関西学院大学 現代民俗学 島村恭則研究室

関西学院大学大学院 現代民俗学 島村恭則研究室

蒲鉾と八幡浜-谷本蒲鉾店と丸栄かまぼこ店-

社会学部 3回生
吉岡未央

【目次】

はじめに

1. 谷本蒲鉾店
1-1. 創業のころ
1-2. 戦時中の蒲鉾店
1-3. 戦後の谷本蒲鉾店
1-3-1. 缶詰かまぼこ
1-4. 谷本蒲鉾店の現在

2. 丸栄かまぼこ店
2-1. 創業のころ
2-2. スーパーマーケットの登場と丸栄かまぼこ店
2-3. 魚の仕入
2-4. かまぼこ店のプライド

結び

謝辞

参考文献



はじめに
 八幡浜市には、多くのかまぼこ店が存在する。しかし、30年前とその店舗数を比較すると、その数は、跡継ぎがいない等の理由から減少の一途をたどっている。八幡浜市ではトロール漁が盛んであり、新鮮な魚がたくさん水揚げされていた。もともと、宇和島ではかまぼこ造りが行われていたが、その新鮮な魚に目を付けた宇和島出身の鈴木峰治氏が明治20年代に八幡浜市でのかまぼこ製造に着手した。それ以来、今日まで盛んにかまぼこ造りが行われている。そのかまぼこは、八幡浜市の特産品としての地位を獲得し、愛媛県の伝統的特産品にも指定されている。また、八幡浜市の特産品である「削りかまぼこ」は、宇和島から伝わったものである。豊かな海の恵みがもたらした宝である。削りかまぼこの原材料となるエソは、トロール漁で捕ったものが使われていたので、トロール漁が休みとなる夏に、売れ残ったかまぼこが乾燥してミイラ化したものを鉋で削ったところ評判が良かったため、大正時代に入って製品化された。トロール漁の漁獲量とかまぼこの製造量については、トロール漁での漁獲量が増えると、かまぼこの製造量も増加し、漁獲量が減少すれば製造量も減少するという、深い関係にあった。しかし近年、トロール漁船が減少したこと、冷凍すり身といった安価なかまぼこの原材料が出回ったこと等が原因で、その関係は以前と比べて小さいものとなった。
 八幡浜市で毎年行われている地方祭、10月19日に大正時代頃から続くと考えられる秋祭りの前夜祭に食べる鉢盛のご馳走に、紅白のかまぼこが必ず使われ、食べられていたという。結婚式にもかまぼこは欠かせなかった。また、高級品であったかまぼこを、子どもたちはそういった機会に食べることを楽しみにしていたそうだ。かまぼこには、赤色のかまぼこと、白色のかまぼこがあり、子どもは見た目が鮮やかな赤色のかまぼこを好み、「アカジジ」と呼んで親しんでいたという。しかしながら、今日では、かまぼこは気軽に手に入る食品へと変わってしまったため、そういった光景はあまり見られなくなったそうだ。
 八幡浜市とかまぼこは文字通り、切っても切れない関係であり、八幡浜市の人々が、かまぼこと共に生きてきた日々を本論文で論じる。今回は、八幡浜市にある2つのかまぼこ店、「谷本蒲鉾店」と「丸栄かまぼこ店」を取り上げる。

1. 谷本蒲鉾店
1-1. 創業のころ
 谷本蒲鉾店は大正5年創業の老舗の蒲鉾店である。正式な記録として残っているのは大正5年であるが、実際には明治の終わり頃から既にお店はあったと考えられている。
初代の谷本繁氏は、元々は大洲市出身の農家に生まれた次男であった。次男であったので、家を出て、自立するために、当時トロール漁等で栄え、「伊予の大阪」と言われるほど商業が発達していた隣の八幡浜市に身を置き、村上氏が営んでいた「カネセ」という、酒販売等、所謂「何でも屋さん」で丁稚奉公として修業することになる。当時は現在のように時間制での労働ではなく、仕事が終わるまで、寝る間を惜しんで仕事をした。繁氏と同じように働いている人は、10人ほどいたらしく、繁氏は、大将(当時は一番偉い人は大将と呼ばれていた。)に最も信頼される存在であったそうだ。10年ほどそこで働き、商売で独り立ちする。その際、当時八幡浜では、新鮮な魚が多く手に入ることもあってかまぼこ作りが盛んに行われており、お金を稼ぐのにも手っ取り早いという理由から、蒲鉾店を始めたそうだ。
その店を始めるにあたり一番怖かったことは、「家を建てる」ということだったそうだ。当時、家を建てるために最も重要であったことは、「信用」である。「信用」とは何か。それは、「毎月、代金をきちんと払えるかどうか」ということである。初代は、何かにつけ、そのことを口を酸っぱくして2代目の嫁である琴美氏に伝えていたそうだ。
 現在、谷本蒲鉾店本店は八幡浜市の天神通りに構えているが、創業当時は今よりももう少し北側の場所を借りてかまぼこを製造していたという。しかし、いつまでもその場所を貸してもらえるという保証があるわけではないため、お金を貯めて、現在の本店の場所にお店を構えた。1階をかまぼこの製造所、2階を住居として使用し、商売を営んだ。お店の場所と魚市場は距離があったため、仕入れた魚は、トロ箱に詰め、大八車に積んで運んだそうだ。

