関西学院大学 現代民俗学 島村恭則研究室

関西学院大学大学院 現代民俗学 島村恭則研究室

両替商のゆくえ-奈良県桜井市における商家の近代-

植田悠渡

 

【要旨】

 本研究は、奈良県桜井市と大和高田市に店を構える服地屋「ぜに宗」で実地調査を行ない、代表者の小西宗日出氏と小西一恵氏にお話を伺うことで、時代・人々の流れや扱う商品の変化に対応してどのように商売を続けてきたのか、そして呉服・服地屋として歩んだ近代から現代に至るまでの歴史を記述したものである。本研究で明らかになった点は、以下のとおりである。

 

1.現在、服地屋「ぜに宗」を経営する小西家の発祥は奈良県桜井市の三輪で、創業した江戸時代の寛政2(1790)年当初は両替商として商売をしており「銭屋宗四郎」という屋号を掲げていた。

2.やがて質屋になった「銭屋宗四郎」に呉服が大量に集まるようになる。明治時代を迎えて周りの質屋が銀行に変わっていく中、呉服・服地屋としての営業を始める。

3.桜井市の本町通商店街に店を移し営業を始めた「ぜに宗」は、やがて大和高田市の天神橋筋商店街と奈良市の餅飯殿商店街にも出店し、奈良の三大商店街と言われた場所での営業をするまでに成長した。

4.服地販売の全盛期に桜井店からはスーパーニチイ天理店、大和高田店からはスーパーニチイ大和高田店・西友大和郡山店へ服地部門でのテナント出店を展開し、「薄利多売」を実現した。

5.桜井店の代表である小西宗日出氏は「ぜに宗」の経営の傍ら、「桜井まちづくり株式会社」の代表取締役会長を務め、商店街の活性化や桜井市の都市再生事業に熱心に取り組んでいる。

6.現在は桜井店と大和高田店の二店舗で営業しているが、どちらも周囲に空き店舗が増える中で、客の大半を占める高齢者との対話を重視した接客を心掛けている。

 

 

【目次】

序章
 はじめに

第1章 「銭屋宗四郎」から「ぜに宗」へ
 第1節 両替商「銭屋宗四郎」
 第2節 三輪の小西家
 第3節 「ぜに宗」の誕生

第2章 桜井市本町通商店街への出店
 第1節 出店の経緯
 第2節 スーパーニチイ天理店
 第3節 「ぜに宗」の現在
 第4節 小西宗日出氏とまちづくり

第3章 大和高田市天神橋筋商店街への出店
 第1節 出店の経緯
 第2節 スーパーニチイ大和高田店
 第3節 西友大和郡山店
 第4節 「ぜに宗」の現在

結語
 総括

謝辞

参考文献

参考URL

 

【本文写真から】

f:id:shimamukwansei:20200112163852p:plain

写真1 昔ながらの立派な屋敷が立ち並ぶ三輪の街並み

f:id:shimamukwansei:20200112164335p:plain

写真2 小西家の屋敷跡

f:id:shimamukwansei:20200112164530p:plain

写真3 小西家の屋敷の住所

f:id:shimamukwansei:20200112164743p:plain

写真4 ぜに宗桜井店

f:id:shimamukwansei:20200112172209j:plain

写真5 ぜに宗桜井店の店内

f:id:shimamukwansei:20200112172035j:plain

写真6 ぜに宗大和高田店

f:id:shimamukwansei:20200112172437j:plain

写真8 ぜに宗大和高田店の店内


【謝辞】

 本論文の執筆にあたり、快くご協力してくださった小西宗日出氏、小西一恵氏をはじめ、今回の調査でお世話になった方々に心より御礼を申し上げます。お店での丁寧なご対応、詳しいお話、貴重な資料のご提供など、お忙しいにも関わらず長時間に渡る取材で家族や店の歴史を教えてくださったことで論文の執筆が進んだことはもちろん、自分の足で歩いて見た街の景色や資料を通して桜井市と大和高田市についての知識も深まり、とても良い経験となりました。本当にありがとうございました。

「物忌」のゆくえ ―伊豆諸島における来訪神伝承の消長―

辻涼香

【要旨】

本研究は伊豆諸島において行われている物忌行事と、物忌の日に現れる「来訪者」にまつわる伝承について、伊豆大島・神津島をフィールドに実地調査を行ない、人々の立場に注目し、伝承の動向を解き明かすことを目的とする。行事に関わる人々を中心的立場(神職)・周辺的立場(一般家庭)・外部(島外の者)の3つに分類し研究した。本研究で明らかになった点は、次のとおりである。
 
1. 物忌行事の中心的立場(神職)は物忌の日に神迎えを行なっていた。しかし、神事を無闇に語らない傾向があるため、周辺的立場(一般家庭)は神事の詳細を知らされておらず何を迎えているかを知らずに物忌を行なっている。

2. 周辺的立場の者は、中心的立場の者が何を行なっているか詳細を知らず、厳しい物忌だけを行なううちに、なぜ自分たちが物忌をするかという独自の伝承を語るようになった。そのため、たとえば神津島では、「お知らせの神」、「祟られる」、「翁がいた」、「幽霊を見た」というように、中心的立場が迎える神(伊豆の神々、猿田彦大神)とは距離のある話が周辺的立場によって語られている。

3. 伊豆大島では中心的立場が神迎えを行わなくなったため、中心的立場の伝承がほとんど消滅した。周辺的立場の伝承は「悪代官の怨霊が訪れる」「悪代官を倒した25人の若者が訪れる」などと様々だったが、泉津村役場という公的機関が「25人の若者の霊」という伝承を取り上げた結果、その伝承が伊豆大島では主流となった。

4.伊豆大島では、 関東大震災を契機とした生活改善意識の芽生え、戦時中における物忌行事の一時的中断、戦後の生活様式の急激な近代化に伴う生活改善意識の向上により、物忌行事そのものが消えつつある。それに伴い、中心的立場だけではなく周辺的立場が語る伝承も消滅する可能性がある。

5. 「来訪者」が、漫画やインターネットに取り上げられたことにより、島の外部の者も伝承を知り、島内の周辺的立場の外側に、新たな伝承の担い手が生まれた。さらに、「来訪者」に対して独自の解釈を持つ者、「来訪者」の創作をする者が現れたことにより、島内で語られていた伝承とは異なる個別の物語が生まれている。

