関西学院大学 現代民俗学 島村恭則研究室

関西学院大学大学院 現代民俗学 島村恭則研究室

熨斗屋―富山市における結納品店の民俗誌

熨斗屋―富山市における結納品店の民俗誌
1027 氏田楓


【目次】

序章

第1章 稲垣結納品店

(1) 店の来歴

(2) 結納の「精神性」―稲垣良子氏の語りから―

第2章 中島松鶴

(1) 店の来歴

(2) 結納の今昔―中島征子氏の語りから―

(3) 紙折技術―中島ゆかり氏の語りから―

第3章 松住商

(1) 松住蝋燭鉱業所(商店)の来歴

(2) 結納品店―松住晶子氏の語りから―

(3) 結納品の持つ意味

第4章 高桑乃し店―高桑稔氏のライフヒストリー

結び

謝辞


序章

結納とは婚約を両家の間で正式に確認し、縁を結び納めるめでたい儀式であり、両家の両親・家族・先祖への感謝の気持ちを形に託す文化である。結納品目の詳細な説明については、話者の語りと共に本文中にて記すが、富山県の場合は長熨斗・御神前・御仏前・御清酒・目出鯛料・寿留女・子生婦・友志良賀・寿恵廣・御結納金・御結美和・御慶粧料・家内喜多留・宝船などがあり、いずれも「健康・長寿・幸福・発展・節操・歓喜・多産」等の象徴としての意味が込められている。
そして、それぞれ意味を持った結納品は5品、7品、9品、11品……というように必ず奇数で組み合わされ、鶴亀松竹梅等の水引飾りによって装飾されてから両家の間で取り交わしを行うことができる状態となる。
 こうした結納品を取り扱い、客と共に結納を形にしていくのが結納品店の立ち位置であるが、そもそも富山市内では結納品店は熨斗屋と言われている。それは、熨斗紙を用いて結納品を包装し、装飾する作業を行うのが結納品店の主たる役目だからだろう。
 以下はこれらのように、富山市内で熨斗屋と呼ばれる4店の結納品店での聞き取り調査から明らかになった事柄をまとめた文章である。


第1章 稲垣結納品店

 (1)店の来歴

 富山市砂町1丁目に店を構える稲垣結納品店は、明確な創業年は不明ということだが戦前から結納品を扱う店として、現在まで店を営業している。店舗の外には「稲垣結納品店」と表示しているが、創設者である稲垣宗平の名前にちなんで、「稲垣宗平商店」を屋号として使用している。現在では結納品専門店として親しまれているが、創業当初は結納品専門店ではなく、箱作りを専門としていたようだ。それは、贈り物等は箱に入れて送るのが礼儀とされていたことが挙げられる。現在のお歳暮やお中元の商品を見ても分かるように、大抵は商品を箱に入れ、またそれを包装して送ることが一連の形となっているということからから派生して、次第に包装した贈り物に水引をかけるようになり、そこから結納品へと発展し、現在に至る。移り変わりの詳細な年号、理由等は明らかではないとのことだったが、箱作りから派生している店ということは代々語り継がれている事柄のようだ。
 
