関西学院大学 現代民俗学 島村恭則研究室

関西学院大学大学院 現代民俗学 島村恭則研究室

砂糖のまちのフォークロア ―長崎のもてなしと贈答―

社会学部 社会学科 蓮田 佳菜絵

目次

はじめに

第1章 もてなしと贈答

1.「もてなし」と砂糖

2.「砂糖を贈る」

第2章 庭見せと細工菓子

1.くんちと庭見せ

2.細工菓子

 (1)ぬくめ細工

 (2)有平糖

むすび

謝辞

参考文献



はじめに

 今回調査を行った長崎は、鎖国の際には日本国内で唯一、諸外国との貿易が行われた地であり、その際にヨーロッパから大量の砂糖が輸入され、長崎から小倉までの主要陸路であった長崎街道は、別名「シュガーロード」とも呼ばれ、これは砂糖が長崎を通じて日本国内に広く流通していったということをよく表している。
 本稿は、長崎市をフィールドとして、砂糖がどのように人々の暮らしと密着して存在してきたのかを、実際の暮らしや長崎くんちの庭見せに飾られる細工菓子を通して明らかにしたものである。今回の調査では、長崎市内に店を構える菓子店「岩永梅寿軒」の六代目である岩永徳二氏、同じく菓子店「千寿庵長崎屋」の三代目である井上昌一氏、長崎市内の踊町在住で、『長崎くんち考』の著者である大田由紀氏の3名にお話しを伺った。


第1章 もてなしと贈答

1.「もてなし」と砂糖

 まず、長崎に砂糖が安定的に入ってくるようになったのは、先述の通り、鎖国の際の南蛮貿易が始まりだと言われている。1759年頃の貿易の最盛期には、なんと現在の価値で24億円もの規模で砂糖の取引が行われていたという記録もある、と教えてくださったのは「岩永梅寿軒」の岩永徳二氏である。(以下、岩永氏)この「岩永梅寿軒」と岩永氏については、詳しくは第2章において述べることとするが、岩永氏によると、当時の長崎はこの砂糖取引の富によって経済的に大変潤っていたそうだ。取引相手から直接砂糖を手に入れられた長崎では、当時の日本国内の価格と比べると、比較的安価に砂糖が手に入ったため、暮らしの様々な場面において、砂糖がなくてはならないものになっていくのである。
 このような環境に恵まれたため、長崎では菓子文化が発達していったと言われている。とはいっても、実際の取引の価格としては、1697年ごろの記録で現在の価格に換算し1kg3000円程度であり、長崎の一般庶民が購入する際には1kg7000〜8000円程度もしたという話もあるので、彼らにとって砂糖は、やはり大変高価なものであったことがよくわかる。
 そして、この高価であり貴重であった砂糖を、その形を変えて「表に出す」ということが長崎人(長崎の人々は自分たちのことをしばしばこのように呼ぶのを滞在中何度も耳にした。本稿でも「長崎の人々」の意としてこの表現を使用することとする。)の「もてなし」なのであり、表現の方法のひとつであり、また高価な砂糖をどれだけ客のために使うことができるかというのが、その家の豊かさを表していたのだと、岩永氏は語ってくださった。
 この砂糖は富の象徴であったということ、そして表現方法のひとつであったというのは、第2章において詳しく述べることとするが、砂糖の形を変えるというのは、料理に使ったり、砂糖で菓子を作ったりと様々である。ここでは、その砂糖をもてなしとして使うとはどういうことなのか、主に料理の場面を紹介しながら述べていきたい。
 さて、長崎を訪れると、「長崎の料理は甘い」ということを耳にするが、これは菓子だけでなく、料理そのものにも砂糖をふんだんに使っているということである。
 たとえば、そのひとつが「長崎天ぷら」である。普通の天ぷらとは何が異なっているのかと言うと、衣に砂糖が混ぜてあり、食べるとかなり甘みを感じるらしい。
 そして、長崎で客をもてなすときによく用いられるものに「卓袱料理」があるが、この最後に出される甘味も、「梅椀」と呼ばれるおしるこであり、まさにもてなしのために砂糖が使われているという事例である。
 また、長崎人の間では、「長崎の遠かね」という言い回しがあったという。これは、砂糖を長崎の象徴として、砂糖が足りない、つまり甘くないという意味であり、料理の甘さが足りないときに「高価な砂糖をけちったのではないか」という皮肉が込められている。このような言い回しは長崎だけでなく、やはり砂糖と密接に関わっているとされる秋田の茶町でも、料理や菓子に甘さが足りないときや、茶菓子を切らしたときなどに「茶町が遠い」という言い回しをするのだという。人々がいかに砂糖を重要で、かつ生活に欠かせないものだと思っているかということの表れである。