6. 山口貞夫は『地理と民俗』(1944)で、神の信仰が「低下」した結果、「神」が「怨霊」や「亡霊」になったと述べた。しかし、現地調査の結果、祭祀に関わる立場の違いにより伝承に重層性が生まれており、祭祀の中心的立場の者が消え、伝承の重層性が消失した結果、「神」が「霊」となるという実態があることがわかった。さらに、現在、周辺的立場も消失しつつある。すると、周辺的立場の更に外側の層である外部の立場が語る伝承のみ残り、「霊」から「怪談」「キャラクター」に変化する可能性がある。


【目次】
序章

 第1節 研究史の問題と所在

 第2節 フィールドの概況
  (1)神津島

  (2)伊豆大島

第1章 神津島の二十五日様

 第1節 二十五日様の行事

  (1)中心的立場

  (2)周辺的立場

 第2節 二十五日様の伝承

  (1)中心的立場

  (2)周辺的立場

第3節 伝承の重層性

第2章 伊豆大島の日忌様

 第1節 日忌様の行事

  (1)中心的立場

  (2)周辺的立場

 第2節 日忌様の伝承

  (1)中心的立場

  (2)周辺的立場

 第3節 日忌様の祠と墓

 第4節 伝承の重層性の消失

第3章 伝承のゆくえ

 第1節 地獄先生ぬ~べ~

 第2節 海からやってくるモノ

結語
文献一覧
謝辞

 

f:id:shimamukwansei:20200112141259j:plain

写真1 物忌奈命神社の表鳥居

f:id:shimamukwansei:20200112141045p:plain

写真2 物忌奈命神社の表鳥居に飾られていたイボジリ

 

f:id:shimamukwansei:20200112141322p:plain

写真3 民家に飾られていたイボジリ

 

f:id:shimamukwansei:20200112141339p:plain

写真4 神津島温泉保養センターのお知らせ

 

f:id:shimamukwansei:20200112141345p:plain

写真5 スーパーまるはんの貼り紙

 

f:id:shimamukwansei:20200112142100j:plain

写真6 波治加麻神社の表鳥居

 

f:id:shimamukwansei:20200112142109j:plain

写真7 波治加麻神社の日忌様の祠

 

f:id:shimamukwansei:20200112142119p:plain

写真8 差木地の日忌様の祠

 

f:id:shimamukwansei:20200112142603p:plain

写真9 民家に飾られたトベラ

 

f:id:shimamukwansei:20200112142142p:plain

写真10 日忌様を迎える道




【謝辞】

 本論文の執筆にあたり、多くの方々の御協力をいただきました。
 お忙しい中、二十五日様の祭祀と伝承をお聞かせくださった稲葉豊美氏、鈴木郁夫氏。日忌様の祭祀と伝承をお聞かせくださった坂下たか子氏、森口幹彦氏。差木地の日忌様の祠を一緒に探してくださった本多保志氏、ほか調査にご協力いただいた神津島の皆さん、伊豆大島の皆さん。
 皆様のご協力がなければ、本論文は完成しませんでした。今回の調査にご協力いただいたすべての方々に、深く感謝申し上げます。誠にありがとうございました。

寿司職人の民俗学的研究―N氏のライフヒストリーから―

畠澄代

 

 

【要旨】

 本論文は、現代で活躍する職人の中でも寿司職人を対象にし、埼玉県春日部市の寿司職人Nのライフヒストリーを通じて、寿司職人が修業時代に修得する慣習や職人気質を明らかにしたものである。本論文で明らかになった点は、以下のとおりである。

 

1. 職人という職業は12世紀ごろの中世封建社会において生まれ、経済や物流の面において人々の暮らしを支え続けてきた。現在の寿司は1824年ごろ華屋与兵衛が江戸で江戸前寿司(握り寿司)を考案したことが発祥とされる。第二次世界大戦終戦後、東京に働きに出た人達が江戸前寿司の技術を修得したのち、地元に戻り寿司屋を開いたことで、全国各地に江戸前寿司が伝わり、寿司職人という業種も広まった。

 

2. 寿司職人になるためには、①知り合いの紹介、②縁のない店への飛び込み、③学校の紹介の3つの方法のいずれかで寿司屋に住み込み、修業する。①による採用が多かったが、雇用機会の平等などの政策のため③による採用が増えていった。最近になると住み込みは少なくなり、店に通いながら修業することが多くなった。

 

3. 寿司職人のキャリアは①初職入職・修行層、②職人入職・修行層、③初職入職・定着層、④職人入職・定着層の4つに大まかに分けられる。修業を続けるため店を渡り歩く者や一定の店に留まる者など、自由にキャリアを重ねることができた。

 

4. 寿司職人になるには10年ほど修業しなければならず、修業年数によって修得できる技術が変わってくる。また、店の秘伝を知るためには親方の信頼を得ることが必須で、ある程度修業を積んだものでなければならなかった。この慣習は店の味を守るという点で有効なほか、修業内容の重要ポイントとなり、この技術を修得した弟子たちに自信を与えるという点でも有効だった。

 

5. 技術を修得するためには、親方の作業を盗み見ることが唯一の方法であり、親方に直接聞くことはタブーとされていた。盗み見た後は自分で試行錯誤をしながら技術を磨いていった。弟子は自主性、積極性を持って修業することが求められた。

 

6. 住み込みをしていく中で、親方とその家族、兄弟弟子の間で上下関係や人間性を育んでいった。また技術の向上に努め、一つのことを集中して取り組む精神力が養われていき、修得した技術を後世に伝えていこうとする意志を持つようになる。これは、親方の姿を見て身に付く職人気質というものであり、寿司職人を続ける中で不可欠なものである。

 

7. 住み込みをしながら、ある一定期間働き、特定の技術を修得することを目的とした徒弟制度のもとに、寿司職人は発展してきた。徒弟制度は閉鎖的であり独占的な制度であったため、近代化・産業化に伴い修業層の労働賃金の確保や修業形態の見直しなど、変化が求められた。

 

8. 寿司業界では個人経営店が激減し、そこに勤める従業員数も減少している一方で、法人経営の大型店が台頭し始め、それに伴い従業員数も増加している。これは労働内容をマニュアル化したことによるアルバイトの増加と考えることができる。これにより寿司職人の役割が変化し、従来の徒弟制度にある修業課程は会社経営では廃れていった。

