関西学院大学 現代民俗学 島村恭則研究室

関西学院大学大学院 現代民俗学 島村恭則研究室

くんちと修繕 ―衣装・履物・楽器―

【目次】

はじめに

1章  衣装

1節 富永屋クリーニングセンター

  (1)富永屋クリーニングセンター

  (2)衣装の直し

2章  履物

2節 杉本履物店

  (1)杉本履物店

  (2)履物の修理

3章  楽器

1節 平野楽器店

2節 初美屋楽器店

 (1)初美屋楽器店

  (2)三味線

  (3)楽器の修理

結び

謝辞



はじめに

 長崎県長崎市諏訪神社で毎年10月7日から9日までの3日間開催されている長崎くんち。本論文では、この長崎県の伝統祭礼であるくんちで使われている物がどのように直されているのかを衣装、履物、楽器の観点でそれぞれの店から聞き取り調査を行い、くんちと修繕の関係を述べる。

1章  衣装

1節 富永屋クリーニングセンター

(1)富永屋クリーニングセンター

 富永屋クリーニングセンターは大正12年に創業して以来、約90年間営まれている。初代の母の姓が「富永」とのことで店の名は初め「富永家」であったが、3代目の祖父が「富永屋」に変えたことで現在の「富永屋クリーニングセンター」となった。
そもそも初代は洗張り屋を営んでいた。しかし、2代目に受け継がれしばらくすると日本では背広など西洋の服が広がっていった。着物だけ取り扱っていてはやってられないとのことでクリーニングを始めることとなった。
そして原喜一郎氏が35歳で3代目となり現在に至る。店の経営としては原喜一郎氏と両親、妻と4人の従業員から成り立ち、様々な衣類を取り扱う中現在はホテルからのクリーニング依頼がメインとのことである。


写真1−1 富永屋クリーニングセンター外観①


写真1−2 入口に飾ってあるくんちの呈上札

(2)衣装の直し

 染み抜きは原喜一郎氏と妻が行う。2代目であった父は染み抜きを行っていないため喜一郎氏は自らその技を取得した。染み抜きの講習会へ出向き見よう見まねで学び、クリーニング協会が発行している専門書から時には本屋で私たちも目にする染み抜きの裏技本からもヒントを得ていた。西洋の服にも日本の染み抜き技術は使えると考え西洋用に応用させ、とにかく独学でここまで技を取得してきた。
衣装の染み抜き依頼は個人依頼ではなく団体での依頼がほとんどである。例えば、貸衣装屋さんからや、年番町がまわってきた町の子どもの衣装は幼稚園が、三味線教室の先生が生徒の着物をまとめて出しにくるのである。
くんちは10月7日から9日だが、小屋入りという演し物の稽古が6月から始まる。毎日着ることはなくその都度その都度の着用になるが10月の本祭が終わるまで同じものを着ることになる。そのため、依頼に来る衣装類は帯回りや首元に汗染みができている。また袖に小物類の荷物を入れているため、袖の内側の汚れも多い。諏訪神社で三味線を弾いたり歌を唄う女たちは着物を着ているにも関わらず地べたに座るので裾の汚れが多い。衣装の染み抜きはこのような特徴があると喜一郎氏は語る。


写真1−3 染み抜き作業台


写真1−4 染み抜き依頼された紋付長着


写真1−5 祭りで着用されたチャイナドレス

2章  履物

 1節 杉本履物店

 (1)杉本履物店

 杉本履物店は1918年創業の100年近く続く老舗履物店である。創業者の杉本豊吉氏は現在杉本履物店代表の杉本敏雄氏の祖父にあたる。豊吉氏は元は下駄職人で卸売りを行ったいた。ある時、仲の良かった友人の鳥山氏とお酒を飲みかわしている際に「お店を始めれば?」と言われ履物店を営み始めた。この頃は下駄、草履の販売、修理を行う。
2代目の杉本幸蔵氏は敏雄氏の父にあたる。戦後店を受け継ぐが1957年諫早水害が起こり杉本履物店も被害を受け仮店舗での営業をしたこともあった。
敏雄氏は高校1年の頃から父と守山、本野、土師尾で行商をしていた。高校卒業後(1958年頃)、3代目として店を継ぐ。敏雄氏は三男であり、本来なら車や自転車の機械関係に携わりたかったのだが、行商の手伝いなど兄弟の誰よりも店に関わっていたためそのまま継がざるを得なかったと敏雄氏は語る。昭和33年頃車が普及し始め車社会にとなった。車は下駄では運転することができない。そのため時代に合わせて靴の販売も開始した。
昔は下駄や草履を普段から履き、また年の変わる正月前は特に繁盛したという。しかし現代普段から下駄、草履を履く人はなかなかいない。成人式などの行事でも着物屋のレンタル貸出しがあったりネットではかなり安くで買い求めることができ、わざわざ草履だけを履物店に買いに来ないという。留学先へのお土産や、焼き鳥屋や寿司屋の板前さんが板場下駄を購入しにくることが多いとのことである。杉本履物店はシルバーショップといって年配の方を主な客層対象にしている。店に来て商品を買うついでに座って世間話したり野菜やお菓子をもらったりと常連との繋がりで成り立っている部分もあるという。


