関西学院大学 現代民俗学 島村恭則研究室

関西学院大学大学院 現代民俗学 島村恭則研究室

松原鎌と松原八幡―長崎街道松原宿民俗誌―

中村優花

目次
はじめに
1章 松原
 1節 長崎街道松原宿
 2節 松原八幡神社
2章 松原の鍛冶屋
 1節 平家の落人伝説と伊東家
 2節 松原の鍛冶屋
3章 田中鎌工業
 1節 田中鎌工業
 2節 4代目田中勝人氏
 3節 田中鎌工業のこれから
4章 馬場家
 1節 鍛冶屋の衰退
 2節 馬場家
5章 「ベンチャーの神様」としての松原八幡
 1節 松原出身の起業家
 2節 ベンチャーの神様
結び
謝辞
参考文献





はじめに
  長崎の手打刃物は県指定伝統工芸品である。おもな生産地は島原・長崎市蚊焼・大村市松原の三か所で、島原では農機具、蚊焼では包丁、大村では松原鎌・包丁が目立つ。全盛期には多くの鍛冶屋が刃物を制作していたが、時代の移り変わりとともにかなり減少してしまった。その中でも特に鍛冶屋が多かった松原は、20軒近くもあった鍛冶屋が現在3軒にまで減っている。
本稿では、松原で行った調査をもとに、松原の鍛冶屋の現在と過去を記す。そして鍛冶屋が多かったという松原のまちについて、地域で信仰されている松原八幡神社との関わりから述べていく。
1章 松原
1節 長崎街道松原宿
長崎街道は福岡県の小倉と長崎を結ぶ街道であり、大村宿と彼杵宿の間にある宿場町である。(図1) 大村湾に面するこの地域は元々半農半漁のまちであったのだが、源平合戦ののち神奈川にある鶴岡八幡宮の分霊を祀るようになり、幕府の管理も入るようになった。管理者として派遣されたのは、源頼朝を育てた伊東家の分家筋の人物で飫肥(旧伊東藩)から派遣された。また、15世紀に平家の鍛冶屋の子孫がこの地で鍛冶を始めたことをきっかけに工業化も進んでいった。
江戸時代に長崎街道が整備されると、大きな宿場である大村と彼杵の中間地点ということもあり、松原は下級武士などの休憩地点として栄えた。その休憩所であった松屋旅館は、復刻されて地域住民の集会所として現在も活用されている。(図2) 終戦後には鍛冶屋が約20軒、パチンコ店や映画館もあるにぎやかな町であった。今松原では、「これまでの伝統(歴史)を守ろう」と考える人々と、「ここにはもう何もないから古いものはなくそう」と考える人々で意見が分かれている。
工業や宿場だけでなく相撲も松原では盛んである。墓地に力士の墓があったり、力士の写真が飾られたり、松原八幡神社や小学校には土俵がある、といったように地域で老若男女に親しまれている競技である。(図3、4)
また、松原は鍛冶と深く結びついている。それは、この地域にある松原小学校の校歌に、童謡「村の鍛冶屋」を参考にした「鎚の音響く」という部分があることからも見て取れる。松原の鍛冶屋については次章で詳しく述べる。

 図1 明治30年〜40年ごろの松原宿。「かじや」という文字がいくつも見られる。

 図2 旧松屋旅館 夏にはこの場所を使って寺子屋宿を行っている。

 図3 松原八幡神社境内にある土俵

 図4 旧松屋旅館に飾られていた力士の写真
2節 松原八幡神社
   八幡神は日本全国で信仰されている武道の神であり、松原八幡神社でも例外ではな い。松原刃物の発祥となった鍛冶師は、八幡神社が武道の神であるがゆえにこの境内で刀や鎌などの刃物を作り始めた。(図5、6)
 松原八幡神社は一度壊されている。戦国時代、キリシタン大名で知られる大村純忠が自身のキリスト教信仰を領民にも強制したため、領内の寺社や先祖の墓所を破壊してしまったのだ。松原八幡神社もその時に取り壊されてしまったが、その後江戸幕府による禁教や仏教が奨励されたタイミングに松原八幡神社は再建された。
 しかし、現在の松原八幡神社の社殿は再建当時のものではなく、古くなったものをさらにもう一度新しく立て直したものである。立て直しには地域住民に募った寄付が使われた。その寄付金のうち8割は、松原出身の起業家である田崎甚作氏(田崎真珠創始者)によるものであった。(図7) 田崎甚作氏は八幡神社再建以外にも市民会館の緞帳や小学校のプールなど、松原の様々なものに寄贈を行っており、息子俊作氏も境内の灯籠を寄贈している。

