目次
序
第1章 職人集団の系譜
1.長崎有薗義肢製作所
2.長崎かなえ
第2章 義肢職人の技術
1.職人への志向
2.師弟関係と国家資格化
3.製作過程
第3章 義肢職人のアイデンティティ
1.環境
2.技術
3.コミュニケーション
結び
謝辞
参考文献
参考URL
序
事故や病気によって四肢を切断し、これまであったはずの機能を突然失うことがある。義肢とは、義手・義足をさし、何らかの理由で手足を失った、または先天的に手足がない人にとっての手足の代わりになるものである。装具とは、筋肉が麻痺して手足が不安定なときや手や足が変形しているとき、その部分を支えたり矯正した位置に固定したりするために使われる。
日本の義肢装具の歴史を大まかにたどる。『わが国では明治になるまで、義肢が用いられたという記録がないようである』(武智1981,p138)。初めて義足を用いたのは、明治初期の歌舞伎役者三世沢村田之助であることが知られている。日本での製作は、明治時代から広がりを見せるが、それ以前にも自製の義肢が作られていたといわれている。輸入の製品に手が出ない庶民たちはアイデアを振り絞り、竹などを使って自ら製作していたようだ。そして、明治32年初めて義肢の製作を専門としたのが奥村芳松である。また自らが切断者であった鈴木祐一が「義手足纂論」を出版したことも大きなトピックだ。これが日本で最初の義肢専門書といえる。その後、皮肉にも度重なる戦争を通して製作技術は発展を続けた。傷痍軍人には無償で義肢が贈られたが、実際的効果は低く、名誉や社会復帰のシンボル的役割でしかなかったのが現実である。昭和62年には国家資格・義肢装具士が制定され、それまで師弟関係で繋いできた職であったが、国家試験を受け資格を取得したものだけが就ける職に変化したのである。
義肢装具士とは「医師により処方された義肢や装具等の採型・採寸ならびに装着・適合を行う国家資格を持った医療専門職」(日本義肢協会ホームページから引用)である。この義肢装具士や理学療法士、作業療法士そして医師らがチームとなって切断者を支え、リハビリテーションを繰り返しながら切断者の社会復帰を目指す。
本研究は、義肢職人(本稿では義肢装具士を含め義肢装具の製作に携わる人をさす)に着目し、彼らの語りを聞き取り、その心意を明らかにする。彼らの持つ技術や医学・医療の面より、その技術や環境から滲む職人自身の想いや価値観に焦点を当てる。
今回、調査フィールドとしたのは長崎県長崎市である。長崎市には義肢製作所が2カ所存在する。どちらの義肢製作所も長崎大学病院の近くにあり、またその周辺には整形外科をはじめとする病院や薬局が多く目に留まる、まさに医療のまちであった(地図1)。
(地図1)長崎有薗義肢製作所と長崎かなえの位置
Google Map https://www.google.co.jp/maps/@32.7684465,129.8647543,17zより引用
お話を伺った長崎有薗義肢製作所と長崎かなえに勤める方々を紹介する。
長崎有薗義肢製作所
有薗努氏 義肢装具士
長崎かなえ
二宮誠氏 代表取締役 義肢装具士
北村大輔氏 義肢装具士
池田健也氏 義肢装具士
小木曽慎氏 義肢装具士
原良憲氏 設計・開発担当
第1章 職人集団の系譜
1.長崎有薗義肢製作所
長崎有薗義肢製作所の系譜を追うと、鹿児島県川辺町に辿り着く。川辺町は、知覧町・頴娃町とともに合併し、現在は南九州市となっている。川辺町は古くから仏教信仰が盛んで、仏壇の主要生産地でもある。昭和50年5月には国指定の伝統工芸品となった。仏壇製作の盛んな川辺町の職人の一人が、明治43年、九州の中でも極めて人口が密集していた八幡にて有薗製作所を設立した。鑿などを使う仏壇製作の技術が、義肢の製作に活かされた。更に拠点は2ヶ所に分かれ、今や九州全土に広がる。長崎有薗義肢製作所は、昭和42年に設立された(写真1)。ここから独立を果たし、昭和49年には鹿児島に北義肢製作所が設立されている。