写真2−1 杉本履物店の外観


写真2−2 諫早水害時の様子


写真2−3 店内の様子①


写真2−4 店内の様子②



(2)履物の修理

 諫早市は古くから靴と寺の町と言われていた。20年前は杉本履物店が店を構える商店街の近辺にも10店舗ほど靴屋があった。しかし後継者不足で店を閉めるところが次々と出てき、今では3、4店舗にまで減ったという。また、下駄、草履の修理は諫早だけでなく近辺の市を含めてもおそらく杉本履物店のみではないかとのこと。そのため長崎市大村市、さらに遠方からだと佐世保市からも修理にやって来る。
修理の際使われる道具は以下の写真の通りである。左上からキリ、もぎり(穴をあける道具)、緒引き(鼻緒を引く)、経木(下駄の天に貼る)、つやを出す道具、ろう(コーティングする)、ばれん(磨くためのもの)となっている。




写真2−5 修理道具

修理は主に鼻緒の調節、すげ替え、底の修理、かかとの取り付けである。修理に関して初代から受け継がれたという手法はない。3代目の敏雄氏は試行錯誤しながら修理方法を身に付けた。今では長年の勘と手の感覚で行えるようになったという。昔は下駄を履く際は鼻緒の部分に足の指先しか入れなかったため鼻先部分が小さめだった。しかし現代では指を奥まで入れて履くので従来の大きさでは足が痛くなる。そこで敏雄氏は自らの工夫として鼻先部分を大きくするように調整している。本来の草履は底を縫って取り付けていたため見た目に縫い目が見えるが丈夫であった。しかし最近では底をのり付けするため見栄えは良いが外れやすく壊れる原因の一つである。また、鼻緒も今はビニール製が多いのでだいたい5、6年で劣化しボロボロになって修理に来るとのことだ。


写真2−6 鼻緒を調節している様子

3章  楽器

 1節 平野楽器店
(平野楽器店へは高原由衣さんが調査を行ったためここには高原さんの調査内容、写真を使用する。)

(1)くんち独特の楽器の痛みやそれに関する修復
 
くんち独特の楽器の痛みは、三味線の場合、カビ、湿気による皮の痛みが大きい。カビに関しては、踊町によっては、出番が終わってから7年間全く使用せずに保管している場合があり、その7年の間に三味線の皮にカビが生えてしまう事態が生じる。また、くんち祭りが雨天の場合、その湿気によって皮が剥がれ落ちてしまうという自体も生じる。これらの修復方法として、皮の張替えが行われる。一言、皮の張替えと言っても、張り替える革の質や三味線の種類が異なることで、使用する道具が変化し、それに即した力加減など、微妙な変化が必要となり、修復の技量が求められる。


写真3−1 皮の張替え作業


写真3−2皮の破れた三味線

(2)くんちと平野楽器店
くんち祭りと平野楽器店の関係は深く、店主の平野慶介氏自身も、加治屋町の踊町に参加している。
8月頃からくんちの練習のため使用される楽器の修理屋メンテナンスの仕事を請け負うことが多くなり、依頼に関しては、踊町、三味線の先生やその弟子、シャギリ、という様に、くんちの祭りに関わる各方面からの依頼を受ける。主に扱う楽器は三味線で、皮の張替えの修理依頼や、糸巻きの調節といったメンテナンスの依頼が主となるが、締め太鼓の紐の締め直しといったメンテナンスも行っている。祭り本番では、慶介氏は自らの踊町の様子を見ながら、楽器の様子も伺い、楽器屋の視点からもくんちの祭りに参加している。
くんち祭りが終わるまでは、祭りで使用する楽器の修理を優先的に行うため、祭りが終わった11月は、一般の依頼を請け負うため11月の末にかけて、大変忙しくなるのが例年の流れである。
また、くんち祭りが終わって約1ヶ月後に開催される、諏訪小学校や桜町小学校で行われる、くんち祭りを模したお祭りにも関わっている。多くの踊町に囲まれたこの2つの小学校は「くんち馬鹿の養成学校」と称されるほどくんちに対する熱意が強い。平野楽器店では、踊町で使用されなくなり、小学生が使用できるように直した楽器を、学校からの依頼でメンテナンスすることもある。以上のように、平野楽器店は、楽器を通して深くくんちに関わっているのである。

