関西学院大学 現代民俗学 島村恭則研究室

関西学院大学大学院 現代民俗学 島村恭則研究室

真珠養殖をめぐる技術の伝承と交換 −長崎県の事例から−

社会学部 長岡優奈
目次
はじめに
第1章 長崎県の真珠養殖
1.長崎真珠、真珠養殖について/園田真珠店
2.長崎県真珠養殖漁業協同組合
3.深江真珠
4.あこや貝種苗センター
5.一般的な養殖技術
第2章 漁場ごとの技術伝承
1.漁場ごとの利害関係による管理技術の非公開
2.漁場ごとの海の環境差による養殖技術の差異
3.非公開の管理技術とは
4.管理技術の非公開が起こった背景
第3章 漁場を越えた技術の交換と共有
1.技術の交換の起こり
2.「真珠研究会」について
3.交換・共有が起こった社会的背景
むすび
謝辞
参考文献


はじめに
 本稿は、「真珠発祥の地」といわれる長崎県を今回の社会調査実習のフィールドとし、真珠養殖における技術について、その伝承と交換というテーマを長崎県真珠養殖漁業協同組合から伺ったお話を中心に明らかにしたものである。今回の調査では、園田真珠の古賀眞次氏、長崎県真珠養殖漁業協同組合の専務理事である中村修氏、同組合の一事業所であるあこや貝種苗センターの場長の山田英二氏、深江真珠社長の深江久和氏の4名にお話を伺った。


第1章 長崎県の真珠養殖

1.長崎真珠、真珠養殖について/園田真珠店
 まず冒頭で紹介した、長崎県が「真珠発祥の地」であるという事についてだが、これにはある歴史的事実がある。それは明治40年、長崎県は、先に半円真珠の養殖に成功していた三重県や他のどこよりも先に真円真珠の養殖に成功し、その翌年には日本で初めて明治天皇に真円真珠を献上したというもので、この事から長崎県は「真珠発祥の地」と呼ばれるようになった。
また、長崎真珠は歴史が古く、『長崎県真珠養殖漁業協同組合史 第2巻』(以下、『組合史』とする)を参考に3つ挙げると、古いものでは奈良時代の『肥前風土記』に記録が残っているとされている。
 二つ目は中世のもので、1582年に九州のキリシタン大名大友宗麟大村純忠有馬晴信)によって派遣された天正遣欧使節伊東マンショ、千々石ミッシェル、中浦ジュリアン原マルチノ)が当時のローマ法王グレゴリー13世との公式謁見の際に、法王と従者にひと握りずつの真珠を贈ったというエピソードで、このことから組合史はこの天正遣欧使節について「真珠使節」と称している。このエピソードにおけるローマ法王に献じられた真珠は、使節の出身地の関係から見て大村湾のものであると言えると大島襄二氏の論文(1971)でも取り上げられており、長崎真珠の歴史の一つとして数えられる。
 三つ目は江戸時代から明治期のもので、真珠貝奉行や目付等の設置による真珠貝の無断採取禁止という真珠保護政策が歴代の大村藩主によって代々続けられたというものである。また真珠の粉末を原料とする目薬や軟膏などという大村藩家伝の秘薬もあったという。
 これらの歴史は、養殖ではなく天然真珠時代のもので、長崎県大村湾には古い時代から真珠貝が生息していたと考えられる。では、養殖における長崎真珠はどのようなものなのだろうか。真珠の基本的な知識を含め長崎真珠について、園田真珠店の古賀眞次氏にお話を伺った。長崎駅から路面電車で7駅の原爆資料館の前に位置している園田真珠店は、養殖から製造販売まですべて自社で行っている。また店内の一角には、あこや貝の成長過程やその他の真珠貝、使用される道具などが展示されていた。
 あこや真珠は最大で10mmとされ、ネックレスやイヤリングのセットの販売は通常7〜7.5mmで、8mm以上のものが「大珠」と呼ばれるようになるという。この真珠のサイズは、真珠の基礎である「核」で決まるのだそうだ。真珠層という貝殻内面の光沢がかった層が、「玉(核)入れ」で挿入された「核」を何年かかけて一生懸命巻いたものが「真珠」なのだと説明して頂いた。また、真珠の評価について、この「巻き」が良い事(厚みがあるかつ均等に丸い)、「キズ」が無い事、「テリ」と呼ばれる真珠の内面から漏れる奥深い輝き、「大きさ」が条件として挙げられ、これらが完璧に揃っていると「花珠」と呼ばれる真珠になるのだそうだ。

