区にのみ自生しているゆうこう(写真1)という香酸柑橘類が存在している。ゆうこうは2地区では身近な存在であったが時代を経て土井首地区ではその存在が忘れ去られていく。本稿ではゆうこうが衰退した後の「発見」について土井首町自治会長の小中龍徳氏とフェルム.ド.外海の日宇スギノ氏に聞き取り調査、探索を行いまとめたものである。

写真1 ゆうこう

第1章 土井首地区における発見 
第1節 ゆうこうの「発見以前」
土井首町自治会長の小中龍徳氏に話を伺ったところゆうこうは小中氏のひいおばあちゃんの時代の嘉永6年にはすでにあったようだ。屋敷の中というより畑の脇や急な斜面に数多く自生しており(写真2)子供の頃山に行った際に飲み物の代わりに自分で木に登り取ってきては竹で出来たストローを刺し身をほぐしながら飲んでいた。(写真3)その時に飲んでいたゆうこうは実が青いことが多くまずいものだと認識していた。また他にもゆうこうは酢の代わりに使われ、焼酎の中に入れる、エタリイワシとゆうこうを酢の代わりに用いたゆうこうみそを使いぬたを作るといった使い方をしていた。しかし1960年代のベットタウン化やみかんブームの時に温州みかんと交雑する恐れがある、高木であり実が取りにくく邪魔な存在(写真4)であった、酢の代わりに使っていたが他に様々な調味料が作られ使わなくなってきたといった理由からゆうこうの木は切り倒され、その結果ゆうこうが人々から忘れ去られていった。

写真2山深くにあるゆうこうの木

写真3ゆうこうの飲み方

写真4 高枝切りばさみを用いて収穫

第2節 ゆうこうの「発見」
 はじめに、小中氏に小学校の校長先生が昔使われていたとのさま道を子供たちに見せたいと依頼したそうだ。昔のとのさま道には石で出来た道標(写真5)が50本程あったがその道導が土地開発によって失われていたりして元の位置になかったため最初は分からなかった。だが、とのさま道につながる道標をダイヤランドの入り口で発見しこれを基点として子供たちととのさま道を歩き始めた。しばらくするとみんなが疲れて子供達ももう歩きたくないといい出した。その時ふと小中氏が横を見るとゆうこうが実っていることに気づく、その時他の大人や子供たちはゆうこうのことを知らなかった。小中氏はゆうこうの実を取り、自分が子供の頃に飲んでいた飲み方を子供達にレクチャーしみんなで飲んだところ先程まで歩きたくないと言っていた人たちが回復し、最後まで歩くことができたという。
その後、一緒にとのさま道を歩いたメンバーの一人である川上正徳氏がNHK趣味の園芸にゆうこうを送りそこで紹介され、これは珍種であると言われ長崎市が取り上げようとする。また、独自調査、本格的な調査をし、学会で発表することによってそれが新種であると認められた。その後、外海が合併により長崎市となったことからゆうこうの増産、ブランド化がはじまる。また、シーボルト大学へ成分分析を依頼したところゆうこうのフラボノイドが健康にいいことが判明した。(写真6)2008年にはイタリアで行われたスローフードの世界大会で味の方舟に認められ
る。このように長崎市はゆうこうを特産品にしようという動きによって小中氏は今までゆうこうは勝手に取っても怒られることはなかったが今では勝手に取るなと注意されることもあると言っていた。また市や農協は商業目的でのゆうこうに援助をしており、また外海地区と東長崎県に力を入れておりゆうこうの木を残そうと述べるものの市は農家がほとんどいない土井首地区に対して何もしてくれないようだ。実際土井首地区では山の中にゆうこうの木が生えているが計画的に植樹が行われた場所はあまりなく、またゆうこうが自生している場所へ行く道も整備されておらず険しい道なき道を歩かねばたどり着くことが出来ない場合が多い。(写真7ー1、7ー2)

写真5 石の道標

写真6 ゆうこうのフラボノイド量


写真7ー1、7ー2 整備されていない道のり

第三節 ゆうこうへの愛
小中氏はゆうこうを商業目的で利用するのではなく昔からあり、栄養価が高いことがわかったゆうこうを地元の人々にもっと知ってもらおうという思いから様々な活動をしている。
『小中氏の活動』
1愛のゆうこう園
2ゆうこうの新たな利用方法、講習会
3植樹活動

1 愛のゆうこう園
小中氏はゆうこうを地元に広める活動の一環として愛のゆうこう園というゆうこうの木を植樹した農園を協力者と共に作った。しかし、商業目的でゆうこうを利用しようとする人々との考えの違いにより愛のゆうこう園の活動から半ば強制的に追い出されることとなった。

