社会学部 山崎晴香
目次
はじめに
第1章 月光スタジオ
1 月光スタジオの来歴
2 大久保誠氏
3 写真を撮るときのこだわり
第2章 写真ながお
1「写真ながお」の来歴
2 永尾洋一氏と勝子氏
3 くんちを撮る
第3章 山口写真館
1 山口写真館の来歴
2 ウラジオストク
結び
謝辞
参考文献
はじめに
本レポートは長崎市にある写真館でのインタビューをもとに書かれている。月光スタジオ・写真ながお・山口写真館の3つの写真館で聞き取り調査した内容について述べている。
第1章 月光スタジオ
1 月光スタジオの来歴
1−1来歴
創業は1948年。銀屋町の知り合いの家を借り写真館を始める。写真館を建てる前は高校などにカメラ1つ持ち出張写真を撮りに行っていた。
1953年に15坪の土地を買い求め独立する。その後3回の増改築を経たが、1982年に道路拡張のため立退きをし、現在の店舗に新築移転する。同年長崎で大水害が起きた。
移転前はこの土地で店を構えていたのはたまたまであったが、上野彦馬の写真館があったことから初代がその近くで店を開くことにこだわった。
現在の店舗の外装はユニークな石造りのである。長崎の諌早石が使用されている。長崎には職人がいなかったため栃木から職人をよび作られた。また看板はヨーロッパのような看板にこだわり制作され、1991年に長崎市都市景観奨励賞を受賞している。
写真1 創業時の月光スタジオと改築後
写真2 増築後と2回目の改築後
写真3 現在の外装
写真4 看板
1−2大久保月光氏
初代は現在の代表である誠氏の祖父である月光氏。月光氏は最初に長崎の岡野写真館で修業をする。次に同じく長崎にある響写真館に移り技師長まで勤める。そして東京の山本写真館の技師長として中国行く。その仕事を辞め中国で清美堂という写真の材料店を始める。終戦後1946年6月からは日本に引き揚げ、知り合いの手伝いをし、上に述べたように1951年に店舗を構え写真館の営業を開始する。
月光スタジオという名前は月が好きな初代が、月光浴のような静かな優しい月の光のような雰囲気を写真で表現したいという思いを込め付けられた名前である。
1−3写真入り観光土産
写真館を始めた頃から1982年頃までは写真を撮るだけではなく、観光絵葉書や三角ペナントなどの土産物品の販売も行っていた。カメラマンが観光地で撮った写真を土産品に印刷していた。京都の表現社印刷と横浜の浜田写真工芸社に製造を依頼し、市内の土産物屋やホテル・旅館などの売店に卸していた。
そのようにして制作された観光地などの写真入り土産品は平和公園、天主堂、長崎駅前、浜町の土産物屋に配達されていた。一般にカメラが普及していなかった時代はこうしたお土産品がよく売れたそうだ。ペナントはリリアンの縁取りを製造所でしていると納期が間に合わなくなるため店で縫っていたほどよく売れた。
これらの土産物品はカメラが普及してきてからは観光客が自分で観光地の写真を撮るようになっていったため、徐々に売れなくなっていき、1982年の大水害の後は観光客自体も少なくなり販売するのを止めた。絵葉書やペナントはカメラが普及していない時代に写真の替わりとして購入されていた。
2 大久保誠氏
現在の代表である大久保誠氏は次男であり、幼いころから月光スタジオのスタッフに教わりながら、趣味程度には写真を撮っていたが、2歳年上の長男が写真館を継ぐと思われていた。しかし誠氏が高校1年生のときお兄さんが普通科の大学へ進学し、写真館を継がないということになる。
体操部であった誠氏は高校卒業後にはジャパンアクションクラブでスタントマンになるという夢もあったため継ぐかどうか悩むことになる。しかし父が亡くなっているため4歳年下の三男が継ぐとなるとあと4、5年は継ぐ人がいないという状況が延びることになるため自分が継ぐことを決意する。
高校を卒業後は東京工業大学短期大学部に通い写真の勉強をする。大学卒業後は誠氏の父が修業をされていた北九州の木下写場で5年修業をする。その後1年3ケ月のお礼奉公を経て月光スタジオに帰ってこられ写真館を継ぐ。
3 写真を撮るときのこだわり
3−1家族写真の今昔