写真1 あこや貝の成長過程。真珠養殖では、2年または3年の貝が主に使用される。

写真2 長崎県の真珠についてと挿核作業(玉入れ)についての説明。
 さて、ここからは長崎県における真珠養殖の歴史を真珠組合が出来るまでの部分で紹介していきたい。長崎県の真珠養殖の始まりは明治40年に遡る。先述した大村藩の真珠保護政策が大村純雄伯爵の代で発展し、大村湾水産養殖場が設立されたところから始まるのである。参考の『組合史』には、「真円真珠を発明した両研究家が、期せずして相前後して我が長崎県大村湾の南と北に来たり、土地の指導者と連携して真円真珠養殖の技術の改良に努力したのである。貝付真珠(半円真珠)においては三重県内において当時既に盛況をみるも真円真珠においては、我が大村湾が先行したことは注目に値する。」(p.57)とある。両研究家とは、西川藤吉氏(M.39特許出願)と見瀬辰平氏(M.38特許出願)で、見瀬辰平氏は大村純雄伯爵に招かれ先述の大村湾水産養殖場の指導者となったのである。「当時御木本真珠養殖場の貝付真珠事業の目覚ましい発展を除いては全く基礎技術の固まらぬ時代で」(p.53)、この二名の研究家たちによる大村湾での技術改良・研究時代の明治時代を経て、養殖技術の完成に従って真珠養殖は実業時代である大正時代に移っていったという。その後も養殖技術の改良等が続けられ、やがて戦争時代へと突入していくことになるのである。昭和15年の輸出水産取締法真珠養殖許可規制と奢侈品製造販売制限規則によって「真珠養殖は薬用真珠の養殖を除いて禁止されることとなった」(p.60)という。戦時の完全休業を経て、長崎の真珠養殖業界は戦後昭和21年任意組合「長崎県真珠組合」を結成、23年の水産業協同組合法の公布により、25年3月11日、長崎県真珠養殖業協同組合が設立されたのである。

2.長崎県真珠養殖漁業協同組合
 さて、ここまで戦前までの真珠養殖の歴史と組合の成立までを簡単に紹介したところで、本稿のテーマの中心となるお話をして頂いた長崎県真珠養殖漁業協同組合について紹介していきたいと思う(以下、真珠組合とする)。
 今回訪れた真珠組合の事務所は、長崎駅から路面電車で9駅の平和公園のすぐ近くに位置しており、「真珠会館」と呼ばれている。今回お話しいただいたのは、真珠組合専務理事の中村修氏である。まず、調査当時養殖場で行われていた作業や、組合の事業について説明を頂いた。調査に訪れた11月は、ちょうど「浜揚げ」の作業であるという。この作業について、実際に養殖場で見せて頂いたので後ほどその様子を紹介したい。また組合には現在26名の組合員が所属されているそうだ。組合の範囲は、対馬を除き(対馬地域には独立した養殖組合が存在している)壱岐、五島を含めた長崎県全域とされる。組合の事業については、真珠組合の業務報告書を参考にすると、共済、購買、販売、採苗、指導の5つの事業があり、この中でも採苗事業について詳しくご説明を頂いた。採苗事業とは、真珠を作り出すあこや貝そのものの繁殖と人工ふ化、あこや貝の育成とそのためのエサ(人工プランクトン)作りを行っている事業だそうだ。この事業は長崎県西海市に所在する「(同組合)あこや貝種苗センター」という施設で行われている(以下、「あこや貝種苗センター」とする)。この施設についても、真珠会館の方々のご厚意で連れて行って頂いたので、これも後ほど紹介したい。また中村氏はこの真珠組合について、「真珠を作っている生産者のための組合ですので、その方が真珠を作るために支障にならない様に手助けしている、という組合ですね。」と説明してくださった。これは、真珠組合定款第一条「この組合は組合員が協同して経済活動を行い、真珠養殖漁業の生産能率を上げ、もって組合員の経済的社会的地位を高めることを目的とする。」という理念に基づいた組合だという事である。

