関西学院大学 現代民俗学 島村恭則研究室

関西学院大学大学院 現代民俗学 島村恭則研究室

浮立踊をめぐる伝承と実践―長崎県大村市における寿古踊・沖田踊・黒丸踊の事例から―

社会学部 社会学科 爲数美智

【目次】
はじめに

第一章 寿古踊・沖田踊・黒丸踊

第一節 郡地区と踊り
第二節 寿古踊
第三節 沖田踊
第四節 黒丸踊

第二章 戦争と寿古踊・沖田踊・黒丸踊

第一節 戦時下における大村
第二節 寿古踊
第三節 沖田踊
第四節 黒丸踊

第三章 黒丸踊・寿古踊・沖田踊の復活

第一節 黒丸踊
第二節 寿古踊
第三節 沖田踊

第四章 上田家と法養

第一節 法養堂
第二節 上田家の過去帳
第三節 御示し
第四節 黒丸踊保存会と上田家

結び

謝辞

参考文献


はじめに

 今回調査を行った長崎県大村市は、「長崎市の北東に位置する。西部は大村湾に臨み、北は東彼杵郡東彼杵町、東部から南東部にかけては北高来郡高来町および諫早市、北東部は佐賀県藤津郡嬉野町太良町と接する。北部に郡岳(826メートル)・遠目山(849メートル)・経ヶ岳(1075.5メートル)などがあり、これらを水源とする佐奈川内川・南川内川などが郡川に合流して北西部で大村湾に注ぐ。南部は大上戸川・内田川・鈴田川などが南西流して同じく大村湾に流れ込む。うち大多武を水源とする鈴田川は、流路延長5.7キロ、流域面積18平方キロ。多良岳が水源地の郡川は流路延長15.93キロ、流域面積54.69平方キロ。市街地は西部に広がる大村扇状地に形成される。大村湾側にJR大村線長崎自動車道国道34号が南北に通り、国道444号が北東に分岐する。大村湾海上空港として開設された長崎空港とは箕島大橋で結ばれる。」(平凡社:333)というような地域である。
 この大村市には、郡川流域に寿古・沖田・黒丸町という3つの地区がある。寿古町は、「大村平野(大村扇状地)の北部平坦地で、郡川下流右岸に位置し、大村湾に臨む。地名の由来は、文明12年領主大村純伊が6年間の流浪の末、帰郡したお祝いに肥前須古(注)から来た者が教えたという須古踊が伝えられており(大村郷村記)、この踊名から名づけられたと考えられる。室町期に大村純治が築いたといわれる好武城跡、天正2年キリシタンに殺害された仏僧阿乗を祀った大日堂がある。」(角川書店:540)沖田町は、「郡川下流左岸に位置し、大村平野(大村扇状地)の北部平坦地。条里遺構が見られることから古代より開けた所で、大村地方最大の水田地帯の中心地に当たる。したがって地名の由来は、広々とした水田のある所の意と解することができよう。文明12年領主大村純伊が6年間の流浪の末、帰郡したお祝いに肥前須古から移り住んだ中国浪人法養が教えたという沖田踊が伝えられ、国選択の無形民俗文化財に指定されている。近世にも福重村のうちで沖田郷と称している(大村郷村記)。」(角川書店:247)黒丸町は、「郡川下流左岸の三角州に位置する。西部は大村湾に面し海岸線が続く。地名は、丸は場所や土地を示す語で、畑地などが黒土の肥沃地であることによる。近年多数の土器が出土し、黒丸遺跡として注目されている。当地周辺は大村でも最も古くから開けた所といわれ、郡川上流に沿い「郡七山十坊」といわれた中世寺院が多く建立された。当地には浄宮寺・本来寺などの寺院が存在したことが「大村郷村記」に見える。また、大村紀伊守良純の墓や旅館も地内に残る。文明年間頃、郡村に中国地方の法養なる浪人が来住して黒丸踊を教示したという。黒丸踊は「大さつま」と号され、のちに当地の定踊になった(大村郷村記)。江戸期には「元禄郷帳」「天保郷帳」に見える村としては郡村に属す地であったが、大村藩領内では郡村は竹松・福重・松原の3か村に分けられ、当地は竹松村内の地であった。「大村郷村記」によれば、竹松村は「先年」に竹松・原口・黒丸の3か村に分かれ、それぞれに庄屋が置かれていたが、文化11年の藩政改革にともない黒丸・原口の両村は再び竹松村に合併したとある。江戸期の一時期、大村藩領内では黒丸村として一村をなしていたことがあったらしい。なお、同書によれば、寛永12年の検地によって竹松村に散在する黒丸村の飛地が竹松村に編入され、その代償として竹松村内の中村分が黒丸村に編入されたことがあり、このため黒丸村は中村とも称されたという。」(角川書店:373)
 地名の説明にもあったが、この3地区には古くから伝わる浮立踊があり、今も保存会などを中心として伝承と実践を行っている。浮立踊、浮立とは「佐賀県を中心とした肥前一帯に見られる、はなやかな作り物や仮装などをした芸能。風流の一種で、浮立の字をあてて、フリュウ、フウリュウなどとよびならわしている。浮立には笛・鉦(鐘)・大太鼓・小太鼓などの楽器を用いる囃しそのものをさす場合と、またこれらの囃しに合わせて、とりどりの衣装を纏った踊り手が所作を繰り広げる踊りや舞をよぶ場合がある。前者では囃し方がそれぞれの衣装を身につけ、大太鼓・小太鼓・鼓が中心となってリズミカルな奏楽をかなでる皮浮立、大鉦や小鉦が中心の鉦浮立などがある。後者では鬼面を付けた踊り手が集団群舞する面浮立をはじめ、頭上に大形のクワガタを付けた踊り手が舞い躍る天月(天衝)舞浮立、毛鑓や奴などが登場する行列浮立、獅子浮立、踊り浮立、舞浮立などがある。旧武雄領に伝わる荒踊りやかんこ踊りなども浮立といわれる。厳粛な神事芸能や悪霊退散、豊作祈願などや娯楽的な演目などさまざまな形態で伝承されている。浮立に関する古記録では、雨乞い祈願のための浮立興行を示すものが多い。」(民俗小辞典 神事と芸能:356)
 本稿は、この浮立踊を各町が寿古踊・沖田踊・黒丸踊として、時代の変遷とともに、現在に至るまでどのように受け継いできたのかということを中心に、保存会長をはじめとする、各踊りに携わる方々からの聞き取りによって明らかにしたものである。