2.「砂糖を贈る」

 長崎では、砂糖が富の象徴である、というのは前述したとおりであるが、それを砂糖でのもてなしの場面と同じく、よく表しているのが、「砂糖を贈る」という習慣である。これは、長崎では昔から年中行事や人生の節目の際に、贈り物として砂糖が選ぶという習慣があったようで、このため現在でも長崎には季節菓子がたくさんある。
例えば、節句の時に贈る「桃カステラ」(写真1参照)や「鯉菓子」などが挙げられる。

写真1 岩永梅寿軒の桃カステラ
(岩永梅寿軒ホームページより引用)
これらはそれぞれ、桃の節句端午の節句の際に、子どもにお祝いをいただいたお返しである「内祝」として贈られる菓子である。桃カステラは、カステラの上に「すり蜜」という砂糖で作った飾りを乗せ、それを縁起物である桃のように成形し、色付けをした菓子である。「鯉菓子」は、練り切りの中に餡を入れたものを木型に入れて鯉の形にし、色付けした菓子である。
 これらは、あくまでも長崎では「内祝」として使われるのみで、「御祝」の菓子としては使われないらしい。この理由については今回の調査ではわからなかったが、わたしの地元である大阪では、桃の節句には祖母から桃饅頭を「御祝」としてもらったりしていたので、この習慣は興味深いと思った。
 また、長崎では菓子だけでなく、砂糖そのものを贈り物とする習慣もあったらしい。岩永氏によると、「私が幼い頃は、お歳暮に砂糖の詰め合わせが送られてくることがよくあった。」と語っておられた。角砂糖や白砂糖など様々な種類の砂糖を、菓子のように詰め合わせにしてお歳暮として贈るのが主流であったらしい。
これは、「贈り物には甘いものを」という長崎人の間での暗黙のルールのようなものがあったということに加えて、お歳暮として年の瀬に砂糖を贈ると、その後の正月の準備で料理に使うことができるだろう、という相手への配慮も込められているのだという。しかしこの習慣は今から約40〜50年前のことであり、現在ではほとんど残っていないようである。実際、長崎滞在中にショッピングモールのお歳暮売り場を歩いてみたのだが、唯一かまぼこだけは長崎らしさを感じるものであったが、その他は他県と同じようにビールや菓子などが多く、砂糖の詰め合わせは見つからなかった。
 ここまで、長崎の人々の暮らしにおいて、砂糖がいかに生活に密着しており、そして重要視されているかを述べてきたが、長崎における砂糖の使われ方として、最も注目すべきであることのひとつは、長崎くんちにおける細工菓子ではないだろうか。続く第2章では、このくんちの庭見せにおける細工菓子について述べていくこととする。


第2章 庭見せと細工菓子

1.くんちと庭見せ

 長崎人が1年で最も団結し、盛り上がる行事であるとも言えるのが、毎年10月7〜9日に行われる「長崎くんち」である。長崎くんちとは、長崎市諏訪神社の祭りで、長崎市内の中心部の町が7年毎に踊町として様々な演し物を奉納する。
そして、このくんちの本番前の10月3日の夕刻から夜にかけて行われるのが「庭見せ」である。
庭見せとは、文字通り「庭を見せる」ところから来ており、基本的には祭りで使われる衣装などを披露する行事である。これは全国各地の祭りにおいて、飾り物の種類には多少バリエーションがあるものの、よく行われているものである。例えば、京都の祇園祭であれば「屏風祭」という別名からもわかるとおり、各家にある貴重な屏風や美術品、調度品などを飾った室内の様子を、通りに面した表の格子を外し、見物人に見せるという。
ここで長崎くんちの庭見せの特色として挙げたいのは、「菓子を飾る」ということである。本来は食べ物として使われる砂糖を、見せるためだけに使う細工菓子として形を変え、そしてそれを飾り、見物人に披露するというのは、生活の中で砂糖に重きを置いている長崎らしい風習だと言えるだろう。
ではまず、長崎くんちの庭見せの詳細はというと、