写真3 真珠会館の外観。

3.深江真珠
 さて、では実際の浜揚げの様子を深江真珠で見せて頂いたのでここで紹介したい。深江真珠は真珠会館から北へ車で約40分、静かな大村湾を臨む海岸に位置している。今回お話しいただいたのは深江真珠の二代目社長、深江久和氏である。訪れてまず、作業台の上でスタッフの方々が浜揚げ作業をされているところを見せて頂いた。あこや貝をメスで開いて真珠が入っているか確認し、真珠が入っていればそれを取り出し、貝肉と貝柱を分別するのである。

写真4 浜揚げされた真珠と、あこや貝の中身の様子。
 写真4の真珠は、浜揚げ作業で出てきたこの日の真珠の一部である。この四つ並んでいる真珠の内、左から二番目が黒く鈍い色をしていることが分かるだろうか。この黒い玉を見て黒真珠として商品になる珍しい玉なのでは、と思ったのだが、これは真珠が貝の中で巻く前に有機物が入り、それを外から巻き込んでしまうから黒くなってしまうのだそうで、汚れが中に入っているだけでなく傷も付いてしまうので商品にはならない、と教えて頂いた。この日少し見せて頂いた中で真珠は3分の1くらいの確率で出てきたように感じたが、真珠が貝から出てきたとしても、採れた真珠の全体の中で、一級品は2,3割ほどだそうだ。「なかなか無いで、一級品は。(もし)全部一級品ば作れればいいけどね。」と冗談を交えておっしゃった深江氏は続いて、この一級品を作り出すには、良い状態の貝と腕(技術)が必要なのだと教えて下さった。これは本稿のテーマに非常に関係している事だと言える。
 他には、実際の養殖に使用される機械等を紹介して頂いた。まずは、肉砕機という機械である。これは主に12月、1月の浜揚げ作業で使用されるそうだ。プラスチックのハネで貝肉と真珠が分けられ、真珠は下に溜まり、肉は上にはねられるという。次に、レントゲンを見せて頂いた。このレントゲンは、玉入れ後海に吊るして一か月程養生させたあこや貝に使うそうで、この一か月の間で核を貝の外に吐き出してしまっている貝も見受けられる時期だからだそうだ。また、他にウォッシャーという船型の機械がある。貝を敷き詰めたカゴを前から後ろまで並べ、水圧で貝を綺麗にするのだという。貝の表面に汚れが付くと貝は弱ってしまうそうで、例えばフジツボが口元についたら貝が閉めっぱなしに、ちょうつがいに付いたら口が開けっぱなしになって死んでしまう。そのため汚れが付かないうちに常に行わないといけないという作業で、深江真珠では一週間に一度の頻度で作業されているそうだ。

写真5 肉砕機。下のバケツには処分を待つ貝肉が入っている。

写真6 レントゲン。左のモニターに貝の中身が写し出される。

写真7 ウォッシャー。船の中で貝が入ったカゴを並べて洗う。

写真8 浜揚げされたあこや貝。

写真9 浜揚げ作業。メスで真珠と貝肉と貝柱に分ける。

写真10 深江真珠養殖場の様子。

4.あこや貝種苗センター
 ところは変わり、真珠会館から北へ車で片道1時間超の西海市の海辺に所在するあこや貝種苗センターについて紹介していく。
 ここでお話しいただいたのは、センター長の山田英二氏である。センターは先述の通り、真珠を生み出すあこや貝を人工ふ化させ成長させる役割を担っており、その成長過程の写真や実際に貝を成長させる水槽など、興味深いものをたくさん見せて頂いた。
 次に敷地内にある「真珠貝供養塔」について紹介したい。これは昭和32年に建立され、元は真珠会館にあったものが種苗センターに移転してきたもので、ここでは一年に一度お坊さんを呼んで1時間程の供養をされているという。この時、組合員の方々もいらっしゃるそうだ。なぜ供養されているのかというと、真珠養殖をするという事は、浜揚げして真珠を取り出す=それだけ貝を殺してしまうという事で、針供養のように、命を使わせて頂いたという事で貝供養を行うのだそうだ。どんな気持ちで供養されているのかと伺ったところ、「(組合員の)皆さんあこや貝で生活しているような形ですね。感謝とか。ここ(センター)に来られたら皆さんお参りされていきますよ。」と答えて下さった。

