関西学院大学 現代民俗学 島村恭則研究室

関西学院大学大学院 現代民俗学 島村恭則研究室

コーヒーの人生〜中島洋彦氏と観光コーヒー農園『スコーコーヒーパーク』〜

社会学部 社会学科 秋山千晶

目次
はじめに
1.生い立ち    
2.スコーコーヒーパーク
3.舞台と絵画
(1)舞台
(2)絵画
結び
謝辞

参考資料一覧


はじめに
  江戸時代初頭、鎖国時代の唯一の玄関口であった長崎県の出島がコーヒー伝来の地である。この長崎県大村市で、日本初の観光コーヒー農園「スコーコーヒーパーク」を開いておられる方がいると知り、コーヒーショップで働く私は興味を引かれた。この観光コーヒー農園を始められた、現社長である中島氏は「アミーガーさん」という名で親しまれている。中島氏はコーヒー農園だけではなく、オリジナルの「浪曲(注1)芝居」を披露し、観光客を楽しませておられるという。私はこの浪曲芝居が、民俗学的な視点から見るとスコーコーヒーパークでしか見られない一つのフォークロアであると考え、どのように生み出され生かされているパフォーマンスであるのかを追及することを研究目的とし、現地で取材をさせて頂いた。まず、中島氏に観光コーヒー農園を開かれた経緯や、現在のスコーコーヒーパークの仕組みについてパーク内の見学もさせて頂きながらお話を伺った。そして、このような背景の中で、観光客に対し長年公演されているという浪曲芝居について、そのきっかけからパフォーマンス性まで様々なお話を伺った。

1.生い立ち
 中島氏の祖父母は、アメリカで移民として暮らしていた。カナダ寄りの寒い地域であるミネソダ州やモンタナ州、他にコロラド州にも移住し、アメリカ国内を転々としていた。そして最後にたどり着いた場所は、ワシントン州の都市シアトルであった。中島氏の父は18歳までシアトルにいたが、戦前に日本へ帰ってきた。しかし、彼は「日本人じゃない、非国民だ」とみなされ、日本軍として兵になることはなかった。戦争中は警防団の案内役等を務めた。
 中島氏は3歳の頃からコーヒーを飲んでおり、朝晩飲むことが習慣付くほど昔からコーヒーを愛好していた。というのも、中島氏が幼い頃シアトルに父の親戚が多数暮らしていたため、2か月に1度コーヒー等の贈り物が家に届いていたからだ。その贈り物の中にはディズニー柄のブリキ缶ケースに入ったクレヨンや、当時上等であった砂糖も入っていた。その砂糖は甘い香りを漂わせ、「アメリカのにおい」がしたと中島氏は言う。贈られてきたコーヒーは「ヒルスコーヒー」と言い、1878年からヒルス兄弟が販売したものである。彼らは世界初の真空缶詰コーヒーを発明し、焙煎技術の革新も行ったコーヒー業界のリーダー的存在であり、アメリカンコーヒーの代名詞として呼ばれている。中島氏は「この頃飲んだコーヒーの味が今でも忘れられない」と言い、この思いが現在のスコ―コーヒーパークに繋がっているそうだ(写真1)。