(図1)稲垣結納品店内



(2)結納の「精神性」―稲垣良子氏の語りから―

 現在、稲垣結納品店の4代目として店を営んでいるのが今回の話者である、稲垣良子氏である。稲垣氏は東京都出身で1964年、24歳の時に富山県に嫁に来て以来、結納品の熨斗かけ、文字入れ、小さな水引飾りの作成等を担う。嫁に来た当初は、まず熨斗屋専門店が世の中にあるということに驚いたという。稲垣氏の夫の両親はどちらも店で働いていたようだが、夫本人は会社員をしていたため、夫方の両親の下で、真似をしながら様々な作業を覚えていった。
稲垣氏は「熨斗の移り変わりはある」と語る。戦後は何もない時代ということもあり、結納自体も決して盛んとは言えなかった。しかし稲垣氏が富山に嫁に来る前の1962年頃から最も盛んな時期へと突入したようだ。この時代は子どもも多く、結納も盛んに行われていたため、稲垣氏が嫁に来た当初は従業員を6.7人雇い、食事を含めた家事を担う、お手伝いさんも雇っていたほど、仕事量が多い多忙な日々を送っていた。このような全盛期があったのに対して、現在はというと、そもそもの子どもの数が減少しているという実態はあるものの、結納の取り交わしをしっかりと行うケースが大幅に減少しているのが現状である。稲垣氏はこれに対して、「精神が希薄になってきた」と語る。というのも、現在の結納のケースとして、結納金や指輪のみの取り交わしという内容が増加していることが挙げられる。お金や品物のみに意識が向いてしまい、あまりにも短絡的に事が進んでしまうということに対して稲垣氏は「精神性」が欠落したと表現しているのだ。
富山の結納品の中には、御神前、御仏前といって、先祖への贈り物が必須品目と言っていいほど大切に重んじられている。これは富山独特の文化だが、嫁ぎ先の御先祖様に挨拶をするという意味でも、御神前、御仏前は欠かせないものなのである。しかし、現在の結納では、前述したように結納金と指輪のケースが多い。結納というのは、両家の気持ちの表れであり、結納品それぞれに込められた願いというのも存在するので、簡素化すれば良いというものではないようだ。結納は一種「人生のけじめ」である。現在、殺伐とした人間関係が存在する日本であるが、結納の儀には、「人の心を大切にする感謝、敬い、幸せの気持ち、こころの温かさ」が表現されているため、日本人にとって、「人間業」をしていく上では欠かせない行事として結納が存在していると、稲垣氏は語る。稲垣氏にとって結納とは、時代の流れや流行性と共に変化していくものではなく、「根本の人間性」「心の美意識(精神の美意識)」を表現する一つの手段なのである。

 
(図2)稲垣結納品店 店頭(右側:樽飾り)  
 
(図3)酒樽

第2章 中島松鶴

 (1)店の来歴

 富山市砂町1丁目に店を構える中島松鶴堂は結納品専門店として大正7年に創業し、現在、4代目中島征子氏、5代目中島ゆかり氏で店を営んでいる。店の名前は苗字である、中島に縁起の良い松と鶴の文字を入れたことが由来だそうだが、元々の苗字は沢木だった。江戸時代、越中中島に住居があり、その地名を名乗って出たことで中島と名乗るようになったことが始まりで、現在までその中島という苗字が継承されている。これらのエピソードに至っては、事実関係は不明ということだが、口承で代々語り継がれている店の歴史の一部である。4代目征子氏も、5代目ゆかり氏も共に中島家に嫁に入り、家業を引き継ぐ形をとっていることから、仕事の内容から店の来歴まで口承によって伝えられているとのことである。
また、中島松鶴堂は結納品専門店からではなく紙屋から始まっている。2代目であった中島キタ氏まで生紙を販売していたそうだ。紙屋の創業年は不明だが、おそらく江戸末期頃からだろうと言われている。生紙を販売していた当時は包装紙というものが存在していなかったため、紙を購入して贈り物を包んでいた。現在の大和デパートが出来る以前、「岡部」という呉服店があり、主にそこでのお歳暮・お中元の包み仕事を1年中忙しく行っており、そのため職人さんも7、8人務めていたということである。そこから包装紙と熨斗紙を使い分ける時代に入り、結納品を扱う仕事も始まった。紙屋から熨斗屋へと変化したのはだいたい明治頃と言われている。ここで、紙屋と熨斗屋ではどのような違いがあるのかと疑問を持つかもしれないが、序章でも述べたように、熨斗屋とは熨斗紙を用いて結納品を包装し、装飾する作業を担うということである。

