関西学院大学 現代民俗学 島村恭則研究室

関西学院大学大学院 現代民俗学 島村恭則研究室

べっ甲職人のエスノグラフィー―長崎・藤田家3代の事例―

社会学部 三上佑理

【目次】

序章
  1.長崎とべっ甲
  2.藤田家の140年
第1章 初代、藤田安太郎氏
第2章 2代、藤田日吉氏
第3章 3代、藤田誠氏
結語

謝辞
参考文献







序章

1、長崎とべっ甲
 
 べっ甲細工とは、タイマイと呼ばれるウミガメの一種を原料に作られる工芸品である。
 そもそも、べっ甲細工の起源は中国と言われる。玳瑁(タイマイ)は7世紀には日本に伝来していたとされる。天保12年(1841年)の『玳瑁亀図説』(金子直吉)に次ような記述がある。「聖徳太子摂政の時、小野妹子臣を隋の煬帝に遣、玳瑁を持渡」さらに、奈良県桜井市『上ノ宮遺跡』からべっ甲の断片も出土している。8世紀には、『正倉院』宝物の中に、「玳瑁の杖」、「玳瑁如意」、「螺鈿紫檀五絃琵琶」などもみられる。
日本人が初めてタイマイに接したのは前途した奈良時代であるが、16世紀、17世紀になるとポルトガル・オランダ貿易が始まり、タイマイが長崎に陸揚げされるようになる。
 つまり、中国で生まれた技術がポルトガルに輸出され、16世紀頃に、ポルトガル船により日本へともたらされたということである。17世紀以降には、唐船やオランダ船によっても運ばれるようになる。ここにべっ甲細工の原料(タイマイ)と加工技術の両者が揃うことで、長崎べっ甲細工が始まる。
 タイマイの生息地は主に、北緯10度から南緯10度のあいだがもっとも多く、大西洋、太平洋、インド洋、カリブ海の熱帯海域。サンゴ礁の海である。タイマイの生息地について江戸時代の長崎人、天文地理学者・西川如見は、スマトラ、ボルネオ、インドネシアのジャワ島、ベトナム南部、マラッカなどの地名を挙げている。

写真1-1 タイマイの甲羅
 長崎から始まったべっ甲細工は、以下の理由により大阪、江戸へと伝わっていく。江戸時代、長崎奉行所の役人は、3年から4年で奉行交代により長崎と江戸を行き来した。その際の土産品として、長崎のべっ甲細工を用いたとされる。これにより、べっ甲細工は江戸や大阪へ広まり、べっ甲細工を保持する者がいることで、修理が必要となる。よって職人もやがて移り住むようになり、その地でべっ甲細工を始めた。これが江戸べっ甲、大阪べっ甲の所以である。
 「長崎べっ甲」がもっとも輝いたのは、日本が諸外国に門戸を開いた幕末から明治のはじめである。1858年、長崎に入港した外国船の乗組員からべっ甲細工の修理の依頼が舞い込み、職人たちは慣れない修理に疲労困憊しつつも、知恵を出し合い問題を解決。上客のロシア人がクチコミで「長崎べっ甲」を宣伝してくれたおかげで、ヨーロッパ人やアメリカ人も顧客リストの名を連ねるようになる。1874年頃には、軍艦の模型に代表される精巧なべっ甲細工を手掛けるまでに発展。この他に、葉巻ケース、名刺入れ、帽子のピン、カフスボタン、室内装飾品などを製作。「大揃」とよばれる化粧道具12点セットは輸出の目玉商品であった。当時外国人向けのべっ甲細工をつくっていたのは長崎だけであった。明治時代に「長崎べっ甲」が国際的な評価を確立していった。(1)
 しかし、1992年末、ワシントン条約によりタイマイの全面輸入禁止となる。要因は、絶滅危惧種とされたタイマイである。よって、1992年以後、日本のべっ甲業界では、現存する蓄えた原料からの製作となった。 現在は、バブル期に蓄えた豊富な原料のもとべっ甲業界は存続しているが、限りある原料に終わりは近いため、後継者をとる職人も少なく、現存する職人の代で途絶えるべっ甲職人も少なくないという。

