社会学部 坂口 一馬
目次
はじめに
第1章 ペーロンとは何か
1.ペーロンの起源
2.長崎のペーロンの起源
3.ペーロンの歴史
4.現在のペーロン
第2章 牧島町とペーロン
1.牧島町
2.牧島町でのペーロンのはじまり
3.牧島町での地区大会のあり方
4.牧島ペーロン保存愛好会
第3章 作り手から見たペーロン
1.塚原造船所・塚原祥禎氏
2.ペーロン船の注文の変化
3.塚原祥禎氏から見た現在のペーロン
結び
謝辞
参考文献
はじめに
本論文は社会調査実習として行われた長崎県の調査報告書である。本論文はペーロンについて長崎県長崎市牧島町での聞き取りを中心に調査したものである。ペーロンとは45尺(約13.6m)の細長い船に乗った30名以内の乗組員(漕ぎ手26名以内、太鼓、ドラ、舵手、采振り)が往復1150mをドラ、太鼓の音に合わせて競漕する行事である。
第1章 ペーロンとは何か
1.ペーロンの起源
ペーロン自体の起源は紀元前300年頃の中国に遡る。楚の懐王という王に仕えていた政治家の屈原という人物が、楚の将来に絶望して旧暦5月5日の端午節に川で入水自殺した。その時に入水自殺しようとした屈原を救出しようとした民衆が先を争って船を出したことが、ペーロンの由来であると伝えられている。
2.長崎のペーロンの起源
長崎でのペーロンの起源は江戸時代に遡る。長崎でペーロン競漕が行われたのは、明暦元年(1655)のことであり、この年長崎港に停泊中の唐船が暴風雨に遭って難破し、このことによって多くの溺死者を出した。このことを海神の怒りに触れたからであると考えた在留唐人らは、神の怒りを鎮め、犠牲者の霊を慰めることを目的に、端舟(はしけ)を借り集めて競漕したことが始まりとされている。
3.ペーロンの歴史
ペーロン競漕は行われてきた時代によって変化してきた。江戸時代のペーロンは、競渡船(現在でいう選手権大会にあたる)と呼ばれており、長崎周辺の入り江や浜などが隣接する集落から船を出し、地元の名誉をかけて「競渡」したといわれている。当時の出場チームは1つの町から2つのチームが出場し、それに加えて少年チームと壮年チームの3段階でレースが行われ、総勢40チーム以上が出場していた。当時の大会は端午の節句の5月5日と5月6日に行われていた。また当時の大会は激しいものであり喧嘩が絶えず、1800年には深堀鍛冶町の乗組員と本五島町の乗組員とで大喧嘩が起こり、翌年長崎奉行所管下でのペーロンが禁止されたほどである。明治・大正以降は江戸時代のペーロンが2日間行われていたのに対して、6月中旬の日曜日の1日間のみとなった。大正時代のペーロンは立神から旭町までの折り返しと、女神から旭町間のストレートを二班に分かれて行い、最後は「優勝旗競漕」と銘打って小ヶ倉と高鉾島の中間に浮かべている三角錐のブイから旭町のストレートで勝負を決めていた。
4.現在のペーロン
現在長崎で行われているペーロンは6月初めから各地区で地区大会が行われ、地区大会で勝ち上がった各地区のうちの2チームが7月の最終日曜日に長崎港を舞台に行われる「長崎ペーロン選手権大会」に地区代表として出場し、優勝を争う形となっている。また各地区の選抜チームのレース(一般レース)に加え、前日の土曜日には職域・中学校・女性対抗レースなども盛大に開催されている。また近年ではペーロン選手権大会を通じて、兵庫県相生市や熊本県苓北町をはじめ、海外では香港との交流も行われている。
しかし近年では少子高齢化によって若者の数が少なくなってきたことや、不況によって町を離れて就職する人々が増えた影響を受けて、ペーロンの漕ぎ手が減少してきており、深刻な問題となっている。
第2章 牧島町とペーロン
1.牧島町
長崎駅からバスに乗って約30分で毛屋というバス停に着く。そこから少し南方に歩くと橋が見えてくる。この橋が牧島町につながっている。