第一章 寿古踊・沖田踊・黒丸踊

第一節 郡地区と踊り

 郡地区は、「古くから人が住み、永い歴史がある地域です。原始・古代から中世にかけては、大陸からの文化を受入れ、大村湾一帯の中心として栄えました。この地に彼杵郡の役所があった可能性も高まってきています。郡七山十坊などの寺院群の存在も、この地の古くからの文化の高さをうかがわせます。
 領主大村氏もこの地に城を構え、大村を治める拠点としました。寿古踊・沖田踊・黒丸踊は、このような古の中心地に伝わる民俗芸能なのです。」(大村市教育委員会:郡地区概観)とあるように、この地区は政治経済の中心地であったようだ(写真1)。この郡地区には、寿古踊・沖田踊・黒丸踊という3つの浮立踊があり、総称して「郡三踊」と呼ばれている。
 『大村の郡三踊 寿古踊・沖田踊・黒丸踊』によると、「3つの踊りは、約500年前の戦国時代に、領主大村純伊が、領地を回復した祝いの席で初めて踊ったと伝わっています。この3つの踊りとも、踊りの所作などに中世の芸能の形態を色濃く残しているといわれ、歌詞は室町時代の歌の形式で、節やテンポも江戸時代以前のものです。江戸時代後期に藩により村々の盆踊りが禁止された時も、この3つの踊りは藩主に関わる特別な踊りとして、踊ることが許されたほどでした。この三踊は、特別な神社などに奉納されることはなく、城内で踊るのを本来の形としたといわれ、県内でも極めて少ない中世芸能の姿を伝えるものとして、平成26年3月10日に国の重要無形文化財に指定されました。」(大村市教育委員会:1)とある。
 今回この3つの踊りを調査していく中で、郡三踊の関係性をみることができた。各踊りについてみていく前に、三踊の関係性について先に述べておく。
 はじめに本論文のサブタイトル「−長崎県大村市における寿古踊・沖田踊・黒丸踊の事例から−」は、寿古踊・沖田踊・黒丸踊という順序である。いくつかの文献のタイトルもこの順序で書かれており、寿古踊保存会会長の愛合久幸氏(以下愛合氏)によると、国の重要無形文化財指定の表彰式や郡三踊が一堂に会する行事では、必ずこの順序で表彰され、さらに上手からこの順で着席するという。また、秋祭りなどの踊りを奉納する行事の際も、この順序で踊りを披露するということだ。おそらく、寿古踊が最初であるのは、この踊りだけは藩主の大村純伊自身が踊ったとされており、何かしらの贔屓を受けていた影響ではないかということだ。それは、寿古踊を披露した際に藩主より100年以上前に贈呈されたといわれている衣装があることからもうかがえる(写真2)。
 また、戦時下からの復活の際には、文献の記述とは異なり、各踊りが伝承を手伝ったとされている。愛合氏によると、沖田踊の笛は昭和50(1975)年に寿古踊が教えるなどして、復活を遂げたということである。他にも、道中それぞれの踊りの笛や太鼓が足りないときには、協力しあっていたという。昭和元(1926)年4月に行われた村役場の落成式では、沖田踊の笛の者が足りなかったため、寿古踊の桑原亀太郎さんが代奏したという。これらは寿古踊の記録として残っているそうだ。
 さらに、郡三踊は、踊りの構成が室町時代の芸能の「序・破・急」の基本を伝えている三部作となっており、「序」が寿古踊、「破」が沖田踊、「急」が黒丸踊と表し、段々と盛り上がるようになっている。

写真1 郡地区の様子(大村の郡三踊より)

写真2 100年前から伝わる以前の衣装


第二節 寿古踊

 寿古踊とは、「大村市に伝わる浮立踊です。舞太鼓1人を中心に、周りを垣踊が囲みます。踊りは、殿様が無事に帰られたことを喜ぶ姿を表現し、舞太鼓は殿様を現し、月の輪で顔を隠して舞います。垣踊は家臣を表し、殿様を守りながら踊ることから、別名「殿様踊」といわれ、極めて優雅な踊りです。江戸時代、城内で各踊りが披露される時には、1番目に踊るならわしになっていました。
 踊りの構成は、初め地太鼓と歌に合わせ、舞太鼓を中央に置き、垣踊は、両側に縦に並び、舞太鼓は置いた太鼓を打ちながら踊ります。途中で笛が入り、次に早踊となり、舞太鼓を中心にして垣踊は円をつくります。
 歌は、祝い事にふさわしく垣踊歌をうたい、次に早踊歌という色歌で、歌詞や歌い方も、戦国時代の面影を残しています。舞太鼓も古風な打ち方で、県内でも数少ない中世芸能の姿を伝えています。」(大村市教育委員会:2)と「大村の郡三踊 寿古踊・沖田踊・黒丸踊」の寿古踊の部分に記載されている。
 各踊りや道具について詳しくみていくと、はじめに、舞太鼓(写真3)は踊りの中心であり、頭に月の輪を付け、顔を覆い、まわりながら踊るもので、領主であった大村純伊が領地回復の祝いの場で顔を隠して太鼓を打って舞ったということから「殿様踊」といわれているようだ。舞太鼓は、畳1枚ほどの広さの茣蓙の上で踊り、この茣蓙からはみ出して踊ることは、「天からお呼びした神が降りてこなくなる」という言い伝えがあることから御法度とされている。他にも、「殿様踊」といわれているため、「踊りの途中で太鼓の桴を落としても拾ってはいけない」「茣蓙にあがって踊るときに雪駄の向きを変えてはいけない」などという決まりがあるそうだ。そこで、雪駄の向きは、保存会の方など踊りについてよく理解している人が踊りの途中で変えにいくという。その際、踊る前に刀を茣蓙の左端に置いていたものも、右端に移動させる。これは、舞太鼓が決まりを守りながらそのまま退場できるようにするためであるという。
 垣踊(写真4)は、殿様を囲む家臣を表し、舞太鼓を囲みながら踊ることからこの名が付いたとされている。舞太鼓の周囲には現在10人の垣踊が囲む。しかし、「郷村記」によると、「以前は、舞太鼓1人、垣踊8人。文化11(1814)年、舞太鼓1人、垣踊4人となる。弘化2(1845)年よりまた以前に戻った。」とあることから、垣踊の人数は変化していた。愛合氏によると、大正3(1914)年までは、8人だったという。そして愛合氏の踊りの師匠の代から、今の形態に落ち着いたそうだ。この垣踊は、歌詞(写真5)にもある姫子松の模様をあしらっている青みがかった色の振袖を着て踊る(写真6)。写真7には、2つの振袖があるが、左側は大正3(1914)年11月に、寿古踊が旧大村城へ招請された時に殿様からいただいたもので、8年に1回、踊りを披露する度にこの振袖を頂戴していたという。また、愛合氏の父が7歳の時に、この振袖を着て踊ったという。現在、この振袖は愛合氏の家にしか残っておらず、大変貴重なものとなっている。そのため今、寿古踊を踊る際は右側のものを着ているのだが、現代の染の技術では、昔の繊細な色味を出すことが難しく、時間が経つとともに、青みがかった色になってしまうそうだ。また、振袖の「寿」という文字は、寿古踊の「寿」を意味しているのではないかということだ。そして、この振袖の下には白地の肌着(写真8)を着て、頭には笠をかぶり、腰には右側に瓢箪、左側に印籠を身に付ける(写真9)。また、四手と呼ばれる紫色の鉢巻のようなものをつける(写真10)。四手とは、玉串や注連縄などに垂れ下げているもので、これをつけることには神事的な意味合いがあるそうだ。
 つづいて、早踊は、写真11のように、垣踊が舞太鼓を円で囲むように踊る。円をえがいて踊り、動作が早いことから、この名が付いたとされている。
 踊りについては以上であるが、その他の衣装・道具についてみていく。写真12のように、踊り子付添いと呼ばれる殿様や家臣の腰元を現した役があり、踊り子の母達が訪問着を着てその役を担っている。右手に差している白と紫色の日傘には、飾りものがついている(写真13)。この日傘には特別な名前は付いておらず、飾りは昔からお雛様などにみられ、おめでたいときに作られていたという。米俵や猿、達磨などがつけられていたが、何をつけるかという決まりごとはなく、見た目がきれいだということで、様々な飾りがつけられているという。
 また、写真14のように、傘鉾がある。傘鉾のまわりは、7尺1寸、つまり2メートル13センチほどで、沖田踊の傘鉾よりも12センチ程大きいらしい。この傘鉾の重心部分には、使われなくなった寛永通宝がバランスをとるために73個巻きつけられているそうだ。これは、当時の部落の数と同じで、おそらく部落から集めていたという。長崎くんちの傘鉾にも、同じようなことが施されているそうだが、寿古踊の方が先に行ったといわれているらしい。
 そもそも寿古踊は、「肥前須古の人がきて、帰郡のお祝いに踊りを教えた」と「郷村記」にあるように、他の2つの踊りと違い、法養という人物が教えたとはっきりとはわかっていない部分がある。しかし、他の2つの踊りと入羽の笛の音色や囃子方が同じことから、法養が伝えたのかもしれないという言い伝えもあるそうだ。
 また、寿古踊は、3年に1度、持ちまわりの年のみ、大村市主催の「花菖蒲まつり」と「おおむら秋まつり」にしか出演しないという。それは、踊り子付添いの衣装である訪問着を夏場は着ることができないためであることと、着付けなどに費用がかかるために、お呼ばれされたとしても、3年に1度だけしか披露できないという。
 道具や衣装の管理は、寿古踊保存会ではなく、踊り子たちが各自でしているとのことだ。そしてこれらは、資金がないためなかなか交換することができず、40〜45年ほど使っているという。
 また、寿古踊というのは、佐賀にも同じ名称の踊りがみられるようだが、顔を隠して踊るのは大村市の寿古踊だけであるとのことだった。