 「踊町では家紋を染め抜いた幔幕を張り、傘鉾や曳き物、新調の衣装や道具類を披露するのである。宗和台(そうわだい)に柿や栗、桃饅頭を盛り、友人・知人から頂いた「お花」(御祝儀やお祝の品)も飾る。以前は庭を開放し、家代々に伝わる屏風や掛け軸、調度品などを披露したが、近年は長崎独自の町家が少なくなり庭がある家も珍しくなった。現在ではビルの一角やガレージを利用して、合同で展示するところが増えた。」(『長崎くんち考』p.33より引用)

とあるが、元々は江戸時代の「庭卸」という行事が元になっているとされている。(写真2参照)

写真2 千寿庵長崎屋の店内パネルにある庭見せの様子。
 この描写は明治の中頃以降、現在の庭見せにかなり近い形で行われるようになった頃の様子であると思われる。
 また、引用中にもあるが、長崎くんちの庭見せは、戦後町家がなくなっていき、街並みが変わったことをきっかけに、その行われ方も変化したのである。大田氏によると、

「庭見せをガレージなど合同で行うようになったのは戦後からです。(中略)町屋がだんだんなくなってきたことが一因です。長崎の町屋は京都のそれと似ていて、奥に長いのです。庭見せのために表の格子が外せるように出来ていて、表座敷と奥座敷の間に庭がしつらえてありました。手入れされた庭や新調の衣裳、家に伝わる書画骨董の類を見せていたのです。それに頂いたお花等(お祝いに頂いたもの)を飾ったのでしょう。」

ということである。
ここからは庭見せの変化のターニングポイントである戦前と戦後という区切りにおいて、その特徴についてさらに詳しく述べていくこととする。
 ではまず、戦前の庭見せについてであるが、これは主に町家の構造を持っていた個人宅で行われていたようである。岩永氏によると、家に客を招待し、座敷へ上がってもらってもてなしながら、庭に飾った衣装や小道具を見て楽しんだのだそうだ。
 なお、大田氏によると、くんち本番の3日前、10月4日に行われる「人数揃い(にぞろい)」 において、来客には必ずご馳走でもてなしたそうである。現在は踊町の数カ所時を定めずだらだらとやってくる客のことを、長崎では「人数揃いの客のごたる(客のようだ)」と言ったそうだ。
 そこでは客をもてなすための豪華な料理が多数用意された。その中に、今現在では庭見せの飾り物として欠かせない存在である栗や柿、桃饅頭などがあり、岩永氏の話によると、以前は実際に食べていたものであるが、現在では客を接待することがなくなったので、飾り物へと変化したという。
この桃饅頭であるが、

 「長崎の行事に欠かすことのできない菓子のひとつで、中国とのかかわりの深さを示す饅頭です。中国では日本人の梅に対する思いと同様に桃を珍重します。桃は邪気を祓い長寿を保つめでたい果物とされているからです。(中略)桃饅頭は雛節句だけでなく女児の誕生祝い、宮参りなどにも用い、一日、一五日には神棚に供えられます。ことにお宮日(くんち)の庭見せでは、敷き詰められた赤い毛氈の上に大型の三方が三つあり、それぞれに桃饅頭、栗、ざくろが山形に盛られ見事です。」(『ろうきんブックレット』pp49-50より引用)