1-2. 戦時中の蒲鉾店
 日中戦争勃発により金属供出が行われ、かまぼこを製造する機械はもちろん、火鉢でさえも、国に供出した。谷本蒲鉾店は、供出に積極的に協力したという。底引漁船は1,2隻となって、かまぼこの原材料となる魚の水揚げ量が減り、以前ほど自由に手に入りにくくなった。その影響で、かまぼこの製造が困難となった。加えて、20軒弱存在していた蒲鉾店の働き手が戦争で召集されたことで数が減り、廃業に追い込まれるところもあった。だがそんな中で、その地区で取りまとめをしていた所の未亡人宅にはかまぼこ製造に必要な機械が残してあり、谷本氏らを含め10人ほど集まって、製造を行った。青魚は天ぷらに、白身魚はちくわにした。白身魚の中でもエソと呼ばれる魚で造られるかまぼこは高級品であった。手作業も加えながら自分たちで製造したかまぼこは、その女性の指示で個数などを分担し、隣の大洲市松山市等まで、汽車に乗って、旅館等に行商して回った。生きる糧となるかまぼこを無駄にしないように、「明日は何本いりますか?」と御用聞きしながら売って回った。食糧難だったが、みんなで協力して、必死に製造・販売を続けてきた。
 大東亜戦争が始まり、さらに生活は苦しくなったが、周囲の蒲鉾店同士で協力し、何とか生計を立て、しんどい時期を乗り越えた。

1-3. 戦後の谷本蒲鉾店
 お店は、長男が継ぐ予定であったが、戦死されたため、次男であった悟朗氏が家業を継ぐこととなった。
 戦争も終わり、働き手を戦争で失ったことで、廃業を余儀なくされる店もあったし、戦争を生き残った者が製造を続けていた店もあったが、(商売に身が入らず)遊んでしまった者の店は廃業に追い込まれたりもした。そんな混乱した中で、谷本蒲鉾店は何とか自力で営業をやっていけるまでに回復した。2代目の奥様、琴美氏は戦後まもなくこの家に嫁いだ。蒲鉾店はそれぞれで営業をするようになり、8つの蒲鉾店が集まってひとつの蒲鉾店となって再出発したところも出てきた。
谷本蒲鉾店は、魚を皮と骨に分ける機械、ミンチにする機械等、製造するために必要な最低限の機械を借金することで購入した。これまで「信用」は培ってきたので、そのお金を返しながら、商売を続けていった。自分たちの食事よりも仕事に重点を置き、お金はできるだけ使わないように頑張って生活した。食事は、ご飯にお芋、かんころを入れて炊き上げ、量を増やして生活してしのいでいた。琴美氏は、「そのお芋の匂いを嗅ぐのは今ではもう嫌だ。」と語った。そうやって生活を続けていくうちに、戦争に行っていた者が帰ってくるなど、働き手も増え、漁業を離れ、農業をする者も出始めた。そして、だんだんと暮らしは豊かになっていった。
 3代目の典量央氏は、幼少の時より家業の手伝いをしていた。谷本蒲鉾店の本店は、現在は1階が販売所、2階は住居となっているが、以前、1階はかまぼこの製造所であった。家業の手伝いをすることを苦だと思ったことはなく、大学で県外に出た後も、長期休みの際には配達などを手伝ったという。典量央氏は、「弟が家業を継ぐだろう。」と考えていたが、弟は違う道に進んだため、典量央氏が後を継いだそうだ。典量央氏は、戦後の目まぐるしい経済成長の中で、2代目の悟朗氏を「このままのやり方ではだめだ。」と説得し、谷本蒲鉾店を大きくすることに注力した。

