関西学院大学 現代民俗学 島村恭則研究室

関西学院大学大学院 現代民俗学 島村恭則研究室

伝統と継承 ―長崎における「老舗」の事例から―

社会学部 児玉 裕佳
目次
はじめに
第一章 岩崎蒲鉾
1.来歴
2.家業
3.「継ぐ」ということ
第二章 古田勝吉商店
1.来歴
2.家業
3.「継ぐ」ということ
第三章 平野楽器店
1.来歴
2.家業
3.「継ぐ」ということ
むすび
謝辞
参考文献

はじめに

 本レポートは、家業の経営者たちに聞き取り調査を行い、家業を継ぐにいたるライフヒストリーをもとに、家業の経営者とは何かについて、また家業経営のあり方について明らかにしたものである。今回は長崎をフィールドとして、『岩崎蒲鉾』『古田勝吉商店』『平野楽器店』に訪問し、インタビュー調査を実施した。ここでとりあげる家業の経営者はいわゆる「老舗」の経営者としてみたい。
 ここで、「老舗」とはなにかについて明らかにする。「老舗」に明確な定義はない。帝国データバンクの調べによると、日本には創業から100年以上が経過した「長寿企業」は、全国に2万6,144社存在する。規模別に構成比を見ると、従業員数では「10 人未満」が16,287 社で全体の62.3%を占め、長寿企業には中小企業が多いことが分かる。長寿企業の数を都道府県別に見ると京都に目立ち、沖縄は極端に少ない。また業種別で見ると清酒製造業に多い(帝国データバンク2013)。
従業員数や業種、地域を考慮せず、画一的ではあるが、ここでは帝国データバンクの調べに基づき、「創業または設立100年以上の営利法人」を老舗の定義とする。

第1章 岩崎蒲鉾

1. 来歴

 長崎はかまぼこの消費量が高い。長崎市の一世帯あたりのかまぼこの消費量は仙台市に次ぐ2位である(総務省統計局 2011〜2013)。長崎のこどもたちは小学校中学年になると、かまぼこのことを学ぶという。教科書にもかまぼこの作り方が載っており、蒲鉾工場へ社会科見学に行く。今回訪ねた岩崎蒲鉾には社会科見学にきた小学生からの感謝状が数枚飾られていた。
 岩崎蒲鉾は長崎市深堀 にあり、明治35年創業の「老舗」と言える。初代は岩崎政一。創業当初は魚を売っていた過去がある。当時は深堀の海の海岸線は今より内にあり、夏に海水浴の客向けにちくわを作り、行商を行ったことが始まりである。それがきっかけでねりものを作るようになった。明治の末より大正にかけては長崎の築町にある公設市場で販売を行っていたこともある。現在は揚げかまぼこを製造する。以前は深堀に蒲鉾屋は何軒かあったが、現在は深堀舟津地区に岩崎蒲鉾1店のみである。
 現社長は四代目にあたる岩崎健氏。店には、その子である亮一氏、はつみ氏がいた。従業員はこの三人の他に、卸を担当する健氏の妻、作業場にはパートの方々がいた。社長自身も作業服をきており、蒲鉾づくりをしている。




(写真1)(写真2)店の外観

2.家業
 岩崎蒲鉾の朝は早い。午前4時からかまぼこ作りが始まる。平常期は昼の11時〜12時のまで、繁忙期はお昼の2時〜3時までの製造である。繁忙期はお盆前や年末である。お中元やお歳暮の注文が増えるためだ。深堀の舟津地区の客が多く、個人での注文が主だ。電話やFAXで遠方からの注文もある。遠方であれば中部地方からの注文が多い。定休日は日曜日である。

