関西学院大学 現代民俗学 島村恭則研究室

関西学院大学大学院 現代民俗学 島村恭則研究室

奇跡と信仰の拡大― 長崎市茂木・潮見崎十一面観音をめぐる宗教民俗誌―

社会学部 仲久保 岳

【目次】
はじめに

1章 茂木と潮見崎十一面観音
 1. 茂木  
 2. 潮見崎十一面観音 

2章 潮見崎十一面観音の奇跡
 1. 濱浦正昭氏 
 2. 潮見崎十一面観音の奇跡 

3章 奇跡後の濱浦氏、潮見崎十一面観音の変化
 1. 広まる信仰 
 2. 観音を見た人々 

結び
謝辞
参考文献



はじめに

 十一面観音とは密教伝来とともに奈良時代から信仰を集め、現世利益を祈願して様々な場所に作れてきた人気の高い観音である。十一面観自在菩薩心密言念誦儀軌経によると、10種類の現世での利益(十種勝利)と4種類の来世での果報(四種功徳)をもたらすと言われる。
 本調査では長崎市茂木町にある潮見崎十一面観音による「奇跡」により命を救われたことにより、観音様のお使いをするようになり大きく人生が変わった濱浦氏、その「奇跡」によって潮見崎十一面観音を信仰するようになった人達にお話を伺うことで、潮見崎十一面観音を巡る「奇跡」と「信仰」の拡大という点から述べていく。
一章 茂木と潮見崎十一面観音
1.茂木
 茂木は地層が古く、植物化石層などが見つかり様々な人達が調査に来ている。そして弥生中期の竪穴式古墳があり昔からここには人が住んでいたという事をうかがわせる。
茂木の地名の由来は、昔の茂木村には入り江に漁師の家が数件あるのみの名もない浦であったが神功皇后三韓からの帰途にこの浦に船を寄せ岸に上がって川沿いに来られた時、川上から若い菜が漂ってきたのでこの『青菜の浦』、川の名前を『若菜川』と名付けた。それからここで裳を着替えられたので『裳着』という地名が起こり、読みやすいように『茂木』と呼ばれるようになった。また、村口に祀ってある所で、八人の武臣が狭い所に夜の被(ふすま)を共にしたので群むれ着きの浦と呼んだのが後に茂木浦となったとも言われている。草木が繁茂し、魚が群れる浦からこの地名が出来たとも言われている。
歴史にこの地が登場するのは正歴5年(994)で天正8年(1580)、茂木は、大村純忠によってイエズス会に寄進され教会領となった。一度だけ茂木は一村すべてキリシタンだった。しかし、天正15年(1587)その協会領は豊臣秀吉により没収される。島原の乱キリシタンの弾圧の功績によって玉台寺に長尾安右衛門の墓がある事から茂木ではキリスト教の影響は江戸時代には全くほとんどなかったようだ。だからこそ伝統的に仏教色が強い地域なのかもしれない。この玉台寺から若菜橋までの道が埋め立てが行われ弁天橋が作られるまで本通りであった。
江戸時代から戦前までは大きな港として栄えた。実際多くの人がここをこの港から島原、熊本、天草、鹿児島、柳川、佐賀にいくのにここの船を利用する多くの往来者がいた。昔の船にはエンジンなどではなく帆で動くものだったので天候が悪ければ船が出せず手持無沙汰になる往来社が多かった。それゆえ、暇をつぶすための施設、例えば女郎屋、旅籠など片町に立ち並んでいたらしい。その名残として今も古い屋敷、鎧戸、石垣が残っており当時の姿をまだ少しだけ垣間見る事が出来る。現在では漁業を生業とする人は減ったがまだ盛んに漁業が行われている。
 明治時代初期には長崎と茂木を結ぶ旧茂木街道ができ、さらに茂木で獲れた鮮魚を運ぶために道路が年代をおって整備されていった。
茂木には大きく分けて四地区の新田、寺下、中、橋口という漁業を主な生業とする人達が住む場所、若菜川を渡った商人たちが集まる片町という場所で分かれていた。
そして茂木は外国人の避暑地にもなっていた。道永えいが、外国人相手の洋風ホテル茂木長崎ホテルを昭和39年に開業していたことからそれは覗うことができる。元々この場所は長崎代官アントニオ村山等安別邸の跡地であった。現在、その跡地は郵便局、スーパーマーケットに変わっている。
 そして海岸沿いには今では減ったが料亭がズラッと並んで、多くの人々が行き交っていたことが想像できる。だからこそ茂木は『長崎の奥座敷』と言われるほど賑わっていた。現在その料亭の中にはゲストハウスになっているものもあり、長崎で働く外国人旅行者、労働者の拠点にもなっている。外国人労働者にはポーランドエストニアの方々が多いとのことだ。