写真1 米ヒルス社創業時から親しまれ続けてきたマイルドテイストコーヒー。(日本ヒルスコーヒー株式会社 ホームページから引用)
 コーヒーに魅了された中島氏は、ブラジルのコーヒー農園で働くことを決意した。言語が異なることにも全く不安を感じないほど、ただコーヒーを作りたい一心で決めたことであった。初めは父から許可を得ており、コーヒー農園で働くための事前訓練や、ブラジルへ行く船の予定まで決めていた。しかし、その計画が実現性を帯びてくるにつれ、父は反対するようになった。理由は、移住先が合衆国ならば親戚もいるため許可できるが、ブラジルは飢え死にする可能性があるため許可できないということであった。父の許可を得られず、ブラジル行きを諦めた中島氏は自衛隊へ入った。その後約7年で自衛隊を除隊したが、その期間に徹底した教育の下で心構えを得たと語る。「使命の自覚、個人の充実、責任の遂行、団結の強化、挨拶等自衛隊の心構えを社会においても実行し、最高の成果を出している。今日があるのは皆様方のおかげだ。」と言う。
 中島氏は自衛隊にいた頃から長崎のコーヒー伝来に興味を持ち、長崎を訪れて様々な書物を読んでいた。自衛隊を除隊した時、「子供の頃に飲んだあのコーヒーの味や感動をもう一度味わいたい」、「とにかくコーヒーに携わりたい」という気持ちを長年持ち続けていた中島氏は、コーヒーショップを始めた。結婚し、大村市内で4坪のコーヒーショップを経営し始めたが、初めは苦しい生活が長く続いたと中島氏は言う。経営を続けていると、それまでコーヒーを出していただけだったが、「コーヒーの木を育てるのはどうか」、「コーヒーの花を咲かせるのはどうか」、「コーヒーを煎じて飲んでみてはどうか」といった欲が出てきたそうだ。そして現在の住所に店を移転し、観光業としての経営を始めた。まずレストランを始め、サンルームの中に自宅で育てていたコーヒーの木を移動させた。しかし、客はなかなか木を見てくれない。これでは観光業に入れないと思い、思い切って約40坪農園を始めた。その後40坪を追加して約80坪の農園に拡大させたが、これでもまだお客は少し農園内を見るだけで観光が終わってしまう。このため、金銭面の負担の覚悟を決めて約300坪の農園をつくり上げた(写真2)。少しでもお客に来て欲しい、観光を楽しんでほしいという願いが込められていた。

写真2 約300坪ある温室のコーヒー農園。看板には中島氏の姿が描かれている。
 観光業として客を引き付けたい、客を楽しませたいという思いは、「浪曲芝居」というパフォーマンスやコーヒーにちなんだ珍しい商品展開にも表れている。コーヒーの木を育てる上での知識は独学だそうで、いくら本を読んでもその通り上手くはいかない、応用していかないといけないと語る。

2.スコ―コーヒーパーク
 JR松原駅から15分ほど歩いた大通り沿いに、スコ―コーヒーと書かれた赤い看板が見えてくる。スコ―コーヒーパークでは、レストラン「スコーズ」、コーヒー農園である温室、資料館・お土産売店といった、一般的なコーヒーショップとは違う体験ができるようになっている。スコ―コーヒーパークの中には看板が至る所にあり、観光地として分かりやすい店構えとなっている。店の外の看板や、資料館・お土産売店、商品のラベル、農園内にある浪曲芝居の舞台にも中村氏の若い頃の写真や肖像画が見られるのも特徴的である(写真2・3・4)。

写真3 看板や商品のラベルに「アミーガーさん」の写真が入っている。

写真4「アミーガーさんが選んだ寿古のインスタントコーヒー」(長崎スコ―コーヒーパークホームページから引用)
 レストラン「スコーズ」では、この店でしか飲めない100%コーヒーパーク産のコーヒーが飲める。このコーヒーを注文すると、驚くほど豪華な金色のコーヒーカップに金色のスプーンとミルクを添えてコーヒーが提供される。このカップ伊万里焼のオーダーメイド品で、長崎県波佐見町で製造されたものである。18金が使用されていることもあり、1脚2万円はするものだ。このカップの側面には3人の歴史上の人物が描かれている。左には、鎖国中に長崎の出島で長寿をもたらす良薬としてコーヒーを宣伝した、ドイツの医師・博物学者であるフィリップ・フランツ・バルタザール・フォン・シーボルトが描かれている。真ん中には、唯一出島の出入りを許されていた女性達である丸山の遊女が描かれている。右には、第38代長崎奉行である遠山左衛門尉景晋様が描かれている(写真5)。
また、カップの蓋には小さな穴が開いているが、これは香りを楽しむため、また内側の結露により水滴がコーヒーに入るのを防ぐためである(写真6)。このカップの大きさは一般的なコーヒーカップよりも大きい。その理由は2、3時間ゆっくり婦人の方々におしゃべりを楽しんで頂くために、たっぷりコーヒーが入る大きさにしたそうだ。