2.長崎かなえ
長崎かなえのルーツは奥村済世館にある。奥村済世館とは、日本初の民間の義肢製作所であり、大阪の歯科技工士で医療機械業を営んでいた奥村芳松が明治32年に開いた。この奥村済世館一門の職人らが、全国へと広がっていった。その一つに香川県丸亀市の片岡義肢製作所がある。長崎かなえは、この片岡義肢製作所から独立を果たした。その経緯を紹介する。
長崎かなえは二宮誠氏の父・二宮正彦氏によって設立された(写真2)。正彦氏は昭和5年福井県出身で、戦争で焼け出され、親戚のいた香川県へ仕事を求めてやってきた。当時就くことのできる仕事は少なく、仕方なく片岡義肢製作所に就職した。昭和25年、正彦氏が20歳のときである。昭和28年、岩本氏と藤本氏の三人で片岡義肢製作所から独立し、徳島県にかなへ義肢を設立した。その1年後、正彦氏が長崎で独立するきっかけが訪れる。徳島大学の整形外科医である永井三郎氏が、長崎大学医学部に整形外科医育成の教室を立ち上げることになった。その際、義肢職人の正彦氏を長崎に誘った。これについて誠氏は、教授に見込まれたのだろうと語る。かなへ義肢設立から1年後の昭和29年、正彦氏は長崎県に長崎かなえを設立。同年藤本氏も徳島県で独立した。「かなえ」とは、三本の足を持った青銅器で、三人での独立を表しており、調和や協力という思いがこめられている(写真3)。
(写真2)長崎かなえの外観
(写真3) 長崎かなえで保存される青銅器「かなえ」
日本には数多くの義肢製作所がありそのルーツは様々であるが、この2ヶ所の製作所の成り立ちから、義肢装具が必要な場所に拠点を置き、広がりを見せたことがわかる。
第2章 義肢職人の技術
1.職人への志向
なぜ義肢職人を目指したのか、目指すきっかけはどこにあったのだろうか。
有薗努氏は、義肢装具の世界は大手企業が参入しないニッチ産業であることが理由の一つであるという。バブル時代に高校生活を過ごし、今後大手企業同士がシェアを奪い合う時代が来ると感じていたそうだ。父も義肢装具の世界で働くことから、自らもその道に進むことを決めた。
二宮誠氏は、父である正彦氏のあとを最初から継ぐと決めていたわけではなかった。正彦氏からは、継がなくていいと言われていたのだ。正彦氏の時代は資格がなく、職人としての仕事であった。資格なしに病院を出入りしていたことから、下働きのイメージが強かったからだ。「このような仕事は、やらなくていい」と言われてきた。誠氏は大学を卒業したのち、自動車メーカーで働いていた。その後、正彦氏が病に倒れ、誠氏が義肢装具の世界に入るきっかけになる言葉を告げられる。「義肢装具のオートメーション化もあり、海外では電子制御の製品が生まれている。また、坂道や階段を歩けるような義足が今後必要である。まさに今、義肢装具の世界にエンジニアが求められているのだ。義肢装具士という国家資格もできた。帰ってきたらどうだ。」と言われた。誠氏は、義肢装具士になるための学校に入学し、資格を取得した。そして長崎へ帰り、長崎かなえを継いだのである。正彦氏と共に仕事したことはなく、直接教わったこともない。しかし両者を知る者は、誠氏の考え方ややり方が正彦氏と非常に似ているらしく、誠氏も何かが繋がっているのだろう、と語ってくれた。
北村大輔氏は、祖父が切断者だったこともあり、義肢装具に興味を持った。北村氏の祖父のエピソードは、後程第三章で詳しく紹介する。高校卒業後、一度は理学療法士を目指したが、同じ学校にある義肢装具士になる道へと進んだ。
