関西学院大学 現代民俗学 島村恭則研究室

関西学院大学大学院 現代民俗学 島村恭則研究室

祝祭としての運動会

並川 梓

はじめに
 北海道の運動会は、春(5月下旬から6月上旬)に行われるのが一般的である。小樽も例外でなく、市内の公立小学校全27校が毎年5月の最終から6月の第一週目の土日に運動会を開催している。本州とは違う時期に運動会をすることには、気候の関係や、東京オリンピックの影響など、様々な説があるが、今回は小樽市内で行われてきた運動会の歴史的変遷と、今回の調査で明らかになった小樽市の運動会の実態を紹介する。

第一章 連合運動会の時代
(1) 連合運動会とは
 連合運動会とは、戦前(明治〜大正)に、小樽市内の小学校が合同で行っていた運動会のことである。小樽市史の記述によると、
この運動会は明治二十一年十月二十八日に住吉神社の社地で、量徳、手宮、開蒙、同致の四校、一二〇〇人の生徒が参加して行われたのが始まりで、参観人八〇〇〇人、甚だ盛会であったという。其の後稲穂、高田、小樽簡易、色内、高島等の諸学校も加わり、開催日も五月或は六月になり、場所は花園町の浅羽靖の所有地で行われるようになつたが、三十二年からは小樽公園で開かれた。競技種目は男子の手体操、亜鈴体操、綱引、二人三脚、兎跳、札拾い、人運び、女子の豆嚢送り、旗送り、遊戯等であつた。
とある。当日朝4時ごろに、水天宮山上付近で花火の上がる音がすれば、運動会決行の合図であった。市内各小学校が進軍ラッパを先頭に隊伍を組んで花園公園(現小樽公園)グランドに集合する。出し物は、各校その美を競って伝統の遊戯または行進を行った。