写真5 100%コーヒーパーク産のコーヒーを頼むと、豪華な装飾のカップのコーヒーが出てくる。

写真6 蓋に空いている穴。
中島氏によると、「女性たちの心を掴むのが何事にも大事」であり、そのために店内の雰囲気を落ち着きのある洒落たものにしたり、このコーヒーカップのように華やかで品のある食器を使用したり工夫をしているそうだ。
 レストランのメニューにはコーヒーにちなんだメニューがあり、コーヒーで炊いたお米で作られた「珈琲おむすび」や、このお米にコーヒーで調理したチキンを乗せた「コーヒーピラフ」、温室で採れたバナナを芋として調理した「バナいもカレー」等、種類が豊富である。また、お土産商品やネット販売の商品には、「寿古珈琲の果実ジャム」や「コーヒーの花のはちみつ」、「珈琲くず湯」や「寿古の珈琲キャンディ」等、オリジナル商品が展開されている。これらはレストラン内にも資料館・お土産売店にも「世界初」の表示や、身体に有効な「ポリフェノール」等の成分に対する丁寧な表示書きや写真とともに並べられている。「周りから、趣味と思われるようではいけない。完全に商売としてやらなければいけない。そして商売人としてやっていくならば、常にアイデアを生かさなければいけない。」という思いが、このようなメニューや商品を作り出した。
 コーヒー農園には約300坪の大温室に200本余りのコーヒーの木が育てられている。この農園で栽培し収穫されたコーヒーの豆は、海外のコーヒー豆とブレンドされて「寿古珈琲」として売り出されている。もともとコーヒーの苗木は外から寄せ集めて植えられたものであるそうで、一部には新芽の色が一般的な緑の色ではなくブロンズ色の木があった。この木は原種に近いものであり、育てていくにつれ分かったことらしい。ただ、コーヒーの味は土壌で決まるらしく、温室内で同じ土壌を使用し育てているものなので全ての木の実は味に差異がないそうだ。だが、コーヒーショップを経営している人の中には知らない方も多いようだ。温室内にはコーヒーの木に混じって、マンゴーやバナナの木もある。バナナは「バナいもカレー」に入れるため、緑の状態の時に収穫し、調理する。緑の状態では、食感など野菜と同じように使用できるからである。コーヒーの木は無農薬で育てているため、水圧で虫を殺すために水やりには時間をかけている。夏の収穫の時期は温室内の温度が50度を超える。
 温室内の奥にはコーヒーの木に囲まれた舞台がある。舞台の背景となる垂れ幕には、「長崎街道 寿古のお芝居小屋」と書かれている。舞台上には、「浪曲芝居」に使用される大太鼓が置いてあり、「スコーコーヒーの木」も販売用に並べられている。他にも提灯や幕、コーヒーにまつわる絵画や写真も飾られており、大変趣のある舞台となっている。取材させて頂いた2日間とも観光客の方達がいらっしゃったため、お客が集まらないと開催されない舞台公演を見せて頂くことが出来た。お年寄りの団体が多いという観光客の方達は、まずコーヒー農園である温室に入り、コーヒー農園を見学する、そして奥にある舞台で舞台公演を楽しむ。舞台公演のメインである浪曲芝居の後にはコマーシャルが入り、商品の宣伝をする。商品の宣伝が終わると、観光客は直ちに温室に隣接している資料館・お土産売店に移動する(写真7)。

写真7 資料館・お土産売店の中。商品の近くには商品の説明が書かれたPOPが並ぶ。
 資料館・お土産売店には中島氏が舞台公演で身に付けていたポンチョやソングレロが吊るされており、コーヒーやコーヒーにちなんだ数々の商品が、鮮やかなPOPとともに陳列されている。また、中島氏が描いたコーヒー豆の絵画も飾られている。ここでは、ほんの数分前まで舞台に上がっていた中村氏が、観光客に直接商品の説明をしながら回る。「商売なのだから、買ってもらわないと意味がない」という商売意識を忘れず、なおかつお客に楽しんでもらおうと丁寧に説明しながら接客しておられる姿が印象的であった。中村氏は、観光業というのは時間厳守が第一であると語る。スコ―コーヒーパークの観光はツアー旅行の一部であり、観光の時間は決まっている。その限られた時間で観光客を満足させるには、時間の分配が大事になってくるのだ。例えば、売店で取れる時間は15分というように、割り当てた時間を考慮しながら販売をしている。また、バスが遅れれば、スコーコーヒーパークを観光する時間も限られてしまう。遅れた分舞台公演の時間を短縮する等して、迅速に予定を変更して対応しなければならない。舞台の柱には、時計が設置されており、私は中島氏の目線に注意して舞台公演を観ていると、中島氏はその時計を見て時間に気を遣いながら公演をされているのが分かった。