池田健也氏は、もともとものづくりが好きだった。高校の同級生から義肢装具士という職を知り、「かっこいい」と感じたことがこの道に進むきっかけとなった。また、ものづくりの中でもとりわけ医療関係を希望していた。
小木曽慎氏は、ものづくりが好きだったが、具体的に作りたいものは定まっていなかったという。再就職の際、「なぜ工業大学に入学したのか」を問い直した時、義肢装具に興味あったことを思い出したそうだ。名古屋の松本義肢でアルバイトをしながら技術を学び、その後義肢装具士の資格を取得した。
原良憲氏は、もともと他業界の設計に携わっていた。縁あって長崎かなえと仕事を共にすることがあり、それがきっかけで長崎かなえの社員として義肢装具の開発を担当することになったのだ。このようなことになるとは、全く想像もしていなかったと語る。
2.師弟関係と国家資格化
昭和62年、「義肢装具士」という国家資格が生まれ、義肢装具の採寸や装着、適合は資格を持つ者だけが携わる職となった。それまでは、ルーツごとにそれぞれの技術で義肢装具を製作し、師弟関係で伝承していた。就職、というより丁稚奉公であり、下働きとしての色が非常に濃かった。義肢に触ることができるまで3年かかり、一人前と認めてもらえて初めて賃金を受け取っていたようだ。
国家資格化したことは、義肢職人という存在や業務を社会的に認める証となり、これまでの下働きのイメージは拭われたのではないだろうか。義肢職人ら待望の資格化であったが、それ以前に広がっていた職人世界が大きく変化したわけではない。資格の認定が国家試験によるものとなったことで、全国一定の技術水準が設けられた。しかし、学校は国家試験に通過するための学びがほとんどである。解剖学をはじめ、論理で理解していく部分が多い。実践的な製作については、就職してからでないとわからないことが多く存在する。義肢装具は、様々な素材が存在し、断端の症状や切断部位、年齢や性別などユーザーに合わせた製作が求められる。このような技術を数年間の学校で学び終えることは難しく、配属後の現場で習得していかなければならない。
義肢は平均して3年に一度作り替えを行う。ユーザーおかかえの職人となり、その先もマンツーマンで歩んでいく。この担当が、今世代交代を迎えようとしている。これまで受け持ってきた先輩職人から、若手の職人へ担当を渡しているそうだ。先輩職人側から全てを教えることはなく、自ら試行錯誤を繰り返して技術を磨いていく。
つまり国家資格化を果たした今も、技術の習得や伝承法に大きな変化は見られない。職人にとって重要なことは、実践的な現場に存在する。失敗も含め、経験を重ねて学びつづけていくものである。
3.製作過程
義肢ができるまでの過程の一部を紹介する。まず型を取るために、石膏を含ませたギプス包帯で採型する。出来上がったものは陰性モデルと呼ばれる。採型した陰性モデルに石膏を流し込んでできるのが陽性モデルである(写真4)(写真5)。これをもとに製作していく。
小木曽氏は、装具を装着することによって生まれる左右の差を解消するための、ソールをつけた靴を製作していた(写真6)。細かく測るのではなく、勘が大切だという。装具は注文を受けてから約一週間で完成させる。3,4点の製作を同時進行で行うこともある。
第3章 義肢職人のアイデンティティ
1.環境
職人を取り巻く環境に注目する。
北村氏の祖父は、戦後工場で勤務していた。ある日、頭上から鉄板が落下したことから足を切断することになった。現在の技術があれば、切断する必要はなかったのかもしれない。義足は持っていたそうだが、使用しているところはほとんど見かけなかったという。当時の医療技術で切断した足に義足が合わなかったため、杖を使い生活していたそうだ。その後、長崎県の福田という港町で漁師をしており、蒲鉾の材料の魚をとり自宅でちくわや蒲鉾を作っていた。北村氏が義肢装具士になり、祖父が病に倒れ病院にいたとき、北村氏が、義足の使用を持ちかけたが、断られてしまった。切断の仕方が義足の適合しにくいことと、長い間杖を使用していたからであると思われるが、少し悲しかったと当時を振り帰る。