写真1 連合運動会の様子 小樽市花園町にある越後屋店主、越後久司さんに見せていただいた写真

写真2 花園公園へ向け出発 小樽市総合博物館蔵

写真3 連合運動会 体操 小樽市総合博物館蔵

写真4 堺小学校遊戯「旋風」 小樽市総合博物館蔵

写真5 綱引 小樽市総合博物館蔵
(2) 稲垣日誌に見る連合運動会
 市史の記述には、続いて次のようなことが書いてある。
運動会が盛んになるにつれて、これに参加する児童の為に父兄は御祭り騒ぎを演じ「中産階級の者でも、男子ならば着物、袴は必ず新調し、女子ときたら縮面緬の着物に緞子とか博多とかの帯を縦かつぎにさせ、縮緬の帯あげをぶらさげ、それに縮緬のあやだすきを背後で結んでだらりと下げ、祭礼車の行列の如くにして、公園へ練り込むという騒ぎなので、如何に下層の者でも唐縮緬の着物に唐縮緬のあやだすきは大概新調したらしかった。……当日になれば一つは我が子供の自慢と今一つは親達の遊山をかね、重箱詰の馳走を携えて押すな押すなで見物に出かけ……当日は全市休業の様に感じた」という有様であつた。この華美な服装については大きな批判が出て、学校側からの再々の注意があり、後には申し合せにより、女子は割烹服の様な上着を着用、男子は持ち合せのものを着る様にしたという。
この記述に見られるように、連合運動会は、当時市民の間でただの学校行事としての運動会としてではなく、参加者はじめ、その家族や様々な人が楽しめるイベントとして盛大に開かれていたことが分かる。
 同様なことが分かる資料として、『稲垣益穂日誌』がある。稲垣益穂氏は、明治36年から昭和16年まで小樽稲穂尋常高等小学校校長に就任していた人物であり、稲垣日誌は彼が校長就任中に日々書きつづった日記である。
明治三十七年四月廿八日 木曜日 晴
 今日は、連合運動会の件で、午前十時から各校長が区役所に召集せられたが、運動会を開くの可否については、何等の意見も聞かれず、運動会を挙行することには口調において既に決定し、其方法ばかりについて諮問せられた。会議の結果、五月廿日に挙行することに決定した。元来も小樽の運動会は十数年来継続したもので、一種の年中行事となってゐる。児童も教員も之が為めに狂気の如くなり、保護者は不必要の金銭を費やし、学科の進歩には大なる障害を与へ、イザ会がすんだと云へば、今迄過度に緊張した運動熱は、一時に沈静して殆ど痕跡なきに至る。誠に馬鹿気た会である。況んや当年は経費を緊縮し、学級を減し、教員を減し、児童をして学科の不進歩を忍ばせながら、一方に於ては殆どお祭り的の運動会を挙行して、怪しまざるに至っては、局外者からは其常識の如何を疑はるゝであらうと思う。併し、此会は他日必ず廃せらるる時機は来るであらう。真面目に考へたら出来ることで無いから。
このように、稲垣校長は、当初は必要以上にもてはやされ、華美な連合運動会に対して批判的で、開催には反対の立場をとっていたのだ。ところが、その翌年の日記では次のように記述している。
明治三十八年五月廿八日 日 午前一時頃は雨 午前六時前曇
 今日は運動会の当日であるから天気は如何であるかと心配してゐたが、昨夜雨だれの音聞える。サテ降雨となっては困ったものであるとは思ふたが、今頃の日和癖で日中は大概雨は降らぬと見込みをつけてゐた。(中略)稲穂で兵式体操をはじめると、タイムス社の記者が頻りに量徳よりズァトおちると評して居たのには遺憾に思うた。併し余が慾目で見た処もやはり量徳より劣って見えたから、局外者に其の如く見られたのも止を得ぬことである。選手の競争も六人だけ賞をとったから十分の成績ではあったが、鉄砲のうち方が悪かった為に小の組の最も早いものが落等したのが残念であった。
これに見受けられるのは、稲垣校長自身の連合運動会に対する意識の変化で、開催日の朝に天候の心配をしていたり、自校の児童の成績を悔しがったりしている姿は、すでに他の小樽市民と同様に連合運動会のファンとなっている。稲垣校長は、また日記の中で「小樽の運動界では、小学校の連合運動会、第二はボート競漕会、第三は自転車競争会、これ等は皆見物人を吸取する事の多き方である。」とも述べていて、連合運動会の市民にとっての位置づけが格別であったことが見て取れるし、さらに連合運動会の開催を記念して、記念葉書が作られたりもしていたのだ。

写真6 連合運動会開催記念絵葉書 小樽市総合博物館蔵
 このように、小樽市では、戦前から運動会というものが市民の間で特別視されていたのである。

第二章 小学校の運動会
 戦後、児童数の増加に伴って、連合運動会は廃止され、各小学校単位の運動会が開かれるようになった。
(1) 今は無き堺小学校
 小樽市東雲町の水天宮近くに、旧堺小学校跡がある。2006年に児童数の減少により閉校となった同校は、今現在も校舎を残しており、市立小樽病院高等看護学院や、小樽市シルバー人材センターや、職業訓練センターなどが建物をそのまま利用している。そして、一角には堺小学校記念室として、旧堺小学校の資料や記念品などが展示してある部屋がある。

写真7 旧堺小学校
 堺小学校は児童数が多かったころは、運動会を花園公園にて開催していた。そして、当日の朝には、児童たちは学校に集合して、隊伍を組んで花園公園まで行進して入場していたそうだ。これは、連合運動会のなごりであると言えるのではないだろうか。

写真8 堺小学校運動会 旧堺小学校記念室蔵

写真9 堺小学校運動会アーチ 旧堺小学校記念室蔵

写真10 堺小学校運動会当日 花園公園へ向け出発 旧堺小学校記念室蔵

写真11 堺小学校運動会プログラム 旧堺小学校記念室蔵
 写真11に示しているのが堺小学校の昭和28年度の運動会のプログラムである。これを見て分かる通り、種目はかなり多い。さらに、児童以外のPTAや、来賓、幼児、職員が参加する種目も多数あるのが注目すべきところである。このように、児童以外の家族やその他大勢の人も参加しながら楽しめるのが運動会の魅力であった。当日は、家族だけでなく、親戚一同応援に駆け付け、会場はごった返す大賑わいであった。