 かまぼこの製造工程
(1)原料
 長崎蒲鉾水産加工業協同組合から原料であるすり身を仕入れ、店でそのすり身をブレンドする。岩崎蒲鉾の原料はアジ・イワシを多く仕入れる。取材した頃(11月下旬)は繁忙期であったため、一箱20キロのすり身を20箱仕入れていた。通常の約4倍の量である。
 冷凍されているすり身の解凍方法も重要である。夏と冬では解凍する時間や仕方が異なる。段ボールに2袋のすり身が内装されて届くのだが、どちらの袋に入ったすり身が同様に解凍されるようにしなければならない。また魚がとれた季節によって脂のノリが異なり、ここにも十分な注意を配らなければ、出来上がったかまぼこの舌触りや食感が全く異なってしまうという。
 25、26年前までは店で魚の頭や内蔵を落とすところから調理をしていた。しかし現在は長崎蒲鉾水産加工業協同組合から原料を仕入れる。この長崎蒲鉾水産加工業協同組合は、昭和47年に設立された。長崎蒲鉾水産加工業協同組合のホームページによると、「長崎市を中心とした蒲鉾製造業者は、蒲鉾製造時に生じる排水への規制が強化されたことに伴い、規制へのより効率的な対応として共同ですり身加工を行うことを決定」とある。岩崎蒲鉾もこの組合から仕入れる。

(2)練り
 原料を擂潰機で練る。擂潰機のことをこの店では「カマ」と呼んでいる。擂潰の作業には「荒ずり」と「塩すり」がある。温度が高い夏はすり身が固まりやすく、また冬は固まりにくくなる。そのため夏の方が基本的に作るのが難しい。すり身の温度を一定に保つことが必要であるが、この店の「カマ」には温度計が付いていないので、目視や感触を確かめ、水を加えるなどして慎重に練り上げる。よって、この作業には長年の経験が必要である。蒲鉾の種類によってこの「練り」の作業のあと、1日ほど寝かせるものもある。



(写真3)「カマ」すり身の擂潰をする機械



(3)形成
 練ったものの形を整えていく。機械だけで作れないこともないが、社長である健氏は手作り感を重要としているため、手で形成する作業を必ず加える。
 取材した日はおせちや長崎おでんに使われる「龍眼」を作っていた。ゆで卵を練ったすり身でくるむ。包丁等で半分に切ると卵が龍の目のようであることから「龍眼」と呼ばれる。この作業に社長も加わり蒲鉾を形成していた。


(写真4)龍眼を切ると鮮やかな黄身が現れる


(4)揚げ
 形成したものを揚げる。通常は三層構造になっているレーンに、練ったものを載せてあげる。
 先述した「龍眼」は球状であるので、金網を用い、手作業で揚げる。機械で揚げたとしても、揚げる時間やタイミングは人の目で判断することが大切だ。



(写真5)揚げる機械         


(写真6)龍眼を揚げている

(写真7)手作業を大事にしている

(5)蒸す
 工場の奥にある大きな蒸し器で蒸す。


(写真8)蒸し器


(6)包装
 全ての作業を終え完成したかまぼこは包装され、各家庭に届く。



(写真9)完成したかまぼこ

3.「継ぐ」ということ

(1)岩崎健氏
 健氏は昭和33年生まれ、岩崎蒲鉾の4代目であり現社長である。23、24歳のころから岩崎蒲鉾で仕事をし始めた。最初から継ぐ気であったというわけではない。「継げ」といった圧力もなかったという。もともとは着物屋に就職したが、病気になったことがきっかけで着物屋を辞めざるを得なくなった。そこで家業であった岩崎蒲鉾を継ぐことになったという。
 「今後お店をどうしていきたいか」という質問を投げかけた時、「それは息子だ」という返答を得た。健氏自身は「65歳でバトンタッチ」と考えており、その後は息子である亮一氏に社長の座を引き継ごうとしているようであった。
 