 

9. 寿司職人の高齢化によって、廃業する者や弟子を取れなくなる者が増加し、従来の修業課程の伝承が難しくなっている。

 

10. 寿司職人の後継者不足により、修業方法が積極性を重んじるものから受動的なものに変化した。その結果、修業で身に付く職人の慣習や職人気質が修得しにくくなった。

 

 

【目次】

序章

 

第1章 寿司職人にみる慣習・職人気質
 
 第1節 歴史
 
 (1) 職人の歴史

 

 (2) 寿司と寿司職人の歴史

 

 第2節 寿司職人への道

 

 (1) 職を得る

 

 (2) 修業内容


 (3) 職人気質

 

 (4) 徒弟制度

 

第2章 寿司職人のライフヒストリーと時代による寿司職人の変化

 

 第1節 寿司職人のライフヒストリー

 

 (1) 調査方法としてのライフヒストリー

 

 (2) 調査概要

 

 (3) Nのライフヒストリー 幼少期から少年期

 

 (4) Nのライフヒストリー 少年期から青年期

 

 (5) Nのライフヒストリー 青年期から現在

 

 (6) 寿司職人のライフヒストリーから考えられる寿司職人の慣習・職人気質

 

 第2節 飲食産業の移り変わりと寿司職人

 

 (1) 寿司業界の労働市場

 

 (2) 寿司業界の高齢化

 

 (3) 寿司業界の後継者の有無

 

結語

 

文献一覧

 

 

 

f:id:shimamukwansei:20200112172754j:plain

表 寿司職人N氏の略年表

 

 

f:id:shimamukwansei:20200112140218j:plain

写真 寿司職人N氏の店 正面

【謝辞】
本論文の執筆にあたり、多くの方々のご協力をいただいた。お忙しいなか、寿司職人の慣習や職人気質、修業時代の徒弟制度、現代の寿司屋についてお話を聞かせてくださった、寿司職人N氏、N氏の店の従業員の皆さん。資料を提供していただいたH氏、I氏。これらの方々の協力なしには、本論文は完成に至らなかった。今回の調査にご協力いただいたすべての方々に、心よりお礼申し上げます。本当にありがとうございました。

ファンダムのフォークロア ―SNSにおける相互行為と表現文化―

岩野亜美

 

 

【要旨】

 本研究は、ファンダムの行動傾向について、SNSツールを用いて調査することにより、ファンダムがどのように集い、変化し、社会に影響を与えるのかを明らかにしたものである。本研究で明らかになった点は、次のとおりである。

 

1.不特定多数へ向けて発信されたもので、共感・親近感を強く感じるものに、ファンは魅力を感じ、集うだけでなく、つながりを求めて自らコンタクトを取る傾向がある。例えば、好きな作者の作品を購入するだけでなく、その作品の感想を作者が運営するSNSツールに送ることで、自身の想いを作者に直接届け、また、作者からの返事を待ち、返すことで、作者とのつながりを生み出すのである。

 

2.ファンと対象との間に、意見を互いに伝え、評価する環境が存在すると、両者のつながりが強くなる。自身の意見や考えを発信するだけでなく、その意見を汲み取った上でのレスポンスを交換しあうことで、信頼関係の構築と共に、ファンダムという組織が生まれ、組織は大きく強くなる。細かい設定が決まっていない短編の創作漫画の場合、作者がファンの意見を汲み取り、互いの意見を共有した作品作りを行うことで、ファンから強い支持を得ていることも、例の1つである。

 

3.ファンとファン、ファンと対象との間のつながりが強くなると、ファンは対象の周りを取り囲むものすべてに目を向け、それらもファンダムの1つと捉えた行動をとる。対象が身に着けている物を購入し、相手と同じようにファン同士で身に着けたり、対象の経歴を調べたり、対象に少しでも関わりのあるものを宣伝、購入することで相手に利益を生み出そうとする行為なども当てはまる。

 

4.ファンとファン、ファンと対象との間で、暗黙のルールや言葉が生まれる。それは、意図的に作り出されるものではなく、いつ、どこで、誰が生み出したか分からないものであり、時や場所を選ばずルールや言葉を知ることとなる。そして、時が経つとそのルールや言葉は、ファンダムの中でのフォークロアとなり、ファンダムというコニュニティーの一員に属しているという証明にもなる。

 

 

【目 次】

序章

1

 

 

第1章 Twitter

3

第1節     創作漫画「おじさまと猫」

4

 第2節 創作漫画「上司はど天然」

15

 

 

第2章 SHOWROOM

27

 第1節 朝5時半の女「大西桃香」

28

 第2節 元人気アイドル「長濱ねる」

38

 

 

第3章 produce 101 JAPAN

45

第1節 produce 101の地雷「鶴坊汐音」

46

 第2節 元1位の男「川西拓実」

55

 

 

結語

61

 

 

文献一覧

63

 

 

【本文写真から】

f:id:shimamukwansei:20200112010236j:plain

写真1 ファンの声(Twitter)

f:id:shimamukwansei:20200112010343j:plain

写真2 「おじさまと猫」「神と呼ばれた吸血鬼」重版御礼漫画

f:id:shimamukwansei:20200112010609j:plain

写真3 作者の単行本発売報告

f:id:shimamukwansei:20200112010651j:plain

写真4 作者からファンへのアンケート

f:id:shimamukwansei:20200112010720j:plain

写真5 記念日を祝うファン

f:id:shimamukwansei:20200112010750j:plain

写真6 Twitterにトレンド入りする川西のハッシュタグ



民俗学とは何かーマンガ表現による民俗学ー

常数唯


【要旨】

 本稿は、民俗学について、マンガという表現方法を用いることで、民俗学に馴染みがなかった人も興味持ち、理解を深めることを目指したものである。また執筆にあたり、重視した点は以下のとおりである。

 

1.民俗学に馴染みがなくても入り込みやすい展開にする

→主人公を民俗学に触れたことがない学生に

→ゼミに所属することで、民俗学を学ぶ

 

2.学ぶことの面白さを描く

→点数稼ぎや義務としての学問から脱却

→面白いから、知りたいから学ぶ姿勢へ

 