昔は出張撮影が多かった。自宅が広く写真を撮るスペースがあった。マグネシウムで発光させフラッシュにして撮っていた。しかし粉が飛び散り料理にかかったり、熱のせいで天井を焦がしたりもするため、自宅で撮ることは避け始めた。
今は毎年結婚記念日、新年など撮る時期を決めスタジオに撮りに来る。他人に家の中を見られたくないという人もいるからではないか。毎年撮りに来ていた家族の子どもが成長し結婚してから、結婚相手と家族写真を撮りに来るということもある。
写真館には多くの写真が飾られている。そのほとんどがお客様のものである。昔は許可を撮らずに飾っていたが今は許可を得て飾っている。許可を求めると大抵のお客様には快く承諾してもらえる。
3−2成人式・結婚式の写真
成人式用・結婚式用の写真特に着物で撮影する場合は型物といって撮り方が決まっている。襟の向き具合、裾の長さ、紋がきちんと写っているか、簪の向きはどうかなど様々なことに注意を払い撮影されている。2人立ち、1人立ち、後ろ姿とそれぞれに美しく型どおりに撮られている。
昔は式の当日に型どおりに撮ることしかなかったが、結婚式よりも前に撮る前撮りができた。前撮りも型どおりににしか撮っていなかったが、いつからか動きのある写真が流行りだし撮影するようになった。今はラフなスナップになってきて、好きなように動いてもらい撮るようになった。ただ好きに動きすぎると衣装が乱れてしまうのでお客様のどのような写真を撮りたいかという要望を聞きある程度ポーズをつけて撮っている。
結婚式の写真アルバムには型どおりに撮ったもの、ラフに撮ったもの、結婚式と披露宴の様子を撮ったものが入れられていた。
他の地方では披露宴は品のいい食事会のようなものであるが、長崎では宴会のようになっており、余興の出し物でも存分に騒ぐ。その様子もアルバムに残されていた。
九州の結婚式のアルバムは他より写真の枚数が多い。関東などでは1ページに2、3枚に抑え余白やレイアウトを重視しているが九州では1ページに何枚もの写真がレイアウトされている。派手なものにぎやかなことが好きな長崎の性質が出ているのではないか。
月光スタジオでは、長崎のロケーションで結婚写真を撮るフォトエールというサービスを行っている。ドレスもヘアメイクも自社で行っており、県外に行ってしまった人を呼び戻したり、観光で長崎を訪れるきっかけづくりを目的としている。
第2章 写真ながお
1「写真ながお」の来歴
創業は37年。最初の店舗は諏訪神社の近くで、西山と新大工町の角にあった。その当時は諏訪神社で行事があると忙しかった。例えばくんちがあるとフィルムを買いに来るお客様が多く来店した。
創業当初写真は白黒で店はスタジオではなく、お客様がもってきた撮影済みのフィルムを現像・プリント・乾燥させたり、フィルムを売ったりする形態の店だった。そのような営業方法では商売が天候によって左右されていた。雨だと写真を撮る人が少なく暇になり、晴れるとお客様が外で写真を撮り現像しに来るので繁盛した。
天候に左右されるのなら、室内で写真を撮るという方式のスタジオにした方がよいと考えからスタジオがある写真館を始める。創業以来2,3回移転をしたが10年ほど前に元は酒屋で、天井が高く作られており写真の撮影に向いているという今の店舗になった。
写真5 写真の外装
ルネッサンス硫黄島の教会で結婚式の撮影を10数年行っていた。撮影をする権利を得て出張撮影という形で、毎日船に乗って通っていた。
今は独立したが何十年も勤めていたお弟子さんがいて運動会や修学旅行が重なったときは手助けをお願いしている。着物は無料で貸し出ししており着付けも店でおこなっている。勝子氏が趣味で集めた着物を七五三の付き添いの親に着付けるときもある。
2 永尾洋一氏と勝子氏
2−1勝子氏
お話しを伺ったのは永尾勝子氏で写真ながおを創業された永尾洋一氏の奥様である。元々写真に興味は無かったが、ご主人が写真の仕事をしていたので写真館の店番をするようになる。
ご主人は暗室で1日作業することもあった。勝子氏も手伝いをしていたが最初の頃は慣れず何度か失敗もした。フィルムを詰めそこない、お客様が撮った写真がレンズのふちしか写っていなかったこともあった。店番をしながら子守もしていたので、子供が迷子になるとことがよくあった。