図5 松原八幡神社正面

図6 松原八幡神社本殿

図7 境内にある田崎甚作氏の胸像

図8 境内の灯籠。田崎甚作氏の息子「田崎俊作」の名が大きく刻まれている。
2章 松原の鍛冶屋
1節 平家の落人伝説と伊東家
 「平家の落人伝説」とは、源平合戦で敗れた平氏側の人間が各地に逃亡したことをきっかけに日本各地で語られる伝説である。松原の鍛冶屋も元をたどると「平家の落人」が祖である。松原に伝わる伝承によると、日向国に逃げた平家の刀匠並衡行泰(なみのひらゆきやす)の子孫にあたる人物が1474年12月に松原の八幡神社で刀を鍛え、農民には月型の鎌(この型の鎌が現在松原鎌と呼ばれるものである)を初めて作ったとのことである。(図9)
 この鍛冶屋は1624年ごろには松原姓を名乗っていたのだが、のちに後継者がいないことが問題となる。そこで、松原八幡神社別当を務める伊東家から養子を迎えて鍛冶の技術をつないだ。しかし二、三代後には鍛冶屋は「松原」姓ではなく「伊東」姓に代わっており、恐らく伊東家の力の方が松原家よりも強くなってしまったと思われる。
 その後、伊東家は鍛冶の技術を継承し続け、弟子や分家へと技術が広がっていった。(図10) 