写真1 茂木にある古い地層から出てきた化石

写真2 片町にある石垣

写真3 長尾安右衛門の墓

写真4 玉台寺から若菜橋の道

写真5 ゲストハウスになった旅館

写真6 茂木全体図パンフレットより



2.潮見崎十一面観音堂
 144段の階段を登ると宝永3年(1706年)に開山して子育て、子授けの観音として祀られている潮見崎観音像が祀られている。ここの観音像は奈良時代の僧、行基ゆかりの7つの観音像の一つと言われている。崖沿いに月見台があり、かつては行き交う船の灯台代わりになっていた。また月の光が海に映え、月見台の下をかけて布を引いたかのように美しい光景になる姿の時間帯の月を『布引きの月』といい中秋の名月の日には宴会が行われているのを見ることができるという。
茂木町には茂木町新四国八十八か所霊場がある。その一つに潮見崎観音が入っている。これの原型、四国八十八か所霊場巡りとは弘法大師空海)が八十八ヶ所の寺院などを選び四国八十八ヶ所霊場を開創し、その弘法大師の御跡である八十八ヶ所霊場を巡礼することだ。茂木にこの四国八十八か所霊場巡りが作られた経緯は、吉松万吉氏が四国八十八か所巡りのご利益を得るために、明治30年に八十八か所巡りの創設を思いつき、吉松万吉氏死後も妻子が引き継ぐ事によって昭和4年の秋に八十八か所の本尊安置を終えとのことだ。一番礼所には四国の一番札所の砂を、二番札所には同じく二番礼所の砂をというように置いている。しかし札順が、道順になっておらずこの理由には茂木に古くからある祠や古仏に札所番号や寺名を当てはめたためだと言われている。
 毎年8/10には潮見崎観音堂の祭礼があり、この日に参れば一回で千回お参りするのと同等のご利益があると言われている。この日になると屋台が階段の下に並び人々が集まってくるとのことだ。しかし、後に述べる濱浦氏や周辺のお年寄りの方から聞くところにはこのお祭りの規模は段々と小規模になってきているとのことだ。実際に屋台の数は減ってきており、交通状況の変化など原因にあげられるという。
約5,60年前の潮見崎観音堂の祭礼の日には観音堂までの階段に茂木のおばあちゃん達が座っており子供たちは階段を登りお菓子を貰っていたという。濱浦氏の子供の頃には何回もお菓子を貰おうとして何回も階段を上り下りしていたら、おばあちゃんに「あんたはもうあげたでしょ」と怒られたと語っていた。今ではこれは見られないとの事だ。
 6月上旬には茂木の中でペーロンの大会があり茂木の4つの地区、橋口、中、寺下、新田で争う。その時、新田は観音一という名で出場していた。茂木のペーロンの漕ぎ方はストロークを長くとり回転数より多くの水を掴んで一気に進んでいく漕ぎ方で短い距離ではではほかの地域よりも速かったが、逆に長距離では体力が尽きてしまうので向いていないとの事だった。新田の人達は大会早朝にドラをドーンドーンと鳴らし潮見崎観音堂にまで登っていく。そこで藁で作った舳先に着けるものを一緒に持っていき、観音様にお参りをして下っていき船の舳先に藁を着け本番に挑んでいたという。濱浦さんによると一番強かったのが観音一であったという。これも観音様の力だったのかもと濱浦氏は語ってくれた。しかし現在はペーロン大会自体が昭和50年頃には漁師の減少により無くなってしまったとのことだ。
今より潮見崎観音が茂木で暮らす人々の生活空間と密接に関わっていたと想像できる。