(2)岩崎亮一氏
Ⅰ.「継ぐ」にいたるまで
亮一氏は健氏の息子である。亮一氏もまた、最初から「継ぐ」ことを決めていたわけでなく、健氏からは「継がなくていい」とさえ言われていた。調査当時は29歳。前職のサラリーマンを辞めた2012年夏以降から岩崎蒲鉾で働き、修業中の身である。亮一氏のライフヒストリーをもとに、「継ぐ」に至った経緯を明らかにしていきたい。
 亮一氏は高校卒業後、福岡の大学の経済学部に進学した。在学中、就職活動を経て第一希望であったウェディングプランナーに就職が決まっていた。しかし卒業が半年遅れ、ウェディングプランナーの内定は辞退せざるを得なくなった。その後フォークリフトを販売営業する仕事へと就職を決めた。夏卒業であったため、フォークリフトの会社に春に就職するまでは岩崎蒲鉾を手伝っていた。亮一氏はこのことを振り返り「これ(なりたかったウェディングプランナーを諦めたこと)が転機だったかもしれない」と話す。
 フォークリフトの営業の仕事は給料も良く、土日祝休みで福利厚生も充実していると言えたが、仕事内容は大変であった。フォークリフトはもともと数多く売れるものではない。営業の結果1ヶ月に1、2個売れれば良いのだが、その1、2個を買ってくれるところを見つけるのが大変だったらしい。ここで「精神的にもしんどいし、営業は向いていない」と考えるようになる。
 同時期、亮一氏は結婚をすることとなり、生まれ育った環境を振り返って考えた。私立の高校と大学に進学していた亮一氏は、改めて自分を育てた「オヤジ」である健氏を尊敬した。そして営業の仕事を離れ、岩崎蒲鉾を継ぐことを決断。家族に「仕事辞めてつぐけえ」と話したという。

Ⅱ.父との関係性

 亮一氏は「岩崎蒲鉾が120周年を迎えるまでにしっかりできれば」と語る。亮一氏が37、38歳を迎える頃である。いつ社長になるか具体的に決まっているわけではないが、「自分がいつ代わってもいいような準備をしておかなければならない」と考えている。
 例えばすり身の配合について亮一氏が健氏に質問する場合、「どうすればいいですか」という質問の仕方はしない。「こうしようと思いますけど、これでいいですか」といったような、あくまで提案するように聞くのだという。仕事内容について亮一氏が決定した上で確認を社長に委ねる。
 また健氏は亮一氏にとって「オヤジ」であり、「社長」である。亮一氏が蒲鉾屋で働くようになり、結婚を経たため、親子で一緒に住むことはないが、仕事・地区の消防団・年末の夜警で行動をともにする。仕事の時は「社長」と呼び、会社を離れると「オヤジ」と呼ぶ。ただし、仕事とプライベートで態度がまるっきり変わるわけではない。

Ⅲ.今後の展望

 亮一氏が岩崎蒲鉾を継いでやってみたいことは大きく分けて2つある。
 ひとつは工場をきれいにしたいということである。岩崎蒲鉾は2つの建物つながったような作りになっており、片方があとから増築されたようだ。この2つの建物の床の高さが異なるため傾斜が生まれ、水路の確保が難しくなっている。衛生管理が厳しくなっていることもあり、工場兼事務所であるこの建物を建て直したいと考えている。
 もうひとつは、かまぼこの販路を広げていきたいということである。現在岩崎蒲鉾の商品は長崎県内での販売が主である。それを今後県外に広げていきたいという思いがある。2014年からは展示会に行ったり営業活動をしたりしている。亮一氏は「オヤジのモットーはおいしいかまぼこを作ればお客さんがそれを広めてくれる」と話す。今あるかまぼこの味を変えたいであるとか、会社を無理に大きくしたいというわけではない。しかし何も行動を起こさなければ会社が傾きかねない。営業活動を通して県外でもかまぼこを販売できるルートを作り、かまぼこを広めていきたいと話す。
 
第2章 古田勝吉商店

1. 来歴

 古田勝吉商店の創業は明治10年。初代古田勝次が長崎の居留地でドイツ人のジャーラン 氏のもとで清涼飲料製造の修業をしたところから始まる。勝次は熊本の天草で成吉の四男として生まれ、長崎に出てきた。その後明治13年合資会社古田商店(長崎市外浦町)として創業する。勝次の他に亀太郎や京太郎らと設立した。この時、ジャーラン氏からラムネ製造の設備を受け継いだのではないかとされる。明治30年古田商店に冨永吉太郎が入社し、その後勝次と吉太郎の2人で古田商店(長崎市平戸町)を設立する。
 勝次に子はおらず、明治44年に生まれた吉太郎の実子である勝吉が勝次の長男として入籍した。この時勝次は57歳であった。大正12年に勝次が70歳でなくなるが、当時勝吉は13歳であり、継ぐのには早すぎた。そのため勝吉が継ぐようになるまで、吉太郎が実質的な2代目をつとめた。
 明治42年大村町に、大正8年現在の古川町に転居する。会社組織として有限会社となったのが昭和47年、勝吉の代であり、屋号として勝吉の名前を用い、現在に至る。
 現社長は3代目古田滋吉氏、代表取締役専務が古田雅義氏である。