原氏の祖父は、中国出兵の際地雷を踏んで足を失い、義足を利用していた。義肢装具の開発に携わるようになったことで、棒上の義足を使って歩きにくそうにしていた祖父のこと改めて考えるそうだ。
2人とも義肢職人になった今、改めて祖父のことを回顧していた。つまり、彼らの義肢職人という自己認識が、切断者であった家族を想うことに繋がったのである。また自身が切断者であることが、義肢装具を作ることに繋がっている職人もいる。
長崎は三方を山に囲まれたすり鉢状の地形である。平地だけではなく、山の斜面にも住宅地を作ったことから、坂や階段が非常に多い。有薗氏は現在の長崎県の製作所で勤務する以前、福岡県の製作所にいた。怪我の違いについて、福岡県の人は平地が多く階段をあまり使わないためか、アキレス腱を切る人が多い。これに対し、長崎県の人は足の小指の骨折が多いように感じるという。地域によって必要となる装具に違いがあるようだ。
長崎かなえはNPO法人長崎斜面研究会に所属している。斜面研究会とは、斜面のまちづくりを民間の立場で、様々な角度から研究している団体である。斜面地は非常に住みにくく、車をつけてから家まで何十段もの階段を上らなければならない。脳卒中を起こした人がリハビリテーションを繰り返し、やっとの思いで歩けるようになっても、その地理的環境から家から一歩も外に出ることができないのが現状で、この状況を解決するために活動している。毎年テーマが設定され、イベントやシンポジウムが開かれる。2016年度のテーマは「空き家」である。近年空き家が目立ち、防犯面でも管理面でも問題になっているのだ。この解決法として、空き家を留学生の住む場所として提供がある。また、市民の集まる空間にしてコミュニティの生成も提案した。
義肢装具に直接的には関係の薄い取り組みに関わっているのには、理由がある。もともと斜面地の問題は義肢装具の課題でもあった。斜面地では義肢装具の利用が難しい。例えば、義足であれば、曲がった膝に体重をかけられないため、坂や階段で転びやすい。装具の例を挙げると、足関節の固定具を装着することで、平地は歩けても坂や階段では関節を曲げられないため不便になる。この状況を解決するための取り組みに加え、斜面地のまちづくりにも積極的に取り組んでいる。坂や階段の多い長崎県だからこそ生まれた発想と技術は、後程紹介する世界初の開発に繋がった。
義肢職人は、自身を取り巻く身近な環境や地域的特徴を踏まえながら、製作に励んでいることがわかる。
2.技術
義肢職人の技術に注目する。義肢職人を目指すきっかけにも大きく影響し、基盤となるのが「ものづくり」への熱意だ。就職して3年ほどで技術力を伸ばし、難易度の高い製作を任される人もいれば、そうでない人もいる。池田氏は、自分で積極的に知りたいと思うこと、上達したいと思うことが重要だという。「このような装具が欲しい」と頼まれたとき、「できません」といってその場ですぐに断ってしまうのではなく、引き受けて製作してみる。その都度周りの職人に尋ね、知識を増やしていくことも必要だ。挑戦しない人は何年経っても上達しない。資格取得後も、終わりのない技術の研磨に励んでいることがわかる。
二宮氏が20年以上かけて構想を練り、開発に原氏を迎え、数えきれないほどの試行錯誤を繰り返して完成した義足がある。大腿義足膝継手ナルニーだ。通常の大腿義足では、膝に体重をかけると膝関節部分が折れてしまうことから、膝を伸ばして上り下りする必要がある。これは非常に歩きにくく、また階段や坂道では危険である。しかし、ナルニーは膝を曲げても体重を支えることができることから平地・坂・階段を両足交互に使って歩くことができる。電子制御のタイプも膝関節のコントロールができるが、価格が高いことや、日本人には比較的大きいサイズであることから、うまく適合しない人もいる。ナルニーは営業職の人やスポーツ選手など、特に足を頻繁に使い生活する人に適している。