写真1-2 髪留め

写真1-3 かんざし

写真1-4 べっ甲製品のフォーク、くし

写真1-5 小物類

写真1-6 「大揃」 明治時代に輸出されたもの

2、藤田家の140年
 
 今回の調査では、明治初期より140年余り続く、べっ甲彫刻細工師藤田家を対象とした。初代藤田安太郎氏、2代藤田日吉氏、そして3代藤田誠氏にわたり3代もの間、伝統技法を受け継ぎ、今日に至る。藤田家は、原料であるタイマイを問屋から仕入れ、デザイン、加工、彫刻のすべてを自らで行う。初代から今まで、店舗は持たず、自宅の工房で独自に製作し、店などに卸している。問屋から材料を買い付け、デザインを作成し商品化するこの工程を全て一人の職人が行う、現在では、そのようなべっ甲職人は日本で唯一この藤田家3代目藤田誠氏のみであるという。
 べっ甲彫刻細工師とは、べっ甲製品に色づけや彫刻などの細工を施す職人のことである。現在、べっ甲彫刻細工師の数は、日本国内において数人となっている。
 初代から3代にわたる藤田家の各代のライフヒストリーを、3代目藤田誠氏の語りから本論文で述べることとする。(2)

写真1−7 藤田家の家系図(藤田誠氏製作)

第1章 初代、藤田安太郎 

 初代、安太郎氏は、1865年(慶応元年)に長崎に生まれる。その後、染め物屋に弟子入りした説が有力であると誠氏は語っている。当時、小学校を卒業した子供は、丁稚奉公として職人に弟子入りをした。無報酬であるが、8月15日(盆)と正月には、師匠である職人から小遣いが与えられ、里に帰る。丁稚奉公の末、最終的に、のれんわけがなされる。20歳で兵隊に入隊し、22歳で師匠のもとにお礼奉公へ行く。その後、師匠から独立し退職金の代わりに、物納を貰う。物納は、基本的に礼服一式、紋付き袴、ざっとした道具である。 
 安太郎氏は染め物屋に弟子入りしたが、子守ばかりさせられた。彼は、「仕事をしたい」「仕事を手につけたい」「職人になりたい」という思いから、12〜13歳の頃、池崎べっ甲店に弟子入りした。安太郎の父である乙松は、表具師であった。なぜ、べっ甲屋に弟子入りしたのか。それは、乙松がべっ甲職人藤田派の分家であり、本業筋がべっ甲屋だったからではないかと、誠氏は語る。
 弟子の仕事は、主に、地造りのみがきの下仕事(トウサ、現在は、ペーパーかけ)であった。みがきは、もくの葉、角の粉(鹿の角を微粉末にしたもの)を用いる。基本的に、みがきが弟子の仕事であった。職人が作ったべっ甲製品に、彫刻を施すため、彫刻師に委託しに行くこともまた仕事の1つであった。彫刻師が細工を施している間、安太郎氏は、その姿をずっと見た。彫刻師の雰囲気、手法、デザインなどを隈なく目で盗んだのである。これを繰り返し、夜中には隠れて、師匠の菜種油を盗み明かりを確保し、目で盗んだものを踏まえ布団を被り独学に励んでいた。しかし、やがて師匠にばれてしまうが、17〜18歳の頃に師匠にその技術を認められ、彫刻も安太郎氏自身が施すようになる。ここに、藤田家の、全て自らで原料から細工まで行う様式の起源がある。当時においても、全ての工程を自分たちだけで行う、つまりは、1人のべっ甲職人が行うことは非常に珍しいことであった。そのため、他と異なるという点から、優遇されてのではと誠氏は語る。
 2代目にあたる安太郎氏の子、日吉氏は、当時の生活状況を、「風呂に行く金無かった」と言っていたと誠氏は語る。安太郎氏は、酒を飲まなかったという。しかし、徐々にお金ができたのか、安太郎氏の丸山通いが始まる。当時、1,2 か月家に帰ることなく、道具一式を持ち丸山へ行き、丸山でべっ甲を売り、儲けた金で遊ぶことを繰り返したという。その中で、安太郎氏が久々に帰宅すると、妻が玄関にふんどしを飾り迎えたという。  
明治元年から明治37年ころまで、ロシアが冬の時期、長崎にロシア艦隊が居留した。なぜなら、寒いロシアの海は凍ってしまい、冬の間船をだすことが出来ない。よってロシアが冬の時期になると、長崎にロシア艦隊が居留した。ここから、長崎べっ甲の外国人向けの製品が作られるようになった。長崎べっ甲は、ロシア軍人やその他の外国人の定番の土産品となった。外国人は船や戦艦など、装飾品よりか置物のべっ甲製品を好んだ。中には、自分の戦艦の模型図を持ち寄り、その通りに作ってほしいという軍人もいたという。また、安太郎氏自身も行商として、ロシアのウラジオストクに行き、当時で言うと300円ほど、現在でいうと3000〜4000万円稼いだ。しかし全てを女に使ったのだと誠氏は語る。明治時代、長崎べっ甲の商売は以上の通りであるが、一方でもう1つの商売も存在した。
 ロシア艦隊の軍人は当然皆男性である。そして、冬の間、長崎に居留するため、妻や恋人などと会うことは出来ないという状況が発生する。そんなパートナーへのお土産品として、男性性器を模ったべっ甲製品が作られた。その形状は筒状で、中にはお湯を入れることができ、人肌の温度にすることが可能である。ロシア軍人向けのこの製品で、当時のべっ甲職人は、半分以上稼いだという。
 これまで述べてきた初代、安太郎氏の時代に、藤田家の基礎があると誠氏は語る。
1941年(昭和16年)に藤田安太郎氏は没し、安太郎氏の時代は幕を閉じた。