(図1)家系図を示したもの


(写真10)二代目 古田勝吉


(写真11)店の歴史を語る看板



2. 家業

Ⅰ.手引きラムネ

 創業当時は先述したように清涼飲料製造をする会社であった。主にラムネ・シャンペンサイダーを製造していた。その後、順調に販路を広げていき、葡萄酒・ソース・かき氷に使うシロップも製造するようにもなった。「手引きラムネ」は創業者である勝次が発案したものである。当時は戦争が世界各国で行われており、世界平和を願い、握手をモチーフに「手引き」の図案を考えた。
 昭和46年に製造業を中止する。製造は諫早の業者に委託した 。現在も製造は大阪の会社に委託している。

Ⅱ.自動販売機のオペレーター

 現在の仕事の95%は自動販売機のオペレーターの仕事である。自動販売機オペレーターとは、飲料メーカーの自動販売機の設置・管理・メンテナンスをする仕事である。担当している自動販売機は市内全域に及び、約500台管理している。同業者からすると少ない方であるという。以前からラムネを卸していた小売店自動販売機を設置してもらえたことで、販路を広げることに成功した。以前の「手引きラムネ」などの卸販売は5%ほどだ。
 手引きラムネ製造販売から現在の自動販売機のオペレーターにいたるまでの過渡期には大手飲料メーカーの清涼飲料水を小売店に卸すこともしていた。また、昭和の頃、清涼飲料の売り上げが落ち込む冬の副業として、灯油の販売をしていたこともあったという。

(写真12)手引きラムネのラベル


(写真13)明治30〜40年代に実際使用されていた化粧瓶

3.「継ぐ」ということ

 話を伺ったのは代表取締役専務の古田雅義氏である。昭和48年生まれ、4代目にあたる。幼い頃から周囲の大人に「跡継ぎ」と呼ばれたこともあったが、「後継ぎがピンときてなかった」と話す。また現社長の雅義氏の父である滋吉氏に言葉にして「継いでほしい」と強制されることもなかったという。

Ⅰ.「継ぐ」にいたるまで

 雅義氏は高校卒業後、長崎を出て東京の大学に進学し、農業土木を学んだ。理系である雅義氏は、大学での学びの中で砂漠の緑化などに興味を持ったが、将来活躍できるフィールドが海外であること、また国内で働くとすると公務員や農機具メーカーとなることに気がついた。将来「働く」ことを考えれば、思っていた未来とのギャップに気付き、研究室に所属する前に大学退学を決意する。大学3年の前期で退学した。
 もともと美術が好きだったことから、大学退学の半年後、鹿児島の教育大学に進学を決める。家族の反対もあったようだ。教育学部の中で、中学美術の免許を取得し、教師の道を進もうと決意する。しかし、その頃は団塊の世代が引退をする前で採用枠も少なく、就職が厳しい時期であった。非常勤講師の臨時採用などの枠も待つ、いわゆる「就職浪人」も選択肢として考慮した。
 「就職浪人」について悩んでいた期間、父である滋吉氏と二人で話す機会があったという。その時腹を割って話すことになった。雅義氏は思い切って「継いでほしいんか」と尋ねた。滋吉氏は「口に出さなかったけど継いで欲しい意識はあった」「戻ってこい」「継いでもいいじゃないか」といった内容を語った。ここで「継ぐ」ことを決意、2000年に入社する。26歳のころである。
 入社後は大手清涼飲料品メーカーへ出向する運びとなった。横浜で自動販売機のルートを勉強し、現場の仕事を経験する。鹿児島時代の長期休暇を利用して家業を手伝うこともあったが、長崎と売れる量が全く異なり、大都市圏の自動販売機管理は大変であった。2001年には長崎に戻り、古田勝吉商店で働く。