(2)結納の今昔―中島征子氏の語りから―

 稲垣氏の語りからも明らかになったように、近年、結納の取り交わしは年々減少の傾向にある。以前であれば15品の結納品や宝船も頻繁に出回っていたようだが、現在はほとんどない。結納品数が多かったのも、近所や親戚への贈り物が含まれていたことが挙げられ、それだけ周囲との繋がりが密であったことが読み取れる。
 ここで言う結納の全盛期とはバブル時代。その当時はやはり結納も盛大に行われており大変華やかだったそうだ。1つの結納に3ヶ月程度かけて作成するほど、規模が大きい依頼もあった。時代に合わせて結納品店を始める店も多くあり、当時は20軒ほどあったという。しかし、戦後のベビーブームが過ぎると8軒まで減少し、現在は富山市内で4軒という現状だ。
 次に結納品はどのようにして取り交わしが行われるのかという点についてである。結納品を飾り付ける場所は、新婦方の家の床の間である。富山は家が大きいため、それに合わせて床の間も広い家が多かった。従って、飾り付ける床の間の広さに合わせた宝船を作っていたそうだ。床の間には内幕と呼ばれる幕を貼り、結納品を見栄え・バランスよく配置する。この内幕と対になっているのが、玄関に貼る外幕であり、これによって結納の儀が行われることを示すのだ。中島家では紺色の幕が使用されているとのことだったが、この幕の色は家毎に異なる。このような内幕・外幕も現在では使用されることは少ない。結納の儀が行われる前、綺麗に装飾された結納品は一度新郎方の家の床の間に飾られ、一家、親戚に披露する。そして新婦方も受け取った結納品を床の間に飾ったまま、親戚一同に披露するというのが流れだったようだ。両家の床の間は結納品の舞台の役割をしていた。
 次に、結納の儀式を終えた結納品は一体どうするのかという点である。結納終了後は結納品を装飾していた水引を用いて羽子板を作成するというのが主流であったようだ。記念品として、新郎側が新婦方の家へ送ったり、また両家に置いておいたりするケースもある。そして送られた羽子板は縁起の良い物としてお正月等に飾られるのだ。羽子板を作成しない場合はそのまま保存し、羽子板を作る場合同様にお正月等に飾る。現在では、色紙に水引を貼り付けて飾る人もいるという。
 また、富山には「おちつきの餅の儀式」というものがある。この儀式は女性が末永く家に居てくれるようにという想いが込められた儀式で、御椀に入った一口大の紅白餅を新婦が食すというものである。以前は盛んに行われていたが現在ではほとんど行われていない儀式の一つだ。このように、現在の結納は大変コンパクトになっており、結納というと結納金ばかりが先立ってしまっているようだ。そもそも結納金というのも、本来は新婦の嫁入りの準備に用いられる金として送られていた。しかし、それも近年では結婚生活の準備金として2人で使える金として用いられるようになってきている。それは、新郎の実家へと新婦が嫁に行き、同居する形ではなく、夫婦のみで一から生活を始めることを求めるケースが増加しているということが理由として挙げられる。嫁入り道具の存在が年々姿を薄くしているのもその影響だろう。これらのことも踏まえ、征子氏は「結納は親との最後の儀式」となるので、どれだけ内容がコンパクトになろうとも、一つの儀式として行ってほしい、また、結納は一種の「おもてなし」であるため、結納品を扱う店として、日本人の「おもてなし文化」を若い世代に伝えることも役割の一環であると主張していた。