牧島町は東長崎に位置する町で、1つの島で1つの町をなす形となっている。この島は現在牧戸橋という橋で陸とつながっているものの以前は無人島であった。1682年まで主諫早家の牧場となって明治元年まで続き、当時は馬番として11、2戸の人家があるにすぎず、漁獲と工作を兼ねて生活していた。このことから牧島という名がついたと言われている。現在では326世帯848人が暮らしており、町域は166万平方メートルの町となっている。
2.牧島町でのペーロンのはじまり
第1章で説明したように長崎でのペーロンの始まりは唐船が難破したことで海神の怒りを鎮めることである。対して牧島町でのペーロンの始まりは竜宮祭というものである。牧島での竜宮祭は昭和30年代に始まったと言われている。この竜宮祭は龍宮神社がある長崎県長崎市戸石町の戸石漁港で行われたもので、7月15日に恵比須様と龍神様に感謝するためにペーロン船に乗って右に3回、左に3回周るというものである。
写真4 龍宮神社の鳥居を進んでいくと祀られている龍神様
またこのペーロン船の先端にはお酒が入れられた竹の筒が吊るされており、それを海の中に捨て、お神酒を行うことによって感謝の気持ちを表しており、これが牧島におけるペーロンの起源だといわれている。以前はこの竜宮祭の日には競漕のリハーサルが行われており、それが夕方に行われていたので夕競りと言われていた。この竜宮祭は現在でも行われており、毎年7月15日に最も近い日曜日に戸石町の戸石漁港と牧島町にある臼の浦漁港で行われている。
3.牧島町での地区大会のあり方
先述したように、長崎県で行われる長崎ペーロン選手権大会は、本大会が行われる前に6月から各地区で地区大会が行われはじめ、その地区大会で勝ち残った上位2チームが本大会に進むというものである。牧島町の牧島チームが所属する戸石地区においても地区大会が行われるのであるが、現在の牧島の地区大会は他の地区の地区大会とは少し違った形となっている。それは地区大会が竜宮祭だということである。そもそも戸石地区に所属するチームは戸石チームと牧島チームの2チームであり、自動的に長崎ペーロン選手権大会に出場することができることになっている。つまり他の地区の地区大会と違い、他のチームと争って勝ち残る必要がないので、当日競漕によって出場権を得るわけではないのである。先述した通りこれは7月15日に最も近い日曜日に行われ、この日が地区大会として設定されている。この戸石地区における地区大会は毎年1年ごとに交代で戸石町の戸石漁港と牧島町の臼の浦漁港で行われている。
近年少子化の影響などを受け、漕ぎ手の不足が深刻な問題となっているペーロンであるが、その対策のために他の地区のチームとの漕ぎ手の貸し借りが行われているところもある。他の地区のチームであれば地区ごとで地区大会の日程は違うのでそこで貸し借りを行うことができるのである。そして勝ち残って本大会に出場する場合は地区大会で争った同地区内のチームから漕ぎ手を借りて、本大会に出場することになる。しかし牧島チームについては、漕ぎ手の貸し借りはしない。牧島チームが地区大会で漕ぎ手を他の地区から借りたとしても本大会に出場した場合、その借りた相手はその地区の代表に漕ぎ手を集めるので、借りることができないのである。
4.牧島ペーロン保存愛好会
長崎県でペーロンが行われている地区の中にはペーロンを保存する保存会がある場合が多く、牧島町にも牧島ペーロン保存愛好会というものがある。これは長崎ペーロン選手権大会に出場する牧島チームの選手をまとめるために1976年に発足されたものである。これまでは戸石の漁業協同組合がチームをまとめていたのだが、それがなされなくなったのでこの牧島ペーロン保存愛好会が発足された。現在の会員は選手が約35人、現役を退いた方が約15人所属しており、そのうち約3分の2は長崎市内の他の地区や諫早市をはじめとした牧島町民以外の人達である。以前の活動は長崎ペーロン選手権大会に出場するためのチームをまとめることであったが、現在では中学生や高校生の修学旅行生を中心としたペーロン体験施設の運営や長崎ペーロン選手権大会に出場する選手たちのお世話なども行っており、ペーロンに関連する様々な活動を行っている。