写真12 PTA参加種目 旧堺小学校記念室蔵

写真13 PTA対職員の玉入れ 旧堺小学校記念室蔵

写真14 大賑わいの応援席 旧堺小学校記念室蔵
(2) 祝津小学校
 小樽市北部に位置する漁村、祝津に行ってきた。そこで出会った住民板垣フサさんに60年前の祝津小学校の運動会の記憶を聞いた。板垣さんは、祝津で生まれ育ち、現在も祝津に住んでいる。実家はやはり漁師で、自身は近年まで魚屋を経営していた。
 朝6時半ごろに花火が上がれば、運動会決行の合図である。当日は、母親が豪勢なご馳走を山のように作り、親戚を遠方からも呼び寄せ振舞っていたという。運動会開催当日は、祝津の漁業は全て休業で、これを「沖止め」と呼んだ。沖止めを行うことによって、漁師は船の仲間を運動会に呼んで、ご馳走を振舞うことができた。大きな船の持ち主は船乗りとして雇っている人たちにご馳走を振舞うことで、見栄を張り合った。ご馳走の中身は、赤飯、おいなりさん、巻きずし、煮しめ、ざんぎ、バナナなどであった。それらを重箱に詰めてリヤカーに乗せ学校まで運んだ。中には、獲った魚やほたてなどを校庭に網を持ちこんでバーベキューを楽しんだり、酒を飲んでお祭り騒ぎを楽しんだりする人たちもいたそうだ。漁師たちは船の大漁旗を持ちこみ、声を張って応援した。「たなげよー!」、「されよー!」これらは漁業言葉で、それぞれ「しっかり持ちあげろよー!」、「どけよー!」といった意味合いである。これらの言葉も会場で飛ばされ合っていたそうだ。
 祝津小学校の運動会は、ただの学校行事としてではなく、大人も子供もみんなが楽しめる娯楽として存在していたのだ。
(3) 高島小学校
 祝津の隣町、高島もまた古くからの漁村である。高島小学校を約40年前に卒業した住友晴美さんに40年前の高島小学校での運動会の記憶を聞いた。
 高島小学校でもやはり祝津と同じように漁村という特徴を持った運動会が開かれていたようだ。応援のための船の大漁旗が、運動場の周りの土手に並べられたり、応援のための場所取りには、前夜に船が港に帰ってきてからの漁師たちの争いだったそうである。そこでは、大人同士のケンカが繰り広げられ、当人たちはそれを楽しんでいたという。母親は朝の3時に起床してお弁当を作るのが仕事で、お弁当の中身は、いなりずし、まきずし、バナナなどがご馳走で、それらをやはりリヤカーに乗せ運んだ。親戚を呼んで、花見のような酒盛りを大人たちが楽しんでいたのを覚えているそうだ。当日は、学校にわたがしの屋台が出たりして、まさにお祭りだったそうだ。観客は家族だけでなく、地区内の魚の加工場の労働者などもたくさん来ていたのを覚えているそうだ。それらの人々もみんな一緒になって参加して楽しんでいたのが、職場対抗リレーという種目だった。酔っぱらった大人たちがどんちゃん騒ぎをしながら走り回る姿を見てみんなが楽しんでいたという。小学生だった住友さんが思い出に残っている種目は、地区対抗リレーで、分団ごとにチームを作って走るリレーだそうだ。