3.舞台と絵画
(1)舞台
 スコ―コーヒーパークは、日本初のコーヒー農園があることで有名だが、中島氏は浪曲芝居を中心とした舞台上でのパフォーマンスも行っている。中島氏は自身オリジナルの浪曲浪曲芝居と呼び、主に団体の観光客に披露している。
 浪曲芝居は温室の奥にあるコーヒーの木に囲まれた舞台で公演される。一般的な浪曲の舞台とは異なり、屏風や椅子はない。中島氏の奥様が曲師として舞台に上がるが三味線は弾けないので、代わりに大太鼓を叩いて調子を取る。中島氏が着る衣装は、メキシコ等の中南米で使用されるポンチョやソングレロである。これらの衣装は、自衛隊で知り合った竹松部隊というミサイル部隊(航空ミサイル)の部隊長の方が、休日を使って行ったメキシコで購入したものだそうだ。中島氏が元自衛隊員であり、飲食店を経営しているということでお土産として頂いた物らしい。現在は途切れたが、当時は年に1度必ず贈ってくれていたと言う。コーヒーの木に囲まれた舞台で、中南米の衣装を着て、日本文化である浪曲を行うというアンバランス感が気に入っておられるそうだ(写真8)。

写真8 舞台に上がり、観客をトークで笑顔にする中島氏。
 通常は10人以上の客が集まれば開催するとされている浪曲芝居は、観光地として客に来てもらうために始めたものであった。元々、社員と3人で漫才のようなお笑い公演をしていたが、形が変化して1人で舞台に立つようになり、現在の浪曲芝居ができた。浪曲芝居はコーヒー農園と同様の独学であり、中島氏が選んで覚えた有名な浪曲6曲と自ら考えたオリジナルな歌やセリフを合わせてつくられたものである。有名な浪曲というのは、聴きごたえのある渋い声を持つ浪曲師、広沢虎造が語る「清水次郎長伝」の石松三十石船や石松の最後や、相模太郎が語る「灰神楽の三太郎」等であり、これらは朝晩の通勤の移動時間に聴いて覚えたそうだ。この浪曲芝居の構成や内容はその日の観光客の特徴、例えばツアー内のスコーコーヒーパークでの滞在予定時間等によって少しずつ変更される。
 観客が試飲として配られたコーヒーを持ち着席すると、中島氏は舞台に上がる。中島氏の舞台公演は歌謡曲から始まった。軽く観客に話しかけながら場を和ませ、「カラオケで以前歌った際、上手だとほめられました」と言いながら三波春夫等の流行歌を歌う。だが歌ったのは音程の外れたとても上手いとは言えない歌である。手に持った歌詞カードを見て歌っているにも関わらず、詰まることも度々ある。その度に客席に笑いが起きる。これは中島氏が観客を笑わせようと演じたものであり、中島氏が考案したパフォーマンスである。それ故、歌詞カードには本当の歌詞は書かれておらず、別の歌詞が書かれている。歌詞に詰まってしまって、観客に歌詞をつないでもらうのも一種のパフォーマンスとなるらしい。その後も観客との掛け合いは続き、例えばお茶の話になる。「福岡方面のお茶は何でしょうか?――(観客が八女茶と答える)――そうです八女茶でございます!よそのお茶はヤーメ茶!それほどうまいお茶でございます。」「では、鹿児島方面に行くとどこのお茶でございますか?――(観客が知覧茶と答える)――やっぱり知らんですか。知らんということでございます。そうですチラン茶でございます。」このような冗談を交えながら、静岡県のお茶の話に持っていく。そこで東海道一の名親分、清水次郎長の話となる。そして、次郎長親分の優秀な子分である森の石松の話とともに、「灰神楽の三太郎道中記」をベースとした浪曲芝居が始まる。「灰神楽の三太郎道中記」とは、次郎長親分の子分であっても偉い者ばかり揃っていたのではないという意味で、相模太郎浪花節で語った架空の物語である。中村氏が「灰神楽の三太郎道中記」と言うと、奥様がドドンと太鼓を鳴らす。すると今までの観客との掛け合いで和んでいた空気に、緊張感が生まれる。中島氏が「毎度〜皆〜さまお馴染みの〜」と、「灰神楽の三太郎道中記」の初めの節を歌い、おっちょこちょいな三太郎の紹介がされる。その後啖呵に入り、次郎長親分が三太郎に、伊勢の丹波屋善兵衛親分のところへ初孫のお祝いを届けに行くよう頼むという場面を演じる。