写真2-1 観光丸

写真2-2 帆船


第2章 2代、藤田日吉氏

写真3-1 2代藤田日吉氏
 2代、日吉氏は、1918年(大正13年)に初代安太郎の子として誕生。当時の時代背景として、明治40年頃から大正5年頃まで、世界一次世界大戦の特需、大正10年バブルにより、景気が圧倒的に良かった。よって、長崎では、ほとんどの小学校卒業した子供が丁稚奉公として、べっ甲屋に弟子入りするなか、日吉は、父である安太郎に弟子入りした。日吉は、とても器用であったと誠氏は語る。
 1941年(昭和16年)に安太郎が没したその年に、日吉は出兵する。当時23歳であった。その後1944年に帰国。戦争の影響により彼が出兵した1941年からべっ甲業界全体は休業した。また日吉氏は、川渡造船、三菱に出稼ぎにも行ったという。
 明治40年頃、安太郎氏は、長崎の波止場でホームレスの岩井栄之助氏という男を拾う。仕事場を手伝わせ、雑用をさせ、1年間、初代、安太郎が弟子として世話をしたという。その後、岩井氏は大阪へ出ていき、お茶汲みからはじめ、後に「株の相場師:岩井栄之助」とよばれ、大正時代に私財を寄付して、大阪企業家ミュージアムを作るまでに至った。その岩井が、藤田の家を出る際に、贈り物として、作業台を置いて行った。その作業台が今も誠氏の家に保管されている。これは、岩井氏が自ら材料を拾ってきて作ったものである。ただし、基本的に作業台は個人で作る場合が多いという。
 また仮説として、誠氏は以下のように語る。明治40年頃、日吉氏と同世代である、藤田派の正封勲造氏が、江崎派の江崎べっ甲店で、置物や船、そろいもの(手鏡など)の技術を身につけたことで、藤田派にもその技術が取り入れられ、藤田家でも作られるようになったのではと誠氏は語る。それまでは、藤田派には以上のような技術はなかったという。よって、船や鷲、鯉など、置物の製品は、安太郎氏の時代にはあまり作られていなかったのではないかということであった。
 そして2代、日吉の子として誕生したのが、第3章で取り上げる3代、藤田誠氏である。