店をスタジオにしようとしたとき、成人式用の写真や結婚式用の写真で着物を着て撮影するお客様も多く来店することになるので、着物の着付けの仕方や日本髪の結い方を学ばなければならないと考えた。そこで美容院の先生が髪の結い方や着付けの仕方を勉強する勉強会があったので参加していた。ここで着付けの基本を身に付けた。
晴れの日に高いお金をかけて用意する着物の美しさを撮ろうとし、色打掛や振袖を撮るときは全身、半身、帯が中心に写るように撮るという3種類の写真を撮るようにした。お客様や美容院の通常ではこのような撮り方はしないが、勝子氏は女性ならではの視点で美容師の方が苦労して着つけた飾り帯を撮るようにしている。
幼いころから人形が好きで周りの人が持ってきてくれどんどんたまっていった。あるとき友人に集めたお雛様を見せてほしいといわれたことから、町内会長に頼み町内の公民館で10セットほどのお雛様を飾った。このことは新聞社に取材され2015年3月で15回目をむかえた。ハウステンボスや老人ホーム、病院などに寄付もしている。
写真を撮ること自体はできないが、写真を撮りに来たお客様のために着付けをしたりご自身の着物を貸し出すことが自分にできるサービスだと語っていた。
2−2洋一氏
三菱造船所のカメラマンとして働いていた。船の進水式や試運転を撮る会社に勤めていた。船のできていく過程、船の中の部品などを撮影していた。進水式などでは何百メートルもあるクレーンの上から撮影していた。大判のはがき大の大きさのフィルムで撮影していたため費用がかかるので慎重に失敗しないように撮影していた。大きな機材を持ち高いクレーンに毎日登っていた。このような仕事を何年か続けたあと後輩も育ってきたからということで自立した。
3 くんちを撮る
長崎くんちでは7年ごとに踊町がまわってくる。個人の依頼ではなく、どこかの踊町からの依頼があると、諏訪神社、公会堂、お旅所、八坂神社にそれぞれ出向いて写真を撮ると決まっている。見物客が多く身動きが取れないため正面と入ってくる側の2か所から撮影する。6月1日の小屋入りの日に本番用の衣装を着て不都合なことがないか確かめるので、その時に合わせて店から近い八坂神社で船なども写す全体の記念写真を撮る。本番では人も多いのでこの日に撮るようにしている。
写真6 集合写真
最初は写真ながおがある踊町から依頼がきてくんちの写真を撮り始めた。常連の町がだいたい決まっており7年ごとに依頼がある。6月1日の小屋入りから稽古が始まると、それを撮影しに行き写真を撮る側も練習をする。
くんちに出演する人たちが踊りを練習し上達するのと同じように、踊りの練習を撮り練習をすることで本番に向け上達することができる。それぞれの踊町の独特の衣装や踊りがあるのでそれを研究しなければよい写真を撮ることはできない。場所によっても撮り方が変わるのでそのことも意識して撮影している。
第3章 山口写真館
3−1 山口写真館の来歴
写真7 外装
長崎で一番古いという山口写真館の創業は明治38年。長崎生まれの初代の伝三郎氏が明治31年にロシアのウラジオストクに家族で移住し、フランス人から写真を学び開業した。
2節で詳しく述べるが、当時の長崎の稲佐山付近にはロシア人が多く訪れており、その付近で生活をしていた若者が商売を目的としウラジオストクに移住することがあった。伝三郎氏もそのうちの1人で、長崎を出てウラジオストクという新天地で生活を始める。
ウラジオストクでは写真館は本館と分館があった。このころはお客様の写真を撮るだけではなく、建物や風景、ロシア人や日本人の美人、風俗の写真特にウラジオストクのサーカスの芸人などを絵葉書として売っていた。
写真8 美人の絵葉書
明治39年に日露戦争で家族は一度引き揚げるが、再渡航しウラジオストクで生活を続ける。日本人街という概念はなかったが日本人が多く集まる地域で写真館をしていた。大正12年にシベリア出兵の影響によってウラジオストクから長崎に戻り、現在の店舗より100メートルほど離れた今博多町の店舗を構える。日本に帰って来てからはウラジオストクで築き上げた店がなって1から始めなくてはならないということで苦労した。
