関西学院大学 現代民俗学 島村恭則研究室

関西学院大学大学院 現代民俗学 島村恭則研究室

呉服店と長崎刺繡

社会学部 安井 萌


【目次】

はじめに

第1章 今村呉服店

 第1節 来歴

 第2節 販売形態、客層、繁忙期

 第3節 今村昌宏氏の語り

第2章 中尾呉服店

 第1節 来歴

 第2節 販売形態、客層、繁忙期

 第3節 中尾直己氏の語り

第3章 長崎刺繍

 第1節 長崎刺繍とは

 第2節 唯一の職人 嘉勢照太氏

 第3節 嘉勢路子氏の役割
結び

謝辞

参考文献一覧


はじめに
 呉服店とはいうまでもなく、呉服を扱う店のことである。呉服屋と聞くと、着物の販売だけを行っているようなイメージを抱くかもしれないが、実際にはそうではない。本論文では長崎市内の2軒の呉服店で聞き取り調査を行い、そこから明らかになった長崎の人々と呉服店との関わりを述べる。さらに調査中に、その存在を知ることのできた長崎刺繡についても記す。


第1章 今村呉服店

第1節 来歴
 今村呉服店は、明治32(1899)年、長崎の築町にて創業した。創業者は現社長今村親示氏の祖父にあたる庄蔵氏である。島原の出身であった彼は長崎の呉服店で修業を積んだ後、今村家の婿養子となり、築町にて開店した。
 大正11(1922)年、大火にみまわれたため、浜の町に移転する。当時は、日常的に着物が着られ、着物を財産とする時代であったため繁盛していた。しかし、戦争が激化し、岸信介が企業整備令を施行したことにより、中小企業が解体され、商品や土地を処分することになった。そして、昭和19(1944)年に店を閉め、島原へ疎開せざるをえなくなった。
 昭和22(1947)年、今の万屋町にて営業を再開する。昭和52(1977)年にはビルを建設し、現在の店構えとなった。
 昭和57(1982)年の長崎大水害に遭い、着物が水浸しになるなど大きな被害を受けた。
 大火、戦争による制度改革、水害といくつもの苦難はあったが、それらを乗り越え、100年以上営業を続けている老舗の呉服店である。



写真1−1 昔の今村呉服店



写真1−2 今村呉服店外観

第2節 販売形態、客層、繁忙期
 今村呉服店では既製品を仕入れて販売するという形をとっている。和服と洋服どちらも取り扱っており、和服は京都から、洋服は福岡から仕入れている。和服は、普段着、訪問着、お宮参り、七五三、成人式、そして長崎くんち(注1)用の衣装など、さまざまな用途に合わせた商品を取り扱う。したがって客入りが集中する時期は特になく、一年通してコンスタントにお客が来る。
客層は、基本的に40〜50代以上の女性が多い。販売している洋服もこの年齢層向けのものがほとんどである。お宮参りの時期には若いお客も来るし、長崎くんちの衣装を求めて来る男性客も多い。行事ごとに客層が変わる。
服の販売の他にお客と洗い張り屋(注2)との仲介や、店の隣の土地や2階を利用したテナント業を行っている。



写真1−3 店内①



写真1−4 店内②



写真1−5 店内③



写真1−6 店内奥①



写真1−7 店内奥②


第3節 今村昌宏氏の語り
 今回の調査では専務である今村昌宏氏のお話を伺った。長崎生まれ長崎育ちであり、大学進学を機に、関西へ出た。呉服店の息子として生まれ育ったが、学生時代は店を継ぐ気は全くなかったそうだ。大学卒業後は生命保険会社へ就職し、東京、佐賀で働き、その後宮崎へ営業所長として転勤することになった。それを機に5年間勤めた会社を辞め、長崎へ帰った。「働く日と休日の境が曖昧な環境で生まれ育ったため、公私のはっきりし過ぎている会社勤めになんとなく違和感があった」という。
 そうして帰郷してから呉服についての勉強を始めた。小さいころから呉服に囲まれて育ったとはいえ、改めて知識として身につけるのは難しかったという。「本当は結構コツがいって難しい反物をたたむのは、すんなりできるようになった」と今村氏は得意げに語ってくださった。