写真3 舞太鼓(大村の郡三踊りより)

写真4 垣踊(大村の郡三踊より)

写真5 寿古踊の歌詞(大村の郡三踊より)

写真6 姫子松模様の衣装

写真7 左側:以前の衣装 右側:現在の衣装

写真8 着物の下に着る肌着

写真9 笠・瓢箪・印籠

写真10 四手をつける様子

写真11 早踊(大村の郡三踊より)

写真12 訪問着姿の踊り子付添い(大村の郡三踊より)

写真13 様々な飾りのついた日傘

写真14 寿古踊の傘鉾(大村の郡三踊より)

第三節 沖田踊

 沖田踊とは、「大村市沖田町に伝わる浮立踊で、長刀を持った踊り子と小太刀を持った踊り子(写真15)が向かい合って踊ります。囃子方は〆太鼓・横笛・鉦・歌い手(写真16)があり、行列の時は先導・幟・傘鉾がついています。
 踊りは円陣をつくり、小太刀は内、長刀は外で向かい合って立ち(写真17)、歌に合わせて笛・鉦・鼓の合奏で踊り、別名「なぎなた踊」ともいわれます。服装は黒装束です。歌詞は華やかで美しい恋歌で、歌い方はゆったりしたものです。
 なぎなた踊と呼ばれるものは、各地にありますが、それらは主として長刀同士向かい合った演舞になっています。長刀と小太刀を切り合いながら踊る形は、県内だけではなく九州でも珍しいものです。」(大村市教育委員会:4)とある。
 また、「大村の沖田踊」には、「大村の沖田踊は、文明12年(1480年)大村純伊の大村帰城祝に、肥前須古村から来た法養が教えて踊らせたといわれ、明治以降も継承され、戦中、戦後の一時期途絶えていたものの500年にわたり継承されてきた、伝統的な民俗芸能であります。」(大村市教育委員会:はじめに)とある。
 上記にあるように、踊りを教えたとされる法養については、沖田踊保存会会長の沖田秋徳氏(以下沖田氏)と副会長の宮下栄蔵氏から沖田町公民館にてお話を伺ったとき、以下のようなことが書かれた額を見せていただいた。それは、「郡中学校西境界から西へおよそ250メートル、現在の松本義昭さん宅には、古くからの宅地でかつて「ワジ小屋」(写真18)と呼んだ「ワラぶき」の家があったそうです。
 法養は、家主の所に身を寄せ沖田踊りを教えました。その後、家主は事情があって法養を連れて黒田へ移り住んだということです。以上は、沖田又吉さん(沖田三次さんの3代前)が語った内容です。」とあった。記録にあるように、家主の事情とはおそらく、用地のトラブルだったのではないかという言い伝えがあるという。そして、移り住んだ“黒田”という土地とは、現在の黒丸地区にあるという。また、「ワジ小屋」のあった場所には、現在、記念碑が建てられているそうだ。
 踊りや衣装・道具についてみていく。「『郷村記』の伝える沖田踊の構成は、当初の人数は18人。9人が長刀、9人が小太刀であったが、途中で16人となり、文化11年省略の際に10人に減少したという。中絶前の昭和10年の構成は20人であった。現在も20人が基本の員数である。」(大村市教育委員会:8)とのことだが、沖田氏によると、文化11年の減少は、郷土芸能の見直しのためだったという。
 また、「踊子の服装は、『郷村記』には「以前は裁付なり、中興胖天となる」と記している。「「裁 付」は裁着・立付とも書き、たっつけ袴のこと、裾をひもで膝の下にくくりつけ、下が脚はんになっている袴である。それが途中で、江戸期流行の半天姿に変ったと記す。現在の服装は下記の通りである。
小太刀―黒衣、角帯、鉢巻(両端に飾り房)、黒足袋、手甲、黒キャハン、ワラジ。腰に印籠。小学生の長男だけで構成。
長刀―服装はほとんど同じであるが、鉢巻の代りに菅笠をかぶる。中学生の長男だけで構成。
囃子方は鼓(〆太鼓)6人。笛(横笛)8人。鉦2人。唄い手4人。いずれも菅笠をかぶり黒紋付・白足袋姿である。他に、行列の先頭を行く傘鉾(1人)幟(2人)がいる。」(大村市教育委員会:8)
 小太刀、長刀の両者ともに小・中学生の長男だけで構成とされているが、昨年より、制度を変更し、女子も登用しはじめたという。これは、少子化や踊り子の塾、クラブ活動などのために後継者確保が難しいためであることが理由のひとつにあるという。さらに、「大村文化」の「長刀は戦国時代の女子の武具でもあり且つ他地区の民俗舞踊では女子が多く踊っている」(大村市文化協会:75)という一節にあるように、歴史的な面からも女性に馴染みやすいものだという。また、沖田氏が女子の登用を決めた背景には、女性進出の世になりつつあるという時代の変化に合わせるためということも含まれているそうだ。登用の決まりの変更を後押ししたのは、大村市の隣の諫早市で受け継がれている「のんのこ踊り」が、20年前に現代のリズムにあわせるために、唄のテンポを速くしたということであったという。 沖田氏によると、伝統芸能というものは、あまり変化を好まれないものであるが、「のんのこ踊り」のように歴史として残しつつ、時代に合わせた伝統芸能にしていくという考えに大きな影響を受けたという。
 先程みた衣装・道具は、沖田町公民館にて保管されている。大きな傘鉾は、天井裏に保管されていた(写真19)。この傘鉾は鶴亀や夫婦岩があしらわれており、おめでたい意味を表しているという。その他、鉦(写真20)・鼓(写真21)・長刀(写真22)・小太刀(写真23)・菅笠(写真24)などの道具も各場所に整理されていた(写真25)。
 また、沖田踊は「郷村記」の記述や沖田踊歴史年表(写真26)にもあるように、以前は8年に1度のペースで踊られていたそうだが、現在は寿古踊と同じく、3年に1度、持ち回りの際に披露しているという。しかし、持ち回りの祭り以外にも、お呼ばれされた様々な行事にも出演しているという。今年の2月12日には、「第38回長崎県子供会伝承芸能大会」に出演し、これは女子登用変更後、初めての披露の場となり、小学2、5年生の2名が活躍したそうだ。