とあるように、長崎では様々な祝いの場において、欠かせない存在とされている桃饅頭であるからこそ、くんちの庭見せにおいてもよく目にするのだという。
また、庭見せをする目的としては、明治以降もキリシタン弾圧の風潮があった長崎で、自分の家の仏壇や神棚を見せ、キリシタンではないということを証明するというねらいがあったのではないかとも言われている。
そして、今述べたような庭見せの風習は、現在はほとんど残っていないものであるが、未だに形を変えて受け継がれているものもある。岩永氏の説明によると、「竹矢来」がそれで、これは、本来庭見せの会場とする場所の入り口となるところに竹で門構えをこしらえるというものであり、「ここが踊町の庭見せの会場ですよ」という目印になるものだったという。しかし現在では、飾り物を並べる場所の周囲を、ひもで結び、繋いだ竹で囲いを作って手すりを作るようになったといい、時代とともに変わってきていると考えられる。
 では、現在の庭見せは他にどのような点が変化しているのだろうか。
 まず、庭見せの行われ方についてであるが、今でも個人宅で行う場合もあるが、先述のとおり、戦後になって合同で行う踊町が増えてきたという。合同で行う場合では、踊町内の商店街の中の広場や、料亭、また店のショーウィンドウなどを利用して行われるなど、町ごとに様々なバリエーションがある。
 そして、飾り物の種類も時代に合わせてかなり変化している。昔は衣装や傘鉾、小道具などくんちで実際身につけられるもの、使用されるものが主であり、そこに縁起物としての桃饅頭や栗、柿、そして細工菓子が飾られる場合が多かったが、現在はそれらに加えて、出場者へ向けての「御花」として贈られたお酒や菓子の詰め合わせ、そしてお金の入った祝儀袋などありとあらゆるものが飾られる。また、出場者が小さい子どもである場合であれば、おもちゃや三輪車なども「御花」として贈られるという。
 そして、最近では菓子の詰め合わせを贈る場合は、箱に入った菓子折りだけでなく、クッキーなど洋菓子をバスケットなどに派手に盛り、そこにさらに風船などで飾り付けをしたようなギフトや、なんとぬいぐるみなども飾られており、伝統的な庭見せの風景とは様変わりしてしまっている踊町も中には存在するという。
 戦前までは小物や衣装を「見せる」目的で行われていた庭見せであるが、近年では御花としていただいた品物をたくさん「飾る」ことを重要視しているような踊町もあり、商業ベースに傾いているという風潮が見受けられる。
また、何度か出てきている「御花」という言葉であるが、これは祭りなどの際に祝儀袋の表書きとして一般的に広く使われている表現である。しかし、長崎くんちでは、町や出演者への御祝も、庭先呈上のお礼も、ご祝儀といわずにすべて「御花」という。長崎では先に述べた通りお金以外にも様々なものを贈るが、これらにはほとんどの場合「御花」の表書きで熨斗をつけ、贈られた側が庭見せに飾るのだという。例えば小さな子どもに贈られた三輪車であれば、箱に「御花」の熨斗を巻いた状態で贈られるが、庭見せに飾るときは、箱から出した裸の状態の三輪車に、箱についていた熨斗を外したものを筒状に丸めて三輪車の横に置く、または本体に貼り付けて飾るという風習があり、こちらも非常にユニークである。
 そして、この御花を贈るときに欠かせないのが「花紙」である。鮮やかな緑色のあばれ熨斗に赤色で「花」と大書がしてある四角いもので、庭見せに町や出演者に贈る金品にもこれを付ける。裏には送る主の名前を墨書する。御花の品物は、この花紙と一緒に贈られる。そしてこれは、品物と一緒に飾るのではなく、庭見せの会場に立てられた笹竹に結んで吊るされる場合が多いという。熨斗とは別にこの花紙も贈り、それを別々に飾るというのは独特の風習であると感じた。(写真3・4参照)

写真3 庭見せの日の千寿庵長崎屋の店先の様子。笹に花紙を飾っている。

写真4 千寿庵長崎屋にて見せていただいた花紙。小さい方は大人の手ほどの大きさである。
 そして、長崎くんちの庭見せの飾り物として大きな特徴であるのが菓子であるが、これは菓子であればなんでもよいというわけではない。砂糖を原料として、そこに熱を加え、その形を変えて、飾り物として美しく造られた細工菓子がくんちの庭見せを彩るのである。ではそれらの菓子はどのように作られ、そしてどのような想いが込められているのだろうか。


2.細工菓子
 庭見せで飾られる菓子は砂糖を加工した細工菓子であるが、ここでは代表的なものをふたつ紹介したい。「ぬくめ細工」と「有平糖」である。どちらも最近では、庭見せに取り入れる踊町も少なくなってきているようであるが、そのような状況でも、現在でも長崎でこれらの細工菓子を作っておられる菓子職人の方にお話しを伺うことができた。

(1)ぬくめ細工

 まず、「ぬくめ細工」とはどのような菓子なのかというと、

 「落雁の一種で中国伝来の“口砂香(こうさこ)”は、茶の湯や祝事の定番として、または仏事の供物として用いられる菓子、ポルトガルから伝わった有平糖や金平糖は砂糖と水を煮詰めたいわば砂糖そのものの菓子。それに餅粉を加えるなど独自の製法で出来上がったのが、“ぬくめ細工”と呼ばれる菓子だ。」(「長崎webマガジン ナガジン」HPより引用)