第2章 中尾呉服店

第1章 来歴
 中尾呉服店の創業は昭和2(1927)年である。現社長である中尾直己氏の祖父が創業した。福岡県の呉服町で丁稚をしていた祖父は佐世保で店を開いた。しかし、昭和8(1933)年の大火で焼けてしまい、長崎県の築町に店を移した。その後現在の浜の町に移った。



写真2−1 中尾呉服店外観

第2節 販売形態、客層、繁忙期
 昭和30年代の営業時間は午前9時から深夜0時であった。閉店時間は、昭和40年代には22時になり、昭和50年代には20時になった。そして現在は19時閉店となっている。こうして閉店時間が早まったのにはいくつか理由がある。
一つ目は、昭和22(1947)年に労働基準法が制定されたことである。この法により、労働時間が8時間と定められたため、営業時間を短縮しなければならなくなった。二つ目は、人手不足である。それまでは交代で店番をしていたのだが、従業員が減ってしまったことで交代制が成り立たなくなった。三つ目の理由は、客層に関係がある。お客の多くは女性なのだが、まだ専業主婦が一般的であった時代、どの時間帯でも来客はあった。しかし、近年は共働きの家庭が多いので、仕事や家事に追われる18時以降に来店する人がほとんどいない。営業時間の変遷にはこれらの背景がある。
中尾呉服店の客層は主に50代以上の女性である。もちろん長崎くんち関係のお客も多い。また、料亭の仲居をしている人も仕事着を求めて来店する。料亭もかつては近辺に10軒近くあったのが、今では半分ほどしか残っていないそうだ。

中尾呉服店はお客や時代に合わせて販売形態を変化させている。和服と洋服のどちらも取り扱っている。これは今村呉服店も共通であり、現代の町の呉服店のほとんどが、和服と洋服のどちらも扱う。中尾呉服店で洋服も置くようになったのは、中尾直己さんの母の意向であるという。時代の流れと共に洋服文化へ変化していく中で、かつて和服が主流だった頃のお客をよその店へ流さないように、洋服も置くようにした。
さらに、10年ほど前から着物レンタルも請け負っている。洋服が広まる中で、着物の着方やしきたりがわからない、あるいは、高価だからという理由で着物を着ることをあきらめて欲しくないという店の思いによる。「買うか諦めるかという選択肢から、買うか借りるかという選択肢に変えたい」と中尾氏は語る。
ただ売ったり貸したりするだけでなく、場にそぐわない着物選びによってお客さんが恥をかかないように、着物の着方やしきたりのアドバイスもしている。



写真2−2 店内①



写真2−3 店内②



写真2−4 店内奥

第3節 中尾直己氏の語り
 中尾呉服店の現社長である中尾直己氏は長崎で生まれ育った。山口県の大学に通い、親元を離れて学生時代を送った。大学卒業も近くなり、進路を決めるにあたって、中尾氏は呉服店を営む親御さんと同じ道をたどりたくなかったため、東京で就職した。東京で生活をしていると、人と人のつながりの薄さを感じたという。そんな中、27歳の時、中尾氏の所属する榎津町が長崎くんちでの踊町(注3)にあたった。それに参加するため、長崎へ帰郷した。その時に、自分自身の長崎くんちへの強い思いを感じ、仕事をやめた。
 中尾氏は、長崎くんちに対する思いがとても強く、「長崎くんち世界遺産にしたい。そうなることで世間に注目され、祭り自体もさらに盛り上がる。祭りだけじゃなく、それを取り巻く歴史、文化、背景、町の由来、シンボルなどすべてを残していきたい」と語る。
 
 ここから少し長崎くんち呉服店の関わりについて述べる。長崎くんちに関連して呉服店が行うのは、出演者の衣装の販売や衣装の着物のデザインの受注、衣装の手直しの仲介などである。
 衣装関連で、ほかの地方にはない長崎独特の商品がある。それは唐人パッチと呼ばれる物である。これは長崎くんちの中のイベントの一つ、祭りの前に町を練り歩く庭先回りの際に身につけられる。本来の用途は、はかまの下に履いて汗を吸うためだった。現在の唐人パッチは、サテン地で色も金色などの派手な色で、刺繡を入れる人もいて、見せるための物となっている。
この唐人パッチを履いて行われる庭先回りは、山高帽を被り、着物を着て行われる。山高帽の洋、着物の和、唐人パッチの中といった異国の文化と日本の文化を融合したスタイルは、かつてオランダや中国との貿易港として栄えた長崎ならではだという。