Ⅱ.他業種とのつながり

 雅義氏は長崎市商工会議所の青年部に所属している。この青年部は47歳までの店の後継者が入ることが出来るという。異業種交流ができ、都会のドライな経営の雰囲気とは異なり、狭いエリアでの商売だからこそ「濃いつながり」「人脈」が大切であり、魅力であると語る。
 また、商工会議所でのつながりで平戸にある老舗日本酒メーカーの後継者と出会う。互いの問題点を解決する、斬新なアイデアをプレゼンテーションし、専門家に評価されるビジネスコンテストで見事優勝した。商工会議所に所属する後継者たちは皆様々な職種であるが、「どこでどう仕事に結びつくか分からない」と雅義氏は話す。

Ⅲ.抱える悩みと今後の展望

 現在の主な仕事内容は先述したとおり、自動販売機のオペレーターである。この仕事は昭和60年代から行っている事業である。創業当初から飲料水を扱っていることに変わりはないが、時代の変化とともに製造業から卸売り、自動販売機管理、と業態が変化していることもまた事実である。
 雅義氏は、現在安定している自動販売機オペレーターという仕事に危機感を覚えることもあるという。自動販売機オペレーターの仕事の実情を2点述べる。1つ目はいつまで安定しているか分からないということである。自動販売機が日本に定着したのは昭和最後から平成にかけてである。自動販売機のビジネスモデルが治安上の問題から受け入れられていない国もあり、日本で今後ずっとこのシステムが続く保障がないという点を危惧している。
 2つ目は薄利多売である点だ。飲料品は大手メーカーが主導権を握っており、オペレーターの会社自体は飲み物1本当たり10〜15%の利益しか得られない。これから移動費人件費などの経費がさらに必要であるため、純利益はこれよりも少ない。このため効率よく自動販売機を回り、管理しなければならない。とくに夏に売り上げを伸ばす清涼飲料水は、体力的にも厳しい仕事といえる。1時間に2、3台の自動販売機を回り、飲み物を補充し、数をこなす。女性には過酷過ぎるので向いていないといえよう。
時代に合わせて業態が変化してきた古田勝吉商店であるが、今後雅義氏も時代に合わせた商売がしていきたいという。先述した日本酒メーカーとのコラボ実現のようなことも、ゆくゆくは目指せれば、と語る。「継いだ以上はそれで飯をくっていかないといけないですから」これは継いだものにしか味わうことのできない宿命感なのかもしれない。
最初から継ぎたいと思っていなかった雅義氏は、仕事を通して会社の長い歴史を理解するようになる。継続すること自体、なかなかできることではないと気づき、「バトンもらったからにはしっかりしていきたい」と考えるようになった。雅義氏の子供はまだ幼いため、この「バトン」をどう引き継ぐか、具体的な構想があるわけではないようだが、「どんな時代になっているか分からないが、バトンを渡せるような立派な会社になっていれば」と話した。

第3章 平野楽器店

1. 来歴

 創業は安政7年とされている。しかし、店の記録が具体的に文章として残っていない。今平野楽器店は所有するビルの一階に位置するが、明治時代、同じ場所に存在した建物の棟入れにあった年号を創業の年号としている。店の名前は、時代ともに変化しているようで、残る看板から確認される。明治時代には「平野商店」「平野楽器」と名乗るときもあった。
創業者は平野源四郎。寺の過去帳から明らかにされた。当時のことを知るものはいないようであった。現在の主人は6代目平野慶介氏である。

(写真14)左の板に、安政7年と記されている。

(写真15)以前使われていた看板


(写真16)昭和初期の店の外観

(写真17)現在の店の外観

2. 家業

 平野楽器店は和楽器専門の楽器屋である。仕事内容は、大きく分けて二分される。小売りとして楽器を販売する仕事と、職人としての修繕の仕事である。扱う楽器は三味線・琴・太鼓・月琴などである。三味線の皮の張り替え、糸の締め替えなど小さな修理は店で行い、三味線の竿が折れるなどの大きな修理は大阪や東京の問屋に依頼する。職人の仕事は主人である慶介氏。帳面の管理などの事務的なことをその妻と母が担当する。
 一年の中で一番忙しいのは6〜10月。長崎くんちの準備期間にあたり、太鼓や三味線のメンテナンスなど、突発的な用事が増える。毎年出演する町内から注文があるという。基本的には月曜から土曜日が営業日、日曜日にお客さんの都合で用事があることもあるという。
 