図9 月型の鎌。柄に近い部分が少し出っ張っているのが松原鎌の特徴である。

図10 松原の鍛冶屋の系譜 
2節 松原の鍛冶屋
 松原で作られる刃物は主に包丁や農民のための道具や、名産品真珠貝に用いる道具であるが、元々は刀鍛冶から始まったのが松原の鍛冶屋である。松原では、初めは刀鍛冶の余業として鎌などを作っていたのだが、1615年からの元和偃武以降は刀の需要が激減してしまう。さらに、刀鍛冶自体も需要に対して多すぎたので、鍛冶屋は農鍛冶に転じざるを得なかった。それでも松原の鍛冶屋は刀も作ろうとしていたが、藩から農具・鎌・包丁を作るように要請を受けたために刀を作ることはなかった。ただ、佐賀に移った松原の鍛冶屋の中に刀鍛冶をやる者はいたのだが、柄師と砥師がいなかったために続けられなかったのだそうだ。 
 全国的に鍛冶職人の間では11月上旬に鞴祭が行われている。どのような神を祀るかには地域差があるが、供える物はミカンや餅など似通っている祭りである。(森栗茂一,「伝播技術独占の結果としての伝承―沖縄の奥間鍛冶屋伝承と鞴祭―」,『日本民俗学154』9-104,1984年)
ところが、松原では11月ではなく1月2日に「鞴祭」を行っていた。その内容は現在で言う一年の初叩きをする「火入れ式」であるが、この地域では「鞴祭」という名で行われていたようである。この祭りは今ではもう行われていない。なぜかというと、ベルトハンマー(図11)が導入されたことにより一人で作業ができるようになったため、相槌を打つ必要もなくなり、技術が途絶えてしまったからである。
  ここからは、大村工業高校教諭・高場正喜氏の資料と、田中鎌工業4代目の田中勝人氏への聞き取り調査をもとに、鍛冶屋の商売と組合について時系列順に述べていく。(高場正喜,「大村松原鎌の地理的考察」,1957年)
 長崎において手打刃物で有名な蚊焼・島原は製造販売業であるのに対し、鍛冶屋の軒数が一番多い松原は製造と卸を個人で行い、原燃料や製品の仕入れ、販売は他の業者に任せるという形を伝統的にとっている。そのため、情報の共有や価格協定の必要から組合が重要になってくる。
(1) まず1844年ごろ、松原の鍛冶屋は17軒あり、職人同士で「傷鎌」と呼ばれる商品にならない鎌を少しでも減らすべく研究会を行っていた。のちにこの研究会に規約が作られ、「鍛冶仲間中」という組合が結成された。
(2) 1866年ごろ松原の鍛冶屋は16軒であり、組合は「鍛冶屋寄合」という名称に変化した。このころ、大村、松浦、諫早、島原、五島、佐賀、唐津、天草に刃物を卸している。
(3) 1870年ごろには19軒の鍛冶屋があり、商人に任せていた原燃料調達・仕入れ・販売を引退した松原の鍛冶屋が行うようになる。しかし、この体系は後継者不足により1897年ごろに廃れ、製造と卸を鍛冶屋が行い、他は業者に委託という形に戻ることになった。
(4) 1890年には鍛冶屋は15軒あり、組合規約は改定され、名称も「松原村鍛冶組合中」に改称された。この時15軒のうちの4軒は組合規約に同意せず付き合いを止められたのだが、同意しなかった鍛冶屋に職人が集まらない、経営に支障を来すという問題が生じたため、組合規約に同意して組合へ加盟した。
(5) 松原の鍛冶屋たちは家ごとに商標を持っているのだが、伊東宗家系の鍛冶屋は菊の商標を使い、値段も価値も他の印のものより高かった。(図12) 1906年ごろにはこの菊印の鍛冶屋が全17軒の鍛冶屋のうち6軒あった。
(6) 1910年は日韓併合の年である。松原の鍛冶屋もこれに合わせて販路を拡大し、次いで満州にも拡大した。こうして松原鎌は全盛期を迎える。今でも、韓国では松原特有の根元の方に出っ張りがある月型の鎌を見ることができるそうである。
(7) 1913年から洋式製鋼の玉鋼(洋鋼)を安来、広島のほか大阪や長崎から仕入れるようになるが、手打刃物に洋鋼が合わず、2,3年後には洋鋼は使われなくなった。また、このころ輪番制で年に2回播州鎌、土佐鎌、越前鎌の産地へ設備の視察を行っていた。他にも研究会や品評会が行われていた。
(8) 1937年になるとベルトハンマーが導入され、大正期に年間約70,000丁であった生産力が、倍の140,000丁にまで拡大した。制作にかかる時間も1丁当たり60〜70分が約40分にまで短縮できるようになった。また、このころから洋鋼が本格的に原料に使われ、1939年に組合は「松原鎌工業小組」に改称された。
(9)太平洋戦争が始まると、国が九州では松原のみを農具製造工場に指定したため、資材は十分に配給された上に職人の徴兵も控えられた。また、刀鍛冶から始まった松原鍛冶ということもあり、三菱兵器工場で製作される軍用新刀の下請けも行っていた。
(10) 1944年、組合は「松原鎌工業施設組合」に改称され、このころ燃料が木炭から大島炭鉱から仕入れる石炭、コークスに変わる。終戦と同時に松原の全盛期は終わりを迎えるが、1947年に「松原鎌工業協同組合」が新しく結成された。しかし、需要の激減や食料不足のため専業農家に転じたり、他業種への転業が相次いだりしたため17軒あった鍛冶屋は10軒にまで減ってしまい生産力も年間70,000丁にまで低下した。
(11) 1975年から現在にかけて人手不足や後継者不足を解消すべく機械化がさらに進んでいるが、鍛冶屋は3軒にまで減少してしまった。農業の機械化も進んだため、鎌の需要が減り、包丁の比重が高まっている。
(12) 1985年ごろ、蚊焼、島原と共同になり「長崎手打刃物協同組合」が県からの要請で新たに作られた。代表は、軒数が多い松原から田中鎌工業の三代目昇氏が務めた。これにより、県外視察、調査、資料作成の補助金を得られるようになり、組合で一括して柄を仕入れるようにもなった。しかし、人件費や会費などコスト面のデメリットや、職人の減少、さらには鹿児島の鍛冶屋組合の倒産を受け「同じようなことになるのは格好悪い」という田中鎌工業4代目勝人氏の考えにより、2005年に解散された。
(13) 現在は工場によって作業のペースが異なるため各々で仕入れを行っているが、仕入れ先の廃業もありうるので、その場合に代替となる仕入先についての情報交換や価格調整のために「長崎県手打刃物組合」という組織が存在している。