【あらすじ】

 主人公の橋本涼介は甲山大学の2回生。「何事も効率的に」がポリシーで何かにこだわったことのない彼は、一週間後に迫ったゼミ選択で迷っていた。そんなある日、帰り道でどこからか聞こえる不思議な鈴の音に気付く。音を辿るとそこは今まで知らなかった神社。そこで着物を着た謎の狐に遭遇し、驚きのあまり大慌てで逃げ出した。呪いや祟りがあるのではないかと不安に思う彼の前に、現代民俗学の教授である山村先生が通りかかる…

                           

【本文画像から】

 

f:id:shimamukwansei:20200112010332p:plain

画像1 主人公と舞台設定

 

f:id:shimamukwansei:20200112010605p:plain

画像2 謎の狐との遭遇

 

f:id:shimamukwansei:20200112011025p:plain

画像3 山村先生との出会い

行商のゆくえ―佐賀市大和町「味の中島屋」の来歴―

吉岡未央

 

【要旨】
 本研究は、佐賀県佐賀市大和町にある「味の中島屋」をフィールドとして調査を行うことで、大和町やその周辺での行商の在り方、及び行商が形を変えて現在に至るまでの軌跡を解明したものである。
 本研究で明らかになったことは、以下の点である。

1.佐賀市大和町は山側であったため、海の魚の需要があり、大変重宝された。佐賀市大和町や金立町一帯は中島屋の顧客が多く占めていた。

2.中島卯七氏は佐賀市川副町広江で魚を仕入れ、佐賀市大和町やその周辺にほぼ毎日行商しに来ていた。大和町の人びとの求めにより、大和町に定住した。そこで行商と鮮魚の店売りを行った。

3.卯七氏の長男、卯八氏は卯七氏が行っていた行商を再開し、行商に加え、鮮魚の店売りも再開した。材料揃っていたこと、三代目を継ぐ予定であった卯八氏の一人息子、松次氏が料理を得意としていたこと等の理由で、仕出し屋を始めることになった。松次氏が戦死し、三代目は、婿養子として迎えられた正則氏と、卯八氏の六女フミエ氏が継ぐことになった。

4.時代の流れに合わせ、行商は終わりを迎えた。正則氏は鮮魚店と仕出し屋に力を入れて働いた。大変忙しい日々が続いた。ライバル店の影響で、おせち料理を取り扱うようになった。施設給食やスーパーマーケットに鮮魚を卸すようになり、事業を拡大した。

5.正則氏、フミエ氏の長男の義史氏は関西へ修業しに行った。四代目として中島屋を継ぐ際に、中島屋を仕出し部と鮮魚部に分けた。仕出し部は義史氏が、鮮魚部は次男の隆洋氏が継ぐことになった。関西での修業経験が、義史氏を支えている。

6.仕出し料理やおせち料理の注文が年々減少していく現状や時代のニーズを鑑み、今後の仕出し部存続の判断は、四代目義史氏に委ねられている。

7.中島屋は、ただ130年という月日続いてきただけでなく、柔軟な考えを持ち、時代のニーズに合わせ自らを変化し発展させ、受け継がれてきた。生きるために知恵と工夫を凝らし、努力を積み重ねた結果である。目まぐるしい時代の流れの中で、もがきながら模索を続けてきた中島屋だが、今後どうなっていくかはわからない。

 

【目次】
序章 問題の所在
第1章 行商
 第1節 初代、卯七氏
 第2節 二代目、卯八氏
 第3節 三代目、松次氏と正則氏
  (1)松次氏
  (2)正則氏
 第4節 行商の在り方
  (1)日々の行商
  (2)輝雄氏
  (3)行商の幕引き
第2章 鮮魚店
 第1節 行商から鮮魚店へ
 第2節 中島屋の商い
  (1)施設の給食
  (2)スーパーマーケット
第3章 仕出し屋
 第1節 鮮魚店から仕出し屋へ
  (1)仕出し屋
  (2)フミエ氏
 第2節 四代目、義史氏
 第3節 中島屋(仕出し部)の商い
  (1)冠婚葬祭と仕出し
  (2)鉢盛からおせち料理へ
  (3)おせち料理
結語
謝辞
文献一覧

 

【本文写真から】

 

f:id:shimamukwansei:20200111141522j:plain

写真1 佐賀市と福岡県柳川市にある柳川魚市場 *みんなの行政地図(https://minchizu.jp/saga/saga.html)をもとに作成。 赤丸は中島屋、オレンジ丸は行商していた地域、紫丸は鮮魚の仕入れ場、黄緑丸は青果市場のおおよその場所を表している。

f:id:shimamukwansei:20200111141812j:plain

写真2 1930年代後半に完成した中島屋

f:id:shimamukwansei:20200111141936j:plain

写真3 現在の中島屋(2019年11月15日撮影)

f:id:shimamukwansei:20200111142043j:plain

写真4 桂剥きを練習する義史氏(修業時代)

f:id:shimamukwansei:20200111142158j:plain

写真5 雛祭りの御膳

f:id:shimamukwansei:20200111142252j:plain

写真6 2019年度二万二千円(税込み)のおせち料理

 

【謝辞】

 本論文の執筆にあたり、中島屋に関係する方々のご協力を賜り、完成させることができました。暮れのお忙しい時間の中、私のために時間をさいて頂き、私の質問に耳を傾け、快く返答してくださいました。また、貴重なお話を聞かせて頂き、資料を提供してくださいました。中島義史様、鈴江様、正則様、フミエ様、ご家族の皆様、内田輝雄様、本当にありがとうございました。皆様のお力添え無くして本論文の完成は不可能でした。調査にご協力いただき、感謝の気持ちでいっぱいです。心からお礼申し上げます。

 皆様の、今後の益々のご発展をお祈りいたしまして、私からの謝辞とさせていただきます。誠に、ありがとうございました。

 

 

 

京町家を改修する ―京都市西京区樫原の事例から―

船登大輝

 

【要旨】

 本研究は、京都市西京区樫原をフィールドに、京町家の改修について調査を行なうことで、町並み保存に関わる制度や法が実際にどのように生きられているのかについて明らかにしたものである。本研究で明らかになった点は、次のとおりである。

1. 樫原地域は平成13年に西京区で唯一の界わい景観整備地区に指定されている。当時の樫原自治会のメンバーから構成された樫原街並み整備協議会が、樫原の界わい景観整備地区指定に向けて活動を行なっていた。