 2節 初美屋楽器店

 (1)初美屋楽器店

 初美屋楽器店はもともと大正10年頃に長崎市丸山町で現在店の代表である難波益延氏の母の親戚が創業した。しかし借金などの事情で昭和26年益延氏の父が買い取り鍛冶屋町での営業となった。父は店を買い取る以前から親戚の店で丁稚奉公を行い楽器のことを学んだ。益延氏は8歳から太鼓の張替えを手伝う。10歳で琴を習い中学1年で三味線も弾くなど幼いころから楽器に関わることに恵まれていた。高校1年から店で琴の糸締めをし始め20歳の時に全国邦楽器商工業組合連合会が開く糸締めなどの講習会に出向き技術を身に付けながら父と共に店を営んでいた。父が亡くなり益延氏が代表となって店を運営するようになってもう20年以上になる。


写真4−1 初美屋楽器店の外観


写真4−2 店内の様子①


写真4−3 店内の様子②

(2)三味線

 三味線に張られる皮には犬皮と猫皮の2種類がある。どちらも海外の家畜の犬と猫で、犬皮は犬1匹から最低三味線の皮4枚分作れるのに対し、猫皮は1匹1枚分しか作れないので高級品とされている。猫皮の三味線は柔らかい音が出る。犬皮の三味線は甲高い音が特徴で野外でも広く響くことでくんちでよく使われる。犬皮は今までタイで生産されていたが政治が変わり生産されなくなった。生産先は現在も見つけられてないので新しい生産はされてない。このことから世間への報道では「これ以上三味線が作れないのではないか」や「合成皮で作るしかない」と生産に対して危機がささやかれている。しかし益延氏によると、どの店も犬皮の在庫を大量に抱えているとのこと。つまり新しい生産先を探す時間は十分にあるという。


写真4−4 犬皮(左)と猫皮(右)

(3)楽器の修理

 現在楽器の修理は益延氏と妻の二人で行っている。(1)で記載したように益延氏は20歳で本格的に修理の技術を身に付け始めた。琴の修理ができようになるまでは相当な苦労があったという。講習会で見よう見まねで学ぶが最初はどんなに真似ても失敗したという。何度も何度もするうちに細かいところが見えてきてそれを得るまでに10年かかったとのことだ。益延氏は琴の糸締めが一番の苦痛だったと語る。最初は力加減が掴めず修理中に線が切れることも多々あった。初めは1本締めるのに手の皮が破け2時間近くかかったという。ただ当時は琴がかなり流行っており修理する機会が多かったため、その経験の繰り返しのおかげで今では一面(13本の糸)締めるのに15分程度しかかからないそうだ。
初美屋楽器店では楽器だけでなく絹傘や扇子の販売も行う。ただこれらの修理は行っておらず、基本的には町内ごとの管理になり破れたり壊れた場合は丸ごとの買い替えとなる。
楽器の修理には祭りのあとに来ることは少ないという。踊町は7年に1回しか回ってこないためどこの町も基本的には踊町にあたる約1年前に楽器の修理を依頼しにくる。
三味線は線が切れるか、皮が破けるか、またその皮は水に弱いため雨などで濡れて皮がはがれ修理に来ることが多い。はがれた皮は寒梅粉という粉を水で溶かしてのり状にしてそれを塗って張り付ける。はがれないようにするためにもくんちでは雨が降ると三味線にサランラップを巻いて対策をする。太鼓もまた皮が破けることが多いのだがこれも修理の方法としては三味線と変わらず、サイズが大きいため大がかりになるとのことだ。締め太鼓は本来片づける際に緩めなければならないが締めっぱなしのまま片づけた町の締め太鼓は皮が伸び直しに来る。


写真4−5 皮が破れた三味線


写真4−6 寒梅粉


写真4−7 寒梅粉を水で溶かしたのり


写真4−8 のりで貼った皮を乾燥させている様子


結び

 この調査は長崎くんちという本祭ではなく祭りで使われたものがどのように直されるのかというなかなか注目することのない観点からの調査だった。しかし3軒(高原さんの調査も含めると4軒)のお店を訪ねインタビューを通して修理の話やくんちとの関わりを知ることで、祭りを行う人だけがいても成り立たないず、祭りを直す人がいるからこそ長い歴史をもつ伝統になり得るのだと思った。修理あってこその長崎くんちであると言っても過言ではないほど深く関係していると感じた。

謝辞

 今回の調査にあたってご協力いただきました、杉本履物店の杉本敏雄氏、富永屋クリーニングセンターの原喜一郎氏、初美屋楽器店の難波益延氏、またわたくしは調査には行けませんでしたが高原さんがお世話になりました平野楽器店の皆さま、突然の取材依頼にも関わらず、またお忙しい中お時間を割いて様々なお話をしてくださり、心より感謝いたします。ご協力くださった皆様、本当にありがとうございました。