写真11 あこや貝種苗センター。ここであこや貝の繁殖に使用される親貝が吊るされる。

写真12 人工ふ化された稚貝が育成される水槽。自動でスイッチが入るヒーター付き。

写真13 真珠貝供養塔。

写真14 あこや貝種苗センター。

5.一般的な養殖技術
 さて、本稿のテーマに入る前に、一般的な真珠養殖の技術と真珠養殖の流れについて説明したい。真珠養殖は、4節で紹介したあこや貝種苗センターで親指の爪の大きさほどに育成された稚貝を各事業所が仕入れるところから始まり、各事業所で養殖に使用できる大きさまで育てられる。育成された貝は、成熟抑制のため籠に移され卵子が排出(抑制)された後、挿核作業が行われる。挿核作業は「玉入れ」とも呼ばれる。挿核された貝は海での養生とウォッシャーによる掃除などで管理された後、12月から1月頃浜揚げされ、真珠が取り出される。この浜揚げされた真珠を組合での入札会にかけて流通市場へ、というのが真珠養殖の流れである。また、真珠には「当年物」や「越物」という違いもあり、挿核されてから1年以内で出来る真珠を「当年物」、挿核されてから1年以上海で管理されてできた真珠を「越物」と呼ぶ。挿核に使用されるあこや貝にも2年貝や3年貝などがある。
 具体的な養殖スケジュールは、真珠組合の中村氏に用意して頂いた以下の資料の通りである。

写真15 真珠養殖作業スケジュール①当年物

写真16 真珠養殖作業スケジュール②越物

写真17 真珠養殖作業スケジュール③2年貝越物

第2章 漁場ごとの技術伝承

1.漁場ごとの利害関係による管理技術の非公開
 ここから、いよいよ本稿のテーマに迫っていく。真珠組合の中村氏に、真珠組合設立50周年記念の『組合史』が出版されてから現在までで何か変化した状況について伺ったところ、ここ5,6年くらいで県内の若手世代同士で情報を共有し合い、支え合う動きが出てきており、全国でも同じような傾向がある、という事を教えて頂いた。それ以前はどうなのかというと、漁場(事業所)同士で利害関係があり、お互いに技術を公開しなかった、というのである。この利害関係というのは、妬みであったり、儲けや事業規模による各事業所の儲けの格差によるものがあるというがこれについて詳しくは、第2章5節で述べたいと思う。

2.漁場ごとの海の環境差による養殖技術の差異
 お互いに管理技術を公開しないという事は、確立している一般的な技術において何か細かな差があったという事だろうか、と疑問が湧き中村氏に伺ったところ、実にその通りで、いくつか例を教えて頂いた。例えば、玉入れしてから何日間で沖(外海の大きな漁場)へ持っていく(沖出し)のかという事について、貝の状態を見ながら、ここの漁場では10日で、ある漁場では10日よりももう少し置いておく、というように同じ沖出しでも日数の部分で違いが出るという。そもそも沖出しまで少し間を開けるのは、玉入れによる傷を癒すためだそうだ。真珠貝にとって玉入れというのは、人間にとってお腹にバレーボールを入れるのと同じようなことだと教えて頂き非常に驚いたことを今でも思い出すのだが、つまり貝にそれほどの負担をかけているし、貝自身も異物である核を外へ出したがるので、傷が癒えない内に沖に出してしまうと貝が嫌がって出してしまうのだそうだ。そうなるとレントゲンに通した時に核が写らない、という結果になってしまう。だから毎日目を凝らして貝の状態と海の水温の高低などを見て日数を調整する必要があるのだという。また、この沖出しまでの日数には、海の状態、環境も大きく関わっているそうだ。それぞれの漁場の位置によって差が出て来るそうで、例えば一つの入り江があって、それを曲がると水温が少し違っていたり、潮の流れが直接当たるところとそうでないところがある。これがこの節での海の環境差に当たる。だがこれらによる技術の違いは差異であって、特に秘密というわけではない、と説明を頂いた。