写真 8 以前は灯台代わりだった月見台

写真 9 52番札所

写真10 潮見崎観音堂までの階段

写真 11 登り口にある薬師如来

写真 12 薬師如来のお堂に貼られている願い事
二章 潮見崎十一面観音の奇跡
1.濱浦正昭氏
 生まれは茂木、小中は茂木の学校に行き、そして高校生中退後漁師をやり始める。
数年たったの後、兄が漁師をやっていたので自分はトラックの運転手をやり、30歳程で漁師に戻る。事故が起こるまで潮見十一面観音とは関わりはなく過ごしていた。
2.潮見崎十一面観音の奇跡
 事の始まりは平成九年七月一九日、浜浦氏は長崎と大村の中間付近で車のタイヤがすり減ったので、車の解体屋にタイヤを貰いに出かけ、道中に車のタイヤを外そうとした。その瞬間、ボンッという爆発音と共に車が爆発を起こし燃え上がり、その爆発による炎が濱浦氏を襲い、体に燃え移り一瞬にして体全身火だるまになってしまう。火だるまになった濱浦氏は「熱い。熱い、水、水。」と叫び走ろうとするが、目の前が真っ黒で何も見えなく、その場で立ちつくしてしまう。しかしその瞬間、左の方からスッと黒い像が来たのを見て「あ、観音さんだ」とつぶやく。その時なぜ観音様だとわかったのは子供の頃から8/10の祭りに祖母に連れられてお参り言っていたからだとのことだ。そのまま観音様は右上の方に移動した。その時、先の水道までの道だけの視界が開け、「あっついいいいいいい」と叫びながら水道まで行き、近くにいた女性に助けてもらった。その時、目の前には大きな川があり、もし観音様の導きがなければそのまま川に飛び込んで、そして川の細菌に侵されていただろうとのことだった。
その後に消防車が来て、たまたま通りがかった若者の軽トラに乗り、軽トラにあった毛布に寝ころんだ。その後2件もの病院をたらいまわしにされ、次の三件目の病院行く時、ここなら助けてくれると感じたが、ここでも処置しきれなく救急車を呼んでとの声が聞こえた。この時、濱浦氏は「もうよか。もうよか」と思い意識が途切れたという。
 最後には大村市にある医療センターに搬送された。意識が途切れ2か月半もの間意識不明の状態のまま『手術をしても全身の90%以上が火傷を負って溶けてしまっているのでとるところがなくいつ死んでもおかしくはない状態』が続く。ところが「おかしい、この人は。なかなか死なない」と皆が首を傾げ始めた。一般病棟に戻るとき意識不明の状態で「観音さん上にいる」という言葉を繰り返し呟いていたという。
 意識が戻るとき濱浦氏は一面緑の草原にいたという。そこで濱浦氏は走っていき目の前にあった大きな川を飛び越えようとした。その瞬間襟をつかまれ宙に浮いた。見ると大きなお坊さんだった。後に分かったことだが、このお坊さんは布袋さんだという。平成26年福井県永平寺にある布袋さんの像を見てあれが布袋さんだったのかと濱浦氏は理解したとの事だった。
そして「離せ、離せ」と茂木弁で言い左手で振りほどこうとしてもそのお坊さんは黙って襟首を掴んで離さない。すると右手の方から女性の声が聞こえてきて「まだ渡ったらあかんよ」と言われる。その姿はきんきらきんの衣を着て後光がさしていてこの世ではありえないくらいの美しい女性だった。襟をつかまれ宙に浮いている状態で、観音様が右手で下の方を指したらそこに自分が真っ黒になり死んだ姿が見えた。観音様に「これはあなたの前世、あなたは今なくなったのよ」と言われる。前世でも同じく50歳で火傷をして無くなっていたとのことだった。しかし「今世では助けてあげる」と言われた。そして「観音の使いをしなさい」、「これからは『南無八幡大菩薩』と唱えなさい」と言われる観音様に「帰ろう」諭され右手に観音様左手にはお坊さんと手を繋ぎ帰ろうとして気づいたら二人とも姿を消し病室の中にいたとのことだった。この日から濱浦氏の2度目の人生が始まった。