1-3-1. 缶詰かまぼこ
 戦後まもなく、明治31年に誕生した缶詰かまぼこの製造が盛んになった。それは、海外、主にアメリカ合衆国へと輸出された。缶詰のかまぼこはナイロンが登場するまで製造され、それの登場以降は製造されなくなった。缶詰かまぼことはその名のとおり、缶詰にかまぼこを入れ、日持ちするようにされたものである。板に付いているかまぼこを板からはずし、かまぼこを半分に切って、板に付いていた部分を合わせ、円形にして缶詰につめ、機械で蓋をして、出来上がりである。上から見ると資料1のような感じで、ツナ缶よりも少し高さがある程度であったらしい。「第一缶詰」と言って、缶詰かまぼこを専門で製造しているところも嘗ては存在したそうだが、現在では、その家(製造所)すらもなくなっている。


▲資料1 上から見た缶詰かまぼこのイメージ図
 3代目の谷本典量央氏は、アメリカへ向けて大量に輸出されていた缶詰かまぼこについて、「アメリカ人がかまぼこを好んで食べていたとは考えがたく、他に理由があるのではないか。」と話す。「以前、八幡浜市は、アメリカでの新しい生活を求め、北針舟が数多くアメリカへ出向していた。アメリカへ密かに渡った人は、多くが日本へ強制送還されたが、その一部はきっとひっそりとアメリカで過ごしたのではないか。」と典量央氏は語る。シアトルにある「UWAZIMAYA」という名前のスーパーマーケットを、「元々はアメリカへと渡った人、あるいはその関係者等が始めたものではないかと考え、アメリカに住む日本出身の人々が故郷への哀愁の念を抱き、かまぼこを欲したのではないか。当時、アメリカに多くの缶詰かまぼこを輸出できたのは、きっとアメリカに何かしらのツテがあったからこそなのだろう。」と語る。「今となっては、それを裏付けるための手段はないけれども・・・」とも語っていた。

1-4. 谷本蒲鉾店の現在
 谷本蒲鉾店は現在、八幡浜市だけではなく、愛媛県松山市や、東京都にも営業所を持つ店となっている。八幡浜駅のすぐ近くに工場、販売所、ちくわとじゃこ天の製造を体験できる施設や、谷本蒲鉾店の歴史を彷彿とさせる、昔の写真を飾った、かまぼこについての博物館も併設されていて、誰でもその歴史に触れることが出来るようにしている。製造体験だが、体験者が自分で魚のすり身を竹にまいてちくわを作ったり、じゃこ天の型を用いて成型を行うことが出来る。ちくわはその場で焼いてもらい、じゃこ天もすぐに油で揚げてもらい、その場で出来立てをいただける。
 谷本蒲鉾店の工場等が駅前にあると前述したが、三代目の典量央氏は、先にも述べた通り、2代目の悟朗氏を説得し、支店を増やす等の事業の拡大に努めた。また、社会貢献にも尽力を惜しみなく注ぎ、土地の名士として、その功績は広く知られることになる。現在、谷本蒲鉾店は憲昭氏が4代目を引き継いでいる。
 谷本蒲鉾店の製品は、モンドセレクションを受賞している。モンドセレクションを受賞したことは、谷本蒲鉾店のかまぼこの品質や味が優れていることを客観的に評価されたことを表す。客観的指標を用いることで、製品に対する安全性や信頼を示している。また、谷本蒲鉾店において、一部のかまぼこは、職人が包丁一本で板に乗せるところから、かまぼこの成形をしてる。今日では機械化されてしまったかまぼこ造りの技術や伝統を過去から未来へと引き継いでいる。谷本蒲鉾店の特徴として、2代目の悟朗氏は愛媛県の認定伝統工芸士に認定されたり、3代目の典量央氏は愛媛県伝統技能食品士第一号に認定される等、多くの技能者(労働省認定技能者)を輩出している。



