関西学院大学 現代民俗学 島村恭則研究室

関西学院大学大学院 現代民俗学 島村恭則研究室

旋網漁師の民俗誌 —長崎県三重漁港の事例—

柏山 純太




目次
はじめに
1章、三重・京泊
 ・漁師町、三重
 ・新長崎魚市場
2章、旋網漁
 ・道具と漁法
・漁獲量の変化
3章、旋網漁師のくらしと技術
 ・柏木水産
 ・A氏のライフヒストリー
 ・A氏の技術
結び
謝辞


はじめに
 今回、調査対象としたのは長崎県長崎市の旧三重村にあたる地域とそこに暮らす旋網漁師である。この地域には新長崎魚市場という長崎の漁業の中心地がある。また、長崎県の水揚げのうち大きな割合を占める旋網漁はこの地域でも古くから行われている漁法で、この漁法も時代を追うごとにどのように変化していったのだろうかということを中心に調査を行った。

1章、三重・京泊
 ・漁師町、三重
 長崎県長崎市、市の中心部から北西にバスで50分ほどの所に、三重、京泊(旧西彼杵郡三重村)というところがある。ここには長崎の水産物に揚げ場の中心地である新長崎魚市場があり、魚市場ができてからは約5000人だった人口が約二万人にまでに増加し、長崎市ベッドタウンの一つである地域である。三重という地名の由来は、この地域には京泊、三重、黒崎という隣接した三つの入り江があることから1458年から「三江」とよばれるようになり、のちに「三重」という漢字が当てられるようになったと言われている。この三つの入り江のうち、京泊は江戸時代から「京泊浦」とよばれ一時期は港町として大いに栄えていた時期もあったそうだ。近代に入ってからは、京泊は内陸に大きく入り組んだ地形であったことから、漁港ではなく、海が荒れているときに船を避難させる湾として機能していた。昭和初期の頃はその湾の中でワカメやイワシ、はまぐりがとれていたようで、三重の漁師たちは沖が荒れている時はこの湾の中で漁をすることもあったという。のちにこの入り組んだ湾の大部分を埋め立てて、新長崎魚市場が作られることになる。一方、三重はその当時から漁港であったが、現在(写真1)よりも規模は小さく、現在の三重漁港のほとんどは海水浴ができる場であった。(写真3、4)

写真1 写真右が旧三重漁港

写真2 昭和初期の旧三重村

写真3  昭和30年頃の三重

写真4 海水浴場だった三重港

写真5 平成に入ってからの三重漁港。
・新長崎魚市場
 昭和46年、長崎市尾上町にあった長崎魚市場が手狭になり、魚市場を移転させる計画が始まった。そして昭和48年に、複数あった候補地の中から、十分な土地を確保できるということと水質が良いということを理由に、京泊に長崎魚市場を移転させるということが決定し、工事が着工された。その計画は京泊の湾の大部分を埋め立て、魚市場、水産加工施設、さらに住宅を建設するという非常に大掛かりなのもであった。(写真6)そにため、莫大な予算がかかるということと不運にも台風の影響で堤防が破壊されてしまったということもあり、工期が長引いた。そして平成元年、魚市場が完成し、9月29日に新長崎魚市場として開港されたのである。(写真8)

