関西学院大学 現代民俗学 島村恭則研究室

関西学院大学大学院 現代民俗学 島村恭則研究室

館内市場の民俗誌

社会学部 渡邉 紫帆

【目次】

はじめに

第1章.館内市場の形成

第2章.市場の人々

 (1)山口商店

 (2)松下青果店

 (3)フルーツすぎおか

第3章.館内市場の行方

結び
  
謝辞 

参考文献


はじめに
 町の人々が暮らしていく中で欠かせない食事や消費。大型スーパー等が現れる以前、それを支えていたのは市場だった。長崎市の町を歩いてみると、現在でも他の都道府県に比べ、市場が残っているということを実感することができる。しかし全国の多くの市場が、便利な大型スーパーの出現や、若者の車暮らしという時代の移りによって、閉鎖を余儀なくされている。長崎市の市場も例外でない。ここ数年でいくつもの市場が閉鎖され、年々数が減少傾向にある。

ここでは、歴史ある市場が並ぶ長崎市の中でもかなり古くから存在し、町の人々を支え続ける館内町の市場を取り上げる。市場の方々、館内町に住む方にお話しを伺いその内容をまとめた。


1.館内市場の形成
 
 長崎市館内町の中華街から少し坂を上った場所、かつての日本の貿易を支えた舞台として知られる唐人屋敷跡のすぐ傍に館内市場は存在する。館内町の名称の由来は、「旧唐人屋敷内」という事柄からきたものだそうだ。道路に面した、市場の入り口と思われる場所に「館内市場」の文字があり、館内市場を奥に入っていくと「牟田口市場」「岩永市場」の文字があるのがわかる。現在、この場所には3つの市場が固まって商いが行われている。

 館内市場の方々、館内町の方にお話を伺ったところ、以下の様な館内市場の歴史を知ることが出来た。

 館内市場は、戦前から建てられていたかなり歴史のある市場で、当時から町の人々の台所として活躍していた。その当時、館内町にある市場は館内市場のみで、現在の牟田口市場や岩永市場はまだ存在していなかったそうだ。
市場には、市が建てた公設市場、個人が建てた市場などといった種類があるのだが、館内市場は、市に見込まれて建てられた公設市場だったと語られる。ただし、館内市場は個人の市場で、当時館内町に住んでいた12件の様々な種類のお店を出す方々が集結し、この市場ができたのだと語る方もいる。現時点で、この点においての口述の歴史による判断は、まだ出来ていない。
 戦前から存在していた館内市場だが、第二次世界大戦の影響を少なからず受け、一度は存続が危うくなった歴史を持つということを、長年館内町で暮らす吉田氏が語ってくださった。当時、住宅の立ち並んでいた館内町は、強制疎開されたため、館内市場も含まれる唐人屋敷跡から続く坂道一体を、全て取り崩ししたそうだ。館内市場も取り崩され、一帯は空き地になり戦後しばらくはその場所で、原爆で亡くなった人々を火葬する場所として使われていた。その後、戦後の財産税法が導入された時期に、館内町一帯の土地を持っていた地主の方が人々に売却した。そしてまた、市は戦前と同じ場所を、館内市場を建てるために購入し、公設市場として、再度町の人々の生活を支えるべく生まれ変わったそうだ。(吉田氏)

 また、上記にある財産税法導入時、再建築された館内市場より先にもう一つの異なる市場が形成されていった。それが、現在は立ち退きとなってしまったが、館内市場と繋がるようなかたちで存在していた「富士市場」である。(吉田氏)唐人屋敷跡の通りにあり、現在は住宅が立ち並んでいる。富士市場は公設市場ではなく、個人のものであった。財産税法を受け、館内町の地主の方がこの場所を売ったところ、町の人々が切り買いしていき、そこで店を出した人が多くいたそうだ。
当時は戦後で、人々に食べ物が必要だったため店の多くが鮮魚店であったり、精肉店であったり、乾物屋などといった食べ物を扱うお店だった。中には出店なども少なくなかったらしい。これらの個々の店が集まり、自然と「富士市場」と呼ばれる形に出来上がった。(杉岡氏)この「富士市場」の名前の由来は、上記にある多くの店の中の一つに「藤井さん」という方のお店があったからだろうと語られている。この方が、富士市場の中でも代表的存在の方だったそうだ。
富士市場は行商人Aさんから聞いた話では昭和から平成に変わった頃、取り崩しになってしまったそうだ。富士市場が取り崩しになった際、そこでお店をしていた方は館内市場に移る人、近くで行商をする人、様々だった。Aさんも元々富士市場で乾物屋をしていて、富士市場の取り崩しの際、行商に切り替えた方の一人なのだが、昔は10人ほどが館内市場周辺で行商をしていて、決して珍しい光景ではなかったそうだ。しかし、次第にお店の方の高齢化、館内市場周辺の道路工事により行商をする人は減っていった。(行商人Aさん)現在、ここで行商をする方は行商人Aさん一人になってしまった。