 今村呉服店や中尾呉服店のある万屋町は、長崎くんちの区分けでは榎津町にあたる。榎津町の演技は、船を引く川船というものである。この演技では、船を引く根曳き衆と呼ばれる人たちは、着物の右肩だけを脱ぐ片肌という動きをする。実はそれに合わせて、衣装の着物のデザインも普通の着物とは異なるものとなっている。
 通常の着物は生地全体に柄が描かれているのだが、この演技用の着物は柄が左側に寄せてある。片肌をした際に、右側の柄は隠れてしまうからだ。


写真2−5 衣装デザイン案

 中尾呉服店は所属する榎津町以外に、銅座町の衣装のデザインも請け負った。なぜ違う町の衣装づくりにも携わることになったのか。それには時代の流れが関わっている。昔はそれぞれの町の呉服店がその役を買っていた。だが、近代では呉服店が次々に店をたたんでいるのが現状としてある。店をたたむときに、依頼先がなくなってしまう得意先に町内の別の呉服店を紹介するのが一般的である。しかし、銅座町には呉服店が一軒もなくなってしまったので、万屋町の中尾呉服店に依頼がきたということである。時には、地元の呉服店でなく、京都の呉服店に頼むこともあるが、話がうまく進まないことがあるそうだ。実際に長崎くんちを体験した人でなければ、細かいニュアンスや長崎くんちにかける思いが伝わりにくく、納得したものになりにくい。たとえ町が違っても、長崎くんちを共有している人に依頼する方がずっと良いという。


第3章 長崎刺繡
 調査を進めていく中で、長崎刺繡なるものがあることを知り、中尾さんのご厚意で唯一の職人である嘉勢照太氏、妻の路子氏を紹介していただき、お話を伺うことができた。

第1節 長崎刺繡とは
 長崎刺繡は長崎くんちの演技の際に使われる傘鉾や衣装に施される、長崎特有の刺繡である。その歴史は江戸時代にまでさかのぼる。中国やオランダとの貿易が盛んだった長崎には、異国の文化が多く入ってきた。刺繡もそのうちの一つであった。貿易の中心であった長崎にはほかの土地より良い材料が入ってきた。また、多くの中国人が住んでいたため、長崎の町や人は中国文化の影響をかなり受けた。中国文化に直に接することのできた職人たちも本場の作品から学び、高い技術を身につけた。これらの背景により腕のいい刺繡職人が育ったとされる。
 一般的な刺繡は布地に刺繡糸で絵柄を描かれるが、長崎刺繡は一味違う。長崎刺繡の特徴として挙げられるのは盛り上げという技法である。これは、絵柄の中に綿や紙縒りを詰めて立体感を出すものである。盛り上げが施されるため、一般に行われる刺繡よりもかなり厚みのあるものになる。その他に貿易港として栄えたことから、異国の文化を反映した色使いであるという特徴がある。赤や金色が多く使われ、華やかな作品になる。



写真3−1 照太氏の長崎刺繡の初めての作品

 さらにもう一つ大きな特徴があると照太氏は言う。

それは、下絵として使われた絵師の存在です。江戸時代の長崎は天領で貿易もさかんで、外国のものや文化が入ってきました。その真贋鑑定・良悪の判断をする「唐絵(からえ)目利(めきき)」という役職があり、たいてい絵師が引き受けていました。そのような時代背景のもと、長崎刺繡の個性ある下絵ができたのでしょう。(長崎文献社 2014:70)

 照太氏が制作する長崎刺繡は13の工程がある。

①生魚のスケッチ モデルの生命感・躍動感をつかむ
②刺繡魚模写 糸の太さ・流れ、コヨリの入り方を確認
③刺繡下絵の制作(平面) 文様化する
④刺繡下絵の制作(立体) 盛り上げ具合を確認する
⑤下絵の分割 魚の構造を理解する
⑥布(木綿)の枠張り 布を木枠に張り、和紙に描いた下絵をその上に張る
⑦肉入れ(紙縒り・木綿糸・綿) 下絵にあった太さ・固さ・長さのコヨリを作る
⑧糸かけ(試し刺し) 色糸・糸の太さ・縒りの加減・糸の向きを決める
⑨分割パーツの合体 合体手順を決める
⑩目玉入れ(魚の表面完成) 吹きガラスをカットし、目玉を着色する
⑪全体の盛り上げ 綿でふくらみをつける
⑫仕上げの着彩 墨・染料を使用して色をつける
⑬完成
 (長崎文献社 2014:56−57)