写真6 京泊の埋め立ての計画図。黄色の部分が旧海岸線。

写真7 埋め立てられる前の防波堤の跡。

写真8 新長崎魚市場
2章、旋網漁
 ・道具と漁法
 旋網漁とは明かりを灯し魚を船の近くに集めるための灯船(ひぶね)(写真9)、網をおろし魚をとる網船(あみぶね)(写真10,11)、捕れた魚を漁場から港に運ぶ運搬船(うんぱんせん)(写真18)の計5〜7隻で行う漁である。20人以上の乗組員で漁を行うため、チームワークが必要な漁法である。1ヶ月のうち、満月の前後の4〜5日間は月明かりが明るいので灯船の明かりの効果が十分に機能しないため、休漁期間となる。この期間は月夜間(つきよま)といわれ、三重では旧暦の14日からの4日間が月夜間にあたる。遠洋旋網漁を行う船団では、灯船、網船は次の月夜間までの約25日間沖に出たままで港へは帰ってこないのが普通である。漁場は大きく分けて「へた」と「沖」の2つがある。「へた」とは沿岸部のことで、沖が荒れているときの漁場であるが、最近は沿岸部では漁獲があまり期待できないため、「へた」での漁はほとんどおこなわれないという。「沖」とは文字通り沿岸から離れた漁場で、こちらが主な漁場になる。三重の旋網漁の船団の場合、具体的な場所は、長崎本土と五島列島の間の海域(写真12のDの海域)などである。港から漁場までは2〜5時間かかるそうだ。大型旋網漁の船団は五島列島のさらに沖の200海里の暫定水域(東シナ海、西沖と言われる)で漁を行う。
 次に道具と漁法について実際の旋網漁師から聞いたことをもとに紹介したい。漁に使われる網は昔は綿糸が用いられていたが、昭和30年頃からは化学繊維(ナイロン、プレモナ、テトロン)が使われるようになった。(写真13)綿糸の網は乾かさないと腐って破れてしまうため、竹でできたやぐら(写真14)に毎日網を干さなければならなかった。その網を海中から引き上げる方法は、昭和20年頃までは2隻の船で網を巻く「もろてあみ」という漁法が用いられていたが、現在では、1隻の船で網を巻く「一層巻き」という漁法が用いられている。この「一層巻き」という方法と投網、葉もウは網船1隻で行うことができるため、漁にかかる費用を低く抑えることができる。網の巻き上げは、現在はクレーンが使われるが、それ以前は「かぐら」という仕組みを使って手で網を巻き上げていた。漁に使われる船は、現在はどの船も大きな作りでさまざまな機械が搭載され乗組員が仮眠を取るための場所もあるが、昭和初期は小さなボートのような船に大勢の乗組員が乗り込み漁に出ていたそうだ。中でも灯船は特に小さく、エンジンさえも付いてない船もあったそうである。(写真16)そのため、漁場までは運搬船などに引っ張ってもらい移動し、漁場では手漕ぎで船を動かしていたそうだ。船団の間でのコミュニケーションは、現在は無線や携帯電話だが、以前は網をおろすときと巻くときに電気信号やたいまつで合図を出していた。

写真9 灯船

写真10 網船

写真11 網船

写真12

写真13 捕る魚の種類によって違う網を使う。

写真14 網を干すためのやぐら。(昭和20年)

写真15 昭和20年頃の網船。

写真16 昭和20年代の灯船

写真17 現在の灯船。

写真18 水揚げ時の運搬船 

写真19 大型旋網漁の船団の船
・漁獲量の変化
 先に述べたように、漁に使われる道具や漁法の変化とともに、自然環境の変化なども影響して漁獲量も大きく変化している。旋網漁に限らず、漁業全体で漁獲量は近年減少しているのが現実である。しかしそれにはさまざまな事柄が影響している。最も大きいのは道具の変化である。漁獲量の変化に最も大きな影響を与えたのは魚群探知機、スキャニングソナーの電子機器登場であろう。魚群探知機は長崎県にある古野電気という会社が世界で初めて実用化に成功した。そのため長崎では早い時期から魚群探知機が導入された。その影響で魚の群れを早く確実に見つけることができ、漁獲量が大幅に増加した。特に群れをなしている魚であるイワシの漁獲量が増加し、市場で売り切ることができず大量のイワシが売れ残ってしまうということがよくあったそうだ。市場で売れ残ったイワシは加工して保存するか、魚粉にして飼料にするしかなかったと聞く。それでもすべてのイワシを捌ききることができず、最終的に捨てることもあったという。その当時、あまりにも大量のイワシがとれすぎるため、とれた魚の重さで船が沈没してしまうということもよくあったそうだ。これをうけ、漁師たちはイワシの群れを見つけると、網を群れ全体を囲むように入れず、群れからわざとずらして網を入れ、群れの一部だけを獲るという工夫をしていたそうである。これは昭和初期〜中頃の話であるが、その当時は11月〜3月はマイワシ、4〜8月はアジ、9〜11月はサバ、ムロアジなどといったように季節によって捕れる魚がある程度決まっていた。しかしこの時代にイワシを獲りすぎてしまったため、現在はイワシの漁獲量が当時と比べると大幅に減ってしまった。そのため、現在は一年を通してアジが主な獲物となり、大きく育ったアジはなかなかとれなくなってしまったそうだ。イワシがよくとれていた頃は黒崎、出津など三重周辺の各漁港に旋網漁の船団が存在してしたそうだが、イワシをはじめとする全体的な漁獲量の減少をうけ、現在では一社だけになってしまっている。漁獲量減少と大きなアジがとれないということへの対策として、柏木水産ではとれたアジを約一週間いけすで熟成させ、うまみを増したあじを「ごんあじ」としてブランド化するなどの工夫をしている。(写真20)

写真20
3章、旋網漁師のくらしと技術
 ・柏木水産
 現在三重地区唯一の旋網漁船団を所有する柏木水産は三重漁港を母港とする大中・中型旋網漁の業者である。現在は3ヶ統の「哲丸」と名付けられた船団(写真21)を保有している。柏木水産は戦後、三重町に設立された。創業当時は定置網漁業を営んでいた。その後すぐに旋網漁業に形態を変える。創業者は柏木哲氏で、柏木水産の経営だけではなく、新長崎魚市場の誘致をはじめとする三重地区の振興に大きな功績を残したとして、現在三重、京泊、五島灘を見下ろす翡翠ヶ丘公園に同人物の銅像が建立されている。(写真22)その後前章で述べた魚群探知機を昭和31に導入、平成7年からあじを「ごんあじ」としてブランド化して販売している。現在は2代目の社長が経営されている。