2. 補助金改修において、住民は京都市によって見積書の提出を求められる。そのため、 補助金改修を行なう住民は、工務店と連携をとり必要な材料の確保や工事計画についての取り決めを行なわなければならない。また、工事完了後は京都市への完了報告書の提出や完了検査の実施を行なう必要があり、手続きが多く、補助金交付までには時間を要する。

3. 界わい景観建造物の補助金は樫原地域の住民が選択できる補助金の中で最も補助率や補助金上限額が高い。しかし、一年に一度しか補助金を申請できないしくみであるため、住民にとって使いづらいものとなっている。そのため、昨年度までの直近3年間の界わい景観建造物の補助金使用実績は0件となっている。

4. 京都市が定めている補助金制度には、原資がある補助金と原資が無い補助金がある。京都を彩る建物や庭園修理事業補助金は、京都市単独の予算からまかなわれており原資が無い。一方で、界わい景観建造物の補助金及び個別指定町家補助金は国資から一部まかなわれているため、原資がある。補助金改修を行なう住民にとって、原資の有無が補助金の使いやすさを大きく左右する。

5. 京町家における改修では、住民は京都市によって景観の意味で元通りに修復する事が求められる。しかし、京町家に住む住民は、歴史的な建造物であるからこそ元々使用されていた古い形式やサイズに合う材料の確保が困難であり、改修に時間を要する。そのため、京都市に求められる元通りの修復がより合理的になって欲しいと感じている住民もいる。

6. 京都市の補助金は、本来であれば景観の意味で元通りに修復するために使用されるべきものであるため、今回の台風21号のような天災に対する修景に利用する事は趣旨から反れていると感じて、補助金使用を避けた住民もいる。

7. 文化財指定を受けている建物が個別指定町家に対する補助金の補助率よりも低いと不満を抱える玉村家の事例のように、京都市の補助金制度そのものに納得がいっていない住民もいる。

 

【目次】 

序章 問題と方法
 はじめに
第1章 補助金のしくみ
第2章 「個別指定町家補助金」による改修
 第1節 中村家
 第2節 改修までの過程
 第3節 改修を振り返って
第3章 保険金による改修
 第1節 小石家
 第2節 改修までの過程
 第3節 改修を振り返って
第4章 「京都を彩る建物や庭園修理事業補助金」による改修
 第1節 玉村家
 第2節    改修までの過程
 第3節    改修を振り返って
第5章 考察
 第1節 補助金改修と保険金改修
 第2節 3つの補助金
 第3節 京町家の改修とは
結語
謝辞
参考文献・参考URL一覧

 

【本文写真から】

f:id:shimamukwansei:20200111123041j:plain

写真1 中村家 門の様子(改修前)

f:id:shimamukwansei:20200111123354j:plain

写真2 中村家 門の様子(改修後)

f:id:shimamukwansei:20200111123621j:plain

写真3 小石家 焼き板の様子(改修前)

f:id:shimamukwansei:20200111123717j:plain

写真4 小石家 焼き板の様子(改修後)

f:id:shimamukwansei:20200111123759j:plain

写真5 玉村家 へい倒壊時の様子

【謝辞】

 本論文の執筆にあたり、調査にご協力いただいた全ての方にこの場をお借りしてお礼申し上げます。ご多忙にもかかわらず、何度も訪問に快く対応いただきました中村行夫氏、小石伊久男氏、玉村隆史氏、京都市役所景観政策課の原田氏、京都市役所まち再生・創造推進室の中川氏のお力添えによって本論文を完成させる事ができました。心より感謝いたします。
 この度ご協力いただいた皆様の、今後のますますのご発展とご活躍をお祈り申し上げます。ありがとうございました。

 

 

ミナミのタバコ屋ー大阪市中央区難波「司光」の世界ー

高樋凌平

 

【要旨】

本研究は、大阪市中央区難波の煙草屋「司光」をフィールドに実地調査を行うことで、130年間存続している煙草屋の歩みを明らかにしたものである。本研究で明らかになった点は、次のとおりである。

 

  1. 岡村商店の創業者である岡村定次郎氏は、伊勢亀山藩で勘定奉行の役職にあった岡村家の出である。

 

  1. 定次郎氏は、戊辰戦争をきっかけに大阪へ出て行く。その後、十数年の試行錯誤ののち、岡村商店を創業した。

 

  1. 創業当時は、法善寺・竹林寺への参拝者に対してキセル用のタバコを販売することが主だった。

 

  1. 1954年、岡村商店から株式会社司光となった。

 

  1. 司光になって以降の歩みは、人生の大半を司光で過ごした4代目賢司氏のライフヒストリーからうかがえる。

 

  1. 株式会社となった司光は、梅田・堂島・阿倍野の三箇所に支店を構えた。

 

  1. 1971年、賢司氏は仕事として初めて海外へ行った。フランスやデンマークを中心に、パイプに関する学びを深めた。

 

  1. 1973年、ロンドンにある「ダンヒル」へ赴き、そこで本格的にパイプの仕入れを行なった。
  2. 1979年、スイスの会社「ダビドフ」から葉巻取り扱いの依頼を受けた。

 

  1. 1988年、葉巻の勉強のためにキューバへ赴く。

 

  1. 現在は息子の啓司氏に業務の大半を委ね、サポート役に回り、司光を支えている。

 

【目次】

序章 研究の意義

 はじめに

第1章 司光の来歴

第1節 亀山から大阪へ

 第2節 岡村商店創業

 

第2章 岡村賢司氏

 第1節 幼少期

 第2節 青年期

 第3節 海外へ出る

 第4節 賢司氏とパイプ

第5節 賢司氏と葉巻

 

結語 

文献一覧

 

【本文写真から】

f:id:shimamukwansei:20200112233744j:plain

写真1 司光の外観

f:id:shimamukwansei:20200112234023j:plain

写真2 司光店内の様子

f:id:shimamukwansei:20200112234138j:plain

写真3 ドミニカの工場を訪れた賢司氏

 

f:id:shimamukwansei:20200111092103j:plain

写真4 ドミニカのダビドフ

f:id:shimamukwansei:20200111091918j:plain

写真5 完成した葉巻

f:id:shimamukwansei:20200111092431j:plain

ドミニカの工場の様子

 