図11 ベルトハンマー これにより相槌がなくても作業ができるようになった。

図12 家ごとの商標 包丁や鎌に刻まれ、どこの工場で作られたかを判別する手がかりとなる。
3章 田中鎌工業
松原で現在も操業されている鍛冶屋は朝長家、林田家、そして田中家の3軒である。この章では、田中鎌工業4代目の田中勝人氏への聞き取り調査をもとに現在も続く松原の鍛冶屋について述べていく。
1節 田中鎌工業
 田中鎌工業(図13、14)は、伊東家の技術を継承した朝長家の元で焼き入れをしていた初代と、朝長家の弟子として職人をしていた2代目が独立した鍛冶屋である。独立には馬場家と豊竹家の助言と援助があり、それぞれから得意先を1軒譲り受け実現した。
 作業場の見学については、危険である上に面倒であるからと一般的には受け入れられないが、田中鎌工業では3代目昇氏の頃から積極的で、向かいにある松原小学校の見学も受け入れている。ちなみに4代目の勝人氏は松原小学校の卒業生であり、PTA会長も務めたことがある。
 現在田中家では3人で製造作業を行っており、製造する刃物の8割は包丁である。柄付けの作業はすべて勝人氏の母が行う。包丁の柄は淡路や福井から仕入れており、鎌の柄は兵庫県小野から仕入れており、刃物の材料である複合材、鉄も小野から仕入れている。
田中鎌工業では一部は通販も行っているが、長崎街道と逆にある国道34号線に面するログハウスでの直接販売や長崎、佐世保での催事出店を主としている。結婚や一人暮らしの人への贈答に購入する客が多く、引き出物や「縁を断ち切る」「道を切り拓く」という意味の縁起物としても多く購入される。
また、鍛冶屋以外に農泊も兼ねており、月に2回ほど、大村特産品直売所「おおむら夢ファームシュシュ」からの研修者、地域を知りたい人、家族との交流したい人など様々な宿泊者を受け入れている。(図15) 鍛冶の体験もできるので、体験を目的に来る個人客も多い。宿泊者が来る際にはBBスタイル(Bed & Breakfast)で田舎の家庭らしいもてなしをする。

図13 田中鎌工業周辺の地図。

図14 長崎街道沿いにある看板。勝人氏とそのいとことで作成された。丸囲いの周は田中家の商標であり初代周一氏に由来するもの。この商標から、田中鎌工業の鎌は「周鎌」とも呼ばれている。看板のものはデザインされているもの。
2節 4代目田中勝人氏
 勝人氏は大学で機械を専攻し、20歳の時に田中鎌工業を継いだ。継ぐことは当然のことという認識であり他の道を考えるということはなかったのだが、初めのうちは「地味な仕事だから」という理由で受け入れられず、10年ほどたってようやく鍛冶職人という仕事を受け入れられるようになったのだそうだ。
 勝人氏は幼少の頃から両親の作業をよく見てきており、鉄が高価な時代には父の三代目とスクラップ屋に行って機械を分解し、ネジ、モーター、材料になる鉄を探していた。この時の分解の経験は、作業用機械の故障を察知したり修理したりする際の感覚を養うこととなったという。
 勝人氏自身は後継となる息子には具体的な技術ではなく、鍛冶屋に必要な感覚のみを伝えている。また、より早く覚えられるよう、農泊で知り合った東京のカメラマンに自身の作業風景を撮影してもらった。その動画をYoutubeに上げたところ世界中で視聴され、動画をきっかけにアメリカのバイヤーから注文が入ったこともあった。
 柔らかい鉄に硬い鋼をつける和包丁を作ってきた田中鎌工業であるが、現在は和包丁に切れ味は劣るステンレス製の包丁も少しずつ増やしている。というのも、現代のシステムキッチンに対して包丁だけが古い和包丁ではいけないという勝人氏の思いがあるからである。しかし、ステンレスであっても鋼を付けるといった工夫を行い、特に「叩く(=手打する)」ことにはこだわっている。
 現在田中鎌工業では「男の包丁」というオリジナル商品を取り扱っている。包丁には出刃包丁と菜切包丁の2種類しかなく、形としてはすべて同じものである。しかし、「新商品を作ったら」などの客の声から、自身の技術を活かせるものを作ろうと生み出されたのが「男の包丁」であった。(図15) 柄からすべてをこだわりぬいた包丁で、値が張るが手間暇をかけ鍛冶屋の技術を目いっぱい詰め込んだものとなっている。
 また、「男の包丁」を作るにあたり、勝人氏には「笑顔がこぼれる食卓にできるものを作りたい」という思いがある。バブル期までは父親は接待などで家にいないことが多かったが、バブルが弾けると父親が家にいる時間が長くなり、これによって家族全員が集まって食卓を囲む機会が増えた。勝人氏の父も「1日1回は家族が集まって飯を食わんば」と言っていた上、勝人氏自身も台所に立って料理をし、家族で食事をすることから、「父親がさっと切れる包丁で作り、ちゃっちゃと料理が並ぶような食卓なら笑顔がこぼれる」と思ったのだという。
さらに、勝人氏の幼少の頃は男性が井戸端で包丁を砥いでいた。そのような「『古き良き日本的な光景』を男性に思い出して使ってもらいたい」という思いもあり(鈴木隆文,「刀鍛冶の音が鳴る」,2008)、「男の包丁」を作ることになった。
また、現在は「男の包丁」に次ぐオリジナル商品として、「和鍛冶開封刀」というペーパーナイフを販売している。(図16)
昔は「作れば売れる」という時代であったが、今は「好まれて初めて売れる」時代であり、どのような商売をするかが重要である。また、実用性よりも見た目が重視されるため、オリジナリティを出せるように勝人氏は今でも様々な挑戦をしている。