3.非公開の管理技術とは
 では、「管理技術の非公開」というのはどのような部分での事だろうか。海の環境差による管理技術の違いについては、それぞれの事業所がそれに合わせるように努力されているから大差は無い、とまず中村氏は説明された。それよりも、中村氏が今までずっと勤められて感じておられることは、「玉入れの段階での貝の状態で大きな差が出ている可能性がある。」ということだそうだ。つまり非公開(秘密)の部分は、玉入れよりも前の段階にあり、事業所ごとに貝の育て方が違うという点のようだ。この部分が真珠の出来の差につながっているようで、これについては深江真珠の深江氏も、「良い真珠を作るところは貝が上手。やっぱりなんか技術がある。」とおっしゃっており、どのように貝を育てるかが重要なのだと説明してくださっていた。例えば、あまりに元気な貝だと異物(核)が入ってくると吐き出してしまうため、ある程度貝を弱らせなくてはならないのだそうだ。もちろん弱らせ過ぎてもいけないので、この加減が難しそうだと話を伺っていて感じた。また、貝をある程度弱らせたところで一か月自然に戻すという手順があり、この一か月で真珠の出来が決まるのだと深江氏には教えて頂いた。このように、貝の育て方が真珠の出来に直接差を付けるという事を深江氏の具体的な説明もあり明らかになった。
 その他にも非公開にされていた技術として中村氏は挿核手術の仕方を挙げられた。例えばメスの入れ方にしても、貝の奥まで切るか手前の方で止めて切るか、その後核を奥に置くか手前に置くかでも、やはり真珠の出来に違いが見られるそうだ。これらを試してみて、良い結果が出れば他の事業所には黙っておく、という事が往々にしてあったという。また、もう一つ例があり、第1章3節でも紹介した、ウォッシャーを使用する頻度にも事業所ごとに違いがあり、貝とカゴを洗うのが、「ウチは一週間に一度」、「ウチは二週間に一度」、また他には、「玉をむく(浜揚げ)の時にはウチは60日も洗わんよ」というように、それぞれ自分の事業所の貝の様子を見ながら工夫していたようだ。このようなことも、なかなか互いに話をしなかったため、結果的に隠された秘密の技術となっていたようだ。

4.管理技術の非公開が起こった背景
 ここまで管理技術が非公開にされていたという事実について具体例を紹介してきたが、それではなぜこのような事が起きていたのだろうか。ここでその社会的な背景について明らかにしていきたい。まず、この真珠業界が非常に閉鎖的な世界であったから、と中村氏は教えて下さった。そこには、「成績の良い事業所」と「成績が上がらない事業所」の間に大きな格差があり、成績の良い事業所は雲の上のような存在で、成績が上がらない事業所は事業者の輪に入れずにいたという。そしてこの大きな格差が溝となって、いつまでも交流が無かったのだそうだ。成績が上がらない人というのは頑固で人の話を聞かず、自分の力だけでやろうと自分の殻に閉じこもったまま事業を推進してきた一方で、このような閉鎖的な世界の中でもいろんな人の話を聞きながら吸収できる人は良く伸びたという。 
 ここまでで管理技術を非公開にする要因である格差の仕組みが明らかになったが、それでは、この格差が顕著だったのはいつ頃なのだろうか。これについて、中村氏は、「珠(真珠)の値段が良かったときはハッキリ差が出てくる。」とおっしゃった。具体的には、昭和50年代後半において、市況が好調なのに儲けが少ない事業所もあった、という事がそれの事例だそうだ。この閉鎖的な時代であっても、色々アドバイスしてくれようとする人も中にはいたのに(他人の言う事を聞かないから上手くいかなかった)、と教えて下さった。
 この管理技術の非公開の背景について、深江真珠の深江氏は、漁場ごとに利害関係があったとは直接おっしゃらなかったが、やはり前は閉鎖的で大きな事業所が技術を外に出そうとしなかった、また大きな事業所への妬みなども存在したかもしれない、別に技術を隠したというわけでは無いけれど、とおっしゃっていた。養殖業の当事者である深江氏の視点ではこのような感覚だったそうだ。当事者の主観的な視点と、組合の客観的全体的な視点で合わせて考えると、やはり閉鎖的で格差が大きいことから交流が生まれなかったため、良い技術が外に出ていくことがあまり無かった。この事より、「管理技術の非公開」という事実はこの社会的背景の結果的なものであると言えるだろう。このように、それぞれの事業所でそれぞれの技術を良い意味でも悪い意味でも守られて伝えられたのだろうと考えられる。