その際、次郎長親分のセリフで「帰りにはちゃーんと島原の森竹城へいって来ればいいんだ。」、三太郎のセリフで「ついでにスコ―コーヒーパークにも寄って、世界一上手いコーヒーを飲んで帰らないと!」というように、セリフの中に観客である団体の故郷の情報やスコ―コーヒーパークの情報も混ぜ込む。すると客席は、より盛り上がる。その後三太郎は、伊勢ではなく名古屋にたどり着いてしまう。名古屋城辺りでスコーコーヒーパークを見つけた三太郎が、「あの有名なところ、私も飲みに行ってみようかなあ」というセリフを言ったところでコマーシャルに入る。浪曲芝居ができる時間に余裕があれば、伊勢への道中に、水戸黄門や次郎長の敵である黒駒一家を登場させる。水戸黄門は、代表曲である「ああ人生に涙あり」を流しながら演じる。黒駒一家は、棒を持ち、威厳のある雰囲気を出しながら演じる。さらに時間の余裕があれば、コーヒーの伝来にまつわる紙芝居も行うそうだ。
 中島氏の舞台を見せて頂き感じたことは、観客との掛け合いが多いということだ。浪曲芝居に入る前に、観客の方を「べっぴんさん」「よか男」と褒めたり、身に付けているネックレスの色やシャツがお似合いだという話で場を和ませていく。また、「〇〇のさつま芋はうまい」「〇〇のお米がなんともいえん!真っ白だ」というように、観客の団体の地元の産物や気候の話もする。すると観客は大変喜んでくれる。ところでどうやってこの情報を得ているのか。聞くところによると、事前の下調べは一切しないらしい。観光客がスコ―コーヒーパークに到着後コーヒー農園を見学しながら移動し、浪曲芝居の舞台の前に座るまでに、中島氏は世間話をして情報を得るのである。「お客さんが言ってくれたのをわざと鵜呑みにして、舞台上で吐き出す」ということである。そうすることで観客は、自分が言ったのと同じように言ってくれている、自分の故郷のことを言ってくれていると実感し、嬉しくなるそうだ。このように観客の心情を掴むことは、中島氏が大切にしていることである。浪曲芝居の後のコマーシャルでも、この傾向がみられる。例えば福岡県鞍手郡の観客に対してアイスコーヒーを宣伝する際、「鞍手郡の冬は寒いでしょう、そこで奥さまは温かいコーヒーを作っておられます、(夫が帰ってきて)ガラガラガラと戸が開く音がして、『ごめんなはりまっせ、今戻ったよ』『まあお父さんほっとしたねえ、外は寒かったろうねえ』『そうりゃ寒かったわいさ』『それでねお父さん、ほっとしたからホットコーヒーを作ったよ』ということでございます」というように浪曲芝居の啖呵のようにセリフ交じりに紹介をする。
 浪曲芝居の他にも様々なパフォーマンスの方法はあるはずだが、浪曲芝居にこだわる理由は何だろうか。中島氏によると、「演歌は上手な人がいっぱいいる。お年寄りでもカラオケに行って鍛えている人がいる。しかし、浪曲はやってる人いないでしょ」ということであった。また、「浪曲をやるとお年寄に懐かしさを感じてもらえる。だからこそ下手な浪曲はできない、浪曲だけはきちっと歌わなきゃ。」として、初めに歌謡曲を歌った地声とは異なるしがれた声を浪曲芝居で出す。「さぶちゃんや氷川きよしがのどを絞って発声するように歌う」そうだ。この声は浪曲師で有名な平沢虎造の歌い方を憧れ、真似て出しているようで、私も挑戦したがかなり難しいものだった。客たちは、中島氏が歌謡曲の際にわざと下手な歌い方をしているので、浪曲が始まった途端その声にあっけにとられてしまう。これも観客を楽しませるパフォーマンスである。たまにお祝いの場で祝辞を頼まれた時は、「祝辞はできません、(祝辞は)ほんのちょこっとだけやらしてください。あとは余興で〇〇をやりますから。」と言って祝辞にあまり時間をかけず、その分歌謡曲や「浪曲芝居」をやる。観客には「私は歌で調子を外すか、歌い切らんから応援に来てください」と頼みながら、観客と一体になって歌を始めるのだ。「祝辞は硬くて、とちってしまって結局何が言いたいのか分からなくなるから」という心がけから余興をメインにするのだそう。