第三章 運動会の現在
(1) 若竹小学校
 小樽市若竹町にある若竹小学校の教頭先生に現在若竹小学校で行われている運動会の様子をお話していただいた。

写真15 小樽市立若竹小学校門
 若竹小学校では、毎年5月の最終日曜日に運動会を開催するそうだ。時期は絶対にずらせないそうで、その理由としては、それより前にすると雪解けが進んでおらず、なかなか練習ができなく、またその翌週には地域の祭りが開かれるので、毎年5月の最終日曜日と決まっているそうだ。若竹小学校では、運動会を午前の部、午後の部と2部に分けており、午前の部を低学年、午後の部を高学年の競技に割り当てている。プログラムを見せていただくと、やはりわりと町の中の小学校ということもあってか、競技内容に特に変わった点などは見られなかった。だが、児童以外に幼児とPTAの種目が用意されており、それに参加した人たちには、記念品を贈与しているそうだ。応援に来る観客は児童の両親、祖父母、従兄弟やその他の親戚、近所の知り合いをはじめ、学区内に2つある老人ホームには毎年案内状を送っており、毎年10人ほどの来客があるそうで、大変な賑わいを見せるという。昼食は、10年ほど前までは家族で焼き肉をしたり、団らんを楽しんでいたが、現在はPTAの声などを受け、焼き肉、飲酒、喫煙が規制されて、昼食も児童は家族とは別に児童だけで取る形になっているそうだ。規制が進んでも、やはり多くの人が運動会を楽しみにしていて、応援の場所取りはみんな必死である。若竹小学校では、前日の14時からPTAが中心となって、並んでいる順番に場所取りをさせているそうだ。毎年40家庭くらいの親が押し掛け、14時からの場所取りと決められているにも関わらず、早い人で朝の7時から並び始めるらしい。
(2) 祝津小学校
 祝津小学校の教頭先生にも運動会の様子を紹介していただいた。

写真16 小樽市立祝津小学校
 現在祝津小学校に通う児童は12名で、昔は漁業関連の家庭ばかりだった祝津も、今は小学生の家庭8軒のうち1家庭のみになってしまった。そういった変化もあり、戦後の祝津小学校の運動会とは雰囲気もがらりと変わったが、児童が12名しかいない小学校の運動会は、大人も参加しなければ成り立たないということで、地域の人々や家族も競技に積極的に参加するそうだ。漁業家庭の減少に伴ってか、現在は沖止めという制度もなくなった。だが、種目に漁業関係のもの(子供が釣り真似をしたり)を取り入れたり、また、運動場の上空に吊るして飾る通常の国旗の代わりにはたくさんの漁船の大漁旗を飾り、漁村独特の運動会の伝統を守ろうという意識も見られる。それらの大漁旗は、祝津の漁師たちの寄付であり、年々その数は増えていっており、見せていただいたものの中にはかなり年季の入ったものもたくさん見られた。

写真17 運動会の飾りに使う大漁旗(祝津小学校)

写真18 運動会の飾りに使う大漁旗(祝津小学校)

写真19 運動会の飾りに使う大漁旗(祝津小学校)

写真20 運動会の飾りに使う大漁旗(祝津小学校)
 また、現在児童の家庭は8家庭しかないので、場所取りをする必要性はまったくないにも関わらず、伝統を変えないためにも、くじ引きによる場所取りの制度は続いているそうだ。当日はキャンプ用のテントを張って、その中でやはり母親の作ったご馳走を家族、親戚と食べるのが楽しみとされている。雨で順延ともなると、児童の親から「せっかくご馳走こしらえたのにー!」というような苦情が入るくらいだというから、最近の運動会のお弁当もやはり中身は豪勢なのであろう。

むすび
 紹介してきたように、小樽市では、昔から運動会が市民の娯楽として親しまれ、重要視されてきたが、近年は児童数の減少や、トラブルを避けるために規制を増やしたり、親や教師たちの運動会に対する価値観の変化により少しずつ伝統の形から新しい形へと姿を変えつつある。しかし、昔からのスタイルに愛着を持つ市民は多く、今後も小樽ではみんなが楽しめる運動会が続いていくことだろう。また、博物館の石川直章先生が、このまま児童数の減少が続けば、連合運動会復活!?なんていう話もある、ということをおっしゃっていたのが印象的だった。

謝辞
今回の調査にあたり、越後久司さん、水口忠さん、板垣フサさん、住友晴美さん、若竹小学校教頭今井兼之先生、祝津小学校教頭相澤正人先生、小樽市総合博物館石川直章先生、島村恭則先生など多くの方のご協力を賜りました。御礼申し上げます。
引用・参考文献一覧

「第十二章 教育と文化 学校行事」『小樽市史』第二巻、敬老社印刷所発行、(1963)
『稲垣益穂日誌』第9巻、小樽市博物館発行、(1988)
『稲垣益穂日誌』第11巻、小樽市博物館発行、(1988)