ペーロン体験施設は1991年に長崎市役所から委託されてはじまったもので、現在でも毎年約10000人の体験者が来ている。牧島ペーロン保存愛好会は体験施設の運営や選手のお世話に加えて竜宮祭の時に使われるペーロン船をすべて用意するなど、ペーロンの保存には欠かせない組織となっている。
第3章 作り手から見たペーロン
1.塚原造船所・塚原祥禎氏
現在長崎県内でもペーロン船を製造する造船所がほとんどなくなった中で、長崎県で使用されるペーロン船のほとんどを製造している塚原造船所が牧島町にある。
塚原造船所は現在2代目所長の塚原祥禎氏と従業員の方2名で業務を行っている。塚原造船所は祥禎氏の父親である先代の喜代次氏が1948年に創業した。牧島町生まれの喜代次氏は19歳の時、神戸に出て軍用船の造船所で働き、終戦後食糧難の影響や米兵から逃れるために牧島町に戻り、独立した。当時は対岸の本土地区を結ぶ橋がまだなかったため、伝馬船の注文が多かった。やがて経済成長に合わせるようにペーロン競漕が県内各地で復活していき、喜代次氏は漕ぎ手としても活躍していった。祥禎氏は中学卒業後、本格的に船大工の道を歩み始め、37歳の時に喜代次氏に代わり、棟梁となり、現在に至るまでペーロン船を作り続けている。
造船所の中を見渡してみると、1つの像がある。
写真7 造船所内に祀られている聖徳太子像
これは聖徳太子像であり、同業の職人が集まって聖徳太子を職能神として祀る太子講という行事のために祀られるものであるのだが、祥禎氏によると先代の喜代次氏の時代から造船所に祀られており、それをそのまま受け継いたのだという。これは職人の原点であり1人の職人として粗末にすることはできず、心の支えとして常に置いてあるという。現在でも2月22日と9月22日に職人たちが集まってお祈りし、そのとき祥禎氏は感謝の気持ちを込めてお祈りするという。
ペーロン船について調査していくと、ペーロンを作る職人が弟子にペーロンづくりを教える際、図面のようなものはなくて体で叩きこまれるということがしばしばいわれているが、祥禎氏によると、実際に図面はあるという。先代の喜代次氏は「技は見て覚えて、盗め」という姿勢の職人気質であったことに加えて、喜代次氏が「ペーロンづくりは勘と目で」というセリフを長崎市のあるローカルテレビのCMに出演した際に言ったことなども影響して、図面がないかのように思われたのではないかという。
祥禎氏はペーロン船を作る際に材料選びが最も大事であるといっても過言ではないという。ペーロン船には杉の木が使われるのであるが、現在のペーロンづくりには全て熊本の杉の木を使用している。そしてこれを仕入れるときは祥禎氏自ら熊本県に行き実際に丸太の状態を長年の経験と努力によって養われた自分の目で見て選ぶという。またペーロン船づくりに使用する木は曲がったものを使う。ペーロン船は弓の形になっているので真っ直ぐな木を使うとその分木を無駄にしてしまう上に、作りにくいのである。船の反りに合わせて作らなければならないので、曲がった木のほうが使いやすいのである。このように杉の木も1つ1つ個性を持っており、それを見極めなければ良いペーロン船が作れないのでペーロンを作る際には木と向き合い、材料の木を見る目を養うことが最も大事な事であるという。
写真8 製造途中のペーロン船
2.ペーロン船の注文の変化