この体験の後、濱浦氏は観音様の声が聞こえたり、姿が見えたりするようになる。最初の出来事は夜勤の看護師さんに人が見え、それは無くなった人だと観音様が教えてくれた。濱浦氏は看護師さんに誰か亡くなったのかと聞き看護師さんは父が亡くなったと答えた。
病院で看護師さんの親族が死んだことを当てたことにより、病院内で有名になり病院のなかでいろいろ見えるようになった。そして病院内有名になっていき相談を受けるようになっていった。
 濱浦氏は90%以上も火傷をしたのにも関わらず顔だけ綺麗に治っている。これもまた観音様の力で「人から見える部分だけは綺麗に治してあげる」お告げされた。濱浦氏は観音様のお使いをするために人に見られる部分は綺麗に治してもらったと語った。
 退院した後、初めて潮見崎観音堂まで登った時、まだその時は椅子がなければ座れないので椅子に座りお参りをした時、『なんで助かったのか分かる。』と聞こえる。そして濱浦氏はわかからんと言うと『外に出てみなさい』と聞こえたので、外に出てみると天からきらきら輝きながら観音様が降りてきた。次に船におり、櫛で髪を梳いている時に櫛を落とす。そして手で櫛を引き寄せ拾い、指を赤崎鼻にさして赤崎鼻に座った。それで赤崎鼻に以前はいたのだと理解したという。
 観音様が姿を変えて濱浦氏の前に現れる事もあった。濱浦氏と合わせて5人で長谷寺に行った時のことだった。長谷寺の近くにある駐車場に車を止めて長谷寺へ歩いて行った。長谷寺は山の中腹にあり、階段がズラッと並んでいる。濱浦氏はその時事故から5年後のことだったので完治していなく1人で待つことにし他四人には登ってもらった。
その間、することがなく手持無沙汰だったので、階段の左の方に座り煙草を三服ほど吸った時にお遍路姿のおばあさんに出会う『お兄さん登らんですかねえ』と聞かれる。濱浦氏は
「おばあちゃん足悪か」と言う。おばあさんは構わず「あらー私ものぼるとですと、一緒に上りませんかね」と返してきた。みると年齢は80,90くらい、こんなおばあちゃんが登るのだったら自分も登ってやろうと、タバコの火を消し、お遍路姿のおばあちゃんと一緒に登り始めた。そしたら体が急に浮かび足が進む。いつの間にか先に行っていた4人を追い越して行った。登っている間一言も話しせず黙々と歩いて行った。そして長谷寺に着き一休みするために近くに長椅子があったので座った。気が付いたらそのおばあちゃんが消えていた。お守りとか売っている売店等でおばあちゃんどこに行ったか聞くとトイレでも行ったのではないかと言われる。
4人の連れが上がって来た。この4人は濱浦氏がお遍路姿のおばあちゃんと歩いていたのをみていた。だから4人にも探してもらったが、おばあちゃんがいない。仕方なくそのまま本堂に入る。そこで見たものは、高さは10メートル18センチ。木造の十一面観音像としては国内最大級の観音様だった。そこであれは観音様だったのかと理解したという。
 遠くの人々を助けに来るとき、観音様は狐を呼んでまたがって飛んでいくという。これまで濱浦氏は三回見たと語った。飛んで行った時は台風のように風が吹き木々が揺れる。そしてパッと風が止む。
 事件を解決に導いたことがあったという。潮見崎観音堂には殺されていた男性の写真が貼ってある。なぜ貼ってあるかというと、この男性の知り合いの女性が濱浦氏に会いに来た。この女性、なぜかこの男性が気になってしまい、枕元に立っているのが見えるとのことだった。
 彼女は美容師の友人伝えで濱浦さんに相談に来ていた。写真をもって名前を言ったら「この子は死んでるよ。土の中」と観音様が伝え濱浦氏がそれを伝えた。
そして、親と一緒に警察に行き捜索してもらい、結果何人も死んで埋められていたという事件が発覚しその男性も見つかった。
 困っている人がいたら観音様がアドバイスをくれるのでそれを伝えるのが濱浦さんの役割。だから濱浦氏は教祖など宗教的な上位者にはならない。十一面観音様に助けてもらったからこそ、自分の命は観音様に握られているのであって、あくまで自分は観音様のお使い役とのことだった。