写真15 左側:長刀 右側:小太刀(大村の郡三踊より)

写真16 囃子方(大村の郡三踊より)

写真17 踊りの様子(大村の郡三踊より)

写真18 法養が住んでいたとされるワジ小屋

写真19 沖田踊の傘鉾

写真20 鉦

写真21 鼓

写真22 長刀(練習用)

写真23 小太刀(練習用)

写真24 菅笠

写真25 衣装・道具が保管されている部屋

写真26 沖田踊歴史年表(大村文化より)

第四節 黒丸踊

 黒丸踊とは、「大村市黒丸町に戦国時代から伝わる踊りで、中国地方の浪人法養が教え、領主大村純伊の領地回復の祝いの際に踊られたと伝えられています。
 4つの大花輪と2つの大旗が太鼓を打ち鳴らしながらゆっくり回る勇壮な踊りです。巨大な花輪は直径5メートル、重さ60キログラムにもなり(写真27)、この大花輪の下に入ると幸福が訪れるといわれます。踊りは、所作、歌とも戦国時代以前の踊りの形態を良く残しており、寿古踊、沖田踊とともに、中世の芸能を伝える踊りです。
 浮立の中の太鼓踊の一種ですが、このような巨大な背負い物を持つ踊りは、長崎・佐賀地方では珍しく、芸能の伝播を示す上でも貴重な踊りです。
 踊りは、法養の命日である毎年11月28日に法養の墓のある黒丸町の法養堂で奉納されます。」(大村市教育委員会:6)とある。
 この黒丸踊を教えたとされる法養という人物は、上野筆二郎氏(以下上野氏)によると、山口地方の人ではないかという推定があるそうだ。第三節にもあるように、法養は、はじめ沖田町にて踊りを教え、その後、黒丸町に来たという。そして、今の法養堂(写真28)のあるところに住んでいたとされているのだが、もともとこの場所は、上田家の屋敷があったそうだ。そのため法養と上田家は深いつながりがある。このことについては、第四章にて詳しくみていく。
 黒丸踊は、入羽、小踊、三味線踊という三部構成になっている。入羽(写真29)は、まず大花輪と鉦叩きが入場し、場を一周し、配置につくことを指し、これは場を清めるためだという。次に小踊(写真30)とは、踊り子が入場し、小踊(手踊)をすることである。この際、大花輪は踊りをしない。最後に三味線踊(写真31)は、大花輪と小踊が一緒に踊る。このように踊りを披露するときは、配置が決められている。配置は、写真32の通りである。
 先程もあったように、黒丸踊は文明13(1481)年、領地回復の祝いの席で初めて披露されたといわれている。この説を現保存会会長の前川與氏(以下前川氏)と副会長の上野氏は支持している。しかし、前会長の陳内忠氏は、もともと黒丸踊自体はこれ以前にもあり、偶々大村純伊が勝利し領地を回復したため、後付けされたのではないかという説を持っていた。はっきりしたことは現時点では、明らかとなっていないが、大村市のホームページでの黒丸踊の紹介や公的な文書などは、前者の説が記述されている。
 黒丸踊は、写真33の旗のように、「大薩摩黒丸踊」となっている。この大薩摩とは、薩摩藩との関わりがあるわけではなく、前川氏によると、長崎くんちで、大根や白菜などの我々の命をつなぐものを頭上にのせること(写真34)を「大さつま」と呼ぶことに関係しているという。この研究は平成22年11月より、前長崎国際大学教授の立平進氏(以下立平氏)を筆頭に、保存会会長の前川氏を含む調査委員会の中で明らかとされたものであるが、論文としては未だに発表されていない。今回は立平氏からの許可を得て引用している。
 「大さつま」の関係で長崎くんちが出てきたが、上記以外のことでも、黒丸踊はくんちとつながりがある。それは、2016年10月9日のくんちのおのぼりの日にて、初めて黒丸踊が披露されたのである。これは、黒丸地区の昊天宮の池田宮司諏訪神社の住職を兼ねているかつ、長崎県神社庁長も務め、県の郷土芸能を広めるために新しい取り組みとして行われたという。
 この他にも、長崎県西彼杵郡時津町野田には、同じく黒丸踊が存在しており、「享保1年(1716)銀の鉦と大花輪3個が残っているが、大村からの伝承と聞く。」(大村市教育委員会:10)とあるが、黒丸にいた高田さんという人物が野田に養子に行った際に真似をして広めたという。黒丸踊はもともと長男のみ踊ることを許されおり、これは門外不出にすることで、踊りが廃らないようにするためだったという。しかし、高田さんにより、野田だけには同じ唄が伝わってしまったという。未だに野田以外には、同種の芸能は存在しないといわれている。
 このような黒丸踊の最大の特徴は、下に入ると幸せになれるといわれている大花輪である(写真35)。これは、4年に1回のペースで作り替えられる。それは、呉竹に虫がつくため、最長でも4年しかもたないということと、作り替えるときにみんなが再集結することにより、踊りへの気持ちを再度まとめるためだという。制作にはかなりの時間を要するため、保存会だけではまかなえず、老人会の力も借りながら完成させるとのことだった。写真36・37のようにすべて手作業で行うのだが、和紙は佐賀県唐津のものを以前は使用していたそうだが、現在は同じく佐賀県の大和のもので(写真38)制作しているとのことである。大和の和紙は、時期外れのもので色がくすんでいることを理由に値引きをしてもらっているという。
 梅の花は、全部で1134枚あり、81本の呉竹に付けられているのだが、なぜこの数になったのかは不明であるという。しかし、梅の花については、当初、梅は中国地方の薬草で寒さに耐えながら咲くのは早いということから、生命力を感じ、モチーフにされたといわれている。
 この大花輪以外にも、太鼓(写真39)・鼓(写真40)・鉦(写真41)などのたくさんの道具が用いられているのだが、これらはすべて法養堂の中にスペースが設けられ大切に保管されている(写真42)。
 他にも、黒丸踊は、長崎空港近くにブロンズ像(写真43)が建てられていたり、保存会会員の勢戸祥市氏が経営する千登勢という旅館にも、写真44のような壁画が飾られており、市内の至るところに黒丸踊を表すものがみられる。