Ⅰ.三味線

 三味線は一般的に6種類知られている。長唄・小唄・端唄・地唄・民謡・津軽である。音楽や芸能の種類で使い分けられる。楽器に使う皮は猫や犬で、楽器の種類によって異なる。大都市の東京や大阪では、楽器を演奏する人の絶対数が多いため、ひとつの種類にしぼった専門店もあるが、平野楽器店ではすべての種類を広く扱う。糸巻の部品も扱っている。三味線の皮の張り替えの仕事が多い。

Ⅱ.琴

 琴はもともと龍に見立てた楽器である。値段は安いものから高いもの、様々である。違いを生むのは材木の種類である。国産の木であれば高いという。琴であれば、糸の締め替えの仕事は多い。

Ⅲ.太鼓
 太鼓を作る会社は、メーカー・卸し・小売りを全てすることがほとんどである。そのため、太鼓の修理の依頼があるときは完全に外注となる。大阪の会社から仕入れているため、そこへ頼むという。長崎はペーロン という競技が盛んであり、ペーロンの船に太鼓を載せるため、水を被るリスクが高く、修理の依頼が多い。



Ⅳ.月琴
 中国から輸入され、広まったとされる楽器である。明清楽で用いられる。司馬遼太郎作の「竜馬がゆく」の中で龍馬の妻であるお龍が月琴をひく一説がある。

(写真18)見せていただいた月琴


3.「継ぐ」ということ

話を伺ったのは、平野楽器店6代目で、平野楽器店の代表、平野慶介氏である。昭和43年生まれの慶介氏は、幼いころから近所の人に6代目といわれることもあり、なんとなく後を継ぐことを意識することが多かった。しかし中学高校ではその自分の環境に抵抗感を感じたこともあったという。
和楽器には昔から親しんでいた。小学生の頃に近所の教室で習っていた。中学・高校と和楽器からは離れたもの、現在は店のお客さんとともに先生を呼んで、今も長唄や琴を習っている。

Ⅰ.「継ぐ」にいたるまで

 慶介氏は高校卒業後、東京の大学に進む。大学時代は東京の楽器屋でアルバイトをしていた。実家と取引をしていた、阿佐ヶ谷や吉祥寺にある問屋である。ここの問屋は地方から出てきた楽器屋の息子の修業の場となっており、受け入れる体制が整っていた。慶介氏の他にも3、4人、楽器屋の息子の学生がアルバイトしていた。地方出身のものもいれば東京のものもいる。彼らとは今でも邦楽器商組合の集まりで再会すると、品物の材料や問屋さんの紹介など仕事の相談や情報交換をする。
問屋でのアルバイトをし始めた頃は、演奏会で使う琴を運ぶといった、和楽器屋の後継者であるような仕事とは直接関係のない業務をしていた。
 転機は慶介氏の父、国広氏の病気である。長崎で平野楽器店を継いでいた国広氏は、慶介氏の大学在学中に体調を崩してしまった。慶介氏はこれがきっかけで家業について真剣に考え、向き合い始める。楽器の運搬の手伝いが主であったアルバイトも、意識的に楽器の修繕などを扱うようになった。例えば三味線のさおを作ったり、皮を張ったりする職人が問屋にはいるのだが、アシスタントのようにその作業をするようになった。アルバイトをする回数も増え、週5日、学校の授業の間にも問屋に通うようになる。また大学の近くに下宿するのではなくアルバイト先の近くに下宿していたという。就職活動はしなかったので、すでに「継ぐ」決意が出来ていたのであろう。大学卒業後もそこで1、2年修業をし、24、25歳で長崎に帰り、平野楽器店で働くことになる。