職人としてのスキルアップは、直接義肢装具を利用するユーザーの役に立つ。「技術で人を助けられることにやりがいを感じる」と小木曽氏は語る。
3.コミュニケーション
義肢装具を使うユーザーとのコミュニケーションについて、北村氏が語ってくれた。初めて利用する方との関わり方が重要で、装着した時の感覚で義足に対する印象が変わる。体の一部を失いショックが大きい分、ユーザーの感情を汲み取りながら言葉を選び、カウンセリングを繰り返していく。
義肢装具を必要とする理由は様々だが、その中の一つに戦争による外傷がある。二宮氏はこれまで2名の傷痍軍人の義足製作に携わった。二宮氏は、「戦争時代の人はものを大切にする」と語る。作り替えは通常2年に一度行うが、担当したユーザーは約20年に一度であり、そのペースは極めて異例だ。新しく使いやすい義足を紹介しても、今使用しているものを使い続けたいという理由で断られる。そのため、壊れた部分の修理だけを行っている。修理のために自宅を訪問すると、これまで使用していた義足も大切に部屋に飾っているそうだ。ユーザーのニーズに合わせたメンテナンスが必要である。
また、担当の医師とのコミュニケーションも重要だ。池田氏によると、義肢職人側が勧めるものと医師が求めるものが一致しない場合もある。話し合いを重ねながら素材やパーツを選ぶ。
つまり、「誰」にとって何が「最適」であるかを考え、柔軟に対応している。
結び
今回の調査を通して、明らかになったことは以下の通りである。
1.義肢製作所は、義肢装具が必要な場所に拠点を置き、広がりを見せた。
2.昭和62年に「義肢装具士」の資格ができるまでは、職人の世界が広がり、師弟関係で技術を伝 承していた。
3.国家資格化を果たした今も技術の一定水準が設けられたが、習得や伝承法に大きな変化はな い。職人にとって重要なことは実践的な現場に存在する。
4.義肢職人は、身近な環境や地域的特徴を踏まえながら、製作に励んでいる。
5.義肢職人は、ものづくりの技術だけではなく、医師、ユーザーとの対人コミュニケーションに よっても、自らの役割や立ち位置を認識している。
謝辞
本論文の執筆に当たり、沢山の温かいご協力を賜りました。ご多忙にも関わらず筆者の訪問に応じて下さいました有薗努様、および長崎有薗義肢製作所の皆様、貴重な資料を貸してくださり、知識の拙い筆者にご丁寧にご説明くださった二宮誠様、北村大輔様、池田健也様、小木曽慎様、原良憲様、および長崎かなえの皆様、誠にありがとうございました。本論文が完成いたしましたのは、貴重なお仕事の時間を割いて調査にご協力してくださった皆様のおかげです。心より感謝申し上げます。
参考文献
内田秀雄,1976,「九州の漆器工芸―福島と川辺の仏壇の場合―」『奈良大学紀要』 (5), p15-31.
武智秀夫,1981,「手足の不自由な人はどう歩んできたか」医歯薬出版株式会社.
坪井良子,2002,「日本における義肢装着者の生活援護史研究」風間書房.
日本義肢協会,1992,「わが国の義肢業界の歩み」.
参考URL
一般社団法人日本義肢協会ホームページ「義肢装具士とは」
http://www.j-opa.or.jp/po_toha/po_toha.html
株式会社長崎かなえホームページ
http://www.n-kanae.jp/
長崎斜面研究会ホームページ
http://www.shamenken.jp/