写真21 柏木水産が保有する中型旋網船団

写真22 柏木哲翁像
 ・A氏のライフヒストリー
 今回旋網漁師についての調査を行うにあたり、三重出身でかつて旋網漁師であったA氏にインタビューさせていただくことができた。A氏はおじいさんから漁師の家系に生まれる(ひいおじいさんは医者だったそうだ)。小さな頃から前章で述べた網を干すためのやぐらで遊んだりと海や漁師に囲まれた生活を送る。そして当時では進学者が少なかった大学へ進学し、卒業後大阪で紡績会社の元請け会社に一年半勤務する。小さい頃から海や漁師が身近にあったA氏であったが、大学で勉強していた内容や会社での仕事内容は漁師とは関係ないものだった。その後、三重へ帰郷し、昭和40年前後の7年間は現役の旋網漁師として働く。漁師時代は灯船、網船、運搬船のすべてに乗って仕事をした経験があるという。そして漁師を引退してから現在までは毎朝新長崎魚市場で行われる競り(写真23)に参加している。

写真23 新長崎魚市場で行われる競りの様子
 ・A氏の技術
 先程も述べたように、A氏は7年間旋網漁師として漁をしていた経験がある。A氏によると、漁のポイントはデータと経験であるという。では実際にどのような技術が使われているのだろうか。A氏に漁師生活の間に培われた技術を教えてもらうことができた。まず、漁を行う場所を決めなければいけないのであるが、その判断材料になるのはどこでいつ何が獲れたかという情報を記録しているメモである。そのほか、魚は群れが集まる場所が決まっているので、昔は山や陸上の目標を見てポイントを覚え、そのポイントで漁を行うこともあった。現在はGPSなどの電子機器などを使ってポイントを記録し、これら情報をもとに、船団のトップである漁労長が漁を行うポイントを決めるのだが、勘が占める部分も大きいのだそうだ。漁場に着くと、船団はそれぞれ分かれて別々に魚を探索する。魚の群れを見つけると、連絡を取り合い、群れを見つけた船のところへ集合する。旋網漁は灯船の明かりで魚を集め、集まった魚を獲る虜法であるが、明かりに集まる魚と集まらない魚があるそうだ。それを船の上から見分ければならないという。群れを見つけたとしてもすぐに網をおろすわけではない。一番漁がしやすいタイミングを見極めるのである。まず、水面に近い魚の方が取りやすいので、集魚灯の調整で魚を水面近く、網の届く所まで上げる。このように魚を誘導する方法は魚によって違う。例えば、アジの場合、大きな明かりから徐々に小さくすることによって漁がしやすい水深付近まで群れを集めることができる。次に網をおろすための準備である。まず、網をきれいな丸形におろすためには、潮の流れを計算しなければならない。水深によって潮の流れが変わるので長さの違う糸の先におもりをつけた潮見とうで潮の流れをみる。昔の漁師さんの中には、この潮見とうの糸に魚があたる感覚でどのくらいの深さの所に魚がいるか分かった人もいたという。水面と海底の潮の流れがあまりにも違うと網がきれいな丸形にならなかったり、海底に近い所の潮の流れが早いと網が流されて沈まないのでなるべく潮の流れが遅い時間帯で漁をする。このほか、潮の流れには月の満ち欠けも関係している。このような計算のあとで漁を行い、獲れた魚は運搬船の魚槽へ運ばれる。この魚槽の中では、どのようにしたら鮮度が保たれるかということが最優先に考えられる。魚水槽の中は水温を低く保つため氷が入れられるが、この氷が多すぎると魚の表面が白くなり、鮮度が落ちてしまうそうだ。
 このように、さまざまな機械、技術を駆使して漁をおこなっているのである。

結び
 今回、調査を行ってわかったことは、三重、京泊は新長崎魚市場の完成の前後で、地形・人口に大きな変化があった、旋網漁は時代とともに、道具と漁法が大きく変わっていった、大きく変化したのは昭和30年代で、魚群探知機の登場による影響が多い、漁獲量が変化したから漁法が変わったわけではなく、道具や漁法の変化にともなって漁獲量や獲れる魚種も変化していったということである。

謝辞
 今回の調査実習はさまざまな方々のご協力があって行うことができました。インタビューを快くうけてくださった旋網漁師のA氏、新長崎魚市場の方々をはじめ、この調査にご協力してくださった方々にこの場をお借りして感謝します。ほんとうにありがとうございました。

参考文献
・「新長崎市史」3巻、4巻
・柏木水産ホームページ(http://www.kashiwagi-suisan.co.jp
・昭徳グループホームページ(http://www.shoutokusuisan.co.jp