【謝辞】

本論文の執筆にあたり、多くの方々のご協力をいただきました。

  特に、司光について、そして自身のライフヒストリーをお話ししていただいた岡村賢司氏には感謝の意を示したい。

 彼のご協力なしには、本論文の完成には至りませんでした。今回の調査にご協力いただいたことに心よりお礼申し上げます。本当にありがとうございました。

砂丘のムラに生きる―らっきょう農家に嫁いだ一女性のライフヒストリー―

井本佳奈

 

【要旨】

 本研究は、鳥取市福部町のらっきょう農家に嫁いだ香川佐江子氏のライフヒストリーに関して調査を行ない、同氏が砂丘地のムラでどのような人生を送ってきたかについて明らかにしたものである。
 本研究で明らかになった点は、以下のとおりである。

 

1. もともと、福部町は日本海に面しており海が近いため、都会から海水浴に来る観光客が多かった。そのため、嫁いだ当時、香川氏も含め夏は周辺ほとんどの家が民宿を営んでいた。

 

2. 過酷な植え付け作業を工夫しながら行う年配の植え子さんの姿を見て、佐江子氏が農協や県の普及員に相談を持ち掛けたことが、腰に巻くバンドや植え付け作業衣「涼かちゃん」開発のきっかけとなった。

 

3. らっきょうの砂畑は標高も高く風が強いので、飛砂対策として網を張っている家もあるが、取り付けや回収が大変なので、佐江子氏はライ麦を蒔いて根を張らせて砂が動かないようにしている。刈ったライ麦は自家栽培しているスイカの日焼け対策に有効利用している。

 

4. 収穫の際、専業農家なら女の人がトラクターに乗る必要はないが、夫・恵氏が勤めに出ていたので、恵氏が退職するまでは佐江子氏が女性でありながらトラクターに乗っていた。当時は専業農家が多かったので、女の人がトラクターに乗るのは珍しいということで取材されるようになった。

 

5. 香川氏の家では、元肥ではなく、作条施肥という方法を肥料を手散布している。この方法は、保肥力が低い砂に適しているうえ、らっきょうに肥料が効率よく当たり肥料代も削減できるという利点がある。もともと元肥をする家が多かったが、佐江子氏が勉強会で意見を出すなどして、作条施肥をする家も増え始めた。

 

6. 現在では、らっきょう生産の規模が大きくなり、家族だけでは仕事を捌ききれないので、らっきょうを切る切り子さんや、収穫する掘り方さんを雇っている。

 

7. 女の人は自分が良いものを作りたいから他の人に聞いたり、逆にアドバイスもしたりするが、男の人はプライドがあり、あまり人に聞かないので、女の人が中心になって作る家は良いらっきょうができる。

 

8. らっきょう栽培は冬場は仕事がないので、らっきょうの早取りであるエシャロットを作り始める。そのグループ「エシャロット組合」の団結で、無名のエシャロットを広めていった。

 

9. 嫁いだ当時は、らっきょうと民宿に加えて、梨も栽培していた。しかし、梨は手がかかり台風の影響を受けやすいので、梨の代わりとしてメロン栽培をはじめた。

 

10. 佐江子氏は年代別グループ「若妻グループ」に所属しており、そのグループを通して恩師である元県知事の妻・るり子氏に出会い、「農業はアホじゃできん」と相談したことがきっかけとなり「農業婦人大学」がつくられた。そこで行なわれたリーダー研修が、のちに事を起こす際、声を上げ人を巻き込む佐江子氏に役立った。

 

11. 夫・恵氏が勤めに出ていたので、佐江子氏は義父母相手に自分がしないといけないという意識をもっていた。それと同時に、「若妻グループ」や「エシャロット組合」、「農業婦人大学」などさまざまなグループがあったことから、県や農協との繋がりもでき、さまざまな勉強ができた。

 

12. エシャロット組合でさまざまな話をするようになってから、らっきょうの価格暴落を繰り返す現状に危機感を抱き始めた。そこで、どうしたら若い人にもらっきょうを買ってもらえるか考えて生まれたのが、らっきょう漬け方講習であった。はじめは、浜湯山の二人で行なっていたが、その後各集落にも呼びかけ、現在は十人で漬け方講習を行なっている。

 

13. 漬け方には昔ながらの本漬けと、簡単に漬けられる簡単漬けという二つの漬け方があるが、今はとにかく若い人に漬けてほしいので、簡単漬けを推進して講習を行なっている。

 

14. 一時期、佐江子氏はメロンを出荷する箱に、らっきょうの花を添えて入れていた。その花が評判が良かったことから、エシャロット組合で協力して花を摘み、においが出ないよう試行錯誤もして『プリティアリウム』と名付けて出荷していた。

 

 

【目次】

序章 問題の所在とフィールドの概況
 第1節 問題の所在
 第2節 フィールドの概況  

第1章 らっきょう農家に嫁ぐ
 第1節 らっきょう
(1) 植え付け
(2) 灌水
(3) 飛砂対策
(4) 肥料
(5) らっきょう堀り
(6) 出荷とらっきょう切り
(7) 植え付け準備と反省会
(8) 種堀りと種の消毒
 第2節 エシャロット
 第3節 梨からメロンへ
(1) 梨
(2) メロン

第2章 農家の女性たち
 第1節 女性たちのグループ
  (1)若妻グループ
  (2)農業婦人大学
  (3)エシャロット組合
 第2節 らっきょう漬け方講習会
  (1)漬け方講習会
  (2)らっきょうの簡単漬け
  (3)人に教える
 第3節 らっきょうの花
  (1)『プリティアリウム』
  (2)らっきょうの花のおせんべい
  (3)鳥取市の花

結語
謝辞
文献一覧

 

【本文写真から】

f:id:shimamukwansei:20200111013123j:plain

写真1 らっきょう栽培五集落 *国土地理院1:25,000地形図「鳥取北部」(2016年発行)、「浦富」(2018年発行)をもとに作成。

f:id:shimamukwansei:20200111014554j:plain

写真2 植え付け作業衣『涼かちゃん』

f:id:shimamukwansei:20200111014942j:plain

写真3 香川家の植え付け時のらっきょう畑の様子

f:id:shimamukwansei:20200111015142j:plain

写真4 植え付けを行なう香川佐江子氏

f:id:shimamukwansei:20200111015416j:plain

写真5 農業婦人大学の修了証書 (平成5年2月19日)