 飾り船頭衣装の新調はデザインからだと3年、下絵には半年かかった。復元やサイズ調整には1年から1年半。緻密な作業の積み重ねなので年単位の時間がかかるのだ。刺繡糸以外にも吹きガラスや銀細工などを使うこともあり、もはや刺繡の域を超えた芸術といえる。

長い歴史のある長崎刺繡だが、その技を受け継ぐ人は現在では嘉勢照太氏ただ一人である。
 

第2節 唯一の職人 嘉勢照太氏
昭和26(1951)年、嘉勢照太氏は、美術教師の父親と刺繡職人の母親のもとに生まれた。工業大学を卒業したのち、絵画研究所で学んだ。絵の道を志していたが、昭和57(1982)年、30歳の時に母親が製品を納めていた八田刺繡店に弟子入りする。弟子入りした次の日に長崎を襲った大水害に見舞われる。
 刺繡糸も大きな被害を受けてしまい、仕事用には使えないので、その糸で練習をした。3年ほど師匠のもとに通いながら修業をした。弟子入りして5年ほど経った頃、着物に家紋を入れる仕事ができるようになった。
 その後、師匠の死や妻となる路子氏との出会いを経て、平成7(1995)年に独立、長崎刺繡工房の看板を掲げた。平成14(2002)年には、「長崎刺繡再発見塾」を開講。平成22(2010)年には、長崎県指定無形文化財長崎刺繡技術保持者認定を受けている。

 照太氏の大きな仕事として、平成14(2002)年から始まった長崎市指定有形文化財にもなっている万屋町の「魚づくし傘鉾垂れ」の復元10年計画がある。
「魚づくし」は江戸時代1827年に作られたものである。下絵は原南嶺斎が描き、縫師は縫屋幸助、2代目は塩谷熊吉によってつくられた。全長6メートルにも及ぶ朱色の羅紗に16種29匹の魚が刺繡されている。
「魚づくし」は、万屋町から復元を依頼された時には下絵が行方不明になっていた。下絵がないと復元作業もできないので、照太氏は、実際に魚を見て、触って、観察を続け自らの手で下絵を描き上げた。
制作に入り数年経った頃、原南嶺斎の描いた下絵がロンドンで見つかった。おそらく明治の混乱期に持ち出されたのだと考えられる。ロンドンの骨董品屋で見つかったのだが、高価であったため買い取ることはできず、現在はアメリカの博物館に所蔵されている。
 そして、平成25(2013)年に復元新調を終えた。そして、秋の祭礼「長崎くんち」にて初奉納された。


第3節 嘉勢路子氏の役割
 照太氏の妻である路子氏は、「長崎刺繡再発見塾」の塾長を務めていて、照太氏のサポートしている。長崎刺繡が注目される前、照太氏を経済的にも精神的にも支えた。今でも照太氏が刺繡に集中できるようにあらゆる面でサポートをしている。

 路子氏はとある出来事をきっかけに長崎刺繡の保存に努めることになる。ある日、元々刺繡に興味があった彼女は美術館で作品を鑑賞していた。その中に長崎刺繡の作品もあった。その説明文を読んで驚愕した。「長崎刺繡は途絶えた」と書かれていたのである。実際にはまだ職人もいて、途絶えていないことを知っていた彼女は、はがきを送り、まだ存続している旨を伝えた。すぐに美術館の方から謝罪の返事がきて、説明文は訂正された。
 これを機に路子氏は、長崎刺繡を認知させたい、世間の人がまだ知らない世界を伝えたいという思いから、活動に乗り出した。

 「長崎刺繡再発見塾」は平成14(2002)年に入塾した1期生から平成20(2008)年入塾の6期生までの45人が所属している。塾生は全員女性で、下は28歳、上は90歳まで幅広い年齢層である。現在、塾生の募集はしていない。路子氏によると塾の概要は以下の通りである。
 