写真27 大花輪を二人がかりでつける様子

写真28 法養祭が行われる法養堂

写真29 入羽(大村の郡三踊りより)

写真30 小踊(法養祭当日のもの)

写真31 三味線踊(大村の郡三踊より)

写真32 黒丸踊配置図(大村の郡三踊より)

写真33 大薩摩黒丸踊と書かれている旗

写真34 頭上に野菜などをのせる様子(調査委員会報告書より)

写真35 下に入ると幸せになれるという大花輪

写真36 梅の花に色付けする様子

写真37 梅の花を竹につける様子

写真38 現在使われている大和の和紙

写真39 太鼓

写真40 鼓

写真41 鉦

写真42 道具などが保管されている場所

写真43 空港近くのブロンズ像

写真44 千登勢に飾られている壁画

第二章 戦争と寿古踊・沖田踊・黒丸踊

第一節 戦時下における大村

 「大村史―琴湖の日月―」によると、「当時の日本の国情は、明治27・8年の日清戦争に勝利をおさめたものの、ロシア、フランス、ドイツからの三国干渉を受け、国土防衛のための軍備拡大が迫られていた。この情勢から従来の陸軍7個師団から更に6個師団の増強が計られた。実はこの軍備増強策が大村にもたらされることとなり、場所は放虎原(現陸上自衛隊大村部隊の地)と選定された(写真45)。明治29年に熊本で編成された部隊は、翌30年には大村に駐屯した。いわゆる歩兵第46連隊であり、兵力1個大隊(約1000人)の編成であった。
 陸軍の駐屯により、それまで疲弊していた大村の町も、にわかに活気を呈してきた。部隊への納入業者、部隊面会者用の旅館、あるいは飲食店、料理屋など次々と営業を始め、武部には遊郭も生まれた。こうして大村は、城下町より軍都へとその姿を変容させることとなった。」(国書刊行会:274-275)
 「更に陸軍が駐屯した翌年の明治31年には、九州鉄道長崎線(現大村線)が開通し、既に開かれていた佐世保軍港と軍都大村とを結ぶ交通機関として、物資の流通が盛んに行われるようになった。
 加えて大正12年には今津の海岸一帯に海軍航空隊が開設され、大村は益々軍都としての性格を強めることとなった。
 そして昭和16年には、戦闘機零戦をはじめとする航空隊の製造に当たる第21海軍航空廠が、古賀島・森園一帯に設置された。百数十棟に及ぶ建物群、従業員3万3000人をかかえる東洋一の威容を誇った。」(国書刊行会:275-276)
 また、沖田氏によると、大村海軍航空隊の一部であった草薙部隊が黒丸、沖田町あたりまで範囲を拡大し、両町の間の地上部分には軍の滑走路があり、その下には、地下道のようなものがあったといわれているそうだ。

写真45 陸軍の駐屯地(地図斜線部分)

第二節 寿古踊

 第一節でみたように、戦争中の大村は軍都となっていたため、戦争が激しくなると寿古踊は中止を余儀なくされた。終戦後も、昭和27(1952)年の大村市市政10周年記念出演、昭和28(1953)年長崎大博覧会に出演した後は21年間休止していた。
 愛合氏によると、この後みていく二つの踊りの地区とは異なり、寿古は軍の飛行場拡張のためなどの移転を要求されることはなく、戦争前後と変わったことはなかったそうだ。ただし、寿古町にあった好武城の近くに、1,2ヶ所防空壕があったという。
 また、戦争中、寿古踊に必須の衣装・道具などは、今と変わらず各自で管理していたため、これも他の踊りと違い、国の軍事物として鉦などの金属類が没収されることはなかったということだ。


第三節 沖田踊

 沖田踊も寿古踊と同じように戦争の影響で、昭和10(1935)年を最後として、戦時中中断していた。終戦後も、昭和50(1975)年に復活するまで、長い間休止していた。
 沖田氏によると、戦争中、沖田は兵舎があったため、郡中学校付近に住んでいた人々は、移転を余儀なくさせられたという。黒丸ほどではないが、沖田も一部の地域は、軍の影響を受けたそうだ(写真46)。兵舎からは、ラッパの音が聞こえてくることもあったという。
 また、沖田が影響を受けたのは、次節でみていく黒丸の強制移転の2回目あたりと同じ時期であったという。

写真46 軍の影響を受けた沖田の地域(地図の赤色斜線部分)

第四節 黒丸踊

 太平洋戦争前(昭和10年以降)、軍の飛行場拡張がはじまり、黒丸にも年々影響がおよび、最終的には黒丸郷の3分の2の関係者が他の地区に移転を余儀なくされ、黒丸踊は昭和9(1934)年の長崎県忠霊塔落成式の出演を最後に、昭和21(1946)年8月に黒丸踊復活祭が昊天宮社殿前で行われるまで中断せざるを得なくなってしまった。
 飛行場の拡張は、写真47のように、大きく分けて2回行われている。前川氏によると、拡張移転の1回目は、現在の今津町のあたりから富の原の一部の範囲が対象であったという(写真47 ①)。2回目は、今津町・富の原の全域と黒丸町の一部まで拡大したという(写真47 ②)。この後、3回目の軍の拡張が行われる予定であったそうだが、拡張される前に終戦となったという。仮に3回目まで行われていたら、黒丸町の全域が対象となっていたそうだ(写真47 ③)。黒丸町に住むことができなくなった人々は近くの町に引越ししたため(写真47 桃色斜線部分)、今でも黒丸町以外の場所に住みながら黒丸踊に参加をしている人もいるという。
 軍の飛行場拡張も黒丸踊中止の原因のひとつであるが、戦争中、踊りの際使っていた道具、特に鉦などの金属類は軍にすべて回収されてしまった。そのため、道具がなくなり、結果踊りも披露できなくなったという。
 前川氏によると、現在法養祭が行われる法養堂の前には、写経の訓練場である本来寺があったという。「当寺は「郷村記」によると郡七山十坊の一寺院であり、所在地は竹松村黒丸の堀池であった。郡七山十坊の多くが丘陵地帯に立地するのに対して、この本来寺は大村湾海浜部に位置する。天正2年(1574)のキリシタンによる社寺破壊により廃寺となり、江戸初期の正保4年(1647)には跡地に釈迦如来堂が建てられた」(大村市:646)そうだ。前川氏は、昭和13(1938)年に現在の住まいのある宮小路に転居するまで、ここに屋敷があったという。そのため、近所の人から「ほんでじむすこ」と呼ばれていたそうだ。そのような前川氏の家も、軍の飛行場拡張の範囲に含まれたため、引越しを余儀なくされた。
 戦時中、近くの飛行場には、木で作った模型の飛行機がダミーとして置かれ、本物は、峰さんという人の家の裏にあった小さな丘(写真47 赤色の丸)のようなところに移動され、敵を騙す作戦が取られていたという。前川氏曰く、この本物の飛行機が移動するときに、家の窓ガラスが振動で割れていたので、このようなことから戦争がはじまることを感じ取っていたという。