▲資料2 天神通りにある谷本蒲鉾店


▲資料3 駅前にある谷本蒲鉾店


▲資料4 かまぼこの博物館

2. 丸栄かまぼこ店
2-1. 創業のころ
 丸栄かまぼこ店は昭和30(1955)年頃に創業が開始された。戦後、先代の平岡栄氏と、もう一人のかまぼこ職人と共同で立ち上げられた。栄氏は、隣の大洲市の山の中で育った。竹細工などをして生計を立てていたが、次男であったこともあり、当時栄えていた八幡浜市に来た際、かまぼこ職人の方に、「独立したいがお金がないので出資して欲しい。」と言われたのが、かまぼこ店を始めるきっかけとなったのである。
 現在の店舗は八幡浜駅前にあるが、それまでに二度の移転を経験している。いずれも近くへの移転である。1度目は、駅のすぐそばへの移転だ。移転先の土地は、元々は栄氏の恩師の土地で、レンコン畑であったが、そこを恩師が手放すことになり、声をかけられたそうだ。2度目の移転は、八幡浜駅前の広場拡張に伴うもので、駅のすぐそばから少しの移転となった。このように、2度の移転を経て、今の位置にお店を構えている。お店の名前は「丸栄かまぼこ店」であるが、その名前の由来は、お店が「丸く栄える」ようにと願いが込められていのことで、先代の名前から取っている。
 創業当時は車が発達していなかったため、魚を仕入れた後は大八車にその魚を乗せ、運んだという。港とお店は2キロメートル程離れた距離にあり、数100キログラムにもなる魚を運ぶのは大変骨が折れる作業であった。「一本道であったが、勾配があったため、かなりの重さを引きながら運ぶのは、大変であった。」と孝氏は語る。大八車での仕事は、毎日の仕事であったため、多くの労力を伴ったそうだ。
 

▲資料5 丸栄かまぼこ店外観

2-2. スーパーマーケットの登場と丸栄かまぼこ店
 スーパーマーケットが登場し、気軽に安く、欲しいものが一箇所で購入できるようになり、八幡浜市にあった多くの個人での店の経営は苦しいものとなり、お店をたたまざるを得ない状況に陥ったところも出てきた。丸栄かまぼこ店も例外ではなく、スーパーマーケットの登場に苦しい思いを経験した。加えて、スーパーマーケットに置かれるかまぼこは、冷凍すり身で造られた安価なものであり、消費者が安価なものを求めたことで、店から客足が遠のくようになった。スーパーマーケットに自分の製品を置いてもらおうと交渉したが、スーパーマーケット側から値段の交渉で「話にならない。」と言われたという。「お互いに商売であるから仕方がないが・・・。」と、孝氏はやるせない気持ちを持ったことを語ってくれた。しかし、スーパーマーケットのかまぼこは安価ではあるが、味は比べ物にならず、その点で、個人経営の店が生き残っていくことになる。

2-3. 魚の仕入
 魚のセリは、ほぼ毎日のように行われている。まず、船が水揚げした魚を、魚市場の人々が手作業で、種類別、大きさ別に分ける作業が行われる。それぞれ「トロ箱」という木製の箱や、プラスチックの箱、金属の箱に分けられる。箱によってそれぞれ意味があり、発泡スチロールに入れられているものは、漁師の方が直接持ち込んだものであるという。金属の箱に入れられた魚は、養殖用の魚の餌となるもので、かまぼこの原料になるエソなどはトロ箱に入れられる。現在使われているトロ箱は、以前使われているものより一回りほど小さく、セリにかけられる魚の量も減少したとのことだった。このことについて、孝氏は、「漁をする際に魚群探知機が使われるようになり、魚が多く捕られすぎてしまって減少しているのだろう。」と話す。この場所で選別されるものもあれば、前述したように、発泡スチロールに入れ、漁師の方が既に自分で選別し、後はセリにかけるだけ・・・という状態にして持ち込むこともある。
 セリは、「セリコ」や「セリ人」と呼ばれる人物が中心となって行われる。セリコは複数人おり、どの船の魚のセリを担当するのかなど、大体決まっており、セリの準備ができ次第、セリはすぐに始められる。セリコが、セリにかける魚の箱の前に立ち、1箱いくらか、あるいは1キログラムいくらかを唱える。この唱え方は独特であり、初めて聞くと、聞き分けることがとても難しい。セリコの言葉で、セリにかけられた魚がいくらかを確認した買い手たちは、自分が着ているジャンパーを使い、他の買い手に自分がいくらでセリ落とそうとしているのかを見せないよう、手でセリコに伝える。セリコはそれを瞬時に見て、最も高く示した人を見極め、誰がいくらでセリ落としたのかを告げ、セリ落とした箱に、セリ落とした方が誰なのかがわかるお店のマークの入った紙などを置く(資料10参照)・・・というのがセリの一連の簡単な流れである。かまぼこ店は魚を練り物にするので、箱でセリ落とすことが多く、時には一度に5箱セリ落とすこともあるそうだ。また、キログラム単位でセリ落とすのは、魚屋などの業者が多い。
 セリで取引される魚はセリに行ってみないと分からず、海の状態、天候の状態によっても、魚の量は大きく左右される。丸栄かまぼこ店の孝氏は、「お店に入った注文の量や、魚の在庫等によって、多く仕入れなければならない場合と、そうでない場合とあり、その時々で判断が必要である。多く魚が必要な場合でも、思い通りに魚をセリ落とすことが出来ないこともあり、セリは博打のようなものだ。」と語る。「船ごとのセリなので、魚の品質や大きさは異なる。様々なことを総合的に考え、いくらであればセリ落とせるかを見極め、手を出す。面白い面もあれば、難しい面もある。これがセリだ。」と話す。加えて孝氏は、過去のセリでのエピソードを語ってくれた。その日、セリにかけられた魚は、海の状態が悪かった等の理由から、ごくわずかであった。しかし、お店に品物の注文が入っていたために、今日必ずセリ落とさなければならないという日があった。その時、3万円でエソというかまぼこを造るために必要な最高級の魚をセリ落としたという。セリコが値段を告げたとき、周りからは拍手喝采が起こった。この記録は依然として破られていないそうだ。