第3章 漁場を越えた技術の交換と共有

1.技術交換の起こり
 さて、第2章の冒頭で紹介した通り、ここ5,6年の間で、若手世代が交流を持って活動し始めたそうなのだが、これはより良い技術の交換や共有を目的としているそうだ。この活動については後ほど詳しく説明していきたいのだが、このような技術の交換やそのための交流は、いつどのように行われ始めたのだろうか。これについてまず私は、『組合史』第2部「真珠養殖技術の現況」に注目した。第1節「管理技術」での、「真珠養殖の技術的基礎は昭和初期までにほぼ確立され、個々の経営体の技術的較差は昭和40年頃までに平均化されたようだ。」(p.307)という部分と、挿核技術(玉入れ)についての記述で、「真珠養殖の初期には最大の課題であった挿核技術も真珠産業の伸長とともに普遍化、平均化している。」(p.310)の部分である。これらの記述は、漁場ごとの秘密や違いが段々無くなってきたという事なのだろうか。中村氏に質問してみたところ、だいたい合っている、とおっしゃった。それに加えて、「技術自体の情報公開」が始まった事が、技術交換の起こりであると教えて頂いた。どんなものかというと、真珠養殖を最初に始めた三重県の進んだ技術が長崎に入ってきた事に伴い、三重で良い真珠を作っている業者を長崎に講師として招いて講習会を開く、というものだそうだ。これにより、どんどん良い技術が長崎にも浸透してきて広がるようになったそうだ。この講習会は真珠組合によって実際に行われたそうで、いつ頃始まったのかというと、昭和42年の不況のピーク時以降であり、昭和50年代の初めごろにはこの講習会がよく行われたそうだ。この頃は皆がとにかく良い真珠を作るにはどうしたら良いのか必死で、他の業者から技術を盗んで(学んで)吸収する努力をする時代で、もちろんそれは現在も変わらない、と教えて下さった。つまりこの頃から徐々に閉鎖的な世界がオープンになり始めたといえる。
 この講習会では、例えば実際に玉入れの様子を講師が見せて、「核はこの辺りに収めた方が良い」とか、「ここをこういう風に切った方が良い」というような指導が行われたという。この講習会による技術情報の公開が、長崎での養殖技術を平均化し、やっと普通になったのだという。つまり、皆が同じように出来るようになり、そこからまた更に各自の海の環境に合わせたそれぞれにとってより良い技術を確立していったと言える。第2章で述べたような技術の差や違いは、昔は閉鎖的な世界ゆえに秘密として存在していたものが、今ではオープンになったという事であって、違いが完全になくなったという訳では無いのだそうだ。
 また、その他にも、長崎県内だけではなく全国規模での交流について教えて頂いた。それは「全国真珠品評会」という、各県の予選を通った上位の珠各5点を全国で競い合う品評会の表彰式において、水産庁長官賞(大臣賞)を受賞した業者による発表会だそうだ。この発表会では、大臣賞の受賞者が他の事業者の方々が集まっている前で、「こういう養殖をしている」というような技術についてのお話をされるそうで、これは現在も継続的に行われている活動なのだという。
※全国真珠品評会:「社団法人日本真珠振興会並びに全国真珠養殖漁業協同組合連合会(以下、「全真連」とする)主催」。浜揚げ部門、花珠部門に分けられ毎年開催されている。(全真連HPより)