(2)絵画
 中島氏は2年程前から絵画を描いている。主にコーヒーの実が主役として描かれた作品であり、資料館・お土産売店にて飾られている(写真9)。

写真9 中島氏が描いた作品。
 絵画を描くきっかけとなったのは、ある候補者の方が大村市の市長選へ出馬した時のことである。この方が当選した際に渡すために書いた絵画が初めての作品で、そこにはコーヒーの木や花があり、ミツバチが蜜を吸い、周りで2匹の小さいミツバチが飛んでいる風景が描かれたものであった。この作品には物語性があり、ミツバチが蜜を運んでくることが「市長がよそから大村に予算を取ってくる」という事を表し、周りに小さいミツバチが飛んでいるのは「市長の息子たちが警戒して見張る」という事を表している。つまりこの作品は、彼が市長になれば大村を守ってくれるということを意味する。
絵画も独学であり、絵画の先生に教えてもらうこともない。先生からアドバイスをもらってしまうと先生の作品になってしまうため、アドバイスはお断りするそうだ。だが、絵画を詳しく知らない友人のアドバイスは参考にする。例えば、「ここに蝶を入れてみたら、周りの木や花に立体感が出ていいんじゃないか」という声を頂いた際は、蝶の写真を撮影し、丁寧に写生したそうだ。写生は実際に自分で写真を撮り、虫眼鏡で見ながら細部まで丁寧に描く。色も出来る限り本物に近づけるため、時間をかけて研究する。様々なことを調べようとする探求心が絵画作品にも出ていると中島氏は言う。出来上がった作品は、アドバイスを下さった方に贈ったそうだ。
 また、中島氏の作品の中にあるコーヒーの木や花の様子は、現実に見えるものとは印象が異なる。私は初めて絵画を拝見したとき、色とりどりでトロピカルであり、外国人画家が手掛けた作品のような印象を受けた。こういった印象を受けるのは、農園にある木花や実をそのまま描くのではただの風景絵になってしまうので、イメージを膨らませながら描いているからだそうだ。ある時、中島氏はお嬢様に「その絵ではお客さんの心はつかめないよ」とアドバイスをもらい、さらに「コーヒーの実は虹色をしている」という事を教わったという。コーヒーの実は、成長段階において、緑、黄緑、黄、ピンク、橙、紫、赤という順に色が変化する。この事実を知った中島氏は、コーヒーの実が虹色の過程を経て赤になったことを意識しながら描くようになったそうだ。確かに絵画をよく見ると、赤いはずの実が虹色がかって見える部分がある。このような工夫が隠された絵画はとても魅力的で、「この絵画を部屋に置くと、部屋が明るくなる」として、購入したいと願う出る方もおられるという。中島氏は自画像を入れた作品の作成にも挑戦しているそうで、「絵画はまだまだ変化していく、研究中だ」ということであった。