 

【謝辞】

 本論文の執筆にあたり、香川佐江子様をはじめ多くの方にご協力をいただきました。お忙しい中何度も訪れたにも関わらず、快くご自身の貴重なお話をたくさん聞かせて下さり、資料も提供していただきました香川佐江子氏。らっきょうの植え付けという貴重な体験もさせていただきました佐江子氏と旦那様の恵氏、並びに植え付けを教えて下さった植え子の皆様。そのほか情報提供をしてくださいました、農家の皆様。これらの方々のご協力なしには、本論文を執筆することはできませんでした。
 今回の調査にご協力いただいた全ての方々と佐江子氏との出会いに、心より感謝申し上げます。本当にありがとうございました。

商いの消長 ―豊中市服部にみる地域の変貌と商業の展開―

藪下華奈

 

【要旨】

本研究は、豊中市服部をフィールドに、この地で商いを展開してきた半田修二氏と上芝茂樹氏の2人のライフヒストリーをとりあげ、これを時代とともに変化する服部の町の様子と照らし合わせて解明したものである。本研究で明らかになった点は、次のとおりである。

 

 ①半田家は、先祖代々百姓だったが、戦前に与吉氏が周りに住む親族に田を任せ、商いを始めたことから修二氏の代まで商いが続いてきた。

 

②戦後、酒を売る免許の再申請が求められ、周りのほとんどの酒店が排除されたが、与吉氏と息子の喜一氏が経営していた「半田酒店」は、売り上げが安定していたため、商いを継続できた。昭和44年には、修二氏が新たに「半田屋」を服部阪急商店街に開業した。この頃、多くの文化住宅やアパートなどが周辺に建てられ、人口が増加しており、商店街を訪れる客数も年々増えていった。「半田屋」の売り上げも右肩上がりとなった。

 

③修二氏は、喜一氏とともに昭和56年に「株式会社 半田喜一」を設立し、酒店の店舗を増やしたり、飲食店、マンション、スーパーなどの経営も始めた。マンションやスーパーなどは、昭和後期から平成初期にかけて特に流行していたため、修二氏も始めてみようと決意したのであった。多くの事業を展開させてきたが、阪神淡路大震災によるスーパーの倒壊を契機に、「半田屋」に専念することにした。

 

④修二氏は、「半田屋」を営業しながら、売り上げを継続することと服部に貢献したいという思いでさまざまな会の役割も担当した。しかし、平成に入ってから、空港騒音問題を要因とする文化住宅などの立ち退きによる人口減少や、スーパーやコンビニなどの進出によって、売り上げは減少した。「半田屋」は平成21年に閉店し、「株式会社 半田喜一」も現在はもうない。しかし、修二氏を知る人は多く、服部の町づくりや、商店街について現在も相談を受けることがある。

 

⑤上芝家の商いは、定次郎氏が服部で商いを始め、その後、常一氏と百合子氏の夫妻が昭和25年に服部天神駅前で「のせや」といううどん屋を開業したことに始まる。その後、親族のなかに服部天神駅周辺で店をはじめる者が現われるようになった。

 

⑥「のせや」を開店した当時、周りに同業者はおらず、隣町からの出前注文も受けていたこともあり、売り上げが安定していた。昭和36年には、駅から徒歩5分圏内の土地を買い、「孔雀荘園」という文化住宅を建て、経営を始めた。

 

⑦昭和30年代前半に一族も駅前で商いを始めた。上芝家の親族たちの店はすべて、駅前に密集して建っていたため、店が混みあったり、仕込みが間に合わない際などは互いに助け合っていた。

 

⑧常一氏は、昭和39年に「喫茶店 ピーコック」を開業した。この頃、東京オリンピックが開かれ、東京だけでなく、大阪も盛り上がっており、売り上げが向上した。「中央営繕」という不動産屋も始めたり、昭和50年には、「ピーコック 西店」を駅の西側に新たに開店するなど商いを展開させていった。

 

⑨昭和53年に常一氏が亡くなり、茂樹氏が継いだ後、「珈琲豆専門店 ピーコック2」を開業した。茂樹氏の長男、英司氏が「喫茶店 ピーコック」を継ぐことになり、茂樹氏は「珈琲豆専門店 ピーコック2」で自家焙煎を行なうなど、時代の変化に合わせて営業を継続している。

 

⑩「珈琲豆専門店 ピーコック2」は、3年後に駅前整備のため立ち退きとなる。「ピーコック 西店」の場所に移動するとのことだが、今後どのように展開していくのかはわからない。

 

【目次】

序章 問題の所在とフィールドの概況

 第1節 問題の所在

 第2節 フィールドの概況

第1章 半田家と商い

 第1節 穂積村での商い

  (1)与吉氏と商い

  (2)喜一氏と商い

  (3)修二氏と商い

 第2節 商いの拡大

  (1)服部阪急商店街

  (2)株式会社 半田喜一

 第3節 さまざまな会

  (1)酒販組合

  (2)服部阪急商店街振興組合

  (3)服部をよくする会

第2章 上芝家と商い

 第1節 駅前での商い

  (1)常一氏、百合子氏と商い

  (2)一族と商い

 第2節 さまざまな事業の展開

  (1)常一氏と事業

  (2)茂樹氏と事業

 第3節 服部の現在と上芝家

  (1)英司氏

  (2)親戚たちとその後

  (3)茂樹氏

結語

 総括

 謝辞

 参考文献

 

 

【本文写真から】

f:id:shimamukwansei:20200109223118j:plain

写真1 服部阪急商店街の位置 ※服部バルMAPをもとに作成

f:id:shimamukwansei:20200109223317j:plain

写真2 服部西町に現存する文化住宅

f:id:shimamukwansei:20200109223419j:plain

写真3 酒販新聞に載る「半田屋」

f:id:shimamukwansei:20200109223733j:plain

写真4 上芝家が商いを展開した駅前の一角 ※服部バルMAPをもとに作成

f:id:shimamukwansei:20200109224031j:plain

写真5 「喫茶店 ピーコック」

f:id:shimamukwansei:20200109224129j:plain

写真6 「珈琲豆専門店 ピーコック2」

 