富士市場ができてから、しばらくして公設市場として再建築された館内市場だが、昭和32年、再び存続の危機に立たされた。現在、館内市場の横の、岩永市場の建っている場所の周辺から館内市場にかけて火事になったのだ。当時、館内市場の隣の銭湯の荷物を移動するための加勢に出た吉田氏は火事の様子について、目も開けられないほどの結構大きな火事だった。当時館内市場周辺の市場は全て木造であったため、燃え広がりやすく館内市場の一部分も燃えてしまいだめになってしまった。と語った。(吉田氏)

 館内市場が火事で再びなくなり、再建築するまでの間、市場で店を出していた人々は、現在長崎市の市指定史跡にもなっており、館内市場から少し坂を上がった場所にある「観音堂」にて仮店舗を出し、商売をしていた。火事から2年程経過した昭和34年頃に二度目の火事の被害を防止するためにも鉄筋の建物に再建築され、館内市場にとっての二度目の復活となったそうだ。(山口氏)

上記の火事は岩永市場周辺からの出火だったとあるが、岩永市場の誕生には諸説ある。
岩永市場は、館内市場の中に入った所にある一つのビルだ。「岩永ビル」の中、一階に岩永市場は入っているのだ。現在岩永市場の中にお店は鮮魚店と米屋さんの二店舗である。
岩永市場誕生における説の一つは、火事の前から岩永市場は現在とは違う、木造の建物で存在してあり、火事による被害を受けた後、岩永さんというビルの管理人の方が1階に市場、2階にアパートの岩永市場を鉄筋で建築し現在まで保たれているという説だ。

ただし、こう語る人もいる。火事前にまだ岩永市場や牟田口市場は存在しておらず、そこに存在する市場は館内市場と富士市場だけであった。当時の館内市場は、長崎では最も人口密度が高い斜面地の台所として、とても繁栄していた。(吉田氏)また、すぐ近くには全校生徒千人の小学校があるなど、市場としての需要も高かった。そのため、館内市場のある場所に市場を建てることは正解だと考えられ、岩永市場、牟田口市場ができた。
この点に関しては、現時点では口述の歴史によるものであるため、しっかりとした判断はまだ出来ていない。

上記にも出てきた牟田口市場の存在にも、お話を伺っている内に諸説あることがわかった。牟田口市場は、岩永市場に隣接した市場である。現在牟田口市場の中にお店は鮮魚店精肉店の二店舗である。
岩永市場の表に、牟田口鮮魚店のお店がある。しかし、現在は牟田口さんがお店をしているのではない。牟田口さんが引退する際、別の場所で鮮魚店を営んでいた知人の方に市場を紹介し、牟田口鮮魚店の場所で鮮魚店をやらないかと誘ったのだ。継いだという形ではないそうだ。そのため、「牟田口鮮魚店」の看板はそのままで他の方が商売をされているという状況だ。この牟田口鮮魚店を岩永市場でしていた牟田口さんが、岩永市場の隣に「牟田口市場」を作ったのだと市場の方々は語る。
しかし、こう語る人もいる。「牟田口市場」という名の単独の市場が存在しているのではなく、上記にあるように岩永市場の表には牟田口鮮魚店があり、この牟田口鮮魚店を表記するのれんの文字が目立つため、「岩永牟田口市場」と呼ばれている。
この点に関しては、現時点では口述の歴史によるものであるため、しっかりとした判断はまだ出来ていない。
 
 岩永市場の隣にもう閉鎖されてしまった銭湯がある。看板は取り外されているが、女湯、男湯の文字がまだ残っており、昔の銭湯の様子が見えてくる。この銭湯も長年この場所で、市場と共に人々の生活を支えてきた。
 この銭湯の名称は「マル金温泉」だったそうだ。この名称の由来は、ここの銭湯のオーナーが「高木金兵衛さん」という名前で、自分の名前の「金」を使ったからというものだ。(杉岡氏)この銭湯は、今から7年前に閉鎖されたのだが、昔は戦前から続く歴史のある銭湯だった。(行商人Aさん)それぞれ血縁はないのだが、3代続いていた銭湯だったそうだ。一代目、二代目と水道のお湯を使用した銭湯を営んでいた。3代目の高木金兵衛さんは初めてそこで井戸を掘り、そこの井戸水を沸かせて銭湯を作ったのだ。(吉田氏)安い値で入れる上、薬湯という種類の風呂などあったため、館内市場の人々や買い物に来た人々はよくここに通っていたそうだ。