写真13潮見崎観音像

写真14 赤崎鼻にあるお地蔵
1.広まる信仰
濱浦氏の噂を人伝えで聞いて全国から人や団体が来るようになる。そして、ここの観音によって救われた人々が口伝えで紹介していくから全国から訪れる人は増えている。例えば天草、広島、東京からや相撲部屋などで、ここに来ている相撲部屋は峰崎部屋で毎場所事にお参りに来ているとのことだ。だから潮見崎観音堂には相撲のポスターが貼ってある。
壁に写真など貼ったり願い事を書いたりする人も増えている。願い事の書き方は独特で治したいところの場所を何回も書き壁に貼っている。腎臓を治したいのなら「腎臓腎臓腎臓」と書く。
観音様への願い事には目に関する事が少しだけ多い。これはここの観音様は左目が悪いからではと濱浦氏は答えた。
観音様は何でも叶えてくれるが子づくりの神として有名なのは外にいるお地蔵が子供の神様として祀られていたからかもしれないと次で述べる中村良子さんは答えていた。

写真 15 願い事


写真16 相撲部屋からくるポスターとカレンダー

2.観音様を見た人々
 中村良子さんという観音様の姿を見た方がいる。この方は平成11,12年くらい、寝ていた時、ふと散歩がてら観音様に行き、お参りをしようと思い、観音堂まで登りそして外のお地蔵さんを頭撫でていた。今までここに来ることは滅多になかったと言う。
そこで偶然、濱浦氏に会った。そして「中村さんどこか悪かろう」濱浦氏に聞かれた。実際に心臓が悪く「誰か心臓で悪い人いないか」と聞かれたので、妹が19歳の時に心臓の病で死んだと言った。妹が祀ってくれと言っている事を濱浦氏から聞いて、祀ってもらったら体がすっと楽になり、「観音様が手握ってくれたもんね」と濱浦氏に言われたのが始まりで、涙を流したという。それから熱心に観音様のお参りに行った。
 何故その時に濱浦氏がいたのかというと、困っている人がいるので「はよ来い」と観音様から言われたからという事だった。
それから何年かした時、午後2時過ぎに観音様にお参りをした後、外に出てお堂のガラス閉めると、真っ白な肌で真っ白の着物姿の女性が中にいた。この世の物とは思えないほどの綺麗な女性だったという。しかし開けたらいない。閉めたら見える。当初は誰かがお願いに来ているのかとしばらくは見ていたが怖くなり逃げた。しかしその後、その方はについて濱浦氏に聞いたら観音様が姿を見せましたよと答えた。それからますます行くようになったという。
ここでお参りに来る人々の中には今日の観音様は穏やか、きりってしている、目が開いたのを見えたり、後光が見えたりしている人などいる。
 若い人でも観音様を見た人がいる。あと何日かで高校受験の時、信号が青になったので渡ろうとしたとき車が信号無視して通って来た。アッと思ったその瞬間、観音様が現れて足が止まり轢かれずにすんだとの事だった。その後毎週日曜に来ているという。
 中村良子さんが言うには、目に見えなくても知らない間にみんな、観音様から力を貰っているとのことだった。
 他にも男の人で観音様を全く信じないという人がいた。そして登り潮見崎11面観音の前で「観音さんなんて出ないやろ。」と言った。そしたら石仏が急にぐるぐるぐると回り、姿を現した。それをみて驚いて逃げて下の人に伝えたらその人と一緒に見に行ったらいなくなっていたという事もあったという。
 現在では濱浦さんを中心に人が集まり潮見崎十一面観音の会ができる。これが出来たのは誰かが作ろうとしたのではなく自然にできたとのことだ。毎年一回の旅行、毎月1日に集会があり、そこに集まった人たちが料理を持ち寄り、昼ごはんを食べる。来る人は天草からや茂木名物の一○香の社長の方なども来ておしゃべりしながらみんなが持ち寄ったものを食べていた。私も12月1日の集会に参加させてもらった。この日96歳の年齢達した女性の方も登ってお参りに来ていた。彼女はここ最近ずっと病院で入院していた。だから、他の観音様にお参りしている人達は彼女が階段を登りお参りできるのかと心配していた。しかし登ってこられた、これは濱浦氏によるとこれは観音様が手助けをしてくださったからとのことだった。


写真 17 お地蔵さん

写真 18 窓越しからの潮見崎観音

写真 19 茂木十一面観世音菩薩十一面の会


結び
 過去、潮見崎観音は地域の中での繋がりで存在感を出してきた。しかし、現在は地域との繋がりというのは薄らいでいる。
 しかし濱浦氏という1人の男性が命を救われるという大きな『奇跡』を通して観音様の存在を人々に見えるものにした。『奇跡』の前は観音様という存在はただ像があるだけで『モノ』と化していた。しかしこの『奇跡』を境目に濱浦氏を媒体として観音様の『存在』、『人格』を人々に見えるようにした。だからこそ観音様は茂木を飛び越えて、今では全国にまでに潮見崎観音の信仰は『拡大』していったのであろう。
 一つの大きな奇跡は見えなかったはずの観音様を見えるようにして、そして大きな奇跡から派生するように奇跡の連鎖が人々の中で起こっている。大きな奇跡は多くの奇跡に連鎖していく。この流れはこれからも続いていき、濱浦氏がいる限り止まる事はないだろう。

謝辞
  本論文の執筆にあたり、多くの方々に調査のご協力をいただきました。私の勝手でお忙しい中でも潮見崎観音堂まで来ていただいて、大変貴重なお話を何度も聞かせてくださった濱浦正昭氏、潮見崎観音を調べようとしていた時に何をすればいいのか途方に暮れていた時に声をかけて下さった吉弘敏子氏、一緒に調査に付き添ってくださった草野安子氏、観音様に目にした体験を話してくださった中村良子氏、茂木町でお話をさせて下さった皆さん。また、上記以外の方々にも、調査にご協力して下さった全ての方々に心よりお礼申し上げます。これらの方々のご協力なしには、本論文は完成にいたりませんでした。本当にありがとうございました。

参考文献
茂木の歩み(2016/1/27取得
http://www.city.nagasaki.lg.jp/kanko/820000/827000/p023389_d/fil/02moginoayumi.pdf