【謝辞】

 本論文の執筆にあたり、多くの方々のご協力をいただきました。

 ご多忙の中、ライフヒストリーをお話してくださった半田修二氏、上芝茂樹氏、上芝英司氏。服部阪急商店街についてお話を聞かせてくださり、様々な貴重な資料を提供してくださった鳥羽伸美氏、山下順朗氏、前野雅文氏。

 これらの方々のご協力なしには、本論文は完成に至りませんでした。今回の調査にご協力いただいたすべての方々に心よりお礼申し上げます。本当にありがとうございました。

 

民俗学者の形成 ―北海道民俗学者阿部敏夫のライフ・ヒストリー―

山田彩世

 

【要旨】

本論文は、ある一人の民俗学者に焦点を当て、在野のフィールドワーカーとして生活の当事者の目線で研究するとはどういうことなのか、ということを阿部敏夫という一人の学者を取り上げて明らかにしたものである。

本研究で明らかになった点は、以下のとおりである。

①少年期

秋田県出身の父と北海道栗山町出身の母のもとに生まれ、経済的に貧しかった家庭環境の中で北海道栗山町という自然豊かな土地で兄弟姉妹たちに囲まれながら育った。

②青年期

中学・高校・大学では金銭面に苦しみながらアルバイトに勤しむ日々を送った。また、中学時代にキリスト教と出会い、大学1年生の時に洗礼を受けクリスチャンになった。

③国語教師時代

牧師になるか、教師になるか迷った末、教師人生を選択した。生徒との葛藤もあり挫折したこともあったが、周囲の助けと教師としての喜びを心の支えにして乗り越えてきた。

④採訪の日々

古典教材の作成をきっかけに民間説話に出会い、同僚の先生や大学時代の先生との関わりの中で最終的に民俗学に出会うこととなる。その後、高校教師の傍ら自らもフィールドワーカーとして民間説話の採集に出かけていくようになり、厚別の龍神さんや北広島市の大蛇神社の伝説など北海道民間説話の事例研究をこれまで行なってきた。

⑤民俗学者になる

高校教師を退職後、大学教授としてこれまで集めた民間説話の資料の分析や集約に取り組んだ。阿部は、「北海道には民俗の原初的な姿が見られる」として、北海道から日本や世界の文化を見ていきたいと展望している。また、今後の課題として、北海道におけるまちづくりのなかの民間説話を中心とした歴史編さん、民俗研究に取り組みたいと考えている。

 

【目次】

序章 研究の意義

 はじめに

第1章 少年期

 第1節 両親のルーツ

  (1)鉄五郎

  (2)みのり

 第2節 栗山町で育つ

第2章 青年期

 第1節 中学・高校時代

 第2節 大学時代

  (1)アルバイトと大学生活

  (2)クリスチャン

第3章 国語教師として生きる   

 第1節 牧師と教師

  (1)牧師になる夢

  (2)教師として生きる

 第2節 葛藤の日々

  (1)教師人生の挫折

  (2)支えと喜び

第4章 採訪の日々

 第1節 民俗学との出会い

 第2節 フィールドワーカーとして

 第3節 厚別の龍神さん

 第4節 北広島市「大蛇神社」伝説

第5章 民俗学者になる

 第1節 博士論文執筆

  (1)大学教授時代

  (2)国際的な交流活動(中国・大連と韓国・ソウル)

  (3)『北海道民間説話〈生成〉の研究―伝承・採訪・記録―』

 第2節 阿部敏夫の民俗学

結語

 総括

文献一覧

 

【本文写真から】 

f:id:shimamukwansei:20200106152016j:plain

写真1 高校教員時代の授業風景 ※『栗山ふるさと文庫15―栗山の史実・民話―記憶から記録へ』より

 

f:id:shimamukwansei:20200106152047j:plain

写真2 1982年7月24日の御神像遷座奉告祭の様子(麻生氏の所蔵写真より) 前列左には調査をしている阿部が写っている。



f:id:shimamukwansei:20200106152159j:plain

写真3 阿部敏夫氏(2019年10月4日撮影)

 

【謝辞】

 本論文の執筆にあたり、多くの方々のご協力をいただきました。

 お忙しい中、ご自身のライフ・ヒストリーを語ってくださったうえ、文献や貴重な資料をたくさん提供してくださいました、阿部敏夫氏。

 「厚別の龍神さん」に関する貴重なお話を聞かせてくださり、さらに資料の提供や「金沢農場」跡地まで車で案内してくださいました、麻生大八郎氏。

 「大蛇神社」の伝説に関するお話を聞かせてくださり、たくさんの資料を提供してくださいました、荒木順子氏。

 皆様のご協力がなければ、本論文は完成しませんでした。ご多忙の中、お時間を割いていただき、心より感謝申し上げます。本当にありがとうございました。

中国・南京で招待講演

2019年12月21日、中国・南京農業大学で開催されたシンポジウム「 “わたしたちのフェスティバル・南京” 第1回ハイエンドフォーラム」 において、招待講演 「其俗不知正歳四節ー日本民俗学の年中行事研究ー」を実施しました。

画像に含まれている可能性があるもの:1人以上、座ってる(複数の人)、室内

f:id:shimamukwansei:20191227232357j:plain

f:id:shimamukwansei:20191227232614j:plain

 

f:id:shimamukwansei:20191227232959j:plain

 

学術交流協定締結(関西学院大学世界民俗学研究センター・華東師範大学民俗学研究所)

関西学院大学世界民俗学研究センターは、2019年10月25日、華東師範大学民俗学研究所(徐赣丽所長)と学術交流協定を締結しました。

華東師範大学民俗学研究所は、2012年に同大学社会発展学院の中に設立された研究所で、専任教授3名、兼任教授2名、専任准教授2名、専任講師2名、専任研究員1名、博士研究員6名、所属大学院生48名(博士課程25名〔留学生4名〕、修士課程23名)によって組織される、中国における民俗学研究の一大拠点です。

今後、世界民俗学研究センターとの間で、研究情報の交換、研究者交流をはじめ、さまざまな研究交流が行なわれることになっています。

f:id:shimamukwansei:20191102160804j:plain

左:徐赣丽所長(華東師範大学民俗学研究所教授)  右:島村恭則

f:id:shimamukwansei:20191102160836j:plain

f:id:shimamukwansei:20191102161004j:plain

 

f:id:shimamukwansei:20191102163024j:plain