1−2山口哲規氏
普通科の大学のシステム工学部に入学する。大学では写真部に所属し、卒業後家業に従事する。どこかに修業に行くということではなく、すぐに山口写真館で働き始める。
父が亡くなってから20数年になるが店に関する古い資料が出てきたため、自分でもウラジオストクやそこに渡った日本人などについて調べ、2015年の夏に実際にウラジオストクに旅行に行き、写真館の跡地などに訪れた。
2 ウラジオストク
ロシア極東にある軍港ウラジオストクは、中国とロシアの間で締結された北京条約に基づき1860年から建設がはじめられた都市である。日本からウラジオストクへの渡航は鎖国中であるにもかかわらず幕末から始められていた。大庭柯公の『露国及び露人研究』に「長崎は稲佐の若い男どもがマンジェリアといふ露西亜の汽車に乗り込んで、初めて浦潮斯徳に渡ったのが文久二年」とある。文久二年は1862年のことなのでウラジオストク建設に間もないころに日本人が渡航したと記述されている。
1875年ごろのウラジオストクには、様々な理由で多くの日本人が居留していたが、商売を目的とし来航した者の多くは長崎県人である。その中でも稲佐とロシアの関係が深かった。安政の開港以来、長崎に来る外国人で特にロシア人がこの地に訪れるようになったからである。
長崎奉行が万延元年(1860年)稲佐にある悟真寺と平戸小屋郷の外国人休憩所に当分の間ロシア人が止宿することを許可し、ついで文久二年(1862年)船津浦と平戸小屋郷の外国人休息所に、当分の間ロシア船の乗員の上陸を許可した。これは開国後、ロシア人水兵らの多くが遊里の丸山に出かけ、酒を飲み乱暴する者がいてあまり丸山では歓迎されなかったことが原因となっていた。稲佐の外国人休息所が解放されたことにより稲佐とロシアとの縁が深まった。ただ、開国後のヨーロッパ人の居留地は稲佐の対岸の南山手と東山手、出島にいたる一帯であり稲佐は居留地ではない。
いずれにせよ稲佐にはロシア人が多く訪れた。1860年には、ロシア艦隊ビリレフ提督の要請によって稲佐にロシア人相手の遊廓が建てられ賑わいをみせる。この地で没するものが出ると、悟真寺にはロシア人墓地が建てられた。このような中で、稲佐の人の中にロシア艦隊を相手に洗濯や物品売買などの商売をする者も多く現れ、その中でロシア語を話す者も増え、さらにロシア艦隊のボーイや下働きとしてウラジオストクに渡る者もいたことが、その後の長崎からのウラジオストク渡航に大きく影響を及ぼしたと考えられる。
結び
長崎の写真館でインタビューをさせていただき本レポートを制作した。3店舗それぞれに特徴があった。
月光スタジオは初代のアイデアで写真入りの観光土産の絵葉書やペナントを販売していた。カメラが普及し観光客が自ら写真を撮るようになってから売れなくなり現在は販売していないが、これらの絵葉書やペナントは当時写真のかわりになっていた。
写真ながおはくんちの写真を撮影しており、そのために出し物の練習を撮る練習をして本番に備えている。
山口写真館は長崎市で一番古く、初代は新天地を求めロシアのウラジオストクで写真館を始めた。
謝辞
このレポートを書くにあたり多くの方にご協力いただきました。月光スタジオの大久保誠さんと月夜さん。誠さんは他の2店舗を紹介していただきとてもありがたかったです。月夜さんにはちゃんぽんをごちそうになったり、上野彦馬ゆかりの場所を案内していただいたり本当にお世話になりました。写真ながおの永尾勝子さんには記念写真を撮っていただきとても嬉しかったです。山口写真館の山口哲規さんはご自分が調べたウラジオストクについての資料や古い貴重な資料を見せていただきました。このレポートが完成いたしましたのは、貴重なお時間を割いていただき調査にご協力してくださった皆様のおかげです。インタビューに答えていただき、ありがとうございました。
参考文献
「20世紀夜明けの沿海州―デルス・ウザーラの時代と日露のパイオニアたち―」
北海道北方博物館交流協会編・北海道新聞社・2000年
「長崎歴史の旅」・外山幹夫著・朝日選書新聞社・1990年