(図4)中島松鶴堂 話者の中島征子氏、中島ゆかり氏


 (3)紙折技術―中島征子氏、中島ゆかり氏の語りから―

 中島ゆかり氏は群馬県出身で、現在中島松鶴堂の5代目である。群馬から中島家に嫁に来る際、店を手伝うことは決まっていたという。というのも中島松鶴堂は代々、家業は嫁が守るという風習が根付いていたことが挙げられる。征子氏は2代目のキタ氏、3代目のヒデコ氏に、「男の子にはしっかり勉強をさせて」と言われてきた。それは、嫁が家業を守ることができるように、しっかり働いてもらいたいという願いが込められた言葉であった。従って征子氏も、男の子の子どもが2人居るゆかり氏に対して、「男の子にはしっかり勉強させて」と伝えているようだ。代々継承していくには、夫婦それぞれの力が必要ということである。
 このように代々継承されているものの中の一つとして紙折技術が挙げられる。現在、中島松鶴堂で見られる熨斗紙の折り方は2代目のキタ氏が考案したものであり、立体感を持たせるように折られているのが特徴だ。この「ふくらみ」こそが中島松鶴堂の自慢である。中島松鶴堂は、福井から越前和紙と越前水引を仕入れており、熨斗屋の主本となる紙、紙折には特別な想いがあるようだ。また、「結納そのもの」つまり、「熨斗の折り方そのもの」で「結納の美しさ」を伝えたいということから、紙折技術を守り、継承している。従ってこれは、中島松鶴堂にとって今も昔も、結納を表現する重要な要素となっているのである。「職人なのだから腕を磨く」という征子氏の言葉は力強かった。
 
(図5)中島松鶴堂 宝船          

(図6)中島松鶴堂 樽飾り

第3章 松住商

 (1)松住蝋燭鉱業所の来歴

 松住商店は市電通り中野新町で蝋燭、結納品、女性衣服等を扱っている商店である。現在はこのように多様な分野で店を展開しているが、松住商店の歴史は蝋燭の製造販売から始まっている。創業は1910年(明治43)、初代松住清次郎が柳町本家より分家し、古鍛治町で蝋燭の製造販売を開始した。証拠となる資料はないが、初代の親が蝋燭職人だったことから店を創業したと伝えられている。当時は店先で蝋燭を作りながら客を出迎えていた。1926年(大正15)には、店舗を現在の市電通り中野新町9番地へ移す。1942年(昭和17)は軍部の支持により、主に南方戦線前線で使用する携帯型西洋蝋燭(軍名称:陣中蝋燭)を製造していたこともあった。そして、1945年(昭和20)8月1日夜、富山大空襲により工場、店舗を焼失した。この時の空襲で、看板や屋号の書いたのれん、幕等々、全て失ってしまった。そこから2年後の1947年(昭和22)、同地に店を再建し、現在に至る。
 現在では、初代から続くスタンダードな蝋燭に加えて、絵蝋燭の製造も行っている。絵蝋燭のほうは開始してから約30年が経過した。これももちろん全て手書き、手作りである。絵蝋燭は江戸時代の頃、冬に雪で花々がない中でも仏様に花を飾りたいという想いから出来たと言われている。創業当初からしばらくはこのように、蝋燭のみを扱う店であったが、隣家の呉服屋から、商品に熨斗をかけてとの依頼を受けていくうちに、次第に熨斗や結納品を扱うようになっていった。男性は蝋燭作りを、女性は熨斗を中心にどちらも両立しながら店を展開していた。