 館内市場は、これらのような危機や復活、周囲の歴史と共に成り立っていたということがわかった。


写真1 館内市場の様子


写真2 館内市場入り口


写真3 観音堂 火事の際、ここで仮店舗を出していた


写真4 岩永市場の表 牟田口鮮魚店ののれん


写真5 岩永市場の中の様子


写真6 牟田口市場の中の様子


写真7 吉田氏が作成してくださった富士市場の路図


写真8 マル金温泉


写真9 「唐人屋敷の4つのお堂について」より


第2章 市場の人々

(1)山口商店
 館内市場で花屋さんを営む山口正己氏。ここ館内市場、岩永市場、牟田口市場の中でも最も長くお店をされている。また、店自体の歴史も一番長く、初代の方は正己氏のお母さんであり、現在正己氏は2代目である。
 正己氏のお母さんは、戦後に館内市場が復活し、市がお店を募集していた時に応募したことで現在のお店をはじめたそうだ。正己氏も幼い頃から市場を見てきて、若くしてお店を継いだため、館内市場の火事や観音堂にて仮店舗を出したことなど記憶していると語る。戦後すぐの頃はお客さんがあまりおらず、そんなに栄えていなかったが昭和32年頃には活性化し始めていたと記憶しているようだ。また、市場では自分の店とその中二階に住む家を組み合わせた長屋に住む方も多くいたらしく、正己氏も昭和27年頃、中学生の頃は住んでいた。後に初代の方が引退され、現在は正己氏の奥様とお店を続けていらっしゃる。

(2)松下青果店
 松下青果店は、現在の主人から始まったお店である。山口氏の次に館内町の市場では長くお店をされている。そのため、市場にも詳しく、市場の仕組みなど教えてくださった。
 戦争が終わって14年の昭和34年、松下氏が18歳の頃にお店を始めたそうだ。そのため町自体食糧不足など解消されており、市場はすでに火事なども終え、お客さんが多く賑わっている様子だったそうだ。当時の館内市場は長崎でも有名だったと語る。昭和50年頃からはユニードという当時大きかったお店ができ次第に寂れていったと教えてくださった。現在、奥様と二人三脚で変わらず青果店を営まれている。

(3)フルーツすぎおか
 館内市場にて新鮮な果物を売るフルーツすぎおか。現在で2代目の杉岡寛氏とその奥様がお店をされている。
 初代の方は寛氏のお父さんである。初代の方は第二次世界大戦後、シベリア抑留で捕虜として労働をしていた。その後、帰国し、舞鶴から長崎へと移る。川南造船所という大きな造船所を紹介され、しばらくはそこで働いていたのだが、その造船所は暫くすると潰れてしまい、当時人の多く住む、食べ物の需要が大きかった館内町にて食べ物を売るようになった。その場所が現在は立ち退きになってしまった富士市場である。
 寛氏が大学を卒業する時期、寛氏は現在のフルーツすぎおかを継いだ。当時は寛氏、お父さん、お母さん3人でお店をやっており、寛氏が奥様と結婚されてからは4人でお店をしていた。そして初代の方が引退された現在、寛氏と奥様の二人三脚でお店をやっている。
 1章で取り上げたように、富士市場は現在存在していないのだが、寛氏は立ち退きの際、お店を館内市場に移転し、現在も変わらずお店をされている。

第3章 館内市場の行方
 
 実は、館内市場は4年後に立ち退きになるということが市で決定されている。調査中も、館内市場の目の前は道路工事が進められていた。何十年も前から決定されていることだそうだ。
 館内市場で精肉店を営む「肉安」のご主人、枚島氏は坂の上に住む車を使わないお年寄りのことを心配し、立ち退きに反対だと語る。枚島氏は、坂の上の買い物に苦労する人々のことを考え、バイクで肉を届けに通うことも度々あるそうだ。何度か、市に直接「チャンポン・ミーティング」という館内市場の存続を訴えるミーティングを企画したが、「道路の脇に市場はあり、買い物をするお年寄りにとっても危険」とのことで全く聞き入れてもらえなかったと語る。枚島氏は、大分県日田市の豆田町商店街の様な、歴史ある商店街や市場を守り続ける体制をとってくれることが理想だった。
 若者が車生活の便利な新住宅地に移動し、高齢の方の多い町になってしまったからこそ、今後が心配だそうだ。

結び

・館内市場は戦前から存在している公設市場である。
・館内町の市場は富士市場、岩永市場、牟田口市場、館内市場の4つで構成されていた。
・戦争、火事の二度の存続の危機を迎えたが、全て再建築されてきた。
・戦争の際、館内市場周辺の疎開のため一度取り崩され、火葬場として使われていた。
・火事の際、観音堂にて仮店舗を出していた。
・戦後の館内町は長崎でも最も栄えた坂の台所だった。
マル金温泉は3代続く銭湯で、その名称はオーナーの方の名前が由来。
・館内市場は4年後に取り壊されてしまう予定である。

謝辞

本論文の執筆にあたり多くの方にご協力いただきました。ご多忙にも関わらず貴重なお話を聞かせてくださった館内市場、岩永市場、牟田口市場の皆様。突然の訪問にも関わらず、館内町の歴史のお話しや資料を提供してくださった吉田隆幸氏。皆様のご協力なしには本論文を完成させることはできませんでした。心よりお礼申し上げます。本当にありがとうございました。

参考文献
「唐人屋敷の4つのお堂について」長崎市都市計画部まちづくり推進室