図15 「男の包丁」。波打つような模様の刃である。柄には真珠がはめられている。

図16 「和鍛冶開封刀」 どれも形が異なる。
 次に鍛冶屋の作業風景についてである。
鉄を打つ作業は職人を中心にして道具が配置されており(図17)、最小限の移動で済むようにされている。一つの道具にも多様な使い方ができるようになっており、勝人氏は「鍛冶屋の仕事は無駄がない」と話していた。例えば図18の道具は単純に台として使えるのはもちろん、鍬を曲げたり均等に延ばしたりもできる。(図18) しかし鍛冶の作業の中で最も重要なのは、赤くなった高温の鉄を持つはさみである。鍛冶屋は何種類ものはさみを用いてあらゆる形状のものを持つのである。(図18)
手打作業にはベルトハンマーと鎚を使い分けるのだが、ベルトハンマーは速く、まっすぐに打つ際に用い、鎚による手打ちは微妙に延ばす際に用いる。(図19) この写真で打たれているのは小出刃包丁という長崎のような漁師町でよく使われる包丁である。鯵や鯖を大量にさばくには重い包丁では疲れてしまうので、負担が少ない薄い包丁が必要になる。また、同じ包丁で魚も野菜も切るという長崎の特徴に合った包丁が小出刃包丁である。ちなみにこの特徴は四国でも見られる。

図17 職人を中心に炉、台、ベルトハンマーが配置されている。はさみや作業途中のものも見られる。

図18 一見変わった形をしているが、あらゆる部分が作業に使える。

図19 ベルトハンマーを用いた作業。この写真中央で打たれているのは小出刃包丁。
 砥ぎの作業は図20のようにもたれて行う。松原は量産を求められた場所であり、もたれることで作業効率を上げる。この機械で使われている砥石は大阪、奈良、京都など全国から取り寄せており、図21の砥石は天草の天然もので貴重品である。また出ている火花は花が開くようなものとそうでないものの2種類があり、炭素量によって違いが出る。花が開くようなものが鋼による火花であるが、この火花が目に入らないように注意しなければならない。勝人氏は今までに何度も目に入ったことがあり、自分でとったり眼科に行ってとってもらったりしたそうだ。しかし、目に入らないようにメガネをかけることはない。その理由は、メガネをかけると見にくくなるからである。
火花の危険性以外にも、次の刃物に持ち替える際に機械などにひっかけて足に怪我を負う危険もある。3代目昇氏も過去に大怪我をしたことがあるそうだ。