Ⅱ.抱える問題点と今後の展望

 長崎市には現在和楽器屋が3店舗存在する。また長崎市以外では佐世保に一店舗あるのみで、現状長崎県全体に和楽器屋は4店舗しか存在しないという。平野楽器店のホームページでも「長崎県内全域対応致します!!」とあり、「雲仙市壱岐市島原市南島原市新上五島町諫早市長崎市平戸市対馬氏、佐世保市西海市大村市小値賀町五島市松浦市波佐見町東彼杵町」まで修理を受け付けている。諫早・大村・島原に楽器店がないためである。
 和楽器業界は、慶介氏が店を継いだ時の状況より、シビアである。今後は、県下の和楽器を扱わないといけなくなるかもしれない。この現状をうけて、慶介氏は、楽器屋を個人商店の経営のあり方で存続していけるのか、ということにも疑問を抱き始めた。「息子に継ぐ・継がないはまだ分からないが、もしそうなったときまでに」形態をシフトする事業に取りかかる必要性を覚え始めた。「とある商社の事業の一環として、例えば邦楽器部門みたいなチームを組んでやってかないと今後はきつい」「ゆくゆくは組織化しないと手に負えなくなるのではないか」と話す。
 慶介氏の取り組みはまだ始まったばかりである。長崎の大学で開かれている戦略講座などを受講し、今後の経営のあり方を学び、考え始めている。また、その大学の学生とタイアップし、一緒に経営戦略を考えるワークショップにも参加する予定であるという。
 常連の客は公民館などを借り、先生を呼んで和楽器を楽しむ人、長崎くんち青年団、学校の太鼓部や琴部等である。確かに和楽器屋がなくなると、常連の客は楽器自体を楽しめなくなり、また長崎くんちという伝統的な祭りにも支障をきたす可能性がある。大都市圏に比べて楽器を演奏する絶対数が少ないのは確かであるが、長崎から和楽器屋が「なくなってはまずい」店であると語る。

むすび

 本論では、長崎市内における3店の「老舗」を調査し、家業の経営者と家業経営のあり方について、「継ぐ」ことに着眼しながら明らかにした。
 「岩崎蒲鉾」では、父である社長のもとで修業中の29歳の岩崎亮一氏に話を伺い、今後どのように長崎かまぼこを広めていくかを検討し、行動に移していることが分かった。
 「古田勝吉商店」では、すでに家業の経営の中心人物である41歳の古田雅義氏を尋ね、自動販売機オペレーターとしての仕事のあり方を考え、弱点を鑑みつつ、他業種との接触を試みていた。
 「平野楽器店」では、店の代表である46歳の平野慶介氏を尋ね、業界全体を見つめ、次世代における楽器屋のあり方を見つめ、形態をシフトすることも検討していたことが分かった。
 家業が継承されて伝統を持った「老舗」となりゆく。だが、老舗の経営者たちはその伝統に捉われることなく、しかしながら「継ぐ」「継いだ」という自覚を持ち、常に今の時代に合わせた家業のあり方を見つめていることが分かった。

謝辞

 このレポートを書くにあたって、たくさんの方のあたたかいご協力を頂きました。
 お話を聞かせていただき、工場も見学させていただきました、岩崎蒲鉾株式会社の社長岩崎健さん、岩崎亮一さん、岩崎はつみさん。後日蒲鉾をとても美味しくいただきました。突然の訪問にも関わらず、仕事内容について熱心に教えてくださり、長崎の観光までお手伝いいただいた有限会社古田勝吉商店の古田雅義さん。貴重な作業場でさまざまな楽器を紹介していただきました平野楽器店の平野慶介さん。本当にありがとうございました。このレポートが完成いたしましたのは、貴重なお仕事の時間を割いて調査にご協力していただいた皆様のおかげです。拙い私のインタビューに熱心に答えていただき、ありがとうございました。


参考文献

総務省統計局「家計調査(二人以上の世帯) 品目別都道府県庁所在市及び政令指定都市 ランキング(平成23年(2011年)〜25年(2013年)平均)」,統計局ホームページ,(2015年2月15日取得,http://www.stat.go.jp/data/kakei/5.htm
帝国データバンク「長寿企業の実態調査」(2013年)(2015年2月25日取得,http://www.tdb.co.jp/report/watching/press/p130901.html
長崎蒲鉾水産加工業協同組合 「長崎蒲鉾水産加工業協同組合について」(2015年2月15日取得, http://www.surimi.or.jp/info.html
長崎かんぼこ王国「長崎かんぼこ王国とは」(2015年2月15日取得,http://kanboko-oukoku.jp/about.html
平野楽器店 (2015年2月15日取得, http://www.hiranogakki.info