2.「真珠研究会」について
 上記の二つが、これまでの技術の交換や共有の機会として挙げられる。ここからは、第2,3章冒頭で触れた、若手の業者間での交流について詳しく紹介していく。この交流は今から約5,6年前に始まったことで、「若手」とは長崎県内の養殖業者の2代目、3代目のことだそうだ。どのような交流なのかというと、具体的な交流としては2年前からあこや貝の「試験むき」と呼ばれる活動が始まったという。4〜5月の玉入れから9月までそれぞれの事業所で貝の様子を見ながら飼う。次に9〜12月の4か月間で、毎月第1土曜日にあこや貝種苗センターへそれぞれの事業所の貝を持ち寄って貝を開き、中身の状態(貝肉と貝柱の様子、肉の重量、貝の重量等)をチェックする、というものだと中村氏が教えて下さった。毎月一度集まり、一か月間でどれだけ貝肉や真珠が大きくなったかデータを取っているのだ。そしてこの活動において技術の交換、共有が行われるという。15件ほど貝を並べてみるとやはり上手くいっている事業所とそうでないところの差がどんどん出てくるそうで、例えば、Aという事業所が良い真珠を出しているとすると、他の事業所の方が、「どんなふうにして貝を育てたんですか?」と質問し、これに対してAが「どこどこの貝を使っていて、何日間養生させて、掃除は何回して、このサイズの核を入れたよ。」というような会話が自然に行われる。真珠の成長はひと月の間でどんどん変わる(例えば、9月は良かったが10月は成長が伸びていない、11月は伸びた、等。)ので、どんなふうに貝の管理をしてきたのか、回を重ねるごとに技術の交流のやり取りを続け、最後には真珠の選別についても交流するのだという。選別の仕方によってやはり付けられる値段も変わってくるから重要なのだそうだ。この交流が行われることで真珠の品質がどんどん良くなっているそうで、大きな結果を出していることが分かる。
 この技術交流は、2015年に「真珠研究会」という名称で組合事業の一環として設置された、と中村氏が教えて下さった。つまり、真珠組合の事業活動であるという事で、これによるメリットについても教えて頂いた。まず一つは正式な事業として業務報告書に載せると、財政の補助が出るためしっかりサポートすることが出来るという事。二つ目に、組合の事業になると、声をかけたときに皆が集まってきやすい、という事だそうだ。個人で声を掛け合っても、成績の良い人(交流に慣れている人)しか集まってこないことが多いからだそうだ。この研究会は(長崎)真珠組合の全組合員がメンバーになっているが、常時出てくるのは15人ほどで、若手がいない事業所はなかなか出て来る事ができずにいるという。また、出たがらない人もいて、やはりおのずと成績が上がらないことが顕著に出ているそうだ。この人たちにも、組合が「貝を持ってこなくてもいいから見にきて」と声掛けをして、中には参加してくれるようになった人もいるという。これはやはり、組合が呼びかけたからだろうと考えられる。また中村氏は、常時出てこられるメンバーやはり良い成績、結果を出しているとおっしゃっていた。
※真珠研究会:「組合員事業所の若手担い手を中心に『真珠研究会』が発足し、夏場以降の各月に事業所毎に挿核作業貝を持ち寄り、事業所間の交流を図りながら剥身試験を通じて貝の成長度合いや珠の品質等意見交換会が開催された。」(『平成27年度事業報告書』p.4より引用)

3.交換・共有が起こった社会的背景
 このように、真珠養殖業界の元々の閉鎖的な世界が技術の交流を通して徐々にオープンな世界になってきていることが明らかになった。では、この技術の交換や共有の必要性はどこから来るのだろうか。これについても中村氏から詳しく教えて頂いた。
 現在の資本主義社会において、儲ける人もいれば損をする人もいる。これは日本の社会情勢の動きで左右されることだから仕方がないことである。真珠養殖業界においても、輸出産業であるから経済の動きや社会とは切っても切れず、同じことが言える。それでも真珠組合全体で考えたときに、県内で何とかまとまって真珠を作るために作られた組合だから、落ちこぼれを作らないようにしないといけない。この組合の目的による部分が大きい、それが協同組合というものだと説明して下さった。「組合に入っている以上は、一億円の売り上げであっても、百万円の売り上げであっても皆対等である。」この考え方は、よく選挙権に例えられるそうで、差があっても同じ1票。つまり、結果的に「ここが儲かっている」というのはあるが、会社規模に応じた売り上げは最低限確保してもらう。どうしたら同じレベルで皆がやっていけるか考えるのが組合の仕事であり、「どんどん助言していかないといけないと思う。」と中村氏は語る。また、皆で均等に売り上げて皆で幸せを作っていくという目標は、今の社会情勢にも当てはまっているのでは、と教えて頂いた。
 今は、技術を隠すような時代ではなく、富を得て周りに分配するような時代であって、業界は社会全体の流れと同じであると教えて頂いた。「ひとりの力でやれる事なんて知れていますよ。」と中村氏は語る。どこか一つの会社がダントツで儲かっていても、この不景気な時代の中では業界としては何にもならない。皆が寄って話し合い知恵を出し合って力を合わせることで、業界を盛り上げる。そしてこれを手助けするのが組合なのだ、とまとめて頂いた。また、「最終的には良い値で買ってもらって、皆さんに(真珠を)付けてもらって幸せになってもらうのが一番良いですね。」と中村氏は最後に締めくくっておっしゃった。