(図7)松住商店 外観
 
(図8)松住商店 絵蝋燭
        
(図9)松住商店 看板

 (2)結納品店―松住晶子氏の語りから―

 松住晶子氏は富山県出身で1946年に結婚し、松住家にお嫁に来た。現在は蝋燭、結納関係、衣類を扱っている松住商店を中心で担う3代目である。松住氏は結納には、「親の一念」が込められていると語る。そもそも結納とは金品の取り交わしを行うための場ではなく、親が子を想う心を形に変える場ということだ。そのため、結納を行うか否かを決める際、両親の意思が大きく作用する。自分がしてもらったから、子どもにもしてあげたいということから結納を行うケースは多いそうだ。結納を通した「気持ちの表れ」の前提にはこうした経験が存在している。
 現在、様々な所で縁組が行われる為、文化が入り混じり、結納の方式も多様化している。結納の依頼を受けた際には、富山式で行うのか、または異なるのかという話から始まるそうだ。富山式の結納では、「あわせ水」が行われることがある。現在は省略されることが多いが富山特有の文化である。これは新郎側の玄関先で、新郎側と新婦側のそれぞれを合わせたものを飲み、空焼きの盃を割ってから家の中に入るという内容だ。両家の水を飲み、無病息災を願うことを表す儀式である。
 このように儀式としてこれまで行われてきたことは多く存在する。しかし、本論で何度も述べるように、結納自体、省略されてしまっているのが現状である。その中でも松住氏は、決して派手でなくても、お金をかけなくても、相手側に気持ちを伝えようとすることが本来の結納の形であると語る。結納とは「心と心の最初の出会い」「子どもの幸せを願う親の気持ちの表れ」というのが、松住氏の結納に対する想いであり、その幸せの橋渡しをするのが結納品店の役割であると語る。

 (3)結納品の持つ意味

 序章でも少し触れたが、結納品はそれぞれ意味を持つ。松住氏はこの結納品の持つ意味についても詳しく語ってくれたので、ここで取り挙げる。

・長熨斗(ながのし):昔、アワビを伸ばして乾燥させたものが用いられていた。乾燥させることで保存食となることから、食べるに困らないようにという想いが込められている。
友志良賀(ともしらが):白い麻糸。共に白髪までという意味と、強い麻糸に夫婦の協力を示している。現在は人口麻が用いられる。
・寿恵廣(すえひろ):扇子。男女用の2つを対にして送る。末が広がるという家の繁栄を表すもの。
家内喜多留(やなぎだる):酒を入れる柳樽のこと。家内が来るという意味で、一家の幸せのことを意味する。酒肴料の意味で現金を包む場合もある。
・喜子生婦(よろこんぶ):昆布。子孫繁栄、子宝を祈る意味がある。
・寿留女(するめ):女性が留守をしてくれることから、女性の幸せを意味する。長期保存できる食材であることからいざという時の備えも意味する。
・勝男武士(かつおぶし):するめと同様、保存の効く食材であることから、いざという時の蓄えとなる。また、男性の剛毅を象徴したもの。単品で用いられることは少なく、宝船に含まれることが多い。
・宝船(たからぶね):一家の繁栄を意味する。長寿の夫婦の象徴として高砂人形に代える場合もある。
この他、目録、指輪、結納金など、奇数で組み合わせて送る。
 