2 ゆうこうの新たな利用方法、講習会
 小中氏はゆうこうをもっと身近に感じてもらおうとゆうこうを用いて化粧水やママレード、ピール、酵素ジュースといったものを作り、その作り方をホテルのシェフを呼び地元の主婦たちに講習会を行っていた。ゆうこうは自然木や土壌によって皮の厚さが異なりピール用、ママレード用と小中氏は分けていた。また、ゆうこうを用いて作った商品を駅前で売ってほしいという市の要請があり、小中氏は駅前で販売した。それらはあっという間に売れたが、売り上げからお金が引かれ駐車場代もかかり手元にほとんど残らなかった。このことからもう売るのをやめ、現在は近所の人や知人にあげたりと利益が目的ではなく普及目的で売ったりしている。

3 植樹活動
 小中氏は知り合いの山や山の持ち主とその土地にゆうこうを植えるための相談し植樹活動を行っており土井首地区にもっと多くのゆうこうの木を増やしている。また、小学校へも植樹活動を行っておりゆうこうを地元に根付かせるため精力的に活動している。(写真8)

写真8 小中氏が植樹した新たなゆうこう園

これらの活動は自分が子供の頃に食べてきたゆうこうを忘れてほしくない思いと栄養価の高い食べ物ということを知ってもらいぜひ使ってほしい、今の若い人はゆうこうを全然知らないので小学生たちに教育することでゆうこうを愛してほしいという思いがあり小中氏のゆうこうへの愛から起こっている。

第2章 外海地区における「発見」
第1節 ゆうこうの発見以前
外海地区でのゆうこうについては日宇スギノ氏に話を伺った。日宇氏によると外海地区ではゆうこうは各家庭にあったというよりまばらにあり、また山の中というより畑の脇に生えていることが多く、木がある人からゆうこうの実をもらったり物々交換を行っていた。
外海地区のゆうこうには夏みかんタイプやザボンタイプがあり、側にある木の影響を受けて原木により味は変わらないが皮の厚さが変わったりする。遠足におやつとしてゆうこうを持っていき日向夏のように切り食べていたり、ゆうこうをカットしてレモンのようにして食べることもあった。(写真9)

他にもゆうこうを輪切りにし砂糖と一緒に囲炉裏で焼いて風邪をひいたときの薬として用いられる家庭もあった。

写真9 カットしたゆうこう
 土井首地区ではみかんブームによってゆうこうが衰退したが外海地区ではみかんをほとんど作っていなかったのでゆうこうを残しているようであった。そのため小中氏が「発見」する以前から衰退することなくずっと用いられており、日宇氏自身も料理コンテストにゆうこうを用いた料理を出したことはあったがゆずの一種としか取り上げられなかった。

第2節 ゆうこうの「発見」
 土井首地区でゆうこうが取り上げられている頃、同じく外海地区でもゆうこうが自生していることが分かった。これによって外海地区では市や外海地区のゆうこう振興会の協力でブランド化、商業目的での植樹活動が行われている。市では経済効果を目的としているが日宇氏自身はゆうこうを広めたい、地域活性化という思いを第一に持っている。
日宇氏はゆうこうはド・ロ神父がもってきたものだと思っており、理由としてド・ロ神父は貧困に苦しむ人々に様々な技術を伝えた人物であるがそのド・ロ神父の教会の近くにゆうこうが多くあったことやド・ロ神父がゆうこうや友情といった言葉が好きであり、またド・ロ神父の記録の中にyuukouという文字が発見されたことが挙げられる。

第3節 特産品としてのゆうこう
土井首地区とは異なり外海地区では農業の一つとしてゆうこうの植樹が行われるようになった。これを新たな市の特産品にしようと活動しており、ゆうこうに対して金銭面での援助やPR活動が行われている。しかし、外海地区では市がゆうこうなどの加工所といった施設そのものを作る訳ではないといった現状がある。
この援助を受け現在道の駅(写真9)ではゆうこうちゃんケーキ、ゆうこうみそ、ゆうこうのジャムやパン等が作られている。(写真10〜13)現在はゆうこうの需要が供給を上回っており日宇氏の畑でも新たに植樹が行われている。農家ではこういった植樹が行われているところもあるがゆうこうの木を新しく畑や家庭に植えたくないという声もある。日宇氏はゆうこうを広めたい、みんなのために役立ちたい、地元の活動費のためになればいいという思いをもってゆうこうの植樹や加工を行っている。

写真9 道の駅




写真10〜13 ゆうこうを使った加工品

むすび
 ・土井首地区では邪魔なものや金にならないものという認識であったゆうこうであるが「発見」されることにより以前とは異なる価値観が生まれた。
 ・土井首地区では農家がほとんどないこともありゆうこうの普及活動が行われており、
外海地区ではゆうこうを商品作物として扱い様々な加工品が作られている。
 ・小中氏、日宇氏の両方からゆうこうを知ってもらいたいという市の考える商業目的や経済効果のための一つのアイテムとしてではないゆうこうに対する思いを強く感じた。

謝辞
本論文を執筆するにあたり、ご協力くださった小中龍徳さん、日宇スギノさんにはこの場をお借りしてお礼を申し上げます。皆さんのご協力のおかげで実際にゆうこうを取りに山へ入ったり、数々の貴重なお話を聞かせて頂けたりととても良い体験ができ論文を完成させることが出来ました。本当にありがとうございました。