図20 砥ぎの作業中

図21 島原の天然の砥石。貴重品である。
3節 田中鎌工業のこれから
 まず先に田中鎌工業のログハウスについて触れておきたい。(図22)このログハウスは勝人氏と友人のお手製である。この友人は元々田中鎌工業にそば包丁を買いに来た客(以下N氏)だが、長崎はそば文化の地域ではないため、より良いそば包丁を研究すべくこの客にそば打ちを教えてもらったことから交流が始まる。その後も多趣味なN氏からコーヒーの焙煎方法も教わっており、そうして付き合いを続けていくうち、N氏から「木があるからログハウスを作りたい」と投げかけられた。ちょうどプレハブの売り場を作ろうとしていたので承諾し、その後休日を中心に作業を進め、1年後の2006年に販売所としてオープンしたのである。
現在、田中鎌工業ではログハウスの販売所と自宅の2か所で販売を行っているため、商品が片方で不足するという事体がたびたび起こる。そのため今後はログハウスのみで販売を行おうと考えており、ログハウスの増改築を計画している。その際にはログハウスにトイレを付け、N氏に教わった自家焙煎によるコーヒーを出し一服できるようなスペースを付け足そうと考えている。
新たな挑戦は材料面においてもある。田中鎌工業では、2代目の時まではたたら製鉄によってできる「ケラ」を材料に使っていた。「ケラ」は鋼や鉄の元になるもので、現在は島根でのみ作られている。たたらで作った「ケラ」による玉鋼は高価なため、今でも使うのは刀鍛冶のみであるが、勝人氏は将来息子と共にこの「ケラ」から材料を作りたいと考えている。
勝人氏はメディアへの露出へも積極的である。今、鍛冶屋が減少しているのは賃金の低さや地味さに加え、魅力がないからだと勝人氏は話す。だからこそ、鍛冶職人が元気に楽しく仕事をしていれば人が来るし、マスメディアを通して人々の共感を得られるだろうという思いがある。オリジナルのものを作り続け、活動的でい続けることが現代において鍛冶屋を続けるためには必要なのかもしれない。

図22 国道沿いのログハウス。道路を通った時にぱっと目を引く建物である。
4章 馬場家
1節 鍛冶屋の衰退
松原の鍛冶屋は稲刈りの鎌から真珠をとるための包丁へと比重を変えていったが、それでも機械化という時代の流れにより廃業せざるを得なかった。バブル期に松原から外に人が出ていってしまったことも鍛冶屋が衰退した理由に挙げられる。(図23、24)
また、職人が育つまでにかなりの時間がかかることも鍛冶屋が減少する理由の一つであった。職人に必要な技術は様々である。材料、火の性質、包丁、鍬の知識はもちろん、経験でしか分からないことがたくさんある。そのため、一人前になるには10年では足りないのである。
松原刃物を代々継承してきた伊東家も、現在は鍛冶屋を辞めている。17代目である現当主正人氏は、機械化と言う時代の流れに加え、自身が公務員になったため鍛冶屋を継がなかったのだという。

図23 廃業した鍛冶屋の工場跡

図24 図23の跡地の中。少ないが作業場の名残が確認できる。
2節 馬場家
 馬場家は田中鎌工業が独立する際に助言と援助をした2家のうちの一つである。馬場家と共に助言と援助をした豊竹家とは親戚関係にあった。伊東家から分かれたあと4代続いた馬場家であるが、今は亡き馬場鍛冶屋の4代目が25年前に市会議員選に立候補したため鍛冶屋を辞した。現在は築90年ほどであった母屋や座敷を壊し、そこで新たにデイサービスを営んでいる。(図25)
 鍛冶屋はやめたが、馬場家には今でも鍛冶屋の名残がある。それが庭石である。(図26、27) これはすり減った砥石を庭石として再利用したもので、このほかにも、使っていた砥石を漬物石としても使っている。
また、参考として馬場鍛冶屋4代目の姉・陸奥子さんによると、戦前は鍛冶屋の作業場は神聖な場であるため女性は入れなかったのだそうだ。しかし、戦争で男性がいなくなったことで女性も作業場に入り、泥付けや水で冷やすといった作業の手伝いを行うようになったとのことである。