写真47 軍飛行場の拡張範囲と移転範囲

第三章 黒丸踊・寿古踊・沖田踊の復活

第一節 黒丸踊

 これまでの章は、節に分けたときに、“寿古踊・沖田踊・黒丸踊”という順にしていた。しかし、この章だけは、復活した順に明記するため、あえて“黒丸踊・寿古踊・沖田踊”としている。
 第二章でもみたように、黒丸踊は軍の飛行場拡張のために関係者が移転を余儀なくされ、中断した。「戦後、黒丸地区が廃墟となっていた中、復活の話が当時の長老から盛り上がり、1年後の昭和21年(1946)8月に黒丸踊復活祭が昊天宮社殿前で行われ、続いて昭和23年4月に大村神社の大祭に奉納を行い(写真48)、現在の保存会の基礎ができ」た。(大村市教育委員会:17)黒丸踊保存会初代会長である土本嘉次郎氏のときに三味線の師匠であった森クマ氏の三味線によって復活したという。
 しかし、復活が戦後まもなくであったため、物資は限られていたという。前川氏によると、このとき、踊り子たちの衣装は母親の訪問着を黒に染めあげたものを代用していたという。そのため、袖の部分を光にかざすと、訪問着の鮮やかな模様が透けて見えていたという。
 また、この頃の踊り子の数は、「黒丸踊」の「黒丸踊出場記録」によると、8名であり(大村市教育委員会:38)、現在と同数であった。復活以前は、「郷村記」によると、「もともと踊り子は18人であったが、4人減って14人となり、天保11(1840)年、もと通りの18人となった。」とあることから、この復活より8人体制が確立したと考えられる。
 さらに、現在は保存会だけではなく、黒丸踊だけに後援会というものが存在する。写真49のように後援会にも規約が設けられている。この後援会は主に資金面での援助を活動目的としている。そのため、写真49には新旧二つの規約がみられるが、新規約の法人会員の経費は1口5,000円以上から10,000円と変更されている。その他、役員の任期が1年から2年への延長などと、その時の状況によって規約改定がなされているそうだ。
 この後みていく、寿古踊、沖田踊も同じであるが、上記のような復活の事実は今まであまり語られていないということが、本調査で明らかとなった。

写真48 大村神社の大祭での披露(大村の郡三踊より)

写真49 黒丸踊後援会規約(左側:旧 右側:新)

第二節 寿古踊

 寿古踊は、「昭和49年に安達清氏(以下安達氏)(初代会長)と松下貞義氏(以下松下氏)(初代副会長)の尽力により保存会を組織し、当時の各部門の師匠が集まって復興を図ります。その年の11月3日の大村まつりに出演し、見事復活を遂げました。」(大村市教育委員会:17)とあるように、安達氏が伝承していくためには今しかないと思い復活させたという。そこで、安達氏ははじめに、松下氏に舞太鼓を引き継いだという。垣踊は、愛合氏の父である愛合久一氏が教えたという。その後、愛合氏は自分が踊りを忘れてしまうといけないという思いのもと、愛合家の裏に住む叔母に一緒に覚えてほしいとお願いし、教えたという。このように、踊りの伝承は口伝えにより行われ、一部の人のみが知っている状態であるという。
 この寿古踊の中心部である、舞太鼓は復活までの間は、長男のみ踊ることが許されていた。しかし、現在は後継者が減少していることもあり、長男以外も参加することを可能としている。長男がいる場合は、優先的に採用しており、いない場合は次男、三男という順にしているということだ。また、垣踊も長男を優先的に踊り子としているが、一度終戦前に大正7〜8(1918〜1919)年生まれの女性が踊ったという記録があるそうだ。この時は、長男に限らず男性が不足していたために女性を登用せざるを得ない状況だったという。現在も、長男から優先して登用する形は変わらないが、寿古踊が復活を遂げた昭和49(1974)年頃から踊る男性がいなければ、女性を登用しているという。
 寿古踊は、寿古町73世帯、230人のうち踊り子は総勢70人で530年の伝統をこれからも大切にしていく。

第三節 沖田踊

 沖田踊は、「昭和50年に、以前に沖田踊に参加していた桑原忠氏(初代会長)の尽力により復活を遂げました。」(大村市教育委員会:17)とある。
 実際、保存会のファイルにて保管されていた、当時(昭和50年10月24日付け)の新聞記事(写真50)を見てみると「「いま再興しないと、500年の伝統をもつ郷土民踊が消えていく」と、大村市沖田郷では部落を挙げて、消滅寸前だった“沖田踊り(別名、なぎなた踊り)”を再興、11月3日、にぎやかに開く大村祭で40年ぶり市民に披露される。」という記述があった。
 また、「同郷では沖田踊り再興の実行委員会(委員30人)を結成、昭和10年に踊った人たちやお年寄りの記憶をつなぎ合わせ再興したが、太鼓のリズム、笛の音調を正確に記憶していたのはわずか各1人にすぎず、太鼓は桑原万次郎さん(83)の指導で復元できた。子供たちは公民館や学校のグラウンドで去る8月から練習を続けて再興された郷土の民踊を引き継ぎ、26日の人数ぞろえで最後の仕上げをする。」ともあった。
 しかし、第一章の第一節の後半でも記したように、愛合氏によると、沖田踊の笛は師匠がいなかったため、昭和50(1975)年に、寿古踊の笛の師匠であった塩崎栄吉さんが教えたという。そして、沖田踊の復活は、寿古踊も復活を遂げたから沖田踊もしてほしいという文化振興課からのお願いがあったためだという。このように記述と語りでは相違点があるようだ。
 また、沖田氏によると、沖田踊の唄は、以前は口伝えで伝承されていたが、戦後楽譜(写真51)が作成されたという。そして、唄の歌詞が昔と今では違うという(写真51・52)。これは唄い手がより歌いやすくするために、歌詞が変更されたといわれている。
 そして、長刀や小太刀を使用する沖田踊は、これらを戦時中、軍事物として回収されてしまった。そのため、復活させた際、長刀・小太刀は当時の人達の記憶や思いによって復元されたという。しかし、その他の金属類であった鉦だけは、現在の沖田町公民館の斜め前にあったとされる青年団集会所のワラづくりの小屋の天井裏に隠してあったため、復元する必要がなかったという。
 現在は沖田町公民館や郡中学校体育館にて、踊りの練習を行っているそうだが、戦前は学校もなかったため、「おどん庭」と呼ばれる沖田家の本家の庭先にて練習していたという。「おどん庭」は、もともと「おどり庭」と言われていたものが、方言によって「おどん」というように訛ったそうだ。
 沖田踊は、保存会275名、指導者87名でこれからも伝統を受け継いでいく。