 とあるように、長崎に入ってきた外国の菓子文化の影響を受けながら、そこに改良を加えてできた長崎ならではの菓子である。
今回このぬくめ細工についてお話を聞かせてくださったのは、「岩永梅寿軒」の岩永氏である。「岩永梅寿軒」は現在長崎市諏訪町に店を構える創業1830年の老舗である。長崎市勝山町に創業し、何回かの移転ののち1902年に現在の場所に移った。諏訪町では約100年営業されているが、店の外観からその歴史が感じられる。(写真5参照)

写真5 岩永梅寿軒の外観の様子。
 岩永氏は現在6代目としてお店に立っていらっしゃると同時に、自身が育った長崎の文化を学び、そして発信する活動をされている。
 では、まず実際にぬくめ細工を作る際の工程であるが、溶かした砂糖に餅粉などを加え、薄く伸ばしたものを素焼の型にかぶせ、それをゆっくりじっくり冷やし固め、型から取り出したものに色付けをして完成だそうだ。注意すべき点はたくさんあり、「気を遣うお菓子なんです」と岩永氏はおっしゃっていた。というのも、長崎は湿気が多い気候なのだそうで、このような砂糖菓子は、湿度に弱く、作っている最中に溶け落ちてしまうこともあるそうだ。天候によってぬくめる温度や材料の調合を変えることもあるという。
 そして、ぬくめ細工を作る際に欠かせない型も、簡単なものであれば、菓子職人が自ら作っていたこともあったという。型さえも作ってしまうというのは、「菓子職人は字と絵の才能、そして器用さがないとやっていけない」という岩永氏の言葉を体現しているものだと感じた。
 このように細心の注意を払い、丁寧に作り上げたぬくめ細工であっても、出来上がったあとでたとえ小さなものであっても、ひび割れなどがあるともちろん売り物にはならない。商品としてお客さんに売ることはできないということと、「恵比須様や大黒様の顔に傷があってはいけないから」とおっしゃっていた。(写真6・7参照)

写真6 恵比須と大黒天の大型のぬくめ細工。

写真7 小型のぬくめ細工。これを作る際に使う型も一緒に展示されている。
 写真を見てわかる通り、商店街の通りに面した、店のショーウィンドウに飾ってあったのは、恵比須と大黒の面の形をしたぬくめ細工である。このぬくめ細工は、小型のものは庭見せの笹竹にも飾られ、くんちにはなくてはならないものであった。これは現在最もよく知られているものであり、昔は翁の面やおたふくの面もあったらしいが、だんだんとなくなっていったという。
 このぬくめ細工は、昔は長崎市内に作っている店がたくさんあったが、どの店も代が替わるたびに、菓子屋同士のつながりや、踊町とのつながりがなくなってきたこともあり、今現在では作っているのはこちらの岩永梅寿軒を含め数軒であるという。
 岩永氏は、「あくまでも商売だから、売れるものを作っていかなければならない。しかし、ぬくめ細工などの伝統的な菓子文化は、たとえ作る量は少なくてもよいので、次の世代に残していきたい。」とおっしゃっていた。「『跡取り』ではなく『後継ぎ』として、文化を継承していくのもまた、菓子職人の使命ではないかと思います。」と語っておられたのが心に残っている。
 だからこそ、注文を受けた分をくんちの際にのみ作るというやり方ではなく、店のショーウィンドウには、いつもこの恵比須と大黒の面のぬくめ細工を飾り、今現在まで受け継がれてきた長崎の菓子文化を積極的に発信されているのである。
 また、ぬくめ細工に限らず、店で作られる菓子の配合は目で見て覚える、または口承で伝わっていくものであり、レシピのようなものは存在しないのだという。そして、菓子というのは嗜好品であり、いつまでも同じデザインで作っていても、「古臭いもの」になってしまうため、継承しなければならないところを職人自身がしっかりと見極め、その他の部分では、時代に合わせて原料を置き換えたり、新しく進化させていくことが大切であり、「まず、菓子の作り方を覚え、そこに自分なりのアイデアを足して新しい菓子を生み出していくことが職人の心構えだと思っています。」という岩永氏の言葉が印象的であった。

(2)有平糖

 次に「有平糖」であるが、これは飴細工の一種である。こちらもぬくめ細工と同様、くんちの庭見せで飾られる細工菓子である。(写真8参照)