図25 馬場家が現在営むデイサービス 

図26 馬場家の庭で使われていた砥石の名残

図27 伊東家の庭でも見られた砥石の名残。
5章 「ベンチャーの神様」としての松原八幡
  松原八幡神社は1章で述べた通り武道の神である。しかし、この松原においてはそれが少し形を変えてきている。
1節 松原出身の起業家
 鍛冶屋が真珠用の包丁を作っていたこともあり、松原と真珠には深い関わりがあった。田崎真珠を創った田崎甚作氏の出身地も松原である。(偶然かもしれないが、前章の馬場家のデイサービスで勤めていた男性も以前田崎真珠に勤めていた。) 甚作氏は松原八幡神社の社殿再建への援助のほか、松原漁業協同組合長、松原地区開発促進協議会長、大村市観光協会長など多数の要職についた。これらにより、甚作氏と田崎家そのものに対し地域住民から感謝、尊敬される存在である。
 松原には田崎甚作氏以外にも起業家がいる。その代表がラッキーグループの創業者である。ラッキーグループはタクシーを中心に様々な事業展開をするグループ会社で、タクシーで修学旅行生の案内や観光ツアーも行う。(図28)
 このほかに幸運トラックという、長崎から東北まで広く活躍する運送会社の創業者も松原出身である。

図28 長崎駅前に止まっているラッキータクシー。

図29 思案橋周辺を走るラッキータクシー。町のあらゆるところで見られた。

図30 長崎駅の電光掲示板に表示されていたラッキータクシーの観光プラン案内。
2節 ベンチャーの神様
 松原は小さなまちであるが、1節の通り起業家を複数名輩出している。このことから、松原宿活性化協議会の山口睦美氏や伊東正人氏(伊東家17代当主)は、新たな観光資源として松原八幡神社を武道の神ではなく起業家たちのよりどころとしての「ベンチャーの神様」にできたらと考えている。 

結び
今回の調査では以下のことが分かった。
1. 松原は平家の落人から続いてきた鍛冶の技術が今日まで続く地であり、長崎街道の宿場町の一つであったという歴史もあるまちである。
2. 田中鎌工業のようなベンチャー的な鍛冶屋の取り組みによって今までと違う新たな特色が生まれつつある。
3. 馬場家や伊東家のように過去に鍛冶屋であった家には砥石を再利用した庭石、漬物石という特有の使い方として鍛冶屋が残る。
4. 松原は、相撲、真珠、さらには信仰の形がかわりつつある松原八幡神社のように、様々な資源を持っている。

謝辞
   最後になりましたが、今回の調査をするにあたり長い時間協力してくださった田中鎌工業の皆様、駅から神社まで案内してくださった方、そして突然の訪問にも関わらず様々なお話を聞かせてくださった松原宿活性化協議会の皆様、馬場家の皆様、及び調査に関わった松原の全ての方々に心からお礼申し上げます。

参考文献
・「ふる里ぐるっと松原」(観光冊子),松原地域づくり推進協議会
・「平家落人伝説」,http://www.asahi-net.or.jp/~ed6t-hmc/topic3.htm ,2016年1月10日アクセス
・田中勝人(田中鎌工業有限会社),「松原鎌の歴史と現在」
・高場正喜(大村工業高等学校),「大村松原鎌の地理的考察」,1957年
森栗茂一,「伝播技術独占の結果としての伝承―沖縄の奥間鍛冶屋伝承と鞴祭―」,『日本民俗学154』9-104,1984
大村市グリーン・ツーリズム推進協会,http://www.oomura-gts.com/index.shtml ,2016年1月10日アクセス
鈴木隆文,「刀鍛冶の音が鳴る」,http://pingmag.jp/jp/2008/09/02/matsubara/ ,2008年9月(2016年1月10日アクセス)
・「ふるさと散歩 おおむら」,
http://blog.goo.ne.jp/hisayuki7/e/59edfe2b66330e6f049ea754a0ef7956 ,(2016年1月11日アクセス)
・ラッキーグループ公式サイト,http://lucky-group.co.jp/ ,(2016年1月11日アクセス)
・幸運トラック株式会社公式サイト,http://www.koun.co.jp/ ,(2016年1月11日アクセス)