写真3-2 岩井栄之助から贈られた作業台


第3章 3代、藤田誠氏
 
 3代、藤田誠氏は1945年8月に2代、日吉氏の子として誕生。中学卒業後、多少横道にそれることもあったが、昭和37年、誠氏16歳の時に父に弟子入りする。当時は、遊び半分で仕事を始めたという。ブローチ1つを彫ると250円の報酬が貰え、遊ぶ金欲しさに仕事していた。2代、日吉氏は才能の持ち主であったが、それ以外の事務的なことは全て、誠氏に任せていたという。そのため、日吉氏に頼まれた伝票を書きかえ、例えば、10個製作するところを、15個製作し、父の取引のない店でこっそりと売るなどした。しかし、これは後にばれてしまったと誠氏は語った。
 以上のようなこともあり、父と衝突することもあり、昭和44年に家出をする。家を出て、他のべっ甲職人のもとで弟子として3年間働いた。その際、師匠に、「金さえあれば何とかなる、そして親父ともやりあえる」と言われ、家に戻り、結婚する。その後、ワシントン条約により、タイマイの輸入規制がなされた。しかしこの時は、規制であったため、そこまで影響はなかった。
 昭和56年から57年頃の不動産バブルが起き、誠氏は稼ぐだけ稼いだと言う。夜の12時ころまで働く時もあったとのことだ。平成3年に、ワシントン条約により、タイマイの全面輸入禁止となる。これを、べっ甲業界では「べっ甲ショック」と言う。しかし、裏ルートも存在したが、それまでのバブルにおいて、かなりの備蓄量をそれぞれの店が蓄えていたため、急速にべっ甲製品がなくなるという事態は起きなかった。
 また平成3年に、日本べっ甲協会が成立、国から30億円の補助金が支給された。また翌年の平成4年には、日本べっ甲文化資料館が設立され、誠氏は指導職に就任。この指導職の給料は、個人的に請け負った仕事よりも大いに高く、収入源が2口になったことで、稼ぎが大幅に良くなったという。べっ甲業界は、タイマイの全面輸入禁止という暗雲が立ち込める中、一方で、誠氏自身は、人生で一番多忙であったが最も稼いだ時期と言い、個人バブルと称している。その生活は、午前6時から9時まで、自宅で、個人的に請け負った仕事。その後午前9時から午後5時まで、日本べっ甲資料館に出勤。帰宅後、午後6時から10時または12時頃まで請け負った個人の仕事をして、一日を終える、というものであった。この生活を平成14年まで勤め上げたと同時に、個人バブルもその時期まで続いた。
 しかし、個人バブルの後発生した、リーマンショック。この時は、仕事がなく、最もつらかった時期と誠氏は語る。
 現在は、自分で材料を仕入れ作品を作成し、問屋に自らもって行き商売をしている。趣味のハーレーの余暇の時間を楽しみながら。生活面で困ることは無く、余暇の時間のために仕事をしていると言っても良いほど、ハーレーへの気持ちは熱い。
 作品を作る際の道具は自分自身で作るのが最もだという。作業台も職人自らが作る。誠氏の道具の1つ、「キサギ」と呼ばれるものも、彼が、蓄音機のゼンマイを拾ってきて独自に作ったという。また、デザインの手法であるが、初代からの受け継がれたデザイン、つまりは過去のものを引っ張り出し組み合わせ、形を変える。そこに新しいデザインが生まれる。と、初代から今にいたるまでのデザイン画も誠氏の工房にはあった。また、西洋の調度品などのデザインを参考にデザインを考えることもあると、工房には、西洋の調度品に関するものから様々な参考書類が揃っている。
 コピーの技術が無かったころは、デザイン画は主に2枚描かれ、1枚はべっ甲本体に貼り付け、2枚目は資料として残していた。現在は技術が発展し、拡大、縮小コピーが可能となり、便利になったという。水性ペンで透明なフィルムに描き、そのフィルムを写し取るという手法に。デザイン画について誠氏は次のように言う。初代、安太郎は紙を貼り下書きをしていたが、2代、日吉氏の頃から半分以上がフリーハンドで、コピーは無かった。よって誠氏自身は最初から、フリーハンドで仕込まれた。デザインをフリーハンドで描くことは、私たち一般人が自分の名前を書くことと同じ感覚であると誠氏は語る。
 最後に、これからのべ