写真8 千代結びと鯛の有平糖。 
 今回この有平糖について、お話ししてくださったのは、現在長崎市新大工町に店を構える「千寿庵長崎屋」の井上氏である。「千寿庵長崎屋」は井上氏の祖父が創業され、井上氏が3代目である。
 まず、この有平糖はどのようにして作られるかというと、材料のグラニュー糖と水あめをちょうどよい柔らかさまで煮詰め、それを冷やし、伸ばしていく。伸ばすと飴が空気を抱いて、白くなるため、白色以外の飴を作るときは伸ばさないという。そして色付けをし、最後に細工を施し完成である。
 この有平糖は、紅白の飴を1本にして結んだ「千代結び」と、鯛の形が一般的であるという。昭和20〜40年頃には結婚式の引菓子としても使われていたというが、現在では庭見せの時期に作る以外は、注文はほとんどなくなってしまった。
 では、先に述べたぬくめ細工は長崎で生まれた独自の菓子であったが、有平糖はどうであったかというと、これは元々ポルトガルのテルセイラ島というところで、一般的な家庭で作られる菓子として、”alfeloa”(アルフェロア)という名前で親しまれていた。そしてこのアルフェロアは、五穀豊穣や安産祈願の意味を込めて、日常的に教会に御供えされていた菓子でもあったというのである。それが長崎に入ってきて、長崎なまりで「アルヘイ」や「アルヘル」と呼ばれるようになった。そしてポルトガルでは教会に供えられていた菓子であったため、長崎でも教会に持っていく御供えとして使われていたが、禁教令が出されると、教会へ行くことができなくなったため、諏訪神社の祭礼であるくんちの庭見せで飾られるようになったのだという。これは大変興味深い発見であったとともに、長崎で今も愛されている「和華蘭文化」がどのようにして生まれてきたのかを、菓子の視点から見ることができた、大変貴重な経験であった。まさに「砂糖のまちのフォークロア」を象徴するお話しであったと感じている。


むすび

 本稿では、長崎市をフィールドとして、砂糖がいかに長崎人の間で重要なものとしてみなされてきたのか、実際の暮らしでの砂糖の使われ方や、庭見せの菓子に着目して明らかにしてきた。
 長崎では砂糖が手に入りやすかったという環境が手伝って、人をもてなす際、また贈答の場面でも砂糖が重要視されており、砂糖は家庭の富の象徴であることを「長崎の遠かね」という言葉が象徴していた。
 また、庭見せで菓子を飾るというのも長崎らしい風習であり、これがなくなっていないことが、時代は変わっても長崎人にとって砂糖は特別なものであるというのを象徴しているのではないだろうか。

謝辞

 このレポートを執筆するにあたり、たくさんの方々の温かいご協力をいただいたこと、心より御礼申し上げます。
 長崎の文化的背景を織り交ぜながら、長崎の菓子文化やくんち、そして菓子作りについて熱く語ってくださった岩永梅寿軒の岩永徳二さん。大変美味しいお菓子までいただき、感激致しました。また、わたしのどんな些細な質問にも真摯に対応してくださり、貴重な資料を見せてくださった千寿庵長崎屋の井上昌一さん。後日写真も送っていただき、大変助かりました。そして、実際にくんちの運営をされている方からでないと聞けないような、貴重なお話をたくさん聞かせてくださいました、大田由紀さん。多数の参考資料の提供や熱心なご指導、本当にありがとうございました。
本稿を完成させることができたのは、皆様のおかげです。貴重なお時間を割いて調査にご協力いただき、本当に感謝しております。ありがとうございました。

1.「人数揃い(にぞろい)」とは、町内の方に踊の出来具合を披露するもので、本番と同じように衣装や小道具を身につけて行うリハーサルといえる。

参考文献・資料一覧

・大田由紀,『長崎くんち考』,2013,長崎文献社
・大坪藤代,「長崎の菓子:甘味のちゃんぽん文化」『ろうきんブックレット,13』,
2002,九州労金長崎県本部・長崎労金サービス
・長崎webマガジン ナガジン「老舗が守る長崎の伝統」(2016年1月11日取得,http://www.city.nagasaki.lg.jp/nagazine/hakken0711/index2.html )
・長崎史談会 長崎史談会だより 長崎砂糖考(3)(2016年2月7日取得,http://nagasakishidankai.web.fc2.com/2011/shidankai_dayori/shidankaidayori01.html )
・岩永梅寿軒 桃カステラ(2016年2月29日取得,http://www.baijyuken.com/item/momocastera.html )