結び
 今回の調査により、以下の点について分かった。
1.中島氏は幼い頃飲んでいたコーヒーの味と感動を忘れることがなく、様々な経験を経て現在の形のコーヒー農園を含むスコ―コーヒーパークを開かれた。
2.浪曲芝居は、観光業としてより多くの観光客の方に来ていただくために始めたものであった。
3.浪曲芝居には中島氏のオリジナル性が表れている。
・コーヒーの木に囲まれた舞台上で、ポンチョ等の中南米の衣装で浪曲芝居を行うというイレギュラー感を出している
・有名な浪曲を覚えて披露しておられるが、観光業というのは時間厳守が何より大事なため、浪曲芝居の構成は、時間内で出来るだけお客様に喜んでもらえるようオリジナルで毎回調整している
浪曲芝居はもちろんお客様に喜んで頂くためだが、「商売は買ってもらわな意味がない」と中島氏は言い、商売人としての意識は忘れないようにしている。具体的には、浪曲芝居の最後には商品の宣伝の時間を取り、ジョークで観客を湧かせながらも商品に魅力を感じてもらえるよう努力を怠らない。
浪曲芝居が始まる直前に観客との距離を一気に詰める。具体的には、観客に問いかける場面が多かったり、観客は高齢者の団体が多いため、その団体の地元にまつわる話をして喜んで頂くことで心地いい空間ができている。
4.中島氏は、浪曲芝居以外に絵画も取り組んでおられ、独自の物語性のある作品もみられる。

謝辞
 本論文の執筆にあたり、ご協力頂いた皆様にこの場をお借りして感謝を申し上げます。
 スコーコーヒーパークの中島様、中島様のご家族の方には、大変お忙しい中2日間に亘ってインタビューにお答え頂きましたこと、大変感謝しております。ご丁寧に、熱意を持ってお話して頂けたことは大変光栄なことで、何としてでもこの貴重なお話を生かしたいという思いを持ちながら、論文を執筆させて頂きました。
突然の調査の申し出に混乱を招いてしまったにも関わらず、舞台や農園の見学や説明までして頂いたこと、決して忘れません。改めまして、感謝を申し上げます。


(注1)浪曲とは明治時代初期から始まった演芸である。三味線の伴奏に乗せて、物語を語る。その物語は、「節(ふし)」と「啖呵(たんか)」の部分に分けられ演じられる。「節」の部分は歌であり、物語の状況や登場人物の心情を歌詞にしている。「一人一節」と呼ばれる程、演じる浪曲師は節の回し方(個人的な歌い方)が異なる。「啖呵」の部分は、登場人物のセリフを言いながら何人もの役を演じる。舞台のセットは、正面の後ろに金の屏風を立て、手前にテーブルクロスのかかった腰程の高さのテーブルを置く。テーブルの後ろには背もたれの高い椅子を置くが、大抵の浪曲師は立ったまま演じることが多い。観客から見て右手には、三味線を演奏する曲師が座る椅子を置く。浪曲は譜面がなく、曲師は浪曲師が語るリズムに合わせるため、常に浪曲師の口元の動きを見て演奏する。浪曲は、1話完結の物語もあれば、連続シリーズの物語もある。1席は約30分であり、物語の内容は庶民的で義理人情に訴えるものが多く、出世物、任侠物、戦争物、親子物、滑稽物などの演題に分けられる。浪曲師の衣装は和服姿で、正装として袴を用いる(写真10)。

写真10  浪曲の舞台(浪曲とは‐浪曲親友協会 公式ホームページから引用)

参考資料一覧
日本ヒルスコーヒー株式会社(2017年1月13日取得)
http://www.hills-coffee.co.jp/history/history.html
長崎スコ―コーヒーパーク(2017年1月13日取得)
http://suko.ocnk.net/
1826年/コーヒーの歴史/コーヒー百科/知る・楽しむ(2017年1月13日取得)
https://www.ucc.co.jp/enjoy/encyclopedia/history/popup/j_1826.html
なかじん!出島370年物語vol.6「出島ゆかりの女たち」‐長崎市(2017年1月13日取得)
http://www.city.nagasaki.lg.jp/nagazine/dejima/1110_dejima6/index.html
長崎旅ネット(2017年1月13日取得)
http://www.nagasaki-tabinet.com/guide/960/
庭子の部屋「浪曲 清水次郎長ができた経緯」(2017年1月13日取得)
http://tanukimura.jugem.cc/?eid=109
浪曲とは‐浪曲親友協会 公式ホームページ(2017年1月13日取得)
https://www.rokyokushinyu.org/%E6%B5%AA%E6%9B%B2%E3%81%A8%E3%81%AF/
浪曲Wikipedia(2017年1月13日取得)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B5%AA%E6%9B%B