むすび
 本稿では、「真珠発祥の地」といわれる長崎県の真珠養殖(本稿では対馬を除く)における技術について、その伝承と交換という点に着目して明らかにしてきた。今回の調査を通して、分かったことは以下の通りである。
1.真珠養殖において、漁場の位置が違うと海の環境も違い、各事業所が各自の海の環境に合わせて技術を試行錯誤している。
2.長崎県における真珠養殖業界は組合設立当初から閉鎖的な世界だったが、組合や若手業者の積極的な活動により徐々にオープンな世界になってきている。
3.真珠養殖業界は経済や社会の動きと切っても切れない関係にあり、業界がオープンな世界に向かっている事について、現在の社会情勢からの求めに対応していると言える。
 また調査を通して、真珠発祥の地と呼ばれる長崎県の真珠の浜揚げ量が全国2位を誇るのは、真珠組合の積極的な活動と深江真珠をはじめ各養殖業者間での積極的な交流や真珠づくりでの技術の試行錯誤といった弛まぬ努力が合わさった結果なのだと感じた。

謝辞
 本論文の執筆にあたって快くご協力してくださった皆様に、心より御礼申し上げます。長崎真珠について詳しく知識をくださった園田真珠店の古賀眞次さん。長崎県の真珠養殖業について、組合の視点から客観的で詳しいお話をたくさん教えて下さり、また養殖場への受け入れの掛け合いに加え、組合の業務報告書等資料をたくさんご用意してくださった組合専務の中村修さん。また、遠いにもかかわらず快く養殖場と種苗センターに連れて行って下さった組合スタッフの皆様。お忙しいにもかかわらず、調査を受け入れて頂き、実際の現場や機械を見せて下さった深江真珠の深江久和さん、またスタッフの皆様。突然の訪問にもかかわらず快く現場を見せて頂き、お話して下さったあこや貝種苗センターの山田英二さん。どの方からも大変温かいご対応をして頂き、興味深いお話や知識、経験をたくさん頂きました。
 皆さまのご協力により本論文を完成することが出来ましたこと、改めて感謝申し上げます。本当にありがとうございました。

参考文献・資料一覧
長崎県真珠養殖漁業協同組合,2001,『長崎県真珠養殖漁業協同組合史第2巻 −組合発足50周年記念−』株式会社昭和堂.
・西村金造「戦前の歩みと任意組合発足まで」50−60
・西村金造「組合史第Ⅰ部 第1節 任意組合(長崎県真珠組合)時代−昭和21年〜25年3月」61−63
  ・山口穂積「真珠養殖技術の現況」307−347

長崎県真珠養殖漁業協同組合,2016,『第66年度(平成27年度)業務報告書』真珠会館
・大島襄二,1971,「大村湾の真珠養殖業−採貝採藻漁村と浅海養殖漁村−」『歴史地理学紀要第13巻 海洋・海岸の歴史地理』歴史地理学会,39−60
http://hist-geo.jp/pdf/archive/kiyou/013_039.pdf
長崎県真珠養殖漁業協同組合定款第一条
・全国真珠養殖漁業協同組合連合会 http://zenshinren.o.oo7.jp/