(図9)友志良賀と長熨斗 
    
(図10)指輪置きの飾り

第4章 高桑乃し店―高桑稔氏のライフヒストリー

結納品店を思わせない店頭のディスプレイが特徴的な高桑乃し店は、総曲輪商店街に店
を構えている。3代目の高桑稔氏が聞き取り調査に応じてくれた。この第4章では、高桑氏のライフヒストリーから見えてくる、現在の高桑乃し店の実態について明らかにする。
高桑氏は、現在の店を開始するまで、半導体を扱う会社に勤め、営業業務担当するサラリーマンをしていた。しかし、2000年に総曲輪商店街が再開発される際、伝統を引き継ぎつつ新しい物を取り入れた結納品店をつくりたいという想いで、2004年の12月から現在の場所で店を開始した。高桑氏が店に入るそれまでは両親が店の中心を担っており、創業1926年(大正15)の店を受け継いでいたそうだ。初代から高桑の名前を使用している。
高桑氏は「送る真心いつまでも」という店のモットーに基づきながら、少しでも結納に関心を持ってもらえるようにと、様々なものを考案している。そのような中で、高桑氏が初めに焦点を当てたのが、取り交わしが終了した結納品や、使い捨てされる祝儀袋であった。それらは、役目を終えると大抵は使用されなくなり、最後には捨てられてしまう。そこで、後々まで飾ってもらえたり使用してもらえるようなもの、捨てられたくない、という発想から、祝儀袋自体がプレゼントになるものを考案した。それが、和紙で作成したもの、巾着になる布製のもの、写真建てになるも、ウールポケットになるものというような新しい形の祝儀袋である。
結納品に至っては、「新たなものに作り変える」という斬新な発想から商品を考案した。結納品は儀式終了後、水引飾りで羽子板を作成し、お正月等で飾るということを本文中でも述べた。しかし、羽子板飾りは一定の時期でしか飾らないということを思い、結納で使用された水引飾りをリサイクルして、クリスマス飾りや小物に代えるという斬新な発想で、儀式終了後の結納品に新たな日の目を浴びさせたのだ。本章冒頭で、結納品店を思わせないディスプレイと記したのはこのためである。ショーウィンドウの中には、松の水引で作成されたクリスマスツリー、鶴や梅のついたリース、干支の置物が陳列されている。そもそも水引とは、人と人の心を結ぶ見えない糸という意味が込められているそうだ。そうした意味、後々まで飾ってもらえるような飾りを、という想いを含めて、水引を広めたかったと高桑氏は語る。結納品店だからといって、結納品のみを扱っていてはつまらない、結納品のみを必要とするお客さんのみでは、つまらないということから、結納品店だからこそできる切り口から、5年ほど前からこのような新たな取り組みを行っている。お客さんの中には、以前から持っている結納品飾りを別のものに作り変えてほしいという依頼も来る。そうした際には、お客さんの要望に応じて洋風にしたり和風にしたり、家の作りに合わせたものを作るようにしている。
ここまで述べたような発想があったのは、高桑氏の営業マンとしてのライフフヒストリーが深く影響している。長年の務めから、営業マンとしての自信があった高桑氏は、「人に喜んでもらうにはどうすればよいか」という営業マンの基本の部分と、「商品を喜んでもらうにはまずは自分を好きになってもらうこと」という持論を持っていた。そして現在、これらの営業マンでの経験が日々のもの作りの原点となっている。だからこそ、結納品に至っても、伝統を重んじるだけではない、柔軟で斬新な発想ができると高桑氏は語っている。
高桑氏は、時代のニーズに合わせて店側も変化する必要があるということから、結納品のみを全面に出していくのではなく、「結納品店」という切り口だからこそ発信できる新しいスタイルの結納品店を実現している。店の在り方そのものから、リサイクルされた商品までの全てが、高桑氏自身のアイデンティティが作用し、表現されていると言っても過言ではない。

(図11)高桑乃し店外観
  
(図12)店頭 水引で作ったツリー
   
(図13)店頭 水引で作った羽子板

(図14)水引で作った小物 店頭

結び

 本論では富山市内における4つの結納品店の実態について明らかにしてきた。稲垣結納品店では結納の「精神性」、儀式としての結納を重んじる在り方、中島松鶴堂では代々継承される紙折の技術でもって結納の「美しさ」を表現したいとする在り方、松住商店では時代のニーズに合わせつつも結納を通した「気持ちの表れ」を大切にしようとする在り方、高桑乃し店では斬新なアイディアを持って時代と共に店も変化を続ける在り方が存在した。結納品店というくくりにおいて、一見すると同じように見えるかもしれないが、本論の構成でも明示しているように、比較的硬派な意見から時代に合わせた柔軟な意見までそれぞれの結納品店で全く異なった在り方が存在し、それぞれの結納の形を表現しているのである。

謝辞

 調査にあたり、様々な方にご協力をいただきました。依頼の際から快く調査を受け入れてくださり、また詳しくお話をしてくださった稲垣結納品店の稲垣良子氏、中島松鶴堂の中島征子氏、中島ゆかり氏、松住商店の松住晶子氏、高桑乃し店の高桑稔氏には大変感謝しております。温かな姿勢で迎え入れてくださった皆様との出会いに感謝し、この場を借りて心より感謝申し上げます。