ペーロン船のデザインはチームごとによって違うと言われており、実際にペーロン船を注文する際にチームによって船自体の色の指定をするチームもあるという。またペーロン船の先端の入首(にゅうし)の部分は本来魔除けの意味を込めて赤色に塗るというのが伝統になっていたが、昭和50年代前半から赤色ではなくチームカラーに合わせた色にするチームが増え始めた。これはチームカラーと色を合わせることでチームがどの船であるか一目でわかるので応援する際に便利だという面もある。
また以前はペーロン船を24名漕ぎにしてほしいという注文をしたり、乗組員それぞれの体重を言って船を調節するよう注文したりするなど、ペーロン船の構造自体の注文もあったのだが現在はそのような注文はなく、祥禎氏におまかせということになっている。また、船を漕ぐために使われる櫂の長さはペーロン船が弓の形をしていることから乗る場所によって変わり、舟首と尾首の人が持つ櫂が中央部に居る人の櫂より長くなっているが、現在では同じ舟首で使われる櫂でも腕力に合わせて長さが調節されるようになっている。
3.塚原祥禎氏から見た現在のペーロン
ペーロン競漕には2つの漕ぎ方がある。ピッチ漕法とストローク漕法である。ピッチ漕法は櫂を短く持ち、漕ぐ回数をより多くする漕ぎ方でストローク漕法は櫂を長く持ち、より大きく漕ぐというもので、ピッチ漕法は1分間に60回〜65回漕ぐことが基準でそれ以下がストローク漕法である。現在多く使われるのはピッチ漕法であり、約7割のチームがこの漕法を取り入れている。ピッチ漕法は確かに漕ぐ回数は多くなるが、櫂が深く入らないため、1度に進む距離が短く、ストローク漕法は漕ぐ回数は少ないが櫂がより深く入るので1度に進む距離が長い。どちらも一長一短あるのでどちらが良いというわけではないのだが、ピッチ漕法を用いるチームが多くなっている。
現在、少子化によって漕ぎ手が少ないことが大きな問題となっている。以前は漕ぎ手を選抜していたのに対し、現在では漕ぎ手を探さなければならないようになっている。また、資金不足も深刻な問題となっている。ペーロンにかかる資金は全て各自治会の寄付金で賄われているのだが、不況によって寄付金自体が少なくなっていることにより、以前はペーロンの注文は1つのチームが5年に1回であったのが現在では10年に1回ほどになっているという。この少子高齢化と不況による資金不足によって、ペーロンを続けていくことが年々難しくなってきている。
結び
本論文では現在長崎県で使用されるほとんどのペーロン船を作っている長崎県長崎市牧島町の塚原造船所での聞き取りを中心にペーロンの現在、特に牧島町のペーロンの現在を調査し、以下のようなことが分かった。
・ペーロンの始まりは各地区によって違い、牧島でのペーロンの始まりは竜宮祭という行事であったということ。
・地区大会の在り方は各地区によって違い、自動的に長崎ペーロン選手権大会に出場できるチームがある。
・少子高齢化の影響によって漕ぎ手は減少しており、また不況により各チームの自治会が集める寄付金によって賄われているペーロン船の注文頻度も低くなってきているなど、現在のペーロンを取り巻く環境は厳しいものとなっている。
謝辞
本論文を書くにあたり、今回の長崎での調査にご協力いただいた皆様には大変感謝しております。ご多忙にもかかわらず筆者のインタビューに応じてくださった塚原造船所の塚原祥禎さん、突然の訪問にも関わらず快くご協力してくださった牧島ペーロン保存愛好会関係者の方、様々な情報を教えてくださった牧島町の方々、本当にありがとうございました。この場を借りて心よりお礼申し上げます。
参考文献
柴田恵司 1998年「東アジアと東南アジアの船」 長崎県労働金庫 96pp
住民基本台帳に基づく町別5歳別人口(各年末)http://www.city.nagasaki.lg.jp/syokai/750000/752000/p023438.html(2016/01/11 アクセス)
長崎ペーロン狂想曲
http://pe-ron.kikita.net/kai.htm(2016/1/11アクセス)