▲資料6 トロ箱


▲資料7 魚の仕分け


▲資料8 セリコが棒でセリにかけている魚を指す様子


▲資料9 セリコが上着で隠しながら、買い手が手で表した値段を見ている様子


▲資料10 孝氏がセリ落とした魚(オレンジ色の紙は、丸栄かまぼこ店のマーク)

2-4. かまぼこ店のプライド
 かまぼこ、じゃこ天・・・と一口に言っても、原材料で使う魚は、その配合等が各店で異なり、製品はその店の個性が出てくる。
丸栄かまぼこ店は、かまぼこを機械で製造している。孝氏は次のように語る。「私たちは自分のことをかまぼこ職人(かまぼこ造り全般の職人)だと考えている。プロとしてのプライドを持ち、お店の味を落とさないように、原材料にこだわり、ある一定の範囲の中で味を保ち続ける。毎日セリに足を運び、新鮮な原材料を手に入れる。他の店よりも良い原材料を使っているという自負もある。以前八幡浜に来た観光客が、その際にうち(丸栄かまぼこ店)にも訪れてかまぼこ等を購入していかれた。その同じ方が、再来の時に、『以前来たときに美味しかったからまた寄らせてもらった。』と言ってくれた。また、『美味しかったから。』と、電話で注文してくださる方もいる。自分の好みに合った食べ物を自分で選び、値段も考慮したうえで、何を選択して生活していくかが大切だ。」と語ってくれた。

結び
 今回、八幡浜市にある2軒のかまぼこ店を取り上げ、八幡浜とかまぼこの関わりを見てきた。八幡浜市トロール漁をする船が減少した今日でも、九州地方や近畿地方の船の発着場として栄え、新鮮な魚が水揚げされる全国でも有数の港である。新鮮な魚が手に入ることで、その魚を加工する商売が今日に至るまで続いている。店舗の数としては減少してしまっているが、全国有数のかまぼこの産地であることに変わりはない。かまぼこは、八幡浜独自の進化を遂げ、造り手が試行錯誤しながら伝わっている。そこには、八幡浜市の方々のかまぼこを造り続ける努力とプライドと郷土愛がある。そんなかまぼこだからこそ、八幡浜に住む人々はもちろんであるが、全国の多くの人々にも愛されているのだろう。

謝辞
 今回、本論文を執筆するにあたり、八幡浜市の方々には大変お世話になりました。感謝の念に堪えません。ありがとうございました。八幡浜市の方々は、突然の訪問にもかかわらず、皆様温かく迎えてくださいました。今回取り上げさせて頂いた谷本蒲鉾店さんの谷本琴美様、谷本典量央様、並びに丸栄かまぼこ店さんの平岡孝様をはじめとして、お忙しい中ご自分の時間を割いて、私の話や質問に耳を傾け、快く答えてくださった八幡浜の皆様、ありがとうございました。皆様のご協力なしには、本論文を完成させることは不可能であり、皆様にお力添えいただけましたこと、皆様に出会えましたことに感謝し、この場をお借りして、改めてお礼申し上げます。今後の皆様の益々のご発展をお祈り申し上げて、私の謝辞とさせていただきます。本当にありがとうございました。

参考文献
愛媛県生涯学習センター,1992,
「えひめの記憶-宇和海と生活文化(3)かまぼこ-八幡浜特産品としての伝統」
(www.i-manabi.jp/system/regionals/regionals/ecode:1/2/view/353,2018年9月4日アクセス).
八幡浜蒲鉾協同組合,1984,『八幡浜のかまぼこ』八幡浜蒲鉾協同組合.
八幡浜市公式HP,2018,「練り製品」
(http://www.city.yawatahama.ehime.jp/docs/2014091100028/,2018年9月6日アクセス).
八幡浜市史編集纂会,1987,『八幡浜市誌』八幡浜市,648-649.