写真50 復活時の新聞記事の切り抜き

写真51 楽譜と現在の歌詞

写真52 昔の歌詞(大村郷村記より)

第四章 上田家と法養

第一節 法養堂

 法養堂(写真53)とは、法養の命日である11月28日に毎年、黒丸踊が奉納される場所である。“法養”という名が付けられているように、この場所にはもともと郡三踊を教えたとされる法養が住んでいたといわれている。それを表すものとして、「郷村記」の「鄢丸踊之事」には「鄢丸村に來り鄢丸踊を繁へ、終に爰にて相果候由、同所百姓益左衛門屋鋪内に法養の墓とて古墓あり」という記述がある。この部分より、百姓の益左衛門という人の屋敷に法養が住んでいたということがうかがえる。そして、この法養の墓ではないかといわれている碑(写真54)が、法養堂の敷地内にある。法養祭当日は、この碑の前に色とりどりの花や供物がたくさん用意され(写真55)、11時から1時間程の法要も行われる(写真56)。また、この日だけではなく、法養とゆかりのある上田家に嫁いだ上田スマ子氏(以下上田氏)は、毎月この墓にお参りに来るという。上田家と法養との関係については、第二節で詳しくみていく。
 また、法養堂は、もともと小さなお堂で、戦後に完成したそうだ。それまでは、黒丸踊をメンバーで持ちまわり、各家の庭にて披露していたのだという。その場合、街頭もないため、物干し竿に電球を下げて、その周りで踊っていたという。

写真53 黒丸踊の碑と法養堂

写真54 法養の墓といわれている法養之碑

写真55 供物の一部

写真56 法要の様子

第二節 上田家の過去帳

 先程の第一節でもみたように、上田家と法養とは関係があるとされている。「郷村記」の一節に「百姓益左衛門屋鋪内に法養の墓とて古墓あり」とあったが、この益左衛門の屋敷には戦前まで上田家の屋敷があった(写真57)。しかし、上田家の先祖に益左衛門という人がいたかということは不明であった。そこで、前川氏の提案により、上田家の過去帳がある妙宣寺に行き、本当に益左衛門が上田家の先祖であるのかということを自分の目で確かめに行くこととなった。過去帳というものは、個人情報でもあるため、妙宣寺のご住職様からの許可と上田家の承認が必要だったのだが、お二人からご理解をいただき、今回特別に過去帳をみせていただいた(写真58)。なお、この論文に掲載している過去帳の写真も、特別に許可していただいた大変貴重なものである。
 調査最終日であった12月1日の朝、長崎県大村市福重町の妙宣寺に前川氏、上田氏と伺った。妙宣寺は、大村法華八ヶ寺のひとつで(写真59)、「矢上にある。深重山と号し、日蓮宗。本尊は宝塔・多宝如来・釈迦如来。慶長7年(1602)キリスト教の禁令後、日蓮宗に帰依した大村藩初代藩主の大村喜前が日蓮宗寺院の建立を発願、本経寺を創建して菩提寺にするとともに、祈願所として妙宣寺仙乗院を宮小路に建立したという。寺地は極楽寺金泉寺末)跡であったが、同19年水に恵まれないとして現在地に移り、深重山妙宣寺と号した。この移転に際してキリシタンらが堂宇を破壊するため裏山から大石を投じたといわれ、現在本堂の前に丹投石とよばれる石を置く。本経寺三世の日順を開山とし、三世住職のとき本経寺との間で本末争論が起き、当寺は本経寺末八ヵ寺の執頭になっており、天明6年(1786)の法華宗本圀寺派下寺院帳では本経寺末として寺号がみえる。寺領は21石、幕末期の檀家は1335軒であった(大村郷村記)。明治18年(1885)焼失、廃寺の古義真言宗の宝円寺本堂(万治3年建立)を移築している。境内から出土した天平20年(748)銘の六地蔵の基礎(大村市立資料館保管)に「紫雲山延命寺」とあり、郡七山十坊の関連とされるが、室町期の造立ともされる。また応永13年(1406)銘の宝篋印塔がある。」(平凡社:359)
 残念ながら、妙宣寺には300年前からの過去帳しか現存しておらず、益左衛門の名は見つからなかった。しかしながら、別の事実が明らかとなった。それは、沖田踊の「郷村記」に「並松の祇薗社へ踊るなり」という記述があるのだが、沖田氏はこの部分について、現在の大村市松並のあたりを当時は並松といい、祇園社があったのではないかと推測していたのだが、過去帳の中に並松と書かれたものを発見した(写真60)。このことをご住職様に話すと、妙宣寺の檀家の範囲(写真61)から、現在の松並は本経寺の範囲とのことで、おそらく昔は今の沖田町周辺に並松という部落があり、このように呼ばれていたのではないかとのことだった。

写真57 戦前の黒丸町の地図と上田家(赤丸部分:上田久一)

写真58 過去帳

写真59 大村法華八ヵ寺と妙宣寺

写真60 並松の表記がある過去帳(下段左から2番目)

写真61 妙宣寺の檀家範囲(黒色点線部分)