この塾は長崎市の伝習所活動が始まりである。市民と共に途絶えたと思われていた「長崎刺繡」を再発見したいという思いから命名した。当時は、「長崎刺繡」の写真も資料も殆どなく現状を把握することから始めた。その後長崎市の伝統工芸人材育成事業に代わり、長崎歴史文化博物館での体験工房スタッフの育成の目的も兼ねながら、刺繡実技の習得を続けている。

 塾生が手掛けた主な作品には、出島の様子を描いた「出島蘭館図」の刺繡での再現や、桶屋町の傘鉾の十二支刺繡がある。もちろん博物館での体験教室のボランティアスタッフとしての活動もしている。
 路子氏は塾生に伝えていることがいくつかある。「私たちはプロではないけれど、趣味ではありません」、「お互いに支え合ってください」、「刺繡の上手い下手を気にするよりも、目を養うことが大切です」と。これらの言葉を受けている塾生たちは、日々熱心に活動している。活動自体は強制ではない。参加できる人はたくさん参加して、出来ない人は年に最低でも2回参加する。ボランティアスタッフが急に足りなくなっても、すぐに別の誰かが埋め合わせられる関係である。
 塾生たちは、博物館での刺繡体験、およびボランティア活動、そして作品づくりを共有することで信頼関係を築いている。
 路子氏が塾生たちに求めるのは、ただ刺繡の技術を上げることではない。それよりも刺繡の価値がわかるようになって欲しいという。昔の本当に良いものを見極められるようになれたら嬉しいと語る。良い目があれば、他の人の作品を見て学び、自分の技術を向上させることにもつなげられる。
 これらのことを胸に活動しているからこそ、意識を高く持って活動できる。開講してから一人もこの再発見塾をやめていないのにも頷ける。

後継者については、「息子が二人いるが、継いで欲しいとは言っていない。作りたいという意思だけでは成り立たない。技術、絵心、スキルがあること、理解してくれるパートナーがいることという条件がそろって初めて仕事になる」と息子さんの意思に委ねている。   

これだけ熱く路子氏を長崎刺繡保存のために動かしているのは何なのだろうか。「長崎刺繡の未来への道を開拓する気持ちで活動している。そうして切り開いた道を、次世代の人について来てほしい。」、「他の誰でもない、自分たちがやらねばという責任感と使命感がある」と語った。路子氏は、昔から着物(布)や陶芸が好きで目を養ってきたからこそ、長崎刺繡の魅力をキャッチできたという。

結び
 本調査では、2軒の呉服店を訪ね、インタビューを行った。その結果、他の地域にはない長崎特有の商品があることがわかった。さらに、長崎刺繡という伝統工芸に出会うこともできた。インタビューを通して、長崎くんちが人々の生活や精神にいかに深く根付いているかを垣間見ることができた。町の人々の強い思いがあるからこそ、町の呉服店にも長崎くんち専用の商品が残っているし、長崎刺繡という伝統工芸を途絶えることから救うこともできた。


1.毎年10月に長崎の氏神である諏訪神社で行われる伝統神事。奉納踊と呼ばれる出し物をする。
2.着物のクリーニング屋。汚れた着物を一度解いて、反物のように伸ばした後、もう一度仕立て直す。
3.その年に奉納踊を披露する町。長崎市内中心地の町を7グループに分け、7年に1回踊町が回ってくる仕組みになっている。

謝辞
 今回の調査をするにあたって多くの方にご協力いただきました。今村昌宏氏、中尾直己氏、嘉勢照太氏、嘉勢路子氏、今村呉服店の皆様、中尾呉服店の皆様、杉本屋の水野昇氏、突然の訪問にも関わらず、お忙しい中お時間を割いて貴重なお話をして下さり、心より感謝申し上げます。ご協力してくださった皆様、本当にありがとうございました。

参考文献
土肥原弘久『長崎くんちについて』、昭和堂長崎支店、2010年
長崎くんちホームページ」http://nagasaki-kunchi.com/(2014年2月28現在)
長崎文献社編『長崎刺繡の煌めき 諏訪神事「くんち」奉納の伝統工芸総覧』、2014年