第三節 御示し

 上田家には、法養からの御示しというものがあったそうだ。以下は、前川氏と上田氏の語りから初めて明らかとなったことである。
 終戦後、現在の上田家のあるところに、以前の家(現在の法養堂)のところより法養の墓の上の部分(石塔)だけを上田イマ氏(以下イマ氏)が移動させたという。それは、イマ氏が墓へ行き、毎日拝むことができなかったため、敷地内に移動させることで望みをかなえるために行ったのだという。
 しかし、この後上田家では信じられない出来事が起きた。墓を移動させたイマ氏の孫である塩塚信子氏(以下塩塚氏)の目が急に見えなくなってしまったのだ。移動させたことで、法養の首と胴体の部分が切り離され、法養の怒りをかってしまったのかもしれないと思い、その後すぐに墓を元ある場所に戻すと塩塚氏の視力は回復したそうだ。
 また、昭和52(1977)年、法養の碑の後ろにある下水の通るところが詰まり、汚れていたため、上田家一族はこのことが気になっていたという。しかし、何もせずにいた時、またしても不思議な出来事が起きたという。それは、上田氏の2番目の娘である当時小学生だった小澤(上田)陽子氏(以下陽子氏)の足が突然動かなくなり、歩けなくなってしまったのだ。いくつかの病院をまわり、医者に診てもらうも、原因不明で学校に一学期間行けなくなってしまったそうだ。佐世保本光寺に尋ねたところ、法養が下水を嫌っているのが原因ではないかといわれ、2代目の保存会会長の松内理一氏の時代に保存会に相談し、下水をきれいにした翌日、陽子氏は何もなかったかのように歩けるようになったという。
 前川氏も上田氏も語りの中で、法養のことを法養様といい、法養が上田家を守って下さったという。それは、上記のような御示しがあったのがひとつと、以前、上田家が住んでいたところは、軍の飛行場が近かったため、たびたび藁の屋根に輸送機が追突していたという。しかしこのようなことが起きても、上田家全員が無事でいられたため、上田家では法養のおかげであるという言い伝えがあるそうだ。 だから現在もお参りにいっているという。法養はお守り神様として上田家で大切にされている。

第四節 黒丸踊保存会と上田家

 黒丸踊保存会は、昭和23(1948)年に発足したといわれている。今回の調査の際、上野氏より、3つの保存会会則をみせていただいた(写真62)。2016年の4月に会則を改定し、竹松地区の子供も参加できるようになった。ただし、踊りの練習時や本番などに両親のどちらかが協力できることを条件としているという。それ以前は、黒丸地区と、戦争の関係上やむなく黒丸地区外にいる人のみ参加が許されていた。
 法養祭は、もともと法養と関係のある上田家のみで行っていたという。現在のように、黒丸踊保存会主体で、一緒に行うようになった具体的な年は不明だが、上田氏が嫁いだ昭和39(1964)年にはすでに合同で行っていたという。
 今回法養祭に参加して、法要の前に法養堂の中を観察していると、法養への供物やお祝いの品が並べてあった(写真63)。その中で特徴的だったことは、紅白の餅が2組準備されていたということである(写真64)。1つは、ゆかりの深い上田家からで、もう1つは、黒丸踊保存会からのものである。この餅は、2つで7升という決まりがあるのだが、なぜ7升なのかということは不明であると上田氏はいう。
 また、この餅は法要が終わったのちに、保存会の人の手によって餅切りが行われ(写真65・66)、紅白の餅を1つずつ包装し(写真67)、午後から行われる法養祭に来た人達に配布していた。これは、来てくださった人達にも幸せをおすそ分けしたいという気持ちが込められているという。
 このように、黒丸踊保存会と上田家は協力し合いながら、毎年法養祭を行っているのだ。

写真62 黒丸踊保存会会則

写真63 お祝いの品

写真64 2組お供えされていた紅白の餅

写真65 協力しながら餅を切り分ける様子

写真66 餅切りの過程

写真67 切り分けた餅を包装している様子


結び

以上のことから明らかとなったことを要約すると

・郡三踊とは、長崎県大村市の郡川周囲の3地区に伝わる「寿古踊・沖田踊・黒丸踊」を合わせた総称である。この三踊には関係性がある。それは、行事の際の席や披露の順より、序列のようなものがみられる。

・郡三踊の沖田踊と黒丸踊は、法養と呼ばれる人物が伝えたとされているが、寿古踊も入羽が同じことから、法養が伝えたかもしれないという説が保存会のなかにある。

・戦時下に三踊は中止を余儀なくされた。戦後、黒丸踊を筆頭に寿古踊、沖田踊の順に復活した。どの踊りも今復活させなければ後世まで伝承することができないという思いから復活させたという。踊りによっては、この復活時に保存会が発足したものもある。

・戦争中、黒丸踊と沖田踊の部落の一部は、軍の拡張に影響を受けたが、寿古踊は防空壕が1,2か所あっただけで、直接的な影響はなかった。

・今回の調査において、いくつかの文献を参考に論文を書き上げていくうえで、郡三踊の戦時下から復活までの事実があまり取り上げられていないということが明らかとなった。

・黒丸踊と上田家には深いかかわりがある。法養祭の行われる法養堂のあるところには、以前上田家の屋敷があり、そこに法養が住んでいたという言い伝えがある。現在、ここには法養の碑があり、上田氏は月に1度、お参りに来ているという。

・上田家にとって法養は守り神のような存在である。それは、戦闘機が何度か上田家に追突した際、誰も怪我を負うことなく無事だったという経験から、法養が守ってくださったという言い伝えがあるからである。

・上田家には、法養からのいくつかの御示しがあったという。そこから法養は何かしらの力を持っていると考えられている。

・前川氏と上田氏から聞き取った御示しの話は過去の調査において一度も語られていないという事実も本調査からわかった。両氏によると、これまでの調査は踊りについてのみを取り上げていたことから御示しの話をする機会がなかったという。

・もともと法養祭は上田家が主体で行っていた。しかし、現在は黒丸踊保存会が主体となり行っている。そのため、供物のひとつである、紅白の餅は上田家と保存会がそれぞれ用意するため、2組お供えされている。

・各踊りも、後継者不足を懸念し、踊り子の登用基準を下げたり、保存会に入会できる地域の範囲を広げたりするなどと、様々な策を考えながら伝承と実践を行っている。


謝辞

 本論文の執筆にあたり、たくさんの方々のご協力を賜りました。
 法養祭当日にも関わらず、貴重なお話を聞かせて下さった黒丸踊保存会会長の前川與氏、副会長の上野筆二郎氏、前会長の陳内忠氏をはじめとする黒丸踊保存会の関係者のみなさま。ご多忙の中、本調査のために時間を割いて下さった寿古踊保存会会長の愛合久幸氏、沖田踊保存会会長の沖田秋徳氏、副会長の宮下栄蔵氏。また、急なお願いにも関わらずお話を聞かせて下さった上田スマ子氏、妙宣寺のご住職様。この調査のご協力をいただいた大村市教育委員会文化振興課のみなさま。
 みなさまのご協力なしには本論文を書き上げることはできませんでした。この場をお借りして心より御礼申し上げます。誠にありがとうございました。


「須古踊」と「寿古踊」とあるが、今回の調査では、具体的な変化の年を明らかにすることができなかったため、文献や語り手の表記に合わせている。


参考文献

・「新編 大村市史 第二巻 中世編」大村市 2014年
・「大村史―琴湖の日月―」久田松和則 国書刊行会 1989年
・「大村の沖田踊」大村市教育委員会 1983年
・「黒丸踊」大村市教育委員会 1985年
・「大村の郡三踊 寿古踊・沖田踊・黒丸踊」大村市教育委員会 2014年
・「長崎県の地名」平凡社 2001年
・「角川日本地名大辞典 長崎県角川書店 1987年
・「民俗小辞典 神事と芸能」吉川弘文館 2010年
・「大村文化」大村市文化協会 2007年
・「大村郷村記」藤野保 国書刊行会 1982年